『悪い男』
「馬をひけ!」
早朝から声をはりあげる三成の背中を、吉継はじっと見つめていた。
配下たちも、三成に応えて一糸乱れぬ動きをみせている。
石田隊の士気は高い。もっぱら牢人で構成されているからだ。
三成は領主を失って行き場をなくし、途方に暮れている者を率先してひきとっている。甘やかしたりはしない、だが人柄を見極め、才に応じた俸禄を確約するので、自然、優れた者が集まり、三成を慕って動くようになる。
そう、かつて大谷紀之介という流浪の少年が、母と共に豊臣の門を叩いた時、迷わず推挙したのも、白い頬をした石田佐吉という、澄んだ瞳の小姓だった。
「ぬしはほんに、よき男よ」
吉継は、昨夜も三成に抱かれていた。
熱い肌に蕩かされ、明け方まで身を寄せあっていた。
その彼の仕草ひとつ思い出すだけでも、情感が動く。
閨でもほんに申し分のない男よ。しかもそれを余すところなく知り尽くしているのは、己だけだと思うと――。
ふいに、三成が振り返った。
すっと吉継の前に膝をつき、
「刑部。なるべく早く戻る」
「あい、わ……」
吉継の言葉は途切れた。
三成が吉継の口唇に、人差し指をあてている。
早く戻る、というのはつまり、「今宵も貴様に触れたい」という意味だと、三成の仕草が告げていた。
指のぬくもりが離れると、吉継はうなずき、
「疾く戻れ」
三成もうなずいた。
「ああ。大坂城を頼む」
* * *
秀吉が小田原攻めの下見に行く際、三成を呼んで、こう耳打ちした。
「半兵衛の帰路を整えよ。できれば海路がよいのだが、能島衆が不穏な動きを見せておる。場合によっては、陸路も安全でないかもしれぬ。雑賀の様子も、どうもな……」
秀吉のいうとおり、ここのところ雑賀の動向が少々おかしい。
せっかく契約を結んだというのに、裏切られてはかなわない。
東海道の要所に配置されているはずの雑賀衆の確認と、一夜城の準備のために、半兵衛は秀吉より一足先に、大坂城を出ていた。
ただ、今の半兵衛の身体に、馬の長旅は酷だ。帰りは速やかに海路で戻れ、と秀吉は指示を出していた。
だがその後、四国勢と袂をわかった来島水軍を追って、能島水軍がひそかに動いているらしいという情報が大坂に入ってきた。能島は毛利の傘下におさまったはずだが、どうやら独断で動いている連中がいるようだ。
東海道は非常に海に近い。戦闘の流れ次第では、陸路でも海路でも、半兵衛の帰途が危険にさらされる可能性がある。
天才軍師の調略も、海の上では完全でないのだった。毛利と連携して長曾我部元親を抑えているようだが、最初から豊臣と連携している九鬼水軍以外は、まだ掌握しきっていない。
「かしこまりました、秀吉様のおおせのとおりに」
三成は九鬼水軍に応援要請を出し、半兵衛の足の確保を指示した。
本当は自らの目で雑賀の動向を確認し、迎えに出たいところなのだが、現在、黒田官兵衛が四国から九州へ足を伸ばしているため、大坂城には三成と吉継しか残っていない。
そして、本拠地が手薄になることを、秀吉が望まなかった。
「吉継の手腕はよくわかっておる。われらの留守を守りきれるであろうことも。だが、何か動きがあった時、動ける者も詰めておらねばならぬ」
「わかりました。ご安心ください。手筈が整い次第、帰城いたします」
うなずいて、ようやく秀吉も大坂を後にした。
残された吉継には、ひとつだけ不満があった。
今回、上杉方面の手当てに、家康をあてられたことだ。
あきらかに腹に一物ある三河の男を、秀吉の留守に大坂におくわけにはいかないことは、吉継もよくわかっている。
しかし、上杉はもともと、吉継がやりとりをしていた相手である。
三成とも懇意になっている。
そこへなぜ、あのタヌキを行かせるのかと思うと、やはり腹がたつ。
三成は三成で、ふだん実働隊であるところの自分が、待機しなければならないのがつらいようだ。北条が何か企んでいるというなら、小田原など一気に踏みつぶせばよい、秀吉様ならできるのになどと、苛立ちを隠さない。
気持ちが昂ぶっているのか、夜、閨へやってくると、荒々しく吉継を抱きしめる。
吉継は、そんな三成の薄い背中を、なだめるようにポンポンと叩く。
すると、三成の身体から余計な力が抜ける。
抱擁が甘くなる。
身体の芯がとけるような心地を味わっていると、三成は吉継の顔にくちづけを降らせはじめる。
丹念に、それこそ舐めるように、口唇を湿らせる。
おかげで三成の掌が吉継の胸に添わされる頃にはもう、「ああ」と声が出るようになっている。
気持ちがいい。
三成が、満足げなため息をつくのが嬉しい。
もっと触れたい、と囁かれるのが、たまらない。
求められる快感が、肉の喜びを深くする。
