▲海外作家論

「カースン・マッカラーズ――片恋のユートピア」

マッカラーズのような小説が、書きたかった。
そう。
ずっと、彼女のように書きたかったのだ。
彼女の書くような、寂しく、暖かく、美しい寓話。
無垢のものへの憧れや、孤独の甘い苦しみ。
人の心の秘密をひそやかに扱うような、優れた探偵小説にも似た、ささやかなコント。
そういうものが、書きたかった。

いろんな作家に影響されてきたけれど。
彼女は違う。
彼女は、もう一人の私。
私の中に長い間潜んでいた、私の影。
長い間の親友のように、私の心を知っている人。

だってほら、呼吸が近い。
彼女の小説を、自分の日本語に直してみて気づく。
この人と私は、こんなに近い、と。
形容詞の選び方、句読点のうち方、文章のたたみかけ方。
その息遣いが、わかる。
私の吐息と、重なる。

それは、たぶん錯覚なのだろうけど。
アメリカ南部の人々の悲しみを、私が知りえる訳もなく。

彼女について語るのは、難しい。
けして、大作家とはいえないのだろう。
文章は詩的でシンプル。
かつイメージを豊かに喚起して美しい。
が、もっときらきらしく優れた文体の作家は沢山いる。つたない部分や幼い部分もある、と思う日もある。
だが、彼女は、スザンヌ・ヴェガの歌のように、私の心に、そして多くの人の心に、しっかりとすみついてしまっている。

若い日に、彼女を読む作家は多い。
うん、とうなずく。
この奇形で、かつ清潔なぬくもりのある世界。
余計な言葉のいらない、片恋のユートピア。
これは青年期の人間の、一つの、理想の世界だ。

そう、こんな風にいたずらな形容を並べても、彼女を紹介したことにはならない。
それより、彼女の作品について語ろう。
私の好きな作品について語ろう。
長編から一つ、中編から一つ、そして、短編から一つ。
(短編一つは、訳出した。間違いもあるかと思うが、参照 されたい)
そうしたら、私の気持ちがわかってもらえるだろう……。

最初は長編。
“The Heart Is a Lonely Hunter”から。
『心は孤独な狩人』。
これが彼女が二十三才の時に出版した、処女作。
すでにしてスタイルを確立した彼女の。
その生涯のテーマが、すでにタイトルに描かれている。
人間の孤独、そして、その孤独の向かう所とその姿。
これが、マッカラーズの世界だ。

最初に読んだ時、ああ、と思った。
なんと過不足のない物語だろう、と。
私の欲しかった物語を、この人は知っている、と。

当時の私は、偶像崇拝をテーマにしていた。一方的な傾心の世界を、追及していた。
その世界を、彼女は、気負いもてらいも見られない、実にさらりとした様子で、見事に描きだしていた。その始まりは、よくできた昔話に似ていた。

昔々、その町には二人の唖者が住んでいた。二人はギリシア人で、一緒に暮らしていた。太った方を、アントナポーロス、痩せて背の高い方を、ジョン・シンガーといった。アントナポーロスは食料品店で働き、ジョン・シンガーは銀細工をして暮らしていた。二人は連れだってでかけた。ジョンは親友を愛していた。しかしアントナポーロスは、何も考えていない様子だった。ある日アントナポーロスは、異常な盗癖のせいで精神病院に入れられてしまう。一人になってしまったジョンは、別の下宿をさがし、移り住んだ。……

その後を非常に大まかに話すと、こうなる。

ジョン・シンガーは口がきけないので、たずねてくる人の話を黙って聞く。ときどき銀の鉛筆をとりだして、答を書いてやることもある。人々は、ジョンが神様のように自分を理解してくれる人だと思い込んでしまうが、彼が考えているのは、病院にいる友達のことだけだ。
だから、友達が死んでしまった日、彼は自殺する。
町の人は驚き、彼の葬式に大勢より集う。
そして、自分達の生きている意味について、考え始める。

