『五月の薔薇』
1.
御剣怜侍の新しい噂が、某署内でまことしやかに囁かれている。仮眠所の前でたむろする若い刑事たちは、それは興味津々だ。
なにしろ、あの物堅い御剣検事が。
「狩魔冥と、その……」
「本当なのか」
「そうらしい」
「御剣検事も物好きな」
「いや、いくらなんでもあの人に鞭は使わないだろう」
「そうか。鞭さえなければ」
「そうだな、それなら結構……」
若い男たちだ、見るところは見ている。狩魔冥は溌剌として美しい。見事にくびれたあのプロポーションで大胆にせまられたら、あの気の強そうな眼差しが熱く潤んで自分を見つめたら、その誘惑にあらがえるだろうか。さんざんな目にあわされた刑事部の連中ですら、その想像だけで理性が吹き飛ぶようだ。
「しかし、彼女が《いいわよ》と言うとは思えないんだがなあ」
「というか、あの狩魔冥だぞ。《かかってらっしゃい》ぐらい言って、彼女から挑発したんだとしたら」
「で、御剣検事がその挑戦を受けた、と」
「ひゅう」
「まさしく武勇伝だな」
「羨ましい……最中はきっと……なあ?」
ひそひそ声と目配せが続き。
「おまえたち、何をくだらないことをしゃべってるッスかーっ!」
突然怒号が響いた。刑事達は首をすくめ、蜘蛛の子を散らすように消えた。
糸鋸圭介、三十三歳。御剣検事の大ファンで、彼が窮地に陥った時には自分の職をなげうってまで助けようとした熱いハートの持ち主だ。御剣の名誉が毀損されるとなれば、階級など関係なくつっかかるのは知られすぎており、若い連中が逃げ出すのはむしろ当然のことだった。
しかし。
糸鋸刑事も、あの二人の行方については興味がなくもない。
二人とも狩魔豪検事の直弟子で、先輩後輩の親密な間柄なのだから、そのまま結ばれたとしても不自然には思わない。それで御剣検事が幸せであるなら、むしろその恋を応援したいと思う。
だが、御剣怜侍の眉間に刻まれた深い皺が消えるのを、糸鋸刑事は見たことがない。そう、特に最近は。
「心配ッス」
糸鋸刑事が冥の鞭の味に懲りているからではない、彼女が感情の起伏の激しい女性で、しかも自分の内側へは誰も一歩も入り込ませまいとする、非常にかたくななところがあるのも知っているからだ。
御剣検事は人知れず苦労しているに違いない。
それをそんな好奇の目で。
あっさり恩義を忘れる連中が多すぎる……二年前におろしたのに、すでに古びてしまったコートのポケットに手をつっこむと、糸鋸刑事は新たな現場へと捜査へ――。
* * *
御剣本人は、刑事部でのそんなこんなはつゆ知らず。
彼を直接ひやかす猛者はさすがにいない。なにより恋愛のときめきに我を忘れて、周囲のあれこれが目に入らなくなっている。普段の余裕はどこへやらだ。
「メイ……」
仕事中にふと思いだして、書類を書く手が止まってしまう。
日本で仕事がしたい、と二年ぶりに日本へやってきた狩魔冥は、落ち着きの備わった大人の女性に成長していた。
彼の心は不思議に乱れた。
どうしてしまったのだ、私は。
抱きしめたいと思ったことは、今までも何度もあった。しかし、それは肉親に対するような気持ちであって。
それなのに。
なぜ、こんなに彼女が眩しくうつる。
身体の底が熱くなる。
その気持ちがきっかけを得てどっと雪崩れだしたのは、つい先日のこと。
「狩魔冥」
その午後、報告書をまとめて検事局へ向かう途中、ふと御剣は道すがら、彼女の部屋に寄ることを思いついた。住む場所が具体的に決まるまで、官舎の一室を借りているのだ。
ノックすると、冥がうすくドアを開けた。
「誰」
「私だ。仕上がっている書類が何かあれば一緒にもっていくが、どうする」
「ないわ。そんなものは金曜は、朝八時半までにすませておくものよ」
見ると冥は、みずいろのボディスーツに黒いスパッツ姿だった。ピアスは外している。
「どうした、その格好は」
「日本式にあわせて、三時の体操をしようと思ったのよ」
