『虚 実』


仄暗くなってきた奥の一間で、吉継の低い声が響く。
「《およそ先に戦地におりて敵を待つ者は、逸し、おくれて戦地におりて戦いにおもむく者は、労す。ゆえに善く戦う者は、人を致して、人に致されず》……まあ、ココまでは、よかろ?」
孫子の兵法の講義だった。
左近はうなずいて、
「大丈夫っす。先にいくさばにいって、敵さんを迎えうてば、余裕をもって戦えるけど、遅れてったらヤバイって話っすよね。機動力をあげて、こっちが戦の主導権を握るのが、勝利の鍵ってぇいう」
「では、勝機を握るためには、どうする?」
左近は頭を掻きながら、
「ええっと、《そのおもむかざる処に出で、そのおもわざる処におもむく》ですよね。敵さんがすぐ行けないようなとこに進撃して、相手が思いつかない方向へ攻撃をしかけるっつー。三成様が得意にしてるアレっす」
「その通りよ。虚実を使い分けるとは、アレからもっともかけ離れた言葉に思えようが、実は孫子の《虚実》篇をよく体現しておるのが、まあ三成よな。賢人でさえあの俊足には驚くゆえなァ」
「三成様の奇襲は《微なるかな微なるかな、無形に至る。神なるかな神なるかな、無声に至る》ですね」
「こちらの動きが読めねば、敵はどうしようもできぬゆえな。アレはな、いくさばにおいては臨機応変よ。《兵を形するの極は、無形に至る……その戦い勝つや、複びせずして、形に無窮に応ず》と、孫子もいうが」
「わかります。前に勝った時と同じ戦法をとったからって、毎回勝てるわけじゃないってことっすよね」
「その通りよ。……さて、もうだいぶ暗くなった、終わりにしよか」
見計らったかのように小姓が茶をもってきた。無言で灯りをともして、すぐ下がる。
左近にも勧めてから、吉継は湯気をふいて薄茶をすすった。
「さて、孫子もだいぶ進んだの。あと、何がわからぬ?」
「え、《虚実》で、まだ半分ぐらいすよね?」
「ぬし、素読はすませておるのであろ。孫子の兵法は、半分は主君の心得よ、一軍の将がすべておさめておらずとも、いくさには間に合うであろ」
「でも、三成様は、孫子は基本だから、ぜんぶ修めてるって」
「一応、一国のあるじゆえなァ。ただ、アレの理解には偏りもある。ぬしもそう嘆かずとも、島清興として名を馳せた頃があるのであろ、素養がまるでないわけではない。ならば、じきに終わるわ。それともまだ他に、教わりたい漢籍でもあるか。この程度の座学でよいなら、賢人の手をわずらわせるほどでもないゆえ、われで、わかるものなら……」
「ハァ、あの」
「なにか、訊きたいことがあるような顔よな」
左近は首をすくめた。半分のんだ薄茶を置いて、いかにも言いにくそうに、
「刑部さん。なんで俺に、そんなに親切にしてくれんですか」
「やれ、何の話よ」
「あのー、そんな、気ぃつかってもらわなくても、俺、大丈夫っすよ」
吉継は微笑した。
「ぬしが三成の役に立たぬと意味が無いから、教えておるのよ。他意などないわ」
「でも……」
「らしゅうもない、何を気兼ねしておる」
「あの、俺、刑部さんと三成様の間に割り込む気とか、全然ないっすから」
吉継が目を丸くして見せると、左近は腰を低めて上目遣いで、
「割り込めないのわかってますし、そんな卑しい気持ちで三成様に仕えてるんじゃないんで、ホント、牽制とか必要ないっす。刑部さんが三成様の副将だっていうなら、俺は刑部さんのいうこときくのが当たり前なんで、気兼ねなく使ってくださいよ、マジで」
「卑しい、か」
吉継はヒヒ、と笑った。
「だが、ぬし、三成が夜伽を命じたら、共寝するであろ」
「三成様は絶対! そんな命令、しませんよォー!」
「したらどうする。拒めぬであろ。しかもぬしは嬉しいであろ」
「嬉しくないっす」
左近は即答した。
「そりゃ、三成様に目をかけてもらえるのは、もちろん嬉しいっすよ。だけど、三成様の一番は決まってるっしょ。それで俺が夜伽とか、全然、嬉しくない」
「われの命も、そう長いものでは、ないはずだがなァ」
左近は首をふった。
「たとえ刑部さんが、万が一、いくさで命を落とすようなことがあっても、三成様の一番は変わらないっすよ。身代わりに誰かを、なんてことも、しない人だ」
「やれ、ぬしも相当、アレが好きよなァ」
吉継はため息をついた。
「刑部、さん?」

