『ハムレット』

1.

ここは、ガラスの城。
冬の日差しは淡く差し込んで、うすみどりの厚いガラスが柔らかく燦く。溢れるように並べられた色とりどりの品が、夢のように照り映えるその中を、スマートな黒の甲冑を身につけたうら若い長身の王子が、物思わしげに歩いている。ゆったりとゆっくりと、時間の流れの止まってしまった場所にでもいるように、己の歩調を守りつつ。時折棚のものを手にしてはためつすがめつをするが、そのうち祖先の忌わしい略奪の歴史でも思いだしたかのように嘆息をつき、元の場所に戻してしまう。それが、かれこれもう三十分ばかり続いている。
高山夏雄は、いらいらしながらその様子を眺めていた。ここは中世でも未来でもない、ましてや異国でもない。紛れもない現代日本の、少々酒落たバイク用品店の中であって、歩いているのはぴったりとした黒のつなぎに、フルフェイスのヘルメットを被った青年に過ぎない。だが、その青年は、一般人として見過ごしにできない何か鋭いものを身の内に秘め、あたりの雰囲気まで変えてみせているのだった。その仕草のひとつひとつはどこか世慣れず、だが典雅なニュアンスに富み、またヘルメットから覗く瞳は、男の夏雄が見てもはっとするほど涼しく、また僅かに潤んで美しく、それでいてきりりと澄んで、厳しい運命に耐える高貴な血筋の末裔とばかりに見える。これはまさに異邦人、エトランジュの類。
だが夏雄が気に入らないのは、その常ならぬ雰囲気だけではなかった。その青年は近頃の常連だったが、絶対にメットを外さない。申し訳程度にシールドをあげて、ようやく目を見せてはいるが、手袋のほうも外さない。買い物の仕方も、時間の割に小詰まらないものをひとつ、ぽつりと買ってゆくというようなことが多く、どうにも不審な客なのであった。ここは大きな店ではない、近所も寂しいところであるし、アルバイトの夏雄としてはなにかと不安で、本当は追い出したいのだが、話しかけようとすると、さりげなく逃げてしまう。無理にでも近づこうとすると、上司である雪野都が、何気なく寄っていって話しかけ、なにか買わせてていよく追い出してしまう。
実は夏雄が一番気に食わないのがそこなので、いくら有能な従業員で、客さばきのうまい雪野だからといってもあの手際と親密さは只事ではない、あの二人はいったいどんな関係にあるのかないのか、いったいあの青年は何者なのか、ということが、正直いって目下の夏雄の最大の関心事なのであった。
今日も雪野は何食わぬ顔でレジのところに立っている。ギリシャ彫刻のように力強く健康的な美しさを持つこの若い娘は、抜けるように白い豊かな頬をあの青年に向けている。夏雄はわざと離れて立って、隠れるように見ていると、青年はそれみたことか、なにも持たずに、雪野の方へ近づいていった。そして二言三言ことばを交わすと――あろうことか、青年は雪野の掌をとり、王女にでもするようにうやうやしく口吻した!
夏雄は硬直した。雪野は、アルフォンス・ミュシャの描く春の女神のように静かに微笑んで、されるままになっている。青年は深く頭を垂れると、振り向きもせずにその場を立ち去った。夏雄は慌てて店を飛び出し、よし今日こそ、とバイクに乗る寸前の青年をつかまえて声をかけた。
「お客さん!」
「なんの御用でしょう」
青年の声はぞっとするほど物優しい。だが夏雄は、畜生まけるものかと腹を決めて、言葉を継いだ。
「お客さん、店の中で、ずっとヘルメットとグローブをつけてたね。普通とるもんだよ」
「ああ……すみません。どうしてもいけないんですか」
「いけないって、物騒な世の中だからね。いつ客が、強盗に変わるかわからないんだから。だいたいあんた、今まで何回も来ていて、一度も顔を見せたことないだろう。非常識だよ。是非一度、その顔を拝ませてもらおうと思ってたんだ。危険防止のためにね。さあ、この場で、メットをとってみせてもらいたいね」
「この場で、ですか……困ったな」
「おい」
煮えきらぬ、それでいて決して譲ろうとはしない相手の様子に、夏雄の短気が牙をむいた。他に聞こえないよう押し殺した掠れ声で、夏雄は相手を脅しつけるように、
「お前は一体何様なんだ。何者なんだよ!」
「何者?」
「名前とか住所とか職業とかあるだろう、なにか言ってみろ!」
「そんなもの……」
青年は薄く笑うと、バイクにまたがって、メットのシールドを下ろした。
「そんなもの、ありませんよ。僕は……」
「お前は!」
「強いて言えば、屍の卵……」
ヘルメットの中に籠る、芝居めいた呟き。不吉な響きにおびえて、夏雄はいささかひるみつつ、
「なんだって?」
「御用がそれだけなら、失礼します」
言い捨てて青年はクラッチを蹴り飛ばし、エンジンを空ぶかしする。バイクはさながら黒い騎馬のように、脇腹を締められていななく。夏雄は急いで両手を広げ、青年の前に立ち塞がり、
「待てよ。雪野とお前は、どういう関係なんだ」
「関係?」
王子の声は、夢みるようにとろけて、
「彼女は、お母さん……」
それだけ言って、バイクを発進させた。夏雄の壁も空しく、青年はキュッと方向を変え、甲冑の騎士のようにさっそうと去っていった。
夏雄は茫然としていた。あれはもしかして、いわゆるキ印の類だったのかもしれない。なにやら危ない、関わらないのが無難だろう、と背中の寒くなるような思いを味わって、すごすごと店へ戻ると、雪野に不機嫌な言葉をぶつけた。
「今の客は、いったいなんですか」
「今の客って、誰の事?」
雪野が今更白とぼけるので、夏雄は子供のように口唇を尖らせて、
「とんでもなく危ないヤツですよ。自分の事を《屍の卵》とか言ってましたよ」
「そう、あのひとがそんな事を……」
ふと雪野が表情を緩めたので、夏雄はここぞとばかりに畳みかけた。
「あのひとって、あれは本当に何者なんです」
「あのひとはね……」
雪野は、秘密めかした笑みをこぼし、
「ハムレット」
と一言で結んだ。夏雄はさっぱり訳がわからなくて、焦れるように、
「昔の芝居の話なんかしてごまかさないでくださいよ。あいつは雪野さんのこと、お母さんだなんて、訳のわからないことまで言ってましたよ」
夏雄の言葉をきくと、雪野はふっと遠い瞳をして、
「そう。そう言ったの。……でも私は、ガートルード王妃じゃない。恋人のオフィーリアでもない。親友ホレイショの役さえふられなかった。ただの観客だった」
「何を言ってるのかさっぱりわからない」
「わからなくても、私はいっこうに構わないけど」
雪野はいたずらっぽく笑った。夏雄は子供がせがむように、
「意地悪しないで教えてください。あの不審な男の正体はいったい?」
夏雄が素直に折れてきたので、雪野もようやく真面目な顔になって、
「あのひとはね、説明するのは難しいんだけど、不審な男というより、少しばかり不幸な人といったほうがしっくりくると思う」
「不幸って」
「いろいろと不幸なの。どういったらいいか……例えばタカちゃん、双子の定義をしてみてくれる?」
「双子? 同じ親から、同じ時に生まれた子供の事をいうんじゃないですか」
「そうよね。同じ親から、同じ時に生まれた子供達は、双子よね。同一人物でもなければ、赤の他人でもない。普通はね」
夏雄はまた焦れてきた。
「謎掛けはもうよしてくださいよ。俺が知りたいのは、雪野さんが、あの男とどんな風に知り合ったのか、どんな関わり合いがあるのかってことです」
「そうか。そうね、初めから順番に話すと、一番わかりやすいかもしれない。あまり大きな声じゃ言えないんだけど、もう人に話してもいいと思うから、最初にタカちゃんに話してあげよう。仇討に悩む、例の気の毒な王子様の話は知ってるよね。あれを思いだしながら、聞いてね」
冬枯れの昼下がり、客が途切れて、しばらく来そうにないのをみすますと、雪野は声をひそめて話を始めた。それは高名な芝居の筋と微妙に重なった、奇妙な現実の物語だった。……

2.

