『無欲な甥』

うら若き日の果しなく漂う
逝きて還らぬ、疾き潮の流
その流れ行方は、永劫の彼岸
命終わりてのみ達くべき、磯辺ぞ

《私は何者?》ジェラール・ボープレ
保篠龍緒訳(三笠書房)

生命こそ定めなき道
押し流す流れのままよ
たださだかなるは果のみ
死してゆくかの岸辺のみ

同右
堀口大学訳(新潮文庫)

若人の生はほしいままのもの
その本性に忠実なれ
憧憬未だ明らかならずば
運命に事を委ねんとす

同右/私的解釈

これは或る新青年の物語である。――

Act 1 Scene 1

青年は、居間の低いソファに、背を丸め、膝下を長く余らせて、深く沈み込んでいた。
青年の容貌。その印象は、愛想のいい、育ち良さげな、穏やかな坊ちゃん、というところか。見よ、その肌を、ほどほどに日に焼けながらも地の白さを思わせる、脂のしっとりのった、みずみずしく滑らかな肌を。適当な頬肉に裏打ちされた、少し縦長の卵型の顔に張られて、ちょっと首をねじっただけでも、よくできたマスクのように、微妙な美しい皺が寄る。
見よ、そのおっとりした目鼻立ちを。短い髪はふんわりと波うち自然に乱れ、寝保けたような二重瞼の下で、濡れた瞳はきょろんと丸い。通った鼻筋もてっぺんは鋭らず、ふっくらした口唇は、子供っぽくぴったりとつぐまれている。
見よ、その筋肉質の体躯を。学生時代の種々のスポーツで鍛えられ、うまく均整のとれた長身だが、もりもりとした嫌味はなく、指で押すとはずむというより、程良くへこむ弾力型だ。
そんな立派な組立ての青年が、二十三、というこれからの年頃の青年が、ネジのきれたブリキの人形のように、何もせず、ただぼんやりと、むっつりと、のっそりと座り込んでいるのだった。
ふと、居間のドアが開いて、この家の主人、青年の叔父が顔を出した。
「お、幸延、いたのか。ショウファをつとめてくれないか」
叔父の印象は、青年と正反対だった。仕事と金をこよなく愛す、実務家らしく脂ぎった中年男で、こういう奴は、実務に現実に夢をかけすぎ、魂の鍛錬を怠っているので、いさという時かえってもろく、しきたりや情に流されやすい、といった手合いだ。
青年は、声をかけられるのを予測していたように、すい、と首を振り向かせた。
「わかりました」
と、喉にフィルターでもかかっているような、とほんと遠い声で一声返事をすると、浮かない表情のまま立ちあがり、車のキィを鳴らして、外へでていった。

Act 1 Scene 2

車中。
助手席に座った叔父は、甥の横顔を苦い顔で眺めていた。こんなにどこまでもとぼけた白い顔をして、一体内心、何を考えているのか、と。
青年は十九の年に、両親が車の事故で死んで、世の荒波に放り出されたのを、唯一の身寄りである彼がひきとったのだが、その時、何て生気を失った奴だ、とつくづく思った。そんなに親しい甥ではなかったが、さて、こんなに覇気のない男だったか、と首をひねった。
一緒に暮らすと、青年の印象は、更に茫洋とした。まるで二階の下宿人で、礼儀正しい事は正しいのだが、一人身である叔父のやとっている家政婦に対しての態度の方が、余程はるかに暖かい。かなりの無口で、決して自分の素面を打ち明けない。何を夢見ているかどころか、スポーツ以外に、どんな趣味嗜好を持っているかも解らない。暇だと家でずうっとぼんやりしていて、時々思いついたようにふらりとでかける。派手に遊んでいる様子もないが、行先はようとして知れない。TVもラジオも音楽も、若者のくせにろくな関心がないようだ。
本当にこいつは、何を考えてるんだ、と叔父は眉間の皺をふやした。
大学を卒業してからは、叔父として何かしてやらなければ、と、自分の持つ土地管理の仕事を適当に割りあててやった。それを黙々とこなしているが、それは青年にとって全く畑違いの仕事だった。彼の大学での専門は機械工学で、人類の僕としてのムーヴィング・メカニックを、発展発達させる仕事につく予定であったのだ。一応優秀な男で、かなりの奨学金をもらい、ひく手あまたの成績態度で卒業したが、技術系の就職にはまるで興味がない、といった風で見向きもせず、さすがに叔父は、この時は問いつめ、甥もしぶしぶと信条を洩らした。
「もう、機械を思いどおりに動かす、なんて事に飽きたんです。機械というものは、単調に、型どおりにスムーズに動くのが美しいものであって、これからの研究、つまり人間に限りなく近づけるという事は、もう意味がない、と思うんです。だって人間を相手にする方が、面白いでしょう?」
確かに理系だからといって、今日よい就職があるわけではない。自由で華々しい活動をするのなら、人を使うほうがよい。……そんなようなところを意味を含んでいうので、門外漢の叔父としては、うまい反論を思いつかずに、適当なところでうなずかされてしまったが、どうも甥の言葉には、別の含みがあるようで落ち着かない。
確かにそれ以上、文句はつけられないのだった。何を考えようが無趣味であろうが、甥にはたっぷりと親の遺産と保険金があり、技術畑でこきつかわれる必要は、全くないのだ。いや、叔父自身も、かなりの土地持ちで、借地借家のあがりと売買で、十分食べていけるので、あくせく働く必要はないのだ。ただ、戦後世代の落ち着かない性質で、あちこちへ店を持ったりした揚句に、つてを頼って営林署へつとめ、この自然相手で人手の足りない職場でも、まだ働き足りないという人なので、甥っ子のこののんびりした様子は、歯がゆくて仕方がない。
いったい何者だというのだろう、この、何を命じても唯々諾々としながら、決して慇懃無礼なかんじはせず、ただ蕩々とした不囲気に包まれた、ミステリアスな青年は。こいつが借金の集金なんかへ行くと、愛敬がある、と大変評判がいいのは、全くどういう外面の良さなのか。
車は目的地へかなり近づいていた。叔父は物思いを解くと、ともかく話しかけてみた。
「今日は、帰りは別ルートになるから、迎えにこなくていいぞ」
「わかってる」
青年は、遠い彼方を見つめたまま、ぼそりと一声返事をし、会話を続けようとはしなかった。まあわかっているのはあたり前なので、彼は帰りが変則的な時だけ、甥に仕事場まで、車で送らせているのだった。
この甥、車の運転は抜群にうまい。免許をとって五年といったところだが、実に静かな、安定した運転をする。車と一体化した、全く無駄のない動き。乗っているものの安全が第一、としながら、急ブレーキをかけた不注意は皆無だ。
叔父の方は、大昔に免許をとってベテランドライバーの筈なのだが、実は車があまり好きでなく、手入れもせず、あまり乗らないうえに運転が荒っぽく、長い運転があると、飽きて、車のあちこちをいじりまわしたりするので、ちっとも安全な運転者ではなかった。
車がピタリと、役所の前につけられた。
叔父がシートベルトをはずして、
「済まんな」
と腰を浮かすと、
「どう致しまして」
と憂れえた顔で、キイをまわす彼。が、ふと、かすんだ表情を消すと、
「遅くなる?」
とひかる瞳を向けた。
叔父は一瞬のまれたが、すぐ気をとりなおすと、
「ああ。だが、迎えにこなくて、いいんだぞ」
「わかった。じゃ」
ドアは閉じられ、叔父は閉めだされた。
車は静かに、走りだした。
叔父は立ちつくし、遠去かる車影を眺め見送った。
あれは一体、何なのだろうか、と彼は考え続けていた。どんな目的を持っているのか、やりたい事があるのかないのか。よくわからない。虚無愛好者というのとも違う、実に今風な、飼い慣らされた犬のような、こじんまりとした人間であるのか……?
彼はやがて、あきらめたように首を振り、役所の中へ入っていった。……

