▲書き手としての打ち明け話

『恋愛経験値』

この本(恋愛経験値)は、Narihara Akiraが97年の春から夏にかけて書いただらだら雑文をまとめたものです。ロマンスや推理小説のことや女性問題など、普段のペーパーよりやや有意義なことを書こうと思ったのですが、やはりちょっと失敗してます(笑)。皆さんしばらく我慢して、おつきあいのほどを。

☆恋愛経験値☆

最近だいぶロマンスめいたものを書くようになったので、よく誤解される。
「Nariharaさんてなかなか激しいんだね。情熱的!」
「大恋愛をしてるのね、幸せそう」
「こんないい事が本当にあったんですか?」
んな訳あるかい。
人生そんなに甘かない。だいたい、私みたいな怠け者がそうそういい目に遭える訳が!
いや、ちょっとぐらいならなくもないが、情熱的とか大恋愛とか称していいような経験はとてもとても……。

小説には作家の人生が現れるという。創作にはどうしたって書き手の考えが反映される。作品の意図によっては、逆の考えなども書き入れる時があるだろうが、その作家の書いたものを全部通して眺めれば、その人の思考はある程度知れるだろう。
しかし、体験の方はどうだろう。
私の場合、私小説めいた作品や実話と銘うった話も、だいたい現実そのままではない。私はあまり上手ではないが嘘つきである。周囲に煙幕をはるのが性分なのだ。だから特に恋愛物などは、ほとんど全部フィクションである。私はかなり淡泊な人間で、作中人物のようなねちっこい執着心はもっていない。また、幸せなロマンスを書いている時は、好きな相手とうまくいっていない時の方が多い。ふたまたをかける体力もないので、こいつは危険だと思う相手にはあらかじめ冷たくするぐらいの面倒くさがり、かつ無礼者である。
そう。
ここまで読めばおわかりと思うが、私の恋愛経験値は低い。
だから、恋愛の実話を期待されても、上手に返事ができない。
誤解されると冷汗をかく。

恋愛経験値の高い人生はつらいだろうな、と思う時がある。何をもって恋愛とするかは人それぞれだろうが、誰かを好きになるという経験はいいことずくめでない。喧嘩やすれ違いや誤解がなくてもつらい日がある。間違って好きでもない相手とうっかりくっついたりするのも悲惨だ。後でいい勉強になった、豊かな人生になったと思える日がくるかもしれないが――。
とにかく、恋愛の最中というのは嬉しいことばかりではある訳ではない。恋人と結ぶ絆と、信頼のおける友人と結ぶ絆というのはやはり趣きが違う。甘える具合いも信じられない度合いも違う筈だ。時と場合によりけりといえばそうだろうが、恋愛の期待が破れた時のショックは大きいと思う。裏切られて誰も信じられなくなるのも馬鹿馬鹿しいし、人を信じようとして馬鹿な目に遭い続けるのもやはり馬鹿馬鹿しい。恋愛には個人の好みが大きく強く入ってくるし、常に誠実であれば捨てられないということにはならない。
そんなことを考えると、経験値の高さと恋の幸せは、あまり比例しない気がしてくる。恋に夢をみられなくなったらつまらない。恋愛経験の豊富さを自慢するのは害しかないように思われる。それだったら、低い方がよっぽどいいんじゃないか?と。

そんな私でも、経験値の低さに困ることがある。
相手を口説いている時だ。
ここ一番の甘い囁きに、どこかできいたような台詞を吐いている。オリジナリティのないことおびただしい。後になって赤面する。よくもあんな俗っぽいことを――てめえ死にやがれ、と恥入る。勉強せねばと思う。本でも雑誌でもなんでもいいから読んで、洒落た語彙でも増やしとけ、と。
そして気付く。
小説から私の恋愛経験値はバレないが、恋人には小説読みの経験値がバレそうだと。

☆ぐらんどふぁーざー・こんぷれっくす☆

「好みの異性のタイプは?」
ときかれたら、
「そうですね、ジジイがいいです。年が上であればあるほどOKです。棺桶に片足つっこんじゃってるようなのでも可」
と答える。すると相手はたいがい驚いて、
「なぜですか?」
ときいてくる。十年前だったらこんな風に答えた。
「だって、すぐ死んでくれるたら楽じゃないですか。それに、まとまった遺産が入るかもしれないですしね」
と。もちろんこれは冗談だ。妻として、死にかけ爺さんの面倒をみるぐらい大変なものはあるまい。よっぽど愛していても、楽ということはまずないだろう。
なぜ冗談にするかと言えば、本当の理由は簡単にいえないからである。
で、最近の言い訳には、もう少しもっともらしいのを使っている。
「そうですね、私が年寄りを好きなのはおじいちゃん子だったからかもしれません。祖父は、それはもう私を可愛がっていたので。ある時は娘のように、ある時は配偶者のように慈しんでもらいました」
これは全然嘘ではないし、世間的にも納得してもらいやすい答だろう。核心的理由でないにしろ、理由の一つではある。なかなかよい返事だと思うのだ。

私の祖父は千葉の農家の三男で、しかも子供の頃足を悪くして一生ひきずる羽目になってしまったひとで、当然のように家を継ぐ予定はなかった。
だが、勉強ができた。このまま田舎に埋もれていても食べていかれないので、東京の物理学校に入って往復八時間かけて通った。卒業後はなんとか学校の先輩のひきがあって、平塚にある海軍火薬廠につとめることになり、こちらの官舎に引っ越してきた。戦争中はロケット製作をしていたということだが、孫の私は詳しいことをきいたことがない(殺戮兵器をつくっていたのだからということで話したがらなかった)。敗戦後は得意の英語で進駐軍と渡り合い、貧しい暮しに工夫をこらし、パージがとけた後は国鉄勤めなどいくつかの職業を経ながら家族を養い、最後は(死ぬ寸前まで)私塾を経営していた。人の上にたつことが多く人当たりはよかったが、本当はあまり口数の多くない、むしろ頑固一徹なひとだった。配偶者を早くになくしたので、どことなく彼女の面影をもつ内孫の私を特に愛した。不自由な足で自転車をこぎ、週に一度の墓参りを欠かしたことはなく、日記には妻をなくしてから何日目かということが毎日きっちり記してあった。ロマンティストだった。亡くしてしまった者への愛や後悔というのはなんと深く美しいものか、という概念は、やはり彼に教えられたのだと思う。
旅行好きであったのに、妻をなくしてからはまったく旅をしなくなった。思い出のある特定の料理は口にしなくなった。晴れの日にはダンディとしかいいようのないお洒落をし、家族を全員連れだしてお座敷で大御馳走をするようなひとだった。祖母の存命中(病弱ながら私が三つまで生きていた)の私はおばあちゃん子だったらしいが、その後はめっきりおじいちゃん子になり、小学校に入るまではよく一緒の布団で寝た。いつもは隣に寝ているのだが、怖い夢を見たりすると、同じ布団へもぐりこんで慰めてもらったのである。
私が彼の意に染む孫娘だったかはともかく、私にとってこの祖父は理想の父親だった。どっしりと構えていて余計なお節介は焼かないが、不遇の時は優しく、適切な援助の手をさしのべてくれるというような。数学の苦手な私は、高校一年の数Tまでを祖父に習った。彼の机の脇に立って、難しい説明をきくのである。何時間も立たされ坊主みたいになって教わるのだ。時には辛かったが、ただむやみに「勉強しなさい」と叱られるのと違って、文句のいいようもない。今となっては楽しい思い出だ。おじいちゃんの机には文房具も工具もなんでもひとそろい揃っていたので、しょっちゅういろいろ借りだしたしいろいろともらった。これは彼が死ぬまで続いた。そんなある日、盗み見るつもりでなかったが、机の上に大学ノートの日記帳が開かれていたので、チラとのぞいたことがある。そのページには、すでに就職した私についての二、三言――帰宅時間の遅さや仕事上のトラブルに関する心配が箇条書きで簡潔に記されていた。目に入るなり涙が出た。私は間違いなく愛されていた。有難かった。泣きもする。

今年は祖父の七回忌だった。
毎夏、彼が祖母と一緒に眠っている墓の前で手をあわせる時には、心の中で、
「心配しなくていいよ、おじいちゃん。私は幸せにやってます。おじいちゃん以外にも、私を充分愛してくれるひとがいますから」
と呟くことにしている。
なんだか再婚する後家さんの言い訳みたいで、我ながらおかしいけれど。

そういう訳で、私の小説にでてくるおじいちゃん達は皆一様にいいひとになってしまうらしい。孫に冷たい祖父母というのはそう多くないかもしれないが、私のおじいちゃんは特別だった、と美化してしまいたくなるのだ。「好みの異性のタイプは?」ときかれて、「ジジイがいいです」と即答してしまうほど。
これはやはりファザコンでない、つまりグランドファザコンというのだろう。