確かに日本の裁判所では、午後三時になると裁判官らが体操の時間をとる慣習がある。冥が日本式にあわせようとする努力はたいしたもので、これもその努力の一つらしい。アメリカで生まれ育ったとは思えないほど流暢な日本語が、彼女の努力の一番の証拠といえるだろうが。
「そうか」
「でも、わざわざ来てくれたんだから、三時のお茶に変更するわ。どうぞ」
招きいれられて、御剣は部屋を見回した。
お仕着せの殺風景な部屋だ。必要最低限の法律書だけ揃えたという感じで、花ひとつ活けられているでもない。実利主義か、ついの住みかのつもりがないからか。
手早くコーヒーを入れて戻ってきた冥は、ベッド脇の小卓にそれを置いた。
「座ったら?」
「あ、ああ。ありがとう」
冥もテーブルにつき、脚を組んで座る。視線を御剣の書類鞄にあて、
「急ぎの報告書なの」
「いや、そういう訳ではない」
「そう」
そっけなく答えて、冥はコーヒーを口にする。
検事は裁判中の資料を用意するだけでなく、終わった裁判の記録を一定の書式に従ってまとめねばならない。特に耳目を集める大きな事件の場合は、新聞発表にもそなえなければならず、簡潔に書き改めるのがまた大変なのだ。検事の仕事は裁判だけでない、実際に捜査にも赴く。決して閑ではない。それでも、スケジュールの都合でぽっかり空く時間はある。早めに仕上げた報告書を届けがてら、知り合いの部屋で一刻を過ごすぐらいには。
ボディスーツは袖のないタイプで、冥のほっそりした二の腕はすべて剥き出しになっていた。充実した身体のラインを、つい御剣は視線でなぞってしまう。
そして、ふと気付いた。
「その傷、まだ残っているな」
「ええ」
美しいまろやかな右肩に、薄白く残っている銃創。痛々しい以外のなにものでもない。
「まだ痛んだりするのか」
「痛まないわ。なんのさしさわりもない。鞭をふるうのにもね」
「ならいいが」
御剣はコーヒーカップを置いた。
「……その傷に、触れてもいいだろうか」
冥は表情も変えずに即答した。
「どうぞ?」
御剣は、裸の肩へ掌をのばす。
傷跡を指でそっとなぞった瞬間、冥の身体がビクッと震えた。
「やはり、痛むんじゃないか」
「違……」
言いかけてハッと口唇を噛んだ冥を見て、御剣もハッとした。
冥が震えたのは、痛みからではないのだ。
寒さからでも、驚いたからでもなく。
しかもそれを隠そうともせず、薄く頬を染めて、御剣の掌からも逃げずにいる。
「冥。他の場所にも触れて……構わないのだろうか」
長い睫毛を伏せ、冥は小さくうなずいた。
「そうね……体操の前にシャワーを浴びることになるとは、思わなかったけど」
知ってはいたが、冥は可憐だった。
先にシャワーをすませ、白いバスローブに濡れた髪で御剣を見つめるその瞳は、うっすら潤んでいた。頬が上気しているのは、湯にあたってきたからだけではないだろう。
「貴方も済ませてきて」
「ああ」
御剣が湯を使って出てくると、冥はベッドにかけて、行儀良く脚を揃えていた。
その脇に腰を降ろし、静かに抱き寄せると、彼女の方から御剣の肩に顔を埋めてくる。
「御剣……」
ため息にも似た掠れ声が、御剣に火をつけた。
「ずっと、抱きしめたいと思っていた……」
顎をとらえ口唇を重ねると、ためらいがちに応えてくる。
そのまま静かに押し倒して、するりとローブを脱がせると、その身体はかすかに震えていた。
はやる心を抑えて、御剣は優しく触れる。緊張をほぐしてやらなければ。
少し開いた口唇から、時々ちいさな吐息が洩れる。その場所の愛撫に他より余計に時間をかけると、冥の身体がきゅっと引き締まるのを感じた。それでも彼女は声をあげない。じっと堪えているようだ。どれぐらい感じているのだろう。それともただ我慢している?
御剣はついに熱情を我慢できなくなり、冥の脚を押し開いた。下着をとるまでもなく、そこが潤っているのがわかった。そっと手をかけて脱がせてやり、自分のものをあてがってみると、皮膜ごしでもその部分が熱く脈うっているのが感じられた。それでも冥は必死で声を殺そうとする。愛しい。
なるべくゆっくり腰を進めようとしたが、一度迎え入れられると我を忘れた。
冥。
私の、大切な……!