Act 2 Scene 1

青年は、低いソファに浅くきちんと腰かけ、指を組み、瞳にいくつもの灯をうつして、ぽうっと輝かせていた。その向かいに、この客間の主人が、深い笑みをたたえて座った。
その、日本人離れした厳しい面差し。眉を落とした秀でた額、高い知性を示すもりあがった後頭部もきれいに削られて、その肌暗い象牙色にくすみ、瞳は赤く鋭く、悪僧侶然として、きちんとかりこまれた鬚髭の中で、ゆるく結ばれていた口唇が開いた。
「で、次は何をつくるつもりだ?」
青年は、低いガラステーブルの上をしろりと一瞥し、大きな掌をそっとのばした。そこには、黒の背表紙、薄蒼の表紙に、それらしい小道具の白抜きされた酒落た古い薄い本が、何冊か散らばっている。それは青年が、母親の書棚から抜いてきた、三笠書房、保篠龍緒訳のルパン全集だった。
「そうですね、今度は『813』にしましょうか。美貌の、ドロレス・ケスルバッハ夫人とか」
青年の指は、今更本を読む嬉びを得たもののように、几帳面に惜しそうにページを繰って、ほしなたつをの割り切られた、総ルビのきらきらしい文章を追ってゆく。
「ケスルバッハ夫人? それは、君らしからぬ選択だな、夫の遺産を手にし、手練手管で一つの王国までのっとろうとする毒婦だぞ」
主人は、眉のあたりをぴくりと蠢めかせ、『813』の下巻をめくりだした。すると青年は、ぼんやりとかすみのかかった愛らしい表情のまま、のんびりと、
「らしく、ありませんか? だって、人形としてこしらえるには、華やかな方が、いいでしょう?」
華やかな方がいい、だと?―― 主人の瞳がキラリとひかった。
彼は、高名な人形師だった。そして彼の傾心は、このとぼけた青年を、そのまま人形にできないか、という、それだけに凝り固まっていた。
この青年と知り合ったのは、自分の人形展の様子を、ふらりと見に行った時の事だった。彼は何げなく客に混じって、一体一体をゆるゆると眺めていたのだが、その中に見慣れぬ人形が増えている、と見付けて、ギョッとした。それが、この、青年だった。
青年は立ちつくして、踊り子の人形を眺めていた。ドガの絵の一枚からとったもので、しなやかで肉感があり、指先がぴたりと静止しているのが、訓練の賜物であるかのようにみせたのが自慢だった。青年は息を詰め、一心一途な真面目な面持ちで、ぴくりとも動かず、じっと見入っていた。
人形師は、何とも言えない気持ちに満たされ、芝居めかした口調で、
「それが気に入りましたかな」
と語りかけた。
途端、長身の青年は、固い呪縛のとけたようにくるりと振り返って、潤んだ瞳で彼を見つめ、
「貴方が、これをつくったんですか」
と発語した。
人形師の心臓は、その時、鷲掴みにされた。目が眩んで、思わず手をかざし、指の隙間からもう一度見直した。これぞまさに、生人形――よくよく吟味された完璧な素材でつくられ、その器に製作者の魂が込められあふれだし、生を得てとうとう動き出した瞬間、彼はそこへ出くわしたと信じた。かつて知らぬ、生と死の狭間に、あやうくゆらめき存在しているものを、彼は見たのだ。それは、何かを熱心にしゃべりかけてきた。《封じ込められた生、動》を、賞賛していた。仕事ぶりを作品をたたえ、興味がある、と言い、仕事場を見せてくれるか、とたずねていた。人形師は問われるままに、青年をつれかえり、子供のようにはしゃぐ、その喜びようを、茫然と眺めていた。
それから、この青年との付き合いが始まったのだ。人形師は変わった。まず、素材に関して貪欲になった。青年が彼を、車にのせてひっぱりまわし、助力を惜しまないので、彼はいろいろつてをたより、知己を広げ、映画や芝居の小道具まで頼まれるようになった。
青年の仕え方というのは、実に影にまわったもので、犬のように忠実になつき、なまじ冴えたところや、誘うところがないために、人形師は陶然となった。青年の朴訥さ、生真面目さ、態度や動作の幼いぎこちなさが、彼にはひどく好ましかった。他人がわずらわしくて、弟子をとる事を一切たってきたというのに、と彼は苦く笑った。そしてあえて青年に、弟子という言葉を切りだす事は避け、様子をただ見守った。そして青年には秘密にして、畑違いのからくりやあやつり人形の類を勉強したりした。
すると青年の方から、新しい申し出があった。自分の持ってくる小説本の中の人物を、いくつかつくってくれないか、と。もともと人形師は、バタくさいものから題材をとる男だったので、何の異存もなかったが、反対に青年に、人形を造る作業を手伝ってくれ、と申し渡した。青年はうなずき、人形師もうなずき返した。
青年が持ちだしてきたのは、どれもこれも、親やその上の世代祖先が、本棚の奥へしっかりしまい込んでいた奴を、掘りだすようにとりだしてきて、日に焼けた頁が、くだけないように丁寧によくよく埃を払って、というようなものばかりで、人形師は、青年の環境の、知れぬ豊かさ深さを思った。
青年は奇妙な人選をした。彼が興味があるのは、ありがちで目立たぬ、詰まらない端役ばかりだった。例えばこの目の前に積まれたモーリス・ルブラン。この中から前回は、いったい何を選んだか。――『三十棺桶島』の一冊だ。
いったい誰を選ぼうか。若さゆえに悪夫にだまされ、頑固な父に息子をさらわれた怒涛の運命の女、ヴェロニク・デルジュモンか、その夫、ラジウムの謎をさぐって殺人非道を重ねる悪漢アレクシス・ヴォルスキィか。タイトルどおりの殺戮狂気を演じるパリのスラムで影に育った悪少年レイノルドと、南海の孤島で愛浴びて育った無垢の少年フランソワという対照的な異母兄弟。彼らがおりなす波乱万丈の物語の中に、つくりどころみどころがあふれているのに、面白い下りには見向きもしない。
青年が選ぶのは、さし絵の一歩向こうにあるシーンだ。アレクシスがヴェロニクをはりつけにしようとして、間違いに気付かず、自分に協力的である前妻、エルフリーデの方をくくってしまう、というような難しいところ。これは気付かず、というところがミソなので、ヴェロニクを明とすれば、エルフリーデは暗、妻としても日影の身、ストオリィの中でさえ裏側にまわって、人知れず死んでいってしまう、といったところが、青年の情緒に訴えるらしい。
「だって、可哀そうじゃありませんか?」
と青年は言葉少なに言うが、この悪端役の死は、ルパンの立て板に水の謎解きの中で明らかにされるので、ヴェロニクが生きていた、ヴォルスキィめざまをみろ、と喝采嘲笑するのに気をとられて、一般の読者は、その死の無残さに、あまり印象を残さない。
だが聞けば気付けば、それは面白く、やりがいのある情景ではある。人形師は、細密なタッチで雷雨の夜の森を描いた。青年は自分の顔をさまざまにしかめながら、人形の表情を幾枚も描いた。それが組みあわされ、引き裂かれ、手直しされ、三次元に起こされていった。
その舞台は、《白い寒さ》と名付けられ完成し、その出来栄えに人形師は大いに気をよくして、青年に、ルブランから、もう一つ選ばせる事にした。その問答が先に始まった会話だ。
「ドロレス・ケスルバッハか……つくるのは難しくないぞ。稀代の女賊だからな。大組識の統領でありながら、人を使い、また男装して正体を知られず、裏で一人細心大胆に暗躍し、また表でも、幾多の男達の間を立ちまわって、新国の王妃の座まで手に入れようともくろむ、野望に燃えた女だ。……確かに華やかではある。見せどころも多いが、本当にこれでいいのか?好きなのを選んで、全く構わんのだぞ」
人形師がいかにも納得のいかない風に、何度も何度も念押しをするので、青年は肩をすくめて、嘆息まじりにぼそりと呟く。
「安手の浪漫派なもので……いえ、確かに『813』で一番好きなのは、ドロレスじゃありません、貧乏詩人のジェラール・ボープレです。でも彼は、多分つくれないでしょうから」
ジェラール・ボープレ。そは何者か?
それはただの、朴訥愚鈍な、才能もない貧乏詩人である。それが熱血愛国物語、『813』でどういう役割を果たすのかというと、ルパンは大戦前の仏の状態を安定させ、アルザス・ロレーヌ返還を願って、ある公国を復活させたいのだが、その公国の最後の血筋《殿様》ピエールが死んでしまったのに目をつけて、その身がわりに、よく似ていると、つれてこられる訳なのだ。つまりは傀儡、という訳だが、彼はあまりな正直者で、ルパンの情熱についひきまわされるものの、企みを知り苦悩をし、公国の実現があと一歩、というところで、ドロレスの死を知り耐えきれず、首をくくって自殺してしまうのである。
人形師は、ほほう、とようやくうなずいて、
「それは確かに難しい……表現すべきは、運命に翻弄されながらも愚直に踏みとどまろうとする態度と悲しみ、といったところか」
「ええ、だから、ケスルバッハ夫人を、というんです」
人形師は、青年の駄目押しを聞いていなかった。ふうむと微妙に首をかしげて、下巻のページをしきりに繰りながら、
「君は、面白い、ものが好きだな……同情か、いや半官びいきか? つまり、憶病者が、大きすぎる芝居に耐えきれなかった、という事か、それとも……つまり、小物が大物を裏切った、という喝采か、自殺する青年の自尊心を、大切にしたいのか?」
人形師は、ちょうどそのページにゆきあたった。
飼い殺しにされてブラブラしているボープレが、秋の黄昏の自然美に感動して、《うら若き日の果しなく漂う……》などと詩句を書き連ねていると、いよいよ大芝居の幕を切っておとそうと、興奮したルパンがとびこんできて彼を祝福する、という下りだ。脅かされて、彼は自分の傀儡性に疑問を持ち抗議するが、結局押し切られてしまうところだ。
青年は、ん?と眉を上げ、腰を浮かせて人形師の手元を覗き込み、うん、とうなずいて再び座り込むと、夢見る瞳を輝かせて、
「いえ、僕が好きなのは、彼のそこの台詞です。《私は何者です? 私の過去の運命がどうあろうとも、私はその者として恥かしくないものになりましょう。しかし私は知りたいのです。私は何者です?》っていうそれです、その決意です。自ら人形になろうと、人の夢を果たそう、という意志……。彼のシチュエイションは、僕のあこがれなんです。誰でもいい、大きくなくとも、若々しい情熱があふれてなくてもいい、僕の手に糸をつけて、後ろからひいてくれないか、と思うんです。そうなれたら、僕は、下手な自滅なんてしない、うまく操ってくれれば、僕は立派に役をつとめるのに……」
その時、人形師の胸の中に、別の心臓がはばたいた。暗く、熱い血が湧いた。
傀儡願望。
これがこの現代青年の、奇体な雰囲気の正体か。なんという――知らず口から洩れたふりをして、さり気ない、悠然たる態度。底知れぬ者……
人形師は、掌をそっと握りしめ、何食わぬ顔で切りだした。
「そうか。ケスルバッハ夫人か。そうだな、ケスルバッハはやさしい。君が一人でつくりたまえ。エルフリーデはいい出来だった。あの調子でやればいい。手伝いもしよう。そして、出来上がったら、君を、私の門弟として皆に紹介しても構わないだろうか」
確かに青年には、素人ながら素質が見えた。ディティルへの気遣い、ちょっとした工夫によるリアリティ、ドラマを求める情熱の閃きがあった。
だから人形師は知りたかった。どんなつもりがあるのか、と。
が、青年はうつむき、目を翳らせた。
「門弟だなんて……そんな大層な、だいたい、何の基本も知らない僕に、一体何ができるというんですか? 初めからつくるなんて、無理ですよ。僕はお手伝いがしたかっただけです。それに叔父も、いい顔をしないだろうし……」
「叔父?」
人形師は、きっかけをつかんだ。青年の家庭を、問いただしはじめた。青年は簡単に、ぽつぽつとしゃべった。
「……叔父に、食べさせてもらってる訳ですから……いえ、叔父は、いわゆる実務家タイプで、まあ、甥がふらふらしているのを嬉しく思わないのは、普通の事だと思いますけど、まして芸事なんていうと……」
人形師の頭に、陳腐な構図が浮かんだ。いいかげん大きい甥を、飼い殺しにしている威張った叔父。――その甥を解放するには、野心を芽ばえさせればいい。
人形師は、言葉はなお丁寧に、だが高飛車に、
「君自身の金があるだろう。勝手はいくらでもできるじゃあないか。叔父さんのところをでて、家へ来なさい。君は大丈夫だ。二人でやってゆける筈だ」
青年は本当に困った顔をして、
「そんな風に甘えさせていただく訳には……僕は、叔父の足ですし……」
人形師は、スク、と立ち上がった。青年は、驚ろいて見上げた。人形師の笑みは、奇妙にゆがんだ、妖しいものだった。
「いくらでも糸をひいてやる。少しばかり疑われても構わないのなら、方法はいくらでもある。筋書はいくらでも考えてやる。すべては君のものだ。いやかな」
青年は、ただまじまじと、その顔を見つめていた。何の表情も浮かべずに、しばらくじいっと見ていた。
ふと、青年の眉間に皺が立った。彼は、《いやな》顔をした。眉が太く寄った。瞳がさらにみひらかれ、頬の上部が強張った。首が伸ばされ、顎の線が固くなり、柔らかい口唇に、力が籠った。
そのまま、青年は立ち上がった。人形師をぐっと睨んで、喉ごもる声で、だが一語一語はっきりと、
「貴方の、御芝居を、やりましょう」
と言い切った。