筋だけを取り出してみれば、別になんということのない話かもしれない。こういうことに興味のない人間には、なにを描いた話かさえわからないかもしれない。
けれど。
この感情を知っている人間がこの本に当たれば、南部の田舎町に住む孤独な人々のそれぞれのエピソードを、自分のものとして、自分を癒すものとして、読むことができる筈だ。
そう。
余計な言葉はいらない。
物足りないくらいに、完成された一つの世界だ。
ただ目を閉じて、美しい、と思えばいい。

次に中編。
“Reflections In A Golden Eye”。
『きんいろの瞳にうつるもの』。

卒論の相談に言ったとき、吉田先生はとっさに口走った。
「いやだー、あんな気味の悪い話」
そういって、身震いをしたっけ。

そうかなあ。
「悲しい酒場の歌」より、よっぽどあったかい話だと思う。おなじグロテスクな話でも、わかりやすいし。性倒錯が描かれているとはいうものの、ネクロフィリア的なシーンがあるというものの、展開はものすごく自然に思われるのに。

駐屯地で、けだるく過ごしている軍人達。
エリート将校であるペンダートン氏は、ひそかな悩みがいろいろとあった。そのうちの一つは、自分が性倒錯なのでは、ということ。どうしても、白痴にしか思えない部下のウィリアムズの、奔放で天真爛漫な様子にひかれてしまう。そのきんいろの瞳に、どうしようもなくひかれてしまう。ウィリアムズは、何も知らない子供のような無邪気な生活を続けるが、ある日、憧れの女性を見つけた。それは、ペンダートン氏の妻、レオノラ。駐留地の停滞生活の中でも屈託ない大人の女。ウィリアムズは、毎晩レオノラの部屋まで外からよじのぼってきて、ベッドの傍らで彼女の寝顔を見、それで満足して帰る生活を続ける。
ある夜、悩み深いペンダートン氏がドアを開けると、そこに部下と妻を見つけてしまった。彼はその時、思わず部下を撃ち殺してしまうのだった……。

やっぱり気味が悪いだろうか。変態な話だろうか。
私はこの話を人にする時、この話のどこが良いかと尋ねられたら、こう答える。
「あなたがペンダートン氏だったら、やっぱりウィリアムズを撃ち殺すでしょう?」と。
私はきっと撃ち殺すと思う。
やっぱり、殺しちゃうさ。
殺すさ。

そう、きっと私も変質者なのだ。
目に浮かぶもの。
森深く柔らかい日差しの中、愛する男が美しい身体をみせて裸馬を乗り回す様子を見て、どうしようもなく震えるペンダートン氏の苦悩も、月光に照らされて昏々と眠る寂しい女性の横顔を見守って、そっとため息をつくウィリアムズの奇行も。
わかるもの。
人々の心には、確かにこういう湿った種類の秘密が隠されているって、思うもの。

この間、本屋で文庫本になってるのを見つけて、買ってしまった。
でも、読んでない。
批評家達は、「奇形な人々を描いて人間の孤独を描く、作者の暖かい目」なんて、いつもいうから。
奇形なのは彼らではなく、私達なのに。
それを教えてくれる彼女の目こそが、きんいろにひかって不気味なのに。

最後に私の愛惜する短編。
“A Tree, A Rock, A Cloud”。
『木、石、雲』。

先に私のつたない試訳を読んで下さい。
これは彼女の代表作で、訳も複数あるんだけれど、無知からくる誤訳も恐れず、あえて日本語になおしてみたので。

妹はこの作品を、「宗教」だといった。「木、石、雲」の教えだよ、と。
そう、そのとおり。
巡礼、といった安直な言葉を使わずに、恋の宗教性を描いた好短編。
最後の少年の台詞が、とても好き。
おじいさんの台詞も、レオの台詞も。

そんな風に。
マッカラーズという人は、いつも一方通行な思いを書いた。
彼女の作品の物思いは、答がかえってくることがない。
いつも、いつも。
神への崇拝のような、けしてかなわぬ片恋ばかりが、描かれる。
よくあることなのかもしれないが、こだまは決してかえらない。
そういう話を書く。

