SAVE ME (k.d.lang & Ben Mink) translation; Narihara Akira

この恋は苦しすぎて 逃れたいぐらい
でも お願い 絆を断たないで
あなたの虜でいたいから
優しくして
いつまでも側にいさせて
このまま 置いて行かないで

甘やかして
二人でまどろんでいよう
堕ちていくのも悪くないから
聖母の瞳で
僕のいいところだけ見て
包んでいて

あなたへの想いから
逃れられない だから

いっそ何処かへさらって……
この恋をあきらめられないのに
不安も葬りされない
やましい気持ちはすっかり隠してしまおう
そのためなら神でも悪魔にでも祈るよ
あなたを汚す言葉は殺して埋めてしまうね
見せたくないから

あなたへの想いから逃れられない
この恋をなくしたら死んでしまう
僕を
たすけて


『最後の一葉』

1.

Aは、朝起きると必ず裏の郵便受けをのぞく。新聞は店の表のシャッターの受け口に入れてもらっているので、宵子がとって先に読むが、それ以外のものは彼が先に見る。十時より前に郵便のバイクの音がしたら、寝巻きのままで外へ飛び出すほどだ。
しかし、そんなに急いで調べてみても、大した収穫がある訳ではない。表札も出していない裏のポストに押し込まれているのは、近所の店のチラシがほとんどで、あとは請求書や支払い書の類ばかりだ。だが、重症活字中毒患者のAは、嘗めるようにして全部読む。彼は自分の住所を他人に知らせず、必要な時は電話番号だけ教えてすます。最初から私信など期待していないのだ。
しかし、まだ秋も深くないとある金曜日、Aは自分あての一通の封書を受け取っていた。
「これは……やっぱり僕あてだよな」
白い横長の封筒の中央に、ゴシック文字で《A》とポツンと打たれている。それ以外は住所も書かれていないし、切手も貼ってない。裏に署名もない。
もらって嬉しい手紙の類ではなさそうだが、Aははさみを持ち出して、封筒の端を用心深く切り落とした。懸念した剃刀の刃などは仕込まれておらず、入っていたのは、厚手の無地の便箋が一枚だけ。文面は、封筒と同じワープロ文字で打たれている。
まあ、この種の手紙が来るのは初めてではない。郵便局を経由しないで直にやってくるものも、脅迫状めいたものが届くことも珍しくない。これはAの職業柄仕方のないことだった。情報屋というのは穏やかでない仕事なのだ。
しかし、この手紙に目を通したAは、ひどく間のびした声を上げた。
「うわ、これは挑戦状だ」


A様

幾つか質問があって、お手紙差し上げます。
あなたは情報屋をしているとききましたが、それは職業として成立しているのでしょうか。
その料金もまちまちだとききます。どういう基準で決めていらっしゃるのですか。
できない仕事は引き受けないとききましたが、できる・できないはどうやって判断されますか。 また、自信がある仕事なら必ず引き受けているのでしょうか。調査の仕事は基本的に受けないが、切 羽つまった依頼は受けるとききました。これは自信がなければできないと思うのですが。
ぶしつけではありますが、以上の質問の答えを近いうちにうかがいたく思っております。
心のうちに御用意ください。

氷富君子 拝

一見、普通の仕事の依頼状に見える。文章はあまりこなれていないが、略式の手紙としてはこんなものだろう。質問もまあまともなものと言える。
しかし彼は、浮かない顔で呟いた。
「うん。それは確かにもっともなんだけどね……」
実を言うと今のAは、この手紙の答をひとつも持っていなかった。彼の、情報屋という仕事は、それで食べていけるというものではない。料金がまちまちなのは、とれない相手からはどうしたってとれないからだ。仕事のできる・できない、引き受ける・引き受けないの判断は、単にその時の状況による。自信があるからやるというものではない。
しかも、この差し出し人は――。
「どうしたの、A」
ダイニングテーブルの上に朝食を並べていた宵子は、戻ってこない弟の様子を見に裏の玄関までやってきた。
「なに? 変な手紙でも来たの?」
「いや別に」
Aはすかさず手紙を握り潰したが、微笑しようとして頬に力の入らない自分に気付いた。しかもつい、
「青くさい子供の質問状なんだ。あなたはどうして生きてるの、その意味はなんですか?って」
なんとも奇妙なことを口走ってしまった。自分は何を屈託して、と弱い笑いで姉を見つめる。しかし宵子は真面目な顔でうなずいた。
「生きてる意味、ね」
大きな瞳を潤むほど見開いて、
「それは子供の質問じゃないわ、A。こときれるその瞬間まで、誰にも解けない深い謎なのよ」
真剣な声で囁く。Aは驚いて、
「姉さんも意味を知らないの」
「知ってると思ってたの? そんなに傲岸不遜に見えるの、私って」
宵子の表情はそこで緩んだ。
「まあ、とりあえず朝御飯をすませることには意味があるわね。もし、その手紙がそんなに重要なものでないなら」
「うん」
Aは手紙を上衣のポケットに押し込んで、台所へ向かった。
「ごめん。差し出し人を知ってたから、ちょっとびっくりしただけなんだよ」
「ああ、知り合いなの」
宵子が安心したように背を向けると、それを追うAの声が低くなった。
「いや、面識はないけど、ちょっと知ってるんだ。ヒトミ・キミコさんていう人なんだけどね、彼女は十九才で大学二年生で、市内の大学に通っている。文学部だけど科までは知らない。あと……」
ほとんど聞こえない小さな声で呟く。
「今年の春に父親を殺してる」
「え?」
宵子が振り向いた時、Aは明るい笑顔をつくった。
「なんでもない」

