『金属臭』

夜。鉄格子をへだてて、見つめあう二人の男。

格子の中の男。これは老人。薄い骨相に無数のひび模様の入った肌をようやく張りつけたような削げた頬。少ない灰白の髪を後ろへ流して清く丁寧にとかしつけ。とにかくギリギリに痩せているので、毛布を肩からかけ、一人大人しく座り込んでいる姿は、学究の徒とみまごうか、聖人さながら。

格子の外の男。これは壮年の男。重くたるんだ目蓋の下に薄ら目をようやく覗かせている。闘犬の様に皺を折り畳んだ頬、むっつりと閉じられている端の引き下がった口唇。脂肪のついた丸い肩に厚い腹に、いかにも悪の親玉風な貫禄がある。

二人はただ黙って、じいっと見つめあっている。

格子の中の男は、死刑囚だ。この落ち着いた物腰や容貌からはずいぶん想像しにくいが、この男、腕っぷしが滅法強く、ヒステリィの気があって、些細な喧嘩で若い頃、三、四度、人を殺している。最初はそれでも故殺ではない、と無期懲役に納まった。彼の服役態度は良好で、老い先も短いことだし、と数年前に放免されたが、それがかえって仇になった。久しぶりの娑婆で激情の発作を起こした彼は、逃走中に続けてまた何人も無関係な人間を殺し、また、その犯行が残忍で利己的であったため、もう許されん、逆戻りだけではすまされないと、短い命を余計に縮められることになった。つまり、独房入りの上、死刑、である。

格子の外の男は、この監獄の長だ。憎々しい外見どおり、まっとうな青春は送ってこなかった。だが、その手腕で自分の過去をきれいさっぱりぬぐい消し、巧みに警察へもぐり込んだ。その強面の力を、荒くれ共の集まる最果の地で活かしてもらいたい、と先頃、この監獄にやってきた。
つまりは呈のいい流され人という訳だが、彼はそれに文句はいわず、むしろ黙々とそれらしく勤めていた。彼の職務は囚人の管理や半端な雑役がほとんどだが、明日には、このN国憲法と刑法に定められた、重大な任務が待っている。それは――死刑執行。

格子をへだてた二人の男は、殺される男と殺す男。単純に言えば、そういう関係にあるのだった。

……実の所、死刑執行は、現在のN国ではかなり少ない。理由はごく簡単なことで、戦後の混乱期や、学生騒乱の華やかなりし頃に比べて、凶悪犯罪の数がずっと減ったからである。その上、死刑はもう時代遅れだ、という考え方も現れた。だいたいE国やF国のような文明国は、すでに死刑を廃止している。死刑がなくなったからといって、それらの国で、極悪な犯罪が増加したという統計は全くない。死刑には犯罪の抑止力はない、それよりも犯人に更生と償いを充分にさせるべきである、というのが最近の学者達の意見なのである。
こういう世の中になると、死刑をどんどんとりおこなう訳にはいかない。執行を許可する大臣らも、積極的に執行命令を出す訳にはいかなくなる。もちろん、死刑が確定した囚人も、何年も執行を引き延ばされていれば、獄死してくれて面倒がはぶける。こうなると、死刑はいらない、終身刑で充分じゃないかという意見がもっともに思われてくる。
しかし、結局、N国は決定的に死刑を廃止はしなかった。
死刑というものは、玄妙で神秘的でロマンティックな刑罰だ。一方的な権威によって極秘に行われるこの刑罰の存在は、民草に国をうやまわせる。多くの国民も、恐ろしい犯罪者は死をもって罪をつぐなうべきだと思っている。執行の日も、その実態も、なお一層隠されながらなくならない、というのが、誰にとっても都合がよろしいのである。
そしてその、問題の死刑という奴が、明日、秘かにこの監獄で行われる。
なんとも珍しい事ながら、今晩はそういう夜であった。