Act 2 Scene 2

その日は、ひどい雨だった。
叔父は、遠方に用があり、でかけなければならなかったが、甥っ子が留守なので、自分で車を運転して行く事にした。
地理不案内から、彼は、わかりやすい湾岸道路へ入ったが、変なカーヴが多く、ひやひやする。叔父はだんだんいらいらしだし、リャンリャンと乱暴にアクセルとブレーキを踏みわけていた。
雨が、激しくフロントガラスにうちかかり、彼の視界はよくきかない。フロントガラスはきれいに磨きあげてあったが、ワイパーで雨をひたすらぬぐっても、前方がよく見えない。おまけに、道は道路工事現場に変わった。前のジャリトラックが物凄い勢いでカーブを曲がって、濃い泥水を思いきりはねかけてきた。たえかねて叔父は、運転中なのにもかかわらず、思いきり、フロントガラスの洗浄液のレバーを押した。
途端、彼の視界は、ベッタリと真っ赤になった。
急ブレーキ。スリップ。
対向車に突っ込みそうになって急ハンドル。
ガードレールを突き破り、真っ逆様に、海へ。――

車がひきあげられるのに、数日かかった。それは、ありきたりの事故死に仕上げられた。目撃者はいなかった。何の不審も残されていなかった。
綿密自然な計画による、偶然的事故殺人。
警察の知らない事は、叔父が死の直前に何を見たかという事、その赤い色が、芝居用につくられた血のりで、派手によく広がるが、水につけるとしばらくして、すっかり色をなくしてしまう、という特殊なものである、という事だけだった。

Act 3 Scene 1

青年は、上体を倒して掌を組みあわし、膝に手をついた姿勢でうつむき、瞳を半ば閉じかけて、人形師の居間に座り込んでいた。そして芝居の台詞のように、何事かを呟いた。
「うら若き日の果しなく漂う……」
そこへ勢いよく、若やいだ気力と情熱に満ちあふれた人形師が、ツカツカと入り込んできた。
「久しぶりだな。どうだ具合は?」
青年は身を起こし、軽く首をかしげて浮かぬ顔で、
「ええまあ、なんとか……まだ叔父が残した仕事の整理が、うまくつかないんです。思ったより雑務が多くて、引き継ぎが面倒で。人を頼んだりしています」
人形師は、ソファの背に手をかけてうなずき、
「まあ、せいぜいうまくやる事だ。まだ疑いの目が、あちこちに残っているだろうから、仕事は慎重にな。ただ、いつものように鷹揚に構えていればいい。もうすぐ、こちらへ越してこられるだろう」
「わかっています……」
青年が、そう含むようにぼんやりと相槌を打つと、人形師は薄く笑んで、上体を折り屈め、
「今日は、U俳優の芝居を観に行く。次のシェイクスピア劇で、背景小道具の一部を手伝う予定で、その打ちあわせに行くんだ。行けるか?」
と最後を、声の調子を柔らかに低めて言った。青年はすい、と立ちあがり、
「ええ、行きましょう」
と返事をして、微かに新車のキィを鳴らした。

車中、助手席に座った人形師は、少し目を細めて、青年の横顔を窺った。青年は、少し憂れいた無表情で、いつもの落ち着いた運転をしている。人形師は、新しい嬉びが胸底から湧いてくるのを、こらえきれぬように口唇を噛んだ。
何とうまくいっている事か。青年の素行の良さ、沈んだ態度は、周囲の誰をも疑わせなかった。たいした平静さで、ますます気をひかれる。
叔父の死以降、人形師は、青年への距離を縮めた。自分がからくり人形にまで手を染めている事をあかし、青年の技術に助力を乞うた。青年は、意外そうな顔をしたが、
「生き人形は、首が命です。首の動きによって、会話も、眠りも、表情がでます」
などと的を得たアドヴァイスを洩らしたり、簡単な仕組をつくって人形師に示したりした。
人形をつくる人形。――そんな形容を思いついて、人形師の頬がつとゆるんだ。すると青年は不意に、
「何ですか?」
と隙をつくように尋ねてきた。人形師は一瞬の戸惑いを笑みに崩して、
「いや、君にはたいした演技力があるんだな、と感心していたところだ」
とごまかすと、青年は前方を遠く見たまま、
「そんな事はありません。これが正直自然なんです」
と気のなさそうに応じ、ハンドルを切った。
「こっちでよかったんでしたね?」
「ああ」
人形師は、満足気にうなずいて、席へ深くもたれかかった。彼は浮わついていて、何が起ころうとしているのか、何の異変にも気付かず、何も見抜けていなかった。

Act 3 Scene 2

俳優は、簡単な舞台化粧をすっかりおとし、縁無眼鏡をかけると、ゆっくりと立ち上がった。霜の降った髪をふっくらとなでつけて、口元の髭も小さくまとめられた、背の高い上品な老紳士だ。真っ白い鬢、こけた喉元が、彼の相当な高齢を忍ばせるが、つれあいも子もとうの昔になくしてしまったというのに、彼は枯淡というより、生命力にあふれていた。舞台の上では、老教授という役だけに、《老い》をきちんとはめこんで演じてはいたが。
彼は足早に楽屋をでた。小道具の事で、人にあわねばならなかったのだ。
彼は舞台中心の俳優であるが、活動は幅広く、もとは映画の人間で、今は時折TVもでるが、芝居のプロデュースなどという事をやってのける。今度の舞台『KING LEAR』は、彼が後輩をたてるために計画したもので、細部のすみずみまで、彼は見通し、納得したかったのである。
老俳優は、待合室のドアを開いた。想い想いに休んでいる若い役者の中に、いかにもという坊主頭を捜した。視線はぐるりとめぐってゆく。一八O度も転回する。
だが、ふと、ゆきつもどりつし、ある一箇所へ落ち着いた。
そこに、見慣れぬ青年が、ベンチに腰かけていた。
目をつむり、口を閉じ、微動だにせずに座っているその姿は、雪花石膏の彫像のように、超然と置かれている。
何故そんなところに、視線が釘づけにされたのか。わざと何もないところを見つめているような、妙な気持ちに襲われて、彼は視線をそらそうとした。が、そうするより先に一歩そちらへよろりと踏みだしてしまった。
青年が、瞳を開いたのだ。
長い睫毛がそっと離れて、涙の湖に浮かぶ黒い瞳が、そのままこちらに向けられ――老俳優は射られた。生物のレヴェルで、一番澄んだ瞳、完成された無垢、というものがその淵に見えた。
その存在は、老俳優の視線をとらえたまま、ゆらりと立ちあがると、彼の方へ歩んできた。老俳優は、バランスを崩した格好で凝固し、近づいてくるものを、ただ見つめていた。それは、あと一歩、というところで静かに立ちどまり、彼を見下ろすと、突然、にっこりと笑った。
「今の舞台、拝見させていただきました。素晴らしかったです。要所要所のスロウモーション、語られない台詞――」
青年の笑みは、愛らしく爽やかで、老俳優は思わず、差し出された手を握った。指無手袋をはめた掌は大きく、乾いて暖かかった。
「よろしくお願いします。僕は、K人形師の助手です」
「ああ、Kさんの――」
老俳優の心に、チリリと羨望の炎が湧いた。待ち合わせていた人形師が、こんな懐刀をもっていたとは……実に面白い人物だ。イメージは、白いカンバスにのせられた泡だつような白だ。イギリスロマン派の子供の、純粋な魂を凍らせて身体だけ成長させ、必要になって心を蘇生させた、というような、人間があこがれてやまない、何の重荷も背負わされていない、清らかな精神。それを、この青年は、身体全体で示している。具現している。
「ええ。向こうで待っています。それにしても、本当にすごい。あんなに動かないで、新しいものに目覚めて、それを失くして、絶望するまでを、演じる事が出来るなんて……」
青年は、まわりきらぬ舌で、とつとつと劇評を語りながら、老俳優を導いた。素人ながらも、鋭い観察。実は前々から老俳優をよく観ていたらしく、震える老体が、ぴたりととまって、シーンを従えてしまう、精密で抑えた演技を絶賛した。
老俳優は、人形師にひきあわされる直前、さりげなく、青年に、一度遊びに来るように、と耳打ちした。