その日の夕方。
レストラン《J》の片隅で、Aはエプロンをつけたまま仕事をさぼっていた。中途半端な時間で客が少ないからいいようなものの、一人の女性客の脇に座り込み、しきりに相槌を打っている。
「それでねAさん、あたし、明日××に行くことになってさ」
赤い長髪の女性客は、雪深いので有名なとある県の名を口にした。若くて美人だが、服装や口調以外もどこか崩れた感じがする。Aはへえ、と眉を上げ、
「××か、それはちょっと遠いね。どうしたの?」
「ってのはさ、彼の田舎が××にあって、あたしを実家に連れてくって、そういう話な訳。でも、すっごい田舎なの。まわりに何にもないトコなんだって。遊ぶ場所どころか家もないようなトコ。もう雪も降ってるってさ。結婚はいいけどさ、悩んじゃうよ。だってあたし、この街にもあんま友達いないけど、でも、そんなトコじゃもっと友達できないじゃん」
「そんなに寂しいところなんだ」
「うん。あたし、身体弱くてちゃんと働けないし、頭もよくないし、車の運転できないし、彼ん家行ったら雪ん中に閉じ込められちゃうじゃん。遊べないし、逃げ出せないじゃん。それに、彼、いい男だからさ」
「いい男なんだ」
「うん。だから、外で仕事してたら、絶対モテんだよ。浮気してない、おまえだけだって言ってるけど、でもね」
「信用できない?」
彼女は荒れた頬に苦笑いを浮かべ、
「うん。だって、信じられないよ。いつもベッタリ一緒にいられる訳じゃないじゃん。あたしは家にひとりでいなきゃいけないのに、彼のまわりには沢山女がいんだもん」
Aは大きくうなずいて、
「別に、全然信じられなくてもおかしくないと思うよ。だって、彼と知り合ってから半年しかたってないんでしょ? そんなに急に信用できないよ。不安にもなるよ。他人を信じるって、そんな簡単なことじゃないもん」
「アハハ!」
客は大声で笑いだした。ひとしきり声をあげて、
「だからAさん好きだ! Aさんだったら、男でもわかってくれると思ったんだ。そう、だから信用してないよ、そうだね――五パーセントぐらいかな」
「五パーセントか。まあ、半年ならそれで充分だよね」
「うん」
客は急に声を落として、
「だからね、やっぱり××に行く。これだけ遠けりゃ、親父も追いかけてきて手ぇ出さないだろうし」
Aは片眉を上げて、
「えっ、まだメグさん追いかけてきて、殴ることあるの? メグさんもう二十歳なのに。結婚も自由なのに。親だからって、殴る権利も連れ戻す権利もないのに」
「うん。友達の家とかあるからさ、実家の近くとか歩くことあるんだ。で、居場所つきとめられると怒鳴り込んでくる。彼も殴られちゃう」
「そうか。うんと気をつけなきゃいけないんだね」
「こっちも気をつけてるつもりなんだけどさ、荷物とかあちこち預けてるじゃん。保険証とか、とられちゃうと困るんだよ」
「ああ、それは困るね」
「うん。……あ、ごめん、すっかり仕事の邪魔しちゃったね」
客は伝票を持ってすっと立ち上がった。
「明日の仕度なんてたいしてすることないんだけど、あたしそろそろ帰るよ。落ち着いたら、また電話していいかな」
Aは一緒にレジスターまで行きながら、
「うん。しばらく電話番号変えない予定だから、安心して」
「よかった。じゃね」
赤髪の客が名残り惜しそうに店を出ていくと、宵子が出来たばかりの皿をAにつきだした。
「四番テーブル」
「はい」
Aは素直にうなずいて、さっきと反対側の隅のテーブルへカルボナーラを持って行った。先までさぼっていたのを取り返すように、優雅で素早い足取りで。
「お待たせしました。御注文は以上でよろしいですか」
盆を置き、あでやかな営業用スマイルを浮かべる。
「いいえ」
「は?」
四番テーブルの女性客は読んでいた本を置き、スウ、と視線を上げてAを見つめた。
やはり二十歳前後だが、少年めく短い髪、洗いざらしたGパン、流行のくすんだ色のニットを羽織っている。一見しゃれたグラビア風だが、今ひとつしっくりしていない。それは彼女が不美人だからではない、つまり、少女が最後の成長過程に置いて、自分に似合うものを選びそこねたゆえのちぐはぐさらしい。自分を知的に見せたいのかカジュアルに見せたいのか女っぽく見せたいのか、それともそのどれでもないと主張したいのか判別しかねる。当の本人がわかっていない曖昧な時期で、だからこそ違和感があるのだろう。スタイルは悪くないし背もそこそこ、色も白いし造作もまあまあで、もったいない話だが今の彼女は何を着ても似合うまい。
そして、この客は不思議な微笑をたたえてこう呟いた。
「なんだかとってもわかりやすい悲劇ですね。ドラマみたい」
「あ」
Aははっと顔色をあらためた。
「もしかして、今朝手紙をくれた、ヒトミ・キミコさん?」
彼女は瞬きでイエスを答えた。静かな声で、
「あの名が読めたんですね」
「それが一番自然な読み方かと思って」
「そうですか」
氷富君子の笑みは冷笑に変わった。
「でも、本当にわかりやすい悲劇ですよね、暴力をふるう親から逃げる娘なんて。そのために、ほとんど信じてない男と逃げなきゃいけない女なんて。二十歳になるのに手に職もない、体も弱い、おまけに学歴もなくて、適当な男を見つけてそこへ転がりこむしか生きる方法を知らない。おそらく、きょうだいも母親もいない。父親も定職がなくて、娘を愛しているけれど殴るしかその表現方法を知らない――わかりやすいですよ。だからきっと、誰でも彼女が気の毒だって思うんでしょうね」
オーダーが来るのを待つ間、さっきの話をきいていて、そんな推測をしたものらしい。
Aはいささかむっとして、
「そうだよ。わかりやすいし、気の毒だよ。メグさんはお母さんが蒸発してるし、お姉さんはカンカンに入ってから音信不通になっちゃったし、お父さんは身体が悪くてよく働けないんだ。彼女自身も小さい頃大きな病気をしてて、勉強も遅れてて、中学出てからは働いたけどあちこちで辛い目に遭ってね。転がり込んだ男の家でもいい目には遭ってないと思う。今の彼が何人目かしらないけど、簡単に信じられないだけの経験をしてるよ。ドラマだったら出来すぎだって言われるぐらいに」
君子は口の端を更に持ち上げ、皮肉な口調で呟いた。
「そうですか。そんなにわかりやすい相手なら、きっと助けてあげやすいんでしょうね」
「あ」
Aはハハア、と口元を押さえた。なぜ喧嘩を売るようなことを言うのかと思ったが、どうやら試されているらしい。あんな予告状をよこしてきた娘だ、その言葉の含みには充分注意しなければなるまい。
「あのね、メグさんは仕事の相手じゃなくて、古い知り合いなんだ。昔、彼女の家の近所に住んでた事があってね。何でかなつかれちゃって、僕が引っ越してからも連絡くれたりしてさ、それで続いてるんだ。でも、僕は彼女を助けたりしてないよ」
「助けないんですか」
君子が鋭く切り返す。Aはなるべく穏やかな声をつくって、
「だって、助けたくたって、僕には何もしてあげられないんだよ。せいぜい話をきくぐらいしかさ。彼女の家族や生い立ちは変えられないし、僕が彼女の恋人になって、一日中世話したり支えてあげることもできやしない。まして、彼女に自立しろ、定職につけ、勉強しろ、なんて意見もできない。男を信じろとか男をしょっちゅう変えるなとか気晴らしに遊ぶな、なんて絶対言えないし。だって僕には何の力もないんだからね」
そこでAは口を閉ざし、さあ、それでも僕に仕事を頼むつもりかい、といわんばかりの間を置く。しかし君子は、黙ってAを見返した。さあ、どうぞ貴方の口上を続けなさい、とでもいうように。
Aは更に声を和らげた。
「わかりやすいのは悪いことなのかな。悩んでる時や辛い時に、知り合いに同情を求めるのは許されないことなのかな。《命の電話》は、なかなかつながらないよ。赤の他人の助けは、本当に必要な時には間にあわない時も多いよ」
彼女は軽く首を傾げた。
「別に、許すとか許さないとかじゃないんですけど――でも、あんまりわかりやすい悲劇の主人公って、意外に楽なものだと思いませんか? 誰にでも同情してもらえるんですよ。嘘をついたり、他人の好意を利用したり、おもちゃにすることもできるんですよ。例えば、あのひとの言うこと、ほんとに全部本当ですか?」
「ああ!」
Aはそこでなにか納得したらしく、つくりものでない笑みを浮かべた。
「別に僕は、わかりやすくない悲劇でも受け付けるよ。もし、氷富さんが頼みたいのなら、誰の目にも見えない事件も請け負うけど」
「目に見えない事件?」
「うん。誰もが悲劇の一つくらい持ってるでしょ? 少しも傷つかないで成長する人なんていないから、傍目にはごく普通に見えるけど、突き傷みたいに見た目より深い怪我を負うこともあるでしょ。うまく説明できないけど、棘みたいに刺さって癒えない記憶とか。自分でも理解できない破壊衝動とか、解決できない感情の発作とか、いろいろとさ」
「いいえ」
君子は急に瞳をキラリと光らせた。声も明るく、
「私が頼みたいのは、もっと簡単なことなんです。死んだおじいちゃんの写真をさがして欲しいだけで」
「写真?」
彼女は、先刻までとうってかわった無邪気な顔で、
「あの、うちのおじいちゃん、写真が嫌いで全然撮ってないんです。あんまりないからお仏壇にも飾ってないくらいで。でも、最近おばあちゃんが、おじいちゃんの写真を欲しがってるんです。私、もうすぐいけなくなる、おじいさんとお仏壇に並んで飾ってもらいたいのに、って。特に重い病気ではないんですけど、年をとるといろいろあって気弱になるらしくて……だから、私が探してあげるから、お迎えがくるなんてこと言わないでよって、つい」
そう言って首をすくめる。Aははあ、とうなずいて、
「ふうん、それは年寄り孝行な話でいいことだけど、写真かあ。写真ねえ……」
腕を組んで考え込む。
「ひとつだけ確認しておいていいかい? どんな調査でもそうだけど、特に写真は問題になると思うから」
「何をですか?」
「氷富さんは自分のプライバシーを少しでも僕に知られるんだけど、それは構わないのかな? 引き受けたらどうしたって、住所とか家族のこととか知っちゃうよ。その上、お題が写真でしょう? 個人写真って、とっても私的なものだよ。一枚にどれだけ沢山情報が含まれてると思う? 友達でもないのに、そういうのっていいのかな」
君子は眉をひそめた。
「Aさんて、知った事を他人に洩らすんですか? 情報屋って守秘義務はないんですか?」
Aは首を振って、
「普通はみだりに人にしゃべったりしないよ。義務以前に信用失うし、仕事が成り立たなくなっちゃうもん。でも僕さっき、うっかりメグさん家の事情を氷富さんに話しちゃったよね。こういうこともあるかもしれないけど、それでも信用できるのかなって思って」
君子は眉を寄せたまま、
「なんだか随分自信がないようなことを言うんですね。面倒を引き受けたくないのはわかりますけど、そういう答え方、他人に低く見積られて困ったりしませんか?」
Aは腕組みのまま薄く笑って、
「困らないよ、僕はね。出来る以上のことは、最初から請け負わない方が楽だもの。だから、一度引き受けたら真面目にやるけど、成果もある程度しか保証しない。だいたい、かいかぶったり馬鹿にしたりして損をするのは、先方の勝手じゃないのかな」
君子はニヤ、と口唇を歪めた。
「つまり、逆に自信があるってことですね」
「うわ、氷富さんにはかなわないや」
ひとつため息をついてみせ、
「自信があるとは言えないよ。僕は何でも屋で捜査の専門家じゃない。お涙頂戴の探し物なら、TV局や興信所の方が有利だろうし。でも、それでも僕に頼むっていうんでしょう」
君子はうなずいた。
「美談扱いされるのが厭なんです。大勢の人に騒がれるのも。それに、探してみてもどうしてもないなら、別の手も考えられますし」
「OK」
Aは腕をほどいて、ポンと両手を打ち合わせた。
「じゃあ、明日また来てくれるかな」
「え?」
「あのね、難しい依頼だから、できるかどうか一晩考えさせて欲しいんだよ。明日返事をするから、今日と同じくらいの時間にお店に来てくれるかな。そしたら詳しい話をきく。あ、朝の手紙の返事にもなると思うから、報酬の話もしとくね。結果がどうあれ、僕は働く訳だから」
「そうですね」
君子は手元のポーチを引き寄せて、
「思った成果がでなくても、払わなきゃいけない額もあるんでしょう? 一日いくらとか決ってるんですか?」
「あのね」
彼は相手の手を押さえる仕草をして、
「氷富さん、見たところ学生さんでしょう? 成功報酬は欲しいけど、調査中から沢山お金をもらうのは悪いよ。だからその間、この店のお客さんになって欲しいんだけど」
「客?」
Aは手をひっこめてニッコリと笑った。
「毎日一食食べにきて欲しいんだ。期間は――とりあえず依頼が解決するまで。そうだね、最低二週間」
君子はポカンとして、
「それだけでいいんですか?」
「だって、何日かかるかわかんないんだよ? 二週間ですめばいいけど、一ヶ月かかるかもしれないよ。それに、毎日同じ店に食べに来るのはそんなに簡単なことじゃないと思うよ。家族や友達の誘いを断わらなきゃならない日もあるかもしれない。具合いが悪くてこられない時もあるかもしれない。それに、どんなに美味しくても、毎日じゃ店のメニューに飽きちゃうかもしれないしさ……あ」
Aはちょっと首をすくめて宵子を見たが、彼女は知らん顔をしている。とんでもない飽きさせないわよ、というお叱りの言葉がとんでこないのを確認してから、何もなかったようにす、と盆を取り上げた。
「それでは、お待たせして大変申し訳ありませんでした。ごゆっくりどうぞ」
そう言ってテーブルを離れた。
Aに煙にまかれたのか、氷富君子はとけきらない顔で皿の上のものを片付け始めたが、食べ終わる頃には固い表情をとり戻した。すぐにレジまでやってきて、Aの前に伝票を突き出す。
「また明日来ます。いい返事を待ってます。ごちそうさまでした」
小銭を揃えて、ぴったり払って出ていった。
店の中に、客がいない時間が生まれた。
「はあ」
Aはほっと息をついた。
「疲れたあ。敵でも味方でもない人間としゃべる時が一番神経使うね。考えてみりゃ、敵ならやっつけりゃいいし、味方なら応援すればいいんだもん、楽に決ってるよな」
「それはそうね」
宵子は皿を下げるために、カウンターを出て奥のテーブルに向かった。ふと振り向いて、
「それで、Aはあの娘を味方にしたいの? 毎日店に来させるのは、仲良くなろうって腹づもり?」
「さあねえ」
Aは戻ってきた姉から皿を受け取り、流しの桶の中に入れた。スポンジを使いながら、
「そういう下心があると難しい相手だと思う。とりあえず敵に回したくはないけど……で、姉さん」
「何?」
「あの娘の仕事、受けてもいいかな」
宵子は、皿をふくAの後ろで苦笑した。
「珍しいわね、わざわざ私に断わるなんて」
「うん。つまり、しばらく仕事を休んでもいいかなってきいてるんだよ」
宵子は食器を籠に片付けながら、
「あら、休んでまでやりたいような大仕事なの?」
「っていうかさ」
濡れた手をぬぐったAは、そこで初めて姉の目を見た。
「表向きの傷が小さいからこそ、慎重にやらなきゃいけないことってあると思うんだ。違うかな」
宵子はまじろぎもせずに見返した。
「そうね。Aがそう思うんなら、そうしなさい」
「うん。……ありがとう、姉さん」
Aは軽く肩をすくめた。かえって嬉しくなさそうに。
まあ、そういうことはあるものだ。
まして、今回の事件のような場合は。

2.

父を、殺した。
キッチンナイフでどすん、とやった。一度でなくて何度も刺した。同じところをえぐるように。広がった傷にねじこむように。
何をやっても死なない気がした。だからしつこく腹を狙った。血は流れたが足りなかった。だから首や腿も刻んだ。
動かなくなっても信じなかった。
誰かの悲鳴が聞こえたが、ドラマのそれよりお祖末だった。

警察官は同情的だ。十九の娘が親を刺すとは、よほどの事情があっただろう、と。どんな恨みがあったのか、言いにくいこともあるだろうが、どうか話して欲しいと囁く。何度も刺したのは急所を知らなかったんだろう、力のない女性は我が身を守ろうとして激しく相手を攻撃し、結果陰惨な事件にしてしまいやすいんだよ、と慰める。幅の狭いナイフは、力のないものでも刺しやすく抜きやすく扱いやすく、女にとっては適切な凶器なのに、手近にあった武器をとっさに使ってしまったんだろう、と決めつける。
私は口を閉ざしている。
決して訳などしゃべらない。
仕方がないのでひとが呼ばれた。
最初に来たのは母親だった。取調べ室に入るなり、
「どうしてこんなことをしたの」
私は決して答えない。母親は警官に語りかける。
「大人しい娘なんです、今まで乱暴を働いたことも一度もないんです。別に父親と仲が悪かった訳でもないです、良かった訳でもありませんが」
警官は優しい声で尋ねる。
「思春期の女の子は親をひどく不潔に思うことがあります、そういうこともなかったですか」
母親はびっくりして首を振る。
「ありません、決してありません。家族の下着を全部一緒に洗えるような娘ですし、親を見くだすようなことは決して言いません、とてもそんなことは!」
万事すべてこの調子、全く役にたたないので、彼女はすぐに帰された。
そして次には姉が呼ばれた。年の離れたこの姉は、私と親しいものではないが、決して愚問は発さなかった。つまり最初から警官と話した。
「この子は父親が嫌いでした。理由はその時々で違いました。ある時は放っておかれすぎたせいで、ある時は詮索されすぎたせいで。娘が父親を憎むのは、これから出ていく社会を代表した存在であるから、などといいますが、それは嘘です。社会の汚さは子供でも知っていますし、許せるものです。しかし、それが肉親の場合は許せない時があります。一緒に暮していて血がつながっていると思うと、かえって腹が立つんです。強く立ちはだかる敵であっても、よぼよぼと老いてゆくだけの情けない抜け殻であっても、どちらも同じく不愉快で」
「つまり、一時の情緒不安定だと?」
警官は同情深く呟く。しかし姉は首を振り、
「この子はいつも落ち着いています。不安定だったことはありません。訳もないのに人を刺すことはありえません。そしてとても頑固です。言わないと心に決めたことは、決して口にしないでしょう。誰が脅してもすかしても無理です。私がきいても無駄でしょう」
言い捨てて、さっさと婚家へ戻ってしまった。
警官は困って友人を呼んだ。幼な馴染みで今でも行き来のある相手なら、いっそ家族よりも心の秘密に詳しいと踏んだらしい。
呼ばれた友人は私と警官を等分に見、渋々とこう切り出した。
「私は仲間の秘密を話すのは厭です。何かわかったように言うのも。それに私にもわからないんです、本当のところは何も」
警官は軽く相槌を打って、
「貴女の知るところを話してください。話せるところまでで結構です。それに真実と違っても、彼女は目の前にいるのです、訂正もできるでしょう」
友人は深く嘆息し、それから私の瞳を見つめ、虚ろな声で呟いた。
「彼女が昔、初めて観に行った映画がありました。とても美しい映画で、幕切れに崖縁に立った主人公のシルエットがこの上なく印象的で。しかしその日、映画館のパンフレットは偶然売りきれていました。私達は、彼の姿を目に焼き付けておくことしかできませんでした。不幸は重なるもので、その直後に主人公の青年がとある事件で逮捕されました。映画の上映は打ちきられ、彼の姿は写真も含めて、すべてこの世から消されました。だから、私達は二度と彼に会えない筈だったんです」
私は彼女を見つめ返す。警官が私を見ている。だから表情を崩してはならない。心を読まれないために、ことさら友を強くにらむ。気の毒な彼女の声はかすれる。
「でもある日、彼女のお父さんが、彼の写真を手に入れました。どんなルートかは知りませんが、とにかく貴重な一枚です。そして、彼女の目の前でゆっくりそれを引き裂いたんです。彼女が熱心なファンで、喉から手がでるほど欲しいということを知っていながら」
「なるほど」
警官は大きくうなずいて、
「それが激情を引き起こしたというんだね。それはわかりやすい動機だ。手に入らないものならあきらめもつけやすいが、わざわざ見せつけてから破いてみせるのは陰険なやり方だ、カッとなるのも無理はない」
しかし友人は首を振った。
「彼女はその時カッとはしませんでした。それに彼女はお父さんに、その写真はいらないと言ったのです。だから、破かれた時にはむしろスッキリした顔をしていました」
警官は、気の毒そうに友を見た。
「友達の前だから、と気持ちを抑えていたんだろう、いらないといってもそれが本音とは限らない」
「いいえ」
友の口調はきっぱりしていた。
「それは違います。彼女は、いらないと言ったら本当にいらないんです。おまわりさんは彼女を知らないんです。彼女は嘘はつかないんです」
そこだけ堂々と言いきったので、警官は質問を変えた。
「仮定の話だが、彼女は心を病んでいると思うかな」
友人は目を伏せた。
「彼女はいつも健康です。だから始末が悪いのです。間違っていないんですから、決して折れたりしないでしょう。弁明も絶対しないでしょう」
そして私に向き直り、
「ごめんなさい。勝手に話をしてしまって」
逃げるように出ていった。
彼女は謝る必要はなかった。私も訂正の必要はなかった。彼女の言葉には偽りはなく、恨む気持ちも起こらなかった。
私は警官と二人ぼっちになった。
彼はしみじみとした低い声で話し出した。
「思春期という時期は私も知っている。誰もわかってくれない、と誰もが思う。そして、そう言って暴れていい年頃だ。だから、私は君を救いたい。少しでも話してもらいたい。本当のことを教えてくれれば、私もなにかできるんだ」
などと泣き落しをかけてくる。
しかし私は答えなかった。
ほんとうは、真相を見事あてたら白状してもいいと思っていた、だが、彼には最後までそれができなかった。当て推量で、何もかも決めつけるばかりだったので、私は薄笑いで押し通した。どうやら彼もあまり頭が良くないようだ。やってきた三人の女達の言葉が、あんなにヒントになっていたのに。私は大人しい普通の娘で、なおかつ父を憎んでいて、頑固だから決して弁明しないだろう、と言われたのにも関わらず。
答は本当に簡単だ。
私は父が嫌いで、この世から完全に抹殺したかっただけなのだ。
だから、殺しのくだらない理由までなくそうと決めた。そうしなければ、思い出も何もかも消し去ることはできない。殺す、というのはそういうことでなければならない。何もかも破壊することでなければ。
だから私は、警官に何も教えなかった。
私は誰もわかってくれない、などと泣いたりはしない。
わかってもらいたくなどないからだ。
決して。
誰にも。

