『ゆあたり』


涼しい匂いが鼻をうつ。
月明かりの差し込む寝間で目覚めて、半兵衛は部屋の隅で秀吉が薄荷を煎じているのに気づいた。そして自分が薄い単衣をはおっただけの姿であることに驚き、あわてて身を起こした。
「どうして……」
その夜、半兵衛は久しぶりに蒸し風呂をつかっていた。いつもはかんたんに行水ですませるのだが、京でしばらく療養していたのがよかったのか、今日は体調もいいし熱もない、ちゃんと汗を流しておこう、などと考えたのが間違いだった。麻の湯着をつけて蒸気にあたっているうちに、すっかりのぼせてしまった。すこし身体を冷やさなければ、水を口に含めば動悸もおさまるはず、と湯屋を出たとたん、眩暈をおこして倒れた。助けは呼ばなかったが、近づいてきた誰かがすぐ抱き起こしてくれたことだけは、うっすら憶えている。
「君だったのか」
それは愚問だとわかっていた。城の奥の湯屋だ、使える人間は限られている。そして半兵衛をためらわず抱え上げられる人間など、秀吉ぐらいしかいない。
しかし半兵衛は、介抱してくれたのが秀吉と意識したとたん、頬を赤らめた。汗はすべてぬぐわれている。新しい着物をきせかけられている。つまり、この身体をすべてすっかり見られてしまったということだ。
「余計な世話をかけて、すまない。みっともないところを見られてしまったね」
「いや」
秀吉はそんな半兵衛の羞じらいに気づいているかいないのか、すうっと近づいてくると、白い額に手をあてた。
「まだ、熱がさめきっておらぬな」
「大丈夫だよ、もう」
「気休めかもしれんが、熱冷ましの漢方がある。胸元をくつろげよ」
「えっ」
秀吉の手が襟元に差し入れられる。半兵衛は反射的に拒もうとしてしまう。
「いやか。胸も楽になるぞ」
耳元で低く囁かれて、半兵衛はさらに赤くなった。
「薬なら、自分でする、から」
そういって、単衣の前をわずかに広げる。
だが、痩せた胸が月明かりにもはっきりわかって、半兵衛はうつむいてしまう。
「我が塗ろう」
秀吉は半兵衛の肩をそっと押し、ふたたび布団に横たえてしまった。そして、掌にとった薄荷入りの塗り薬を、半兵衛の胸にすりこみ始める。
「あ、秀吉ぃ……」
甘えた声がでてしまい、半兵衛ははずかしさに身悶えた。
若い頃から病がちだった半兵衛は、他人の肌をよく知らない。だからといって情感をおぼえないわけではなく、どうしても血がたぎる時は、自分ひとりで鎮めていた。ただ、消耗をさけるために、それすら最小限にとどめていた。
それなのに、秀吉の掌でいたわられていると思うと、それだけで身体の芯がたまらなく熱くなる。
「なんと白い肌なのか」
秀吉が、ため息に似た声で呟く。
「顔色を隠すために、化粧をし、紅をさしているのだと思っていたが、ほんとうに白いのだな。だからこうして、すぐ赤くなる」
半兵衛は、全身が朱にそまるのを感じた。敏感になっている肌を、あたたかな掌でさすられながら、言葉でも愛撫されている。しかもその相手が秀吉なのだ。反応せずにはいられない。
胸にすがりつきたいと思いながら、さまよう指先は寝具の端を握りしめてしまう。せっかく秀吉が、身体を楽にするものを塗ってくれているというのに、発作の予感が胸をつき、顔もそむけてしまった。
だってこんなに顔が近い時に、しわぶきがでたら、秀吉にうつしてしまう。
彼の身体は頑強そのものだから、そばにいても今まで無事だっただけだ。
でも、彼も疲れている時に、口唇を重ねたりしたら――。
しかし秀吉は、さらに半兵衛に身体を近づける。
「こうして間近で見ると、仮面を外さぬわけがわかるな」
「あんまり見ないで、秀吉」
半兵衛が昼間、目元を覆うものをつけているのは、病の進行を見せないためだ。軍師として人前に立つ際、あまり病みやつれていては兵士の士気に関わる。どんなに艶やかな化粧をほどこし、頬に綿をいれようと、眼窩の落ちくぼみは隠しきれない。
「その顔色では、陣中に戻ってきてから、よう眠れておらんようだな、半兵衛」
「そんなこと、ないよ」
秀吉の視線が熱い。
たまらなくなって、半兵衛は手の甲で口元をおさえた。
これ以上顔を近づけられたら、己から秀吉の口唇を求めてしまいそうな気がして。
秀吉も、ふと瞳の色を翳らせて、
「眠れるように、してやろう」
掌が単衣の裾を割ってはいる。太腿をさすられて、半兵衛の声ははねあがった。
「あ、だめ、秀吉」
「ここの熱もさましてやらねば、眠れぬぞ」
秀吉のいうとおり、半兵衛の股間は愛撫に反応して、すでに半ば勃ちあがっていた。
「いいんだ、そこは、あの」
「恐れずともよい。無理はさせぬ」
ああ、秀吉は僕を抱きたいのか……うん、いいよ、君にだったら、何をされても……今、この瞬間に壊れてしまっても、僕が君の、夢の礎になれたのなら。
半兵衛は拒むのをやめ、秀吉にすべてを委ねた。
秀吉は半兵衛を犯しはしなかった。半兵衛のものを指で高め、己のものと重ねてさすり、愛撫し続けた。
半兵衛はたまらなくなり、何度も続けて精を吐いた。秀吉も腰を動かしながら達った。
全身とろけるようだった。どんなに消耗しようと構わないと半兵衛は思った。言葉など必要なかった。どれだけ愛されているか、身に染みてわかった。後始末をした秀吉が、そっと抱きなおしてくれた時は、死にそうなほど嬉しかった。
ただ、口元だけは覆い続けた。
声を殺した。
いまわしい咳を、噛み殺すために。