*      *      *

最近、三成がやけに優しい。
朝、輿に乗る前に身支度を調えていると、三成がふらりとやってきて、きゅっと肩を抱き寄せたり、頬に軽く口づけをしていったりする。
小姓の頃ですら、そんな風に肩を抱き寄せられたことなどなかったのに。
そしてそういう日の夜は、きまって熱烈なので、吉継は早く帰って、湯殿で丁寧に身を清めておくのであった。
三成はいそいそとやってくるが、最初は優しく触れてくる。まぶたに口唇を押し、そして静かな口吸いから始まる。そのうち舌を柔らかく絡めてきて、吉継もその気になってくると、丁寧な愛撫が始まる。
互いの着物を取り去った頃には、三成が吉継の物を深く口に含み、裏筋を舌で舐め回している。時々顔をあげて、上目遣いで吉継の反応をうかがってくる表情がいつになく淫らで、それだけで吉継は達してしまいそうになる。
三成の長い指が、後孔の周囲をゆるりとほぐし、感じる処を探りあてては強く押す。思わず吉継が腰を浮かせると、三成はようやく吉継の股間から顔を上げて、「入れるぞ」と低く囁く。「はよう」とねだると、熱くて硬い三成の凶王が押し当てられ、吉継のすべてを味わい尽くすように、ゆっくり、ゆっくり、入っていく。一番イイところを突かれると、あられもない声が漏れてしまい、思わず身をすくめると、「甘い声だ。もっと聞かせてくれ」という、三成の興奮した掠れ声と共に、さらに奥まで尽かれて、わけがわからなくなってしまう。
隅々まで清められ、全て心地よく整えられてから三成の腕の中で眠る時、吉継は満ち足りた心地でいるが、この至れり尽くせりにかすかな違和感も感じるのであった。
《閨事に熱心なのは昔からだが……つまり、これは左近が原因か》
三成が朝早くに吉継の部屋に来るのは、左近が三成と共に出陣する日であることが多く、つまり三成は左近に見せつけるために、わざわざ吉継に触れにくるのである。今まで、少年同士がよくやるような軽いじゃれ合いさえ、昼間の三成はしなかったのだ。風紀が乱れるのを嫌うというのもあるだろうが、三成はとにかく邪魔が入るのが嫌なので、吉継と愛し合うのは集中できる、すっかり二人きりになれる宵のみにしたいのだろう。
だが。
《あえて見せつけるということは、左近をかなり意識している、ということよな》
三成に、具体的に左近をどうこうしようという気持ちはないだろう。求められれば左近はその身を開くだろうが、三成は権威を振りかざして目下の者を犯すようなことは大嫌いだし、左近が三成に「抱いてください」と懇願することも考えにくい。
それでも見せつける、ということは、左近の好意に三成が危機感を感じているということだ。つまり、三成は部下の中でも、とりわけ左近を好きで、やましい気持ちになりかねない、ということなのだ。無意識かもしれないが、ともかく警戒しているのだ。
《やれ、どうしたものか》
熱烈なところを見せつけて、割り込む隙などないと諦めさせる手は既にとっているわけで、何もないのに何かあるように咎めれば、かえって三成も左近も煽ってしまうことになる。どちらにもまだ、二心までは育っていないだろうに。
《むしろわれが、思いあまった左近に刺されたりせぬよう、すこし気をつけた方がよいのかもしれぬ》
三成が妬かない程度に、こちらが親身になってやるぐらいの方策しか思い浮かばない。
さりげなく話をきいてやるぐらいのことなら吉継もやぶさかでないのだが、左近は見た目は派手だしチャラチャラと軽いが、状況を見る目はある男だ。だからこそ三成の先陣がつとまるのであり、あまり馬鹿にしてかかるものではない。その行動も読みにくい。
とりあえずは、三成に兵法の基礎をさらってこいと命じられているようなので、多忙な半兵衛の代わりに定期的に講義をしてやることに決めた。吉継とて、むろん暇ではないのだが、部下の面倒を見るのも職務のうちであるわけで、理由はつく。
そんなわけで、決まった日に私室によび、明るいうちに問答形式で孫子を教えていたわけだが。
やはり、左近はこちらの思惑に気づいていた……!

