『健全なゲーム』

【ワタクシ的日記・○月○日「過去のひと」】

職場で撮った写真を見せて「これがYさん」と言った瞬間、妹が意外そうな声を上げた。
「髪の長いひとじゃないんだ」
「どうして長いと思ってたの?」
「……なんとなく」
「ふうん」
それ以上会話が続いた訳ではないものの、妹の言いたいことはよくわかった。それほどあからさまに、Yさんとあの人は似ている。違うのは髪の長さぐらいなのだと。

若い人とつきあうのは、過去をなぞる作業だ。自分の青春に欠けていた時間を埋めていくのが楽しいのだ。あの人もきっと二十代の前半には、この目の前にいるYさんみたいに、こんな楽しい物言いをしたり、単純に笑ってくれたに違いない――そんな想像が、過去の痛みを和らげてくれる。

恋が終わるのはふられた日ではない。
自分の中で、その人の存在が消えた時に終わる。
今はっきり、あの人のことを【過去のひと】と呼べる。
終わったのだ。
だから私は、目の前にいる人に何かを見いだそうとしているのではないはずだ。
単純にタイプだから好き。
人の好みはそう大きく変わるものではないから、似ているのも当たり前。
じゃあ何故、心の中で、何度も言い訳の声がする?

そもそも、なにもやましい気持ちじゃない。
ある程度の時間一緒にいられて、仕事をしたり遊んだりが二人でできて、それで自分も相手も愉快であれば、それでいい――それはそう歪んだ考えでも、願いでもないはずだ。女同士だからこそ、指をさされることでもない。それ以上のものは私は今はいらない。それだけで充分に満たされるのに。

それでなぜ、言い訳をしようとする?

今の気持ちを伝えてみても、おそらくなんの意味もない。Yさんは当惑するだけだ。今以上のことを望んでいないなら何故、といぶかしむだろう。

そう、本当は欲しいのだ。
今以上の何かを。
貴女から。

Yさん。貴女は私に、何をくれますか?

* * *

パジャマ姿のまま、ウェブ日記を書き終えて、来栖美砂はため息をつく。
あの人は本当に【過去のひと】?
いま着ているジュンコシマダのパジャマは、あの人と旅行に行くために買ったものだ。最初の晩の思い出の品。なぜ似合いもしない緑のパジャマを買ったかといえば、あの人が好きな色だったからだ。私はおもねった。そして、それを今でも大事に着続けている。
それで本当に未練はないと?
そのことを私は日記には書かない。
有理さんが見ているかもしれないからだ。

有理さんは私のハンドルネームも、サイトアドレスも知らない。職場の人間には別の顔を知られたくない。ウェブ日記は非公開ではないから誰でも見られるが、日々起こったことを書き連ねている訳ではないので、同僚が「これはあなた?」と尋ねてくることはないはずだ。
それなのに。
なぜか有理さんが私のウェブ日記を読んでいる気がするのだ。もう何ヶ月も前から。職場に行って話す前に、私のことを知っている。あからさまではないけれども、体調不良から買い物の内容から出かけた場所まで、日記に書いたことはすべて筒抜けと思われるぐらい、会話がテンポよくはずむ。面白そうに彼女の瞳は輝いている。たまにカマをかけてもみるが、賢いひとなのでひっかかってくれない。思い過ごしかと思わせる程度にかわしてくる。

それならばウェブ日記で、愛の告白をしてみたらどうだろう?

