『ふたごころ』


いいかげん、夜も更けた頃。
微かな物音に気づいて秀吉が足をとめた瞬間、彼の足を、そして腹をつたって、肩へ駆け上がってきた小さな生き物があった。
「夢吉か」
名を呼ばれて小さな猿は、自分の頬を赤くしつつ、秀吉の頬に冷たい掌をあて、なつくように鳴いた。
「おまえも、まったく変わらぬな。何用か」
夕刻、前田の同盟破棄を認めて、慶次を帰したばかりだ。
夢吉には何の恨みもないが、もし、自分を籠絡せんとして慶次がつかわせたなら、斬って捨てるかと秀吉は思った。慶次の頬にもこうして掌をあてて甘え、その愛情を欲しいままにしている賢い猿なのだから、何をするかわからない。
「キィ」
夢吉はもう一度鳴いて秀吉の注意をひき、薄紫の守り袋を見せた。
「おまえ、それをどこで」
それはかつて、ねねが秀吉にもたせていたものだ。
「ああ、違うな」
ねねはそれを、慶次や半兵衛にも渡していた。いつどこで死ぬともわからないのが武将の定めだが、それでも日々心穏やかに過ごせるよう祈りをこめて、彼女は皆に、同じ守り袋を縫っていた。
「慶次の奴、これを見て、ねねを思い出せといったのか」
夢吉は首を横に振った。
「ではなんだ。慶次がまだ、我の無事を祈っているとでも?」
夢吉はいっしょうけんめい、首を縦に振った。
秀吉は一瞬、涙腺が緩むのを感じ、夢吉が掌に落とした守り袋を握りしめてしまった。
「なるほど。これを我にもっていよ、というのか」
夢吉は、キィ、と小さくうなずいた。
自分の守り袋など、とうになくしてしまった。
いや、捨てたのだ。己が殺めた女がよこしたものを平気でもっていられるほど、秀吉は図太い神経を持っていなかった。
「しかしそれでは、慶次が無事ではあるまい」
夢吉は自分の胸を叩いてみせた。いざとなれば自分がいる、と。
その愛らしい仕草に、そして、慶次を心配している自分に気づき、秀吉は苦笑した。
「では、これは我が預かっておこう。さあ、もどれ、夢吉」
夢吉は、タッと秀吉の胸をつたいおりたが、畳に降りてからふと、不安そうに秀吉を見上げた。
「捨てたりなどせぬ。慶次がまたこれを必要とするなら、おまえがとりにこい」
夢吉は安心した表情をみせ、そして周囲をうかがうと、素早く座敷をでていった。
守り袋を胸の隠しに納めながら、秀吉はため息をついた。
《これではまるで、ふたごころだ》
ふとした瞬間に、慶次を思い出すことがある。
伊達追撃の際に相手に手心を加えてしまったのを半兵衛に不審がられたのは記憶に新しい。伊達軍の雑魚共が全員で「筆頭!」とかばうのを見た瞬間、慶次が身を挺してくれたあの時のことを思い出してしまうなど――己がもっとも嫌う、迷いの瞬間ではないか。
《もう慶次のことなど、どうでもよいというのに》
今の秀吉には半兵衛がいる。
迷わず尽くしてくれる軍師が。
誰よりも愛おしい美貌の友が、いるではないか。
物思いに沈んだ秀吉が、そのまま寝所に向かおうとすると、背後から新たな気配が迫った。
「どうかしたのかい、秀吉」
半兵衛だった。
秀吉は足をとめて振り返った。
「なにがだ」
「ため息をついてなかったかい、今」
「否」
「そうか。慶次くんが、君をまた困らせたからかと思って」
秀吉は目を細めた。
「あれはどうでもよい。前田が我らに離反するようなことがあれば、力で圧するのみよ」
「それはそうだけど」
半兵衛の瞳は、なぜかうっすら潤んでいる。
秀吉は思わず顔を近づけ、
「おまえのことを考えていたのだ」
「僕のこと?」
「うむ。おまえの喘ぎを思い出すだけで、腰が疼く」
半兵衛の頬が、ほんのり赤くなった。
「僕、あの、そんなに……?」
「こらえようとして身を縮める姿も、たまらぬわ」
「秀吉……」
こんなところで、とでもいいたげな半兵衛の細い腰を抱き寄せ、秀吉は半兵衛を己の寝所へ連れ込んだ。
普段の半兵衛なら、そこで多少、言葉や仕草で抵抗する。
ところが今夜は少しもあらがわず、反対に、秀吉の胸に顔を伏せ、ねだるように掌を置いた。
そんなに抱いてほしいのか。
それとも、慶次の影に二人が引き裂かれることを、恐れてか。
「よいのか、ここで抱いてしまっても」
低く囁いてやると、半兵衛は秀吉に、強く身体を押しつける。
それは誘惑の仕草にしてはやや幼く、切ない気持ちが察しられて、秀吉は胸をしめつけられた。
今、ふたごころの疑惑など抱かせて、半兵衛を苦しめてはならぬ。
「むさぼって、よいのだな?」
「うん。僕も、欲しい……」
消え入りそうな声で羞じらいを伝える半兵衛の背中を、秀吉はそっと撫でながら、
「あまり可愛らしく誘うでない、歯止めがきかなくなるではないか」
「秀吉が、したいだけしてくれたら……ううん、いっぱい、して」
こうまでひたむきに慕われて、無茶などできるか。
できうる限り優しく撫でさすり、ぬくもりをあたえ、甘くとろかしてしまう以外の愛し方など、あるものか。
「半兵衛」
「うん」
「おまえが心配するのは、ひのもとの行く末だけでよいのだ」
「うん」
「我の腕の中で、よく眠るがよい」
「ううん」
「どうした?」
半兵衛は口をとざしたが、その潤みきった瞳が訴えているのは、甘やかして欲しいのではない、ちゃんと愛して欲しいという願いだった。
「なるほど、確かに余計な口をきかぬ方が、気持ちは伝わるものであったな」
「なんの話?」
なんとなく夢吉の冷たい掌を思い出していたことに気づき、秀吉はそれをごまかすように、半兵衛の目のふちを指でなぞった。
「その瞳がよう語っておるということだ、半兵衛」

そして秀吉は、いつものように半兵衛を抱きしめ、身体の隅々までたっぷり触り、甘い声を出させるだけ出させて、己の心に浮かんだ靄を、宵闇に沈めて隠してしまい――。

(2010.12脱稿)

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Written by Narihara Akira
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