『光 闇』


「あ、ああ……!」
小さな声を上げて、紀之介が達する。
三成は、更に二度、三度と深く突いて、白濁を注ぎ込む。
しばらく二人とも、かたく抱きしめあっていたが、そのうち、三成が深いため息をついた。
「やれ、どうした?」
紀之介が問うと、三成は満足げに、
「やっと紀之介が、私のもので気をやってくれるようになったと思うと、嬉しくて」
紀之介はハッと身を硬くした。
「別に、ぬしので、達ったわけでは」
「違うのか? 良くなかったか?」
紀之介は、三成の胸を押しのけた。
「いつまでそうしているつもりよ。厠へゆくから、のいてくれ」
「あ、ああ」
「ぬしも厠をすませておけ。今宵はもう」
「わかった」
紀之介は単衣を羽織ると、三成を置いて閨を出た。だが、厠でなく、湯屋へ向かっていた。
《佐吉が……あの佐吉が、あんな口を……!》
用意されている手桶で身体を洗いながら、紀之介はくちびるを噛んでいた。
押し込めていた暗いものが、一気に噴き出しそうだった。

*      *      *

紀之介のいらだちは、佐吉が三成の名をもらったことから始まった。

秀吉の旧友・竹中半兵衛が軍師としてやって来ると、豊臣は勢いづいた。軍としての体裁も整ってきて、まだ若い紀之介も佐吉も、いくさばで縦横無尽に活躍するようになった。
そんな、ある日。
佐吉が主君に向かって「ご覧いただきたいものがあります」といいだした。「なんだ、佐吉」と優しく秀吉が問うと、「まだ、半兵衛様には及びませんが」と、巻藁の前で刀を構え、その技を披露した。
「これは……!」
秀吉は目を見張った。
瞬速の居合いだった。
ただ太刀筋が見えないというだけでなく、その斬撃は無数。周囲の生気をなぎ払うほどのもので、竹中半兵衛の華やかな剣技によく似ていた。
「貴様、見ただけで半兵衛の技を覚えたというのか」
佐吉はニコリとした。
「同じように、とは参りませんが。まだまだ小兵の私ゆえ、せめて手数を増やしてみたく、半兵衛様の技にいきつきました」
恐るべき才能に、秀吉は喜びの表情を浮かべた。
「では佐吉よ。その技でどこまで行けるか、試してみるとよい」
次のいくさで先陣に加わった佐吉は、秀吉の期待に大いに応えた。
褒美と共に、新たな名をもらうほどに。
「今日から貴様は、三成、と名乗るがよい。正式な位については、後日与える」
三つのことを成す男、という立派な名をもらって、彼の喜びようといったらなかった。
新たな剣技を「慙悔」と名付け、それをさらに磨きあげるようになった。
正直、紀之介は面白くなかった。
確かに佐吉には、才がある。
日々、たゆまず鍛錬しているからこそ、新たな技を身につけることができるのだ。
だいぶ背も伸び、それにふさわしい筋肉もついてきている。
だが、実戦において、刀や槍さばきが佐吉に劣っているとも思われず、年かさの自分より先に、大人らしい体裁を整えていくのはどうか、とつい考えてしまうのである。
近いうち、次のいくさが始まり、三成は新たな位をもらうだろう。
その時、果たして、自分はどうなる――?


一番いけないのは、最近きたばかりの竹千代――いや、徳川家康という子どもと仲良くなりだしたことだ。
なにくれとなく、声をかけてやっているようなのだ。
湯屋で二人きりになった時、紀之介は低い声で三成を難じた。
「三河の子狸とじゃれるのは、そんなに楽しいか」
「どうした、紀之介?」
三成は不思議そうな顔をした。
「ぬし、意外に人を見る目のない男よな。そんなに親身になる必要がある者か? あれは田舎の小大名の子、いずれ三河に戻るものよ。豊臣の力には、なりえまい」
意地悪い声でいってやるが、三成は素直にうなずいて、
「そうだな。だが、あれには戦国最強がいるからな」
「やれ、本多目当てとは思わなんだ」
「半兵衛様が、とても気に入っている。取り込んでおいて、損はないだろう」
「ぬしがそこまで、計算高いとはなァ」
「計算ではない。豊臣の軍門に降ってきた者を、あえて敵に回す必要はないというだけのことだ。紀之介は、あれが気に入らないか」
「どうも、ああいう子どもは、苦手よ苦手」
「なら、無理して相手をする必要もないだろう」
「ぬしは得意というのか」
「得意、というわけでもないが。あれはただ、明るいだけの子どもでもないからな」
「……!」
紀之介は言葉を失った。「それがし徳川家康! よろしく頼む!」とひとつ覚えの挨拶しかできぬような、まだあどけないような子どもだ。
この男は、どこに闇を見ているのか。
何に共感しているというのか。
「勘ぐる必要はない。私が一緒にいたいのは、いつも紀之介だけだ」
そういう三成から、紀之介はただ、視線をそらすしかなかった。


