『五年前には』

1.その日

「誰っ?」
鋭い声が、暖かな午後の静寂を切り裂く。
振り向いた少女の手が握りしめているのは、丸められた革の鞭。
背後にある大学法医学室のガラス棚に並べられた幾多のものよりは物騒の度合いは低いにしろ、その光景は実に異様だった。
「どうした、メイ」
「御剣……怜侍」
声だけは緩んだものの、強い視線とピンと伸びた背筋に、露骨な警戒がにじんでいる。
それでもなお美しい少女だ。ハーフだからというだけでない、二親の容貌の良いところだけが現れている。
狩魔冥、十三歳。
短く切った銀いろの髪、青みがかった灰いろの瞳。きめの細かい滑らかな頬。細い鼻梁、薄い口唇の間からのぞく皓歯。左目の下にある小さなほくろが、清潔な美貌にあわい艶をそえている。袖のふくらんだブラウスの上にきりっとしたベストをかさね、襟を大きなリボンで結んだ姿は、お仕着せの学生服に似て、いささか彼女を子供っぽくもみせている。
「なんでもないわ」
そういいながら、冥は御剣をにらんだまま後じさりしている。
「他に誰もいないのか」
「そうよ」
ふと、若い男と密室に二人きりなのが嫌なのだろうか、と御剣怜侍は思った。
彼もまだ二十歳だ。十二歳で渡米、英才教育と特別な研修の後、十八歳で検事としてデビュー。仕事柄、大人らしく物堅くふるまってはいるものの、所詮若い男である。そして女の十三歳といえば、大人の女とさしてかわりはしない。ましてここはアメリカ、まして冥は天才少女だ。御剣と同様、幼少時から英才教育を受け、この夏やはり特例として、この若さで検事としてデビューすることが決まっている。むしろ御剣は、この妹弟子に押され気味な自分を感じていた。
それなのに、今日の彼女はなんだ。
ついこの間、ここで二人で話した。その時はこんな素振りはみせなかったのに。
何があった?
御剣は嫌な予感にとらわれつつ、視線を窓の外へ流した。
「それならカフェテリアへ行こう。話したいことがある」
「私を探していたの」
「そうだ」
「なら、ここで話しましょう」
「メイ?」
「誰も私がここにいるとは思っていないから。話したいことならここで話して」
鞭を握りしめる手には、まだ力がこもっている。
「そうか」
だが、そのまま御剣は次の言葉を失ってしまった。
二人は二人ともたたずんだまま、同じ窓の外を見つめている。
彼らの学舎を。
そして、そこに居ない、あの男を。