☆婦女子に自爆のロマンがわかってたまるかーーっ!(by成原成行博士)☆

ぼんやりワイドショーをみていた。
その日、五十代の女性が不倫相手の老人を車でひき殺したという事件を報道していた。
最初はTVの中のコメンテーターと同じように、馬鹿なことするおばさんだなあ、と思いながら眺めていた。しかし、話がすすむにつれて、だんだん興味をひかれだした。
殺人者である中年女性は、夫は一応いるもののろくに帰ってこないような有様。被害者である老人は元学校の教師(管理職までつとめた男)で、一人息子をかかえて未亡人のように苦労している彼女に同情し、いつしか関係が始まったという。近所の人も知るほどの親密さだったが、思春期後期の息子もその交際には反対していなかったらしい。女性は離婚を決意して老人に結婚を申し込んだが、彼はこれを拒否。それからつきあいが疎遠になりはじめたが、女性はどうしてもあきらめきれずに老人にプロポーズを続けた。そしてある日、別れ話をして自転車で走りさろうとした老人を、女性は自分の車でひき殺してしまったのである。彼女は車にのったまま、すぐ警察に行って自首している。
コメンテーター達は最後の最後まで「良識ある大人の女性として許しがたい行為」という建前を呟き続けていたが(そりゃあ殺人を肯定する訳にはいかない)、私はその報道の最後の部分で、コロリと殺人者の女性の味方になってしまった。
というのは。
車にひかれた男性、その後もしばらく息があったらしい。事件を目撃した近所の人が、あわてて老人に駆け寄り(救急車を呼び、その間に手当てをするつもりだったらしい)、「ひどいことするねえ」と声をかけたのである。するとその男性は目を閉じたままひとこと、
「……わかってる」
呟いて、それから死んだと。
おお!
なんて渋いじいさんだ!
美しい話だ。
これは、愛しても愛してもイエスを言ってもらえず、発作的に恋人を手にかけてしまって激しく悔いる女性と、その事情と心理のすべてをのみこんでいながら、信条があってどうしても受け入れられず死を選んだ男性のロマンスだ。ありがちと言えばいえるかもしれないが、この老人はやはり渋くてカッコいい。なぜこの女性が彼をあきらめられなかったのか、私にはとてもよくわかる。手にかけてしまった衝動もうなずける。二人が愛しあっていたということを否定するものはいるまい。不倫でなければ、幸せな老後の可能性もあったろう、とさえ思う。
だが。
この男女の性別が逆だったらどうだろう。
自分の家庭を捨てるから、とおばあさんに迫る男。おばあさんは、そんな面倒はいまさら困るから、と冷たくする。しかし男は彼女につきまとい続け、あげくの果てに車でひいてしまう。
うわ。
なんて情けない話だろう!
たとえおばあさんが「わかってる」と呟いたところで、話はちっとも美しくならない。現象は同じでも、そんな男性はまったく同情されないだろう。自首をしたって、ただ惨めなだけである。笑いものである。
そんな時、私の相方がぽつりと呟いた。
「女のひとには他爆の美学があるんだよ。変ないい方だけど」
と。
他爆(他人を害すること)が誉められるというのだ。

男性には自爆の美学がある。戦時を考えれば、それを否定できるものはいない筈だ。特攻部隊は、男だからサマになる。お国のため、愛する妻や子供のため、同胞のために、派手に散っていいのである。それは美化され、国をあげて祭られたりもする。
しかし、女性の自死はただ痛ましいだけだ。身が汚されるのを恥じて死ぬ女性がいても、別に祭られたりはしない。子供のために身を投げ出す母はいるが、それよりも歯をくいしばって共に生きのびる方が、愛情としては高く評価される筈だ。
この美学の背景には社会的意味あいがある。男だけいても、女子供が滅びたら、その国は終わりだからだ。成人男子は、適当に強いのが適当に残ってればなんとかなる。だから、貴重な資源である女子供が自ら死を選ぶことは奨励されないのだ。そしてそれが、戦時において敵国の女子供を最初に襲う理由となり、それがまた最も卑劣な行為としてそしられる理由になる訳だ。
しかし。
日本においては、女が死を選んでも美化される場面がある。
心中だ。
自分の愛を貫き通すためなら、女は相手を殺してもいいのである。一家心中だって、父親が主犯なら「弱いものに対して何を!」とたいそう軽蔑されるが、母親が生活苦で……としたら「お気の毒に」と少しは同情される筈だ。もちろん誉められはしない、全然いいことではないが、子供だけ殺すのでなければ、なんとなく認められているところがあるのではないか。女性の経済苦なども考慮されるだろうし。
不思議な話だ。

婦女子だって、自爆のロマンぐらいは理解している。自分達が惨めにすぎるからやらないに過ぎない。成人男子も他爆のロマンの誘惑にかられることがあるだろうが、情けないと罵られるから、ある程度思いとどまっていると思う。
そう考えると、この世の中の装置(たとえば性差とかジェンダーというもの)は、なかなか妙なバランスで成り立っているのだなあ、と思う。
私自身は自爆も他爆も嫌いだが、いざという時はどうでるかわからない。社会にすりこまれたものがこの身の内側でどう育っているか――そんなことを考えるとちょっと怖い気がする。
もしかして私も、やっちゃうかもしれないな、と。

(※この章の題名は『究極超人あ〜る』ゆうきまさみ著の台詞よりとりました。また、以前『水晶の舟』という個人誌の後書きでも同じ題を使用しましたが、中身は別のものです)

☆ミステリは箱、ではSFは……☆

私は一応推理小説書きなので(ホンマかいな)、いわゆるミステリに関しては自分の美学をもっている。それが常に自作の中で果たされるとは限らないが、推理小説という器と表現形式にはかなり強い愛着をもっている。
なにしろこれは、無敵に素敵な箱である。必ず起承転結がある。最初から読者をひっぱりこんで、最後の一行まで放り出すことなく親切に連れてゆく装置である。だから、もっともらしい事件ともっともらしい人間を配置すれば、あっという間に小説ができあがってしまう。その簡単さはほとんどインスタント食品なみで、私のように下手な物書きには大変に有難い(内容を考えなければ味が保証できないのも同じ、というのが曲者だが)。推理小説はエンタティメントの王道をいく形式なのだ。
こんなことを考え始めたのは、大学に入って文芸サークルに入り、SFを読まされるようになってからのことのようである。私はSFは門外漢なので、よほどの名作、古典でなければちっとも興味をひかなかった。SF的アイデアにはどんなに斬新でもあまり感心できないので、よほど美しい場面があるとか、魅力的な人間が出てくるとかしない限り、右から左へ抜けてしまう。面白くない。
もちろん、どんな小説だって、人間がきっちり描かれていれば面白い。ミステリだろうとSFだろうと通俗ロマンスだろうと純文学だろうと読める。どんな立派な題材を扱っていても、作品の構造が凝っていても、登場人物が活きていない作品を読んで楽しかろう訳がない。
しかし、ミステリなら、人間なんぞたいして描かれてなくとも読み通せる。
そこで気付いた。
SFもミステリも同じ大衆娯楽小説であるが、両者の本質的な差は、扱う題材でなく、《箱》であるかそうでないかということなのだと。SFはおそらく《地図》なのだろうと。

ミステリは現実が舞台であることが多い。犯罪事件が日常生活を破壊するところから始まるのだ。だから《箱》になりうる。犯罪事件は解決され、日常は修復される。物語は最後で閉じる。蓋を閉めることができるのだ。箱の制約が重視されるため、ちょっと無茶なキャラクターがいても、そういうこともあるさ、としきりの間に無理矢理詰め込んでしまうことができる。
反対にSFは、現実世界でない場所が舞台になる。たとえ日常生活からスタートしても、物語は非現実の空間を漂う。物語はハッピーエンドでしめくくられるかもしれないが、その先の展開が暗示される。現実を非現実から照らしだして風刺するのだ。これは《地図》ではないだろうか。SFはそこに人を配して、自由に動かしてよいフィールド――だとすれば、登場人物が魅力的でソリッドでなければつまらなさが倍増するだろう。なんでもありになってしまうからだ。自由裁量のかなりきくTVゲームでさえ、なんでもありの世界ではない。受け手が寄りかかれる部分が、最低限つくられている筈だ。

人間の人間らしさってなんだろう、というのが未だよくわからない私は、SFが書けない。理由はもうおわかりだろう。精神的に貧しい登場人物ではSFの地図を渡りきることはできないからだ。
しかし、そんな私も、パロディでならSFがやれる。例えば超能力者の秘密結社をめぐる悲劇、などという美味しいネタがあると、つい書いてしまう(だって王道なんだもん)。ちゃんとSFしてるかどうかはともかくとして、それらしくはなる。やっていてとても楽しい。これはやはり、原作という地図に人物が揃っているからなのだろう。

ちなみに私は、SFミステリが駄目だ。地図の分際で箱のふりをしてはいかん、と考えてしまうからだ。読者の立場だといくらでも勝手が言えるものだなあとも思うが、そういう好みなのでしかたない。でも、神林長平の『敵は海賊』みたいのは読めるし、好きなのだ。
もしかしてこれは……単に私がいいかげんなのか?

☆主人公は男、女?☆

昔、Nariharaさんの書く男は女っぽい、女に色気がない、女があまり出てこなくてつまらない、などと、男性読者に(女性読者にもか)よく言われた。
男がなよやかなのと女がそっけないのは私の好みの問題なのでなおしようがないが(暑苦しい男女はどうしても書けない/泣)、女を多く出すことはできるだろうと思って、最近はだいぶ書くようになった。
まあ、作品が面白ければ、男女の比率なんぞどうでもいいじゃないかとも思う。男しか出てこない小説にも独特の色っぽさがある訳だし。例えばレジナルド・ヒルの小説の中に、「ハガードの冒険小説の主人公はいつも沢山の男に囲まれて羨ましいなあ」とため息をつくゲイの警官が出てきて、そういう見方もあったかと感心したことがある。そうでなくとも、いわゆる《男の友情》物のいやらしさは洋の東西を問わない。女の目から見たらあれはまさしく恋愛、殿方の秘密だ。
おっと。
このままでは話が別の方面にいってしまう。
ここでは、作家は主人公をどんな基準で選ぶか、それと性別はどんな関わりがあるのかというあたりを考えてみたかったのである。一創作者として。