二人の静視は続いている。

外の男は不意に狭い窓格子を掴み、額をすりつけんばかりにして強い視線を送りつける。内の男は身じろぎもせずに、それを受けとめては送り返す。

にらめっこだ。

突然、薄暗い廊下に、まぶしい光がさした。
「誰だ!」
高くとおる声が響く。
監獄長は、はっと手で顔を隠した。
懐中電灯が、監獄長を、罪人のように照らしつける。
「あ。……監獄長じゃありませんか」
近づいてきたのは、見回りの新人看守であった。
なぜ夏の短い僻地などにまわされてきたのか、と気の毒に思われるほど純朴な、いや、俗な世間から隔離されるほうが似合いなのかもしれない、下がり目の潤んだ大人しい若者である。
「いったい、どうなさったんですか、こんなところで」
そう問われて、監獄長は、一瞬うろたえた。
上げた腕をこわごわおろし、そしてはっと独房の中を振り返った。
囚人は、もう横たわっていた。向こうをむき、やすらかな寝息をたててさえいた。
「負けた……」
喉の奥で、監獄長は、ゴロゴロと低い声で呟いた。そしておもむろに向き直ると、
「なにもない」
と押さえつけるように言い、首を傾げる看守の背を押して、ようようその場を離れた。

ひとめぐりを終えた看守は、詰所へ戻って声をあげた。
「いったい、どうしたんだ?」
いや、どうしたというほどの異変はない。囚人達には異変はなかいし、防犯装置にも異常はない。だが、交替要員が詰めている筈の仮眠室に、誰も待っていないのだった。
夜は確かに警備を減らすが、一人もいなくなる事はない。陽気のいい時期であり、囚人達も落ち着いてはいるが、誰もいないのでは話にならない。突発事件が起きた時に、どう対応したらよいのか。
「……どうしたら、いいんだ」
しばらく、看守は悩んだ。
所長は、日常の業務雑務に大変厳しい男だ。もたもたした事を嫌う。小さな報告でも遅れれば、囚人以上に酷い目に遭わされる、というのがもっぱらの噂だ。いや、そんな噂がなくたって、ただいるだけでこわらしいあの所長に、逆らう度胸のある者はいなかった。
「とにかく、報告しよう」
悩んでいても仕方がない。叱られるのは同じだ。
悲壮な決意をした彼は、所長室に向かった。
暗く不気味な夜のざわめきが、廊下にこだましている。不安にかられて、早足で歩く。
見ると、所長室からは、ポウ、と灯りが洩れていた。どうやら所長は在室らしい。看守はノックを二つし、自分の姓名と役職名を名乗った。
「……入れ」
重い返事がかえってくる。
青年看守は、上目づかいで扉を開け、恐る恐る部屋に入った。監獄長は、観相をする行者のように、薄く瞳を閉じ、机に肘をついていた。
「御報告があります。本日の夜勤要員五名が、仮眠室におりません。本官は本日零時より準待機に入る予定でありましたが、引き継ぎができません。いかが致しますか!」
看守は、早口でそれだけ言い切った。怒鳴られるのを予期した子供のように、甲高くおびえた声だった。
だが、監獄長は瞳を閉じたまま、静かにこう答えた。
「そうだ。皆、帰した。……おまえも、もう帰れ」
「は?」
看守は耳を疑った。文字どおり目を丸くして尋ね返す。
「あの、それは、交替者がいないにも関わらず、本官は準待機に入ってもよい、という事でありますか」
「ああ。構わん。明日の朝九時に、戻ってくればいい」
監獄長は瞳を開かず、表情を少しも変えず、口唇だけを動かして答える。
「ですが、あの、それだと、所長お一人になりますが」
「おまえ一人くらいいても、大したことは出来ないだろう。それとも、房内で、手に負えないような病人、怪我人等の異変でもあったか?」
「いいえ。ありません、ですが……」
「皆、儂の権限で帰したんだ。心配するな。責任は、すべて儂がとる。さあ、帰れ」
しばらく、沈黙が流れた。
看守は、そこですぐに、所長室を出ていくべきだった。所長は彼の上司であり、逆らう事は許されない。まして、悪い意味で凄腕であると言われている、監獄長の命令である。