ひとくさりを終えてもう一度抱きしめた瞬間、御剣は無上の幸福を感じていた。
理性とは、こんな風に失うものなのか。
世間では、あのじゃじゃ馬が、と思っているだろうが、つまりは一本気な娘なのだ。
その彼女が、おとなしく身体を縮めている。
この私の腕の中で。
こみあげてくるものをおさえていると、冥が呟いた。
「ずいぶんと優しいのね。私がはじめてだって知っていたの」
「関係ない」
御剣は、むしろぶっきら棒に応えた。
「優しくするのは当たり前だ。まして自分が初めてする相手では、様子がわからん。乱暴になどできない」
「紳士なのね。それともこれも、《カンペキをもってよしとする》?」
思わず御剣は赤面した。それを隠すように背を向け、低く呟く。
「……ずっと、大切に思っていた……」
「そう」
その背にそっと、かすれた小さな囁き声がこぼれた。
「ありがとう」
もう一度触れたい、と思いながら、御剣はその機会をすぐに得られずにいた。検事の多忙な生活ゆえもある、週末にゆっくり出来ればいい方なのだ。
焦りの気持ちがわく。
ため息のように、ひとり、名を呼んでしまう。
「……冥」
あの初々しさは乙女の演技でなく、本当に初めてだったのだろう。
わざわざ憎まれ口まで付け足して。
ああ。もっと、優しくしたい。
なんでもすればいいというものではないだろうが、初花を摘んでおいて、そのまま打ち捨てておくなどいうこととは、男として許されることではあるまい。せめて、一つになる喜びを彼女が味わえるようになるまで、肌を重ねてみたい。
ひととおり完成していながら、まだ成熟しきっていない身体――それを自分ごのみに染めてゆくことができるかもしれないと思うと、正直、御剣の若い血は騒いだ。喜びを知ったら、冥はどんな風に乱れるのだろう。知りたい。甘いため息をききたい。あのさらさらとした髪を撫でながら、満ち足りたひとときを過ごしたい。
「ああ」
そうだ。
「無骨者にもほどがある」
うっかり、大切な手順をとばしていた。
エメラルドが誕生石だといっていた。
彼女らしい、こんな絢爛な薔薇の季節に生まれたとは。
そう、せめて食事でも。
口実はあるのだから。
「冥」
その時、御剣怜侍のいかめしい面はゆっくりと緩んだ。
どうやら彼の方は、糸鋸刑事があえて心配するまでもないようで。
2.
「ずいぶん、ごぶさたしてしまって」
「元気そうでなによりね。仕事も順調なのでしょう?」
「ええ。ありがとうございます」
会話をきいているだけでは、二人のどちらが年上かわからない。
とりあえず、口調が偉そうな方が若い。
つまり、狩魔冥だ。
明るいカフェテラスで彼女と向かいあって座ったのは、華宮霧緒、二十五歳。
とあるプロダクションで今でもマネージャー業をやっている。スケジュール帳を肌から離さず、常に人の予定に目を光らせフォローする能力は彼女の本来的なもので、非常に生き生きと仕事している。
それも、目の前にいるうら若い女性検事のおかげだ。
二人の出会いは取り調べ室。
殺人事件の調書をとられるという、非常に嬉しくない状態で。
冥は、部屋に入ってきた霧緒が座ろうとした瞬間、「待って」と制した。
「なんですか」
立ち上がり、冥は霧緒と視線の高さをあわせた。
というか、二人は身長もプロポーションも、あまり差がなかった。
「あなた」
冥はかるく首を傾げて、
「とても背の高いお兄さんがいた?」
「そんなことまで調べるんですか」
事件になんの関係が、と言おうとした瞬間、冥は微笑みを浮かべた。
「調べた訳ではないの。でも、きっと身長は百九十センチか、それ以上ね。そしてとても優秀な人。頭脳的にも肉体的にも。当然眉目秀麗」
「なぜ、そんなことが」
たしかに霧緒には兄がいた。狩魔冥がいうとおりの、ハンサムな兄が。日本の大学では物足りないと海外へ留学し、ビジネススクールを出て一企業家として活躍している。
別にそれは隠していない、調べればすぐわかることだ。
ではなぜ、調べた訳ではない、と?
