『春の蟹』

……なに、どうしたの。
今? いいわよ。もうあっちは寝ちゃったみたいだし、部屋に戻るから。みんな顔真っ赤よ。ろれつ回らなくて、あげくの果てにすっかり黙っちゃうぐらい。もう私もいいかげん酔っぱらっちゃってるから、ものすごく眠くって。え、やっぱり相変わらずザルなんだねって、何よそれ、余計なお世話。
で、話ってなんなの? ワンタンの賞味期限が切れてた? くだらないこと携帯にかけてこないでよ、大丈夫よ、いちんち二日ぐらい。まだ三月なんだし、冷蔵庫の中のものなんかそう簡単に傷みゃしないって。そりゃ最近の食品ラベルは信用ならないって言われるかもしれないけど、そんなこと気にしてたらなんも食べられないって。っていうか、普段から料理してたらもっと早く気づくでしょ、姉にばっかり頼ってるからそういうことになるの。気休めにお酢足した? そんなんでおいしいの? 中華っぽい? あんた意外にアバウトね。で、あと、家で何か変わったことは? ない? ちゃんと留守番できてる? よろしい。って成人女性に言う台詞じゃないんだけどコレ。わかってる?
こっちはどうかって? そうね、思ったほど暖かくないわね。もちろん寒くはないけど。食事?それがね、社長、何を勘違いしたのか、カニ三昧なのよ。唐木くんはよくやってくれたから、これは私からのご褒美だって……そりゃ私も水産加工業界の人間だし、魚介類が好きとはいつも言ってるけど、私、カニだけはどうもね。ほら、家族で北海道旅行に行った時のこと覚えてる? 話がしつこい? 酔っぱらいでワルござんしたね。あの時に一生分のカニは食べたわよね。三食カニに飽き飽きして、旅の途中から「これはエビなんだ」って自分に言い聞かせて食べてたら、ツアーガイドのお兄さんが親切に全部の料理説明してくれてさ。だからいいってのに。私はエビの方が好きなんですって言ってるじゃないね。世界で一番美味しい食べ物は伊勢エビの味噌汁だっての。
あ、またグルメぶってとか言わないでよ、だって前の会社の頃は、まだバブル期のしっぽの時期だから、そういう処も気軽に連れてってもらえたんだもん。だけど今の会社じゃね。社員旅行なんてどうでもいいから、基本給をもすこし何とかしてくれってのよ。え、今でもカニが食べられるかどうか? なにいってんのよ、そりゃ全然食べられないってことはないわよ、やっぱりカニはボイルしてマヨネーズが一番よね、子供の頃は正月のご馳走で、親戚一同で食べるのが楽しかったっけね。カニカマも好き、自分がカマボコ屋だから言うんじゃないわよ。え、刺身? 刺身はもういい、前に一度レモンしょうゆで試したことあるけど、あれは単に水っぽいだけだから。
ねえアレよね、カニってそんなにご馳走でもないわよね、カニの旬て秋から冬でしょ、春先から夏は安くなる訳でしょ。そこらへんもウチのしみったれ社長らしいっていうか、なんていうか。いや、高いもの食わせてくれりゃいいって言ってるんじゃないの、でもね、あの人のセンスほんと疑うわよ、今回の旅行はカニ三昧なだけにカニバリズム〜、なんてお寒いギャグ、今どき他に誰が言うかっての。しかもその後、水族館で「春の蟹、ひねもすのたり、のたりかな」なんて得意げに言ったかと思うと、飾ってあった平家ガニの剥製の下で、「人間はカニを食うが、カニも人間を食うんだよなあ」っていかにも深刻そうにしてるんだから。そりゃ、平家ガニの甲羅は人間の顔に見えるわよ、私も最初に実物みた時はびっくりしたけどね。壇ノ浦で平家が滅亡した後、海辺にあのカニがうようよ現れたら、見た人はいい気持ちがしなかったでしょうよ。実際その時のカニは人間食べたかもしれないしね。でもカニは人間襲わないんだから、圧倒的に人間の方が残酷で圧倒的な量のカニ食ってるに決まってるじゃないのさ。何いってるんだかって。
え?
なによ。悪口は愛情の裏返しって。
なんでそんなこと言い出すの?
う。
なんで知ってんの。
会社から電話あったの? ああ、それで。