3.

依頼の翌日、土曜の夕方。
「なんなんだろう、あのAってやつ」
氷富君子は少々イライラしながら《J》に向かって歩いていた。昨日のAの対応を思い出すと、妙に腹がたってくる。
「あんな条件を出すなんて。採算とれるのかしら。手紙の返事は、結局ぜんぶ曖昧にされちゃったし」
そう、君子は報酬の件について怒っているのではない。
彼女は一人暮しの上、食事をつくるよりは本を読んでいる時間が大事なタイプで、毎日の外食はむしろ都合がいいぐらいだ。昨日食事をしてみたが、味は悪くなかったし値段も妥当だと思う。二週間通って駄目となっても悪くない。食費には響くが、元々払おうと思っていた金額に比べれば微々たるものだ。だから、Aの返事が不合理とは言えない。
しかし、あれでは肩すかしだ。君子はきちんと返事が欲しかった。彼の仕事の上でのガイドラインや、基本信条を確認したかったのだ。大人というのは、子供の肝心な質問には決して明快な答をよこさない不快な生き物だが、Aもその口で信用ならないのだろうか。
「情報屋って仕事そのものも妙だけど、あんな適当な生き方してて気持ち悪くないのかしら。美人だけど変な奴」
いや、最初から変だとは思っていた。
この近所に情報屋がいる、という話をきいた時は耳を疑った。それは、この春開店した《J》というレストラン兼酒場を訪ねると、女とみまごうほどの美しい青年がいて、頼めば何でも教えてくれる、仕事をやってくれるという噂で、実に様々な場所で囁かれていた。《A》というアルファベット一文字の奇妙な名は、近所のコンビニで、コインランドリーで、定食屋で、デパートで、スーパーで君子の耳をかすめた。そしてその働きぶりは、話半分としても大したものだった。
「でも、結局噂は噂なんだわ」
君子は、Aに対する興味をほぼ失っていた。
一応《J》には行ってみるが、話の展開次第では、依頼を取り下げようと考えていた。昨日随分渋っていたし、向こうから断わってくれるかもしれない。その方が有難い。
「いいわ。どうせあんな奴、何にもできやしないでしょ」
くすんだ表情のまま歩き続け、そのまま店の扉を押した。
店の女主人は、パアッと明るい声で彼女を迎えた。
「いらっしゃいませ。……あ、ヒトミ・キミコさんでいらっしゃいますね。お待ちしておりました」
いきなりそう浴びせかけられたので、君子は思わず一歩ひいた。
「あの、予約したりはしてませんけど」
「わかっております。奥のテーブルへどうぞ」
宵子は、ニッコリと笑って視線を四番テーブルへ流した。
ソファと卓の上には、軽く百冊を越えるだろう本が山積みになっており、Aはそれらに埋もれるようにして読みふけっていた。
君子の来訪に気付いてぱっと顔を上げる。
「あ、氷富さん、来てくれたんだ。よかった」
そう言って手招きする。近寄って見ると、積まれた本はすべて写真関係のものだった。写真の歴史、写真家の自伝、古ぼけた風景写真集、カメラの扱い方撮り方、写真関係の評論、その他ジャンル別にそれぞれ十冊以上ある。
「どうしたんですか、この本」
「図書館」
Aは即答したが、君子は青ざめた。
「まさか、これ全部、窓から放りなげて?」
どんな図書館でも、一人がこんなに大量の本をいっぺんに借りだすことはできまい。ということは、全部盗んできたのか、ととっさに思ったのだ。
彼女の通っている大学図書館では、欲しい資料や自分のものにしたい本を見つけた学生が、それを窓から芝生へ向かって落とすことが流行っている。所定の手続きを踏んで借りだせば、いずれは返却せよと催促がくる。黙って鞄に忍ばせて持ち出そうとすれば、出口の磁気チェックにひっかかる。盗難防止の磁気処理が本に施されていてサイレンが鳴るのだ。しかし本はどんどんなくなる。つまり、規定の関所を通らずに窓の外に投げ出される本が、後をたたないからだ。
するとAは、大げさに眉をひそめて、
「別に泥棒した訳じゃないよ。だいたい、僕は本が好きだから、盗むにしてもそんなにひどく傷むようなことはしない。これは単に、知り合いの図書館員さんにちょっと多めに融通してもらっただけ。簡単に手に入る情報から手に入れようと思ってさ。なにしろ僕は写真のことなんてあんまり知らないから、少しでも勉強しとこうと思って。やるからには骨惜しみしたくないし」
本気らしく強く瞳を輝かせる。君子はつい釣りこまれて、
「ってことは、おじいちゃんの写真の話、引き受けてもらえるんですね」
「うん。やってみようと思う。でね、ちょっと脇に座ってくれるかな、本題に入るから」
「はい」
君子が大人しくソファの隣に座ると、Aは早速無地のノートに鉛筆を走らせ始めた。
「一口に写真っていっても、世の中にはいろんな種類があるんだよね。一つは芸術写真。いわゆる《写真家》が撮る写真。風景とか人物とかをもっともらしく撮るアレ。一つは報道写真、つまり報道カメラマンなんかが撮る事件写真。あと、広告写真なんてのもあるね、商品を宣伝するための写真。それから、私的な写真――何かの記念日とかお祭りとか遠出とか、何かの節目に素人が撮る写真。写真館でプロが撮るのもあるけどね。旅行が好きな人だったら観光地の写真も要チェックかな。その他にも、証明写真とか証拠写真とか資料写真とかモンタージュ写真とか……写真って、とにかくいろんな種類のものがあるんだよ。意外な場所で意外な人が意外な顔を撮られてる。こんな写真がある訳ないってことがないくらいにね。……で、氷富さんは、おじいちゃんの仏壇用の写真が欲しいって言ってたよね」
「はい」
早口のAの話っぷりは堂にいっていて、やかましい教授に個人講義を受けているような気がする。思わず首をすくめる君子に、Aは更に質問を畳みかけた。
「おじいさんはここの土地の人だった? 何処で生まれて何処で育った? 仕事は何だった? 戦争には行った? おばあさんと知り合ったのは何処? 他の家族はどうしてる?写真嫌いの訳は? 何年生まれでいつ亡くなった?」
君子はうわ、と頬を押さえた。知らない訳ではないが、細かいところが定かでないからだ。上目づかいに一生懸命思いだす。
「祖父は氷富源三郎――ヒトミ・ゲンザブロウと言って、大正元年、C県の生まれです。農家の三男坊でした。子供の頃はそのままC県の田舎で育ってたんですけど、十代後半に伯父の氷富茂太――息子のいない《モタ》の養子になって、K県のこの街に来ました。学生時代は理系の勉強をしていたんですが、伯父が地主をしていたので、しばらく仕事を手伝っていました。戦争には行ってます。海軍で機関兵だったって話をきいてます。復員してから、婚約していた祖母と結婚しました。祖母は千代子――チヨコと言ってやはりC県のひとで、結婚してからこの街に来ました。二人の間には息子が一人できて、それが私の父親になります。戦後しばらくして、大伯父の茂太が死ぬと、祖父は地主をやめて、何故かこの街で葬儀屋を始めました」
「わあ」
Aは別の興味で瞳を輝かせた。
「それはカッコイイ職業選択だ。戦後じゃいろいろ面倒があって、地主もあんまりうまみのない仕事だったかもしれないけど、それでも貧乏はしないもんな。それなのに、わざわざやめて人のやりたがらない仕事を始めるなんて、素敵なおじいさんだね」
君子はエヘンと喉を鳴らした。
「あの、まださっきの質問の答えが終わってませんけど」
「あ、ごめん。悪かった。続けてくれる?」
Aが素直に謝ったので君子も気をとりなおして、
「写真嫌いの理由はわかりません。ハンサムでないからとかいうのじゃなくて、単に昔から嫌いだったらしいです。少しだけあった子供の頃や学校時代の写真は空襲で燃えてしまったらしいです。だから、他の家族も誰も持っていません。祖父が肺炎で亡くなったのは十一年前の春です。来年はだから、十三回忌になるんだったと思います」
「十三回忌! それは使えるな。それだけ情報もらえれば、なんとかメドがたちそうだ」
Aは一人でうなずいて、ノートに新たな書き込みを始めた。
「あのね、今の世の中、一枚の写真を加工するのは結構簡単なんだって。ネガがなくとも昔の写真を再生する技術があるし、小さな写真でもかなりの引き伸ばしができるし、汚い部分はいくらでも修正できるんだ。お仏壇に飾る写真なら、ある程度の年齢になってからの肖像の方がいいと思うけど、若い頃のでも老けさすことはできる。背景もトリミングすればどうとでもなる。だから、どんな写真でも一枚手に入れば、きってはってお望みのものに仕立てることができる。最後の一葉があれば、いくらでも複製がつくれるって訳だ。だから、しらみつぶしに探していけばなんとかなると思うよ」
「サイゴのイチヨウ……」
そこで君子がかすれた声で呟いたので、Aも勢いをそがれてしまった。
「どうしたの? 僕、何か変なこと言ったかな」
君子は弱い笑いをAに向け、
「それ、おばあちゃんの口癖なんです。一枚でもあればっていうのが。おばあちゃん、朝起きたらすぐにお仏壇に向かうんです。水を取り替えて、お線香をあげて、鐘を鳴らして手をあわせて。週に一度は花を持って、おじいちゃんのお墓参りに行くんです。でも、それでも写真は一枚も持ってないの。だから、せめて最後の一葉があったらね、それさえ見つかったら死んでもいい、いや、死ぬんだよって言うんです」
Aはふうん、とうなずいた。
「最後の一葉か。サイゴのヒトハだったら、オー・ヘンリーの小説みたいだね」
「あ」
そういえば、そんな題の小説があった。窓の外の蔦の葉を眺めてくらす肺病の少女が、最後の一枚が枯れて落ちたら私も死ぬんだわ、となどと嘆いて周囲を困らせる話が。彼女に同情した売れない画家が、嵐の晩に葉が落ちるのを懸念して、本物そっくりの蔦の葉を描く。蔦の葉がいつまでも落ちないので、少女は生への望みをつなぐようになり、病気も快方へ向かう。反対に、画家の方は嵐の中での仕事が元で死んでしまう――という実に甘ったるい人情話。しかし、君子の祖母の言葉と奇妙に呼応して、笑えない空気が流れる。
Aは鉛筆をくるりと回し、新しいページに大きな丸を二つ書いた。
「まあ、残ってるのが何枚でも、とにかくひとつ見つかればいいんだよ。で、とりあえず、二方向から攻めてみようと思うんだ。とにかく、この街にすむお年寄りをかたっぱしから訪ねて、その所在をきいてみるって手」
君子は目を丸くして、
「そんな大雑把な。知り合いかどうかもわからないんですよ」
「そうでもないよ。源三郎さんは地主をやってたんでしょ、しかもそのあと、ここでずっと葬儀屋をしてたんでしょ。そしたら、この街にいるある程度の年齢の人間は、知り合いである可能性の方が高いと思うよ。一緒に写真を撮ったこともあるかもしれない。もし、おじいさんがどこらへんに土地を持ってたかわかれば、範囲は絞りやすくなるけどね。そういう資料、氷富さんは持ってる? 手に入るかなあ?」
「ああ。……そうですね。あるかどうかわかりませんけど、さがしてみます」
「うん。それは、もしあったらでいいよ」
Aは一つ目の丸の中央に《仕事関係》と記し、幾つも足をはやしながら、
「まあ、役所か郷土資料館にでも行けば、ある程度はわかると思うから。頼めば誰が地主だったかぐらいは教えてくれるでしょう。風景写真に偶然うつってる可能性もあるし。あとねえ」
二つ目の丸に《交友関係》と書き入れ、
「源三郎さんの私的な名簿が欲しいんだよね。住所録とか同窓会名簿とか戦友会会誌みたいのが一冊でもあれば、いくらでも手紙書くんだけどな」
「手紙?」
君子が首を傾げると、Aは大きくうなずいて、
「だから《来春は源三郎の十三回忌にあたるのですが、当方写真がなく、故人を偲ぶのに困っております。どなたか祖父の写真をお持ちでありませんか》って、氷富さんの名前で僕が手紙を書こうと思って。学校時代の名簿って結構つかえるものでね。百通かそこら書けば、そのうちの何人かは返事をくれるでしょ。写真そのものはなくても、なにがしかの情報をくれる人が出ると思うんだ」
「百通!」
君子は驚きの声をあげた。
「どんなに時間がかかると思います? 封筒や紙だって沢山いるし、切手代だって大変でしょう」
Aは逆に驚いたような顔をして、
「そんな仕事、一枚一枚手書きにしたって一日ですんじゃうよ。百人に書いたって、切手代は一万円もかからない。返信用の切手を入れれば倍かかるけどさ。往復葉書って手もあるしね。いちいち訪ねていくよりも、ずっと簡単で安くすむ。もし当人が亡くなってても、家族の誰かが代筆してくれるかもしれないしね。百人で足りなけりゃ二百でも三百でも書けばいい。それでも三日ですむことだよ」
それはそうだが、並々ならぬ熱意を必要とする作業だろう。君子は頬を引き締めて、
「わかりました。祖父の住所録はさがしてみます。たぶん何かしらあると思いますし」
「ありがとう。で、返信用の宛て名は僕のところでいいのかな。それとも氷富さんの家にしとく? もし、おばあさんに内緒にしづらいようなら、しばらく僕のところで預かるけど」
Aはどうやら、君子が祖母と同居していると思っているらしい。一人暮しという余計な情報を与える必要もないので、君子は曖昧に返事をした。
「とりあえず、Aさんのところで預かってください」
「わかった。じゃあ、当座の方向性は決まったね」
Aはパタン、とノートを閉じた。代わりに分厚い写真集を一冊手にして君子の前に置く。
「なんですか?」
「昔の写真って、見るだけでも面白いよ。こんな時代があったんだなって思うから、少し見てごらんよ」
君子はそれを開いてみた。名もない写真家の作なのか、平凡な構図の私的な人物写真ばかりが収められている。
しかし、そこにうつる風俗は、平凡ゆえに若い君子の目に新鮮にうつった。
戦前か戦後かわからないが、縞の着物に兵児帯をしめて風呂敷をしょった大人や、紺地の着物に下駄を履いて手拭を下げた子供。
坊主頭の学生はサザエさんの漫画にでてくるような学帽を持ち、上着のボタンをきつそうにとめ、下はなんと中途半端な丈の半ズボン姿だ。縁側でのんびり将棋さしをする老人、板塀の前で微笑む半纏におぶいひもの若い母親、木馬にのったよだれかけの赤ん坊。
嬉しそうにパラソルをさす長い丈の水着姿のおかっぱ娘、旅先らしい学生の、ポーズをとったブラウス姿。モダンとしかよびようのないような長い外套や、ガス灯に浮かぶ煉瓦づくりの建物、蓄音機にSP盤のかかるカフェ。横書きなのに右から読まねばならない活動写真の看板。舗装されていない石ころだらけの道路や、草もはえていない原っぱや、街角の広すぎる空。
防空ずきんをかぶりモンペをつけた姿などは、資料として君子も見たことがあるが、古い時代の動物園や花見やプールなどは見た記憶がない。材木を積んだ大八車や氷売りの姿はあまりにも古めかしいが、昔の地下鉄やタクシーのなんと美しいこと、劇場や食堂のたたずまいにもなんと風情があることか! ロープに干された洗濯物や、素朴すぎる麦藁帽子や、ごつい乳母車や丸いバス停や八つ手の植木など、現在でもお目にかかれるものまでが、写真が切り取ったそれぞれの時代の中に息づいて、その場の見事な証人となっている。
君子はホウ、とため息をついて、
「おじいちゃんはこんな時代を生きてきたのね。写真って、面白い……」
「そうでしょ」
君子が夢中になってくれたので、Aも満足したらしい。
「本当は僕、自分のおばあちゃんのアルバムを見ようと思ったんだ。昔の個人写真ってどんなのがあるんだろ、写真館で撮ったみたいのしかないのかな、どんな所でどうやって撮ってたんだろうって――実物を見てみたらイメージも固まるし、探すヒントになるんじゃないかと思ってさ。けど、いつの間にか処分しちゃったみたいで、全然残ってなかったんだ。それで、他人様のもので代用しようとしたら、すごく面白くてさ。特定の個人の一枚をさがすのは途方もない仕事かもしれないけど、楽しそうだなって思ったんだ」
「そうですね」
君子は写真集を閉じてAに返した。
「明日にでも資料を見つけて届けに来ます。よろしくお願いします」
「うん。頑張るよ。でもたぶん、氷富さんも僕に頼む前にいろいろ調べたんでしょ? だから、急には見つからないと思うんだ。気長に待っててくれる?」
「ええ」
「じゃ、これで契約成立だ。さて、今日のオーダーは?」
そういうと、Aはニッコリ笑ってすかさずメニューを取り出した。なんともちゃっかりした仕草だが、君子は怒る気もせず、素直にそれを受け取った。
「バジリコ。ただし、ここじゃなくてカウンターで食べます。本の山の中じゃ、食べた気がしないから」
「OK。……姉さん、バジリコひとつ!」
そんな風で、この日の勝負は引き分けということになった。
翌日から、似たような光景が十日ほど続いた。その間、君子の表情はどんどん明るくなっていったが、Aはだんだん冴えない顔つきに戻っていった。
さて、その訳は。