「あなたはよく、自分のことを《小柄だから》と言うそうね。でも、あなたの身長は百六十一センチ。大柄とは言えないかもしれないけれど、日本人女性の平均は軽く越えている。だとすれば、あなたは無意識に、誰かと身長を比べているのだと思ったの。しかも身近にいる人。おそらく異性。男性向け番組を担当し、男性のマネージメントを巧みにこなすのは、男きょうだいがいて男の扱いに慣れているから。違う?」
狩魔冥は面白そうに、
「もう一つあててみましょうか。服装はスマートで動きやすいものをつけながら、髪だけは女性らしく長くのばしているのは、無意識に兄と比べられたくないと思っているから。あなたのお兄さんは優れた人だけれど、それを鼻にかけているところがある、そして少し女を馬鹿にしたところがある。どう?」
霧緒は即答できなかった。
普通の相手にそう言われたなら、それこそ霧緒はいつもの木で鼻をくくったあしらいをしたろう。無礼者にいちいち腹をたてていたら、マネージャーなどやっていられない。こびへつらうことなく、冷静に仕事をすすめられてこそプロ。天野由利恵に教わったとおり、職務を離れても彼女はそう生きてきた。
しかし。
今まで誰にも、兄に対する感情について語ったことはなかった。
兄のことは大好きで、昔の霧緒はお兄ちゃん子だったといっても過言でない。
兄もまた、霧緒に優しい兄だった。
だが、本当は、兄と比べられるのが嫌でたまらなかった。
そして、兄が内心、妹をどう思っているかも、彼女はよくわかっていた。
誰にも見抜かれないよう、用心して隠してきたその感情――それは確かに、調べてわかることではない。
霧緒は不自然にあいた間をとりつくろおうとして、思わず愚問を発してしまった。
「調べもせずに、どうして兄がハンサムだと?」
冥は肩をすくめた。
「あなたみたいに綺麗な人のお兄さんなら、そうでない方がおかしいでしょう?」
そしてすっと椅子を引き、
「座って。ハッタリで脅かしてごめんなさい。私、あまり年がいっていないものだから、相手を驚かせでもしないと、ちゃんと話をしてもらえないのよ。あなたならわかるでしょう、全く同じ仕事をしているのに、若い女だとどんなあしらいをうけるか。それでね」
反射的にうなずいて、霧緒はハッとした。
これはこの検事の手なのだ。フランクな様子を装って懐柔し、私が絶対隠しとおしたいと思っているあの秘密を、巧みに暴こうとしているのだ。アメリカ帰りの優秀な検事という噂をきいた、完全無敵の検事らしいと。十代の少女が子供らしい演出をすれば、誰だってやはり子供かと油断する、それを狙っているのだ。
その手にはのらない。
しかし冥は屈託なく続ける。
「私も、実の兄ではないけれど、兄弟子とよく比べられた。彼のことは好きだったから、私も立派でありたいと思ったけれど、もともと年の差があるんですもの、そう簡単には追いつけない。悔しかったわ。どうやったらその時間が埋められるのか……」
華宮霧緒は冷たく遮った。
「世間話をしに来た訳ではないのですが」
「そうね、そうだったわ。それにあなたは、ハッタリなんで使わなくても、ちゃんと話してくれる人。そうでしょう?」
真剣な瞳にのぞきこまれて、霧緒は思わず引き込まれた。
そう、手なのかもしれない。
しかし、たぶんウソでもないのだ、兄弟子と比べられて、おいつこうとして必死なのは。だからこそ知恵をめぐらせて、少しでも早く先へ行こうとしている。
そういう気持ちは、よくわかる。
霧緒は今度は、ゆっくりとうなずいた。
「わかりました。私のお話できることを、話します」
大人の女が後からくる者をいたわる、ちょっぴり優しい気持ちになって。
狩魔冥は、噂通りの優秀な検事だった。霧緒が鉄の女の仮面に隠した繊細な神経を、それとなくいたわってくれた。孤立無援と感じたら、私で良ければいつでもかけつけるから、とさりげなくアドレスを渡された時も、小娘が生意気なと思うより、ただ有り難かった。下心なしの好意をはねつけられるほど、華宮霧緒は歪んでいなかったのだ。