私は今、『神の名を呼べ』というのと『彼の名はA』という本を並べて売っている。
タイトルの音が似通っているが、それは本人の意図したところではない。それぞれ内容に即した題のつもりだ。しかし、この二冊はいろんな意味で対照的であり、互いに響く部分がある。
『神』の主人公は悪役であり、彼が動くことによって起こるのは必ず悲劇である。反対に、『A』の主人公は基本的に善人であり、彼が動くことによって悲劇は未然に防がれる。前者は書いている方は楽だが読者はやや不快に思うだろうし、後者は書く方は地獄を見るが読者は軽やかに読みとばせてしまうだろう(最後の作がややレベル上げしてあるのでとまどう方もいるようだが、基本的にはわかりやすい、不愉快でない物語の筈である)。
この二冊にいただく感想で驚くのは、男性読者はおおむね『神』が好きだということである。面白かったといってくださる女性読者ももちろんいらっしゃるのだが、男性読者の方が圧倒的に多い。長年の読者であり某国家公務員のR君など、「主人公が幸せになって本当によかった」とのたまって私を仰天させたぐらいだ。『A』は女性ウケするのは、もともと女性向けの意識で書いたので当然なのだが、『神』の人気は意外である。時々「神の声をきけ」という宗教の本みたいな間違われ方をするこの本だが、読みとおした方はなにがしかを感じてくださるのだろう。
さて、『神』の人気はともかく、『A』が男性に不人気の原因は作者もよくわかっている。悪役が全員男性だからだ。これでは男の方は面白くあるまい。俺達がいったいおまえに何したってんだ!とお怒りになるだろう。これは単に『A』という作品のコンセプトが《思春期の女の子の幸福》であって、そのために男女両方に中立的ななよやかな青年とたくましい女性を味方にせざるをえず、結果、仇役を年かさの男性にふりわけることになったためだ。《女の敵は女》というパターンを今回は是非やりたくなかったのである。作者個人が世の男性全員を目の敵にしている訳ではないので、悪しからず。

さて、私が『神』と『A』でやりのこしていて悔しいのは、女性を主人公にできなかったことだ。
女性主人公のミステリは最近『ラヴレター』等でやっているのだが、これが実に難しく、私の理想の推理小説の形にはまってくれない。女性の女性的苦悩を描く話になりがちで、一般小説やロマンスならもっと楽にやれるだろうに、と泣く。女が女に尽くすとはどういうことか、その美しい様式は何か、というのは大事な疑問だと思うが、それを推理小説という形に活かすのは大変だ。昔『女には向かない職業』という題の小説があったが、女性主人公がミステリでクリアしなければならない問題はかなり多い。だから当分、探偵役には男を選んでゆくしかないかもしれない。自分なりの解答をみつけるまでは慎重にやりたい、とも思うからだ。
しんどさからの逃げ、だろうか。

ヴァージニア・ウルフはエッセイの中で、《作家は男性と女性と両方の目を持っていなければならない》と言った。
正論である。
女の私にとって、男として女性を愛する視点をもつのは難しいことだが、やはりできなければならないと思う。やってみることもある。
だが、もっと難しいのは実は、女として男性を愛する視点を持つことなのだ。

女性主人公とは距離がとりづらいせいもあるし、私の不勉強のせいもあるが、理由はそれだけでない気がする。つまり、小説世界において、男が女を愛する心理は沢山書かれており、「女はわからない」などといいつつ細かく説明もされている。しかし、女が男を愛する気持ちの本当のところは、同じだけ沢山、そしてきちんと描かれているだろうか。
実際のところ、少女漫画ですら、女性の恋愛の真実について多くを描いてないと思う。お手本のないところに育つものは少ない。耕されない荒野では花は咲かないのだ。
ちょっと、推理小説に話を戻そう。
女性ハードボイルド探偵として有名な、サラ・パレツキーの描くV・I・ウォーショースキーを例にとってみよう。だが、第一作こそバリバリのキャリアウーマンらしく派手な事件を扱い、思考もアクションも物凄いのだが(読んでいて思わず「乱暴者……」と呟くほどだ)、二作目以降は親戚関係のこじんまりした事件を扱い、実にそつなく女性らしく解決するようになってしまうのだ。
これが意味することは何か。
なにが恐ろしいといって、このシリーズ、二作目以降の方が読みやすいということだ。ワンパターンでつまらないのだが読めてしまう。逆にいえば、一作目は斬新すぎるのだろう。大怪我をしても病院にいかず、殴られた顔の青あざで知り合いまでも威嚇してしまう女には、男だっておびえてしまう。女もこれにはついていけない、と一歩ひいてしまう。作者サラ・パレツキーは、しかたなく方向転換をはかったのではないのだろうか。本当はそういう勇ましい女性は有史以来ずっといて、この手の職業でも大活躍してきたというのに。
だとすれば、これも耕されない場所に種を落としたばかりに、実りがのぞめなかった一例でないだろうか。ここが特殊な分野であるとはいえ。

女性は小説の主人公にはなれる。が、理想的な探偵者になるのはつらい。
この言葉は、私個人の女性差別からでているのでない。
これは本来的に、探偵者というものは遊民かディレッタントであり、(警察官や公務員でないかぎり)社会には本来不必要な存在だからだ。女性は、その全員が社会に必要な存在である。空想にふけったり野次馬してる時間などないのだ。虚構の中では特に。
考えてみれば、政治経済や社会問題を一番熱く語るのは、飲み屋ののんだくれ親父だ。彼らは妄想の中で日本や世界を動かしている。男性はそういう無駄の許された生き物なのだ。推理小説という限りなく現実に近い箱は、そういう社会の薄い皮膜で覆われていて、女性をはじきだしているのだ。
さて。
それで、いいのだろうか。

私にしか書けない小説、誰もがあっと驚くような斬新な小説は、簡単に書けはしない。
しかし、小説世界には、まだ乗り越えられていないハードルが沢山ある。主人公の問題は創作家の誰もがつきあたることでもある。例えば女性探偵者――ここらへんに私の突破口はないだろうか。
そんなことを考えて過ごす今日この頃だったりする。
それは書きたいもの、書きやすいものをちゃんと書けるようになってからの話だと言われればそのとおりなのだが……。

(1997.8脱稿/初出・恋人と時限爆弾『恋愛経験値』1997.8)

「簡単に書ける創作の方法」

0.

簡単に書ける創作の方法?
そんなもの、あるわけがない。
あったら、どんな小説家も苦労をしていません。
画期的な物語のつくりかた、ってないものです。
あ、そんなことないか。
昔、好きな漫画家で、非常にシンプルな作り方を紹介していたひとがいたっけ。
最初に、もらったページ数を、まっぷたつに割って、前半と後半にそれぞれ山場をつくります。次に、前半後半も半分に割って、前半の山場は小さめに、後半のクライマックスは派手に、と計算して物語の起伏をつくるんだそうです。
これは確かに失敗がないでしょう。
彼女の漫画は、いつも面白いです。よくある人情話なのに、読まされてしまう。そして、読み終えた後、ストーリーをきれいに忘れてしまえるのです。
お見事! エンタティメントのお手本ですね。
しかし。
これも、センスがなければ、どうにもならないので。

とにかく。
創作の方法というのは、ひとつです。
かきたいことがあること。
これがあれば、方法はあとからどんな形であれ、ついてくるものです。
あなたの表現したいことはなんですか?
自分自身の魂?
理想の帝国?
社会の不正の告発?
複雑な心理の解体?
あこがれのロマンス?
美しいイメージのシルエット?
もっと素朴な、身近なもの?
なんでも結構です。
創作とは、自己表現です。
かくことがない、という方は、かかない方がいいのです。
しかし、心の底に、なんにも眠っていない、というひとがいるでしょうか?
優れたものを持ちながら、表現しないまま埋もれさせてしまうひとの、なんという多さでしょう。
もったいないなあ、と私は思います。
そんなわけで。
素人物書きの分際で、創作の書き方を示したいと思います。
しかも、できるだけ、シンプルな、基本的な方法を。
難しいことができるなら、問題はないわけですから。
すらすらと物語を書けてしまうけれど、なにかもうひと味欲しい、という方にも、参考になれば、と思います。

1.何から手をつけるか?――アイデアと構成!

まず、一番に考えなければいけないことはなんでしょう?
実は、長さです。
この話は、二十枚くらいで書きたい、五十枚くらいで書きたい、百枚を越えるくらいで書きたい、という希望をもつこと。これは、結構大事です。長さによって、同じ題材も、違う話になります。まず長さ!
(大長編を書こうというかたは、これから先を読む必要はありません。そのひとはすでに初心者ではありません。大作家です。どこからでもお好きなようにお書きください)
さて。百枚くらいまでの話ですが。
ここらへんまでは、私のような力のないものでも、小業や力業がきく長さです。
目安をつけて、計画を立てれば、なんとか書けます。
ところで。
あなたはなにが書きたいのですか?
いえ、テーマの話ではありません。
テーマというのは、書いているとおのずから現れるもの、また変化してゆくものなので、先に壮大なテーマを設定してから書くのは、初心者には難しい。
では、次になにを考えるのか?
そう。
書きたいアイデアについて。これを熟考してください。
短編の基本は、アイデアです。
アイデアをどれだけ活かしたか、それだけの勝負でいいのです。
美文でなくとも。人間描写ができてなくても。
アイデアを、自分のやりかたで料理できれば、短編小説の価値はあるのです。
え。
そんなことはわかってる?
いいアイデアがでないだけだ?
勘違いしてはいけません。オリジナルなグッドアイデアなんて、そんなにあるわけないじゃないですか。
昔から沢山の人間がいるんですから、新しいものなんて、そうそうありません。
それより、盗むんです。
一番簡単な盗み方を教えましょう。
何を書いてよいか、何を書きたいのか、自分でよくわからない、という人は、特にこれが役に立ちます。
自分の好きな話(または嫌いでも興味をひかれた物)を、いくつか選びます。
その話の中で、「自分なら、こうしたのになあ。こういう方が満足がいくなあ。こうしてみたらどうかしら。反対にしてみたらどうなるかな?」と思うところをみつけてください。
で、その部分を書いてみる。
自分の書き方で。
ここに、計画や、構成が必要になります。
腕のみせどころ。
白紙から始めるのが難しい人は、ここでも、好きな作家の真似をしてよいです。
どうですか?
作品は一種のパロディみたいなものになりますが、これをやっていくと、自分の書きたいものが見えてきます。
そして、書いた物は、すでにあなたのオリジナルなのです。
簡単でしょう?
さっそく、やってみてください。
こういう話を書いてみたい、というぼんやりした憧れから、だんだん具体的なものにしていくんです。
自分の、好みでね。