4.

「A!」
弟が居間で仰向けに倒れているのを見つけた宵子の声は、ほとんど悲鳴に近かった。
「どうしたの、具合いは!」
「あ、大丈夫だよ。ごめん姉さん、おどかして」
Aは慌てて起き上がり、笑顔をつくろうとして再びひっくり返った。畳の上に、先まで羽織っていたらしいカーディガンがふわりと広がり、細い身体を受け止める。慌てて宵子が駆け寄ると、彼は顔の上に掌を開いて重ね、青ざめた頬を隠した。
「平気だよ、触らないで。ちょっと眩暈起こしただけ。ここ何日か、あんまり寝てないからさ」
力の入らない声で呟くように、
「ああ、でも疲れてる。ちょっと死にたい感じだ。どうせ今ここで僕が死んでも、誰も困らないんだからいいやって思っちゃうような――」
などと自暴自棄な台詞を吐く。誰にでもそういう気分になる時はあるが、彼が倒れるまで無理をするのは異例のことだ。宵子はため息をついて、弟の脇に膝をついた。
「Aが死んだら私が困るわよ。他の仕事で奔走して、そのあげくに倒れられた日には、癪に触ってしかたないわ」
宵子はここ十日間のAが、毎日どれだけ長時間歩き回ってきたか知っている。夜は暗い灯の下で遅くまで手紙を書き、昼間は様々な老人宅を訪ねている。Aは年寄り受けするので、聞き込みそのものの苦労は少ないのだが、問題はその先だ。つまり寂しい彼らに引きとめられて、関係ない話を延々きかされる羽目になり、人がいいのでうまく断わりきれず、というパターンに陥りかねないのだ。玄関先で二時間三時間ということになりかねない。Aは最近、この街に同業者の知り合いができて、その男に頼めば半分請け負ってくれなくもないらしいのだが、今回は全部自分でやりたいんだと言って走り回っている。えらい力の入れようである。
Aは目尻を薄く光らせながら、
「ごめん。変なこと言って。ムキになるなんて柄にもないって自分でも思うよ。ただでさえ簡単な仕事じゃないんだから。でも、氷富さんは僕に何の力もないから、わざわざ頼んできたんだもん。そういうのって、悔しいからさ」
「何の力もないから? どうしてそう思うの」
「うん。あのね」
Aは横になったまま、傍らにあった紙袋を引き寄せた。中にはギッシリと紙の束が入っている。どうやら、封を切った手紙らしい。
「手紙を書きはじめて、三日で返事がきはじめたんだ。その時から、厭な予感がしてたんだよ。人がすぐに手紙の返事を書くのって、まず怒ってる時でしょ。悲しい手紙とか抗議の手紙の方が、いい知らせより往々にして早いんだ。よっぽど律儀で礼儀正しい人ならともかく」
それはそうだ。世の中には手紙を全く書かない人種もあるが、普通の人間は必要があれば書く。そして、あまり喜ばしくないことの方が、緊急に知らされる必要が多くある。
「だって、ただ《源三郎さんの写真はありません》っていう手紙なら、そんなに早くくる訳ないんだよ。充分に探してから返事を書く筈だもん。ありますよ、すぐに送りますって話なら有難かったけど、残念ながらそんなの一通もなかった」
「つまり今まで悪い手紙しかこなかったってこと?」
「うん。たとえばね」
Aはそのうちの何通かを、仰向けのままひろげて拾い読みした。
「先日のお尋ねの件ですが――」
書き出しは、時候の挨拶他いろいろだが、どれも一様に、当方には源三郎氏の写真はありません、という返事になっている。嬉しくはないが凶ではない。だが、それから先は妙に怪しくなっていくのだ。
《実はうちに何枚かあったのですが、千代子様がいらして、お譲りくださいとおっしゃったので差し上げてしまいました。あれはその後どうなったのでしょうか》

《君子様のお祖母様がしばらく貸していただけないかと言われまして、持っていかれました。その後、返していただいた記憶がございません》

《氷富の奥様に、アルバムを見せていただけませんか、と言われたので、少しご覧に入れたことがあります。君子さんの手紙で思いだしまして、そのアルバムを探してみましたが、何枚か剥がれて紛失してしまっておりまして、今回お役にたてませんようです》

《申し訳ないのですが、当方所在の写真は処分してしまいました。千代子さんにお見せした直後、ネガごと池に落とされてしまって、復元不可能になってしまったので捨ててしまったのです》

「とまあこういう訳なんだ。学友も仕事の仲間もその家族もおんなじ答え。ちょっとでも写ってる奴はアウトなんだ。特攻隊の同期までが、千代子様に破棄されましたってさ。……まあ、君子さんがすぐに資料を持ってきた時、おかしいなって気付くべきだったんだよ。つまり彼女のお祖母さんは、源三郎さん関係の資料を、他人にもすぐわかるくらいきちんと整理してあったんだ。だからこそ、君子さんは簡単に何でも持ち出せたんだ。おかげで捜査の進むこと! おまけにこんな危ない手紙まで来ちゃってさ」
そう言ってAは、中の一通を傍らに放り出した。宵子が取り上げてみると、縦書きの便箋に達筆の墨文字でこんなことが書いてあった。