単純な思いつきは、急激に私の中で固まっていった。
「愛しています」という言葉は簡単に書くことができる。ただ書くだけならば。しかしそれでは、頭のいい有理さんは反応しないだろう。いよいよしらんふりをするだろう。それではまったく意味がない。
ならば、むしろ正直に今の気持ちを書いてみようと思った。
面と向かって告白しないのは卑怯だろうか。
だが、面と向かって言葉を発しないということは、読み間違えられても訂正がきかないということだ。過去の人と比べているのか、まだ忘れていないのか、と興ざめされるかもしれない。
そう、これは一つの賭けなのだ。

どんな気持ちも、ずっと秘めたままでいることができる。思いは必ず伝えなくてはいけないものではない。伝えることで壊れてしまう関係もある。
それならなぜ、私は賭けにでる?
たぶん手遅れだからだ。私の眼差しは、身体は、気持ちは、常に有理さんに向いている。口に出して「好き」と言わないだけで、その単純な二文字が伝えるよりより多くのものが、有理さんには伝わってしまっている。気持ちのよい応答は、人柄の良さももちろんあるが、私の好意を理解してくれているからだろう。
だからこそ、言う必要は全くないのかもしれない。だがそれでも知りたいのだ。もしYさんが私の別の顔を知っているのなら、なぜ「見ましたよ」と言ってくれないのだろう。私が恥ずかしがると思って? 偶然見つけただけか何かで、確証がないから?
本当は、あなたに何もかも知られたい。
見られて嬉しい、という気持ちはおかしいだろうか。仕事場以外での場所でも、年下の女性に甘えてみたいなんて。
それでも、素顔の自分を知られても嫌われないことぐらい、嬉しいことはあるだろうか。

もう賽は投げてしまった。
明日、予想もしなかったひどいことが起こるかもしれない。反対にあっさり無視されるかもしれない。なにしろ私の書き方は、良いものとは決して言えない。
だが、それならそれで構わない。
すごろくは、振り出しに戻るより悪いことはおこらない。
戻ったところで、死ぬ訳でもない。
さあ。
今晩はもう眠ってしまおう。
明日のことはまた明日だ。

* * *

来栖美砂は仕事のあがりぎわ、若い同僚から白い封筒を手渡された。
「これはなに?」
「見れば、わかります」
いつものように悪戯っぽく瞳を輝かせて、それだけ言って彼女は去った。
急いで封をきると、白い便箋にぽつんと一行、サイトアドレスがワープロで打たれていた。それはとある日記サーバのアドレスだった。自分がウェブ日記を書くために使っているところと同じだった。
まさかこれが、有理さんの日記?

自宅へ戻り、美砂はすぐにパソコンの電源を入れた。
おそるおそるそのアドレスを打ち込んでみる。
開いたページの最新の日記は、こんな風になっていた。

* * *

【乙女日記・○月△日「健全なゲーム」】

昨日Kさんが、ウェブ日記でやっと私に呼びかけてくれました。
それでやっと気がついたのですが、私がどれだけ待っていたか、Kさんは知らなかったらしいのです。肩を並べて仕事をしながら、いつ言われるだろうとずっとドキドキしていたのに。「Yさん、私の日記を見ているでしょう」と正面きって尋ねられたらどうしよう。反対に「私、実はずっとYさんの日記をこっそり読んでいたの」と言われたらどうしよう。気づかないうちに見られていたとしたら、どんなに恥ずかしいか。……でも、それはそれで【健全なゲーム】なんだと思っていました。お互い知っていてしらんぷり、それでいて目配せで「知っているよ」と知らせるのは。

Kさんはウェブでずっと恋愛小説を書いています。その昔、真剣に愛した人をモデルに書いているらしいのです。その人の描写と私は、ちょっと似ています。そんなことを意識してばかりいるのは、やっぱりうぬぼれなのかな――今までずっと、そう思っていました。

Kさん。
今日から新しいゲームの始まりです。

勝ったら私に、何をくれますか?

* * *

「最初から、あなたの勝ちじゃないの」
そう呟きながら、美砂の掌はパソコンの上で踊り始めた。
もちろん、新しいゲームを始めるために。

(2002.9脱稿/2004.3改稿/初出・text jockey『JUICY・FINAL』2003.8発行・テーマ小説「伝える。」)

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Narihara Akira
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