2.一週間前

「ここは、気晴らしに適した場所ではないぞ」
「御剣怜侍」
ちょうど一週間前のその日、彼女の進路が決定したことを知り、祝いの言葉を言おうと、冥を探していた。彼女の教授の一人が、気晴らしに散歩をしてくると言っていた、という言葉を頼りに、大学構内を探した。ようやく彼女を見つけた場所は、法医学室――しかも、犯罪に使われるあらゆる凶器を並べた、最奧の陳列室だった。ニュー・スコットランド・ヤードにある犯罪博物館にも負けないその部屋は、御剣自身も時々見学にきたことがあるが、薄暗くなくとも正直気味が悪い。普通の少女が憩いを求めて入る場所ではない。
しかし冥はうっすら微笑んでみせる。
「私は落ち着くわ。過去を知ることで、未来に待ち受けている事件の糸口がつかめるかもしれない。こういうものが直視できなければ、検事など目指しはしない。何を凶器に使ったかで、犯人像が絞り込めるケースだってあるのだから」
「それはそうだが」
「もっと年齢にふさわしい世界を知らないと、視野が狭くなるとでもいうの? どんな人間だって、そんなに幅広い視野を一朝一夕に得られるものではないわ。おいおい身につけていくつもりよ」
隙のない返事だが、その指先はブラウスについた翡翠色のカフスボタンを神経質そうにいじっている。普段は決してこんな様子をみせないので、どれだけ彼女がプレッシャーを感じているか、よくわかる。十三歳という年齢は、自分の無謀さを知らない頃でもある。だが、不安にならない方がおかしいのだ。検事の仕事は過酷だ。駆け出しの御剣でもそれをよく知っている。彼女はそれに加えて、まだ子供のくせに、女のくせになぜ検事など目指した、などとも陰口を叩かれていることだろう。いくら父親があの狩魔豪とはいえ、ここは日本ではない。いくら名検事の娘として、その息のかかった大学、息のかかった教授陣、司法関係者に囲まれて教育を受けているとはいえ、世間の騒音から完全に守られている訳ではない。検事として仕事をすることは彼女が選んだことで、永遠に現実から逃れることはできないのだから、仕方ないといえば仕方がないが。
御剣は憂いを秘めた眼差しを、冥からそっとはずした。
「憩いのひとときの邪魔をして悪かったな」
「そうね。あなたは何をしに来たの?」
「いや、研修が来週にも終わるという話をきいたのでな」
「それで?」
「それで、とは」
「ご親切に、検事デビューのノウハウを教えて下さるとでも? それとも進路をもう一度考え直したらどうだという、ご忠告?」
その声のあまりの皮肉っぽさに、御剣は思わずたしなめる声を出した。
「メイ」
「御剣怜侍。知っているわよ。日本では、ラストネームを呼び捨てにするのは、よほど親しい間柄だけなのだってことを」
「狩魔冥。私はただ、祝いの言葉を言いにきただけだ。念願がかなうのは嬉しいことだろう」
「それはね」
素っ気ないというより、怒っているようにも見える。
「私もお祝いを言わなければならないのかもしれないわね。一人前の男性になったのですものね」
「なに?」
「悪所へ行ってきたのでしょう……あの人と」
御剣の顔は青ざめた。
冥はこう思っている。
御剣が娼館で女を抱いてきた、と。
しかも、狩魔豪に連れられて。
「狩魔冥。君は誤解をしている」
「隠さなくてもいいのに」
冥はフン、と鼻を鳴らした。
「私はパパがどんな人か知ってる。おまえももう二十歳だ、女の扱いを知っておく必要がある、そういいだしたに決まってる。被告の色香に迷ったりしないよう、童貞は卒業させておいてやろう……完璧主義のあの人が、それぐらいの手を回さない方がおかしいもの」
耳を塞ぎたいのを我慢して、御剣は冷静に応える。
「その台詞をその耳で聞いた訳ではあるまい」
「あら、自信ありげね。根拠は何なのかしら」
挑むようなその眼差し。
「この耳で聞かなくても入ってくる情報はあってよ。それにあなた、いつものコロンをつけていないわ。するのはシャボンの匂いだけ」
御剣は静かに首を振った。
「それでも、違うものは違うのだ」
「あくまで否認するのね。構わないのに。犯罪ではないのだもの」
「信じなくても構わない。だが、君が想像しているようなことはなかった」
「そう?」
ようやく冥の視線から敵意が消える。
なんとか信じてもらえたか。
しかし、御剣の表情は険しいままだ。
微笑むことなどできない。
とても本当のことは、この少女には言えない。決して言ってはならない。