そんなある日。
「あれ、大谷君、もう戻ってきたのかい。仕事が早いなあ!」
紀之介が頼まれた書状の返事を届けると、竹中半兵衛は驚きの顔で迎えた。
「先方が、すぐに返書をしたためてくれましたゆえ」
そう低く答えると、半兵衛は中身をあらためて、感嘆の声をあげた。
「ああ、これはいい。調略の手応えが薄くて、少なくともあと数日は、向こうに滞在しないと駄目かと思っていたんだけれど……大谷君、なかなかやるね。この内容なら秀吉も満足するだろう。君にまかせてよかったよ。ありがとう」
「いえ」
どういう手を使ったんだい、などと茶化されず、普通に礼をいわれたので、紀之介は内心嬉しく思いながら、頭を下げた。
が。
「……そういえば、三成はどこへ」
紀之介が外から戻ると、一番に飛んでくる男である。つまり不在なのだろうと思って尋ねると、半兵衛はこともなげに、
「ああ。昨日から、下醍醐にいってもらってる」
紀之介は首をかしげた。
「あの廃寺に、何をしに」
応仁の乱で荒れ果てて、五重塔しか残っていないはず、と紀之介がいぶかしむと、
「あそこは廃寺じゃないよ。一応、足利義昭の息子が再興してるからね。ただ、まだ完全な状態じゃないから、足りないものを移築しないと」
「それで、なんとします」
「桜を植えて、花見の名所にしたいんだってさ」
主語がないが、秀吉は桜を愛していることは、紀之介も知っている。半兵衛の土木関係の才能はすでに伝説化しており、そのつもりで実行すれば、来年にも花見が出来ることだろう。
「太閤は、吉野の桜を愛でられていたはずでは」
「もっと気軽に行けるところにも、ってことでしょう。だから、三成君に測量を頼んだんだよ。昔の図面はあるんだけど、あまり正確じゃなさそうだからね」
「さようで」
「そうだ。大谷君、今から君も、醍醐寺にいってくる?」
「われも、とは」
紀之介が黒目がちの瞳を大きく見開くと、半兵衛はサラリとこたえた。
「ひとりで行けるっていうから任せたんだけど、なんか、家康君がついてっちゃったからさ。子守りは得意じゃないだろう、彼」
「いや、それがそうでも、なさそうで」
「本当は、君ら二人でいってもらおうと思ってたんだ。早く済むだろうし、大谷君もいっておいでよ。雅びな方面は、君の方が得手だろうしね」
「それは、ご命令で?」
半兵衛は薄く微笑んだ。
「いやなら行かなくてもいいよ、もちろん? 疲れてるだろうしね」
紀之介は頭を垂れた。
「いえ、この程度のことで、疲れたなどとは」
「じゃ、頼んだよ。よろしくね」
紀之介はくちびるを噛んだ。
行きたいか、と問われたら、行きたくない、とごねてしまったろう。
だが、疲れているなら行かなくていい、と言われたら、行きます、といわざるを得ない。
紀之介がそういう性格であることを半兵衛は見越して、ああいったのだ。
《やれ、仕方があるまい》
正直、半兵衛も家康を警戒していて、素直な三成と二人きりにしたくないのだろう。この軍師の狙いは、あくまで本多忠勝であり、家康はそのための人質ぐらいの感覚でいる。それがわかるだけに、紀之介は、急ぎ旅支度をしなおした。
「仕事のはやい男ゆえ、もう、終わらせておるかもしれぬがな……」