《戦時中、氷富源三郎氏によく似た美男子の同期がありました。たしか名前は小田浩助といって、やはり同じ艦の機関兵でした。彼は南海での某作戦中に、艦内にて炸烈した敵爆弾により死亡、遺体はやむなく海に流しました。ただ、皆の復員後、生きている小田を見かけた、という噂もあるのです。天涯孤独でその死を悼む身寄りもなかったらしく、ちゃんと葬式をあげてもらえなかったのですから、死んでも死にきれず幽霊にでもあって現れたのか、などとも言われました。もし彼が生きておれば、互いに写真のやりとりなどもしておったようですから、なんらかの手がかりになったと思うのですが――》

眉を寄せて読む宵子の傍らで、寝返りをうって起き上がる。
「凄いでしょ。文字どおり《うーみーゆかばー、みずつーくかばねー》の世界」
どこで憶えてきたのか、海行かば水漬く屍、などという軍歌を節つきで歌えるAの方が凄い気がするが、宵子にそんなことを言わせる間もなく彼は続ける。
「もし、この手紙一通だけだったら何にも思わないんだけどさ、さっきの千代子さんの行動をあわせて読んだら、どういう事件が透けて見える?」
天涯孤独で身寄りのない男が、戦地で出会った、自分によく似た相手。
しかも彼は、故郷に帰れば婚約者も土地もある技術者なのだという。同じ場所で同じ仕事をしていた小田浩助とやらが、氷富源三郎をうらやんでも不自然ではない。源三郎が敵の爆撃で殺られた時、自分が死んだことにして入れ替わったなら、どれだけのものが手に入るだろう、ととっさに考えたとしてもおかしくない。
戦争中のことだ、婚約者の千代子が結婚前の源三郎とあっていない可能性も高い。養父の伯父さえ欺けば、誰にも気付かれずに希望の生活が手に入る――たとえそれが、戦後の荒野の中だとしても。
宵子が眉間の皺をとかないうちに、Aは先に話をすすめる。
「しかもさ、源三郎さんて人は、地主だったのをやめて葬儀屋になってるんだよ? もし彼が本人でないとしたら、その転職の説明は簡単につくんだ」
青ざめた頬に手をあてながら、
「地主っていうのは、なんだかんだ言って人に注目される仕事でしょう。借地人にはその家族にまで顔を知られるし、近所づきあいもうんと必要だよね。戦争のショックで記憶が曖昧で、なんてつくろったとしても、大勢とつきあえばつきあうほどボロがでやすくなる。でも、葬儀屋はそうじゃない。むしろ世間に顔をさらさない影の職業だ。もちろんさらしてもいいし、CMのためにさらさなきゃいけないかもしれないけど、愛想がいい方が信用されないような仕事だ。普段の人づきあいがよくなくても、たいして不審に思われない」
「つまり、他人になりすましやすい仕事だって言いたいのね」
宵子は首を傾げた。
「でも、単に入れ替わっただけなら、源三郎としての肖像を始末する必要はないでしょう。それに、写真を消して歩いてるのは千代子さんの方じゃないの。それはどうして?」
Aは重々しくうなずいて、
「うん。単に入れ替わって暮らしてただけなら問題はなかったと思うよ。氷富千代子さんが小田浩助さんと好きあって、ちゃんと家庭を築いてたならさ。とりあえず、戦争未亡人になるよりはよかったと思うし。……でも、平和に暮らしてる二人の元に、死んだ筈の本物の源三郎さんが帰ってきたとしたら?」
「あ」
もし、死んで海に流された筈の男が生きていたとしたら。
源三郎が息をふきかえした可能性はありえる。戦場のどさくさである、死の確認は曖昧だったかもしれない。どこかの舟か島で助けられ、手当てを受けて九死に一生を得、必死の思いで帰国してきたかもしれない。
だが、無籍の覚悟で故郷にたどり着いた彼を待っていたのは、自分の財産と妻を奪ってぬくぬくと暮らす男である。
当然そこには争いが起こったろう。小田浩助は必死になったろう。源三郎が自分の権利を主張すれば、彼は何もかも失うのだ。今までの職業も他人様の信頼も愛しい妻も。その時彼は何をしたか――おそらく、源三郎の息の根を確実にとめることだったろう。
「なるほどね」
宵子が合点顔になると、Aは姉の手から手紙を取り戻し、元の袋の中にしまいこんだ。
「聞き込みしてみたらね、源三郎さんの葬儀屋さんとしての評判はかなり良かったんだ。親切で丁寧で、仕事が早くて料金もまあまあで、つまり流行ってたらしいんだ。そういうひとなら、自分がつくった死体も素早く始末できるでしょ。その時請け負った、別の葬式にくっつけて焼き場で燃やしちゃえばいいんだからさ。閑古鳥の鳴く葬儀屋にはできない業」
「ってことは……」
宵子はふむ、と腕を組み、
「千代子さんが源三郎さんの写真を始末して歩いたのは、小田浩助との生活が真実だったからなのね。夫の犯罪がバレないよう、同じ顔の人間がいたことを知られにくくするために、こちらの肖像も残さないようにしたってことね」
「うん。それが彼女なりの夫君への愛で、生きがいだったんじゃないのかなあ」
Aは薄い上着を引き寄せて肩にかけながら、
「たぶん、氷富君子さんは、おばあちゃんに対して僕と同じ疑念を抱いたんだと思う。だからこそ、TV局や普通の興信所でなくて、僕に調査を頼んだんだ。どうせ、どんな大きな事件が隠れてても、ぜんぶ時効だと思うけど、それでも全部暴かれるのは厭だったんだよ。だから、何の権限もない僕に頼んだのさ。調べて妙な事実が出なければよし、出たところで僕なら口をふさげると思ったんだよ。もちろん僕は、誰にも言う気はないけどね。風化した殺人なんて、今更どうこうしたって無意味だし」
前をかきあわせて寒そうに呟く。すると宵子は首を振った。
「でも、それはAに何の力もないって話とは違うわね。悲観する必要もないことだわ」
「そうかな。そうだと思う? 僕のしてることに、少しは意味があるのかな?」
青ざめた笑顔でそうAが尋ねると、宵子はすい、と立ち上がって、
「A。私にもあるわ」
「え? 何が?」
「どんなにお客さんが喜んでくれても、Aが元気でいても、たった今死んでも悔いはない、と思うぐらい充実した時間があっても、生きている意味のない瞬間はあるわ。真っ暗な闇の底にいる時が。だから、A」
「姉さん」
見上げる弟の瞳をじっと見つめ、宵子は口を閉ざした。
その口唇は何も彼に告げなかった。
どんな仕事にもやりがいはある、などという気休めも、だからどんな生き方をしてても同じなのよ、という虚無も、生きる意味など焦って探してはいけないのだ、という説教も言わなかった。絶望も希望もその瞳の中にはなかった。
だが、Aはこくりと首を縦に振った。
「うん。僕は僕の仕事をすればいいってことだね」
「ええ。それがいいわ」
静かな声でそう告げると、宵子は自分の部屋に引き取っていった。
Aも周りのものを集めて、自室へ戻った。
人が人を葬る。残った者がつつましく。これ以上自然なことはない。それがどんなやり方にせよ。何十年も前の殺人も、生者にとって意味がなければどうでもいいことだ。
「だから、慌てることはないんだよな」
事件はすでに終わってしまっている。だから彼は、何も慌てる必要はない筈だった。
そう。
ない筈だったのだ。

5.

お年寄りの朝は早い。
氷富千代子は、薄闇の中で布団をあげ、洗面所で手と顔を清めた。お仏壇の水を取り替えて、線香をあげ、チーンと鐘を鳴らす。南無妙法蓮華経などと呟きながら、ひとしきり位牌に向かって祈る。写真のない仏壇の奥に向かって生き生きと話しかける。
「おじいさん。君子も今日で二十歳になったんですよ。優しい子に育ちましたよ。私のことを心配して、わざわざこの街の大学にきて、毎日のように訪ねてきてくれてね」
そこで笑顔の皺を消し、
「でもね、どんなに可愛い孫でも、いいえ、可愛い孫だからこそ、あのことは話すべきじゃないと思うんですよ。我が子をよそへ遠ざけてまで隠した秘密なんですから」
手をあわせたまま呟くように、
「貴方はよくおっしゃってた――他人の命を奪ったものは、最後まで丁寧に弔わなければいけないんだ、と。それが、人間としての最低限の礼儀だと。死者を鞭打つようなことはしてはならない、決して辱めてはいけないのだ、と。私もそう思います。私はあの男を愛してはいなかったけれど、だからこそ、しておかなければならないんですよねえ」
再び笑顔に戻って、
「ええ、おじいさんの十三回忌までにはすまそうと思ってたんですよ。きっと、私の法事とあわせて、息子と孫がなにもかもよくしてくれます。いいえ、仰々しいことをしてもらうつもりなんかありませんよ。でもね、君子はきっと、いつまでも私のことを偲んでくれますよ。私が貴方を想ってきたようにね」
もう一度頭を下げると、ゆっくりと立ち上がった。
「そう、これで全部しまいにできます。店もこれっきり開けませんよ。それで最後の仕事をします。私もこんな年ですもの、自分にどんな始末をつけようと、誰にも文句は言わせませんよ」
しかし、そんなことを言い捨てて仏間を去ってゆく姿は、あまりにすらりと優雅であって、寿命の尽きた老女のものとはいいかねた。その所作は、愛しい男を恋焦がれる初々しい乙女のもの――死人は年をとらないが、生者もまた年をとらない、とでもいうような。
確かに、どんなに歳月を重ねても衰えない情熱というのがある。そして、氷富千代子の瞳に燃える炎は、まさしくそういう種類のものだった。
「ええ、私も地獄の業火に焼かれなくちゃなりませんからね」
不思議な台詞を呟きながら、風呂敷を広げていろいろと包み始めた。数十年来の商売道具や、身の回りのごく些細なものまで、要領よくまとめはじめた。
まるで、本当に遠いところへ旅立つように。

6.

午前四時。
普段の君子ならまだ寝ている時間だ。秋も深くなってきた頃で、夜明けというには暗すぎる。今日は金曜で、車の通りもまばらで、コンビニ帰りの彼女はひどく寂しい道を歩かねばならなかった。
どうしてこんな時間に外に出ているのかというと、月曜締切の原稿があり、それをさっき書きあげたからだ。この時間なら、コピーをとってすぐにポストに入れれば、速達でなくとも間に合う筈だ。
「あれが十代最後の原稿ってことになるわね、ぎりぎりで」
君子は小説を書いている。主に仲間内の文芸同人誌で書いているが、その他の本にも機会があれば送る。彼女は別に、職業作家になりたいのではない。十代終わりから二十代にかけての季節が特別なものに思われるから、今の感情を書き残しておきたいだけなのだ。だからこれは小説というより、十年後の自分に向けて書き残す手紙のようなものだった。もちろん実話などは書かない。小説らしくアレンジをして、本音が浮かびあがらぬようにする。
特にうまいわけではないが、友人達は彼女の作を面白いという。たまに見知らぬ人から手紙が来ることもある。《なにか》は持っている、ということなのだろう。
「それにつけても、一人暮らしって気ままなもんだわ」
C県の田舎では、こんな時間に外を歩くなどというのはとんでもないことだった。この街も都会というほどではないが、夜十時過ぎに外を歩いていても、誰にもとがめられることがない。友人も自由に呼べるし、親に部屋を荒されることもないし、長電話も存分にできる。身の回りのことを全部自分でやるのは大変だが、いざという時は祖母の家を頼ればなんとでもしてくれる。下宿をそばにしたのは大正解だった。防犯対策さえしっかりしておけば、一人暮らしも悪いことはない。明日は午前が休講だから、昼まで眠っていられる。
一仕事のすんだ解放感に、口笛でも吹いてやろうかと口唇を尖らせた瞬間、君子はふと足を止めた。
「嘘」
聞き覚えのある声だった。
そこに、暖色の街灯に照らされて、壁に寄りかかって小さな赤いギターを抱えて歌う青年がいた。

Save me
Save me from you
But pave me
The way to you
Lead me upon the captive free
Gracious and tame like love can be
Lead me upon

Spoil me
Spoil me with you
And soil me with the world of you
Watch over me with a mother's eyes
Judging my worth only to glorify
Watch over me

Save me save me
Save me save me

Carry
Carry me through
And bury all my doubts of you
Clothe my desire with spell or prayer
I'll shroud every sign of need I swear
Clothe my desire