それから冥の言葉は、ストレートに心に入ってくるようになった。「神経質な性格? 変える必要ないじゃないの。あなたの仕事にはむしろプラス。だらしないマネージャーなんて、物の役にたたないわ」その通りだ。「あなたのしたことは犯罪かもしれない。でも、間違ってなんかいなかった。女の敵は人類の敵なんだから。あなたが直接手をくだしたのでなくて、本当に良かったけれど」もっともだ。「誰も頼らない、支えにもしない人なんて、そっちの方がよほど社会不適応者よ。自分の心の一番澄んだ部分が選んだ人についていこうとするのは当たり前のことよ、弱さじゃないわ。それを否定するなんて、そっちの方が呪われた人たちなのよ」そのきっぱりした口調に、優しかった先輩を思い出す。「あなたの人生はあなたのもの。少なくとも、余計な口を出す人たちのものじゃないわ」人は、こんな気持ちを友情と呼ぶのだろうか。
冥の言葉を支えにしながら、華宮霧緒は天野由利恵より更にまた生き延びた。
彼女自身の人生を。
「冥さん」
「なに?」
世間話がとぎれた瞬間、霧緒はこう囁いた。
「この二年間の御礼に、もし私で相談にのれることがあるのなら、教えてください」
冥は即答した。
「別に何も悩んでなんかいないわ」
「そうですか?」
一瞬、冥の表情が歪んだ。
しかし、それはすぐにいつもの不敵な微笑みに戻った。
「どれぐらい日本で仕事をするかについては、考えているけれど」
「長くいられないんですか」
「そうね、この国は狭すぎるから。事件の数は少なくないけれど」
霧緒は相づちをうちながら、会話とはまったく別のことを考えていた。
本当の気持ちを無理にききだそうとは思わないけれど、もしこんな会話で気が紛れるのなら、いくらでもつきあおうと。
だって。
冥さん、怖いほど綺麗になって。
誰がみたってわかる、恋をしているのだと。
その相手も想像がつく。そして、何があなたをひどく苦しめているのかも。
ええ、無理にはきかない。
だって、それはあなた自身にしか解決できないことだから。
そしてたぶん、あなたは自分で答えを見つける。
優秀な検事なんだもの。
「そろそろランチタイムも終わりね。行きましょうか」
「ええ」
席を立ち、会計をすませて別れ際、華宮霧緒はもう一度囁いた。
「時々は、冥さんからも連絡をください」
「さびしがりやなのね。会いたかったら、迷わず知らせてくれていいのよ?」
微笑みではぐらかして、冥は霧緒に背を向けた。
そして、歩き出した。
自分の宿舎に向かって。
彼女の悩み。
それは、御剣と肉体の愛を交わした日から始まった。
* * *
冥は気付いていた。
御剣怜侍が、自分を見る眼差しが。
昔と違う。
自意識過剰なのかしら、とも思った。だが、冥を熱っぽく見つめる人間は大勢いる。その眼差しの意味は、いくらなんでも理解している。
でもそんな。
御剣が、私を?
七歳の年齢差は時に大きい。初めて会った時、御剣はすごく大人びた少年で、幼な心に頼もしく思った。母ひとり娘ひとりの幼年期、そして、寄宿学校で英才教育を受けた少女期を通じて、身近な手本となったのは青年御剣だった。兄のような気持ちで自分をかばってくれていることも、肌で感じていた。だから妹の気持ちで憎まれ口を叩いたりもした。天才少女検事として無敗記録を更新しながら、日本の御剣の活躍ぶりについて、こっそり情報を集めたりしながら。
でも、私達は本当に、兄と妹のようなもの。
私はともかく御剣は、私を女とは見ていないはず。
そう、思っていたのに。
もちろん日本にもう一度戻ってきた理由は、御剣に会いたかったからなのだけれど。
まさか、あんな風に抱かれてしまうなんて。
「……その傷に、触れてもいいか」
低く囁かれ、肩の傷跡をなぞられた瞬間、冥の背筋をゾクッと駆け上がるものがあった。
どうしよう。
このままあなたに、きつく抱きしめられたい。
でも、本当にそうされたら、おかしくなってしまいそう。
御剣。
私、そんなつもりで部屋に入れたんじゃないの。
信じて。
ただ、あなたと過ごす時間が懐かしくて、それで。
そんな言い訳を口にするまえに、御剣の低い囁きがそれを制した。
「他の場所にも触れて……構わないのだろうか」
夢の中にいるようだった。
こくん、と素直にうなずく自分が信じられなかった。
まるでそういう手順に慣れているかのように、ベッドまでのことはするすると進んで。
ベッドの上で組み敷かれながら、冥はひたすら声を殺した。
「……」
だって、まだ、明るいのに。
夜なら良かった。
そうしたら、明かりを消して、って頼めたし。
どうしたらいいの、こんなに恥ずかしいなんて。
まだ、一糸まとわぬ姿って訳じゃないのに。
御剣。
男のひとって、みんなこんなに優しく触ってくれるものなの。
それとも、私の緊張をほぐそうとして、こんなに丁寧に?