私の『ふぁむ ふぁたる』をお読みになった皆さん、話を覚えていらっしゃいますか?
アイデアはよくある話、不審な女性の犯罪を暴いてゆくという、ありふれたものです。
しかし、ありがちな話であるだけに、私はどこから手をつけてよいか、わかりませんでした。
そこでアイデアをどう活かしたいのか、という自分の気持ちを見直し、整理してみました。
その結果、自分は、《謎を大切にしたい》というものと、《大切な友人を失った鉄雄の気持ちを自然に書きたい》という気持ちが残りました。
そこで、冒頭のシーンに、晶の命日の墓地のカットをもってきました。この時点なら、《病死であると共に、自殺であり、他殺であった青年の死》という謎の提出も簡単だし、鉄雄もなんとか気持ちの整理がついているだろうから、冷静な台詞が書けるのでは、と思ったからです。
これなら、きれいな場面が書きやすいし、アイデアもいかされる!
その瞬間、『ふぁむ』は成立しました。

アイデアは、たとえオリジナルの自信があっても、自分の持ち味で勝負しなければ、価値がありません。アイデアの上にアイデアを重ねても、小説にはなりません。ストーリーの上にアイデアがあってこそ、小説なのです。
まず、自分に心地よいものを書く、自分の理想の小説をめざすことが、楽に立派な作品を書く道だと思います。
そして、書きやすい構成を、考えてから書いて下さい。
ワンパターンで、いいんです。
作者が気持ちよく書いた話は、読んでいて面白いですから。
これは、間違いなく、真理です。

2.あなたは何を書きたいのか?――実はキャラクターの筈。ミーハーはおすすめ。

私は、TVドラマをあまり見ません。
クイズとか、ドキュメンタリー、バラエティとか、映画、あとは子供番組ぐらいかな、そういうものばかり見ています。
ほとんど見ないのが、ドラマ、スポーツ、ニュース。
これは、あんまりいいことじゃないです。
TVは、キャラクターの宝庫ですから、なんでも見ないと。
え、なんの話かって?
人物造型の話ですよ。
小説の中には、複数の人間がでてきます。
人間を描写しなきゃいけないんです。

主人公は、ま、いいんですよ。自分のこと書けばいいから。
自分を冷静にみつめる、いい機会になりますし。
とにかく、自分という人間を、じっくり書ければ、それはもうすでに小説なのです。
小説は、個性のあるキャラクターの力でなりたっています。
頑張って、自分を魅力的に描いて下さい。
一人の人間を描ききるのは、時間がかかります。
沢山の小説が生まれることでしょう。

実は、問題は脇役です。
これは、えらく難しい。
モデルを決めて書かないと、しっかりした人間がかけなくて、話がうすっぺらな一人舞台になってしまいます。
頑張らないといけないところです。
ところで。
身近なひとをモデルにするのは、おすすめできません。
けんかします。絶対にやめましょう。
承諾をとるか、ばれないようにやるかしないかぎり、誰かがいやな思いをします。この手の悲劇は、あまりにも多いので、ひとこと忠告。(でも、ま、抜き差しならない場合はしかたない。書いてしまえば自分のキャラクター、別人だよ、と開き直ってしまいましょう。しかたないから)
で、悲劇を避けることができ、てっとりばやく(主役を含めた)モデルをみつけることのできるのが、TVをみることなんです。
立体的に、いろんなデータを観察できるんですよ。
映像だし、声も聞けるし。いろんな役をやっているひとを見ると、イメージがいろいろ膨らむし。人間の特徴というものを研究できます。
役者の個性って面白いものです。子供番組は、意外にいいですよ。キャラクターがはっきりした役をやってるひとが見られるし、短い時間の中で、本性さらけだしてる役者さんもいるし。
子供の本を読むのも、エンタティメントの勉強にやくだちますが、やっぱりTVですよ。
いつでもミーハーできる対象を見つけられるひとは、幸いです。一見普通の人間が、演技する者に変身した瞬間は、本当に美しいですから。
あ。
ミーハーの対象は、本当の人間でなくともいいですよ。
私は、パロディ同人誌のパワーを尊敬しています。
あれは凄い。
熱情が、何かを生み出す顕著な例です。
ああいうものからスタートするのも、悪くないと思います。
私はミーハーを奨励します。
なにも、素人ばかりがやってることじゃありませんし。
え。誰のことですかって?
きまってるじゃありませんか。栗本薫ですよ。
あのひとは、「キャー、ジュリー格好いい!」というアレだけで、『翼あるもの』と『真夜中の天使』を書いてしまった人なんですから。
私は、この二つを高校生の時に読みました。
頭をぶんなぐられたような思いをしました。
これは、(女の子の)偶像崇拝を描いた、最高傑作です。
読み返して、評価は多少変わったりするものの、栗本薫からこの二作品をとったら作家としての存在価値はない、とさえ思います。他に、もっとすぐれた作品があるのにも関わらず、です。

なんにせよ。
ぜひ、イメージをかきたてるモデルを捜してください。
そのひとの描写が、背景も含めてできたとき、すでに小説はできているのです。

あ、あともう一つ。
あんまりモデルを愛しすぎても、いけません。
書けなくなっちゃう時がありますから、ほどほどに。

3.とりあえず書きはじめたいけど、どうしたらいいの?――シーンをエピソードでつなげ!

さて。
まだ、とりかかれないあなたに質問です。
なぜ、小説を書きたいと思いました?
あなたの頭の中には、何枚かの絵がありませんか?
それが、書いてくれ、書いてくれとあなたをせっついているのではありませんか?
それを、そのまま、書けばいいんですよ。
悩まないで。
え?
一つのカットでは、お話ができない?
だから。
そのカットに、前後をつけるんですよ。
それだけでいいんです。
カットとエピソード。
これさえあれば、小説は成立するんです。

また、自分の作品をひきあいに出します。
何故か人気の『るすばんこまち』。
これは、大学生のかったるいムードを中心に描いたお話ですが、いくつかのエピソードのおかげで小説になっています。
一つは、主人公が黄昏の公園に行き、不思議な少女に会う、というもの。
一つは、少女と自転車で走り、その家までゆくというもの。
それから、小鳥を飼う小さな子との関わり。
そして、裏側にひそんでいた真相。
全くありがちな、つくりすぎなエピソードなのに、何故かあまり、不気味さを感じる人がいないようです。つくりすぎを肯定する読者さえいます。
どうしてでしょう?
それはね、読者って、逸話とか、人情話に弱いからなの。
「こんなことがあったんだけど」「こんな話知ってる?」
これくらい、人の耳をそばだてさせる言葉はないのです。
え。
エピソードができませんって?
無理なエピソードなら、つくらない方がましです。
自然な話を書けばいいんです。ひねらない。
面白い話をきいたら、メモしておく。
使えそうなジャンルの本を読んで、勉強する。
興味をひく事件があったら、ノートにつける。
自分の感情の変化を、日記に細かくつけてみる。
それをあとで、組み合わせてみる。
そうすれば出来ますよ。
この世には、ドラマが満ちています。
事実は小説より奇なり、です。

4.ちょっとカッコつけたいんだけど。――最後はテーマをみつけよう!

さて。
書けました?
このいままでの1から3までのどれか一つを軸に、リミックスしておさえれば、なんとか小説らしいものはできる筈です。出来はだんだん良くなります。まず、いくつか書いてみて下さい。(私なんて、方法が掴めなかった二年くらいは、いきあたりばったりでかなり苦しみました。でも、基本を掴めると、ホントかなり楽になって、作品がたいぶ小説らしくなってきましたから)

で。
問題はそのあと。
いくつか書いたんだけれども、なんか辛いな、思うようにいかないな、惰性に流れてるな、という方、でてくるんですよね。
そのひとのための処方箋があります。
まず、自分の書いた物を集めて、分類してみます。
自分はなにが書きたかったのか、整理してみるんです。
そして、いろいろ追求してみるんです。
自分はなぜこれを書きたかったのか。
振り返って、いつから、どんな風に書いてみたかったか。
別のやり方はなかったか。
同じ話を、別のジャンルでやれないか。
典型的な物語にうんと近づけてみるか、うんと不定形にするか。
構成と中身とどちらにこだわっているのか。
こだわりをなくしたらどうなるか。なくしてはいけないところはどこか。
誇張できるところはどこか。いらないところはどこか。

厳しく、チェックして下さい。
そこに、必ず見えてきます。
作品のテーマが。
そして、あなたのテーマが。

それから、もう一度、作品を書いて下さい。
あなたの小説は、ぐっと格好よくなっているはずです。
もちろん、基本は忘れずにおさえて下さいね。

5.そして、普段の不断の心がけ。

さて。
4とちょっと違うパターンもありますね。すらすら書けるんだけれども、あんまり進歩しないな、という方。
そういうひとは、きっと、楽に書きすぎなんだと思います。
才能があるので、かえって精進を怠ってしまうんですね。
4でいったチェックも有効ですが、普段の日の心がけでも、だいぶ変われるものです。
やってみますか?
まず。
日常生活で、ぼーっとしていられる時間(通勤電車の中とか)には、小説のことを考えるようにします。
アイデアは、すぐその場でノートにとります。(紙と筆記用具は持ち歩こう! 小さいメモ帳もいいし、決まったルーズリーフも便利。整理用に複数あればなおよい)
とったメモを、後で見直して、常に少しずつ発展させてみます。いろんなものを足したり、削ったりしてみて。
話の骨子は、時間のあるときに、一気に書き下ろして下さい。そして、毎日すこしずつ手をいれるといいです。
ワープロで書いているひとは、構成をととのえながら何回もプリントアウトし、最終チェックまでに、最低第三原稿までつくってみます。
納得のいく手直しをしてから、人にみてもらうのもいいです。批評してもらうと、作品の質が上がります。
あとは、ばりばり本を読む。
いろんな作家を読みまくる。
それから、気に入りの作家を決めて、しつこく、しつこく、繰り返して読みます。
小説の情報源はなんでもいいですが、書くリズムを整えるのは、やっはり良書を読むことです。
文学もいい。専門書もいい。とにかくひたすら読む。
で、読んでから、書く。
書くのにゆきづまった時は、とにかく一冊ひっかけてから。
これですよ。

どうですか。
うーん。
ここまでやるとプロみたい。
凄い。

なんてね。
趣味なんですから。
誰もあなたをしばらないんですから。
素人なんですから。
あなたが面白いと思うものを、あなたのペースで書けばいいんですよ。
頑固な職人のように、いいものつくりましょうよ。ね。

そんな訳で、なまはんかな知識と、乏しい経験による、無責任な創作講座を終わります。

(1991.11脱稿/初出・Narihara Akira編『のんしゃらんと第1号』1991.12)

「誰でもできる批評の方法」

1.はっきりいって、日本人は批評が上手でない!という、うるわしい事実!