Save me save me
Save me save me
Save me save me
Save me save me…

ギターの音はほとんどしない。エレキギターというものは、電気が通っていなければあまり大きな音がでないことになっている。電池式のギターのようだが、この時間に電源をオンにして弾いたら、途端にうるさい!と近所中から怒鳴られるだろう。つまり、形ばかりの伴奏なのだ。
しかし、彼の声は本当によく伸びる。うつむいて呟くように歌っているにもかかわらず、遠く彼方まで響く。
ゆっくりしたメロディのせいかもしれないが、歌詞もはっきり聞き取れる。《セイヴ・ミー、僕を助けて。救いの道を閉ざさないで。この傷みをどうか癒して。僕の欲望なんてどうでもいいから――》と。
そこはガラクタ置き場だった。もうすぐ持っていかれる燃えないゴミ達の脇で、Aは歌っていた。普通なら汚いだけの情景だが、君子の瞳にはスポットライトのあてられた完成された舞台に映った。打ち捨てられて途方にくれた者の情景として。肩下げ鞄の取っ手を握りしめて、彼女はそれに見とれていた。
「あ」
Aはどうやらこちらに気付いたらしい。ふっと顔をあげて、
「氷富さんだあ。こんばんは。……あ、おはようなのかな」
さっきまでの切なさはどこへやら、間の抜けた声を出すので君子はがっかりした。
「Aさん、こんな時間に何をやってるんですか」
「うん」
Aはギターを脇に置いた。
「考え事してたら眠れなくなっちゃってさ。どうせだから店のガラクタ捨てとこう、と思ってここまで来たら、そんなに古くないギターが捨ててあったんで、思わず弾いちゃったんだよ。非常識でごめん、こんな時間にうるさいよね」
「別にそんなにうるさくはないですけど」
美しい声だった。騒音というにはあまりにも。
「でも、凄く声、通るんですね。本当の歌手みたいですよ。昔、バンドか何かやってたんですか」
「ううん」
Aは軽く首を振った。
「だいたい、ちょっとくらいうまくても、何の足しにもならないんだよなあ。歌手になりたい訳じゃないし」
それにしては、とツッコミを入れたいところだが、君子はAを大いに見直していたので、意地悪を言うのはやめた。
「つらい恋の歌ですね。好きでどうしようもなくて、甘やかしてほしくて、でも、自分の汚い部分は見せたくなくて」
そういう想いは君子にもわからなくはない。十代の恋には特にそんな傾向があるものだ。
Aは淡く微笑んで、
「うん。でも、好きな歌なんだ。少しぐらいつらいのは悪いことじゃないでしょ。そういうのも恋の醍醐味だと思うしさ。それに、つらいからって簡単に捨てられる程度の想いなら、最初から恋なんてしなきゃいいんだから」
眠れないのは悲恋のせいなのか。みだりに他人のプライバシーを侵害するのは好きではないので、君子は話題を少しずらした。
「眠れないのはもしかして、仕事がうまくいってないせいですか? 私のお願いしたこと、明日でとりあえずの期限ですけど」
二週間という期間はやはり短かったろうか、と首を傾げると、Aは眉間に指をあて、
「そうだね。氷富さんの仕事については悩んでる。どうしようかなって思ってるよ」
やさしげな声で呟く。
君子はすでに、Aという人間に対する警戒をだいぶといていた。むしろ素直な気持ちで、かねてからの疑問をぶつけてみた。
「Aさんはどうして情報屋なんて始めたんですか? だってほとんど、ボランティアみたいなものじゃないですか」
Aの表情が一瞬固まった。
「それは、僕のプライバシーなんだけど」
「あ」
君子が言葉を失うと、Aはすぐに笑顔を取り戻した。
「あのね、人助けって自分のためにするものでしょ。これだけやったぞ、骨惜しみせずに頑張ったぞって、自己満足のためにするものだよ。情けは人のためならずって、善行はまわりまわって自分に戻ってくるっていうより、もっと速効性があるんだ」
「速効性? どんな効果があるんですか?」
「だって、働いてれば、とりあえず生きてる気がするでしょ。自分の価値が信じられない時も、他人のためにうまく働けたら、ちゃんと生きてるような気が少しはするじゃない」
「Aさん、生きてる気がしないんですか」
率直な質問に彼は苦笑して、
「っていうか、時々ヤバい時があるんだよ。僕は明日まで生きてていいのかなって――十代後半から、三ヶ月とか半年とか、そういう周期でひどい鬱がくるようになってさ。死にたくって死にたくってもうどん底。そういう時期なだけなんだ、乗り越えられる、なんとかなるって思っても、どうしても駄目でさ。現実感がゼロになっちゃって、ひどい時には心だけじゃなくて身体も動かなくなるんだ。糸の切れた人形みたいに、コトンと倒れてることしかできなくなって、当然外に出られなくなっちゃうし、御飯も食べられない有様」
君子は青くなった。この男はそんなに重く心を病んでいるのか、言われてみれば繊細そうな風姿である。もっといたわるべき相手だったのか、と。
するとAはペロ、と舌を出して、
「嘘だよ。全部嘘」
「ええっ」
君子の惑いにAは悪戯っぽい笑みを浮かべて、
「鬱になることはあるけど、大げさに言っただけ。僕は十年後もこのままなのかな、なんて考えるとゾッとしちゃうってだけのことさ。僕は何者だろう、毎日コップ磨いて、皆に愛想笑いして、田舎街の片隅でダラダラとながらえて、ちっとも成長しないで腐ってくのかと思うと、生きてる意味なんかある訳ないじゃないかって考えるとね――ありがちだけど嬉しかない。そういう邪念を振り払うには、自分以外のことで忙しくするのが一番なんだ」
Aは懐から煙草を出して火をつけた。
「でもね、どんなにキチンと生きてても、毎日本当に忙しくて仕方ないような人も、自分の生きてる意味って何だろうって思うらしいよ。例えば姉さんだって――僕の目から見たら、あんなにまともに生活してるひとはいないよ。僕がぼんやりしてる間、姉さんは寸暇も惜しんで一生懸命働いてる。しかも、ただむやみに働くだけじゃない、いつも新しい目標や希望を持ってて、それに向かって実用的な勉強を続けてる」
軽く煙を吸い込んで、
「あのね、二十代のうちに自分の店を持つっていうのは、どう考えても凄いことなんだよ。そりゃ、十代から貯金してきたんだろうし、今は借金だらけだけどさ。それにしたって、姉さんの独立資金は全部キレイなお金で、親族からビタ一文もらってないんだよ。僕の貯金も絶対に店には入れさせないんだ。いい、おばあちゃんの遺産は全部Aのものよ、自分のためだけに使いなさい、って使わさせてくれない。でも、それだけのことができる人も、生きてる意味を知らないんだよ。不思議だよね。どうしてみんな平気な顔をしてるんだろう。閑じゃないから、じゃないよねえ」
君子はふと、自分は《生きる意味》を真剣に考えたことがない、と思った。
将来の不安や落ち込む時はあっても、どうしてだろうと深刻になったことはなかった。この疑問はむしろ、もっと年がいってからの方が、胸に迫るものなのだろうか。
Aは笑みを更に和らげ、
「あ、ごめん。そんなに真面目な疑問じゃないんだよ。僕が情報屋をやってるのは、ヒマと自由が好きで勤めに向かないくせに、なんかしてないと落ち着かないからって、それだけのことなんだ」
そううそぶいて煙草をくわえなおす。そろそろ薄青く明け始めた空に、紫の煙が立ちのぼる。
Aが今まで話したことの、全部が全部嘘ではあるまい。それをあえて冗談めかすのは、君子の心に余計なおもりをつけさせたくないからだ。それがわかった瞬間、彼女は相手の名を呼んでいた。
「Aさん」
「うん?」
ただ向かい合って立っているだけなのに、二人の間にしばし流れるものがあった。
心地良い静寂。
ふと、Aがうつむいて煙草を消した。携帯の黒い灰皿に封じると、思いきったようにこう切り出した。
「あのね、昨日来た手紙の中に、ちょっと脈がありそうなのが一件あってね」
あ、と君子は頬を引き締めた。
今までAは、具体的な経過報告をしなかった。彼女もとくに催促はしなかった。時間がかかるとあらかじめ言われていたし、期限になってから尋ねてもいいことだと思っていたからだ。
「氷富さん、明日――って土曜日のことだよ、バイトとか授業とか入ってる? 一緒に行ってみないかな、と思って。別に、氷富さんが一人で行ってもいいんだけどね」
しごく言いにくそうに呟く。君子は首を傾げて、
「今週の土曜は、夜、友達とあう予定がありますけど、昼間は大丈夫です。遠いんですか?」
土曜は実は君子の誕生日である。昼間の予定はとりあえずないので、嘘は言っていない。Aは伏せた瞳をあげて、
「遠くはないよ。電車で一時間くらいのとこ。行く気あるかい?」
「ええ。私はAさんと一緒に行くので構いませんけど」
「そう」
Aの表情は何故かすぐれない。君子は眉をひそめて、
「何か、二人で行くとまずいような処なんですか?」
「ううん。あのね、北見耕太郎っていう写真の評論家というかライターさんがいてね、日本の明治・大正・昭和の風俗写真を収集してる人なんだけどさ、その人がどうやら一枚持ってるらしいんだな。で、土曜日が空いてるから、よかったらいらっしゃいって書いてきたんだけどね」
北見耕太郎――君子はその名にひっかかりを感じた。写真評論家として有名というのでなくて、どこか別の場所で聞いた気がしたからだ。
ああ。
思いだした。父の友人にそんな名があった。
Aはそんな君子をよそに、一人で呟き続けている。
「氷富さんは孫娘な訳だし、あらかじめ手紙を出してるんだから訪ねていってもおかしくないけど、ついてく僕はどういう肩書きで行ったらいいんだろう。友人Aっていうのもなんだし、親戚でもないしな。記者とか嘘の名刺でもつくっちゃうか。最近はゲーセンの機械でも結構まともなのつくれるしな。あ、『マイ・シティ』に電話して、本当に肩書きをもらう手もあるよな、ヴォランティアで記者やります、とか言って……地元民なんだから資格あるだろうし」
「えっ」
君子は思わず鞄を押さえた。一歩あとじさって、
「Aさん、もしかして……『マイ・シティ』ってあの……」
「うん」
Aは、本当に申し訳なさそうに首を垂れた。
「ごめんね、今まで黙ってて。僕、重症活字中毒患者なんで、文芸誌でもゴシップ誌でも、手の届くところにあるものは全部読んじゃうんだ。だから、地元発行のタウン誌なんかは完璧にチェックいれてるんだ。だからこの春、ヒトミ・キミコさんって学生さんがどんな小説を投稿したかも知ってたし、そのプロフィールも見てたんだ。印象的な小説だったから、すっかり憶えてたんだよ――『私小説』」
「やめてえっ!」
君子は思わず耳を塞いだ。
『私小説』というのは、今年のあたまに彼女が書いた、原稿用紙十枚にも満たない小説の題名だった。名もない十代の娘が、手に入れたかった似姿を目の前で引き裂かれ、思わず父親を刺し殺してしまう話だ。『マイ・シティ』というのはこの街のタウン雑誌で、短い小説を募集していたので面白半分に送ってみた。それが、春の号にそのまま載ってしまったのだった。
君子は本当に驚いた。その号には余程いい原稿が集まらなかったのだろう。もしくは若者向けな部分もあるとアピールしたかったのか。何にせよ、《父を、殺した》という書き出しの小説は、ローカル情報の詰まった家庭向雑誌にはあまりにも似つかわしくない。賞金めいたものはもらえるにしろ、君子本人が掲載はありえないと思っていたのだ。
自信作でないものが、思いもよらぬ場所で日の目をみてしまった時の作家の気持ちは、当人でなければわかるまい。恥ずかしくて恥ずかしくて消え入りたいだけだ。題も題だし内容も内容だから、誤解しか招かない。
案の定、知人の反応はおおむね良くなかった。大人達はだいたい、よくある思春期の妄想だとせせら笑った。本当はわかってもらいたいくせに、などと憎々しい顔で言う者もいた。家族愛に関してお説教を始める人間もいた。家庭環境を同情する友人もいた。あとは、結末がよくわからないと首を傾げる人達ぐらいか。どういう訳か、嫁いだ姉までがそれをどこかで読んだらしく、《これはあんまりいつものキミちゃんらしくないわねえ、いったいどうしたの、何かあったの》などと言い出した。
良美姉さんまで解ってくれなかった!
君子は絶望した。
小説の中の《私》は私ではない。確かに小説の中には、自身の気持ちが入っている。個人的体験も元にした。しかし、あれはやはり小説なのだ。あれ一つを読んで、君子を全部わかったような言い方をされてはたまらない。作品の出来をけなされるのはそれだけで嬉しくないが、そうでない部分でいろいろ言われるのはもっとこたえる。わかってもらいたくないのだ、という言葉の意味も通じない相手に言われるのは、いらだちを越えて殴りたくなる。
いや、わかりもしないくせに上っ面なお世辞を言われるのもまっぴらだ。面白かったよ、という言葉が真実かどうかは、相手の顔を見れば判る。無視されるよりは反応があった方が書く励みにはなるが、『私小説』に関しては《若書きだがよく消化、いや昇華されている》などという好意的な評も含めて何もかもが苦痛に感じられ、Aのコメントも絶対に聞きたくなかった。
しかしAは案の定、間抜けな事を言い出した。
「あのね。僕、あの小説を読んでから、写真に興味を持つようになったんだ。図書館に行くと、写真の本のあるところに寄るようになった。まだまだ勉強不足だけど、面白いなあって思いはじめてるとこ。だから、氷富さんの話読んで良かったなあ、って思ってるんだ」
「やめてよ! 同情で私の仕事を引き受けたんでしょ! 何もかもわかったような顔しないでよ!」
君子は耳を塞いだまま叫んだ。
「氷富さん」
Aは真顔で呟いた。
「僕が何をわかってるっていうの? 同情してるって? 僕がわかるのは、あれが実話じゃないってこと、氷富さんが本当に人殺しをした訳じゃないってことだけだよ。いくら未成年っていったって、親を刺した後にのほほんと学校通える訳ないし、実話だったら小説の欄に載る訳ないってことだけだよ。あとは、あなたがもう、あの小説のことを思いだしたくないんだろうなってことだけで……」
「それだけわかってるなら、もうそれ以上言わないでよっ!」
「ごめん」
Aはすっかりうなだれてしまった。
君子は怒りの瞳で彼を見つめていたが、その熱はだんだん下がっていった。
Aがあれを読んでいたからと言って、責めるのはお門違いというものだ。最初に手紙を出したのは自分なのだ。今まで黙っていたのも、Aなりの思いやりだったに違いない。彼がどこまで背後関係を見通しているかは判らないが、いい機会なのでしゃべってしまおうと思った。
「あれは実話じゃないけど」
君子がそう呟くと、Aははっと顔をあげた。目を丸くして、いいのかい、と相手を見つめる。彼女はうなずいて、
「私が父と仲が良くないのは本当。あのひと、子供とか妻とか、弱い者をなぶるようなところがあって。そのくせ親子の情愛物とかお涙頂戴に弱かったりして、結局空威張りな男なのよ。それだけならまだ許せるけど、おばあちゃんに対しても凄く冷たかったの。C県に里帰りにきた時も、あって挨拶もしないくらい。だから、私は彼が嫌いなの。殺しても足りないくらい憎んだ時もあったわ。写真を破かれた話も本当。でも、映画スターの写真じゃなかったわ。おばあちゃんとおじいちゃんが仲良く写ってる一枚だったの。それを、おまえ、これが欲しかったんだろうって見せつけるようにするから腹がたって、いらないわよっていったら、そうか、そうだろうなって薄笑って引き裂いたのよ。元々、私にくれるつもりなんかなかったみたい――つまり、そういうひとなの。一緒に暮らすのが苦痛で、それで私は大学進学を理由に一人暮しをはじめたの。おばあちゃんの家の近くに下宿するのは、そんなに不自然なことじゃないし」
「そうなんだ」
Aは噛みしめるように君子の言葉を聞いた。
「……じゃあ、土曜は何か収穫があるといいね」
一生懸命言葉を選ぶ幼児のように、ゆっくりと呟く。
君子も深呼吸し、静かな口調に戻すことにした。早朝から怒鳴っていた自分に気付いたのだ。
「Aさん。どうしてあの小説を読んでたことを話したんですか? 隠しておいてもよかったのに……」
君子をいじめるつもりで持ち出したのではあるまい、知らんふりをしていてもよかった筈だ、それがどういう思慮なのか知りたかった。Aはしかし、ひどく困った顔をして、
「それはあの、僕が単に隠しごとするのが苦手なだけでさ。深い考えなんかないんだ、無神経でごめんね」
Aはこめかみをかくと、その場を離れて歩きだした。
「あ、氷富さんのアパートはどっちなの?」
君子は半歩遅れて歩きながら、
「お店とは方向が違いますからいいです。明るい道ばかりですから、送ってもらわなくても大丈夫です」
「あ、そうなんだ、ごめん」
「謝らなくてもいいですよ」
「そうだね」
君子は角へくると足を止めた。
「じゃあ、私ここで。また夕方お店に行きますね」
「うん」
Aは反対方向へ歩きかけて、ふと振り向いた。
「あのね、本当の理由は、僕もおばあちゃん子だったからなんだ。ただそれだけなんだよ」
「え?」
聞きとがめた君子が振り向くと、Aは笑顔でごまかした。
「なんでもない。僕が言うわたくしごとは、全部嘘だと思って間違いないからね。じゃ」
「ええ?」
もうAは振り向かなかった。そのまますたすたと去ってしまった。
君子は肩をすくめた。
「やっぱり変なひとなのかもしれない……」
そう呟いて、彼女もさっさと歩き出した。