でも、あなたにそんな真剣な眼差しで見つめられたら。
それだけで、私。
身体が熱い。
「あ」
どうしよう。声が漏れそう。
だめよ、そんな変な声をだしたら。
思わず身をすくめると、御剣が低く囁いてくる。
「怖いのか」
「いいえ」
「そうか」
ピアスを外した耳たぶに、御剣は口唇で触れる。
「それならいいが……途中で、やめられそうにない」
「……っ」
冥は思わず身をよじった。
いくら初めてだからといっても、されるままの自分が不安だった。せめてキスを返したい、と思いながら、どうしようもできないなんて。その間、御剣の口唇と掌はどんどん降りていって、局部をとおりすぎ、どうしていいかわからずに腿を閉じた冥の足首をとらえて、足の甲にまで口づけた。
身体は愛撫に反応してすっかり敏感になり、熱く湿った場所が第二の心臓のように息づいている。冥の声はかすれた。
「御剣。準備は、もういいから」
「そうか」
こちらも準備を終えた御剣の切っ先が、冥の入り口を撫で回す。冥は衝撃にそなえて、腰をずらし、脚を大きく開いた。自分から開くなんてみっともない、とは思わなかった。痛みをこらえることができず、イヤ、と御剣をおしのけることになる方が怖かった。
御剣は、歯をくいしばってしまった冥の頬に掌を触れた。
「ゆっくり、するから……それとも、指で慣らした方がいいのか」
頬の緊張をとかれて、冥はため息をついた。
「やめられないのなら、早くして」
これなのかしら、と思う瞬間はあったにしろ、やはり痛みが強く、絶頂には至らなかった。まったくの初めてなのだと打ち明けて、途中で終わらせてもらってもよかったのかもしれない。
とにかく御剣は紳士だった。破瓜の痕をきれいにぬぐい、新しいシーツに冥を横たえ、それからもう一度口づけをして静かに抱きしめてくる。
途中でやめられそうにない、という台詞が、冥の中で反響していた。男の欲望で、一番つらいのは中断させられることだときく。でも、御剣の言った意味は、ただそれだけでなかったはず。
甘い台詞がききたくなって、これもカンペキ主義?などと思わず皮肉を口走ってしまうと、御剣は照れくさそうに冥に背を向けてしまった。
その背中に寄り添うこともできず、冥は身を縮めた。
どうしよう。
私、こんなにあなたが欲しい。
欲しいの。
だが。
冥はその欲求を、ひどく怖れた。
誰でも他人に甘えたい時がある。年齢も性別も関係ない、信頼する人に甘えたい、抱きしめられたい、優しく撫でてもらいたい、というのはごく自然な欲求だ。
なのに。
私にはわかっている。これは「依存」ではないと。
それなのに、いったい何を怖れているの?
不本意な相手とはじめての行為を行ったなら不愉快になってもいい、単に遊ばれたというのなら、甘えたい気持ちはおかしいと思ってもいい。
しかし、あの御剣怜侍がしたこと、不真面目な気持ちは少しもなかったに違いない。
それで、どうして。
私はなにが恐ろしいの?
考えない訳にはいかない。
愛する人の腕に抱かれて、なぜ自分は幸せに思えないのかと。
そう、御剣が好き。
好き……なのだけれど。
嫌だったら、ゆるしたりはしないから、御剣も私の気持ちはわかってくれていると思うのだけれど。
これが不自然なことだとも思っていない。
私から「欲しい」と言っても構わないはずなのに。
でも、御剣は、本当に私を好き?
妹扱いされるのは構わなかった。
だって私は、あの人の父親の仇の娘。
その真相が暴露されても、あの人の優しさは変わらなかった。
検事の仕事を投げ出そうとした私を、厳しい口調で諭してくれた。
それがどんなに嬉しかったか。
人目のある場所で涙を流したことなど、かつて一度もなかった。
誰も見ていなかったら、あの胸に飛び込んでいたかもしれない。
そう、ずっと好きだったんだもの。
でも。
御剣の、私への気持ちから正義感と同情心を引き算したら、なにが残るの?
欲が深すぎるのかもしれない。
同情しないで欲しいというのは無理だとわかっている。お互い狩魔豪に深く関わった身、あの人の影響力に強く浸食されている。御剣の、つらかったろう、寂しかったろうという共感はごく自然。冥だって御剣の青春期を思えば、その辛さに共感する。親の仇に育てられたという事実は、どんなにショックだったろうと思う。
でも、だからこそ。
同情だけで私に縛られてほしくない。
だから、甘えられない。
でも。
甘えたい――。
* * *
ちょっと会っただけの華宮霧緒に気付かれるほど悩みが深いのかと思うと、冥の口唇から自然にため息が洩れる。
相談など、誰にもできはしない。
腹違いの姉は疎遠すぎる。同世代の親しい女性も少ない。そしてこんな屈託は誰も解ってくれないと知っているからだ。狩魔豪を身近に知らない者には絶対理解できまい。会ったらまた支配されてしまうとわかっているから、面会にすら行けないのだ。今まで一度も行っていない、生きた父親に会うことは二度とあるまいと冥は思う。冷たい娘と人は言うだろう、それでもあの人の言いなりになってしまうのだけは、もう厭だ。
こんな心を理解し、同情してくれるのは、たぶん当の御剣だけ。
なんて、寂しい恋。
この世に二人きりなのと変わらない。
いいえ、この世に二人きりでも、本当に御剣が私を愛してくれているというなら、それでも構わない――本当に構わない?