雪野は、とろとろと夢うつつの中にいた。
「悪いけど、このヘルメット、撮影現場まで持って行ってくれない? 商品撮影だってのに、間抜けが一つ置いていっちゃったのよ。まだ間に合うと思うから、今すぐ出てちょうだい。バイクは会社の使っていいからさ」
何て、ことなのだろう。秋深く、自分が初めて企画に参加したイベントがようやく峠に差し掛かり、夜も寝ないで働いている最中、いきなり余計な仕事が降り掛かってきた。私は商品撮影と直接関係ありません、今は無理です、できません、と断わったが、他はその倍忙しいんだ、それ箱根の山まで一っ走りこいつを届けにいってこい!と押し付けられて、新人の憂いを噛みしめながら、使い走りの旅に出た。
TZRの後ろ荷台にかさばる箱をくくりつけ、泣く泣く山路をひた走る。これは嫌な仕事だった。人の不始末の詰まらぬ仕事というだけでない、なにしろどうにも、眠たくって仕様がないので、危ないことこの上ないのだ。この半月、慣れない仕事で駆けずりまわって綿屑のように疲れきり、冷風を突っきって走っていても、眠気はかけらも散りはしない。急がないと日が傾くと、ひたすら走っているのだが、眠気の中で溺死寸前、もうカクンカクンと頭が下がり、いかんいかんと首を振って、ウトウトするの繰り返し。高速でもこのていたらく、このままじゃ遅かれ早かれあの世ゆき、それじゃあ困ると夢うつつのなかで、じたばたともがいていた。
「よし、ここまで来れば、あとは一本道だ。このT字路を左折すれば……」
懸命にあくびをこらえて、赤信号をにらみつける。前の車が道路の左一杯に寄せているので、そのすぐ後ろにつけて止めた。
「ああ、綺麗な車……シェルノーヴルか」
シェルノーヴル。一昨年でた国産高級車だ。高い車高を優雅に覆う流線型のフォルム、蚕の繭のように繊細にかすんで輝く、計算を尽くされた塗装。特に白い車は、そのペイルホワイトがシャボン玉のような七色にひかって、大理石の輝きとみまごう程。むろん頑丈、小回りもきく。スムーズな加速、静かで快適な走行。いたれりつくせりのオプションと、素敵もない居住性。風にあたらぬ人の安住さえ誘う、揺り籠のように心地のよい実用車だ。……しかしこいつは乗る人間を限る。派手なスピードを追求する車でもなく、他人を乗せて面白い大型車でもない。荷物を運ぶには華奢にすぎ、気楽に潰すには値段が高い。何にでも向いているのでかえって使い道がなく、資産のある人のセカンド・カーといったところに収まれば、なんとか儲けものだろうか。それでも本当に美しい車だ。この世ならぬ美しさがある。こんな車に乗りまわすのは、さて、いったいどこの坊っちゃんか……
「あっ」
TZRが急に、暴れ馬のように跳ね上がった。ガチャン!と厭な音がした。前輪がシェルノーブルの後部におもいっきりぶつかったのだ。ぼんやりしていて気づかぬうちに、アクセルが開いていたらしい。それで急にクラッチがつながって前輪がウィリーして……うかつだった、一世一代の不覚である。
「どうしよう」
見ると相手は、左のテイルランプが少し割れてしまっている。少々のことでも車が車だ。いったい修理費がどのくらいかかるか、相当覚悟せねばなるまい、と観念してバイクを降り、ドライバーと話をしようと近づいた。
「え」
ふと、運転席の男と目があった。ぎくりとした。白の背広をきちんと着込んだ、端正な面ざしの青年が、予期せぬショックに驚いたのか、奇妙な半身で振り返り、瞳を大きく見開いて、穴のあくほど雪野の顔をじいっとみつめている。
だが、その様子がただごとでなかった。……まるで、傷つき、追いつめられて脅えている小動物のような、痛々しい、哀しみに満ちた瞳。言葉では云い尽くせない切ない想いを、魂ごと訴えかけるような、ひどく印象的な瞳。その灼きつくような常ならぬ視線は、雪野をその場に釘付けにし、声を出せなくさせた。
信号が変わった。
青年は急に表情を消し、くるりと前を向くと、何事もなかったように静かに車を発進させた。左へ曲がると、ぐっとスピードをあげて走り去った。
雪野は慌てて後を追ったが、車はまるで跡形もなく、まさに消え去ったとしかいいようのないやりかたで姿を隠してしまった。彼女は、知っている限りの山路を懸命に捜した。しかし、車はおろか、あの敏感そうな青年の影さえも、どこにも見つけることが出来なかった。雪野は諦めて、仕事先へ向かうしかなかった。
自分が一時、夢を見たのではないかとも思った。しかし、あの衝撃の感触は夢ではない。そして、あの青年の瞳。……人の心を貫いて、一生涯忘れさせることのないような、特別な瞳だった。秋の空ほどに広く深く、何事かを秘めていた。というより、死に臨んだ者のような、万感を訴える瞳でだったようにも思われる。
あの青年は、いったい何者なんだろう。あの逃げ出し方には、何かがある。何か厄介事に巻き込まれたひとなのではないだろうか。いやな予感がする。あずかり知らない事件に、自分が巻き込まれそうな気がする。弁償しろとねじこんでこられるのは仕方がないかもしれないが、そういうことより余計な事が起こる気がする。
事故の後味の悪さだけではない、いろいろな物想いが押し寄せて、彼女の胸はつぶれそうになった。小骨が喉につかえるような、いらいらするような物思いが、彼女の夜を塗りつぶしていった。

3.

それから一週間後。
その夜雪野は、いきつけのラーメン屋で夜食をとっていた。寒い日で、部屋へそのまま帰ってしまうと気が滅入るような気がして、暖かくて簡単な食事を外でとろうと決め、仕事帰りに寄ったのである。疲れが頭をもうろうとさせ、なにも考えられず、ただ黙々とそばをすする。他に客はいない。流れるのは沈黙と、TVのニュースばかりである。アナウンサーは無機質な高い声で、淡々とニュースを読んでいく。
「昨日午前十一時頃、丹沢山地の奥で、崖下に白のシェルノーブルが転落しているのを、ハイキングにきた家族連れが見つけ、警察に通報しました」
雪野ははっと顔をあげた。TVはしらじらと丹沢山中を映し出す。
「車はカーブで転落後、炎上したもようで、半分下の川に水没した車内から、焼死体が発見されました。車の持ち主は、一週間前から行方不明になっていた、オオギカイさん、二十三才」
画面にあのときの青年の顔が映り、桜木櫂と名前がついていた。これで《おおぎかい》と読むらしい。雪野は食い入るように画面を見つめた。
「遺族の確認から、死体は、桜木さん本人と確認されました。桜木さんは普段から、家族になにも云わずにでかけることが多く、この日も黙って家を出ました。その後丹沢にドライブにでかけ、カーブで運転を誤り、転落したのではないかと見られています。現場にブレーキの跡のないことから、警察では居眠り運転の可能性が高いと見て、捜査をしています」
引き上げ作業がちらりと映ったが、無惨に焦げ付き、泥だらけになったそれは、紛れもない、あの白いシェルノーブルだった。ナンバープレートまでは確認できなかったが、テイルランプは割れていた。不思議な確信が雪野にあふれ、このまま店を飛び出して、問題の山中へとんでいこうとさえ考えた。だが、どんとどんぶりを置いて立ち上がろうとした瞬間、お店のおばさんが、もうひとりのおばさんに、低い声で話しかけた。
「あれ、桜木の息子じゃないかい? 死んじまったのかい」
「そうみたいだねえ。近頃なんだか、事務所の方も落ち着かなかったようだったし、またなにかと揉めるんじゃないかねえ。行方知れずでも困るだろうが、死んじまったとなると、尚更だ。誰が後を継ぐかで一騒動だ」
二人は彼を知っている。事情を知ってしゃべっている。雪野は腰を落ち着けて、何気なく口を挟んだ。
「《おおぎの息子》って、誰なんですか?」
「ああ、雪野ちゃんは知らないか。土地者じゃなきゃ無理もないけど」
おばさん達も、何気ない世間話のように答えてくれた。
「桜木の息子ってのはね、ここいらを根城にしている暴力団の、王木組の跡取り息子のことだよ。この町内に、王木建設ってのがあるだろ? あそこが事務所さ。結構大きな組なんだよ。……あの子は、無口だったが、綺麗な子でね。知られた顔だったんだよ。かたぎとは一線置いていたけどもね」
暴力団。
あの白面の青年に、最も似つかわしくない言葉だ。相いれない世界だ。だいたいヤクザというと、黒塗のベンツのイメージがある。繁華街の脇道に止めて、回りを囲むのは縦縞の背広をぶ厚く着こんだ、サングラスの恰幅のいい幹部達。その周りをうろつくのは、肩をそびやかし眉を寄せ、ぎりぎりに痩せながらタブタブの服を着た兄ちゃん達。顔色悪く暗い目をして、辛い渡世のなのに、不思議な骨っぽさと人情で乗り切り、筋を通して生きている人々。……あの独特の階級社会に組み込まれ、二代目を名乗るのには、何かが足りない青年とみえた。
「そうなんですか、知らなかった。でも、跡取りにしちゃ、随分若い人ですね」
「まだ、組を継いじゃいなかったさ。あれは、今の組長の孫だからね。本当の息子は、だいぶ前に死んじまったんだ。昔、ここいらにもうひとつ、阪江組ってのがあってね、そこの二代目と櫂ちゃんのおやじさんは喧嘩して、両方とも死んだんだ。阪江はそれで潰れちまって、王木の方は大きくなった」
「いろいろとあったんですね」
「詳しくは知らないよ。はすむかいのレストランなんかは、ときどき事務所の連中が出入りしているから、もっといろいろ聞いてるだろうけど、うちにはそういう連中は、たむろしないようにしてるからね。……しかし、桜木の息子が、事故で死んじまうとはね。若い身空で気の毒だねえ。生きてりゃね、いろいろ不自由が多くても、なんか花実があるだろに」
おばさんは、余韻を残して言葉を切った。雪野はしおらしくうなずき、続くニュースを一緒に眺めた。
勘定をすませると、雪野はしゃきっと立ち上がった。
することは決まった。まず、明日早起きして、真っ先に朝刊をみる。そして、この事件の記事を探し、現場にいくのだ。あの青年にはなにかある。死んでしまったというなら、それをしっかり見届けてやろうじゃないか。このもやもやがこのままじゃ、眠れる夜も台無しだ。調べてなんにもないのなら、それはそれで構いはしない。
持ち前の好奇心がむくむくと頭をもたげて、彼女はすっぱりそう決めた。
決めたことがよかったのか悪かったのか、今となってもわからない。どのみちこのままで終わる事件ではなかったのだから、どちらでもなかったというのが本当のところだ。

4.