紀之介が醍醐寺についた頃は、もう薄暗く、そして小雨が降っていた。
まだ春も浅い頃である。紀之介は震えがくるのを感じた。
「やれ、どこにいるものやら」
空いている土地の一部が掘られ、楔が打たれ、白い布がついている。
ひとつ礎石を見つけると、自分でこしらえた間竿ではかって次を調べ、このような目印をつけていったのだろう。数字に明るく、測量も得意としている男だ。紀之介は、佐吉の背の伸びぬうちは、武人としてより、こちらの才を磨いた方が良いのでは、とさえ思っていた。
五重塔に近づいていくと、人の声がきこえてきた。
「三成は、凄いなあ」
「何がだ」
「噂には聞いていたが、本当に、万事手早い」
「半兵衛様からいただいた、図面あってのことだ。たいしたことではない」
「そうなのか? しかし、この寺が桜でいっぱいになったら、それは美しいだろうなあ」
「貴様は桜が好きか」
「桜が嫌いな者はいないだろう。特に、実りを祈る民たちにとっては、ただの花ではない。それを秀吉殿は、よくわかっているのだな」
「安易に語るな。秀吉様のお考えは、私たちがおよびもつかぬほど深い」
「そうだなあ」
子どもっぽい家康の声と、三成の沈鬱な声は対照的で、聞き間違えようもなかった。
二人とも、軒下で雨宿りしているようだ。
紀之介は物陰で、そのまま立ち聞きする形になってしまった。
「ところで、本多はなぜ、ついてこなかった」
「忠勝は、三河に使いに出しているんだ」
「何か用事でもあるのか」
「まあ、いろいろとな。それに、あの鎧は、なかなか手入れが大変なんだ」
「特別な装具が必要なのか」
「まあ、そんなところだ。雷電の力を使うからな」
「だが、いつも側に置いておかなくていいのか」
「うん?」
「貴様は、幼い頃から、さらわれたり、人質にされたりしてきたからこそ、戦国最強を側に置いているのではないのか」
「ハハハ、豊臣にいて、そうやすやすと誘拐されてはかなわん」
「ここは大坂城内ではないぞ」
「だから、三成についてきたのじゃないか」
「なんだと?」
「三成と一緒なら、安心だろう」
「かいかぶるな。だいたい、自分の身は自分で守れ。貴様を守る義理などない」
「豊臣は、客将をそう扱うか」
「なんだ、客分のつもりだったか。そんなに立派な者とは思えないが」
「ひどいなあ、三成は」
家康はひとしきり笑って、
「まあ、三成は豊臣の生え抜きだものな。そういわれても仕方がない。ただ、わしも秀吉殿のつくる、たいらかな世に興味がある。だからこそ、豊臣に来たのだ。あまりぞんざいにしてくれるな」
「貴様だけ、ぞんざいに扱ったつもりはない」
「そういえばそうだな。三成は誰に対しても公平だ。そこが好ましいんだが」
「好ましい?」
「ああ。いや、違うな」
「何がだ」
「三成は、紀之介だけは特別だものな」
「ふ。特別だからなんだ。羨ましいのか」
紀之介は、頬に血が上るのを感じた。いよいよもって、出て行けなくなった。
家康はさらりと返す。
「もちろんだ。互いに切磋琢磨できる友を持てて、幸せだな」
「ああ。私は幸せだな。だが、紀之介はどうか、わからない」
「どういう意味だ」
「私は紀之介が好きだが、紀之介の理想は、私ではないからだ」
紀之介は凍りついた。
いったい何を言い出そうとしているのか。
「理想?」
「紀之介は、大人の男が好きなのだ。何でも受け入れ、あたたかく包み込んでくれるような、たとえば、秀吉様のような……だが、私ときたら、何でも一から教わらないとわからないような子どもだ。その幼さを、おそらく面倒に思っていることだろう」
紀之介は思わず、胸を押さえた。
図星だった。
早くに男親をなくした紀之介は、秀吉に幻の父をみていた。優しく頼もしく導いてくれる秀吉に対する気持ちが、単なる忠誠心を越えた何かであることも、自覚している。
だが、それを佐吉――いや、三成に見抜かれているとは、予想していなかった。
「紀之介は立派な男だ。文句をいいながらも、必ず親身につきあってくれる。私は、その好意に、甘えているのだ」
「そう、なのか?」
「今日の仕事も、紀之介ならまず、陽の動きと星を見たろう。方角を迷わず見極め、あちこち掘り返さずとも、この図を完成させたに違いない。だが、紀之介は有能だからこそ、半兵衛様の使いで出かけているのだ。私もこの程度のことは、さっさとすませて、すみやかに戻らねば」
「そうだな。だが、雲が切れてきた、じきに雨もやむだろう。もう、だいたいの見当はついたんだし、明日の朝までには戻れるさ」
「夜通し走り続ける気か。貴様は闇が怖くないのか」
「夜が怖いと泣いたことはない。もっと恐ろしいものがあるからな」
「そうだな。あるな……」