だが、青年看守は、いつまでもそこに立っていた。
身動きせず、黙ってその場に立っていた。
「……どうした?」
ようやく監獄長は目を開いた。
その視線の鋭さに、青年看守は目をそらしながら、
「……あのう、所長は、どうしてあの死刑囚に、そんなにこだわっていらっしゃるのですか」
「ナニ、ナンだとッッ!」
瞬間、激しい怒号が、部屋のガラスをビリビリと震わせた。ガタンと立ち上がった監獄長は、カッと目を見開いた怖ろしい形相で、青年看守に詰めよった。
「貴様、儂があの死刑囚を特別に扱ったとでもいうのか!」
「いえ、あの、そういう事ではないのですが……」
看守は、もう泣き声だった。監獄長のあまりの剣幕におびえて、目の淵に光るものを見せながら、あとじさって扉にへばりつき、後ろ手でノブを握ったまま、凍り付いてしまった。
監獄長は、憤然とその姿をにらみすえていたが、ふと、ガクンと肩を落とした。
再び自分の椅子に戻り、深々と沈みこむ。身振りで看守に、部屋の隅の椅子に座るように指示すると、腹の底に篭るような喉声で、ゆっくりと切り出した。
「おまえは、死刑というのが、なんだかわかるか」
死刑。
この若い看守、警察官の端くれゆえ、N国の死刑執行がどんな風に法律で決められているかを知っていた。前述の事情のみならず、具体的なイメージも持っていた。
刑務所の奥まった所に、執行用の部屋がある。
執行人は、黒い布袋をかぶせた死刑囚を、その部屋に押し込む。囚人が十三段の階段を上りきると、太いマニラロープをかけ、グイと金属の大きなレバーを引く。すると、囚人の足元はぱっくりと開き、そのままガクン、と首が吊れる――残虐な刑罰に当たらない、とされている、N国の死刑の一般的なやり方はこうである。
操り人形のように、囚人はブランとぶらさがる。そして、すぐには死なないのだ。体重で首の骨が外れ、首が伸びるし失禁もある。その形状の醜さと、悪臭を含む汚らしさ。事務的な冷酷さで、検察官が書類にしたためる。――執行後、一分半で死亡せし、と。いや、ロープのかけ方が悪くて、なかなか死にきらない奴もいるという。そういうのは、気の毒であるから、もう一度念を押して、強くひっぱる−−。
青年看守は、気味の悪い想像を振り払い、非常に模範的な解答をした。
「死刑は、国家の定めた量刑です。テロリストや謀殺による殺人、強盗殺人など、重い罪を犯し、情状酌量の余地のないものが受ける、刑罰です」
「確かに、そのとおりだ」
監獄長は、ふむ、とうなずいた。
「……だが、死刑も殺人だ。国家による殺人だ。おかげで、執行人は、したくもない殺人をさせられる。いささか迷惑な話だとは、思わないか?」
看守は首を傾げた。
「でもあの、執行は、所長が行われる訳では……」
刑を執行する者は、刑法では監獄の長だ。しかし、執行人は別にたてられるのが通例だ。
だが、監獄長は返事をしない。
逆に、質問を返してくる。
「おまえは、死刑には、どういう意味があると思う。国が勝手に判断して、人を殺すのは許されると思うか?」
「はあ……」
どうやら、試されているらしい。
青年看守は、必死になって、今まで学んできた学問を思いだした。そして、頼りない表情で、刑事訴訟法やら何やらで学んだ知識を並べ始める。
「……殺人などの凶悪な犯罪を犯したものは、残された遺族や社会からの報復を、通常受けるべきだと考えられます。ですが、私的な復讐では適切な罰になりませんし、仇討などはエスカレートする可能性があります。ですから、国家が、彼らに替わって処罰を下すのは、適切だと考えられます」
「なるほど。……復讐を代行するという訳か」
監獄長は、つたない暗唱をする可愛い学生を見るように目を細めた。
だが、さらに問いを継ぐ。
「だが、復讐というのは、なんだ。この現代に、仇というのはなんだ。例えばおまえは、血縁が一人でも殺されたら、いつまでも犯人を恨んでいるか? 恨んでいるからといって、殺したいか?」
復讐?
仇討?
青年看守は、一生懸命にイメージを膨らます。