日曜日、疲れに負けて寝坊をし、意に反して目覚めたのが遅かったので、ようやく現場に着いた頃には、すっかり夕方だった。TVと新聞から割りだしたその場所は、雪野の知らない脇道の一つだった。
日暮れは見事に寒かった。ジャケットに寒さがしみとおり、身体は芯まで冷えきってなにも感じなくなっている。メットをとると、風は彼女の頬を撫でつつ、薄い剃刀の鋭い刃で、雪の結晶の模様を彫りつけていった。
「うはあ、なんだか妙な時に来ちゃったなあ」
あたりは大分たそがれて、光線の加減がおかしかった。崖淵に垂れかかる木々の枝からこぼれる光は人工の照明のように不自然で、影は淡くかすみ、実体も生気を失って現実味をなくす、いわば逢魔が時と云われる時刻に来あわせてしまったのだ。
こんな時に、こんな所でひとりぽっちでいるのは、なんとなく落ち着かない。せせらぎの音にひかれて、暗い水底を覗き込んだが、魚の鱗の色のように蒼く光って、なんとも云えない厭な感じだ。こんな所で死んじゃうのは、確かにかなわないことだなあ、と身体の底から震えがきて、思わず小さな声で、谷底へ呼びかけていた。
「おおい、カイさあん……」
その声はすぐに山肌へ吸い込まれ、気味の悪さにもう一度、
「おおい、カイさあん!」
「幽霊のでる季節じゃないですよ」
はっと振り向くと、そこに一人の青年が立っていた。光沢のある黒のつなぎを着、フルフェイスのヘルメットを被った、上背の高いライダーだった。
「あなたは……?」
「ちょっと、ここではなんですから、話のできるところに入りましょう」
不審がる雪野の肩を押して、青年は坂道を登った。ひょろりと細い身体のくせに、結構力が強く、気迫でうむをいわせない。雪野は少しもがきながら、低い声で抗議した。
「あなた、知ってるのね。何者なの? 私をどうするつもりなの」
「どうもしやしませんよ。どうもしたくないから、ここを離れて下さいと言ってるんです」
「どうもしやしないって、まるで私を待ってたみたいな現れ方をしたじゃないの。どういうことなの。説明してよ」
「だから、今、説明をするつもりなんですよ、雪野さん」
雪野ははっとした。名前の知れるようなものは、身の回りにつけていない。
「なんで、私の名前を知ってるの」
「調べたんです」
青年はヘルメットのシールドを上げた。
「あなたが、僕の名前を知っているように……」
潤んだ黒い瞳に、暖かい色がにじんでいる。深い感情を秘めた美しい瞳。……彼は紛れもない、あの時、車を運転していた青年だった。雪野はなぜかほっとして、
「あなた、やっぱり死んでなかったのね。……生きていたのね」
「いや」
青年は首を振り、シールドを下げた。
「まだ僕は、自分が生きているのか、死んでいるのか、わからないんです……」
青年は坂道を登り、山小屋風の、崖が見おろせる小さな茶店に入った。客は、ほとんどいない。奥の畳の部屋に上がって、障子をたてきってしまうと、彼はようやくヘルメットを外した。そして、よるべない子供のように、膝を抱え込んで座ると、雪野を向いに座らせて、彼はゆっくりしゃべりだした。
「それであなたは、僕のことをどのくらい知っているんでしょうか……」
その物言いのものうさ。貴公子のような白面に、憂愁のいろが漂う。ゆるく波うつ濡れたいろの黒髪が、ひろい額に一筋垂れて、かすかな疲れを感じさせる。かげる視線のあてどなさ。どうにも繊細すぎて、おいそれと触れがたい風姿である。雪野はこの青年をどう扱ったらよいかなんともはかりかねたが、とにかく威儀を正し、正直な心をもって、思うところをまっすぐに答えた。
「あなたの名前は、桜木櫂。王木組の跡取り息子。襲名争いから身を隠すため、事故に見せかけて、自分をこの世から抹殺した……そのためにわざわざ山奥に入り込んで、適当な死体をのせた車を河につきおとし、炎上させることまでした……でも私に、その直前の姿を見られてしまったので、気になってあそこで待ち伏せていたんでしょう」
「なるほど、そこまで御存知でしたか……」
青年はほのかに微笑んだ。
「そうですね、偶然にも、意外に近いところにあなたはいたんですから、僕のことを知っていても、不思議はないんですね……でも、あなたが思っていることと、事実は少し違うんです。一つは、桜木櫂は、本当に死んでしまったんです。他の組との小さないさかいに巻き込まれてね。あなたに会ったとき、僕は彼の死体を後部座席に乗せて、運んでいた最中だったんです」
なんとも恐ろしいことを、なんでもないことのように言う。さすが別世界の人間だ、と雪野はますますこわくなったが、それでも負けじと気を張って、
「じゃあ、発表された写真は誰? あれはあなたの顔だった。じゃあ、あなたと櫂というひとは双子なの? 赤の他人だけれど、他人の空似? それとも、つくられた影武者?」
青年は膝の上で首を傾げて、甘えたがっている幼子のような顔になり、雪野のおびえをいや増した。
「どれも少し違うんです……僕と櫂は、同じ顔を持って、全く同じ時間を過ごしてきた。でも双子でも、赤の他人同士でもないんです。おかげで僕は、生きていていいのか、死んでしまっていいのか、惑っている」
「カイさん!」
高い声がして、障子が突然からりと開いた。青年はヘルメットをひっつかんでとびすさり、ぐっと低く身構えた。別人のような形相。声の主は我関せずと、さっさと座敷に上がり込み、後ろ手にぴしゃりと戸を閉めた。
「こんなところで何をやってるんです、出歩いてちゃ駄目じゃないですか。どこに誰の目があるかわからないんだから」
「なんだ、平井……おまえか」
カイはほっと力を抜く。平井、と呼ばれたのは、金色の長い髪を逆立てた、頬のこけた目付の鋭い青年だった。瞼を蒼くぬりたくり、頬には赤い紅を掃き、本当の顔はどうなっているのか、よくわからない濃い化粧をしている。その化粧でひきつれたやくざな表情とはうらはらに、意外にしっかりした口調で、平井はカイを叱りつけた。
「おまえか、じゃありませんよ。ふらふら抜け出して……これからのことに差し支えるじゃないですか」
カイは困ったように視線を外し、
「すまない。ただ、雪野さんのことが気になって……」
「ああ、こちらのお嬢さんですか」
平井はちらりと雪野を見、声を低めて慇懃に、
「忘れたんですか、約束だったでしょう、事故の事は調べてあげますが、相手の人と接触してはいけませんって。素人さんを巻き込んじゃいけません。この人は、そっとしておけば、こっちの世界と関係を持たずにすむ人です。大事に思って遠くから見守るだけならいざ知らず、これ以上余計なことを教えれば、この人も危ない目に遭うかもしれないんですよ」
カイは気をとりなおしたのか、いささか強情な調子で答える。
「わかってる。でもあの崖淵で、《おおい、カイさあん》なんて叫んでるから、誰かに見られたりすると、これは彼女も危ないと思って、ここまで連れてきたんだ」
「なるほど、この人は、あのニュースを見たんですね」
「そう。それで僕を心配して、ここに来てくれたんだ」
カイは、我が侭な君主のように胸を張る。平井は肩をすくめて、
「それはよかったですね……なにしろ、あなたが死ぬのを思いとどまらせてくれた人なんですから。命の恩人なんだから」
「命の恩人なんてものじゃない。卵の殻をわって僕を目覚めさせ、新しい世界にひきずりだしてくれたんだから。実の親より、ありがたい人なんだからな」
「ちょっと待って」
二人が勝手に話をすすめていき、とんでもないことまで言い出すので、雪野はとうとう口を挟んだ。
「私はなんにもしてないわ。このひとの車にぶつかって、傷をつけてしまっただけなのよ。それがなんで、そんなに大げさな話になるの? 勝手にありがたがらないで、きちんと説明して。すっきりしないわ。私がなにかに関わってて、この身が危険だっていうなら、それが何なのか、知りたい」
「すみません」
カイは、雪野の前に膝をつくと、手をついて深く頭を下げた。
「今はうまく説明できないんです。計画がまだ、動きだして間もないので。そのうちきっと、全部お話します。約束します」
急にかしこまられても困る。雪野は慌てて、
「別に、頭なんて下げなくても……たださっき、説明してくれるっていってたから……」
「ええ。必ず、時がきたら、何もかもお話します。恩義は決して忘れないのが、僕達の世界です。待っていて下さい」
「そうと決まったら、さあ、行きましょう」
平井がひきたてるようにすると、カイは大人しく立ち上がった。
「うん……でも、その前に一言お礼を言っておかないと……そう思って、この人に声をかけたんだから」
「お気のすむように」
平井が諦めて手を離す。カイは雪野の前に膝を折り、ひどく優しい表情で、
「雪野さん。あの時、……あの事故の時、僕は心を決めかねていた。このまま死んでしまおうか、それとも、どこかで卑怯に生き延びようか、と。今のまま、ひそかに走り続けて、誰にも見とがめられなければ、と。その時、あなたは、あの車に触れて、僕のくだらない妄想をぶち壊してくれた。あなたは僕の顔をしっかりと見た。僕が生きているのを、あなたは見た。心配そうな、慈愛に満ちた顔で、僕を見てくれた。僕は死ぬのを止めた。あなたが、僕の生きている証人になったから。あなたを殺してしまえば、僕は死ねたけれど、あなたはしっかり生きていたから、僕にはとても殺せなかった」
雪野はほとんど硬直しかけた。この人の商売柄、殺すという言葉には、一種独特の凄みがある。下手をすれば殺されていたのか、いや、これから下手をしても、殺される可能性があるのかもしれない、と気付いて、思わず少しにじり下がった。するとカイはそうっと掌を差しだして、
「こわがらないで下さい。あなたに危害を加える気はありません。ただ、お礼が言いたかっただけなんですから。……ありがとうございました」
その掌の差しだし方が、なにやら途方に暮れた、はにかみを含んだ美しいやりかただったので、雪野はそのさみしげな風情につられて、思わず手を差しだした。すると青年は思いもよらぬ力で強く握りしめた。
「ありがとう」
言葉もない雪野にくるりと背を向け、平井という青年と行きかけたが、また奇妙な半身で振り返って、
「ご迷惑でしょうが、また迷ってしまった時には、あなたにお目にかかりにいくかもしれません。いえ、決して危ない目には遭わせません。ただ、あなたの助けが欲しいんです」
「助けって……」
「何もして下さらなくていいんです。ただ、僕の心の支えでいてください。この仕事が終わるまで」
それだけ言うと、さっと走り出した。
はっとして追ったが、彼の姿はあっというまに消えていた。平井という青年と共に、とっぷりと暮れた濃い闇の中に溶けてしまった。
あらためて大きな震えがきて、雪野は両手で我が身をぐっと抱きしめた。

5.