* * *

冥の言うとおり、狩魔豪はこう言った。
「おまえも二十歳だ、そろそろ女の扱いを知っておく必要がある」
それは仕事が一区切りつき、午後をたまの休みにあてようとした青年が言われる言葉ではなかった。アメリカに来ても諸事で忙しい狩魔豪にとっては、それは充分な余裕の時間に見えたのだろうが。
「私は……」
「わかっている。意中の女がいないのだろう? 気がすすまんのはわかる。だが、まったく知らないですませられることではないからな」
断定的な口調。それが単なる説教とは違うところが、狩真豪の怖いところだ。普通の男なら、御剣が女を知っているかどうかを正確に知らない。だが、この男は違う。彼がまだ女の肌身を味わったことがないことについて、調べがついているのだ。御剣が言葉を失っていると、狩魔はいつもの不敵な笑みを浮かべ、
「だからといって適当な女をあてがうつもりはない。商売女としたところで何が身につく訳でもない、むしろおまえの評判が落ちるだけだ。それでも正しいテクニックを知っておけば、イザというとき役に立つ。だからおまえは、見ていれば良いのだ」
「見る……とは?」
「文字通りだ。黙って見ていろ」
そのまま御剣が連れていかれたのは、狩魔の別荘だった。海に近いそこは、瀟洒というよりこじんまりと落ち着いた場所で、御剣は意外に感じた。
「妻の趣味だ」
あ、あの人の、と御剣は声を出して納得した。
狩魔豪には三十近く年の離れたアメリカ人の妻がいる。彼は十数年前に外務省関係の仕事を請け負っており、出張した時に彼女と知り合って再婚を決めたのだそうで、現在は日米別居結婚のような形をとっている。この妻がしっとりと落ち着いた美女で、御剣も寄宿舎に入るまでは世話になった。自分と年が十幾つしか違わないものの、母親の味を知らない御剣は、この人を母と呼べたらいいのに、と思う瞬間もあった。そうか、あの人の趣味ならばわかる。好奇心もわいて、狩魔に招き入れられた時にはそれまでの不安感が薄れていた。そう、あの小部屋を見せられるまでは。
「ここを見ろ」
書斎に通され、その本棚の前に立った狩魔豪は、その一隅を片手で押した。
「少しコツがいるが、ここが空く。そして、ひと一人が入れる隙き間ができるのだ」
「賊が入ってきた時に隠れる場所、ですか」
アメリカの裕福な家庭などでは、シェルターが普通に準備されているという話をきく。検事の仕事の性質上、命を狙われることもあるだろう、と御剣はまったく不自然に思わなかった。仰天したのは、豪の含み笑いと、その後に続いた台詞のためだった。
「これは他人のカラミを透き見するための小部屋だ。隣は寝室だ。そして寝室にいる者は、見られるようになっているとはわからない」
つまり狩魔豪は、誰かを追い落とすためにここへ人を呼び、誘惑してその濡れ場を盗撮したり、もしくは直接その現場を一番見せてはならない人間に見せたりしていたのだった。大きな肖像画などが飾られていても不自然でない趣のある別荘だ、絵の一つの一部が反射鏡になっていて、そこから相手に気付かれずにのぞき見ができるなどという、スパイ映画めいたことが行われるとは、想像しえないのだろう。
御剣はその小部屋に押し込まれた。
「いったい……何を見せようと」
「今、説明したとおりだ。窃視が悪い癖になるといかんから、これは一度だけだ。だが、基本的なことはすべて行うから、手順や攻め方は覚えておけ。目をそらすな。もし粗相するのが不安なら、準備をしておくのだな。防音は充分だが、あまり声は出すな」
その掌にゴムを握らされ、御剣は薄暗闇に取り残された。
清潔に整えられたベッドがガラス越しに見える。
嫌な予感が御剣の全身を震わせた。
なんだ。
いったい何が始まろうとしているのだ。
狩魔豪は何をしようと。いや、誰を。
《商売女としたところで何が身につく訳でもない》
狩魔の台詞の謎の解答が、美しい女性となって御剣の前に現れた。
「そんな……」
金で買うのではない女。しかし性戯の手本を見せるに充分な、成熟した女。御剣にみせても構わない女で、狩魔豪のいいなりになる女。
そう、予想がついてしかるべきだったのだ。その条件に一番あてはまるひと、それは彼女――御剣があわく慕っていた、年上のひと。
寝室の声が小部屋に入り込んできた。おそらく音を拾う装置があって拡声しているのだろう。しとやかな人の優しい声が、甘く、そして淫らなものにかわっていく。
なぜ、あの美しい女性が狩魔豪と結婚したのか、今の御剣には容易に理解できた。堂々たる物腰。断定的な声。隙のない流れるような動作。的確な攻め。言葉と身体の両方を巧みにつかった誘導。彼女は狩魔豪の獲物なのだ。出会った時から今まで、身も心も完全に支配されている。性的にというだけでない、文字通りあの男の「虜」なのだ。
御剣は、恐怖の眼差しでそれを見ていた。目をそらすことができなかった。そして何より恐ろしいことに、狩魔豪が妻の腰を深く貫いた瞬間、彼も逐情していた。
ああ。
私は、汚れてしまった……!

終わった後、狩魔は動かなくなった妻を置いて、一足早く寝室を出た。御剣は小部屋から出された。
「若いな」
腰くだけになっている御剣をうすら笑うと、寝室をチラ、とのぞき込み、
「あれは眠ってしまったようだ。簡単に後始末をして、いま来たふりをしろ。出ていくより気付かれにくいだろうからな」
御剣は声もなくうなずき、汚れた箇所だけを寝室から遠いシャワー室に行って静かに洗い清め、服装を整えた。
鏡をのぞくと、目の回りが青ずみ落ちくぼんでいた。元々いかめしい顔立ちが更に若さを失っていた。こんな顔で誰に会えるものか。まるで人ひとり殺してきたかのようだ。
しかし彼は別荘の裏手から回って、玄関の呼び鈴を鳴らした。