でも、別にそれは空しいことではなくて。
そんな思いを持っているからこそ、生きている人がいると、彼女は書く。
その思いを失っても、なんとか生きていかれるけれど、と彼女は書く。

彼女が実生活でも甘えているのであったら(またヴァージニア・ウルフのように弱かったのなら)、私も彼女を青年期の夢を描く永遠の少女だと片付けたかもしれない。また、他人にそんな風に片付けられても、一言もないかもしれない。
でも、彼女は違う。若くして結婚し、酒のみで浮気な夫を抱えて苦悩し、進行性の障害に、ほとんど動かない身体に鞭打って、繊細な作品を描き続けた。

では、現実が辛かったからこそ、彼女の理想世界は、美しいのか。

違うさ。
彼女の心が美しかったんだ。
と、私は思うんだ。……よ。

付記

『孤独な狩人』の題名でマッカラーズの伝記の翻訳が出ました。で、読んでみたら新たな事実がいろいろ判明して、何度もひっくり返る羽目に。まあ伝記なので、事実とは違うかもしれないし――と思いつつ、彼女に対するイメージはかなり変わりました。もちろん今でもマッカラーズが好きです。その作品を愛しています。(1998.12)

(1992.6脱稿/初出・Narihara Akira編『のんしゃらんと第3号』1992.6)

「ヴァージニア・ウルフ、について」

V・ウルフは、私の憧れの作家である。その作品、その信念、その生涯、すべてが私の憧れだ。
フェミニストであり、進歩的であり、生涯たゆまぬ努力を続けた陽気で美しい人。私達の上に無数にふりそそぐ、きらめく印象の粒子を、彼女は美しくも抑えた筆致で見事に描き出す。
文化の香り高い家に生まれ育ち、学校教育は受けぬまでも深い教養を身につけ、文学上の仲間を多く持ち、今世紀初頭の英国文学史に、特異な存在として燦然と輝いている。
実はその作品は物凄く難しくて、『波』なんか日本語にしてもすごく美しくて、ため息がでるくらいなんだけど、なにが描いてあるか、っていわれると、困ってしまうほどだ。私のおすすめは『ダロウェイ夫人』だ。わかりやすい上に、彼女の作品の特徴「意識の流れ手法」を充分に味わえる作品であるから。私はこれが、大好きだ。すぐれて美しい一日のスケッチだ。

実はウルフに憧れる理由で、非常に俗なものもある。
それは、夫レナードの存在である。
精神的疾患をもったヴァージニアは、父亡き後の一生の半分を、彼の保護のもとで過ごした。
レナードは彼女のために印刷機を買い、二人でおままごとのような出版社を始めた。
ところが、その出版社は、ヴァージニアの小説は、成功したのだ。売れたのだ。
おとぎ話のようなそのエピソードを、私はこよなく愛している。
レナードのような旦那が欲しい。
ヴァージニアの才能は望みうるもないが、私は書き続けたい。
理解あるパトロンが欲しい、というのは、まったく偽らざる気持ちなのである。
創作家は、誰でもそう思うのかもしれないが。

(1993.6脱稿/初出・Narihara Akira編『のんしゃらんと第7号』1993.6)

「T・カポーティの思い出」

『のんしゃらんと』の読者の中には、私よりもはるかにカポーティを読み込んでいる人がいて、その作品を珠玉のように大切に想っている人もいるので、「私をさしおいて何を書く」と怒られてしまうかもしれないが、早いもの勝ち、という言葉もあるし、ほんの少しのページの事なので、勘弁してもらおうと思う。