その一週間後。
あかるい夕暮れ、外から帰ってきた雪野は、マンションの階段を上がりかけて、郵便受けに詰め込まれたダイレクトメールに気が付いた。うっかりしていた。こういう休みの日に取り除いて置かないと、中身が溢れる。鞄を引っかき回して、郵便箱の鍵を探した。
「あ」
カン、と軽い音を立てて白い物が手から落ちた。薄く黄昏の差し込む一階のフロアを、それはころころと転がっていく。慌てて拾おうとして、鞄の中身を少しこぼした。しゃがみこんでかき集めると、脇から別の手が伸びた。
「どうしたね、雪野さん」
「あ、花園さん」
「らしくないねえ。どれどれ」
手伝いの手を差し伸べてくれたのは、このマンションの管理人のおばあさんだった。樫の杖をついているが、その必要があるのか疑わしいほど、全く元気な人である。一見上品、穏やかに見えるが、鋭いところがあって、住人の事は、ここまでも、と思われるほど、しっかりと把握している。ちょうど買い物がえりらしく、きれいな花模様のついた大きな手下げを抱えていたが、傍らに置いて、素早く雪野の小物を拾い集める。
「すみません」
「どうってことはないけど、これはなんだい」
花園さんは、雪野の落とした白い物を、ひねくりまわして首を傾げた。
「この桜木ってハンコは、なんに使うんだい?」
「仕事で使うんです。あの、仕事仲間の名前で……」
おばあさんはにっこりと笑って、
「そうかい。他人様の名前の三文判をねえ。……で、この古い新聞記事の写しはなんだい?」
「それは、単なる興味で……」
「へえ」
花園さんは、記事のコピィを二つ折りにして差しだしながら、
「単なる興味で、ヤクザの出入りについて調べたり、生まれについて調べたりするのかね。せっかくの休みをつぶして、わざわざ図書館に行って、古い記事を写し取ったり、三文判を用意して、役所にいって、戸籍を調べようとしてみたりするのかね」
今日の行動を、全部見破られた。事実はそのとおりだった。まさか後をつけられたんじゃあるまいな。それとも、この人はなにか知っているのだろうか。どのみちごまかしきれないのを悟って、雪野は真面目な顔になり、さっさと頭を下げてしまった。
「花園さんにはかなわない。全くそのとおりです。……それで、申し訳ないんですが、もし、王木組についてご存じのことがあったら、教えて下さい」
「私は昔からここに住んでるから、多少のことは知ってるがね、私の方こそ、雪野さんがどうしてそんなことを知りたがってるのか、知りたいもんだね。あんたみたいな真面目な地方の人が、ここいらのヤクザのことをいちいち調べるってのは、なんかあったとしか思えないからね。……まあ、立ち話もなんだから、上がっていきなさい」
荷物を抱え直すと、雪野を手招きする。荷物を整える暇もなく、雪野は後をついていく。花園さんは、このマンションの一階に住んでいて、ときどき住人を自室に上げる。おしゃべりの長い人だが、雪野には似たような祖母があったので、その手の話の相手は苦痛でない。今日は相手をするばかりでない、くいついていこうと雪野は思った。
「さて、食事の前だけど、とりあえず、お茶にしようかね」
花園さんは、非常に甘ったるいケーキの類を目の前に並べる。雪野は辛党ではないが、甘党でもない。中庸をこよなく愛する。だいたい、若い娘が無条件に甘いものを食べられるというのは幻想である。生クリームの山を見ているだけで気持ちが悪くなり、顔を背けて切り出した。
「おかまいなく……それよりも、本題に」
「慌てるねえ。まず、何があったか、雪野さんのほうから話してごらん。そしたら話してあげるよ」
雪野は仕方なく、今までの事を話した。といっても、たいした事はしゃべれない。自分でも何がなんだかさっぱりわかっていないのだから。とにかく、自動車と接触事故を起こしたこと、その相手が、桜木櫂という青年だったこと、その人は死んでいることになっていること、だが生きていて、崖淵から雪野を引き離したこと、おつきがいて、その人を強引に連れてかえってしまったこと、を話した。
櫂、という青年がひどく印象的で、その最後の台詞にニュアンスがあって、それが妙に気になるのだ、ということは言わずにいたが、花園さんはうなずきながら、雪野の表情からいろいろと汲みとっているようだった。
「なるほどねえ……そんなことがあれば、桜木の孫のことを、調べたくなるかもしれないねえ」
「それで、知ってること、話していただけますか」
雪野は身を乗り出したが、花園さんは肩を落として、
「そうだねえ。あんまりお役にはたてなさそうだがね。雪野さんが持っていた新聞記事に載っていたいざこざのことは、少しばかり知っているから、教えてあげよう。もう二十年以上前のだけどもね」
一日捜した記事の報じていたことは、暴力団の出入りで、相手の事務所に車でつこんだ幹部のために、巻添えをくった人間がいたという僅かなものだった。以前ラーメン屋のおばさんが話してくれたことの方が、よっぽど有益に思われた。雪野がそういうと、花園さんはそこのところを、人に聞いたところだが、と前置きして、最初から話してくれた。
――昔、この土地には、王木組と阪江組という二つの組があった。王木には、きれいな娘がいた。雪野のように色の白い、だが雪野と違って弱々しい娘だったという。王木、つまり組長の桜木には息子がいなかったので、右腕になって働いている男が、その娘をもらう予定になっていた。だが、桜木の娘を狙っている男が別にいた。それは阪江組の養子になっていた男だった。王木はもともと阪江から別れてできた組だったから、組がもとどおり一つになって、強くなるのもそう悪い話ではない。過激な連中もいたが、特に仲が悪いという訳でもなかったので、下手をすると正式に話が通ることもありえた。
雲行きが怪しくなってきたので、王木の右腕はあせり、二人の男は争った。結局娘は王木の右腕と結婚したが、阪江の方があきらめきれなかった。そういう個人のこぜりあいが、いつのまにか、組同士の出入り沙汰に発展した。一般人も巻き込む程の大きなもので、男二人は、そのとき両方とも死んでしまった。阪江組はそれで潰れたも同然になり、王木組の方は大きくなった。桜木の娘は、その後、一人息子を残して死んだ。少年は、母によく似た、美しい子どもだった。祖父がかわいがっていたようで、学校にも通わず、あまり表にでない子どもだったが、ひとめ見ると、なかなか忘れがたい存在だった。
「で、ニュースによると、あの子は死んだんだっていう話じゃないか。そして、雪野さんの話によると、もう一人のあの子が現れたっていうんだね」
「そうなんです」
雪野は戸籍謄本を取り出した。
「戸籍では、桜木櫂として、一人息子として育てられているんです。双子が生まれたことを隠しているんでしょうか。それとも自分が死んだっていうのは、比喩でいっているんでしょうか」
花園さんは首を傾げた。
「どっちだろうねえ。よく似た従兄弟かなにかが、遠くにいたのかもしれないしねえ。こっちにはわからないことだ」
それから話が発展しなくなったので、雪野はそろそろいとまを告げることにした。花園さんもうなずいた。だが部屋をでしなに、突然思いだしたように付け加えた。
「雪野さん、実はね、気になってることがあるんだよ。最近、このマンションの周りを、金いろの髪をした男がね、うろついていることがあるんだよ。関係があるかもしれないから、よく気をつけておきなさい」
「はい」
雪野はうなずいた。わかっている。平井だ。あの男もヤクザなんだろうか。それにしては、随分な雰囲気の男だ……
まあいい。とにかく今日はこれでおしまい。あのひとのことは、また明日考えよう。
そう決めて、雪野は階段を上りながら、ダイレクトメールに目を通しはじめた。そして、あっと声を上げた。
「平井……翔」
それは、近所の小ホールで行われている、素人芝居のチラシだった。演目は『ハムレット』。そしてそこに、紛れもない、あの、平井の写真が載っていたのだ。金色の髪をした、カイのお付き。よくみると、キャスティングの一箇所に、ぐい、と赤ペンで丸がつけてある。
ハムレット――平井翔、と。
「ハムレット……あのひとが?」
今日の夜が千秋楽のお芝居である。気が付くと、同じチラシは何枚も入っている。平井はこれを観にこい、というのか。
「しかたない。つきあいましょう。今日は食事は外でしよう」
雪野は時計を見、再び階段をおりだした。こうなったら、最後までこの狂言を見届けてやろう、と決心を固めて。……

6.