独断と偏見であろうと、いっちゃうよ。
評論なんかはね、日本人は駄目です。
創作はね、独特の美学や繊細さや情緒があって、大変素晴らしい。エッセイなんかも、結構すぐれものが多い、と思うんだけども。
評論は駄目。
日本人の書く評論は、まあ、良くて、優れたエッセイ(私見)。有名であっても、一見有難そうなんだけれども、単なるコンプレックスを刺激するだけの独断、かっこつけただけの根拠の薄い論、にとどまる、と私は断言してしまうのだ。
どう思います?
日本には、世界に誇れる評論がある! と叫べます?
叫ぶ方は、結構です。
この先を読むのはやめて、その評論を研究なさって下さい。さようなら。
待てよ。
そんな奴がわざわざこんなもの読んでるわけないか。
どうもすみません。
もちろん、これは素晴らしい!という評論もあります。
さっきのは極論。(日本人にも骨のある奴はいる。)
……ところで、さっき叫べなかった皆さん。
なぜでしょう? どうして苦手なの?
小さい頃からの訓練が足りないからだ、とか、日本人は論理的でないからだとか、巷ではいろいろいわれてますけども。
そんな得体のしれない理由のせいじゃないんです。
日本人はね、戦わないからなんだな。
純朴で、心優しい国民で、そして、主義のために暴力的な、無駄な争いをやたらにしないから、と思うんですよ。
変なこといってます?
でもね、あんまり間違ってないと思うんだ。
評論、というのは、戦いなんですよ。
する必要がなければ、しなくていい筈のものでして。
しかも、好きか嫌いか、というのを、ことごとしくいいたてる方法にすぎないんです。
やなもんですね。
え?
まだのみこめません?
もうちょっと言葉を補いましょうか?
批評の基本、根本は、いくらもったいをつけても、個人的な好き嫌いなんです。
え。個人的でいいのかって?
いいんです。この世に、世界の人間が全員うなずける、絶対的な価値っていうのはまずないでしょう?
価値観というのは、どう頑張っても、個人的なものなんです。
自分にとって心地よければ、そのものは価値があります。自分にとって、なにかを考えさせるきっかけとなる、そのものは価値があります。他人にとって、などというのは、二の次。自分の胸にしまっておけば、それで充分な筈。
なんだ、特に問題はありませんね。
しかし、人間というのは、もっと欲が深い。
自分の心地よさを、他人に押しつけたいんです。
それが、純粋に好意である場合もあります。
また、自分の心地よさを守るため、不快からなるべく遠ざかるため、という利己的な場合もあります。
しかし、どちらであっても、相手には迷惑な場合が多い。
宗教の争いも戦争も、こういう欲求の産物であったりします。
自分に心地よいものが、他人にも心地よいというのは、まず幻想です。
しかし誰しも、自分に心地よいものを、他人にも広めたい。
では、どうしたら、合法的に、上手に、非難されずにやれるのか。
ヨーロッパとか、他民族と闘いの多い、ゆえに自己主張が強くないとやっていけないところに住む人達は、知恵を絞りました。
それで、自分の好き嫌いを、根拠をもって、相手を巧みに説得する、という方法が生まれた。納得させられなくとも、せめて立場は明らかにできる方法が。
それが、討論です。そして、評論です。
批判でなく、もっともらしい、評論というものが。
という訳で、日本人は、評論が上手でない、のです。
言葉がなくてもお互い心が通じて、集団で協調的な仕事をしてゆく社会では、評論の技術が磨かれる訳がありません。
平和だから、育たないのです。
思いやりは大切なことですから、評論が育たないのは、多いに結構。
しかし、評論が育たないと、いい創作家が育ちにくい、ということもありますね。創作は、叩かれてよくなるものです。正しい批評は、作家をうんと伸ばしますから。
それがない、というのは、困ったな。
でも、ひどい評論が創作を殺す、ということもあるし、あんまり評論というものは、はびこらないほうがいいのかもしれないし。
むつかしいですね。
ところで。
あなたは、どんな評論を書かれますか?
書かない?
それは無難でしょう。
私もあんまり自信がないです。
評論家じゃないし。
創作家は、あまり評論をすべきでない、と思うし。
(作品が理屈っぽくなります。批評家からスタートして作家になるのは、結構しんどいものだと思います)
しかし、どうしても守りたいものがある場合は、ぜひやぶれかぶれでなく、きちんと胸を張って、正攻法で戦って下さい。
私は世に問う! これが私の宣言だ! という意気込みで。
いいたいことがなければ、無理に口を開くことはありませんが、いいたいことがあるのに、口をつぐんでいるのはよろしくないです。
自分の好きなものくらい、自分で守ろう!
借り物の言葉を使わない。他人の権威に安易に頼らない。一般論をみだりに振りかざさない、ミーハーであってもいいが、自分の趣味を貫きとおす。
そうして、自分だけの評論を書いてみましょう。
自分の嫌いなものを完全に叩き潰す、というのはおすすめできませんが、好きなものを個人的に守る、この手の正義ぐらいは、あってもよろしいでしょう。
ね。
そんな訳で評論、特に書評の基本的なハウツーを、ちょっとだけ考えてみたい、と思います。
エッセイなんかがお得意な方は、それだけで充分だと思うんですが、そういう人もご参考まで。

2.日本人らしく評論しよう!清く正しく美しく!

ところで。
大学で文学部を出た連中は、絶対書評のひとつふたつは書いています。
論文でもレポートでも、本を読んで書いたことのない学生はいない筈。
彼ら彼女らは、いったいどうやって書いているのでしょう。
私もそうだった訳ですが、振り返ると赤面のいたり。
無茶苦茶やってました。
そのための講義とか、ゼミとか。クラブとかあったのにね。
あまり上手に学ばなかったようです。
(なんのために学校にいったのかしらん)
ところがある日、私は一冊の本に出会いました。そして、評論のことについて、真面目に考えるようになりました。これはとてもいい本なので、手に入る人は是非読んでください。

『イギリス小説をどう読むか −レポートの書き方−』J・ペック著/鷲見八重子・斉藤南子訳(頚草書房)1986.6.25(\1800)

読む価値があります! ほんと。
学生のための批評の技術をといた本ですが、イギリスの批評の旧弊にとらわれず、幅広く応用のきく基本的なことを書かれていて、これ一冊を読んだだけで、評論が書けてしまうような気がするのです。
これを読んで下されば、私のつたない文など読まれる必要は全くございませんです。
では。
おっと。
それではこの文章を書いている意味がないか。
読んでくださっている方に対して失礼ですね。
この本もふまえて、かつ、私流に、初歩のハウツーを書かねばいけません。
しかも、サブタイトルは、日本人らしく、清く正しく美しく、でした。
そこらへんからスタートしよう。

まず、正直にいきましょう!
プロの書評家は、はっきりいって、不幸で大変です。
読みたくない本を大量に読まなければいけないし、売らなきゃいけない本は好きでなくてもほめちぎらないといけないし、半端仕事であればお金も沢山もらえるわけではないでしょうし、それでちょっといい加減な文章を書けば、読者に怒られ嫌われて、いいことがありません。
しかし、素人は楽です。
なにを書いてもいい。
しかも、好きなものについて書けばいいです。
好きなものについて書くのは、まあ苦しいけど楽しいし、その楽しさは読むひとにも伝わって、いい効果があがるし。
だから、最初に、好きなものは好きだ! といいきってしまいましょう。
これがスタート。
芸がなくても、初歩はこれ。基本はこれです。楽に正直に書く。
小説を読んだ際の印象は、書評において、大変重要なものです。
まず、これを大事にする。
他人のいうことなんて気にしない。
気にしたいひとも、書き終えてからにしなさい。
後で直せばすむことです。
まず、正直に、これが好き! ということ。これが最初の一歩です。
一番強い動機から始めれば、正直な人間は胸を張れる。
胸を張る。これが大事なんです。

3.日本人らしく真面目にやろう!共感してもらうのが目的、という訳で基本原則。

正直であることは、強いです。
自分の抱いた印象はとても大事です。
これを大事にすることは、正しい。
しかし、正直なだけでは、人はついてきてくれない。
言葉巧みなひとというのは、ただ正直である訳ではありません。しかし、心にもない嘘には、結局、誰もついてこない。
そこらへんの折り合いというのは、なかなか難しい事です。
(そういうのがうまいひとは、どこでもやっていけるんですよね。英語なんかやってるとそう思います。大事なのは文法でなくて、何をいいたいか、と人柄。これがあるひとは、たいがいなんでも通じるものです)
したがって、評論も、方法を考えなくてはいけません。
もっていきかた、です。