翌朝。
軍議の間にいくと、新たな勢力図を広げて秀吉が座っていた。
半兵衛は思わずうつむいてしまった。
鎧に覆われた寛い胸が眩しく、「おはよう」といつもの笑顔を見せたいのに、秀吉の顔を見ることができないのだ。
「半兵衛」
「うん」
「我に、このひのもとすべてを統べる力があろうとも……」
秀吉は立ち上がり、半兵衛に近づいてきた。
「え」
顎に指をかけられ、上向かせられて、あわてて半兵衛は口元を覆った。
秀吉は笑っていた。
「貴様の口唇だけは、我がものにならぬのだな」
「秀吉」
半兵衛は、潤む瞳を隠すようにしばたいた。
ゆるせるものなら、すべてゆるしてしまいたい。
半兵衛の掌に、秀吉はそっと口づけた。
「湯あたりのせいで疲れておろう。今日は休め。明日からまた、共にゆけるな?」
「僕は大丈夫だよ、秀吉」
「腰に力が入っておらぬぞ」
抱き寄せられて、半兵衛は秀吉の腕の中に崩れ落ちた。半兵衛は涙をそっとぬぐいながら、
「君の薬のおかげで、胸は楽になったから」
「そうか。ならば、これからも時々ぬってやろう」
半兵衛は反射的に顔をあげた。
「だ、だめだよ秀吉」
「いやか」
間近に迫る秀吉の顔。あわてて口元を再び覆いながら、
「いやじゃ、ない、けど……たびたびは、身がもたない」
「それは困る。我にはおまえが必要なのだ」
「秀吉」
「では、どのように愛おしんだらよいのか教えよ。おまえなら、どうすればよいのか知っているのだろう、半兵衛?」
半兵衛は、再びにじんでくる涙をとめられない。声も震える。
「僕は、君のそばにいられれば、それでいいんだ。それだけで」
「我とて同じだ。時のゆるす限り、おまえをそばに置きたいのだ」
「ああ」
半兵衛は、やっと薄く笑った。艶のある声を取り戻す。
「うん。君と一緒にいたいから、僕は戻ってきたんだ。この命つきる時は、君の腕の中で……」

(2010.9脱稿)

《よろずパロディ》のページへ戻る

Written by Narihara Akira
http://www5f.biglobe.ne.jp/~Narisama/