考えれば考えるほど、思考は暗い方へ流れてしかたない。
それでも、愛されていないという事実から、目を背け続けることはできない。
そう、だって御剣が触れてくれたのは、あの日いちにちだけじゃないの。
抱いてしまったものの、きっと困っているんだわ。やっぱり愛してはいないことに気付いて。
「……?」
足音が聞こえた気がして、冥ははっと飛び起きた。
いつのまにか着衣のまま、ベッドで眠ってしまっていたのだ。
慌てて戸口へかけつけると、白い封筒が滑り込まされているのに気付いた。
拾い上げ、封を切ると、見覚えのある几帳面な文字が並んでいた。
「あ」
【有能な検事は、金曜日の夜は空いているはずだ。
もし先約がなければ、ディナーを。】
頬が赤くなるのが自分でわかった。
だって。
知っているから。
気障なくせに、本当は、こういうことがとても苦手な人だって。
同じ便箋に冥はペンを走らせた。御剣の文章の先に付け加えたのだ。
【有能な検事は、先約があってもすぐに片づけられるものなの。
それより、場所と時間をちゃんとしらせなさい】
これを、御剣の部屋に届けることができるかしら。
誰かに見られたらどうしよう?
それとも、とっくに噂になっていて、今更なのかしら。
だめだわ。
やっぱり私、目を背け続けてはいられない。
あなたの気持ちがなんでも、私はあなたが好き。
「御剣」
封筒をそっと胸に押し当てたその顔は、その一瞬だけ輝いて。
3.
「冥」
「なに?」
「これを」
テーブルにつくなり、御剣は花束を差し出した。
小ぶりだが、形の整った真紅の薔薇が二十本。
「どうしたの」
「誕生日祝いだ」
冥は首を傾げた。
「もう過ぎたわ」
「わかっている。だが、誕生月を終えてからでは、いくらなんでも遅すぎるだろう」
御剣はいかにもさりげなく続けた。
「もし、何か欲しいものがあるなら、教えてほしい」
「そうね……」
薔薇特有の濃密な香りに、冥は顔を近づけた。
「いい薔薇ね、五月の薔薇。どんな顔をして買ったのかしら」
「花屋に、プロポーズですか、とからかわれた」
「あら違うの?」
微笑みかけて、冥はハッとした。御剣の顔が真剣だ。
冗談で言ったのではないの?
「日本では……」
冥は視線を窓の外へそらした。
綺麗な夜景だ。
ホテルでフレンチのディナー。薔薇の花束。プレゼントの約束。熱い眼差し。
それらは何を意味しているか。
「女性検事が定年まで勤めた例は、まだないそうね」
「転勤が宿命の仕事だからな。遅く結婚すれば女性はさらに辛い。弁護士に転身する者も多いようだ」
「そうね」
冥は喉につかえるものを感じた。
御剣は、自分が何を言っているかおそらく理解していない。まだ二十歳の冥に、今後数十年の人生設計図をひけ、といきなり迫っているのだという事を。そう、御剣はいい。検事としてのキャリアはもうすぐ十年、そろそろ落ち着いていい頃だ。結婚しても何のデメリットもない。
しかし、彼女の方は。
そう、それでもせめて、心底愛されているのなら。
冥はおもむろに口を開いた。
「御剣」
「うん?」
「私ももう、子供じゃないから。あれは私が自分の意志でしたことだから。だから、責任をとらなければ、なんて考える必要はないのよ」
御剣の顔色が変わった。
「そんな、つもりでは」
「ねえ、そろそろ頼みましょう?」
呼ばれたボーイが静かに深紅のワインを注ぐ。それを静かにゆらめかしてから、冥は御剣とグラスを触れあわせた。
一口含んで飲み下してから、冥は呟くように、
「ここの部屋は、とってあるのよね?」
「え」
「さっき、何か欲しいものがあれば、って言ったでしょう。そういうのは駄目なの?」
挑戦的な瞳。
御剣はほっと安堵のため息をついた。
「わかった。君の要望に応えて、いい夜にしよう」
アルコールの勢いもあるのか、冥は前回より積極的だった。
御剣は夢中になった。
敏感になっているのか、喘ぎもずっと甘い。愛撫の掌に力をこめると、痛みでない悲鳴をあげる。その強弱で変わる冥の反応に、御剣も燃え上がった。足を押し開き、のばした舌で一番感じる部分をなぞる。それだけで冥は達してしまったらしく、御剣が分け入り、腰をすすめると、熱くきつく締めつけられた。
こんなに感じてくれるのか、冥。
だめだ。
冥が二度とイヤだといっても、今晩だけで終わらせることは到底できない。
離さない。
ずっと、大切にする……。
激情は去り、酔いも醒め、冥もうとうとしはじめた。
御剣は彼女を静かに抱き寄せながら、低く呟く。
「愛しい……」
「御剣」
突然冥は、ぱっちりと目を開いた。
「ひとつきいてもいいかしら」
「何だ?」
「貴方のその気持ちから、正義感と同情をひいたら、何が残るの?」
冥の髪を撫でていた御剣の手が止まった。冥は畳みかける。
「私はあなたの父親の仇の娘。なぜ、そんな女を選ぼうとするの」
「冥」
御剣は冥の瞳をまともに見返した。
それは彼も、とうの昔から覚悟していた質問だった。
直接答えるかわりに、御剣はこう言った。
「それなら私もきこう。君の気持ちから、意地と憧れをひいたら何が残る」
冥は目を伏せた。
「意地悪な質問ね」
そう返事をしながら、冥はこの不意打ちに動揺していた。
私の気持ちは、単純な憧れ? 意地?