ファンファーレ。正面の幕が左右に開き、内舞台が現れる。すぐに黙劇がはじまる。

黙劇。

舞台の真ん中に女が横たわっている。男がいたわるようにしている。男はしばらくすると、名残り惜しそうに去る。舞台に別の男が現れる。第二の男は、女を乱暴に扱う。女は弱々しく抵抗する。さっきの男が入ってきて、乱暴を止めようとして、もみあいになる。いつの間にか短剣での切りあいになる。最初の男は刺されて、自分の流した血の色を見て、信じられないような顔をして死ぬ。第二の男もやはり刺されて、よろめきながら舞台を去る。

舞台一度暗転し、女と男でてきて、同じ芝居を繰り返す。こんどは台詞がある。

女/ありがとう、あなたが来てくれると、心が休まります。
第一の男/そういってくれるのなら、いつまでもあなたのそばにいよう。
女/そういう訳にはいきません。あなたは父の正式な許しをもらわなければなりません。
第一の男/しかし、邪魔が入ってなかなか出来ない。
女/許しが待てないような気持ちを、簡単に信じる訳にはいきません。いままでのことは嬉しいけれど、それではなかったことにいたしましょう。
第一の男/わかった。待っていてくれ。

第二の男/あなたは私の物だ。他の誰にも渡しはしない。あなたは私の物だ。
女/私は誰のものでもありません。
第一の男/おまえ、乱暴をやめろ。このひとは俺の物だ。

第一の男/この手を濡らしているものはなんだ? 俺は死んでしまうのか。
第二の男/この私がやられるとは。
女/やめて。私は誰の物でもありません。

そこまで劇が進むと、観ていた王は顔面蒼白、よろめくように立ち上がる。
一言高く、
「芝居をやめろ、芝居を! あかりを、あかりを――部屋へ!」
金髪の、気が違ったかのようにいかれた格好をしている青年王子が、傍らの男に囁きかける。
「見たろうな、あの様子を見たろうな」
「確かに見届けました。確かに皆が見届けました」
二人の男が入ってきて、王子の側に控える。
「王妃さまが、お話があるそうでございます」
「すぐいく。すぐにいくから皆下がってくれ」
周りをさがらせてから、物想いに沈む王子。
「とうとう現実と対決する時が来た。だが、対決したとして、いったい何になるというのだ。誰のためになるというのだ。……それでも、私は、やらなければならない。そうだ、誰のためでもない、自分のために闘うのだ」
王子去る。

舞台暗転。

7.

「平井さん」
「やあ、来てくれたんですね」
ひととおり芝居が終わった。雪野はスタッフに名を告げると、すんなりと平井の楽屋に通された。平井はあいかわらず、固めて高くつったてた派手な金髪姿で、雪野を迎えた。舞台化粧をまだ落としてない。服こそ着替えていたが、メッシュの上に、銀の鋲を沢山打った皮のジャンパーを羽織っていると、舞台の上より凄みがある。声をかけた雪野が、入口でなんとなくためらっていると、蒼い頬紅をこってりと塗った頬が、にっこりとゆるんだ。
「待ってたんですよ。今日来てくれなかったら、追加公演でも打とうか、と思ってたところなんです」
「追加公演」
「雪野さんにみせるために、計画には余裕をもってあるので、ここを明日のぶんも借りてあるんですよ」
部屋に招き入れ、椅子を勧める平井。雪野は後ろ手にドアを閉めた。
「私にみせるためだけに? ねえ、お芝居の仲間が、そんなことで納得するの?」
「スタッフの連中はお金で雇っただけの関係で、仲間じゃありません。納得してます。事情は知らないが、頼めば明日もハムレットの周りを動いてくれるんですよ」
雪野はため息をついた。世界が違う。デンマークの王子を地でやるつもりなのか、とあきれた。この人も、どうにも現実離れをしている人だ。
「そうなの。どんなつもりか知らないけど、まあいいわ。……ところで、随分妙なお芝居ね。ハムレットってあんな劇だった? 結構省略されてるみたいなのに、変な台詞が増えてるみたい。特に、叔父さんの王様にみせる劇中劇、あれじゃ筋書きと違うんじゃない?」
平井はいかにも物わかりよさげに、うんうんとうなずいて、
「長い劇ですから、どんな劇団だって、省略をするんですよ。そして、演出で劇に新しい光を与える。もちろん、雪野さんの言うとおり、あの劇中劇は、筋書きとだいぶ違います。だけど、見せたかったのはあの劇なんだ。そして、あれがあの人の、計画の一つなんです」
「あの人の計画?」
でた、カイの事だ。あの人はいまどこで、なにをしているのだろう。
「詳しいことは、まだ言えないんです」
「秘密なのね。……それで本当に、なにが起こってるか、私に教えてくれる時がくるの」
「その日はきます」
平井は急にぶっきらぼうになり、そのまま口を閉ざした。雪野はまたため息をついた。なにがなんでも、どうでも良くなってきた。それでもこのままでは落ち着かないので、重ねて質問をする。
「ねえ、あなたもヤクザなの? あのひとの仲間で、いろいろな仕事をやってるの」
「俺は、組のものじゃありません。ただあのひとが気に入ったから、肩入れしてるだけで、俺はヤクザじゃないんで、そういう仕事はしてないんですよ。それに、何かしてやりたくても、なかなかやってやれないんだ」
平井の口調に熱がこもった。なにか思い詰めたような顔をしている。だがすっと雪野を見つめて、
「ちょっと外へ出ましょうか。このまま食事でも」
「え、その格好で」
「その格好で」
平井はそのまま外へ出る。役者連中に軽く挨拶をして、ホールの裏手に回った。
小さな喫茶店に入って、奥に席をとる。手を振られて、雪野はためらいながらも平井のいる所にやってくる。
「ねえ、平井さん、やっぱり目立つんじゃない、そのお化粧。それに、その格好」
「この店は、マチネの前や後に、役者連中が出入りするから、どんな格好をしていてもいやがられずにすむんです。血だらけの衣装で出入りをしたって平気だし、意外に便利な場所なんですよ。……まあ、俺は目立っても構わないんですよ、ただ雪野さんが俺と一緒にいるせいで、変な目で見られるといやだろうと思ってね」
「……気を遣って下さって、ありがとう」
雪野は冷汗を押さえて、心の方も落ち着けた。そしてオーダーをやり過ごすと、気になっている事を切り出した。
「さっきの続きだけど、あなたはヤクザじゃないって言ってたわよね。じゃ、どうしてあなたは、あのひとのために、こんな道化芝居をしてるの? あのひとって、あなたにとってなんなの? あなたはあのひとと、どうやって知り合ったの?」
「知り合った、って訳じゃない……俺が勝手に関わったんです」
平井は低いテーブルに肘をつき、雪野の方にぐっと顔を近づけ、声をうんとひそめて呟く。
「俺は昔、やみくもにつっぱしるだけの人間で、何も考えず一日じゅうひたすら走ってました。何が悪いということじゃなく、誰も俺をどうにもできなくて、何もかもがどうでもよくて、ただやけになって走ってたんです。……ある夜、二輪で赤信号に突っ込んだ瞬間、あの人の乗っていた車が目の前に現れたんです。思わずかわそうとしてふっとんで、大怪我をして、それをあの人は、助けてくれた」
「当り前の事じゃない。事故だったんでしょ。助けてくれるわよ」
「あの人にとっては、当り前の事じゃなかったんです。下手をすれば俺は、殺されてたかもしれないんだ」
平井は肘をつき、目を伏せて語りだした。

――あの夜。
ただひたすらに走っていた。信号が、自分の速さを計るためだけにあるような真夜中。仮に決めた目的地を目指して、一心に走る。流れていく人工の光を心地よく感じながら、アルコールに溺れているようなめまいを感じながら、まっすぐに走り続ける。
誰も邪魔するものはいない。ただ、走る。目の前に広がる闇の奥で、誰かが自分を引きずり込もうとしているような気がする。そんな奇妙な恐怖にスピードを落しかけるが、次の瞬間、反対に思いっきりフルスロットルにする。踏みとどまればいいのに、自ら破滅の道を転がっていこうとする、しびれるような想いにとりつかれて、それに向かって走り続けるのだ。
「あっ」
目の前に白いものがとびだして、慌ててハンドルをきった。
死神の馬車。亡者を乗せた――
変な連想が頭を横切って、ハンドルをきりそこなった。もんどりうって投げ出され、地面に勢いよく叩きつけられた。ガッと呼吸ができなくなり、胸にぽっかりと穴が開いたような苦しみに、言葉を失ってもがく。
急ブレーキをかけた車が引き返してきた。キイッと脇に止まる。おぼろな意識の中で、運転者が会話しているのが妙にはっきりと聞こえた。
「ほっといていこう。このバイクが悪いんだ。赤信号でつっこんできたんだから」
「でも、随分血が流れているようだ」
「おまえは車の中で待ってろ、出るな」
「でも、病院に運ばないと……」
「そんなこと出来るか。こんな時間に出歩いてたのがばれたら困る」
「僕は困らない」
「おまえはな。俺はもめ事は避けたい」
「僕ももめ事は嫌いだ」
「じゃあほっとこう」
「せめて救急車を呼ぼう」
「必要ない。もし俺達の姿をみられたらどうする」
「だってそれは、一緒に出たからじゃないか。このひとのせいじゃない」
「声が高い。こいつ、気が付くかもしれないぞ。見られたら殺すしかない」
「それじゃあんまりだ。だって、このひとも、僕らと同じで訳有りなのかもしれないじゃないか。僕らと同じ、夜にしか生きられない人種なのかもしれない」
「……わかった。そこの電話ボックスで、電話をかけろ。それだけだぞ」
「ありがとう」
車から降りた足音。電話ボックスに飛ぶように走っていく。そして、軽やかに戻ってくる。だが、その人は車には戻らずに、こちらの傍らに来て、ふっと屈みこんだ。ぐっと他人が近づいた気配に、平井はもがくのを止め、薄く目を開けた。
しなだれかかるような風情。――そう思われるほど間近に、その人の顔はあった。
「大丈夫だ。絶対に死ぬなよ。もしおまえが死ぬようなことになったら……」
紅い口唇が、そっと囁いた。
「僕も死んでやるからな」
「あ……」
声を出そうとした瞬間に、その人影は走り去った。
遠く去る、白く輝く夢の車。そして、近づいてくる赤いサイレン。――
その夜は、それで終わった。