雨がやみ、まとめた測量道具を背負って帰り支度を終えた三成は、松明をもち、馬を連れて現れた朋友をみて、喜びの声をあげた。
「ああ、紀之介!」
「やれ、ぬしらは濡れなんだか。蓑かさぐらいは、持ってきておるのだろうな?」
明かりのひとつを家康に持たせ、もう一つを三成に渡す。
「気を遣わせてすまない。わざわざ来てくれたということは、半兵衛様のご用事はすんだのか」
「むろんよ。それで、賢人にぬしらを手伝うよういわれてきたのだが、どうやら遅かったようよなァ」
三成は、すっと紀之介に近づいて、
「いや、ここで、書いたものを確かめてもらいたい。本当に私の仕事が終わっているかどうか、紀之介に見てほしい」
「どれ」
三成が取り出した図面には、端正な字で測量の結果が記されていた。元々あった伽藍の位置、何がどう不足かということと、桜を植樹していくとすればどこかまで、簡潔に記されている。土質はどうか、土入れが必要か、日照はどれぐらいの長さかまで。
「充分であろ。ここから先は、賢人の仕事よ」
「そうか」
三成は嬉しそうにうなずいた。
「なら、すぐにも帰ろう。夜はまだ浅い」
「そうよなァ」
紀之介は、三成にぐっと身を近寄せて、
「ぬしが、明るいうちから艶話をする男とは、思わなんだ」
そう耳打ちすると、三成の頬が真っ赤に染まった。
「きいて……いた、のか?」
「さてな。まあ、なんにせよ、われにきかれたくない話なら、子狸にもするでない」
「一体どうしたんだ、三成、紀之介?」
キョトンとしている家康に、紀之介は松明を指し示しながら、
「ぬし、それをもったまま、馬で走れるな?」
「ああ」
「本多と一緒でないと、何もできぬわけではないな?」
「もちろんだ」
「では、われらが先に行くゆえ、ついてこい」
「わかった」
三人とも馬の用意をし、紀之介と三成が先に走り出す。
家康が後からついていく。二人の馬は早く、ついていくのが精一杯な様子だ。
「怒っているのか、紀之介」
「いや、別に」
二人の会話は途切れ、三成の表情は、どんどん暗く沈んでいった。
そして、また、紀之介も。
《われの理想が、太閤などと……》
時折、閨で、三成が物凄い色気を見せる時がある。
十代の終わりは、誰でも性欲の盛んな時期だ。毎夜求められても仕方がないとは思うのだが、なんというか、三成の方に、余裕がでてきているのである。
そういう時、こらえきれずに甘い声が出てしまって、紀之介は身をすくめる。
《われは一体、どうしたのよ? 相手は佐吉よ?》
いったい閨で何をしたいか、初めて佐吉に問うた時、彼は簡単に答えた。
「紀之介の口を吸いたい。ひとつになりたい」
清童だとは思っていたが、本当に知識がないのだ、ということを紀之介は悟った。
実際、一から教えてやらねばならなかったが、考えてみれば、日常の世話にしても剣の鍛錬にしても、今まで面倒をみてきたわけで、真面目な佐吉の最初の相手となるからには、丁寧に教えなければなるまい。
紀之介は腹をくくった。良くできれば誉め、駄目な時は叱り、それ以上させないようにする。つまり、房事も訓練か作法のようなものであって、色気からほど遠い行為でしかなかった。
というか、その、はずだった。
なのに、最近の三成ときたら――。
《ぬしこそが、太閤になりたいのであろ》
つまり三成は、大人の男になりたいのだ。秀吉のような男になって、紀之介を包み、その身を温めたいと思っているのだ。
だが、紀之介にとっては、まだ、ひとつ年下の若者にすぎない。
まだまだ、追い抜かれるわけにはいかない。
「紀之介、この速さだと、家康がついてこられないかもしれない」
「松明を目印に追ってこられるであろ。大名の子だからといって、甘やかさないのが豊臣よ」
「……わかった。急ごう」
三成は素直にうなずく。
それも紀之介のカンに障った。
身体の軽い三成は常に非常な俊足で、荷物さえなければ、馬に乗るより速いぐらいのものなので、遅さを気にするならわかる。
だが、こんな時にもまだ、家康を気にするとは。
「ぬしも、ほんに、立派な男になったものよなァ」
紀之介の皮肉めいた声に、ついに三成は返事をかえさなかった。
まるで、聞こえなかったふりでもしているように。