そんなに簡単なもの?
でも待って。
それなら御剣の気持ちも、単なる正義感や同情では割り切れないということ?
それって、それって。
「御剣。私……」
すっかり言葉のなくなった冥の頬に触れ、御剣は低く囁いた。
「私は四角四面というか、こういったことがとても苦手だ。本当は、君にふさわしい男でないのかもしれない。君は成長した。検事としても、人としてもだ。今度は私が置いていかれる番かもしれない。それでも……いいのか?」
こくん、とうなずいた冥に、御剣は静かに口づける。
その口唇が離れた瞬間に、気持ちをのせた言葉が冥へ滑り込んだ。
愛している、と。
* * *
「ねえねえナルホドくん」
「?」
連れだって裁判所へ来た二人だが、成歩堂龍一は弁護の準備があるために今まで綾里真宵とは別行動、控え室で再会してのちの耳打ちだった。彼女はあくまで助手、弁護士ではないのだから。
実家へ戻れば、由緒ある綾里流本家の娘として下にもおかれない存在であり、儲からない弁護士事務所の助手など、たまにでもやる必要などこれっぽっちもないのだ。だが、成歩堂は彼女の血をわけた姉が指導した新人弁護士であり、彼女を動かしているのは一種の使命感だったりもする。行く末を見守りたい。というか、どうにもほうっておけないのだ。
「さっき、狩魔検事に会っちゃった。ナルホドくんは見た?」
「見たよ。今日の相手は違う検事だけどね」
「すごくキレイになったよねー。もともとキレイだったけど、ホント、同い年とは思えないほど大人っぽいよ」
「それは前からだろ?」
「んー、違うんだなー。わかってないなあ、ナルホドくん」
「別にいいよ、わからなくても」
成歩堂は公判用資料ファイルに顔を埋めて、
「……美人ならなんでもいいって訳じゃないし」
「あ、もしかしてバカにしてるね、ナルホドくん」
「違うよ、その反対」
「えー?」
ふくれっ面の真宵に、成歩堂は首をすくめる。春美ちゃんが、上京してくるたびにホテル・バンドーで式場を予約するって息まいてるけど、それが必要なのは当分先みたいだよ、もしくは無期限延長かもしれないよ、と。
それならそれでいいかもしれない。このひたむきな彼女がこのままでいてくれるなら。綾里流をついで幸せに暮らしていってくれるなら。
成歩堂が軽く咳払いし、「真宵ちゃんは真宵ちゃんだよ」と言おうとした瞬間、真宵が先に立って歩き出した。
「でも別に、うらやましい訳じゃ、ないんだよ?」
ニッコリ笑って振り返った彼女を見て、成歩堂はうなずいた。
「じゃあ行こうか」
「うん。今日も絶対勝ってよ、ナルホドくん」
「もちろん。依頼人の無実を信じてるからね。千尋さんの力を借りなくても大丈夫なように、ちゃんと準備してきたよ」
「信じてるからね?」
「まあ、いざという時には頼むよ」
「んもー! これだからナルホドくんはー!」
それでもたぶん、真宵がキレイになる日も、間近だ。
『ライバル』
「帰りましょう。電車がなくなってしまう」
「始発なら、あと数時間で動き出す。歩いてだって帰れない距離ではない」
「御剣」
冥は相手の広い胸を押し返しながら、
「朝帰りは噂になってしまうわ。そういうのは嫌なの」
「君も、事件の捜査で徹夜することだって稀ではないだろう」
「でも」
御剣は相手のまろやかな腰を引き寄せながら、
「本当は噂にしたいのだ」
「え」
「ライバルを一人でも減らしたい。二人の間にだれも割り込む隙はないのだと、一人でも多くの人間に知らせたい」
熱い囁き。
「私が、割り込ませたりしないわ」
そう言いながら、情熱的な口吻が応えて。
夜が更けゆく。
(2003.1脱稿/初出・恋人と時限爆弾『五月の薔薇』2003.3発行)
《よろずパロディのページ》へ戻る
All stories written by Narihara Akira
http://www5f.biglobe.ne.jp/~Narisama/
|