*      *      *

吉継は静かな、諭すような声で、
「ぬしの一番の大博打は、三成を主君に選んだことよな」
「え、は、ハイ」
「まだ、後悔しておらぬか」
「何をですか」
「われは博打は好まぬゆえ、ぬしの気持ちが、今ひとつわからぬのよ。今日も賽子はもっておるのか」
「これっすか?」
左近が懐からとりだした賽子を、吉継は妖しの術で三つ、ふわりと宙に浮かべた。
床にストンと順番に落としてゆく。すべて赤い、一の目を上にして。
「ああー、さすが刑部さん!」
「見たであろ。どのような壺に投げ込まれようと、開ける時にわれの好みの目に変えられると来ては、博打など面白いわけもないのよ」
「そっすかね……あ」
左近が急に目が覚めたような顔をして、
「そういえば三成様も、それ、できますね」
「三成が?」
「はい。なんか、いちど賽子を触って重心を確かめれば、好きな目が出せるっていう話で。いいか、私のような不調法なものでもできる手技だぞ、鉄火場で、相手に壺をふらせる貴様の気持ちが理解できん、といわれました」
吉継は目を剥いた。たしかに手先の器用な男ではあるが、そこまでできるのか。
「俺だって、博打ってのは、その場の親分が儲けるもんだってことぐらいわかってるんすよ。ただでさえ、遊ぶにゃテラ銭払わなきゃいけないわけで、どれだけうまく賭けようと、こっちの分が悪いに決まってんです」
「わかっていて、それでもやめられぬか」
「俺には、三成様や刑部さんみたいな力はないんで」
左近はそこで、ニコリと笑った。
「どんな目が出るかわかんねーから、面白いんじゃないすか」
《なるほど》
なぜ三成が左近を好むのか、少しわかった気がした。
根拠のない自信。濁りのない笑顔。だからといって、ただ無邪気な若者なのではない。むしろその身の奥に、暗い何かを飼っている。捨て鉢な台詞はそこからくるのだ。
「三成は賽子と同じか」
「いや、あの、そういう意味じゃ」
「われなど、賭けようにも、こちらから選ぶことすらできなかったのだがな」
左近はふと、吉継の瞳をのぞき込むようにして、
「刑部さんって、ほんとにイイ人っすよね」
「やれ、世辞はよい」
「なんで三成様が、刑部さんのことが大好きなのか、わかります。だから、あの、あんまり、親切にしないでくださいよ」
吉継が首を傾げると、左近はふっと頬を赤らめて、
「余計なことまで、考えちゃうんで。もしかして、その……刑部さん、俺の事、少しはって……期待しろってことかなーって」
その瞬間、吉継はいささか引いた。
彼の頭の中を、ありとあらゆる返し言葉が駆け巡った。
《やれ、冗談にもほどがあろ。われがぬしを好いておるなどと》
《ぬし、いったいどこに目をつけておる。われは病の身よ》
《まさかそれを、三成にいってはいまいな? いや、それならとっくに、ぬしの首が飛んでおるか》
もちろん、口には出さなかった。
吉継は、ただ微笑んだ。
これが左近なりの抵抗、駆け引きらしい。
主君と何もないのに、疑われたら立つ瀬が無い、といいたいのだろう。
《虚実が得意な男の左に、虚実の巧みな男が来たか》
三成への思いはこらえているのだ、こちらから波風を立てる必要はないではないか。
ならばこちらも、その時々で、使い分けるとしよう。
ヒヒ、と小さく笑い声をあげて、
「ならば今後は、ぬしを、たっぷりこき使ってやるとしよ。覚悟しやれ?」

(2014.10脱稿)

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Written by Narihara Akira
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