まず、結論を最初にもっている場合。
その結論が、一般的なものか、多少特殊なものか、それを考えて下さい。
そして、一般的な結論に達する場合は、必ず目新しい論証をいれてください。
目新しい論証というのは、とっぴな考えというのではありません。自分で考えた言葉を使う、ということです。そんなことをいわれても、難しいと思いますが、一番簡単なのは、どうして、自分がこのことを論じようと思ったのか、というのを正直に書くこと。そのきっかけ、好きになった経過、そのほかを。
これが、一番いいです。
無理に論をねじらない。正統派であるのはいいことです。
それに、あなたがあなたである以上、正直に書いたところには、良かれ悪かれあなたらしさがでるものです。最初は人に言葉を借りてもいいんです。どうして自分がそれを借りたのか考えていけば。
それでも書けない、と思う人は、自分の好きなシーンについて、なにか書くというだけでもいいです。はじめはそれで充分。それでものたりなくなったら、対象となる作家に繰り返しでてくる、シンボル的な物をさがして、それについて書く、とか。
意外なオリジナリティがでるものです。
そうだなあ、シンボルは、例をあげてみないと、難しいかな?
私が大学時代に専門にしていたのは、英米児童文学と、子供の出て来る英米文学でしたが、そこでシンボルとしてあげられていたものに、次のようなものがありました。
子供が大人になる、ターニングポイントとなるシーンによく登場するもの。
夜。夏休み。主人公の年齢は十代前半。(十から十四くらい)性(目撃だけでいい)。死(特に親しいものの)。死体(赤の他人のものでもいい)。遠出。などなど。
こういうシンボルを頭に入れて青年小説やら漫画やら読むと、なんとなくパターンが見えてくるから不思議です。(それとも、私が単に、高田教授に洗脳されただけなのかしら。でも、「大人になることは失うことである」という意見だけは、納得できなかったので、ここには書きませんでした)
それでもって、書く。

次に、一般的でない結論、目新しい結論をはじきだしたい方に。
これは、結構ドライにやらないといけません。
まず、客観的なふりをしないと。三段論法のふりをしてみないと。こうだから、こうで、こうである、くらいのシンプルな要約ができ、しかも、多量の綿密な傍証がある事が望ましいです。
そのため、社会現象を検討したり、自分のいいたい事に参考になる本を、かなり集めておいたりする必要があります。
権威に弱い日本人ですから、偉そうな本がいいんですが、あまりかけはなれたものは選ばないのが無難。
そこから、自分に必要なものを抜粋しながら、自分がいかにしてこの論に達したか、を冷静に書く。
特殊な論を書きたい、というひとは、すでに一種の情熱に動かされているわけですから、できるだけ、心を引き締めて書くのがいいと思います。あまり正直すぎてはいけない時もあるかもね。ですがもちろん、心にもないことをひっぱりだすのは禁物。そこをつつかれて論が崩壊したら、全てがほんとの水の泡ですから。
もちろん、オリジナルであることをおそれては、いい評論は書けません。とにかく、真面目にやりましょう。誠意ある説得が、人を動かすのを願いながら。

4.それでも書けない、という慎み深い日本人……。作家を、作品を選びましょう。

ちょっと、難しいこといっちゃったかな。
考えれば当り前のことしかいってませんが、ちょっと抽象的だったでしょうか。
こんなんじゃ書き出せない、とおこられてしまいそう。
先に、好きなら書ける、といいましたが、それはそうなんだけど、といわれるでしょうね。
そうですよね。そんなに簡単じゃないから、みんな困ってるんですよね。
では、初めの一歩のアドバイスをもう少し具体的にしましょう。
まず、書きやすい作家、書きやすい作品を選びましょう。
そういうのって、あるんですよ。
いくつかの目安をだしましょう。
一つ。
ある程度、世間で評価されている作家(作品)であること。
すでに誰かが、この人はこういう作家だと思う、という意見をいっている場合、なにか一言を書くのは楽です。その意見に賛成にしろ、反対にしろ、なにか思うでしょう? それをそのまま書けばいい。ぜんぜん見当違いのこといってるな、と思ったら、しめたもの。どうして見当違いなのか、あなたが説明できたら、それは立派な評論です。
エンタティメントで、誰かが積極的に評価をしてる訳ではない、という場合は、ちょっと苦しいです。そういう時は、文庫本の解説なんかを読む。いいかげんなものも多いですが、参考になるものもあります。そういうところからつついて。
ただし、あんまり研究している人が多い作家を選ぶと、後で大変です。自分がどんな立場で書くのか、よく考えてから書かないと。それから、その道のオーソリティみたいな人を叩くのも、初心者にはおすすめできません。これは上級編。うまくなってからやりましょう。あ、敵を増やしたい場合は、別です。(それはそれで面白いんですけど)
二つ。
作品の数が多すぎない作家であること。代表的な長編や短編をもっている作家であること。
当り前なんですが、作品の数が多い作家は、論ずるのが難しいです。読むだけで大変だから。なんとおりかの傾向をもつ作家を選んだら、その傾向別に論じるか、どれか一面を論じるか、しかありません。
まあ、そのことはまだいいんです。問題はその先で、いたずらに作品数が多いと、どれを選んで論じていいか、わからなくなっちゃうんですね。
たとえば、赤川次郎を評論しようとしますよね。あなたはいったいどの作品を選びますか?
面白いと思う作品があっても、あまりにも似た作品が多くて、とまどってしまいます。全体を見て、総花的なことはいえるかもしれませんが、綿密な論というのは、そうとう難しい。
やっぱり、絢爛たる長編が一本、なんて作家の方が、ずっと書きやすいんです。
あたりまえ、といえばあたりまえなんですが、その作家の作風を代表するものであるかどうか、というのも結構重要です。もしそうなら、その作家は論じやすいです。
長編には、作家の世界がどうしてもでてきます。短編と対照すれば、作家が本当は何をいいたがっているのか、わかってきます。そこをとらえて、書くと、割と楽です。
しかし、世の中には、長編を書かない作家もいる。長編が下手な作家もいる。また、長編を書く前に死んでしまう作家もいます。
こういう場合は仕方がない。代表的な作品を選びましょう。
自分の好きな作品でもいいです。
その作品の中から、共通項を選び出して書く。
こういうのも面白いです。作家の趣味と、自分の趣味が同時にわかるんですね。
三つ。
その作家自身が、作品論(方法論)を発表していること。
これは、書きやすい。その方法論が、効果をあげているか、あげていないか、そこからきりこんでいけますから。その作家の方法論に共感していれば、あなたの感想を付加するだけでもいいです。
ポリシーのある作家は、良かれ悪かれ書きやすいです。
四つ。
とりあげる作品が読みやすいこと。
物凄い難しい文学小説とか、えらくとっぴなSFなんかは、挑戦したい気持ちを起こさせると思うんですが、私はあんまりおすすめしかねます。こういうのは、研究者とかマニアの仕事だな、と思っています。自分の感想をぽつりと述べるのは、とても大事だと思うんですが、論までいかないと思うんで。
例えば、私は、ヴァージニア・ウルフが好きで尊敬していますが、ほとんどの作品は難しくてわからない。『波』は綺麗な小説だと思いますが、なんにも言えない。もちろん、わかる作品もあって、『ダロウェイ夫人』や『オーランドー』、『評論・書評』なんかはとても好きです。しかたないので、私は、英文学のレポートを出さなくてはいけない時に、ウルフの作品としては高く評価されていない『オーランドー』で書きました。ひねったレポートになってしまいましたが、自分が面白いと思ったものを選んだ訳ですから、あれでよかったと思っています。(ついた評価を見ても、間違っていた、とは思われません)

とにかく、自分のできる範囲から書いてみることです。
後で読み返して赤面することになっても、いいじゃありませんか。その時は、新しい稿を書けばいいんです。
いま挙げた四つの条件を満たしている作家は、すぐに消えてはいきません。だいたい残っていく作家、作品ですから、あわてないでじっくり見守っていきましょう。

5.評論、なんて力まないで、やさしい布教活動という手も/実は日本人もお得意の、パロディ精神というやつ。

いろいろ書いてたら疲れてきました。なんだか、評論て面倒ですね。やめましょうか。
人を説得するのは、なにも評論ばっかりじゃありませんし。
それより、先祖古来の知恵を活かして、易しくいきましょうか。
風刺、パロディ、というやつで攻めるです。

日本人に風刺精神がないわけではありません。余る程もっています。パロディ精神も昔から腐るほど持ってます。お上に面と向かっていえないことも、別の時代の出来事として表現してきたのが日本人です。有名なのは、年末恒例の忠臣蔵。歌舞伎の仮名手本忠臣蔵というのがあるでしょう? 塩谷判官はいい迷惑です。高師直はもっと迷惑してます。本物を描くと駄目、というなら、別のものにすればいいんでしょ、というのは日本人の得意業です。これで行きましょう。

え、どうするのかって?
今は、パロディ同人の花盛りじゃありませんか。
そういうのに参加するんです。
今の世の中、なんでもあり、ですよ。
あなたが批評したいものの同好の士は、かならずどこかにいるものです。
さがしてください。力をつけるために。

まあ、創作論でもいいましたが。
肩の力を抜きましょう。まず最初は、私はこれがすき、というだけでも、いいじゃないですか。充分です。
それだけでも、作者には大変な励みになり、読者は読む力を伸ばすんです。
本当です。
信じてください。

(1992.3脱稿/初出・Narihara Akira編『のんしゃらんと第2号』1992.3)