しかも、終わったあとの三成は紳士だ。どんなに疲れていようと吉継を清め、優しく身を寄り添わせる。名残り惜しげに抱き寄せられると、病のつらさを忘れてしまえるほどだ。
吉継が瞳を潤ませて見上げると、三成はふたたび、甘く口を吸い上げて――。
* * *
朝餉の席の平穏は、うわずった声で乱された。
「三成様、大変です、能島衆が動きました!」
「なに、抑えきれなかったというのか!」
「来島と九鬼水軍はすでに応戦しております。ただ、海道筋の雑賀衆が、まだ、様子をうかがっているようで」
「わかった。私が直接赴いて指示を出す」
三成は立ち上がり、手早く支度をはじめた。
「先触れはすませてあります」
「よし、石田隊はすべて仕度せよ!」
三成はひそかに薄い口唇を噛んで、
「ああ、秀吉様の案じた通りになってしまうとは……私の手配が甘かったか」
後ろから低く、吉継がなだめる。
「やれ、己をせめるでない。今はなすべきことをなせ」
三成はうなずいた。
「そうだ、後悔をしているひまなどなかったな。一刻も早く、半兵衛様にお知らせしなければ」
「なに、大坂にまで動きが伝わってきておるなら、すでに賢人殿もご承知であろ。あわてるでない。あまり騒ぎにしてしまうと、かえって戻り辛かろうよ」
「ああそうだ、まったく刑部のいうとおりだ。よし、馬をひけ!」
緊張にひきしまった、白い陣羽織の背が美しい。
思わず吉継は見とれていた。
昨夜の三成に満足していたはずなのに、甘い情感に溺れていた。
耳もとで「なにより刑部が一番だ」と囁かれて身も心もあたたかくなり、「われもよ」とその胸に甘えて眠り、満ち足りていたはずだったのに。
まだ、欲しい。
そう思った瞬間、三成は振り向き、吉継の口唇に触れた。
なぜぬしは、いま、触れて欲しいと悟った……?
「城を頼む」
いいすてて、三成は風よりも速く飛び出していった。
吉継は首をふった。
「やれ、さても海はむずかしいものよの。毛利が瀬戸内を抑えきれぬというなら、われも大三島の女巫あたり、口説いてみるとするか」
呟きながら、胸を押さえる。
ひとり残されて、苦しい寂しいと思う、この心――。
* * *
「戻った」
三成は笑顔で、吉継の部屋に飛び込んできた。
「能島は追い払った。雑賀も動いた。半兵衛様はご無事だ。秀吉様もじき、お戻りになられる。もう何の心配もない」
「ようやった三成。これで一安心よなァ。疲れたであろ、今宵はゆるり休め」
「ああ。だからここへ来た」
三成は吉継を抱きしめた。
血水の匂いもしない、それどころか、ざっと汗と埃を流してきたようだ。
あの、口唇に指をあてた仕草の意味は、やはり「今宵も貴様に触れたい」だったのだ。
「三成」
「ん?」
吉継は、三成の口唇に指先で触れてみた。
「なぜ今朝は、このようなこと……」
三成は首をかしげ、
「なんだ? ああ、人前でするなということか。すまない」
「いや、そうでなく」
「刑部が私を見ている、そう感じて振りむいたら、貴様の瞳が潤んでいたから、思わず触れてしまっただけだ。他意はない」
吉継は頬が熱くなるのを感じた。
「われは別に、目を潤ませてなど」
朴念仁の三成がひとめみて察してしまうほど、熱い眼差しで見つめていたのかと思うと、恥ずかしくて身がすくむ。
「そうか。だが、いやではないだろう?」
三成も、吉継の口唇を指でなぞる。
「私は好きだ。あまいくちびるだ。どれだけ不安な夜も、こうするだけで落ち着く。刑部の身体が柔らかくなって、私に応えてくれて、その潤んだ瞳が……」
「もうよい、三成」
吉継は三成の首に腕を回した。
「われはぬしの甘露が欲しい」
「ああ」
三成はうなずいた。
「疾く戻れ、といわれて、嬉しかった……私も貴様の甘露が欲しい」
熱く見つめあい、口を吸いあい、床へと倒れ込む。
三成は吉継の耳もとに、低く囁いた。
「刑部、私は悪い男だ」
「やれ、なにをいきなり」
「安堵したら、急に、刑部ともう少し、二人きりでいられたらと思ってしまった……お二人が急いでお戻りになられなくても、よい、と……」
「三成」
吉継は大きなため息をついた。
「そうよなァ、確かにぬしは、悪い男よ」
「刑部?」
「そのような甘だるい睦言、われをこんなにしてしまって、まだ足りぬというのであろ」
「ああ、足りない。もっとだ」
吉継の身体にあたたかなものが満ちた。
二人とも熱い喜びに溺れた。
いずれ訪れる不幸の予感など、すっかり忘れて――。
(2013.1脱稿)
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Written by Narihara Akira
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