まあバレちゃ仕方がない、そうですよ、二人っきりで来てますよ。社員旅行っていっても、私と社長の二人きりの旅行ですよ。って別にいいじゃないのよ、社長は今はとりあえず独身だし、私だって特定の相手いないんだから、そういう展開になったとしても文句言われる筋合いはないと思うけど。
え?
保険?
そりゃ入ってるわよ。なによ、例のカレー事件思い出してるの、そりゃ確かに生命保険には入ってるわよ。私が死んだら五千万ぐらいは会社にも入るんじゃないの、それが人一人の命の値段の相場なんだし。でもだからって、社長が私を毒殺するなんて……いくら会社が左前でも、食品会社が食べ物に毒を入れたらおしまいよ。それこそものすごいイメージダウン、それ以降は営業どころじゃなくなっちゃうわよ。食中毒なんか当然駄目。*印なんか、あの事件のあと、少しでも持ったのは奇跡みたいなもんだって。
え、出先でのカニなら関係ない? そりゃまあ、カニにも食中毒はあるだろうけど……そういや昔の小説に、青いラベルの高級カニ缶の話があったっけな……国を追放されたマッドサイエンティストが、復讐のために南極に行って、そこのカニを加熱しないでそのまま缶詰にして、故郷へ送りつけて大規模な食中毒事件を起こしたって話……作者わすれちゃった、誰だったっけ。あれは新鮮そうでちょっと食べてみたいなって思ったけど。って違うって、出先で不自然じゃない方法で殺したいなら、カニに自然に発生する細菌使わなきゃ意味ないじゃないのよ。そんな話、最近あった? ってこれは別にダシャレじゃないわよ。
え。
なに、実はって。
今からが本題?
なによ、もったいぶって。そんなに話ひっぱって、結局なんだっていうの?
新種?
今TVでやってる?
嘘。カニにだけ発生する菌で、猛毒?
わかってるだけで死者数名?
ちょっとまって。気分悪くなってきた。待って、たった今発表されたの? じゃあ何、私、保険金目当てに社長に殺されそうになってるってこと?
待ってよ。
そんな最新の菌、どうやって手に入れるのよ。そりゃうちでも研究みたいなことはやってるけど、そんなもの……でも、あれだけカニがあったら、どれかには仕込めるか。二番煎じギャグが平気な短絡社長なら、やりかねないこともないか。
でもそれ猛毒なんでしょ。食べたらすぐに毒素出るタイプ? そしたらすぐ吐いたら間に合わない? 間に合わないの? いったん消化されたら簡単に毒素を除去できない、治療法がまだ見つかってないって……ってそりゃカニは消化がいいけど、でも待って、それでどういう症状が出る訳? 待って、私も部屋のTVつけるから。って、食後五、六時間で舌が回らなくなる、ちゃんと前に歩けなくなる、それから昏睡状態になる、顔が真っ赤になって口から泡を吹く……って冗談でしょ。いくらカニだからって、そんな。
待って。
ちょっと整理させて。酔っぱらってるから思考が……えーと今、昼の食事から、六時間以上たってる。昼も私たち、カニを食べました。お刺身もありました。私は食べなかったけど。
もし昼のカニに仕込まれてたんなら、私は無事よね。しゃべれるし、酔っぱらってるけど歩けるし、眠いけどなんとか起きてるし。
うん。
あのね、ちょっと話きっていい?
気になることがあるから、今、ちょっとだけ座敷に戻ってみるから。

……社長?

ごめん、いったん電話切る。
手遅れだとは思うけど、一応救急車呼んでみるから。
明日? 明日も帰りは遅くなると思う。私も検査うけることになるだろうし。母さん達には適当に説明しといて。
じゃ。

(2002.3脱稿/初出・『JUICY Extra』2002.5発行〜テーマ:蟹〜)

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Narihara Akira
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