Act 3 Scene 3

青年は、老俳優の書斎へ踏み込み、中を見回して感嘆の深い吐息を洩らした。
『KING LEAR』なら『KING LEAR』、とそれだけでこの部屋は埋まっているらしかった。過去の『リア王』の資料を集められるだけ集め、選びぬいたというのだろうか。部屋に溢れるハードカヴァーはすべて和洋の研究書、そしてシェイクスピア劇を特集した洋雑誌の切り抜きのうず高さ、きちんと整理されて見るものを圧する、テープ、レコード、ヴィデオの類。青年は何げなくおかれている、対訳の台本をとりあげ、そこに書かれたキャスティングを眺めて、うん、とうなずき、老俳優を振り返った。
「今度の『KING LEAR』のエドマンドは、今演っている『CONVERSATION PIECE』のコンラッド役の人ですね? 適役だなあ」
「そうだ。よく気がついたね」
と老俳優はデスクに近づき、千六百八年版の四折本のコピィを、自らもめくりはじめた。
『リア王』のエドマンド――それはこの有名悲劇の、隠れた諸悪の根源となる青年だ。リア王、と言えば、美辞麗句でいい、娘の心がききたいという、寂しく老いた頑固な父リアと、《NOTHING》の一語で、自分の考えを守ろうとした、正直と意固地を吐き違えた娘コーディリアとの衝突が、あまりにも有名すぎて忘れられやすいが、一体何故これが悲劇となり、父は狂い娘は死ぬのか、というと、この青年、リア王の家臣、グロスター公の私生児であるエドマンドが、やっと正式に宮廷に紹介されたのをきっかけに、兄を父をおとしいれ、領主達を仲たがいさせ殺しあわせ、あげく国をのっとろうとたくらんだ故に起こったことなのである。
そして『カンヴァセイション・ピース(家族の肖像)』のコンラッド――ルキノ・ヴィスコンティのこの映画を観た者は忘れられまい、洗いざらしの祖末なTシャツとGパンの上に、豪華な毛皮の毛布をかぶって似合ってしまう金髪の妖しい青年を。苦学して大学に入り美術史を専攻したが、学生運動に染まって中退、逃亡生活の中で、ブルジョワ政治家の妻の愛人になる。彼は、金持ち夫人の気紛れで、ある老教授のアパートメントの一部屋へ押しこめられ、老教授が迷惑していると知るや自尊心を保つためでていこうとする。が、老教授が象牙の塔の人で、孤独な趣味的生活を送るインテリジェンスであり、彼の昔の夢の部分を共有する人と知るや、老教授に甘えなつき、巧みなやりとりをして心をかき乱させる。老教授は、歪んだ家庭生活、若い世代の傷ついた姿に触れて、現実生活に開眼し、残り少ない自分の生をコンラッドへ伝えようとする。だが青年は、あこがれていた贅沢を捨てさる決心をし、夫人の操り人形はもういやだと宣言、老教授に、《誤解されたくありませんが、でももうお目にかかれないと思います》と書き残して、行ってしまい、そして、逝ってしまう。新と旧のあやういバランスの崩れた故に。つまり、老いた人間の、平穏満足な日常生活を乱した、過激な闖入者とでも言うべきか。
「あの人は達者な役者さんですよ……決して秀麗な顔立ちじゃない、でも、人を魅きつける瞳がある。野心に瞳を輝かせて、また愛情に飢えきった乾きを訴えて、舞台なのが勿体ない位です。フィルムなら、あの瞳が全部生かされるのに……」
青年は対訳の中頃、リア王の初めの狂気の下りをぱらぱらとめくり、ページを前へ返していく。老俳優は、冒頭のエドマンドの独白のあたりをじいっと見つめながら、
「よくわかっているじゃないか……確かにあの青年は、舞台向きの男じゃあない。食っていけないから、そのうち映像の分野へ流れていくだろう。だが、彼は若い。まだまだ基礎を学ばなければならないんだ」
とたん、青年は奇妙な声をあげた。
「あっ、Uさんは、リア王の役じゃないんですね、忠臣ケントなんですね? てっきり、お齢からリア王だと」
キャスティングのページを見返して、青年は台本を遠くに離して、よくよく見つめ直している。老俳優は思わず上げた顔に暖かい笑みを浮かべて、
「これは、私が友人のためにやろうとしている舞台なんだ。それでやりどころ、難しい主役を彼にまかせて、自分は、身をおとして影ながらリアを助ける、いい脇役の方をとった訳だ」
青年は、ほうっとうなずき、再びスクリプトに目をおとした。単語の入れかえ、誤字脱字、カマ、コロン、セミコロンの一つもゆるがせにしないよう、細かく見直された原典英語、それに並べられた、稽古の度に手直しを重ねられた、新しいラフな訳出の日本語の台詞。
青年はくるりと台本を巻くと、ランダムにページを開き、背を伸ばすといきなり、流暢に古びた英語をしゃべりだした。
"--------------------------------This is some fellow,
Who, having been prais'd for bluntness, doth affect
A saucy roughness, and constrains the garb
Quite from his nature: he cannot flatter, he,
An honest mind and plain, he must speak truth:
An they will take it, so; if not, he's plain.
These kind of knaves I know, which in this plainess
Harbour more craft and more corrupter ends
Than twenty silly-duckling observants
That stretch their duties nicely."
老俳優はすかさずきりかえした。
"Sir, in good faith, in sincere verity,
Under th' allowance of your great aspect,
Whose influence, like the wreath of radiant fire
On flick'ring Phoebus front, -------------Ac. 2 Sc.2"
青年はスクリプトを小脇にかかえ、にっこり笑って拍手をした。そして今のところを日本語の台詞に変え、胸を張って唱えた。
「――こういう奴なのだ、礼儀の無知を可愛がられると、わざと不調法をやってみせて、自分の本性を隠してしまう。正直朴訥ゆえ追従も云えず、ただ真理のみを語る、という訳だ。世間が承知すればそれでよし、認められなくとも、正直者でとおる。知っているぞ、こういう悪党は、率直を売り物にして、実は実に卑劣な策略、腐れきった企みを抱いているのだ、几帳面につとめを果たす、小心者の廷臣達が、束になってもかないはしない」
老俳優は道化風な折り屈みをつくって、それにこたえる。
「お殿さまへ、ええ其言誓言にかけまして、恐れながら、みゆるしをこうむりまして、輝き渡る日の神の御額に渦巻きたつかくかくたる猛火にひとしき……」
リア王二幕二場の台詞である。年老いた主人を信じ、道化に身をやつした忠臣ケントが、主を中傷する手紙をもってきた者を邪魔しようとして喧嘩をし、間に割って入ったコーンウォール公とやりあうところの、ふざけた台詞だ。このあまり有名でないくだりを、すらすらと読んでみせ、とっさに演技までつけた青年に、老俳優は拍手を返し、誉め讃えた。
「たいしたものだ。君の発音は立派なものだ」
青年は少しはにかんで、
「一応、大学を出ましたから……」
と語尾を濁した。
だが老俳優は、心底感心していた。鍛えられた身体から溢れる、よく通る声。その英語の、的確な間合いと音調。大分機嫌を損ねて道化をなじる心持ち加減と、人格に関する警句の深みが、納得される台詞まわし。果して彼は勉強しているのだな、と老俳優は目を細め、あらためて青年をとっくりと見返した。
「興味があるなら、これからいつでも遊びに来なさい。私は、暇を持てあました年寄りだから、いつ来ても構わないよ」
青年は、夢みるような遠い目付で、こくりとやった。

Act 3 Scene 4

その秋、原宿のとあるシアターで、まだぞろ前衛的な舞台が披露された。それは一体なんぞやというと、A新聞の芸術欄の抜粋で紹介するのがてっとり早い。
「《懐古的かつ新鮮、感情をもつ機械達――バウハウス・ダンス!》
1919年、ドイツワイマールの美術学校バウハウスで創案された、パフォーマンス芸術の原点がいまここに登場。ナチに弾圧され、消えていってしまったのだが、この当時の《前衛》、人間から離れつつあった科学や工業の方法を、芸術や造形の中でいかに人間化するか、ということを目的にしていた。
このダンス、名前はダンスだが、バレエのように華麗に舞ったりはしない。赤、青、黄の厚手の肉襦袢をきたダンサーが、金や銀色の仮面をかぶって、ロボットか人形のようにぎこちない動作で動く。床の上に引いた線の上を行ったり来たり、フラフープのような輪を回したり、長い棒を身体の線に合わせて幾何学模様に動かしたりする。
だがそれは、即興的ハプニングのようなものでなく、ダンサーの肉体は見事に訓練され、手の軽い動きひとつでも、きちんと計算された演出であることがわかる。シーンのひとつひとつが絵画的で、それがどんどんズレていくところに面白さが生まれる。球や棒、輪などの小道具の使い方もしゃれている。
今回の演出家は、当時の資料を数年かけて集めて舞台の再現をしてみせたが、今の時代にぴったりしたものと云う。《性別、個人を消したコスチュームや、ギクシャクした動きの中に、かえって人間的情熱やユーモアが浮き立つ筈。機械の人間化といった感じをだしたい。古い秩序が死に、新しい時代の生まれる過渡期に存在したバウハウス・ダンスは現代の精神に重なるところがある》とのこと」
この《ダンス》、ファッション関係者、その他諸々の業界の人間に、短期間の公演ながら、大変な好評を博し、人気を得たという。そのおしかけた面々のなかに、私達の既知の人物が、二人混じっていた。……

車中。
助手席に老俳優をのせて、青年は走っていた。いつもの正確な運転で、信号が赤のところで、スウッと静かに止まった。が、珍しいことに、彼はハンドルから手を離した。
宙に浮いた、青年の右腕。
次の瞬間、肘だけがぐっと上がった。次にだらりと下がっていた手首に力が入って、真上に垂直に跳ね上がった。指が一本ずつ滑らかに折られてゆく。肩の関節が動くと、無駄のない筋肉が後ろに肘をひき、高さを保ったままの拳は、前方へそっと伸ばされた。
青年は、いま観てきたものの上手な真似事をしているのだった。
「そんなに演技が好きなら、演劇に興味があるなら、ちゃんと勉強すればいいんだ。君はいい役者になれる」
老俳優がいきなり切り出したので、青年の動きは一瞬止まった。
いや、老俳優は、いままでもこんな風に、人形師に知られぬよう、こっそり幾度も青年に誘いをかけていたのだ。青年の方からちっともやってこないので、彼の趣味に合いそうな劇や映画をさがしてきては、青年に見せ、連れ歩いた。青年は動きがぴたりととまる《踊り》的なものが好きらしいので、今回は少し目新しいものを、とバウハウス・ダンスを紹介したのだった。案の定夢中になって、ぎこちなさの研究に入っている。そして、その巧みさ。その力。……老俳優は畳みかけた。
「やってみないか。その気はないかね」
老俳優は、青年が、人形師の助手、といっても、ろくに実務に携わっていないことに気づいていた。この青年は、人形師の便利な小間使い以上の役目を果してはいないのだ。素質と才能のある人間なのに、もったいない。いやもったいないではない、私が積極的に引き抜いてやらなければならない、それで何の悪いことがある、そう思った瞬間、老俳優の口から、唐突な台詞がとびだしたのだ。
だが、信号は変わった。青年は仕草を崩し、車をスタートさせた。彼は微かに笑って、肩をすくめていた。
「僕には、役者なんて向いていませんよ。押しの強い個性がある訳でもなければ、大勢のひとと協調できる素直さもないし。たとえば劇団に入ったとします、そこで僕は、目立ちはしないけれど、浮いてしまうことになるでしょう」
老俳優は顔をしかめて、大きく首を振った。
「君は自分を知らないんだ。君は類希なる精神だ。君はどんな所でもやってゆける。輝くことができる。今の状態を損なわぬよう、努力して勉強を積めば、必ず立派な役者になれる」
青年は笑んだまま眉を上げて、
「それは、かいかぶり、というやつです。僕は、自分を知っています。そりゃ、興味がない訳じゃありませんが、僕にも仕事がありますし……」
「しかし、決まった時間じゃないだろう。一日拘束されてはいないだろう。とりあえず、君の空き時間に、私が個人で、基本を教えてもいい。その位の時間はあるだろう。なくとも、K人形師に、私から頼んでみよう」
老俳優は、機を逃すまいと一気に言い切ったが、青年は首をかしげたまま、微笑を崩して、
「うん、と返事をしてはくれないと思います……」
と語尾を濁した。老俳優は少々いらだってきて、
「なんだね。君は立派な成人だろう。興味がないというなら、そう言いたまえ。人にかこつけて断わったりするな。だいたい君は彼にどんな義理があるというんだ。いろいろとあるにせよ、この世で一緒に住む義理のある人間は、せいぜい親兄弟くらいのものだ」
ふと、青年の顔が強張った。目が伏せ加減になり、みるみるうちにその表情は痛々しく翳った。
「親兄弟はいません……四年前に、車の事故で失くしました。居眠り運転の後続にいて、巻き込まれたんです。……そのあと、叔父の家に厄介になってたんですが、叔父も事故で……こっちは自分の不注意だったらしいんですが……」
青年の顔が能面でもみるように、あまりに見事に変じたので、老俳優は顔色を固くし、身を縮めてしわがれた声を漏らした。
「そんな事情があったのか。……済まなかったね。君に車の運転を頼んだりして……知らなかったとはいえ、随分無神経なことだった」
その瞬間、青年はピクンと眉を上げ、身じろいだ。
「いえ、いいんです。気にしませんから。叔父も僕を運転手につかってましたし、他に芸がなくて、今でも似たような事をしてるんですから」
すると老俳優は目を細め、すかさず畳み込んだ。
「芸がないなどといって、何故人形師の助手なんかになったんだ? どうやって知り合ったのかね? どうして今、一緒に住んでいるんだね」
青年は問いただされるままに、今までの大まかな事情を話した。老俳優は、あらゆる方向に質問の矛先を向け、言葉巧みに思わぬ点を突いてきた。そして、核心に触れた。
「で、君の財産管理は、どうなっているのかね?」
「あ、僕とKさんが、共同でやっています」
「なるほど。Kさんは、随分と得をしたね……」
「え?」
老俳優は、それきり言葉をきり、なにか考え込ような姿勢に沈んでしまった。
青年の顔も、不意に硬化した。……