次の日、病院で気が付いた。その時、いろいろなことがわかった。自分なんてどうなってもいい、となげやりな気持ちが、嘘のように消えていた。……ああ、無事でよかった、と呟いて、はっとした。俺も生きていたかったんだな、と気付いた。怪我は軽かったが、事故は初めてだったから、ショックが大きかった。それでもよかった、と思った。親が初めてまともに叱ってくれて、妙に嬉しかった。物質的でない庇護の有難みを知った。
平和な日が続いた。
だがある日、病室で目覚めると、ひょっと傍らにあの人が立っていた。
「あんたは……知ってるぞ。俺、あんたの事を知ってる」
「知ってる? 何を?」
あの人はにっこり笑って、人差し指を平井の胸板につきつけた。
「下手に知ってるなんて口走ると、これが銃口に変わるよ」
「俺を殺しにきたのか」
「死にたいのなら、殺してもいい。だが、そういうつもりはない」
「じゃあ、なんのためにきた」
「王様の耳はロバの耳、って昔話を知ってるかい」
ずっと洩らせぬ秘密を抱いてきた者が、新たな共犯者を必要としていて、その生贄に、平井が選ばれたのだ。だが、川辺の葦は、いつ歌いだすかわからない。歌いだしたら、いったいどうするつもりなのか。
「俺が秘密をしゃべったら、殺すのか」
「おまえを殺してもしかたがない。僕が死ぬだけの話だ。自分が悪いんだから、おまえを道連れにするつもりはない。ただ、仲間が欲しいというだけの話なんだ」
あっさりと言い切って、窓の外を見る。
その横顔の鋭さ。そして……寂しさ。
次の瞬間平井は、とんでもないことを口走っていた。
「俺はしゃべらない。しゃべったとしても、あんたを絶対死なせない」
平井は、青年の孤独な魂にうたれていた。この人を見守りたい、ととっさに想ったのだ。
「……ありがとう」
あの人はそこで、もう一度にっこりとした。

「それで、殺されずにすんだのね」
「ああ」
平井の声はますます小さくなった。雪野は精一杯首を伸ばして、平井に近づく。
「それから、あのひとについてまわるようになった訳」
「ああ」
「で、結局、あのひとは何がしたいの? 何があったの? どうして死人のふりをしているの? 死んだ人は誰なの?」
「芝居をみて、わからなかったか? 全ては、秘密の恋のためなんだ。最後の質問の答えは、もう聞いてるかと思ったよ。……死んだのは、櫂という名の男だ」
「二人の関係はなんなの? あの人は双子じゃないって言ってた」
「ああ。双子じゃない」
「でも、一緒の時間を過ごしてきたって。それにそっくりだって。それなのに違うの」
「違う。父親が違う」
「あ」
異父兄弟。――なるほど、少し飲み込めてきた。王木と阪江の両方から求愛を受けていた不幸な娘は、両方の子供を同時に生んだのだ。父親同士は出入りで死んでしまった。とにかく外聞も悪いので、片方の子供の存在は抹殺された。
「ただ、影武者に利用できる、なにかあったときに便利だろう、と計算されて、王木の内部で、ごくごく秘密に育てられたんだ」
納得がいく。ある意味で大切に育てられて、そのあげくに、あんな風変りな青年に仕上がったものとみえる。しかし、まだ疑問は多い。
「でも、そのことを知られたからって、それがそのままあのひとの生き死にの問題になってくるかしら」
「王木の連中は、一般人まで巻き込んだ大きな出入りが起きてから、阪江をひどく憎んでる。そこで桜木のじいさんは、あの人をこっそり育てたんだ。二人は同じ名前を持ち、二人で一人を演じていた。それが一人残って、残ったあの人の方が、阪江の血をひいていると知られたら、何が起こるかわからない」
雪野は首を傾げた。
「でも、組の人を騙すことはできないの? だいたい、どうしてあのひとのほうが、阪江の血をひいてるって、断定できるの? 血液型? でもそんなの、外から見ただけじゃわからないんだから、なんとかなると思うわ。いままで周りの人を騙しつづけてたんでしょう。……それにあのニュースにでた写真、あれは、カイの写真だったわ。とにかく、同じ写真でごまかせるほど、似てるんだから……あ、変よ。誰が事実を隠してるの? 櫂は事故で死んだんじゃないんでしょう。偽の情報を流したのは誰なの」
「外聞をはばかった桜木のじいさん、海二郎だ。事情があって、事故にしたほうが、八方丸く納まると踏んだからだ。それで、あの人の方も、行方知れずにしちまった」
「事情って何? ただ殺されたっていうんなら、実は生きていた、って、あのひとを身代りに使えばいいじゃない。それができない事情って?」
「組の人間は騙せないんだ」
平井は、いきなり人差し指で目の下を押さえて、あかんべをした。深刻な口調にあまりにそぐわないので、雪野はめんくらった。
「どうして」
「あの澄んだ瞳を、見たろう?」
あの瞳? あの瞳になにか意味があるのだろうか? 近眼の人は、瞳が美しいというが、あのひとの瞳はいったい……
「色盲なんだ」
「あ」
やっとわかった。それでは、もう一人との違いがばれてしまう。確かに一見ではわからないが、色盲は社会生活上、様々なところで思わぬ障害となる遺伝だ。この、派手な色彩溢れるエネルギッシュな世界では、こんなささいな事さえ迫害の原因になる。弱いものには冷たいのが、この社会だ。
「あの人は、赤と緑の信号が見分けられない。これが、阪江の方の遺伝なんだ。だから、ちょっと試されれば、いっぺんでばれてしまう」
「でも、それじゃまるで、戦国時代みたいじゃない」
それではあのひとは、敵陣に人質にとられて、育てられた武将のようなものだ。窮屈で危険な暮らしの中で、なお誇りを失わずに生きる。そんな時代錯誤な無茶を強いられたひとだったとは。
「そういうことだ。……ひどい話だ」
平井はうなずき、皮のジャンパーをひらひらとさせた。
「雪野さん。俺がこの馬鹿馬鹿しい服を、なんのために着てると思う」
「え」
「これは防弾服なんだ」
よくみると、下に着ているメッシュが、普通の代物でない。
「ここは王木の縄張りだ。万が一、少しでも事情を知ってる人間が、この素人芝居を観てカンにさわった場合、俺が撃ち殺される可能性もある、といって、あの人がくれたんだ。常に着てろってね。おかげで、毎日が道化芝居だ。この、気狂いみたいな化粧もね、変装の変わりなんだぜ。目立つけど、素顔の印象は残らないからな。……おっかない話だ。それでも俺はついていくつもりだが」
そこまで言うと、平井は一方的に話を終え、勘定を払ってさっさと店をでた。
「待って。まだ聞いてないことがあるわ、ちょっと待って」
雪野が慌てて追いかけると、平井はくるりと振り向いた。
「待っててくれ。きっともうすぐ、最後の幕の案内状がいく。雪野さんには、全部話がわかるようにするよ。何が起こっても大丈夫なようにしておくから、心配しないで待ってな」
にっこりとして、さっと駆け出した。――その速さ。
再び見事に逃げられてしまった。
何故櫂は死んだのだろう。そしてカイは、なんのために隠れているのか。まさか、デンマークの王子のように、仇討をやろうというのか。自分と同じ名前の、同じ顔をした青年の?
雪野は再び、一人闇の中に取り残された。閉じた幕の前で、静かに待たされる客のように。

8.

「新郎新婦の入場です」
式場つきの司会者が、おごそかに告げる。扉が開いて、暗い会場に光がさす。
新郎は、かなり年のいった男だが、背がすらりと高く、西洋礼服の似合う、吸血鬼のように冷たく整った顔立ちの男である。新婦は、花を散らした白いヴェイルにほっそりとした身体をすっぽりと包まれて、まるでフランス人形のような姿。絹のデコルテと薄物がふんだんに肌を覆い、覗くのは細い首筋だけ。新郎につかまって、うつむきながら楚々と入ってくる。
「お二人は、午前中に神前で誓いをすませ、夫婦となられました。これより、桜木家及び、阪江両家の結婚披露宴を始めさせていただきます」
案内状によれば、桜木俊之、及び、阪江遥の結婚式ということになる。白いびょうぶの前に、お雛様のように行儀よく並んで座った二人を眺めながら、雪野はため息をついた。
なんで私は、全然知らない人間の結婚式にでているのだろう。せっかくの休日に、お仕着せの、深い緑の重たいドレスを着て、きちんとかしこまっていなければならない。式場は広く、そこに恐ろしい形相の男達が、沢山つまった異様な雰囲気に満ちている。ここまでのこのことやってきた自分も自分だが、相手のやりくちは唐突だ。口唇を噛んでうつむくと、低い囁き声が落ちてきた。
「三田さん、もう少し我慢して下さいね」
三田、というのは、雪野のところにある名札の名前である。新婦の友人席につかされて、偽の名前を名乗らされているのだった。隣に座っている男も、堀江などと名がつけられているが、そちらのほうも偽名だった。
「しっかりと、あなたのその目で見てもらわないと、いけないですからね。ひっぱり回しますが、騒がないでついてきて下さいね」
平井である。今日は別人だ。あの恐ろしい化粧を落とすと、少々ごついが、切れ長の目が涼しい、穏やかな顔立ちのごく普通の青年である。育ちも悪くなさそうで、着ているものの趣味もよく、テーブルマナーもきちんとしている。いったいこのひとは何者なんだ、と雪野は思う。慇懃なこの青年に、皮肉な口調で応じてやる。
「いったい、どんなお芝居を見せていただけるのかしら」
「見てのお楽しみです」
平井は澄まして前を向く。雪野はつんと横を向く。
退屈な口上が続く。新郎は、有能ゆえに、桜木建設の会長の養子となった男で、結婚したら、会社を継ぐようになるという。新婦は、もともと桜木の血をひく人で、阪江に嫁いだ人の孫なのだが、この度桜木に戻ってくるという。皆めでたいと祝辞を述べるが、肝心の会長は、体調が悪くて欠席だという。
雪野はだんだんいらいらしてきた。
「ねえ、どうなるの」
「もう少し」
平井がぴしりと言ったとたん、司会者が次の進行を告げた。
「御祝辞の途中ではございますが、これより新郎新婦は、お色直しのために、一時席を外させていただきます。しばらくの間、御歓談をしてお待ち下さい」
式場全体が薄暗くなり、二人にスポットライトがあてられた。二人が雛段を降りると、音楽が変わった。
「今だ」
平井が呟いた途端、音楽が途切れた。そして今まで新郎達が座っていた白いびょうぶに、ぼんやりとした映像が映しだされた。奇妙な趣向に、人々はざわめきだす。ピントがあうと、雪野は小さく叫んだ。
「あれは」
それは見覚えのあるシーンだった。……

