『渇 き』


なにより難しいのは「二度目」だ。
なにせ同僚、その場の勢いで一晩ぐらい、は、ままあるだろう。一度なら「思い出」で片づけることができる。人によっては忘れてしまえるだろう。「女同士のことよ、害もないわ」とうそぶいて。だから二度目が難しい。「一度寝たぐらいでイイ気にならないで」と横っ面をはられるのは男だけではない。
そんなことを考える来栖美砂の横で、有理は青い蓋のクリームを小指にとり、ふっくらとした口唇をすりこんでゆく。
タイピングの手を休めずに、美砂は有理を盗み見る。どうして彼女は仕事中に、唇を湿らせたりするのだろう。人前でそんな艶消しな。有理のような美人なら、なおさらだ。
食事や会話の途中にしょっちゅうクリームを塗り直す女たちを、昔から美砂は不思議に思っていた。あれは何のつもりだろう、口紅と同じで手洗いに立つべきだ、と。どんなに荒れていても、美砂は寝る前に手入れするだけだ。
後ろに流れる髪をさっと縛りなおし、有理は再びパソコンのキーボードを叩き始めた。そう、その髪も気になる。髪の長い人が好き、と口走ったことはあるが、あくまで一般的なことで、有理にのばして欲しいとはいってない。そんな恋人気取りの台詞は。
ああ。
つまり、難しくないってこと?
本当に?

残業後のロッカールームで、有理はまたクリームを塗っている。丸く磨かれた爪が、薄闇に光る。
「また、そんな目で見る。かわかないんですか、美砂さんは」
こちらも見ずに呟いた。
「水をやらないと、人と人との間って、渇いちゃうんですよ」
怒った声。赤い頬。
「こんなことまで言わせないでください。それとも、わざと? 美砂さんは慣れてるかもしれないけど、私は……」
あまりに間近に迫ったので、匂いのないはずのクリームの香りを、美砂は嗅いだ。
「ごめんなさい。忘れてた、そういう気持ち。そばにいるだけで、心が潤うから」
「嘘つき」
胸を叩かれて美砂は気づいた。二度目は難しい、と自分に言い訳をしていた理由を。
怖れていたのだ。もっと長い渇きが始まることを。
だが、渇いているのが、自分だけで、ないのなら。
若い恋人を抱きしめながら、美砂は低く囁いた。
「……わかった。濡らしてあげる」

(2005.7脱稿、単行本『好奇の目』付録書き下ろし)

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Narihara Akira
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