私がカポーティの名を知ったのは、高校生の頃、『名探偵登場』という映画だった。ニール・サイモンの原作を読んだばかりで、その予備知識をもって、TVオンエアを見たのだ。この話、古今東西の探偵が一つの屋敷に集合し、そのまま怪事件に巻き込まれていくというドタバタパロディ物で、辛目の皮肉がきいている以外はさして面白い映画でもないが、最後に、悪役として登場する不気味なおじさんは、ちょっと印象に残った。
悪ガキみたいな細い目を鋭くひからせて、マフィアの様に恰幅のいい身体をのっそりと動かして現れた、白銀のオーラを漂わせる異形の男。
「ふうん、あれが、トルーマン・カポーティという人か」
その時、私の頭の中に、カポーティの項が出来た。
《T・カポーティ。/『ティファニーで朝食を』や『冷血』などの作品を持つ作家。エピソードや噂の類も多い奇人らしいが、その正体は、やっぱり変なおじさん》

次にカポーティに出くわしたのは、大学に入った時だった。一年の英語購読のテキストの一冊が、カポーティの短編を三つ納めた本だった。デビュー作「ミリアム」、それから「首のない鷹」と「夜の木」が入っていた。
「なんだ、カポーティって結構面白いんじゃないか……」
そこは、ギラギラと輝く形容詞と副詞が、蔦のように複雑に絡みあって織りなされた、全く未知の邦だった。だが、その異様な魅力に満ちた世界は、どこか懐かしいワンダランドでもあった。孤独な人々がひきずる黄昏の長い影は奇妙な詩美を含み、おいでおいで、と私をさし招いた……。

いま思うと、よい出会い方をしたと思う。英語購読の教授、下河辺先生があの本を選ばなかったら、もしくは、別の先生の授業で読んだなら、カポーティの印象は全然違っていた筈だ。そう思えるくらい、面白い授業だったのだ。
先生は、最初にこう前置きしてから解釈を始めた。
「本当は、新入生の購読には、古典とかやさしい本の方がよかったかもしれないけど、たまにはね、こういう変わり種もいいかと思ってね……」
さて。
ここで、ちょっと、想像してもらいたい。
高校・大学と青山学院で過ごしたという、お嬢さん的品格のある聡明な若い女性教授が、教卓の脇に椅子を出して座り、少し身をかがめ、声をひそめて、学生達の前で世にも恐ろしい怪談を語りはじめる姿を、である。
「ね。……ちょっとおかしいでしょう。つじつまがあわなくなってくるわよね。たぶん、このおばあさんには、幻が見えはじめてるんじゃないかしら。いいえ、おじいさんに跡をつけられているのは、本当かもしれない。……でも、おかしな事が起こり始めたのは、この少女が現れてからの事よね?」
そう言って、先生はほんのりと笑う。
その口調はゆっくりで、おしつけがましくなる前にすうっとひいてしまうのだが、かえってそれが、恐怖をそそる。
この先生の強力な暗示により、辞書を何度もめくって、ようやく文意を読み取れるような複雑な英文の中から、亡霊がふらりと、いくたりも立ち上がるのだ。

私達のクラスは学部柄、ほとんど女の子ばかりなので、その暗示が強い時には、いきなり悲鳴があがったりする。
「キャア!」
「どうしたの?」
「先生、このおばあさんのイニシャル、M・Mの筈なのに、こっちではH・Tになってます! いつの間にか、名前が変わってます!」
「イヤア、ほんと! 怖い」
「あ、本当だ。どうして、どうして?」
そんな些細な事で、一瞬教室はパニックになる。
異様な雰囲気にのまれて、恐怖感が増す。
先生はだが、あえて答を言わない。誰かが、「ねえ、このH・Tっていうのは、おばあさんの夫の名字なんじゃないの」と、気付いて言い出すまでは。
ようやくほっとした空気が流れ、また、授業が再開する、といった調子だ。
そんな異様な雰囲気の中、下河辺先生は、さらにそれをあおるような爆弾的質問を投げてくる。
「今、訳してくれたところだけれど、いきなり出てきた、彼女っていう言葉は、いったい誰のことをさすのかしら」
皆、返事につまる。
文章が難しいばかりか、翻訳を見つけるのも難しいような小説で、しかも、翻訳を読んでもよくわからないような話なのである。一年生に、簡単に答などでる訳がない。つまりは教授先生のよくやる意地悪な質問の一種なのだが、下河辺先生の場合は、次にこう続けてくる。
「そうね。よくわからないというのが正しいかもしれないわね。彼女というのが、今、彼の後ろを歩いている少女の事なんだとすると、彼は彼女と知り合いってことになるわね。映画が好きだって事を知ってるんだから。それともこれは単なる回想で、別の人の事をさしているのかしら。それとも……」
そう言って、先生はうっすら笑う。
「続きを最後まで読んでも、この彼女の正体はわからないかもしれないわね。……カポーティだし」
こわい。
こわいよ。
こわいよう!
こう書くと、こわかったのが小説だったのか先生だったのか全然わからないが、やはり、小説がこわいのである。

