『好奇の目』書評 in 『text jockey 2005』


●サークルからの紹介 by Narihara Akira

新進気鋭の作家・伊藤乃理依(のりえ)が、卑劣な脅迫者に誘拐された。失踪後、同僚や友人達は、乃理依が幾つもの顔を使い分けていたことに気づいて……。恋の苦しみと喜び、働く若い女性の葛藤を描いた、長編♀♀サスペンス。

●書評『好奇の目』 評者:白川拓人

まず前述の「サークルさんからの百文字紹介」について。本作は確かに、この紹介通りの話だと、言えることは言える。同時に、この紹介を信じてはいけない、とも言える。あなたが《この話はこういう話だ》《このキャラはこういう人だ》と断じた瞬間、理解しえたと思った物語は、するりとあなたの手からすべり落ち、霞のように消えてしまうだろうから。
文章は巧みだ。本作では視点が次々と変わり展開も相前後するが、計算された技法であるそれは、読者に混乱を与えない。登場人物も大勢出てくるのに、皆書き分けがしっかりしていて、それぞれ別の長編で主役をやれそうだ(欲を言えば、男性陣の造形にはやや不満が残る)。
物語は乃理依に関わりを持った人々の視点が、数ページごとに切り替わりながら進んでいく(彼女の作品も挿入される)。だが彼ら彼女らの目に映る乃理依は、本当にこれが同一人物かと疑いたくなる。
「虚構をこの身で生きながら、仕掛けをまいていきたい」と言った乃理依。他の登場人物たちはその「仕掛け」に、彼女が死んだ(とされた)後も踊らされていると言えよう。だが、乃理依の「仕掛け」が作用するのは『好奇の目』という物語の中だけであろうか?
小説の常として読者は、ある時は新聞配達のあゆみ、別の章では乃理依に嫉妬する遙香、恐喝犯・谷田などなど、その時の視点保持者の目線で物語を見ていくことだろう。だが登場人物と読者が、乃理依という人間を分かりかけてきた時に突然視点が替わり、また別の乃理依が姿を見せる。そのたび読者は、得ることができたと思った乃理依像を壊され、なんとも不安な気持ちになると思う。なぜ不安なのか。後書きで作者の「自分の立ち位置」の問題についての言及を読んで、多少合点がいった。
〈視点〉とは、小説において読者がよって立つ盤石な大地だ。神の視点であれ、読者は視点保持者が見たものしか見ることができない。だが、その〈視点〉が次々変わったら? しかも変わった後、それまで登場人物とともに信じていた世界が嘘っぱちだと思える展開になったら?
そんなことが延々と繰り返されたらどうなるか。めまぐるしく変わる〈視点〉と物語世界をぐるぐる回るうちに、読者は最初の「立ち位置」からはそれと知らず、ずれていってしまうことだろう。このずれて行く感覚こそ不安の正体なのだと思う。これも乃理依の「仕掛け」なのだろうか。
読者の「立ち位置」をずらす、あるいは揺るがすことこそ、この物語はもくろんでいるのかもしれない。そんなことをしてどうするのか。少なくとも、読者に不安を与えるのが主目的ではないだろう。「立ち位置」をずらされ揺るがされることで、かえって見落としていた何かを見出すことだってある。思い切ってこの不安に身を委ね何かを得てみるか、自分の「立ち位置」を守るかは、読者の選択次第だ。
それにしてもこの話、おもしろくて困る。衝撃的な冒頭で読者は一気に物語に引きずりこまれ、否応無しに乃理依に関心が向いてしまうことだろう。彼女はいったいどういう人間なのか、どうなってしまったのか、「私は体で小説を書いてきたのだから」と言った彼女は、本当は何がしたかったのか?
と、ここまで考えてふと思う。タイトルでもある「乃理依を切り裂き深い崖淵に追いつめ」た「巨大なプレッシャーである好奇の目」とは、誰の目のことを指すのか、と。
一見、それは世間の目と読める。確かに失踪後、マスコミが彼女を格好の餌食にしたさまが書かれてはいる。また乃理依が過去「好奇の目」によって、つらい目にあったかもしれないことも、想像に難くない。難くないことにうんざりする。現実に無責任で無自覚な「好奇の目」によって、追い詰められたことのないセクシャルマイノリティは少数派だろう。
しかし物語中では、乃理依をそこまで追い詰めたものがなんなのか明確には語られない。むしろ登場人物達が、友人としてライバルとして片思いの相手として、安否を気にするがゆえに、彼女に関心を寄せる様子が強調されている。これを「好奇の目」とは言えないと思う。
だとすれば「好奇の目」の持ち主は、読者自身とも考えられるのではないだろうか。彼女の〈謎〉に魅了され、いつか〈乃理依の真実〉が分かるに違いないと期待して頁をめくっていく行為、これを「好奇」と言うのではないか。物語はここでも読者の「立ち位置」を揺るがそうとする。乃理依とは何者か、と思って頁をめくっていたはずなのに、乃理依を追いかけるあなたこそ何者であるか、といつのまにか物語が問い返してくる。あなたこを多くの人々を追い詰めた「好奇の目」の無自覚な主体ではないかと。自分を除外して〈世間〉を批判するのは簡単だ。だが「好奇の目」は無自覚ゆえに性質が悪い。己もまぎれもなくマイノリティに対して残酷な〈世間〉を構成しているという自覚は、大事であろう。
物語は、あゆみが同性の恋人と姿を隠したところで唐突に終わる。「すでに噂がたちはじめていたので、好奇の目を逃れるためなのだろう」とあるが、私には近隣の人の目と言うより、読者の「好奇の目」から逃げた彼女らが、どこかでクスクス笑っているように思えてならない。
作者は、ジェンダーやマイノリティに関して確固たる考えを持っているらしい。直球勝負な作品も大好きだが、こういう計算され洗練された技法を使ってそれを表現できるのには、ひたすら感服する。しかし、作者はその技術を使って読者を翻弄したり告発したりするためにこれを書いたのでは、決してないだろう。むしろ作者は読者と何事かを共用しようと(告発は共有を求める一形態である)、その切なる呼びかけとして本作を書いたのではないかと、舌足らずな後書きを読んで思う。
〈乃理依の真実〉を探すこと。それは芥川の『藪の中』をミステリとして読み、証言の矛盾から〈事件の真相〉が分かりえると考えるのと同じ愚を犯す。〈真実〉は乃理依自身が見事な方法で読者から永久に遠ざけてしまったのだし、元々そんなものはどこにもなかったのかもしれない。しかし〈乃理依の真実〉は探せなくても、別のものを探すことはできる。ただ信じて前進した、あゆみのように。本作はあなたを惑わし、身をかわしながら、あなたを求めているのだから。あざむくためでなく、伝えるために。
最後に。断言するな、といいながら断言が入った書評になってしまった。読者諸氏にはこの評のことは気にせず、自由に本作を読んでいただければ幸いである。


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