7.

「やあ、いらっしゃい」
北見耕太郎という男は、人当たりのよい笑顔で玄関口に出てきた。郊外の瀟洒な邸宅にふさわしい、年齢と恰幅と声音の持ち主である。
「氷富君子です。お世話になります」
慣れないスーツ姿で身体をしゃちほこばらせた彼女は、ペコリと頭を下げて中へ入った。Aはその後ろからひょい、と踏み込み、
「昨日お電話しましたタダノです」
「ああ君か、氷富さんのつきそいだというのは」
北見耕太郎は軽く眉をひそめた。女物のような薄いコートに三つ編み姿の彼がうさんくさく見えるのだろう。差し出された名刺を見て、『マイ・シティ』などという雑誌はきいたこともないが、という表情をちらりとみせた。見かけと違って、あまり大物ではないらしい。金に物をいわせて、という成り金の息子そのままに年をとったタイプか。Aは如才ない笑顔をつくって、
「はい。今日は、昭和初期に写真館で撮られた貴重な人物写真を見せていただけるということで、大変期待して参りました。どうぞよろしくお願いします」
「じゃあ、あがりなさい」
応接間に通されて、茶菓などすすめられる。二人の向いに座ると、北見氏の話はおもむろに始まった。
「写真収集というのは、これでなかなか難しい仕事でねえ。どういう観点で集めるかということもあるし、どういうルートで手に入れるかというのもあるんだな。骨董屋から買うにもそれなりの審美眼が必要でね」
「そうなんでしょうねえ」
Aはうなずき、記者らしくテープを回しメモを取る。北見氏はニコニコと先を続ける。
「郷土写真館などにも意外に掘り出しものがある。キュレーターがいい加減に保存しているものを救ってやるのも専門家の仕事でねえ。君も記者なら博物館巡りなどするだろう、鵜呑みで記事を書いたりしてはいかんよ」
「そうですね、素人目には価値がわかりませんからねえ」
口調こそノンキだが、Aの口唇には冷笑が浮かびはじめていた。専門家にしかわからないものなら、言われたとおりを書くしかないではないか、その矛盾に気付いてるかい、などと考えているらしい。
北見氏はだが気付かない。君子の方に視線を向け、
「まあ、とにかく勉強をすることだね。若い人は、例えば木村伊兵衛とか土門拳も知らないんだから……今でいえば篠山紀信とかアラーキーぐらい知名度のある写真家だがねえ」
君子はあ、と眉を上げ、
「木村伊兵衛は風景写真で、土門拳はリアリズム写真のひとですね。木村さんは風景写真の賞の名前になってて……でも、土門さんも晩年は神社仏閣のシリーズがありましたよね」
ついそんなことを口走る。Aが貸してくれた本にあったので憶えていたのだ。
北見氏の表情が変わってきた。
「そうそう。昔のカメラというのは重くてねえ、撮影旅行も大変だったんだ、ネガも今のフィルムじゃない、ガラス板を持ち歩かなきゃならなくてねえ。だから彼らの世代は……」
そこへAが口を挟む。
「そうですね、文化人類学者で、重いガラス板を持ち歩いてアジアの記録を膨大に残した方もいらっしゃいましたからね。昔の方の苦労というのはたいしたものだと思います。でも、土門さんの時代は、もう銀板もつかってないんじゃないですか、芸術写真家の方は、今でもいろんな素材を使われるようですけど」
「いや君、例えばダゲレオタイプというものはだね……」
北見氏はしゃべればしゃべるほど汗をかいてきた。あまり暖かい日でもないのに、しきりに顔をふく。
Aと君子はあくまで悪気のない様子で質問を重ね、北見氏の無駄な能書きをなるべく早く終わらせようとしていた。君子には夜の予定があるし、Aは北見氏のようなタイプが好きではないからだ。
この強力なタッグに押されつつ、北見氏は二時間を経過した時点で、ようやく例の写真のことを切り出した。
「あれはなかなかいい一枚でねえ。夫婦の情愛のにじみだした肖像写真というのは、写真の氾濫する現代では逆に少ないものだよ」
「あ、祖母と写っているものですか」
君子の表情が動いた。やっと主導権をとらせてもらえた北見氏は、余裕を取り戻してソファに沈んだ。
「ああ。君のおじいさんとおばあさんが写っているものだよ。盛装しているから、おそらくは結婚の記念に撮ったものなんだろう。外見の年がいっているから、何かの記念日の可能性もあるがね。なんにせよ、自然な笑顔で寄り添っている姿がさまになっているんだな」
ああ、例の写真だ、と君子は身を乗り出した。
「見せていただけますか」
北見氏は皮肉な笑みを浮かべ、
「ああ。貴重な一枚だから、後でゆっくりお見せしよう。ネガと一緒に、庭の奥の土蔵にあるものでね」
「土蔵があるんですか」
「ああ。親の代のものだが、今でも充分役にたつ」
なるほど、最近はあまり見ない種類の建物だが、元々物の貯蔵庫である。夏は涼しく冬は暖かい。風も通るようになっているし、写真の保存にはいい場所だろう。
二人がよし、顔を見合わせた瞬間、北見氏は大げさにため息をついた。
「それにしても、君のような優男が記者をつとめられる時代なんだねえ。モデルになった方がいいような顔じゃないか。君の名前はなんていったか……」
名刺をひっくり返して、
「タダノ……エイというのは変わった名だねえ。少年Aとでもいうべきか」
この逆襲は見事あたった。Aは頬をピク、と引きつらせ、
「いえ、未成年ではないので少年Aという訳にはいきません。悪さをして捕まったら、本名で裁きを受ける身分です」
声のトーンはかろうじて押さえているが、瞳が鋭くなって全身尖らせてしまっている。北見氏は面白そうに、
「それでも本名がエイなんだろう? ははあ、漢字で書くと翳か――シャドウかシェイドか。はかない名だね、親御さんはどういうつもりでつけたんだろう」
Aはキリ、と相手をにらみつけ、
「カゲと呼ばないでください。僕の名はあくまでもエイで」
「ふうん、なるほど……おや」
ふと、かすかな異臭が三人の鼻をうった。ガラス窓の向こうから匂ってくる。
「あっ!」
Aが叫んで立ち上がった。
「風呂場はどこです!」
「なんだって?」
「ありったけの消火器を用意してください、一一九番も!」
驚く二人を後に、Aは自分のコートをひっつかんで部屋を飛び出した。廊下の突き当りに浴室を見つけると、水の張ってあるバスタブにドボンと飛び込み、コートを濡らして奥庭へ飛び出した。
北見氏は電話にとびつき、君子は手近い場所にあった消火器を持ってAの後を追った。
Aは土蔵のカンヌキを懸命に動かしていた。窓から黒い煙があがっている。異臭の原因はそれだった。化学物質が燃える耐え難い臭いである。
「よし、内鍵かかってないな」
Aはコートをかぶり、口元をハンカチで縛ると土蔵の中に飛び込んだ。
「千代子さん、千代子さん!」
君子は消火器の栓を抜き、彼の援護をするように構えた。火柱は空気がどっと入ったことで激しくなり、扉の外まで出てきたので、彼女は扉の周りに消化剤を吹き付けた。
消火器はすぐ空になった。どうしよう、と君子が困っていると、北見氏が園芸用のホースを持ってきて水をかけはじめた。映画のフィルムなどは自然発火するような素材もあるらしいし、いざという時の準備はしてあったのだろう。
だが、火はすぐには消えない。
Aが、老婦人を肩に担ぐようにして外へ出てきた。
「氷富さん、早く救急車呼んで! 千代子さん、どうやら睡眠薬かなんか飲んでるみたいだ。さもなきゃ煙にまかれてる」
「はい!」