私は、三編の内、「首のない鷹」が一番気に入っていて、教科書を大切にとっておいて、時々抜き書きまでしていた。ラストシーンのイメージが大好きで、なんて美しいんだろう、とうっとりしていた。ある意味、名作『テイファニーで朝食を』の原型ともいうべき、冷たいユーモアもある。
ところが、大学四年の時の我が家の建て替えの時、その教科書をなくしてしまった。探しても探しても見つからない。仕方なく、去年の冬、紀ノ国屋で、カポーティの短編の納められたペーパーバックを買った。教科書でないから訳注がついていない。十年前の記憶と辞書だけを武器に、びっしり十九ページもあるこの小説を、訳し始めた。
ワクワクした。
本当に、ワクワクした。
カポーティは、文章の構造に妙な癖があって、決してそのまま日本語には納まらない。それを、いかに、手持ちの乏しいテクニックでねじふせていくか。カポーティの翻訳には、そういう、挑戦の要素がある。燦めく単語の海を泳ぎながら、青いゴーグル越しに適切な日本語を探す。原文の妙な部分を、どこまで表現するか。どこまで、自分らしい翻訳にできるか。どこまで、わかりやすくできるものか、と。
いや、きれいごとは言うまい。そこには、もっと生理的な喜びがあるのだ。彼の世界にイマジネーションをとばし、それにどっぷりとつかると、夢のような心地良さに溺れ、そのままズブズブと沈んでいってしまう。その底には、海難で死んだ人々がいて、「やあ、君もきたのか」と溶けかけた頬を緩める。
だが、その気味の悪い情景に、私は深い安らぎを憶える。
それは、なかなか癒えない傷口を、ぬるま湯で洗い続けているような快感である。湯の温度に慣れて、傷もきれいになり、ほとんど痛みも感じなくなっているのだが、それでもいつまでも湯をかけつづけていたいような、病的な喜びである。
事実、下訳が大詰めに入った最後の三日間、私はほとんど恍惚としていた。「ヴィンセント、好きだあ」「D.J.いいなあ」と登場人物の名を何度も叫んでは、家族に嫌な顔をされた。勢い余って話の筋やディテイルを話すと、もっと嫌がられる。それでも、私は、「首のない鷹」について、語り続けたのである。
まさしく、狂っている、という感じだ。

「首のない鷹」は、現在の(「のんしゃらんと」でやっている)連載終了後に、私のつたない翻訳を載せるつもりでいるので、それを読んでいただけると有難いのだが、簡単に説明すると、ある男が、ある少女と出会ったせいで、自分の中の欺瞞や狂気性、真実の自分の姿に気付く、という物語である。
その筋は、別に珍しいものではない。怪談仕立てにしたのがミソだが、それもまあ、平凡なテクニックだ。
ただ、カポーティの小説が怖いのは、また、私がとても好きなのは、次の論理に貫かれている事による。

《人間は、運命のように、必ず、自分の真実に出会う。自分によく似た存在や、自分を鏡のように映し出す出来事にでくわす。だが、自分の真実の姿に向かい合う事は、決して救いでもなんでもない。弱い人間、孤独な人間の場合、それはむしろ、破滅への第一歩だ》