とにかく、随分疲れそうな事だと思う。
なんにせよ、そういう恨みはあるだろう。とてつもなく気短な奴であれば、即座に自分でナイフをもって、相手の腕の中に飛び込み、ドンと刺し殺すかもしれない。
とてつもなく気長な奴であれば、関節が白くなるまで受話器を離さず、手が痺れるまで嘆願書を書き、司法権力の力を信じて、徹底的に正義を貫くかもしれない。
もう少し分別臭い輩は、先例を読み漁り、法の目をかいくぐり、正当な状況をつくって相手を陥れるかもしれない。いや、司法の刑罰など生温いと思う輩は、プロフェッショナルを雇うかもしれない。また、もう少し文学臭い連中は、行為も法も無駄である、あれも違うこれも詰まらないと難癖をつけ、作品に昇華して売りさばき、心の炎を浄化させるかもしれない。
だが、まてよ。
それらは、果して復讐か。
そこにあるものは、ただの犯罪だ。もしくは、単なる感傷だ。もしくは、目的をすり替えられた行動だ。
恨み、というのは、そういうものであっていいのか。
だいたい、ほとんどの被害者の遺族の本音は、そっとしておいてもらいたい、という事だ。悲嘆にくれた人間は、自らの手で恨みを晴らしたい、などとは考えない。司法が重罪とみなし、死刑にするというのなら、それでさっぱり忘れます、と記憶の彼方に埋めてしまうのが常である。
待て。
であるなら、いったい死刑は、誰のための報復なのか。
誰のために、殺すのか。
……よく、わかりません」
看守は、複雑な表情で答えた。
監獄長は、ふふんと笑ってうなずいた。
「なら、その言葉が、儂に似合うと思うか?」
と、重ねてきいた。
看守は自分の考えに憑かれ、そうとうぼんやりしていた。血の巡りの悪い頭をコツンとやりながら、
「あ、……復讐される方として、ですか?」
と、答えてしまった。監獄長の面構えと経歴は、相当の恨みを買っている筈、と無意識に考えたのだった。
監獄長は、ニヤリとして、もう一つうなずいた。
「そうだ。される方が似合う。するのは似合わん」
アッと叫んで、看守は椅子から立ち上がった。
「まさか!」
青ざめた顔で叫ぶ。
「あの死刑囚は、監獄長の肉親を殺してるんですね。仇なんですね!」
「ほう。……なかなか、察しがいい」
監獄長の頬に、不敵な笑みが広がった。
ならば、この人は完全に、合法で、仇が討てるのか。
看守はパニックに陥った。
馬鹿な。
そんな運命はありえない。偶然はありえない。法の手先でありながら、私的な仇討ができることはありえない。
いや、待て。
怖ろし気なこの人の事だ。すべて計算ずくで、計算どおりに、ここへ配置されてきたのかもしれない。もし肉親が殺されているのなら、誰かが気付き妨害した筈だが、よくよく調べ、コネをつけ、実力を使い、一生をかけて、自分なりの不毛な復讐方法を達成しようとしたかもしれない。
しかし、馬鹿な。
看守は首を振った。
この人が、そんな重度のロマンティストに見えるか。詰まらない感情の持ち主に見えるか。下らないインテリや知能犯に見えるか。これは、自分の勝手な妄想だ。そうに決まっている。いったい、俺は、何を考えているんだ。
看守は、はっと我に帰ると、すぐに直立不動の姿勢をとった。
「所長、只今の失言、誠に申し訳ありませんでした。誰も、そういう因果関係を調査せず、知らないで刑を執行させるなどという事はありえません。それなのに、本官は……」
監獄長は、片眉を上げ、皮肉めく微笑みを崩した。
「いや、おまえの推測は正しい。儂の過去は、きれいさっぱり、消してあるからな」
看守は、グッと詰まった。
監獄長は平然と、
「儂の実の父親をくだらない理由で殺したのは、確かに、あの男だった。おかげで儂は、性の悪い義理の父を持つ羽目になり、それは酷い目にあった。こんな、悪玉の様な面構えになったのも、全部あいつのせいだ」
監獄長は、多くを語らなかった。
だが、言葉の端々に真実らしい響きがあって、看守を心底え上がらせた。