身仕舞いを整えて出てきたひとは、優しい笑顔で青年を迎えた。
「あら、ミツルギさん」
狩魔豪はなにくわぬ顔で言葉を添える。
「公判が一区切りついたのでここへ呼んだのだ。おまえがもてなしてやれ」
「わかりました。本当にお久しぶりね、お元気でした?」
熱いコーヒーや素朴な焼き菓子をすすめられ、御剣は無表情でそれを口にし、飲み下した。通りいっぺんでも会話をしなければ。彼の口唇は自動的に動いた。
「ご無沙汰で申し訳ありませんでした。検事も二年目ともなると、少し難しい事件も担当するようになり、忙しかったのです」
「いいのよ、そんなことお気になさらないで。それより、あまり無理をしないで。若さを過信して休息をとらないでいると、万全の状態で裁判に臨めませんもの」
「ええ。気をつけるようにしています」
狩魔豪はさりげなく席をはずしていた。御剣は自分が何をしゃべっているのかわからぬまま、口を動かし続けていた。
犯されたのは、目の前にいる美しい女性ではない。
私だ。
狩魔豪、あなたはなんと恐ろしい人だ。
もちろん、ただ者でないことはよく知っている、数十年に渡る検事生活で無敗、その生活全般にいたって隙がないというだけでも一筋縄ではいかない男だ。だが、それだけではない。あの人は、周囲にいる者すべてを従わせなければ満足できないのだ。
当然、この私も。
性の手ほどきと称して妻との絡みを見せつけたのは、まず淡い恋慕を断ち切らせるためだろう。見られて燃えた訳ではあるまい、みしろ見る者を燃え立たせるテクニックを使ったはずだ。そうすることで御剣を二重に屈服させ、なおかつそんな非道徳的な指示に服従させることによって、精神的な支配を強化したのだ。
なぶられた。
しかし、そうとわかっていても、あの人を憎むことができないのは何故だ。
もちろん、恩義を感じている自分を指さす者はいないだろう。実の父が殺され、親戚が引き取るのをためらった御剣をひきとり、親身に教育したのは彼だ。狩魔豪は非常に頼もしい人物でもある。敵にしたらひとたまりもない、だが味方であればこれ以上心強い男はいないのだ。
だがしかし。
「ミツルギさん?」
「え、あ……そろそろおいとましようと思います」
いつしか無理な会話がとぎれていたのだった。御剣は立ち上がった。
「そう。それでは玄関までお見送りするわ」
「はい」
別れ際、御剣はさらに打ちのめされた。
かの人の翡翠いろの瞳が、瞬間かげって、
「ごめんなさい、気付かなくて。あの人……」
低く耳打ちされた言葉と、奧へチラ、と走った視線が決定打だった。
この人は、知っていて夫に協力したのだ。
慚愧の念が御剣を貫いた。
この人はすべて知っているのだ。目の前の青年が、けがらわしい、と拒否してよかった他人の濡れ場から逃げ出さず、それどころか欲情し、ノコノコとお茶に呼ばれてへつらったということ、その何もかもすべて見抜かれているのだ。このひとは、決して誰にもそれを洩らすまいが。
「もうお目にかかれません」
「ミツルギさん」
「わかっています、貴女は決して悪くない。悪いのは私だ。……さようなら」
そう、見たくないのは他人の醜態ではない。
自分のこの腐った魂。得体のしれぬ心の闇。
いつまで私は、それに目を背け続けていられるだろうか。
逃げるように御剣は別荘を去り、あてがわれている寮の部屋で懊悩した。
その忌まわしさが一瞬とぎれたのは、妹弟子の進路が定まったという喜ばしいニュースを、先輩検事から知らされた瞬間だった。

* * *

「まあいいわ。あなたがどこで何をしようと、私には口を挟む権利はないのだし」
冥はツン、と鼻をそらした。
「だから、君が想像しているようなことは」
「わかったわ。異議を認めてあげる」
冥は静かにうなずく。御剣は安堵しつつも、憂鬱な表情を消せなかった。そう、むしろ彼女の考えていることの方がまだ健全だ。むしろ想像させたままでいた方がいいのかもしれない。醜い真相だけは知らせたくない。自分の母親が、自分の父が、そして兄弟子がそんなことを……思春期の少女でなくても、知りたいことでは決してあるまい。
すると冥の方から話題を変えてきた。
「御剣怜侍。あなたはどうして検事の道を選んだの」
「それは」
「あの人に世話になったから、だけではないのでしょう。やはり、犯罪者を許さないという気持ちがあるからでしょう?」
凛とした声にうたれて御剣は眉を開いた。
「父は弁護士だった。とても尊敬していた。しかし、どんなに優秀であっても、弁護士では憎むべき犯罪を裁くことができない。だから、父の遺志を継ぐには、検事になる方が良いと思ったのだ」
「そう」
カフスボタンのゆるみを直すふりをしながら、冥はふと視線をそらした。
「……羨ましいわね」
「?」
何がだ?
「私もパパを尊敬してる。あの人のようになりたいと思っているの」
「君なら良い検事になれる」
「そう。お世辞でもありがたくうけとっておくわ」
御剣にはわからない。
十三歳の少女が父を尊敬し、その仕事につきたいと思っていて、実際道はひらかれたというのに、自分の何をうらやむというのだろう。冥の純粋さは、悪を憎む検事向きだ。兄弟子としては、微力ながら応援してやりたいと思う。
しかし、冥の口唇には曖昧な笑みが浮かんでいた。
「御剣怜侍」
「なんだ」
「私の初公判の日には見にいらっしゃい。狩魔の《完璧主義》を体現する、輝かしい第一歩の日をね」
「ああ。約束しよう」
いっそ指切りでもするか、頭でも撫でてやりたいような衝動にかられたが、子供扱いされるのは嫌だろう、と御剣は身体をひいた。
私は汚れている。冥だけはあんな汚辱にまみれないように――そう祈りながら、生硬な少女の頬を惜しむように見つめ、彼は部屋を出た。
そう、それが、ほんの一週間ほど前のこと。