*      *      *

「三成? 三成はどこよ?」
先陣を切っていたはずの三成の姿が、いくさばの何処にもなかった。
久しぶりの大いくさで、最後は乱戦になっていたのは事実だが。
「三成様は、先ほど鉄槌兵の群れに囲まれて、その後、誰もお姿を見ておりません」
息を切らした兵の一人がそう報告した瞬間、紀之介は真っ青になった。
いくさ自体はほぼ豊臣の勝利で決まりで、残党狩りを続けるか、撤退するかのどちらかの場面に至っていた。
三成は秀吉から白い陣羽織を賜っていて、いくさばでは、それがひときわ目立っていたのだが、紀之介が重量級の敵に手間取っているうちに、その姿を見失った。
斃されたなら、遺骸があるはず。
あの男が、おめおめと捕虜にされるなどという愚行は、おかさぬはず。
では、どこにいる――!
紀之介は、聞こえる川音が大きいのに気づいた。
雪解け水の勢いというだけでない。
いくさの最中に、どこかの堰が切られたようだ。
もし、三成がいくさの最中に、鉄槌兵に跳ね飛ばされて、衝撃で気を失ったまま、川に落とされたとしたら。
「われは三成をさがしにゆく。ぬしら、残党に気をつけよ」
「大谷様だけで行かれるのですか」
「総出で探すほどのこともあるまい。日が暮れるゆえ、ぬしらは先に戻れ」
「はい! 大谷様、お気をつけて!」


紀之介の予感は当たった。
川の流れが大きく曲がっているところに、白い陣羽織の男が打ち上げられていた。
「三成! 三成!」
抱え起こしたが、返事はなかった。
浅いが息はある。脈もある。水を飲んだかもしれないが、吐いた痕もない。飛ばされた際に怪我をしたようだが、肋骨が折れて肺に刺さっている、ということもなさそうだ。
なのに、意識を失ったままだ。
その身体は、すっかり冷えきっている。
しかも、雨が降り出した。
「やれ、これをしのげる場所があれば……」
紀之介は腰帯のひとつをはずし、三成の胴にくくりつけて、彼をおぶった。
刀を杖にして、歩き出す。
とりあえずこの身を、さらに濡らすわけにはいかないからだ。
幸いにして、うち捨てられた動物の巣らしき横穴をすぐに見つけることができ、紀之介はそこへ潜り込んだ。人二人が横になれるぐらいの広さはある。紀之介は、中に残っていた枯れ葉を集めると、胴に忍ばせていた火口で火をつけ、三成の羽織を脱がせにかかった。
白い肌が、常よりさらに白くなっている。
手足は冷たく、身体は小刻みに震えている。高熱を出す前徴だ。
余計な脂肪がないぶん、冷えるのもはやいのだろう。
気つけがわりに、懐に忍ばせていた清酒を口に含み、三成に口うつしする。
三成は軽く咳をしたが、目覚める様子がない。
紀之介は、油紙に包んで濡れないようにしておいたサラシの一枚で、冷えた肌を拭き、別の一枚を枯れ葉の上に敷いて、三成を横たえる。
「やれ、しかたのない」
紀之介は己の着物も脱ぎ、素裸で三成に寄り添った。
己の身も冷えているので、三成の身体をさすりながら温める。
だが、三成の肌は、ぬくもりをなかなか取り戻さない。普段なら、熱いほどの肌なのに。
「紀之介ぇ……」
小さな声が漏れて、紀之介はようやく安堵した。
意識を取り戻したなら、なんとかなるだろう。
だが、三成の次の言葉に、紀之介はあわてた。
「川の向こう、きれいだ……私を、呼んでいる、な」
譫言だった。
三成は悪夢を見ている。
というか、無意識に、三途の川を渡ろうとしているのだ。
「待て、ゆくな三成」
何故かはわからない、古今東西、人が死ぬ時は川を渡るようだ。
夢の中で、魂が渡ってしまったら、三成は本当に死んでしまうだろう。
絶対に渡らせてはだめだ。
だが何故だ。なぜ、そこまで弱っている?
「私……秀吉様に……あわせる、顔が」
「何をいっておる。太閤がどんなにぬしを思うておるか、知っておるであろ」
「こんな、みっともない……紀之介だって、もう……」
「何をいうておる」
「紀之介、このところ、ずっと、怒って、いた……だから、いつ、ぬしのような荷物は、もう要らぬ、と、言われるかと」
紀之介は気づいた。
弱っていたのは、三成の心だったのだ。
考えてみれば、出陣の前に目をあわすことすらしなかった。また三成が新たな手柄をたてるかと思うと、面白くなかったからだ。
己の心の、なんという狭さ。
「怒ってなどおらぬ」
「私はどうすればよかった? どうしたら紀之介が、笑顔になって、くれる……?」
紀之介は三成の顔をあおむかせた。
口を吸い、舌を絡ませる。
顔を離すと、紀之介は囁いた。
「このまま、われを置いてゆくな。われは、ぬしなしでは、いられぬ」
「紀之……」
三成はぎゅうっと紀之介にしがみついた。
ようやく意識が清明になってきたようだ。
「本当か、紀之介」
「嘘ならぬしを、呼び返したりせぬ。決して川向こうへゆくな。ずっと、われと共にあるのではなかったのか」
「よいのか」
「よいに決まっておろ」
「夢ではないのか」
「夢ではない」
「紀之介」
「なんだ」
「貴様は私に、人を見る目がないといった……だが、あるぞ……私は、紀之介を選んだのだから」
「三成」
「どんなに背伸びをしても、貴様には追いつけない。どんなに鍛錬を積んでも、このざまだ。貴様の手をわずらわせている。それでも、失いたくない、と思ってくれるなら」
紀之介は再び、三成の口を吸った。
「夜明けまでに、着物も少しは乾くであろ。皆が探しにくる前に、動けるか」
「戻れる、と思う」
三成の肌は、熱を持ち始めていた。
呼吸もあいかわらず早い。
目も潤んでいる。
しかし、紀之介は、もう大丈夫だと感じていた。
少しの熱ならば、後で冷ませばよい。いざとなれば、抜いてやってもいい。
「なら、このまま少し、休んでおれ」
「ああ」
三成は、再び紀之介にぎゅうっとしがみつくと、
「……貴様がいてくれて、本当に、良かった……」