「いい小説が書きたい」

七月の終わり、朝日新聞の文庫の広告を見ていた私は、思わずア、と声をあげた。
「なんだ、クーンツのあれ、朝日新聞社に版権うつったんだ。まあ、絶版にするには惜しい本だもんな」
私が見つけたのは、D・R・クーンツの『ベストセラーの書き方』だった。十年以上前、講談社から「ハウ・トゥ・ライト・ブックス」というシリーズが出ていた。小説の書き方指南本だが、黄色にストライプの入ったソフトカバーが美しく、軽くてハンディで内容もよかった。その中で、当時の私の役に一番たち、かつ面白かったのが、この『ベストセラーの書き方』だったのである。再版されて当然の本なのである(ただし某HMM誌によると資料が旧版のままだとか)。
はっきり言って、「小説の書き方」という類の本は、まず面白くない。なおかつ、読み物としても楽しくない。《小説の書き方なんて人に教わるもんじゃない》と言い放つ人もあれば、《私はこう書いてきたので君達もそうしたまえ》的な威丈高な人もいる。これは洋の東西を問わない。力のない作家が書いているからなんだ、と自分に何度も言い聞かせないといけない程つまらないものが多いのだ。
もちろん、日本人でも楽しい指南本を書いている人もいる。私の読んだ範囲内では、野田昌宏の『改訂版・スペースオペラの書き方』が面白いと思う。SFなんか書かないし読まない、と思う人でも、つい引き込まれて読んでしまう筈だ。読み物としての勢いもあるし、娯楽小説に必要な事は何かという基本もきっちり押さえられている。素人物書き必読の本だ。
クーンツの『ベストセラーの書き方』もまた、《私はベストセラーなんか狙ってないんだけど》という人に役立つ本だ。これを読んだ後、その人の小説のレベルは確実に上がると思う。
おっと。うっかりつまんないこと思いだしちゃったぞ(笑)。
実はこの本、以前にも《これを読めば、誰でもある程度のレベルの小説が書けるようになる》とある同人誌で紹介した事があった。そしたら、その同人の一人がいきなり《誰でも書けるようなレベルの小説なんてこの世にいらないんだ》とせせら笑ったのである。
はっきり言って、それを聞いたこっちが笑ってしまった。《この人随分馬鹿だなあ。自分も小説書いてるくせに、誰でも書けるような小説を書く事がどれだけ難しいかも知らないなんて。きっと、つまんない話しか書けない人なんだなあ》と(その推測があっていたかどうかは皆さんのご想像におまかせする)。
確かに天才は存在する。大した勉強もせずに、名作をものする人もいるだろう。しかし、そういう人には元々指南本なんて必要ない。指南本を読むのは、勉強したい人なのだ。わずかな手がかりを得るためにも努力を重ね、自らのベストを尽くしていい小説を書きたい、と願う人であるべきなのだ。そのニーズを満たす本が、もっとあっていい筈だと思う。
ところで、作者にとっての《いい小説》とは何だろう。
他人様は知らないが、私の定義はとりあえず決まっている。「自分で書いていて楽しい小説」だ。でもこれは当り前だ。そうでないなら書くべきでない。そしてもう一つは「読者に二度読んでもらえる小説」だ。賛否はあるとは思うけれど。

(1996.9脱稿/初出・Narihara Akira編『のんしゃらんと第20号』1996.9)

「Narihara式コピー誌の作り方」

最近どういう訳か、「Nariharaさんのあのコピー誌は、いったいどうやってつくってるんですか?」という質問を受けることが増えてきました。特に、同人誌を製作している方、コピー誌の経験があるだろうと思われる人から質問されるようになってきました。「私はコピー誌職人ですから」とウソぶいたりもしていますが、実は本人は変わった本をつくっているつもりはなく、一番時間と手間がかからない素朴な方法で作っているだけなんです。
それで今回は、Narihara式コピー誌の作り方を簡単にご紹介しようと思います。インターネットで紙の本の作り方を紹介するなんてちょっと変かな、とも思いますが、コピー誌をあまりつくった事のない方、今自分がつくっている以外のコピー誌の作り方も知りたいという方のご参考までに、私なりの製作手順その他を公開しようと思います。

1.原稿を書く。

とりあえず原稿を書きます。
Nariharaはここ十年程、ワープロソフト「一太郎」で原稿を書いています。自分が使っているプリンタで一番みばえのいい、なおかつ一ページの情報量の多いレイアウトを考えて、文字数と行数を最初に設定してから書き始めます。レイアウトは後で直すことができるものですが、本が出来た時の様子をイメージしながら書く方が楽しいので、先に決めてしまいます。この方法で書くと、原稿用紙に換算してどれぐらいの枚数になるかわかりやすいですし、行頭に「っ」「ー」のような文字がなるべく来ないように調節できるので、原稿全体が比較的きれいに見えるというメリットもあります(句読点はソフトの禁則処理で自動的に行末で処理されるので気にする必要がない)。コピー誌は最後の最後まで自分の手がかけられる本なだけに、原稿のみばえにはこだわりたいところです。本人にレイアウトのセンスがないだけに、ぱっと見た時の原稿が見やすく美しい、ということに重点を置きたいのでした。

2.原稿をプリンタで打ち出す。

原稿が完成したらプリンタで打ち出します。それを推敲します(前日完成、なんてこともありますが、最低一週間は必要だと思います。本当は一、二ヶ月欲しいところ)。誤字脱字等が必ずあるので、よくチェックして直します。
これでいいだろう、ということになったら改めて打ち出します。Nariharaはシャープやコクヨのエコノミー、安くて薄いワープロ用感熱紙をまとめ買いして使っています。永久保存できる用紙や、擦っても発色しないような用紙に打ち出したものより、かなり濃い目に印字されて、コピーがきれいにとれるからです。インクリボン式、レーザー式、インクジェット式よりコストがかからないという理由もあります。とにかく量が多いので……。
メインの原稿と、本にする時に必要なもの(前書きや後書きやノンブルやその他もろもろ)を全部打ち出します。挿し絵等がある時は、それも準備しておきます。

3.版下を作成する。

近所のコンビニに行って、打ち出した原稿をコピーにとります。それを持ち帰り、端を裁断します。最近は方眼のついた半透明の定規が売っているので、それを当てて5ミリ程度の余白(本によっては2ミリ〜1センチ)を見て、カッターで余分をカットしてしまいます。カッター台(カッターで机を切らないように敷く下敷)は、あると便利です。もし持っていないけど買いたい、という方は、文房具屋さんに行って、大きめで厚くて表面があまりツルツルしていないものを選びましょう。その方が作業しやすいです。器用な人は目で見当をつけて、ハサミで適当に切ってしまってもいいでしょう。それでも出来ないことはないです(出来ばえは保証しませんが)。現在NariharaはB5の本をつくる際、B5の版下を2枚並べてB4でコピーをとり、ハサミで半分に切り、それから5ミリ余白を残してカッターで断ち落としています。
できたら、それを版下に貼りこんでいきます。
Nariharaは、コピー誌を作る時は、ホリイのOA原稿用紙(5ミリ方眼)という版下を使っています。方眼にあわせてコピーを貼っていけばいいので便利です。薄い水色で罫線が印刷されているので、よほど濃くコピーをとらなければ線は出ません。使うノリは何でも構いませんが、私は木工用ボンドで四隅を軽くとめています。ボンドは貼り直しができないからイヤ、という人は、ペーパーセメントや特殊なノリを使って下さい。気のきいた文房具屋さんなら売っているはずです。
コピー誌の版下の作り方には、袋とじと中とじと平とじの三種類がある訳ですが、Nariharaの本はページ数が多く、通常は平とじで作っているので、ここでは縦書きの小説本・向かって右側を平とじする版下の場合の作り方のみ紹介します(縦書きの小説本、と断ったのは、横書きの本の場合、まれに左とじ、つまり開きが逆になる本があるからです)。
以下の図を見て下さい。

ページがこのような順になるように、左右の余白を1・5センチほど、上下の余白も適当にあけて、版下に原稿を貼りこんでいきます(私はわかりやすいように、ノンブルを先に版下に貼っておいたり、中央部に鉛筆で小さくページ数を書き込んでおいたりします)。5ページ以降も同じようにつくっていきます。この方法の難点は、原稿の枚数を4の倍数に調節しなければいけないことです。どうしても4の倍数にできなければ、最後のページだけB5で別に作ればいいだけのことですが……。
全ページ貼り込みが完了したら、もう一度コンビニへ版下を持っていき、コピーします。両面コピー機が使えればそれが一番いいのでしょうが、私の近所にはそんな便利なものはないので、片面ずつコピーします。片方の面をコピーしたら、もう一度その紙をコピー機に通してもう片面もコピーします。この方法はコピー機のローラーを汚しやすいので、二度目に紙を通す時は、できればコピー紙をよく冷ましてからにしましょう。何も考えずぼんやりコピーしていると、汚れたページの本が出来てしまうこともあります。また、表裏の上下が逆になったり、同じページを刷ってしまわないように注意して下さい。初めてのコピー機を使う時は何枚か試し刷りをして、紙が機械の中でどう回ってどう出てくるのかをよく観察して下さい。版下をこう置けばこう出て来る、中央部分がずれる場合はこうやって調節する等を細部を確認し、機械のクセをのみこんでから、本格的にコピーを始めましょう。

4.版下を折ります。

ここの行程が一番、NariharaのNariharaらしいところらしいです。コピー誌の作り方の説明をする時に、よくキョトンとされるからです(何故なんだろう? 皆さん子供の頃、学校で文集づくりとかやらされませんでした?)。別に変わったことをする訳ではありません。ページが順番になるよう、右側を山折りにしていくだけです。何枚かずつまとめて軽く下折りし、一枚ずつばらしてもう一度下折りし、その後ぴったり半分になるように(誤差1ミリ以下)しっかり折ります。丁寧に折るのはかなりの時間と手間がかかりますが、断裁するよりも本の強度があがるので、この方法をとっています。

5.ページ順に重ねて綴じます。

折る作業がすんだら、順番になるように並べて重ねていき、背を綺麗に揃えて(揃わない紙があったら折り直す)、右端をホチキス(ステープラー)で綴じます。何十枚も綴じることが可能な業務用ホチキスはかなり高価なので、職場や学校にあって借りられるという人は借りて使いましょう。私は薄い中とじ用の本をつくる時のホチキス、普通のホチキス、やや厚い本をつくる時のホチキス、かなり厚い本をつくるときのホチキスと4種類を使い分けています。全体が水平になるように、紙をきっちり揃えて綴じましょう。業務用ホチキスの場合、台の高さと同じぐらいの厚みの本等を両脇に敷いて置くと、作業が楽です。もし綴じる時に歪んでしまったら、面倒ですが針をきれいに外して、もう一度綴じ直します。