3.ふたたびその日

「カフェテリアへ行こう。話したいことがある」
そうもちかけた御剣に、
「ここで話しましょう、誰も私がここにいるとは思っていないから」
謎の言葉で返す冥の口唇は微かに震えている。しかもその掌に革の鞭を握りこんでいるとなれば、ただごとではない。
互いに視線をあわせぬようにしてから、無言のひとときが過ぎ。
先に口を開いたのは冥の方だった。
「もしかして、私の初公判を見られないという知らせをもってきたのかしら」
「知っていたのか」
「私は狩魔豪の娘よ。あなたは狩魔豪の弟子なのよ。知らない訳がないでしょう」
「それなら話は早いが」
今年から、日本の裁判の仕組みが大幅に変更になるという。増加する犯罪処理をスムーズにする施策が発表され、たった三度の簡易法廷で有罪無罪を決定すると、司法制度が改変されたのだ。もちろん有罪になった被告は、今までどおり上訴できる。しかし、今までのように、控訴されれば九十九パーセント有罪となった日本の刑事裁判が激変する。優秀な若い検事がより多く必要とされる。アメリカの俊才の力を借りたいと、日本の検察庁は御剣に声をかけてきた。狩魔豪は、この際だ、日本に連れていこう、という。今まで他人まかせにしてきたが、今後は直接、私が検事の仕事をおおいに仕込んでやると。
「行くのでしょう、御剣怜侍」
「ああ」
「日本では、十三歳で検事をつとめることは認められていないわね?」
「そうだな」
今までなら、二十歳の御剣でも無理だったのだが、今回の改正で、資格を満たした者なら十八歳から検事として活躍できるようになった。もちろん十代の検事が、重大事件に関わらせてはもらえる訳ではない。ただ、スタート地点を若くすれば、全体的に司法組織が若返り活性化する、というのが改革の大きな理由なのだ。
冥を置いていくのは、正直忍びない。長く一緒に住んだ訳ではないが、それでも彼女は可愛い妹のようなものだ。初めて会った時など、まだ本当に幼な子だった。十代で検事デビューした御剣に対する風あたりは決して弱くなかった。いくら狩魔検事の実の娘とはいえ、冥にもこれから逆風が吹きつけるだろう。御剣はたいした力を持っている訳ではない、風よけになれないかもしれない。だが、側にいることも愚痴をきくこともできる。特例の先輩として、冥の支えになれたろう。
だがしかし。
「それでは、約束が守れなくても仕方がないわね」
冥の灰いろの瞳は、すこしも潤みをみせていない。
「狩魔の《完璧主義》を汚さないよう、頑張ってらっしゃい。私はアメリカで無敗記録を更新する。あなたには負けないわ」
強い語気。これ以上餞別の言葉はない、とでもいうような。
しかし御剣はそこで会話を終える気はなかった。
「狩魔冥。ひとつだけ尋ねても構わないか」
「なあに?」
「その鞭は、なんのまじないだ」
パシッ、と音がして、突然鞭が宙を舞った。御剣が思わず身を引くと、きゅっと絞るように持ち替えて、冥は胸を張った。
「これはパパが……おまえはそれを持っていて構わない、たとえ法廷でも、と言ったのよ。許されるよう、手配も済んでいるわ」
「狩魔検事が?」
御剣は眉を寄せた。
たしかに十三歳の少女が検事席に立つ姿は、あまり重みのあるものではない。いくら彼女がハーフで大人びてみえるとはいえ、女だからとなめてかかってくる者もあるだろう。ならば無法者を黙らせるための小道具として、鞭を使うというのだろうか。しかし、美少女に鞭では、時代がかった猛獣使いのようで、かえって滑稽ではないのか。
「なにがあった、狩魔冥」
「敏腕検事なら、自白させてごらんなさいな」
御剣は冥の瞳を見つめながら、じっと考え込んだ。
自分の目の前にいる少女は、推理のヒントを自分にいくつも与えている。
そう、今の彼女はあまりに不自然だ。
御剣に見せる妙なおびえ。
謎の台詞(ここは彼女の憩いの場なのに、なぜ「誰も私がここにいるとは思っていない」のか?)。
鞭の所持。
そして、その所持を、あの狩魔豪が公の場にまで許したという。
待て。
まさか、そんな。
御剣の喉は知らず鳴った。
「一昨日、この学舎から不名誉な者が出たな。犯罪学の教授でありながら、自分が性犯罪に手を染めていた者が」
若い女性を何人もその毒牙にかけ、無惨にバラして埋めていた。犯罪学者としては優秀な男で、それで最近大学へ呼ばれてきた訳だが、授業の性質上、若い女性の少ない学び舎ゆえ、彼はその狩りをもっぱら学外で行っていた。その遺体の一つが自宅庭から発見されたのだ。
「担当検事は誰になる予定なんだ」
「アメリカでの最後の裁判にすると言ってたわ、パパは。あの男は間違いなく死刑ね」
「冥、まさか君は」
さっそく縛されたその教授を、御剣も見た。この暖かいのに、シャツの襟を深く立てていて、妙に思った。キスマークがついているのでもあるまいし、なぜ首筋を隠そうとするのかと。
だがあそこに、なんらかの痕があったのだとしたら。
指の痕でなく、それが細い、まるで鞭を使ったような締め痕であったとしたら。
しかもそれが、たかが十三の小娘に反撃されてできた、ふがいなさの証拠だとしたら?
御剣の推理はこうだ――法医学室もあの教授のテリトリーの一つだ、この部屋で物思いにふけっていた冥を、あの男が襲うことは充分考えられる。通常、人は自分のテリトリーで犯罪を犯さないと思われているが、それは違うし、自宅の庭に遺体を持ち帰って埋めるなどというのは、犯罪に慣れてすぎてすでに何もかもずさんになっていた良い証拠だ。当然冥は反撃し、棚にあった古い鞭を武器にして(もちろん鞭でなくとも本人のネクタイでも良い訳だが、なんにせよおそらく背後から首を絞め)、相手を失神させた。