Act 3 Scene 5

S脚本家は、自分のドラマを眺めていた。アフレコ・ルームに若い役者達が詰めて、フィルムに見入って台詞を吐くのを、後ろからじっと見守っている。
彼の顔を淡い光がはじいている。……きちりとわけて流した髪、はっきりとした薄い目鼻だち、鋭く整った横顔。肩口からひょろりと吊り下げたような長身痩躯だが、腰が重く、足がしっかりと地に着いている。そして、いかにもやり手風に、斜に構えて腕組んだポーズ。
彼の心には、銀のむら雲がかかっていた。それは次のドラマへの、形をなさない不安だった。この男、Tテレビの七時半からの三十分連続ドラマの枠を、ここ数年任されていて、中堅どころとして名声を馳せているものだった。センスと気鋭に溢れた、有能な男で、アメリカン・コメディ風の、巧みな会話のやりとりで魅せる、良心的で良質なドラマをつくる。オーソドクスなストーリーラインを決してはずさず、つくりものとしての安定感でみせる上、プラスアルファとして、最低台詞一行をひねることを忘れなかった。忘れかけられた道徳のほこりを払ってよく磨き、その上に世情時事を照らしあわせて、当意即妙な台詞で風刺し皮肉る。もちろんあざとく剥きだしにせず、独特のユーモアを加えてなおリアルさを増し、視るものをウウン、とうならせるやり方で。
という方法論が確立しているにもかかわらず、何の心配があるというのか、彼の口唇は微妙に閉じられ、抑えきれない苦悩をにじませていた。彼の悩みは、俳優だった。彼は、いい役者が、欲しくて欲しくてしようがなかったのである。
何故か?
彼も他の脚本家の例に洩れず、役者の個性に寄りかかるタイプだったからだ。
彼は熱心な男だったから、ドラマのための労は惜しまなかった。よくスタッフと話合い、若い役者達の面倒を見、役名まで考えて、筋書きをしっかりととりつけてやった。……が、ドラマが動き出すと、彼の熟考を重ねた思惑が、物の見事に狂いだす。その都度修正することはやぶさかでないが、彼は、スポンサーの無理な要求より、キャスティングのひどさに泣いた。彼が一番困ったのは、役者達の思い違いと、力量不足だった。こればかりは、彼にもどうしようもなかった。
彼の愛する三十分物。これは、毎回、エピソードを見せていくものだ。役者個人の性格描写には、少ししか時間を割くことができない。よっぽどな特徴を持たせれば不自然になる。そしてどのみち、役者の地がでる。
ところが、今時の若い役者達は、実に地が貧しい。彼の描く実の濃い短いドラマというのは、けして勢いや定型の演技でごまかせるものではない。しかし彼らは、それ以外のやりかたを知らない。彼の抑制の効いた皮肉を、考えすぎて重く吐き出してしまったり、見くびって口先で流してしまったりするのだ。
それはある程度、仕方のないことだった。しかし、彼には諦めがつかなかった。彼には、まだ幾つもやってみたいドラマがあるのだった。そう、海の向こうから数カ月かかって舟何隻かで運んでくる宝物に匹敵する、血のでない胸の肉一ポンド。――そんな類の贅沢さ。こういったものが、日常生活の中で、毎週一切れずつ切り分けられ、与えられたら……そんな夢が、彼の望みだった。それが、こんな連中とでは、やれない……。
彼は、懸命に画面をにらみつけている役者達に首を傾げ、調整室から退出した。
ため息ひとつ。
彼は、気休めに隣のスタジオを覗いた。そこには、大ベテランのU俳優が待っていて、もらった台本に目を通していた。そして時々、傍らのおとなしげな青年に、相手の台詞を言わせたりしている。
脚本家は、大家であるU氏と、あまり仕事をしたことがなかった。しかし、どこに秘められているのか、こんこんと湧き出るような生命力に感嘆していた。かなりの高齢な筈なのに、幅の広い活動をし、努力勉強を惜しまない。今も、残された時間を有効に使おうと、ああやって次世代に手ほどきをしてやっているんだな、と、好ましげに眺めた。
「……」
かなり長い間、脚本家は青年を見つめていた。そして、呟いた。
「主役は、彼だ」
脚本家は、固い音をたててきびすを返した。彼の頭の中で、慎重かつ敏速な計算がいま、開始された。今日こそ、彼の抱いているストーリーを、プロデューサーに提言しよう。今度こそ、アイデアは少しも損なわれない。今こそ、完璧な素材を発見したのだから。
とうとうみつけたのだ。巡り会えたのだ。《あれ》を絶対に手に入れなければ。どうしたらうまく? 単刀直入の方がよいだろうか? まず誰にアピールしたらよいか? 新たなスポンサーを見つけて、早めにあれを見せなければ……
蛍光灯が淡く薄暗く照らす廊下に、ピシリと冷たい靴音だけが残された。

Act 3 Scene 6

まもなく青年は、身ひとつで、人形師の家から老俳優の家へ越してき、それからしばらく、或る意味での蜜月期というものが、そこに存在、した。

Act 4 Scene 1

青年はTV局の待合のベンチに、膝をかかえた妙な格好で座っていた。ベンチが低すぎ、彼の足が長すぎるのだが、不自由な姿勢で動かないその様子は、電池がきれて動きを止めた、プラスティックの玩具を思わせる。
不意に、ベンチ脇のドアが開いて、痩せた男が大股に歩み出てきた。男はそのまま行き過ぎようとして、ぐい、と足をとめると、くるりと振り向いてサングラスを押し上げ、
「やあ、運転手君」
と呼びかけた。
青年は、ただ目を見張っていた。今日はU氏が、ある連続ドラマに、途中から数回ゲストで出て欲しい、と頼まれたというので、それを車で送ってきただけなのだ。なんとなく図星をさされたような形になって、きょとんとしたのも無理もない。
男はシャツの襟を開いて喉元をくつろがせると、青年の当惑にまるで気づかぬように、その脇に気軽く腰掛けて、
「閑そうだね。本でも読むかい」
と、かかえていたシナリオの間から、古ぼけた文庫本を取り出すと、青年に押し付けた。
その押し付け方が、これ全身自然な好意といった態度なので、青年は、ついそれを受け取ってしまったが、訳がわからず、またまじまじと男を見つめた。男はふと顔をしかめて、
「不審かな? 僕は脚本家のSだ。いまUさんがでている、このドラマを書いてる」
と自己紹介をした。青年の顔はぱっと明るくなって、
「あなたがSさんなんですか。こんなに、お若い方だなんて」
とまわらぬ舌で尋ねた。S脚本家は、かえって照れたように口唇を歪めて、
「なんだ、僕の事を、何か知ってるの?」
青年は身をひいて、細かく首を振り、
「みてます、ただそれだけです。面白くて。もう、来週が待ち遠しい、ってやつです、一見嘘っぽいけど、一回一回がすごくリアルで、いろんな人間が生まれて、成長して、生まれ変わって、でも、肩が凝らなくて、楽しくて……」
「もうわかった、有難う、有難う。しごく恐縮だよ、あんなものにそんな過大評価をいただけるというのは」
脚本家は手を上げ、気恥ずかしい誉め言葉を制止した。的外れとも思われず、青年がいかにも真摯に言うので、聞いていたかったのだが、S氏には切り出さなければならない台詞があったのだ。せっかく意図的につくった出会いだ。すこしぐらい不自然だろうと、最後までやり遂げなくては。さりげなく呼吸を整えると、
「ところで君は、いったい何者なんだい? まさか本当にUさんの運転手じゃないんだろう? いつもくっついて歩いていて、ときどき演劇の方の手ほどきをうけているようだけど、弟子なのかい?」
青年は慌てて大きく首を振り、
「とんでもない。僕はただUさんの、身の回りのお世話をしているだけです。とてもじゃないですが、演劇の素養なんてありません。ただ真似事が面白いので、少しばかりやらせてもらっている、というだけです」
脚本家は、ふんというように身を乗り出してき、
「付き人のつもりなのか。じゃあ、芝居の方に進む気はないの」
と片眉を上げて尋ねる。青年は目を伏せて、
「ええ、きっとやりがいがあるんでしょうが、資質がないと大変でしょうし、基礎もないし……」
と言葉を濁す。
脚本家は、濁された言葉の後が、シンとなって、なにも続かなくなったのを見計らうと、いきなり青年の目をのぞきこみ、肩を揺さぶるような勢いで、大胆にきりだした。
「基礎はいらない。過去はいらない。今のそのままの君が欲しい。そっくりそのまま、僕にあずけてくれないか」
「そっくりそのままの自分……」
青年は反射的に応えた。
「この僕をそのままブラウン管に映そうというんですか? あなたのシナリオの中で、筋書きどおり、普通の人間らしくちゃんと生きろと、そう言うんですか?」
青年の言葉は、抗議しているもののように響いた。
「そのとおり」
脚本家は立ち上がった。
「返事は急がない。身売りの覚悟ができたら、いつでも来てくれ。でも、なるだけ早くに。君こそが、僕の欠けていた一部分だ。君を必要としているんだ」
そう言い捨てると、彼はきっぱりと立ち去ろうとした。青年は腰を浮かせて、慌てて呼び止めた。
「待って下さい、本が……」
脚本家はちらりと振り返り、
「君にやる。読んでくれ。君にやらせたいドラマの原作なんだ。読んで納得しないようなら、返してくれ。じゃ」
と、忙しさを誇示するようにせわしく去っていった。青年は、あえてそれを深追いしようとはせず、茫然としながらも、再びゆっくりとベンチに腰をおろした。
「『心は孤独な猟人』?」
青年は、まるで未知の女性作家のページを開いた。その瞳の色は急に深く沈んで、新しい生気を帯びていった。……