「……だいたい、本当に刑を執行するべき人間は、恨みをはらしたい、関係者であるべきだ。なぜ、関係のない人間が、囚人を殺さねばならん? そちらの方が罪が深い、と、おまえは、思わんか。関係ない者を殺す事くらい、酷い罪はないだろう」
「所長……」
だが、まて。
おかしい。
今まで隠してきたのなら、何故。
「ですが、どうして所長は、今、本官に、その話をするのですか。執行前に事が露見したら、執行者が別の人間にされるかもしれないのに」
彼の臆病さと空想癖は、すぐにこの考えを浮かびあがらせた。
そうだ、これは全部所長の冗談なのだ、新人だと思って、自分をからかっているのだ、と考えようとした。
だが、監獄長は、意味ありげに微笑むと、ゆっくりと立ち上がった。看守の方にやってくると、その肩を叩いた。
「一つ、誰かに聞いてみたかったのだ……。死刑は報復の制度である筈なのに、実際は報復でない。だが、儂は、明日、法に乗っ取って、報復ができる。しかも、関係者をしめだして、一人きりでやれるんだから、少々行き過ぎた事をしても、誰にも文句は言えない。合法で、誰にもとがめられず報復できる人間は、今のこの国では、儂一人だ。そうだな?」
「は、……はい!」
肩を叩かれた緊張から、看守の声は再び上ずった。相手の気迫に、下手をすれば自分も一緒に殺されてしまうかもしれない、と本気で思った。
だが、監獄長の次の問いは、意外なものだった。
「だが、儂は、人間か?」
「は?」
「違法な事をやって刑罰を受けるのも面白くないと思って、儂は警察に入った。儂は、長い間、あいつを恨んでいたからな。あいつは長い間、儂の目的だった。そしてついに、合法で殺せる日がきた。だが、今日、あいつをにらんでみても、憎しみを覚えないのだ。復讐の炎を感じないのだ」
よかった。
看守はほっとした。所長は正気なんだ。
よかった。
だが、そう思った次の瞬間、所長の瞳がギラリと光った。
「……だから、今晩、あいつに、俺が仇討にきた事を告げた」
「えっ」
それでは、あの時、長年の恨みつらみをぶちまけて、死刑囚を震え上がらせていたのか。おびやかしていたのか。そのために皆を帰したのか。それを知って、果して自分は無事でいられるんだろうか。
看守の膝が、震えだした。震えを悟られないようにと歯を食いしばると、顎が震えだした。止まらない。
だが、監獄長は、そんな看守の表情にほとんど頓着せず、
「だが、あの男は、少しも、動じることがなかった。詫びる事もしなかった。……そうだった。罪を悔いないからこそ、自制できず罪を繰り返したからこそ、あの男の上に死刑が決まったのだ。あいつは、儂の恨みなど、蚊に刺された程にも感じない。だから、儂の仇討は、無意味になる。儂の恨みにおびえもせず、謝まろうともせず、ただ薄ら笑いをうかべている人間を殺したとしても、仇討にはならない。儂がずっとやってきた事は、全部無駄だったのだ。……だから、儂が明日やるのは、あくまで仕事だ。恨みも持てない仇なのに、許すこともできず、関係ないふりもできず、ただ、無慈悲に殺すのだ」
その時、監獄長の瞳が急に曇った。重い目蓋を伏せるようにして、こう呟いた。
「……だが、こういう儂は、本当に人間か?」
「え、え」
看守が答に詰まっていると、監獄長は、彼のをじいっとのぞき込んだ。
「戦争で、上官にやらされて人を殺した者でさえ、罪の意識にかられて苦しむものだ。意図せずに恐ろしい兵器を造りだしたものでさえ、いつまでも死者の亡霊に苦しむ。だが、自分で選んで人を殺そうとする儂は、罪悪感もなければ、相手を恨む心もない。まして、職務にも忠実でない。では、儂は、何のために、殺すのか。仕事であるから、よいのか。人間の心根を考えて、一番いい復讐の方法を選んだのに、いざ遂行という段になると、逆に一番人間らしくない、冷血な殺人のような気がするのだ。かえって、深い罪のような気がするのだ。……違うか、そうは思わんか?」
看守はギュッと目をつぶり、悲鳴じみた声をあげた。