しかし、ここは狩魔豪の息のかかった学舎、狩魔豪の息のかかった人間が集まっている場所だ。ここで不名誉な事件が起きてはならない。冥が襲われたという事実は、彼女のこれからにまったくプラスにならない。それを極秘にするため、過去の犯罪を暴いて男を追放、ついでに永久に口封じする作戦を、あの狩魔豪がとったのだとしたら。
御剣の喉はもう一度鳴った。
充分にありえることだ。
それなら冥の台詞の謎はとける。忌まわしい事件が起こった場所に、被害者の冥が戻るとは、事件を知っている人間達は誰も想像しない。そう、みな裏事情を知っているのだ。だからここへ冥をさがしにくるのは、何も気付かないでいた、間抜けな若い検事だけ――。
「何を想像しているのか知らないけれど、立証したいのなら証拠も探すことね」
冥は不敵に微笑む。
「陳列棚のガラスが、何枚か新しくなっているな」
「それで?」
「展示品も変わっている」
「入れ替えがあったのよ。それがどうかして?」
「ここには鞭は」
「あるわよ。ほら、そこに飾ってあるでしょう?」
古びた鞭が、陳列棚の隅に置かれている。
御剣は小さくため息をついた。
こんな鞭など、いくらでもあるものだ。冥がもし反撃に鞭を使ったのなら、ここには残されているまい。足がつくような証拠品を誰が残す。今、彼女が手にしているものも、当然別のものだろう。乱闘の痕跡など、消そうと思えば実に簡単なのだ。完璧主義を誇る狩魔豪でなくとも、すべて消し去るだろう。どんな父親だとて、可愛い娘が自分の牙城で傷物にされかかったと、誰に知られたいものか。万が一、冥から誘ったなどという怪しい噂など流れでもしたら大変だ。ここはとにかく、犯人を徹底的に痛めつけ、狩魔の身内に手を出したらどんな目に遭うか、周囲に思い知らせるのがむしろ普通のやり方だろう。
御剣はこれ以上何も想像はしたくなかった。何が真相だとしても看破したくなかった。
しかし。
「いくら狩魔豪の娘で、特例が認められるといっても、鞭を公判に持ち込むのはどうだろうか」
やっとそれだけ言った御剣に、冥はきっぱりと答えた。
「鞭はおまえの武器になる、ってパパが言ったの。ナイフや拳銃は、人を殺傷するものだわ。身を守るために所持していると言い張っても、殺意を持って持ち歩いていたと立証されたらおしまいよ。拳銃の所持は相手に奪われる可能性が増えて、危険度が三百パーセントあがるという統計もあるのだし。でも、鞭なら凶器ではない。もちろん使いようによっては人を殺せるけれど、相手との距離をとるもの、相手を従わせるためのものよ。法の番人を狙う不埒な輩はいつでもどこにでもいるのだから、私だってこういう護身用の小道具を、一つ持ち歩いてもよいのではなくって?」
「そうか」
汚されてはいないな……御剣は直感的にそう思った。
伊達に検事をめざしているのではない、伊達に天才少女の名をほしいままにしている訳ではない。怖い思いこそしたものの、うまく立ち回って純潔を守ったのだろう。だからこそ、おびえはみせても、この部屋に入ることができるのだ。おそらく彼女のことだ、事件の時に味わった恐怖を直視し克服するために、鞭を手にこの部屋に戻ったのだろう。そして、御剣ですら警戒する態度は、むしろ正しい。レイプ事件の被害者となった女性は、学習能力がない訳でもないのに、人気のない場所や薄暗い場所へふらふらと迷いこんでしまうことがあるという。自分の価値を見失って、必要な警戒心をなくし、第二第三の事件を誘発してしまうというのだ。もしそれが本当なら、身構えて相手に隙をみせないようにしている冥のやり方は、正しい護身術といえる。
しかし。
それでは、「怖かったろう」と抱きしめてやることもできないではないか。
もちろん、自分がいたからといって、この少女を守りきれたかどうかは怪しいものだが。
今は何を言ってもそらぞらしい――そう思った瞬間、御剣は自分でも思いもよらぬ台詞を口走っていた。
「狩魔冥。私は日本で無敗記録を更新する。君には決して負けない」
冥はフッと笑った。
「私の方がスタートがずっと早いのよ。みてらっしゃい、すぐにおいつくから」
「そうだな。楽しみだ。狩魔の《完璧主義》が見事に開花するのを楽しみにすることにしよう」
「ええ。期待していらっしゃい」
しかし、そのまま背を向けて去ろうとした御剣に、冥は思わず駆け寄った。
「どうした?」
「御剣。日本人も、カルマという言葉は、【業】を意味するのだと、知っているのでしょう?」
「業、か」
御剣はあまりそういったことは詳しくはないが、仏教用語で、因果応報を意味するのではなかったか。つまり悪いことをすれば、直接罰せられなくとも報いを受ける、といったような、運命の法則。逃れられぬ重い何かのことだ。
しかし、そんな言葉が彼女の口から飛び出すとは。
「自分の名が嫌なのか、メイ」
思春期の娘は、普通男親に反発するものだ。
だが冥は、あんなに彼の娘であることを誇りにし、公言もしている。
それなのに。
冥の口唇が、一瞬だけ歪んだ。
「……いいえ」
淡い口唇を軽く噛んで、冥は御剣を見上げた。
あなたには想像することができるかしら。
あなたは可愛がられている。
アメリカに来たら、パパは真っ先にあなたのところへ行くのだもの。
将来を嘱望されているあなたにはわからない。あの人にとって、実の娘がどんな存在なのかということ、そして、私がどんな気持ちでいるかなんてことは。