*      *      *

このいくさの後、紀之介は、主君の名前から一字とって吉継の名をもらい、従五位下・刑部少輔の位を授かった。三成も、従五位下・治部少輔となった。
三成は吉継に敬意を表すべく、幼名でも新たな名でも呼ばず、刑部と呼んだ。傍目からは他人行儀と思われるような呼び方だが、あまりに三成らしかった。
「刑部」
「なんだ?」
「これからも精進する。よろしく頼む」
堅苦しく頭を下げる三成に、吉継は笑みで応えた。
「三成」
「ん」
「いくら背伸びをしようと、ぬしはぬしよ。それを忘れるでない」
「わかっている。肝に銘じる」
三成も微笑んだ。
「今さら他の誰かになれるわけもなかった。だが、こんな私でも、貴様が共にあってくれるなら、もっと良く生きられるだろう」
「さよか。ならば期待しよ」
「期待、してくれるのか」
「当たり前であろ」
「何を、だ?」
三成がうっすら頬を染めているので、吉継はとぼけた。
「とりあえず、醍醐の花見か」
「そんな先の話か」
「あっという間と思うがな。ぬしは何を期待されたいのよ?」
「いっていいのか、刑部」
「いわずとも、顔に書いてはあるがなァ。まあ、今まで通りよな」
捨てられるかもしれないと思うだけで、三途の川を渡りかねない不安定さは、一途であることの裏返しだ。
自分が余計なことに気を回さず、どっしりと構えていれば、三成は偽りの大人らしさなど捨てて、安心して甘えてくるだろう。それでよいのだ。それで。
「そうだな。それだけでいい」
三成は吉継の手を、そっと握りしめた。
「あの晩を決して忘れない。いざという時は、貴様が私を、現世に戻してくれる。それだけで、私は……」



* この話は、2015年5月に出した、佐和山本『惑わし』に収録した「長わずらい」という書き下ろし短編と、対になっています。
『惑わし』サンプルはこちら→ http://www.toranoana.jp/mailorder/article/04/0030/30/19/040030301959.html




(2015.5脱稿)

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Written by Narihara Akira
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