「でも、明日の事は仕事です、職務です! 罪ではありません。何も考えず、遂行すべきです!」
一瞬、間があいた。
看守がおそるおそる目を開けると、監獄長は悲しげな顔をしていた。その声は、尚更低いものになった。
「……だが、儂は機械ではない。何も考えずにただ正確に職務を遂行するのなら、工場で働く機械人形共と、どう違う。それでも、儂は、人間なのか」
それはあまりに哀れな顔で、看守の胸はグッと詰まった。
「そうです。所長は人間です。間違いなく、人間です。人間ですよ!」
だが、監獄長は、静かに首を振った。
「違う。……明日、あいつを殺したら、儂は、もう、人間ではないのだ」
「所長、ですが」
いいかける看守の肩を、監獄長は掴んだ。そして、グルリと青年を扉の方に向けた。
「さあ、帰れ。……準待機があけるまで、決して戻ってくるんじゃない。いいな」
強い力で背中を押され、看守はそのまま、所長室を出た。
「所長……」
ドアの前で立ち尽くしていると、部屋の明りが消された。
どうやら、暗い中で、考え事をするらしい。
人間でいられる、最後の夜だ。
思う所はいろいろとあるだろう。
邪魔をしてはいけない。
看守は、足音を忍ばせて、その場を離れた。
歩き出すと間もなく、看守の頭の中には、あらゆる妄想が湧き出した。その中でも、明日の行われる事の想像が一番強くはびこって、彼の頭を一杯にした。
――監獄長は、明日の早朝、あの囚人を連れ出す。
検察官の傍らで、しつらえた絞首台の前で、あの人は薄い笑みを浮かべながら、受刑者に目隠しをするのだろう。手をひいて十三段の階段をのぼらせ、足を縛り、首に縄をかけ、そして、おもむろに、冷たく磨かれた鉄の輪をひっぱって、床を落とすのだ。数分後の後始末も、きちんとやってのけるのだ。
いったい、彼はその時、どんな心持ちになるだろう。
それは、受刑者の足元にぽっかりと開いた、暗い穴ぐらにも似た虚無ではないのか。人生をかけて、正当に復讐を果たしながら、憎しみを覚えないまま殺人を犯した、と自分を責めるのだ。一番人間らしくあろうとして、それさえも人間でない、と責めるのだ。
では、本当の人間らしさというのは何だ。
いったい、そんなものはありえるのか。
だが、監獄長のストイックな考え方は、すでに常人らしさを越えているような気がする。
ただ、憎い仇だと思って刑を執行するならそれでいいし、今更憎いとも思えないというなら、仕事として殺せばいい。何を考えてどうしようと、誰も彼をとがめることは出来ない筈だ。合法であるからこそ後ろめたく思うのであれば、非合法で殺しなさい、とすすめる事はできない。
だが、責められないような立場であることが、かえって人間らしくないというなら、どうすればいいのだ。
誰が、何を、できるのだ。
わからない。
俺には、わからない。――

いつの間にか、看守の目には涙が浮かんでいた。大きく目を開いてそれが落ちるのを堪えながら、彼は夜道を急ぎ、そして、闇に消えた……。

翌々日。
監獄長は、奇妙な事に気付いた。
洗っても、洗っても、手からおちない匂いがあるのだった。
それは、不思議な事に、日常の雑務の匂いでなく、また、死人の血や汚物の匂いでなく、金属臭なのである。例えばそれは、闇夜につかんだ鉄格子の匂いや、絞首台の引き輪のような、鉄の匂いを思わせた。
だが、それも違う。
彼は、柔らかい手をよく拭いて、再度鼻の前に近づけてみた。
そして、眉間に皺を寄せると、
「ふん、人間でないものには、これが似合いか」
と、呟いた。

(1987.10脱稿/初出・AOYAMA MYSTERY CLUB『A.M.MONTHLY; No.112』1987.10)

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copyright 1998
Narihara Akira
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