* * *

事件の一部始終をきき、狩魔豪が娘にかけた最初の言葉は、「無事で良かった」ではなかった。
「身を守るために、とっさに鞭を使ったか。よくやった。それならば、たとえこの事件が外部に漏れたとしても、何も心配いらんな。さすが狩魔の娘だ」
一瞬、冥は何を言われているかわからなかった。襲われて、部屋の広い方へ逃げたのは、もちろんその方が安全だという知識があったからだ。展示棚の一番端にあった鞭をつかんだのは、ほとんど偶然だった。というか、教授がそれをこっそり出していたのだ。もしかして、冥を縛り上げ、それを使ってあの場でなぶるつもりだったのかもしれない。だが冥はもう一つ知っていた。紐のようなものがあれば、非力な少女でも、背後から男を襲い、首を絞め失神させることができるのを。だから使い、逃げ出した。彼女の若さと身軽さが幸いした。だが、さすがにそれ以上のことに頭が回らなかった。好きでもない男に身体を触られる嫌悪。殺されるかもしれないという激しい恐怖。もし、手に触れたのがナイフならそれを使った。ピストルならそれで胸を狙った。それが狩魔の名を汚すことになるかどうかなどと、考えている余裕はなかった。
だが。
冥は襲われても、相手を殺してはならなかったのだ。イヤらしい中年教授に対して殺意があったなどということは、絶対立証されてはならないことだったのだ。
「パパ」
もし、狩魔の娘として完璧でないのなら、むしろ犯され、殺されてもよかったのだろうか――その質問を、冥は父にぶつけることができなかった。
父は笑顔をすぐに消した。
「それにしても、身元調査が不十分だったとは非常な汚点だ。あの男を許す訳にはいかん。狩魔の身内と思われてもいかん。確実に死刑になるよう、すぐに物証を固めねばな。なに、心配することはない。我が輩は狩魔豪だ。娘のおまえが指をさされることは、今後も決してない」
狩魔豪は深く腕組みをし、
「冥。初公判の日にいてはやれんが、当然の結果を期待しているからな」
「ええ、パパ」
その台詞は冥に安堵をもたらした。私は期待されている。父なしでも戦えるという信用をえている。そう、私はやれるのだ。それだけの知恵と力を持っているのだ。
「そうだな、鞭は悪くない。おまえは鞭をもつ検事として知られるようになれ。何者も寄せ付けない、無敗の検事として」
「はい、パパ」
「まあ、今回のことは、女として生まれたからには避けて通れない洗礼だ。これからもし何かあっても、誰にも言うな。それがもし漏れそうな可能性が少しでもあれば、私の耳にいれろ。鼻っぱしらの強い女を征服したいという、愚かな者は多い。だが、たとえ殺されると思っても絶対に最後まで抵抗しろ。狩魔の身内は完璧でなければならん。犯される油断など、あってはならんのだ」
ギロリと剥いた瞳で、娘を上から下まで値踏みして、
「……まあ、女だから、仕方がないがな」