到着した消防車の活動で、土蔵の火は消し止められた。中のものは半分近く駄目になったが、延焼はふせがれた。救急車は氷富千代子を診察、手当てが必要な状態と判断して病院へ運ぶことにした。何が起こったのかさっぱりわからない北見氏を置いて、二人は救急車に乗り込んだ。
千代子の手当てはすぐに始まった。
Aはびしょ濡れの服のまま、君子の脇で震えていた。君子はあたりをはばかって、小声で彼に耳打ちした。
「大丈夫ですか? あんな無茶なことして……」
濡らした服のせいなのか、目だった火傷や怪我のようなものはない。かたく結んだ三つ編みもあまり焦げてはいないようだ。Aも小声で囁きかえす。
「思わず身体が動いちゃってさ。自分でもびっくりだよ、こんなにヒロイックだったのか、俺はって」
「煙は吸わなかったんですか? ハンカチのマスクで足りました?」
「煙は普段から吸ってるから、あのくらいは大丈夫。それにしてもうっかりしてたよ。千代子さんて、葬儀屋さん手伝ってたんじゃなくて、別に小さな店をもって錠前屋さんをやってたんだってね。聞き込みするまで気付かなかったのはともかく、錠前ときいたら不法侵入、ぐらいの連想をすべきだったよ。腕のいい職人さんなら、土蔵やぶりなんて簡単だもんな」
Aは失敗した、失敗した、と繰り返し呟いた。
「今までありとあらゆる手を使って、源三郎さんの写真をなくそうとしてきたひとなんだもん、他人の土蔵に押し入って火をつけるくらいのことしてもおかしくないんだよ。ましれそれが最後の一枚なら荒業にも出るよな。問題の写真とネガを燃やしてハイ終わり、じゃなくて、それと心中するくらいのことしてもおかしくないよ。人間の情熱って、そういうものだもんな。もっと早く気付くべきだったよ、もっと早く」
「Aさん」
「ごめんね。結局氷富さんの役にたたなくて」
「いいんです」
「ごめんね。病院つくまで、ちょっと眠らせて。疲れた……」
Aはそこまで言って、ガクリと首を垂れた。気を失ったひとのような深い眠りに落ちてしまった。
Aは病院で着替えを貸してもらうと、またそこで眠ってしまった。目が醒めた時にはひどい風邪をひいていて、一日病院で寝込んでしまった。ただ、怪我や火傷はなかったので、その後はケロリとした顔で退院した。
君子の誕生日の夜の予定はすべてすっとんでしまったが、友人達は落ち着いたらまたその時に、と暖かい申し出をしてくれた。
北見氏のコレクションは何度も点検されたが、氷富夫妻の写真はやはり焼失してしまったらしい。
こうして最後の一葉は、地上から姿を消してしまった。千代子の望むとおり、地獄の業火に焼かれて、跡形もなくなってしまったのである。

8.

「……まったく、十代でグレるなんて馬鹿なのよ」
君子が《J》のドアを押した瞬間、女の子の低くうなるような声が聞こえてきた。カウンターにはりついている制服姿の女子高生である。Aが穏やかな顔で相槌を打っている。
「そうだね。ミナさんはそういう方面に力つかうひとじゃないもんね」
「あたりまえじゃない。不良のすることなんて、二十歳過ぎてからやればいいのよ。大人になれば自分で稼げるし、なんだってできるんだから。今は知らんふりして、いい子ちゃんで生きてる方が得なのよ。親に愛されてないならなおさらよ。頭のいい子なら、悪さしても振り向いてくれないことぐらい、中学生でも小学生でも知ってるわ。薄っぺらい仲間とつるんだって空しいだけよ。だから、十代で悪さするのは馬鹿なのよ。おじさん達にお金貢がせたって、将来的に損するのは結局こっちなんだから」
Aはしんみりとうなずいて、
「ねえ、ミナさんは、早く大人になりたかったの?」
ミナという少女は頬をへこませて、
「別に。年なんて急いでとれるもんじゃないもの、どうでもいいわよ。でも、十八になったら家を出る。どっちに引き取られるなんて話、もう沢山。親の浮気なんて、私にはどうでもいいことなのに。今更しおらしくごめんなさい、とか言われたって、こっちの同情の種は尽き果ててるわよ。何が大人になったらわかる、よ。私はほっといてって言ってるだけなのに、全然伝わんないんだから!」
少女は一通り愚痴を繰り返すと、こんどは宵子がそれを引き取った。
「そうねえ。ミナさんの言ってることは、本当に当たり前のことなのにね」
「ほんとよう。まったく!」
かつての自分の分身が、そこにいる。
君子は微苦笑を浮かべて少女の後ろを抜け、奥の四番テーブルについた。Aは静かにカウンターを出、オーダーをとりにやってきた。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか」
「とりあえず、十分だけここで話をきいてください」
君子はしっとりとした眼差しを上げた。ごく普通のアンサンブル姿だが、彼女の顔やスタイルに似合ってすっきりとまとまっており、以前のちぐはぐさは完全に消えている。
Aはうやうやしく腰を屈めて、
「十分でよろしければ」
君子も丁寧に頭を下げ、
「先日はどうもありがとうございました。おばあちゃん、あんまり煙を吸ってなくて、順調に回復してます。大事に至らなかったのはAさんのおかげです」
あの火事の日から一週間が経過していた。Aはほっと笑顔になって、
「よかった。でも、本当にお礼を言われるようなことじゃないんだよ。とっさに身体が動いただけで――お年寄りを見ると条件反射、みたいなとこあってさ」
「おばあちゃん子だから、ですか?」
「そう」
Aはニッコリとうなずいて、
「でも、写真は手に入らなかったから、氷富さんから成功報酬もらえないなあ」
「いえ、いいんです」
君子は、今回の顛末を納得していた。思いもかけないものが見られたからである。つまり、驚いて病院にかけつけてきた父親の姿だ。
「どうして、そうまでして隠そうとするんだ!」
ぼんやりと息子を見つめる老母を怒鳴りつける。
「知ってるんだ。俺は源三郎の子じゃなくて、小田何がしとかいう男の子供なんだろ? 母さんは小田が嫌いで、源三郎が帰ってきたのが嬉しくてさっさと乗り換えて、邪魔な俺を田舎へおっぱらったってことはとっくに判ってるんだよ!」
君子は驚いた。
父が幼い頃、父母の元でなく実家近くの親戚にあずけられた時期があったのは知っていた。だが、その理由は教えられていなかった。それもそうだろう、父本人がそんな風に思っていたのなら。
君子はなるほど、と思った。彼女は、殺されたのは死地から帰ってきた源三郎なのだと思っていたが、彼の名を騙っていた小田浩助の方が殺された可能性もある。どのみち千代子は口をつぐんだろう。表沙汰にしてもいいことは一つもない。
彼は、涙ながらに怒鳴り続けている。
「母さん、俺は誰の息子だって良かったんだよ。それなのにこんなことまでして証拠を消そうとするなんて! 俺を愛してるなら、側においといてくれりゃよかったんだ。誰が父親でも関係ない、俺はそんなことはどうでもよかったんだから」
その時君子は、何故父親が実母を嫌うそぶりを見せていたのか、やっと理解した。
恨んでいたのだ。実の父でない人に育てられようと、秘密を抱えて生きねばならなくとも、それでも母の側にいたかった。それを無下にされたのが心底辛かったのだ。
だが、千代子はぼんやり息子を見返すだけだった。何も答えなかった。おまえの言うことがあっているとも間違っているとも、妄想だよと笑うことも、怒ることもしなかった。
警察が事情聴取にきても、彼女は何も語らなかった。高齢ゆえ、多少記憶が曖昧なのかもしれない、と手をつくして質問されたが、何も答えなかった。
従って、真相は今だ闇の中である。
最後まで千代子とそいとげたのは源三郎なのか小田浩助なのか。写真もない今、判別はきわめて難しい。写真があったとしてもわからなかったろう、表向きは情愛深い夫婦の写真でも、それが生活の真実を切り取っているとは限らない。写真は時々、人間以上の嘘をつくからだ。
なんにせよ、君子は良かったと思っている。
父を許せる気がしていた。彼は祖母を愛している。怒鳴らずにはいられないほど。それはあまりにわかりやすい事実で、通俗ドラマのようだった。だがそれは、そんなに不愉快な光景ではなかった。人間は幾つになってもたいして変わらないものらしい。それは洋の東西を問わず、性別も問わないらしい。そしてお涙頂戴は、全ての者にとって、たまにはいいものなのだ。
君子は、そんな思いは話さずに本題に戻った。
「Aさん。おばあちゃんね、どうしてあんなことをしたのか、絶対に誰にも言わないんです。私にも」
「ふうん」
Aは軽く腕組んで、
「別にいいんじゃないの。真相はどうあれ、僕は美しい話だと思うし」
「美しい?」
「うん。残された人が、先に逝ったひとを葬るのは自然なことだよ。汚したくないと思うのもね。千代子さんの心の帝国は千代子さんのものなんだし。愛とか美談みたいに説明できるものより、真実が秘密の方が美しいよ。だってたぶん、千代子さんには誰にも知られないことこそが一番大事なんだろうと思うから。それは解ってもらいたくないんじゃなくて、他人に決めつけられたくないだけなんだと思うから。だって、大事な自分の生き方だもの、何を信じようと、どう生きようと自由じゃないか」
君子はAをじっと見つめた。
そう、彼女が『私小説』で書きたかったのはそういうことだったのだ。彼はちゃんと読んで、それをわかってくれたのだ。
そう思って目を瞬かせていると、Aはいつもの微苦笑を浮かべた。
「あのね、氷富さんは『異邦人』って小説を読んだことがある?」
「カミュですよね。まだ読んでないです」
「そう。あのね、あれは、ごく普通の男が、人殺しをした理由をきかれて、太陽がまぶしかったから、って答える話なんだよ。もっともらしいことを言えば罪が軽くなるかもしれないのにさ。理屈や解決をつければ楽になれるのに、あえてそうしないんだ。退廃的って言えば言えるのかもしれないけど、でも、正直だって言えば正直だよね。異邦人だなんて大騒ぎされたりするほど、変わっちゃいないと思うんだ」
Aの眼差しは、そう、僕もまた一種の異邦人なのだと語っていた。一見はなよなよとした軟弱者だが、たとえどんな損をしても、意に染まない生き方は絶対にしない古風な頑固者なのだと。
「氷富さん?」
Aに見とれていた彼女ははっと我に返った。前から思っていたことをここで言わねばなるまい。
「あの、ヒトミさんじゃなくて、キミさんって呼んでください。だって、Aさんはエイさんでしょう? 友達なんだから、同じようにしましょうよ」
今度はAが目を瞬たかせた。
「あ、僕は晴れて友達にしてもらえたんだ。少しは信用してもらえたんだね」
「あれだけウチの事情を知って、まだ友達じゃないつもりでいるんですか?」
Aは苦笑いして、
「そうだけどさ、友達だと報酬もらいにくくなるからさ」
君子は首を傾げ、
「じゃあ、とりあえずかかった実費を教えて下さい。それは現金で払います。あと、これからもお客としてきます。毎日は無理ですけど、なるべく寄ります。それぐらいなら、もらいにくくも、ないでしょう?」
「そうだねえ」
Aは壁の時計をチラと見て、十分過ぎたか確認し、
「ま、それでいいや。……さて、今日のパスタはいかがなさいますか?」
といきなりボーイモードに戻ってしまった。君子は既にそらんじたメニューを広げて、
「トマトソースで」
と答えた。Aは慇懃に頭を下げ、
「かしこまりました。少々お待ちください」
「Aさん」
去ろうとするAに、君子は更に一声かけた。
「はい」
「私がどうしていつもスパゲティを頼むのかわかります?」
Aは、わからない、と答えると思っていた。どうして僕がそんなこと知ってるんだい、と怒ってみせるか、好きだからじゃないの、と素直に尋ねてくるかとも思った。
しかしAは、真顔でこう答えた。
「僕が知ってるひとで、デートの時には必ずスパゲティを頼む女の子がいたんだ。適当に話をあわせる時に、ぐるぐるスプーンひねくってると、間がもたせられるんだって。退屈な男の時はわざと行儀悪く食べるとか、いろいろ使いようがあるんだってさ」
「え?」
いきなりそんなことを言われて君子は面くらった。Aは小さく目配せして、
「あのね、つまり、俺に惚れると不幸になるよ、パスタなんかじゃ追っぱらいきれない――ってそういうこと」
ニヤ、と笑ってカウンターに戻っていった。
「自惚れ屋!」
その背に向かって叫びながら、君子もまた笑っていた。
信用していい人間が増えるのは、誰にとっても喜ばしいことだからだ。

(1997.4脱稿/初出・恋人と時限爆弾『彼の名はA』1997.5)

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