舞台の真ん中に女が横たわっている。男がいたわるようにしている。男はしばらくすると、名残り惜しそうに去る。舞台に別の男が現れる。第二の男は、女を乱暴に扱う。女は弱々しく抵抗する。さっきの男が入ってきて、乱暴を止めようとして、もみあいになる。いつの間にか短剣での切りあいになる。最初の男は刺されて、自分の流した血の色を見て、信じられないような顔をして死ぬ。第二の男もやはり刺されて、よろめきながら舞台を去る。

舞台一度暗転し、女と男でてきて、同じ芝居を繰り返す。

女/ありがとう、あなたが来てくれると、心が休まります。
第一の男/そういってくれるのなら、いつまでもあなたのそばにいよう。
女/そういう訳にはいきません。あなたは父の正式な許しをもらわなければなりません。
第一の男/しかし、邪魔が入ってなかなか出来ない。
女/許しが待てないような気持ちを、簡単に信じる訳にはいきません。いままでのことは嬉しいけれど、それではなかったことにいたしましょう。
第一の男/わかった。待っていてくれ。

第二の男/あなたは私の物だ。他の誰にも渡しはしない。あなたは私の物だ。
女/私は誰のものでもありません。
第一の男/おまえ、乱暴をやめろ。このひとは俺の物だ。

第一の男/この手を濡らしているものはなんだ? 俺は死んでしまうのか。
第二の男/この私がやられるとは。
女/やめて。私は誰の物でもありません。

「いったい誰の仕業だ!」
新郎が叫んで、びょうぶの前に立ちふさがった。新婦はくらくらとその場にくずおれた。
人々はざわめき、あちこちを動き回るが、映画はそのまま何事もないように続く。第二の男が、歪んで新郎の上に描きだされる。

「俊之さん、すこし刺されてしまいました。あなたの言うとおりにしたのですが、相手もなかなか腕がたって」
「誠君、よくやってくれた」
「いいえ、妹は俺のものです。誰にも渡しはしません。あなたが、桜木の鼠が妹にちょっかいをだしているのを教えてくれなければ、大変なことになる所でした」
「そうだな。彼女はあんないかがわしい血筋の者でなく、この私と結ばれるのだ」
俊之、と呼ばれた第三の男が、第二の男をもう一度突き刺す。第二の男がくずおれて、第三の男はニヤリとする。
「さて、櫂を捜すか。あの傷では、そう遠くにいっていないはず。うまく細工をして、組同士のこぜりあいにしてしまわなければ」
第三の男出ていく。第四の男がゆっくりと現れる。
「カイ……あれも不義の子だ。こういう運命ならば、仕方があるまい」
第三の男戻ってくる。
「死体がない……あ、お義父さん」
第四の男、鷹揚にうなずいて、
「あれはもう死んでしまった。仕方がないから、私が始末をつけておこう。おまえは心配するな。おまえはうちを継ぐものだ。ここで騒ぎになるのは面倒だ」
「お義父さん、許してくださるんですか」
「もともと遥は、おまえと結婚させるつもりだった。あれは、事情のある子だから、後を継がせるつもりはなかったのだ。こういう結果になってしまっては、うまくおさめるしかあるまい。まあ、私にまかせておきなさい」
「ありがとうごさいます」

「嘘だ! いやがらせだ! 誰かあかりを! 映写機を捜して消せ!」
逆上した新郎がそう叫んだ途端、映像がぱたりと消えた。暗闇に皆が惑った瞬間、白びょうぶの上にぽっとスポットがあたった。
「嘘じゃない。残虐非道の桜木俊之! おまえが俺を殺したんだ!」
ぴったりとした黒のつなぎに、サングラスの長身の青年が、ライフルを構えてキッと立っていた。
「何者だ!」
新郎が叫ぶと、青年はリンと高い声で、
「忘れたか。おまえに殺された、桜木櫂だ」
サングラスを取って名乗りをあげる。雪野はうめく。あれはまさしくカイの瞳。
「そこにいる遥さんは、俺に心ひかれていた。それをおまえが横取りしようとしたんだ」
パンと飛び上がって、倒れた花嫁の脇にふわりと飛び降りる。花嫁のヴェイルをビッと引き裂き、白い顔を露わにした。ロセッティの描く乙女のような、とろりとした目付きをし、石像の花嫁のように、生気がない花嫁。
「見ろ、薬を嗅がされて正気じゃない。このひとは、おまえなんかと式も誓いもしてはいない。おまえもそのつもりがなかった。とりあえずこの席で、結婚の形を披露しようとしただけなんだ。あとでなんとかするつもりで。桜木と本当の血縁を結びたくてな」
「彼女は今のショックで、ぼんやりしているだけだ。遥を返せ」
「返せだと? 遥さんは誰の物でもない。この人は、自分の意志で、自分の道を決めなければならない。だが、絶対おまえの物にはさせない」
「なんだと。彼女は俺の婚約者だぞ」
「恋人を目の前で殺して、その後逃げられぬよう閉じ込めて、薬で眠らせて式をあげて、なにが婚約者だ。いいかげんにしろ。おまえにはこれだ!」
ライフルが二度火を吹く。新郎の左胸に、パアッと紅いものがとび散る。
「貴様……」
新郎ががくりと膝をつく。黒衣の青年は、花嫁を抱きかかえると、ダッと出口に走った。
「逃がすな。追え! あれは王木を混乱させて、潰すために来た滝川組あたりのチンピラだ。櫂じゃない!」
「わかりやした」
ばらばらと数人が後を追う。
「雪野さん、行きますよ」
急に平井に手を引っ張られて、雪野はよろよろと立ち上がった。
「これからどうなるの」
「最後まで見届けてあげて下さい」
かなりの人数が出口に殺到していた。平井にかばわれながら、慣れない服でつまづきながら、その人波をかき分けた。
ロビーに出ると嘘のように明るい。ロビーはガラス張りで、暖かい昼の日差しで満ちている。ここは三階で見晴らしよく、裏手は深い碧い海だ。
「よく見ていて下さい」
窓辺に寄って見おろすと、白い車が、花嫁を詰め込む。黒衣の青年は、フルスピードで逃げ出す。
「待て!」
数人の男が、後ろから車を撃つ。なかなかうまく当たらないが、幾つかの弾丸がタイヤを捕らえて、車が独楽のように回転した。
「あ」
倉庫の壁にぶつかって、白い車が火を吹く。
「危ない」
スリップしながら激しく燃え上がり、車全体が火に包まれた。
「死んじゃう!」
ドライバーは次の瞬間、何を思ったかとんでもない方向にハンドルを切った。
雪野は思わず顔を覆った。
車はゆっくり、海に落ちた。

9.

ポケットに手をつっこんで、空を見上げれば三日月。
息が白い。ふっと一息いれると、ぐるぐる階段を登っていく。雪野の部屋は七階にある。仕事で疲れた時は、少し辛い。しかし高みに上ってくると、空気がだんだん澄んでくる。空が近い。淡い星の光は雪野の親しい友人だ。帰ってくると、ほっとする。
だが今日は違った。階段を上り詰めたところで、とんでもない光景にでくわしたのだ。ほっとするどころの話ではない。目の前に、摩天楼の避雷針みたいなものが、ぬっとつっ立っていたのだ。
一体なんのつもりなのだろう……ここ最上階のヴェランダの、細い手すりの角の上に、足を揃えてすっと立ちつくしている、黒い服の青年は。こちらに背を向けて、古い帆船のへさきにつけられる、飾りものの彫像のように立っていた。どう見ても不安定な構図だったが、青年は落ち着き払って腕組みをしている。
雪野は、もう驚かなかった。相手に負けじと落ち着いた口調で、
「そんなところに立ってて、危ないじゃないの。それとも空でも飛ぶつもり?」
「いえ。ただ、夜の街があんまりきれいなので、ここに立って眺めてみたくなっただけのことです」
青年は振り向かず、言葉を続けた。
「でも、飛べるといいですね。昔、妖精の粉があれば、強く願えば飛べるっておとぎ話がありましたね」
「あなたはピーターパンじゃなくて、ハムレットじゃないの」
「ハムレットのように、うまく死んでしまえればいいんですが」
青年は腕を翼のように広げ、ひらりとヴェランダに飛び降りた。万事芝居がかっているので、雪野はもうつっけんどんに、
「とっくにうまく死んでみせたじゃない。……それで今日は、何しに来たの」
「最後の口上を述べに」
道化のような深い礼をする。雪野は肩を落とした。
「そう。……寒いから中に入りましょうか」
「いえ、ここで失礼します」
今まで乗っていた手すりにもたれて、カイは薄く微笑んだ。
「わかったわ。つきあいましょう」
襟元のマフラーを押さえて、雪野はうなずく。
「そのかわり、洗いざらい喋っていきなさいよ。この間は驚いたんだから」
「ええ。みんなお話します」
空を見上げて、青年は語りだした……