やっぱり、という気持ちの方が強かった。
もちろん激しい嫌悪感が、今でも全身を震わせる。自分ですらじっくり見たことのない場所へのばされた手の感触。押しつけられた怒張した男性器。淫らな台詞、淫らな先走りの匂い。あんなものを耐えるぐらいなら舌を噛んだ方がましだと思う。
だが、殺される、と思った時、私は最後まで抵抗できるだろうか。
父は純潔を要求している訳ではない。ただ、狩魔の《完璧主義》を損なうぐらいなら死ね、と言っているだけだ。
かまいはしない。
それが私に課せられた宿命なら。
私は、所詮女と呼ばれても、一人でやれとほうっておかれても、父の【業】を引き継ぐ。
それが私の誇り。
この気持ちを、誰もわかってくれなくても――。

* * *

「……場所を、うつそう」
二人きりの沈黙に耐えられなくなった、御剣の方が先に口を開いた。
「まだ何か話があるの」
「ああ。……いや、もういい」
だが、その瞬間御剣は、少女の銀の髪の下にのぞく、翡翠いろの耳飾りに気付いた。
「そのピアスは?」
「ああ、これ?」
首を振って、冥はシャラ、と軽い音を立てた。
「これはパパが、今後は少しでも大人らしく見えた方がいいだろうって。エメラルドは誕生石だし」
「ああ」
策略家なあの人らしい――そしてこの少女は、愛情めかした搦め手の策略を知りつつも、それを唯々諾々とつけてしまうのだ。
冥は首をすくめた。
「あなただって。襟を埋めているそのスカーフは?」
「それは、言わなくてもわかっているだろう」
そう、狩魔豪検事のトレードマークである、襞を多くとったネッカチーフと同型のものをしているということは。
「わかるわ。手づから与えて、これからずっと身につけていろ、と言ったのでしょう」
やっと浮かんだ微笑みも、うっすらと皮肉めいて。
御剣はその青ずんだ瞳を、じっとのぞきこむ。
「狩魔冥」
「なに?」
「ひとつ君に、日本語を教えておこう」
「失礼ね、勉強したもの、日本語ぐらい話せるわ」
「そういう意味ではない」
御剣は、冥の滑らかな頬に視線をあてながら、
「知っているか。目の下にあるほくろを、日本では【泣きぼくろ】というのだ」
「泣きぼくろ?」
「そういう場所にあると、泣いているように見えるからだろう」
冥は御剣の感傷的な声を笑いとばすように、
「涙は女の武器などというけれど、検事の武器にはふさわしくない。私は自分の頭脳で勝利する」
「そうだな」
御剣は、ほっそりした少女の肩へ視線を落とした。
「だが、涙が頬を流れおちなくても、心が泣いている時は表情に出てしまうということも、忘れないでいるといい」
「私は、泣いてなんか」
「言ったろう。……そういう風に、見えるのだ」
その濡れてはいない頬に触れたくなる掌をひっこめて、御剣は口唇を結んだ。
「それなら」
あなただって泣きそうな顔をしているじゃないの、という言葉を飲み込んで、冥は拳を握りしめる。

逃れることもかなわぬ巨大な影が、二人を分厚く覆っていた。そう、五年前には、二人はまだ自分の道を歩き出せていなかった。
しかし、それでも立ち止まっていた訳ではない。それはどんなに暗い道の途中にいたとしても、心てらす相手がいると、もうお互いに知っていたから――。


『きぬぎぬ』

「ずいぶんと優しいのね」
冥の灰いろの瞳は、こんな時でも冷たくきらめく。
「私がはじめてだって知っていたの」
「関係ない」
御剣の声は、こんな時でもぶっきら棒だ。
「優しくするのは当たり前だ。まして自分が初めてする相手では、様子がわからん。乱暴になどできない」
「紳士なのね。それともこれも、《カンペキをもってよしとする》?」
御剣の頬が赤くなった。それを隠すように冥に背を向け、低く呟く。
「……ずっと、大切に思っていた……」
「そう」
その背にそっと、かすれた小さな囁き声がこぼれた。
「ありがとう」

(2002.12脱稿/初出・恋人と時限爆弾『秘密−かくしごと−』2002.12発行)

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