6.表紙をつけます。

本によっては5の作業でおしまいなのですが、本をさらに丈夫にしたい時、厚みのある本の時(Nariharaは百ページぐらいある本でも平気でコピー誌で出しています。百七十ページを越える本を出したこともあります)には、別に表紙をつけます(これで、ホチキスで綴じるときに出る微妙な歪みを隠すことも出来ますし)。
表紙につかう紙を選んで、あらかじめ買っておきます。色数の多さ、発色の鮮やかさ、ほどよい厚みがある等の理由から、Nariharaは八切のマーメイドを表紙に選ぶ事が多いです。皆さんは、その本のイメージにあった紙を買いましょう。私の場合は、地元の画材屋さんが少ない枚数でも注文を受けてくれるので、日数に余裕をみて注文を出しておき、本文が出来る前に入手をすませておきます。
出来た本を表紙用の紙にあて、千枚通し(先が細くとがったものならなんでもいいのです。消しゴムをかけても艶が消えない紙なら鉛筆を使っても構いません)で軽くあたりをつけます。定規で線を引いて中央の部分をコの字形に折り、ちゃんと本文をくるめるかどうかを確認してから、ハサミで余分をカットします。本文の保護を考えて、やや大きめにカットすることが多いです。
それから、表紙の印刷をプリントゴッコで行います。
印刷が終了し、充分乾いたら、コの字型の部分の中央の2センチぐらいにボンドを塗り、本文をきっちりはさんで貼りつけ、平らな場所に置いておもしを乗せて乾かします。
表紙の印刷はプリントゴッコ以外の方法もあります。
例えば表紙をコピー機で印刷する場合(マーメイドでなく、もっと薄くて平滑な紙の場合のみ)は、先に刷ってから余白部分をカットする方法が無難でしょう。コピーが多少ずれても対応できますから。
表紙に別紙で何か飾りを貼りつける場合は、のりづけした表紙が乾いてから作業した方が良いでしょう。重ねておもしをかける時に邪魔になりますし、本文が湿りすぎて作業がしづらくなります。
本が乾いたら、適当な保存場所へ移し、平らに置いて保管しましょう。売り物の場合、透明なビニール袋をかけて保管するのもよいです。きれいな状態のまま読者の手に届けられますし、保管自体が気楽にできます。私の場合は近所に包装紙の問屋さんがあり、包装専用のビニール袋が買えるので、100枚単位で買っています。
この表紙付けの項目は、完全にNariharaの趣味で行われています。Nariharaの精神的負担が一番少ない方法がこれだというだけで、読者の皆さんにとってのベストではないと思いますので、いろいろ工夫してみてください。枚数によっては、紙屋さんがあなたの注文通りのサイズにカットしてくれる時もあります(何百円か余計にかかるかもしれませんが)。縦横と背幅のだいたいの厚みがわかっていれば、最初からそれプラス1、2ミリのサイズを指定して注文してしまった方が楽でしょう。

7.その他。

このコピー誌の作り方は、リソグラフ等の軽印刷機で本をつくる時にも使えます。両面を刷る時には、片面がよく乾いてから、もう片方の面を刷って下さい。
参考までに、100ページの本を24部製作する時のNariharaの平均所要時間は以下の通りです。

・本文チェック、目次等の細かいパーツ、ページあわせ用に準備した原稿を再チェックして四の倍数におさめる;これが脱稿から一ヶ月間ぐらい。
・版下を製作する;6〜8時間
・原稿のコピー;2〜3時間半(コピー機の調子が悪ければもっとかかります)
・完成版下を折る;6〜12,3時間(下折りを手伝ってもらればある程度時間は短縮できますが、限度があります)
・ホチキスで綴じる;2時間半
・表紙紙をカットし、プリントゴッコで刷る;5〜7時間
・乾かした表紙紙を本文に貼りつける;3〜4時間
・更に乾かす;半日以上

最低三日はかかると考えていただければいいかと思います。慣れない頃は、同じ作業に一週間ほどかかっていました。
時間短縮のためにいろいろと裏技を使うこともありますが、実質的にかかる時間をこれ以上縮めるのは難しいです。それにNariharaは、あまり手先が器用でないので……。

8.それにしても、なぜ私はコピー誌をつくるのか。

以上、読者の皆様にはもうおわかりいただけたと思いますが、コピー誌をつくるのは結構面倒です。文字通り家内制手工業です。オフセット印刷で出すと決め、指定の版下に原稿をつくって印刷屋さんに持ち込めば、綺麗な本をつくってもらえます(それ相応のお金はかかりますが)。
なので、私がコピー誌をつくるのは、以下のどちらかの場合です。

●一刻も早く皆さんに見せたい原稿がある時。
●パロディ物で、時間がたってしまうと売れなくなってしまう可能性が高い原稿がある時。

漫画と違い、小説本は爆発的に売れるものではありません。特に同人誌の場合、コピー機でつくった小さな本でも読者人口に足りてしまう事も多いのです。
それに、コピー誌は印刷屋に出すよりも早く出来ます。薄い本をつくるならば、コピー誌の方が安上がりです。部数が少なければなおさらです。自分の書いた原稿を、最後の最後まで自分の手で処理して読者に渡すことができます。総合的なプロデュースの楽しみがある訳です。
Nariharaがなかなかコピー誌がやめられない理由、わかっていただけましたでしょうか?

9.最後に……「同人誌」と一言で言うけれども。

商業出版の本は出版社から出ます。装丁、レイアウト、解説、煽り文句、宣伝方法……多くの専門家が知恵を寄せあって、作者と共に一冊の本をつくりあげていきます。これは、素人が思っているよりかなり大変な作業のようです。お金も時間もかかります。原稿の質がどんなによくても、出版社が倒産して本が出ない時すらあります。
さて、ここに、一つの完成原稿があるとします。別に商業的な出版なんかされなくてもいい、でもある程度の人数の人に一刻も早く見せたいのだ、という原稿が。
その時あなたはどうしますか?

この質問に対して「私は同人誌で出す」と答える方達がいらっしゃいます。プロ漫画家、プロ作家でも、出したい原稿が思うように出してもらえない時がある。その時に、自分で印刷屋さんにもちこんでその原稿を刷ってもらい、人に配ったり売ったりする訳です。最近の不況で、商業出版社は冒険を控えるようになってしまっています。ならば自分で金を出してこの本をつくってしまえ――という展開になる訳です。
でも、よく考えてみると、これは最近の状況でもなんでもないんです。まだ売れていない作家が自費出版をする、自分で売る、もしくは売ってくれる会社へ改めて持ち込むというのは、日本では昔からごく当たり前のことでした。若手の作家が集まって資金を出し、自分達の原稿を集めて印刷屋へ持込み、文芸同人誌として出す事は、今でもさかんに行われています。今でこそ《同人誌》といえば、即売会で売られているパロディ漫画、パロディ物を載せた本、というイメージが定着していますが、ある程度より上の年齢層の人が同人誌という言葉をきけば、昔ながらの文芸同人誌の事だと思うはずです。
大きな同人誌即売会に行くと、本当にありとあらゆるジャンルの本が売られています。即売会以外の場所でも、同人活動はあらゆるところで熱心に繰り広げられています(嘘だと思う人は、例えば雑誌『公募ガイド』を広げてみて下さい。文芸同人誌が毎月ごまんと掲載されています。以前一度そういう場所で同人仲間を募集したら、二ヶ月半ぐらい毎日のように問い合わせの手紙が来て返信を書くのが大変でした。それはそれで面白い体験ではありましたが)。世の中には、同人誌、の一言で簡単にはくくれない、いろんな活動がある訳です。言いかえれば、同人誌ってのはなんでもアリな訳です。だから、マナーを守って活動している人を指さすのは、指をさす方がおかしいのです。ですから皆さん、安心してバンバン創作しましょう。本を出しましょう。コピーだろうとオフセだろうと、作者が誠意を込めてつくった本であれば、必ず読者がついてくるはずです。勉強を怠らない人、人の話に耳を傾けることができる人、ちゃんと人づきあいのできる人が書いた本が読まれないとすれば、それは世の中が間違っているのです。売れっ子作家になるのに必要なのは才能ではなく、運と根性とちょっと鈍感であることだ、と言った編集者がいましたが、確かにそうかもしれないと思う時があります。文章を書けるというのは一つの才能で、それが全くない人にはかなり難しい事だとききます。ですが、もし文章を読める人でやる気があるのなら、根性で補うことは可能です。つまり練習です。何冊も本を出して、読者の反応をある程度得てから書き直して、さらに良いものにする――これは大事な修行です。これが、コピー誌でなら簡単に出来ます。失敗しても、金銭的に大損をすることはありません。今の世の中、軽印刷機を気軽に借りることができない人はいても、近所にコピー機のある店がないという人はあまりいないでしょう。見事成功原稿ができたら印刷屋へ持ち込んで大量に刷ってもよし、いいえ、それこそ商業出版社へ持っていけばいいのです。そこでつっかえされたからといって、別にどうということはないのです。もしかして別の出版社へ持っていったらあっさり出してくれるかもしれないし、出してくれなくとも、運悪く見る目のない編集者にあたってしまっただけかもしれないし、単に時代よりあなたの作品がいささか早すぎただけかもしれないのですから。
それにあなたは、大事なものをすでに手にいれています。創作の発表の場、そして、あなたに自信をつけてくれた読者がもう何人も確保できているということ――落ち込んだ時、ちゃんと作品を読んでくれた人の声ぐらい有難いものはないはずです。それはプロになってしまうと、かえって聞けなくなる声かもしれません。得難い財産と思って、明日の精進の糧にしましょう。小説書きにしろ漫画描きにしろ、どのみち好きでかかずにはいられないからこそ、小説や漫画を続けている人が大半なはず。そのやむにやまれぬ衝動を、せっかくですから形にしようじゃないですか。
同人誌って、そう馬鹿にしたものじゃありませんよ?

(1999.5脱稿/書き下ろし)

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Narihara Akira
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