僕は、死んでしまった桜木櫂の兄で、塊といいます。僕と櫂は、父親が違うのですが、一緒に生まれ、一緒に育ちました。同じ響きの名前なのは、一人の人間として育てられたからです。……それは祖父の意志でした。僕達は母親似で、娘によく似た僕達のどちらかを手放すのは寂しい、という理由でした。それで祖父は僕達を、あまり世間の目の触れない所で、同じように育てました。僕は、残念ながら桜木の人間ではありませんでしたが、平等に扱ってもらいました。誰にも知られず、僕と櫂は、二人で一人を演じていたんです。僕達は、影になり日向になりして常に一緒に行動し、秘密の洩れないよう、細心の注意を払って生活していました。しかし、外見は同じでも、心の中まで揃えるわけにはいかなかった。それが、遥さんとの恋です。
遥さんは、僕達の母親にどこか似た人でした。新年の組の挨拶の時に、櫂と遥さんは出会いました。彼女の兄で、今の組長の後継者となる筈だった、誠さんという人がいたんですが、妹を溺愛しているので、かえって不自由な生活をしているらしいのです。櫂は何故か遥さんにひかれて、こっそり逢いにいくようになりました。
その時、遥さんの結婚の話がもちあがったんです。櫂は慌てました。夜中に車を飛ばして逢いにいくような、とんでもない事を始めました。そして、ある夜、僕が飛び出す間もなく、殺されてしまったんです。
僕はすぐ祖父に連絡をとり、事後処理を相談しました。すると、今は俊之を放っておけ、というのです。櫂の死は、私が始末をつけよう。下手な事をして、おまえの事が洩れるのは、組の動揺のもとになる。滝川組という大きな組が、王木組を狙っているので、付け込まれる種は少ないほうがいいのだ、というんです。櫂の仇は、別の機会にとるがいい、と、その場を納めてしまったんです。
とりあえず、その場は従いました。そして、櫂の死体を持ち帰りました。ですがどうにもおさまりがつかなくて、翌日、弟の亡骸を持って逃げだし、丹沢に走ったのです。
そこで、雪野さんと逢ってしまった。
僕は目に不自由があるので、今まで公道で車の運転をしたことがなくて、あの時、思わぬ事故におびえてしまったんです。小さいといえども、事故は記録が残ります。些細な関わりあいで、自分の秘密が洩れては大変です。だいたい、カイ、という存在が生きているのも見られてしまいました。それで、どうしようもなくなって逃げだしたんです。心ならずも、櫂をあんなやり方で始末してしまったんです。
僕は、櫂の仇を討たなければおさまりませんでした。それで、俊之の結婚式に、あんな芝居をうったんです。それが一番、奴には効果があがるだろうと思ったんです。役者は揃えました。僕の書いたハムレットをやってくれ、と呼びかけて、寸劇を映像にし、式場に手配をさせました。そして、僕も遥さんも逃れられるように、エキストラを雇って、車を派手に撃たせました。炎上して海に落ちた車から、偽の死体をひっぱりあげるのは時間がかかります。そこまで計画をしてから、祖父に話をしました。
すると祖父は、いいだろう、とうなずいてくれました。それをやって、俊之がひっかからなければたいしたものだが、醜態をさらすようでは滝川組にたちうちできまい。あれは仕事はできるが、この世界はそれだけではやっていけない。俊之の人望もはっきりするだろうから、やってみよう、というのです。式場には銃器の類は持ち込ませないよう手配しよう、と言ってくれたらしいんです。組の幹部には、なにかが起こるが、手出しをせずに見守るように、と言い含めてくれたようです。
それで僕はライフルを持ち込んで、式場に忍び込み、なんとかあの芝居を成功させたんです。

ひとくぎりついた所で、雪野は尋ねた。
「で、あのあと俊之さんはどうなったの? あなたに撃たれちゃって、病院行きになって? 新聞記事にもならなかったけど、無事なの?」
「病院じゃなくて、刑務所行きです。身体のほうは、なんでもありませんよ。あれは麻酔の弾と、血糊の飛び出すおもちゃの弾を撃っただけですから。……本当に殺してしまっては、あの男と同じになってしまう。あの場で、あいつのやったことを、みんなにみせてやるだけで、よかったんです。そして、遥さんを、助けてあげたかった」
「そう。で、あなたは、これからあのひとと一緒に暮らすの」
「え」
青年はびっくりして、雪野の顔を見た。
「僕が、遥さんと?」
「違うの?」
「言ったでしょう、双子でも、心まで揃えることは出来ないって。僕はああいう弱々しい人は、好きじゃないんです。あの人は保護していますが、後でしかるべきところに行ってもらうつもりです。ただ、弟のために、あの人に意に染まない結婚をしてほしくなかっただけなんですから」
「弟のために?」
青年は顔を背けて、祈るような細い声で、
「兄と名のつくものが他に何人集まろうと、僕の気持ちは引けはとらない。僕は楽しかった日々を忘れない。不自由でも一緒に過ごせた幸せを忘れない。弟を、不幸のまま死なせてしまったんだから、僕は少しでも、弟になにかしてやらなければいけない。だから、その仕事が終わるまでは、自分のことは考えないようにしよう、と思って、やってきたんです。本当は、自分の気持ちを、すっきりさせたかっただけの話なんですが……」
「で、すっとした?」
「ええ」
「それはよかった」
「あなたが見ていてくれたので、うまくいったんです」
「私が?」
「あなたは僕が迷っていたときに、来てくれた人ですから。僕を心配して、捜しにきてくれた人ですから。……僕には観客が必要だったんです。突然一人でやらなくてはいけなくなった役におびえて、どうしようもなくなっていた。でも、見ていてくれる人がいたので、やりとおせたんです」
指を組んで、ちらりと雪野の表情を窺う。雪野はそれとなく視線を外し、
「そう……。で、これから、どうするの?」
「外国でもいって、いろいろ勉強してきます。どうもこのまま社会にでるのは不安なので、いっそ、まるっきり違う場所でやっていきたいと思って」
「組は、どうなるの」
「なんとかなります。まだ祖父も元気ですし、もともと、僕が継ぐことはなかったんですから。向いていませんしね。組がこのままでもし駄目になるようなら、私の代で潔く潰す、と祖父がいってました。もともと王木組は、祖父が築きあげて大きくしたもので、祖父も、長く続けるつもりがあったものじゃないので」
「そう。……で、平井さんは、どうするの」
「平井?」
「置いていくの?」
「あれは、夜、走っているときに知り合っただけの男で……」
「ふうん。……でも、きっとあなたについていくわよ」
「ついてくる? あれが? 僕は別に構いませんが、あれにそんな気持ちがあるかどうか……」
「連れてってやりなさいよ。かわいそうよ」
カイは街のネオンを遠く眺めながら、呟くように返事をした。
「……雪野さんが、そういうのなら」
「そうよ。私がいうんだから、一緒に行きなさい。きっと役に立つから。お芝居の時だって、自分が慣れないことまでしてくれたんでしょう? あなたにとって、大事な人間なのよ。昔の事は早くふっきって、自分の人生をしっかりやんなさいよ」
「そうですね。ありがとう、ございました……」
青年は雪野の手をとって礼を言うと、静かに階段を降りていった。
こうして、神出鬼没の青年は、再び消えうせたのである。

10.

「と、いうことなの」
雪野が話を結んだ頃、冬の日は早々と傾きかけていた。夏雄は少し頬を膨らませ、納得のいかない様子をしている。雪野は宥めるように笑って、
「まだ、何かおかしいところがある?」
「ええ。だって、あいつは外国に行くって言ったんでしょう?それなのにまだ行ってない」
「ああ。そんなこと」
「そんなことっていったって」
「そうね。……あのひとも、まだ迷ってたところがあったのよ。ときどき、《生きていくのは易しいが、死ぬのは難しいことです》なんて言ってたし。まっとうに生きていくのが難しいひとだから、すぐ現実に嫌気がさすのね。で、決心がぐらつくと、観客の評が聞きたくなるらしいの。それで、あんな格好で、そっと逢いに来るのよ。だから頑張れ、って言ってやるの。まあ、そのくらいは親切にしてあげてもいいかな、と思って」
「そんなおせっかい、焼く必要ないですよ。雪野さんは人が良すぎる」
「そうね。でも、さっき、もう来ないって言ってたわ。もう、行けるって。自分一人で行けるって」
「本当かなあ」
「わからない。でも、信じてあげようと思って。あのひとなりに、一生懸命やってるんだから、と思うから。世界の違うひとだから、何かしてあげることはできないけどね」
「雪野さん……」
ちょうどその時、夕方からのバイトが来た。雪野は何事もなかったような顔をして、ぱっとエプロンを外した。
「ね、タカちゃん、軽いものでも食べにいこうか」
「でも、店は……」
「ちょっとの時間なら、バイトの子でも大丈夫よ。気分転換に」
「わかりました」
雪野と夏雄は、連れだって店を出た。
少し後ろを歩きながら、夏雄は思った。今の話は実話だろうか、と。
雪野は、無茶な所もあるが、人あしらいはうまい。話も上手だから、だまされることも多い。うまくごまかされたような気がするのだが、本当の話をされたような気もする。結局あの男が何者なのか、という問いに、夏雄が答えて欲しいところを答えてもらってない。……しかし、今の所は、自分が最初にこの話を聞いた者だということで、我慢しておこうかと思う。この人は実の母親なんかより、うかつに手を出せない人だから。
そんな事を考えていると、ふいに雪野が足を止めた。脇に黒塗りのベンツが止まって、声をかけてきたからだ。
「おじょうさんが、雪野都さんですか」
恰幅のいい年寄りが、皺枯れ声で、車の中から雪野を呼ぶ。
「そうですが」
「どうも、この度は、孫がお世話になりまして。お礼を言うのが、遅くなってしまって、すみませんね。もうご迷惑はおかけしませんから、許してやってください。あんな孫でも、かわいいものでね」
それだけ言うと、ベンツはゆるゆると走り出し、去っていった。
雪野はぽつりと呟いた。
「あれが、海二郎氏……」
夏雄はぞっと震えて雪野の顔をみたが、彼女は何事もなかったように歩き始めた。夏雄は、もうそれ以上何かを重ねて聞くのをやめた。

常連だった黒衣の青年は、それきりぴたりと姿を見せなくなってしまった。

(1990.10脱稿/初出・Narihara Akira自選短編集『黄昏の帝国』1990.11/参考文献・新潮文庫『ハムレット』福田恆存訳)

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