Act 4 Scene 2

"An honest mind and plain, he must speak truth:
An they will take it, so; if not, he's plain,----"
青年は、薄暗い書斎のうず高い資料のなかに埋もれて、おとなしく膝をついていた。あちこちへ、ぽつりぽつりと視線を落としながら、かすんだ声で呟いていた。
「正直明確な心を持ったならば、彼は真実を語らねばならぬ。彼らが承知すればそれでよい、承知せずとも、これが彼の本質だ」
ぱちん、と部屋の灯がついた。老俳優が、息を切らせて、戸口に立っていた。
「君は!」
虚ろな表情で体を折っている青年を見、老俳優は乱れた息をぐっとのんだ。
「どうした、何をしている」
「別に」
青年はぼんやりと答え、立ち上がろうともせずに、ただ積まれた資料をことさらに積みなおしている。老俳優は、よろよろとソファに腰をおろすと、一つ深呼吸して切り出した。
「今日、S君から聞いたんだが、Tテレビの、次の、春からの連続ドラマにでるそうだね」
青年の眉がぴくりと上がった。だが、無言のままだ。
「ドラマ自体は、確かに悪いものではなさそうだ。時間帯は不安定だが、キャスティングはまあまあだし、スタッフにはいい若手が集まっている。スポンサーも安定していて、無理はいわない」
青年は、ただ黙って、先をうながすように、じろりとこちらを見る。老俳優はたじろぎながら、仕方なく続ける。
「だが私は、君がドラマにでるのは、まだ早すぎると思う。それでは、もったいないんだ。わかるかね」
そう言葉を継いだが、青年は気のなさそうに顔をそむけてしまった。閉じ合わされたままの柔らかい口唇。ただ白く清らかな、顎から喉にかけての線。妙に視線を引き付けるそのシルエット。老俳優は、魅せられながら説教を始めてしまった失策を知りつつ、なおその口調を早めていく。
「君は、のみこみが早い。わずかな努力で、いろんなものを吸収していく。新しいものに対して、強い情熱を持つ。一歩一歩を積み重ねようとする姿勢もある。だが、私は見抜いているよ、君は飽きやすい――現状に満足しやすいんだ」
青年はなおも押し黙っている。
「いまあのドラマにでたら、君は、ああテレビってこんなものか、と納得して、適当にこなしていくだろう。もちろん、君なりに一生懸命やるんだが、どこかである程度、セーヴしてしまうんだ。君は少しでも先が見え始めると、すぐに目をふさぐ。目をそむけてしまう。いままで、どんな事を教えても、そうだった。……そうだね?」
返事はない。
「それが世代の流行なのか、いや若さはそういうものなのか、私には計り知れないが、それでも忠告する。もう少し基本を修めてくれ。人が、見もしない先から馬鹿にするような、ドラマのようなものに、急いででてくれるな。いまでたら、君はそれこそ二、三作どまりで終わってしまう。間違いない。だからもったいないというんだ」
それでも青年は返事をしない。ただ、資料の積みなおしをやめると、ぱちんとデスクランプをつけ、手にしたリアの台本をくるりとまるめ、立ち上がった。目を伏せたまま。開演のベルを待つ、パントマイムの人形のように。
老俳優は困った。べらべらと意見を説き付ける、若者達の撓舌な芝居に慣れてしまっているだけに、青年の沈黙は、やけに意味ありげに胸に迫ってくる。耐えかねて、彼の声のトーンは、ぱあんと跳ね上がった。
「君は、あのドラマにでたいのかね。でたくないのかね。返事をしたまえ!」
青年が、すうと視線を上げた。台本を開げて背筋をのばし、眉間に皺を一本だけ寄せると、頬をよく引き締めた。そして口ごもるように一言、
「でたくありません」
と言った。
老俳優はギクリとした。その言葉には含みがあった。罠が仕掛けられていた。だがそうと知りつつも、老俳優は疑問を口にせずにはいられなかった。
「何故、でたくないんだ……?」
青年は、むうっとした表情のまま、途切れ途切れに呟いた。
「理由は、さっき、貴方が、おっしゃったでしょう。それ以上、なにがありますか。……それだけ先回りをされて、僕が言える言葉は、他に何か、あるんですか。文句があるとしても、そう押さえつけられたら、言えません」
老俳優は思わず立ち上がった。
「その態度は何だね! 礼儀知らずにも程がある!」
「返事をお望みなんでしょう。でも言えば怒るんですね。それでも差し上げられる返事と言えば、正直これくらいです」
老俳優は激昂し、拳を握りしめ息を詰めたが、青年は視線強く、台本を持った手を泳がせながら畳みかけた。
「どんな考え方をお望みですか? 特別御立派にですか、それとも浅墓にですか? 常識どおりに考えろですか、変わったように考えろですか? 僕は考えなしですが、それでも自分で考えたことで、責められるいわれはありませんよ」
おとなしい飼犬が、いきなり牙を剥いた。
老俳優の頭には、耐えきれないほどの血がさかのぼり、正に眼前がかすんで倒れようとした。その刹那、冷静な判断がはっと閃いた。
何故気づけなかったのか。この青年は、自分を怒らせて、出ていかせようとしているのだ。計算をしているのだ。その行動は幼いが、いや、その幼さまでも、きちんと計算に入れているのだ。――そう思いあたった瞬間、老俳優の背中はちりりと凍った。そして茫然とした気持ちを、無理に引き締めようとして尋ねる。
「正直に言ってくれないか。本当に、あのドラマに、でたくないのか?」
青年はきっぱりと答えた。
「でる、なんて一言もいってません。誰にも、一度も。脚本家の人が勝手にすすめた話なんですよ。嘘は言っていません。ただ向こうで勝手に進んでいるんです」
老俳優は頭をかかえた。青年の言うことは、多分表面的には真実なのだ。彼は嘘は言わない。彼の言葉は、そのままとっておけばそれでよし、とらなくても、彼はそれで完璧なのだ。
「こういう種類の悪党を私は知っている……」
老俳優は、思わず知らず呟いた。彼は、知りたくないことを了解させられた。青年の望みが、素人のまま、二、三作で消えることであることを。この青年の本音はこうだ、言われればでる、別にでなくてもよいが、望まれればいつでも、という傲慢さ。真面目に演劇を続けるつもりなどまるでないのだ、その場その場で面白ければそれでよく、だがその裏では安定した生活を求める小ずるい輩。よくある今風の気質だ、この青年も例外ではないのだ。だが、それは仕方がないのか。思うように羽ばたかせてやらなければ、いけないのか。
老俳優は、弱々しく額に手をあて、呟くように吐き出した。
「いいよ。いきなさい。やりたいように、すればいい。縛っても仕方がない。もう私が、面倒を見ることも、ないようだ」
「じゃあ、恩知らずはでていけ、という訳ですね」
青年はぱちんとデスクランプを消し、台本をぴしゃりと閉じて机に置き、そして大股に部屋をつっきって、そのまま出ていこうとした。老俳優はつい追いかけて、たたらを踏んだ。そして思わず言葉をかけた。
「おい、待ちなさい、どこへ行くつもりだ」
青年は先程見せた激しい様子を、すっかり改め穏やかに、
「自分の家に帰るんです。貴方に見放されたんですから、元の静かな暮しに帰るんです。では、どうも、大変お世話になりました」
と言って、軽く礼をした。
雷にうたれた老木のように、老俳優は立ちすくんだ。この青年は失えない。自分も、そして演劇も。だのにこの青年は、いまこのまま解きはなてば、いままで来た道をまっすぐに引き返してしまい、自分のねぐらに籠って、二度とでてくることはないだろう。その考えに老俳優は、耐えることができなかった。気づくと、青年の腕にすがりつき、訴えていた。
「待ってくれ。追い出すつもりなどなかったんだ、私は君が気に入っているんだ。世話もなにもない、ここにこのままいてくれ。結論を急ぐ必要はない」
青年はゆっくり首をねじり、少しの怒りと哀れみを込めた澄んだ瞳で、老俳優を振り返った。
「僕は、この家に、来たくて来たんじゃありません。Kさんの家を追い出されたからです。Kさんが勉強になるからいってこい、向こうもおまえが気に入っていて、ぜひこいと言っているから、と説得されて、それで来たんですから。……ああ」
青年はほうっと白く笑った。
「あっちの家に帰ってもいいんだ」
悪戯っぽい顔で老俳優を見おろす。
「僕には、迎えてくれるひとが、まだいたんだ。帰れるところがあるんだった。うっかりしていた、忘れていたなんて。あのひとはきっと待っていてくれる。僕を見捨てたりはしないひとだ。……じゃあ、忘恩の徒はこれで失礼致します。僕は、帰ります」
「駄目だ!」
行こうとする青年を全身の力で押しとどめ、老俳優は叫んだ。肩を押さえると、青年をむりやりソファまで押し戻した。
「駄目だ、あの人形師は、恐ろしい男なんだ。君の叔父さんを殺したのは、奴なんだぞ」