「首のない鷹」は、彼のこのテーマを、一番明確に描いた作品だと思う。
カポーティの全ての作品を読んでいる訳ではないし、この定義がどれにもあてはまるかどうかわからない。実に勝手な読み取り方かもしれない。しかし、読んだ長編、中編の中には、このテーマは反復して出てくるように思われるのだ。当然、私が最初に読んだ、三つの短編もしかり、だ。
だから、私は、カポーティがこわい。
《暗黒の怖れを友》とし、後向きに生きやすい私は、また、いつか、暗黒にひきこまれてしまう日がくるかもしれない。
そう思うと−−やはり、恐ろしいのだ。

(1994脱稿/初出・Narihara Akira編『のんしゃらんと第15号』1995.6)

「アンデルセンという人」

去年「のんしゃらんと」の【好きな作家特集】でV・ウルフを扱った際、これからも女性作家を扱っていくんですか?とたずねられて、いや、次回はアンデルセンについて書きたいです、と答えた記憶があります。忘れない内に、ここで一筆、彼について書いておきましょう。

私がH・C・アンデルセンに興味を持ったのは、児童文学をかじっていた大学四年の頃。『雪の女王』をモチーフに小説を書こうと思いたち、原作を読まねば、と図書館の子ども室に行きました。小学館のハードカバーを見つけ、ついでに別巻「アンデルセン/生涯と作品」というのを借りました。
読んでみて、ビックリ。
アンデルセンという人は、童話が素晴らしいんじゃない。
その生涯そのものが、とてつもなく童話で、物凄いのです。

彼の生きた一九世紀初頭は、まだあちこちで絶対王政の敷かれていた時代です。そんな時代に、田舎の最下層の階級に生まれ、精神病の血筋をひき、身体も弱かった少年ハンスは、普通ならロクでもない一生を終えた筈でした。なにしろ、貧乏で学校にいけない。働きにいっても、華奢で貧相でロクな働きもできないから、いじめられちゃって続かない。そんな、どうにもツブシのきかない少年が、どうやって世界的な作家になったか?
彼は、思い切ったヤツでした。
十四の時、いきなり家出したのです。自分に歌と演劇の才能があると信じて、芸術家として年金をもらおうと、遠路はるばる、王様に直談判しに行ったんです。
ううむ、スゲエ奴だ。
なんという、脳天気野郎。
ですが、彼の生涯を通じての勝因は、天真爛漫さでした。
この時も、特に才能も見いだされなかったにも関わらず、ねばってねばってついに貴族の家に養子として入り、高等学校で学業を修めた後、本をガンガン書いて周囲にアピールしていったのです。二十五で自伝的小説を書く、という凄さ。(鴎外の訳で有名な『即興詩人』という奴ですね。でも、アレ自伝としては嘘八百なんだって)
もちろん彼は、最初から受け入れられた訳ではありません。普通、自己宣伝にコレつとめる奴というのは嫌われます。特にアンデルセンは、学も足りないし、生い立ちゆえに様々なコンプレックスを抱えていまして、自己憐憫も強く、愛されないという不満の強い人間でしたから、良識ある上流階級からは好かれませんでした。ですが、子供と外国人にはとてもウケた。その結果、だんだんと国内でも認められるようになりました。国内での印税生活はあまり楽でなかったし、家庭的な不幸も多かった彼ですが、放浪の時代を経て世界的名声を得、平穏な晩年を終えました。
まさしく、みにくいアヒルの子の生涯を地で行った男。

童話作家としてしか知られてない彼ですが、実はこんなに面白い輩なのです。彼の生涯は、知れば知るほど興味深い事実が沢山あり、その背景を知ってから彼の童話を読むと、どこか一筋縄ではいかない、奇妙な屈折が読み取れるようになりました。同性愛者的な苦悩や、狂気への恐怖を持った彼は、人生の一つの深みを、私達に教えてくれます。
子供向け、と馬鹿にせず、たまには皆さん、アンデルセンを読んでみませんか? 結構イケますよ。

(1994.6脱稿/初出・Narihara Akira編『のんしゃらんと第11号』1994.6)

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