Act 4 Scene 3

青年は、きょとんとした顔で座っていた。そして、それから、ひどく怪訝な顔をした。
「なんの証拠があって……」
老俳優は、青年の顔から視線を外さないようにしっかりと見つめ、努めて険しい顔をして、
「私は、自分でそんないかがわしい事件を探るほど、下司の輩ではない。だが、あの人形師は、あまりにも不審な男だ。だから、君の置かれた状況を知ってから、自分の推測を遠まわしにほのめかしてみた。……曖昧にだが、認めたよ。不安定な職業だ、奴は君の財産に目がくらんだんだ。君が無欲なのをいいことに、奴は、君の財産を勝手にいじっていたんだ」
青年は、悲しげな顔をした。
「するとあなたは、その秘密を担保に、僕をKさんから借りだしたって訳ですか。何の根拠もないというのに……」
いや、青年の顔は悲しげというより、おかしくて笑いたいのに笑えないというような、ことの成行きにあきれかえって、どうまとめたらいいのか戸惑っているような、奇妙な表情をつくっていた。
「この僕に、果して、そんな価値があるんですか? 一つの殺人を、個人の秘密として胸に納めてしまうほどの?」
老俳優は、青年の脇に静かに腰をおろした。指を組んで少しうつむき、いままで思いもよらなかったような告白を始めた。
「ある。……人一人死ぬくらいの価値が」
深く首を垂れ、呟くように話し続ける。
「俳優には、二通りがある。自分を知るものと、自分を知らないものだ。私もそうだが、俳優は応々にして、自分を知らない。だが君は、自分をよく知っている。そして、自分を生きていくことができる。そういう類の俳優だ。……そして君の価値は、一見あまりに普通の青年のくせに、実は、微妙に奇妙な青年であることにある。……君を見れば、大概の若者が、君の存在を、まず真実でない、と否定しようとするだろう。君は実に許し難い混沌を自然に抱えていて、平気でそれをみせているからだ。だが、彼らは、君を否定しようとすればする程、自分も割り切れない存在であることを知ってしまう。他人というものが、見た目ほど単純でない事に気付いてしまう。そして、それなら、これからどうやって生きていったらいいのか、ということを考え始めるんだ。……人間は、どんなに些細なこと、下らないこともにも影響されて生きている。その中で君は、人を動かす重みがある。生きてゆくだけで、それを人に見られるだけで、面白い存在なんだ。……だから、どうしても、君をきちんと世にだしたい。そのために、もう少し、君の要素を整理して、見やすいようにしたい、そう思っているだけなんだ。わかってもらえないだろうか?」
青年は、うなずかなかった。老俳優が取り乱し、気付かなかった本心を露わにし、懸命に懇願しているというのに、彼は無関心な様子を崩さず、ただ前方をぼんやりと見つめてい、相手の言葉が終わると、明確な真理を何故いまさら念を押さねばならないのか、とでもいいたげな、含めるような口調で、
「そんな、ものでしょうか? ……僕には、そうは、思えないんです。人は、自分の目の前にあるものも、よくよく見ようとはしません。僕の生なんて、そんなに意味のあるものじゃありませんよ。……同意はします、貴方が、自分を知らない、ということは。貴方は生きている人間なんですよ。それを、他人の物語の肖像画になりすまそうとするなんて。生きているというのに、他人事を眺めてとりすまして生きていくことなんてできないんですよ。古い生活を乱しにくる若い闖入者がエネルギーになる、なんていう考えは、ただの願望、妄想なんですよ。わかりますか? ……だから、僕を自由に、させて下さい」
青年は言い終えるとすっと立ち上がり、再びでていこうとした。老俳優はだがなお、亡霊のようにその前に立ちふさがった。
「どういう意味だ、それでも帰る、というのか……」
青年はいいかげん、老俳優の物わかりの悪さにうんざりした顔で、相手の肩をぽん、と押さえると、
「ここにいるのも、K人形師の家に行くのも、自分の家に帰るのも、僕の勝手でできるという事です。違いますか?」
そうだ、二十歳をすぎた青年に、赤の他人が、何を強制できるというのか? それは、老俳優の理論の前提の一つの筈だった。だが彼は、虚ろな目をしたまま、首を横に振った。
「言っただろう、ともかく、あの人形師のところに行くのは、絶対駄目だ。あの男は」
青年は、淡々とした口調でさえぎった。
「まだ、わからないふりをするつもりなんですか。あのひとじゃないんだ。僕が、叔父を殺したんですよ」
老俳優は、首を締められたような悲鳴をあげた。
「何を言うんだ君は、馬鹿な。……そんな馬鹿な。馬鹿な事を言うんじゃない!」
青年の濡れた瞳は、ひどく優しい色をしていた。
「Kさんは、僕をかばいたかったんでしょう、多分。殺人が匂えば、僕がいろいろ調べまわされる。それが嫌で、貴方に僕を引渡したんですよ。秘密はひっそりと自分だけのものにしておきたかったんですよ。おわかりでしょう」
老俳優は、自分の肩にかけられた手を払いのけた。
「そんな馬鹿な事があるか、本当に君が殺したんだとすれば、君は捕まっている筈だ。君は財産のある男の唯一の血縁だ。絶対に疑われる人間なんだ。あやしいところがあれば、とうに……」
「でも、動機はそれほど、ね。……僕自身が、親の遺産があって金持ちで、派手に遊んでいる訳でもない。誰かに貢いでいる訳でもないし、仕事もあって、毎日平穏無事です。特に差し迫った事情もないのに、何が悲しくて、叔父を殺すんですか?」
そこで青年が茶目っけたっぷりに笑ったので、老俳優はなおさら狼狽し、
「だって、君は、殺した、といったじゃないか」
「だって、うちの車に細工ができるのは、僕だけでしょう? まだ納得がいきませんか? Kさんを主犯にして、僕は従犯、操り人形になったんですよ」
それが、真相。
老俳優はだが、青年の動機を計りかねて喘いだ。退屈か? 道徳性の欠如か? 本当に、人形師に操られるのが面白くて、叔父を殺したというのか? そんな馬鹿な。
「それが本当なら、何故それを私に話す。いったい何故君は……」
老俳優が数歩よろめき身をひくと、青年はその場に立ちどまり、腰に手をあてて諭すように、
「証拠はもう、とうの昔になくなっちゃいましたよ。みんな処理されて、燃やされました。だから平気なんです。嘘をつく必要もないんです。もちろん、嘘をつく必要があれば、つきますよ。たとえば貴方が、この会話を録音しているとしますね。そしたら、芝居の練習をしていたと言い抜けます。それから、……」
「違う」
老俳優は、じりじりと青年の脇をまわって後じさりしながら、
「たとえ証拠がなくても、真実を私に話す必要はないだろう。私が密告すれば、やはり再調査がされるだろうし、新しい証拠がでてくるかもしれないぞ。警察がやらなくとも、保険会社がやるかもしれないし、幾らでも落し穴は……」
青年は穏やかな微笑で、その動きを追いながら、
「言ったでしょう、僕は自由なんです。生きることも、死ぬことも。……追いつめらるのが運命なら、逃れようなんて思ってない。僕は自分の運命を、自分で選択したんですから。自分の行方は自分で決めます。もし捕まっても、いいたくなければ、何も明らかにするつもりはありません。でも、自分の罪を明らかにしたいと決めたら、僕は警察に駆け込んで、自白することだってしましょう。僕を主犯にすれば、死刑だって望める。証拠が足りなかったらつくってもいい。その気になれば、どんなことにも、いくらでも手を尽くします。いざとなれば、死ぬために、貴方を証人に仕立てることだって、やってみせますよ。いいですか。覚悟はとっくについてるんです」
「ああ」
老俳優の膝が崩れて、よろよろとソファへ倒れ込んだ。
驚愕。逆手の脅迫。
この青年は、生命の選択権を、自分の手に半分ゆだねたのだ。無論、自分の不利にならない、という予想のもとで。そして、それを自由というのだ。最後の選択は必ず自分でする、そのためなら、死も辞さない覚悟で。
老俳優は、顔をすっかり両手で覆って、掠れた声で呟いた。
「これから、どうするね……いって、しまうのか……」
青年は白い歯を見せて笑った。
「しばらくは、この家にいますよ。出演が決って、ドラマが始まったら、もっと便利になるように、引っ越すかもしれませんけど」
「何故……」
老人は、なおもふりしぼるように言いかけたが、青年はにっこりしたまま明快に、
「僕の目的は、今まで、ただのぼんやりした憧れでした。でもやっと、僕は求めていた場所を見つけました。僕の願望は、だんだんはっきりとしてきました。だから僕は、自分の足元をよく見てから、いくんです。では、さようなら」
そう言い捨てると、戸口のところで振り返り、謝意を示すように深くお辞儀し、出ていった。
車の音がした。たぶん、プロデューサーか脚本家のところへ行くのだ。決意をつげに。……
老俳優は、死人のように横たわっていた。空っぽの心に、いくつかの概念が浮かんできた。
「そう言えば、あの人形師、変な事を言っていたな、訳のわからない事を……《ルパンは、知らないうちにいつしかドロレスを愛するようになり、それゆえに全てを失ってしまった》と。……ドロレス、とはいったい何だ? どういう意味があるんだ? 変なたとえをしていたな、《私は銛を打ち込まれ、ひきずられていく鯨のようなものだ》などと……あれが、巨鯨を引っ張っていく、小さな捕鯨船だと? 彼は《KING REAR》だ。《背後に潜む王》だ。恐るべき、高貴なる、偉大な、成長を続ける存在。誰も、何も、彼の道を阻むことはできない……」
老人は、情深い修羅場を幾度となく演じすぎた故なのか、さしつけられた現実がよく見えず、ただそれの大きさと奇怪さに、初めての痛みを感じていた。閉じられた瞼がひくりと動いて、涙が一筋、つう、とすべりおちた。

Act 4 Scene 4

Tプロデューサーは、S脚本家とミキサー室に詰めて、幾人かの役者達と、彼の青年を見おろしながら、話していた。
「放映直前にこんな事をいうのも今更なんだが、地味な設定だからなあ。あんな男で、大丈夫なのか?」
プロデューサーの危ぶみを、脚本家は自信ありげに打ち消した。
「大丈夫です。彼のおかげで、今までの作品より、ずっと面白くなりますよ」
この作品。『The Heart Is A Lonely Hunter』――『心は孤独な猟人』。
それは、カースン・マッカラーズというアメリカの女性作家が、一九四○年、二十三歳の時に発表した長編小説である。機械文明が押し寄せる南部の町を舞台に、人間の魂の孤独が細やかに描かれる。主な登場人物は、さばけていながらも、音楽家になる夢を女の子らしく大事にしている、下宿屋の娘ミック。社会改革の夢に破れて、いろんな町を彷徨する、元図書館員のジェイク。黒人の生活改善と地位向上をめざしながら、同胞に足をひっぱられてやるせない、勤勉な黒人医師コープランド。奇形な人間を愛し、妻を失ってしまったことによって、女性化していくカフェの主人、ビフ。彼らは皆、自分の話をきいてくれる、わかってくれる人間を求めている。そこに現れたのは、唖者であるギリシャ人、銀細工師のジョン・シンガーだった。
口のきけない彼は、社会的な波風を立てるのを望まないので、彼らの言葉を黙って適当に受け流し、全てを受け入れてくれるように見える。よって、彼を偶像視し、崇拝の気持ちを持つ信者達が、ぞくぞくと増えていく。だがシンガーは、彼の救世主である、やはり唖者の親友が死んでしまうと、絶望して自らの命を絶ってしまう。人々はあらためて自分達の生を見つめ、生き始めなければならなくなる。……
という話を、現代日本を舞台にし、S脚本家はこう置きかえてしまった。
まず、カフェの主人を少し高級なアパートメントの大家で、占いだの心霊現象だのに目のない超自然気狂いとしておき、あとを全員下宿人にするのだ。けなげに生きる少女を、ポップアートがやりたくて学校を転々とする天才音楽少女にし、勤勉な黒人医師を、多芸に秀でるのに友人のいない女性弁護士にし、夢破れた革命者を、元ルポライターで、暴力団の密着取材しているうちに、仲間内のヒエラルキーに憧れて、自分もヤクザになってしまった男に変える。彼らは一見嘘くさく、オーバーな典型的な芝居で、自分達の特徴を毎回強調する。
そこへ、謎の下宿人をつれてくるのだ。彼の正体は、どうやらアンドロイドらしいのだが、昨今ではアンドロイドという存在も古く、皆すぐに慣れてしまって、大騒ぎは起こらない。むしろ皆彼と親しげにつきあい、つい彼に本心をうちあけてしまったりする、というのがミソだ。機械が一番、自然で人間らしい行動をとり、人間の歪みをうつす鏡となる訳だ。毎回の新鮮なエピソードと、落ちの情味がポイントになる。
「だが、主人公のあの青年、初めは素人のぎこちなさが、機械らしくて面白いかもしれないが、後半まで持つかどうか? ただの下手な役者になりさがりはしないか?」
プロデューサーが子細らしく顎をなでると、脚本家はおどけて、大仰な身振りで否定した。
「あの青年の良さは、どんどん磨かれていきますよ。まず育ちの良さ。それから汚されていない感性があります。その上に、雑誌もTVも映画でも何でも見て、必要な勉強をちゃんとやっています。……いや、ともかく面白い奴なんですよ、過去や苦労が外にあらわれない、本当に世間離れしたキャラクターなのに、実はひどくクールな、現代的な青年です。逸材ですよ。ああいう妙な奴が一人いるだけで、どんな地味な日常もドラマになる。僕はあれを見ていると、実に創作意欲がわくんですよ」
「そんなものか? ……まあ、本人のやる気次第、というところか……」
プロデューサーをなんとか黙らせてしまうと、脚本家はにやりとして腕組み、青年を再び眺めおろして独白した。
「実に面白い素材だ。……合成樹脂でつくった白い人形のようだ。汚れに弱いようでありながら、泥をかぶようが血を浴びようが、綺麗にはじいて、ぬぐってしまえば跡も残らない。傷がついても、少し削るか何かを埋め、上から白を塗りなおしてしまえばわからない。ほっておいても中身が腐る事もない。そんな存在だ。……理想的だ。実に便利で扱いやすい、実にリアルで嘘くさく……」
だが、彼のニヤニヤ笑いさえ、まだこの青年を見通してはいなかった。

Act 5 Scene 1

《人は皆、かけがえのない部分を持っている
それを認めあえれば、不和はない
だがその部分は、
決して完全に重なりあうことはないのだ……》

ナレーションが終わると、派手に飾られたタイトル。それが崩れて、大量の人々の流れに変わる。大きな駅の階段を、人々は忙しげにどっと上がっていく。
その中を、大きな鞄を下げた長身の青年が、ゆっくりと降りてくる。彼はあまり人の邪魔にもならず、悠々と階段を降りてくるが、ふと、派手な格好の女の子とぶつかりそうになる。青年が、にっこりと笑って、挨拶するアップ。つられて女の子も、眩しげに笑うアップ。
そのまま青年は階段を降り、駅前の広場を泰然自若とつっきっていく。すると、いい齢をして、変な髪型を固めた男とぶつかりそうになる。男が青年の胸ぐらを掴もうとすると、青年はにっこりと笑って、あやまる。あやまられた途端、男の顔は奇妙に歪んで、手をひっこめてしまう。
青年はそのままショッピング・モールを抜けていく。すると、カチカチに決めたスーツを着ていながら、沢山のスポーツ用具を抱えた女性とぶつかりそうになり……
そんなこんなをして住宅街に入っていくと、青年は大勢の人間の注目をひき、振り返られ、多くの知人をつくってしまう。そして、あるコーポのドアを開けると、さっきすれ違った筈のメイン・キャスト達が、そろって彼を笑顔で迎える。

暗転。

青年が白いテーブルに、頬杖をついている。テーブルの上には、五十年代にはやったような、アンティークなブリキの人形がいくつか置かれている。青年はその中の一つを取り上げると、背中のネジをキリキリと巻く。瀟洒な紳士の人形は、ネジを巻かれて、テーブルの上をキ、キ、キと歩いていく。次に妖艶な美女の人形が、それを追ってジリジリと音をたてながら、左手に消えていく。可愛らしい男の子の人形も、素朴な少女の人形も、青年の手で命を吹き込まれて、みなカタカタと歩いていく。子犬もコロコロと後をついていく。
青年は無心に作業を続けていくが、兵隊さんの人形をとりあげようとして、ふとその手を止めてしまう。カメラアングルがぐるりと変わって、青年の背中をうつす。その背中には大きなぜんまいがつきたっている。青年の背後に影が落ち、新しい人物によってそのぜんまいがまかれる。
青年はたちあがり、さっきの人形達のように、一、二、一、二、と手をふって左手に消えていく。空いた席に座った人間が、兵隊さんのネジを巻く。兵隊さんがカチカチと歩いていくと、ネジを巻いた人間が頬杖をついて、それを見送る。
青年である。

Act 5 Scene 2

そこで脚本家は、ヴィデオのスイッチを切った。TV局の編集室で、彼はすでに放映された分のテープを見ていた。何度も繰り返して見ながら、軽く首をかしげ、人さし指を顎にあてて考え込んでいた。
青年のイメージが、どうも微妙にずれてくるのだ。このオープニングもエンディングも無難にまとまっているが、青年の成長と変化は、彼の予想をはるかに越えてい、こんなフレームではとらえきれなくなっていた。
工科出身が関係あるのか、人造人間らしい振舞いは、最初から凄くうまかったが、イメージの固まった売れっ子俳優の中にあって、はっとする程人間臭い行動をとり、真実味あふれた演技の、新人らしからぬ力量。鼻にかかった間抜けな声、きょとんとした表情が母性本能をくすぐるのか、若い女性の間で爆発的な人気が出た。それでも、彼の私事は秘密にされた。つかみかねる男、それが青年の魅力だったので。
脚本家はもう一度、エンディングを見た。これは青年をすっかり気に入ったY監督自らのイメージをとったものだが、やはりこれも、青年の真の姿を捕らえてはいないと思われた。
脚本家は、本物を見る事にした。
スタジオをのぞいたが、いない。待合室をのぞいてみる。そして、メイク室へたどりついた。
青年は一人、黄身色のタオルを肩からかけて、メイク室に座りこんでいた。頬はこけたが、甘味の増した顔。つぶらな瞳で、じっと鏡をのぞきこんでいたが、脚本家が入ってくると、振り向いて、にっこりと笑った。
「Sさん、見にきて下さったんですか」
脚本家はきさくに微笑んで、
「ああ。よくやってるじゃないか。どうだい、現場の方は」
青年はこくんとうなずいて、
「皆さん親切な方ばかりで。本当によくしてくださって、素人の僕に、手とり足とり教えて下さるんで、とても有難いです。その分、僕も一生懸命やらなくちゃいけませんが」
青年の言葉は建前ではなかった。彼は俳優達とよくつきあっていた。普段クールで我侭な子役の少女が彼にはなついた。硬派の孤高を保つ男優が、彼には親しげに話をする。男嫌いのインテリ女優が、彼と遊びに出かける。怪演が売り物のベテラン俳優が、そのコツをこっそり彼に教えたりする。青年は、いつも明るく楽しげで、初主役のプレッシャーに押しつぶされる、などというような現象は、彼には全く無縁のようだった。にっこりと笑って続ける。
「Sさんにも、ここまで大切にしていただいて……僕みたいな、どこにでもころがってるような、ただのぼんやり者が、こんなに面白い話を演じることができるなんて……Sさんの台詞は、一つ一つが磨かれていて、丁寧に重ねていくと、すごく厚みが出て、はっきりと方向が示されて……僕は初めて、人間らしく生きられるようになったような気がします。あの話は、これからどうなるんですか? 楽しみだなあ」
この青年は、さらりと歯の浮くような事を言って、決して嫌味を感じさせない。だが一心な期待に見つめられて、脚本家は少々赤面し、サングラスをおろして頬をこすった。
「まあ、僕のオリジナルに、彼女の他の作品をからめたり、埋もれているアメリカ作家の作品を使ってつなげていくつもりなんだが、最後はまだ未定だ。いくつか案があるんだが、まだみんなには秘密だ」
原作どおりにするつもりはない。この青年に、自殺は似合わない。この青年は、たとえ大切なものを失っても、決してその悲劇に殉死はしまい。シンガーほど空っぽの男ではない。もっと冷酷で、かつ愛らしい。
残酷に終わるなら、トルーマン・カポーティの短編を使ってもいい、と脚本家は考えていた。『夢を買う男』なんかはどうだろう。リヴァゴームという、魂を持たない男がでてくる。彼は、人の夢を買い、それをタイプしてファイリングし、沢山ためておく。或る女が、夢のない暮しに耐えられなくなり、自分の夢を取り返しにいこうとすると、彼は答える――《返すことはできない。なぜなら、みんな、使ってしまったから》という絶望的な返事を。
脚本家は、そんな風に、最後に視聴者にあかんべえをするような、悲劇的な落ちがつけてみたかった。青年なら、それをうまくやってくれる気がした。
彼の唯一の弱点は、最終回が下手、という事だった。型どおりの回想をしたり、ありきたりの結末に崩したりして、せっかくの気分を抜き、盛り上がりをさましてしまうのだった。今回も、ある案を念頭に置いて書いているのだが、どうにも面白くなりそうになかった。今回だけはすっぱりと、ただ一言で鮮やかに終わらせたいのだ。すべての謎が一挙に解明されるような、かけがえのない、たった一言が欲しい。
それだけを念じて、脚本家は青年を見つめた。
「ところで、今日のこれからの予定は?」
「あ、レッスンに行きます。プロダクションの人が、そろそろ迎えに来てくれると思います。……どうも、僕の発音は曖昧模糊が抜けなくて、特訓されるんですよ」
と言って青年は立ち上がった。脚本家は気安くその肩を叩いて、思い付くままに言った。
「君はそのままでいいんだよ。発音なんて甘い方が、無垢なナルシストって感じで、いいんだ」
「いえ、駄目です。発音はクリアでなければ」
青年は、急にきっぱりと言って、脚本家の手を逃れた。白い冷たい頬は、表情を凍らせていた。
「僕の正体は、人間なんですから。機械に憧れて、機械のふりを一心にする人間なんですから」
脚本家は、一瞬めまいを覚え、目の前を暗くした。その闇にはぼんやりと白い仮面が浮かんで、何事かをささやいていた。
「この重苦しい人間の身体をさっぱりと捨てて、機械の軽い身体になれたら、どんなにいいでしょうね。機械なら、ただ目的のためだけに生きていける。つまらない束縛からいっさい自由になって、自分の仕事を黙って遂行できるんですから」
それは、心の底に潜んでいた、彼の結末の一つだった……この青年は、この世で一番邪悪な存在の一つなのだ、という結末。
彼は許されない罪人なのだ。皆をだましたことが罪なのではない。また、自分の欲望にのみ忠実であったからではない、他人によりかかって自分だけ楽しんだからでもない、ただこの世のしがらみをふりすてて、純粋に目的だけを求めていることが許されないのだ。人は目的だけに生きられない。それは人間がやってはならない事だ。大人の人間にはできないことだ。故に彼は本当に機械の身体を手にいれて、人間であることをやめる。コメディでありながら、最後には全てを裏切って、ファシズム批判の翳りさえ帯びる、完全な悲劇になる。
それが、この青年でならやれる。きっとやれる。この青年は、後味の悪ささえ軽がると乗り越えてゆくに違いない。こいつはそれだけのことが出来る。そういった存在だ。人間を越えた、人間なのだ――
「あの、どうしたんですか、Sさん」
青年はいきなり人間の姿にかえっていて、脚本家ははっと我に帰った。脚本家は、人差し指で額をこじってめまいを押え、
「大丈夫だ。それより、時間はいいのかい?」
「あ、本当だ、時間です。じゃあ、どうも、お先に失礼します」
青年は軽い足取りで、硬い金属質の靴音を響かせながら、部屋をでていった。彼の口唇から、何事か詩のような呟きが洩れた。
「うら若き日の果てしなく漂う……」
この廊下を抜け、その先の玄関では、磨きこまれた車が青年を待っているのだった。
彼を、ショウファとしてでなく、自ら行く先を指示する者として。

(1987.11脱稿/初出・青山学院大学推理小説愛好会『A.M.MONTHLY;No.113』1987.12/参考文献・坪内逍遥、小田島雄志訳『リア王』他)

《推理小説系創作のページ》へ戻る

copyright 1998
Narihara Akira
http://www5f.biglobe.ne.jp/~Narisama/