『取り戻す』

「この泥棒、ここで何してるのよ!」
その怒号が店中に響きわたった瞬間、Aはレジ脇の電話のプッシュボタンをすかさず押していた。
「あら、犯罪者はどっちかしら?」
ガチャン、と鳴る皿。
ひっくりかえる、清潔な白い箱。
それは、あたってほしくなかった予感。
知りたくなかった真相。
Aは、その場面から目を背けたかった。
だが、誰かに迷惑がかかる可能性がある、それに、客同士の喧嘩をほうっておく訳にもいかないので――。

*  *  *

その午後、全身白づくめの女性が【喫茶J】を訪れた。
きっちり詰まった襟から胸元にかけて手の込んだ刺繍がほどこされた、白い袖なしのワンピース。ウェストはきゅっとくびれ、裾はふんわりと広がっている。丸い帽子につめこまれた、艶やかな黒髪。肘まで長手袋で覆われた、ほっそりした腕。ストッキングもあわい白。ローヒールではあるものの、靴も当然のように白い。大きめの鞄も日傘も、テーブルの上に置かれたケーキの箱も。
その物腰から三十代だろうと思われるが、卵形の顔には若々しい張りがある。細い眉、すっきりとした鼻、艶やかな頬、薄い口唇――美女、といっていいだろう。この店のウェイターであるAもその美貌で有名だが、彼が西洋風であるのに対して、彼女は楚々とした和の美しさの持ち主だ。額に浮かぶ汗をハンカチで押さえる仕草も、昔の名画の女優のようで。
その客は店に入ってくると、迷わず窓際の席についた。盛夏の日差しがもっとも強く照り返す場所だ。Aが慌てて冷水をもっていくと、おかわり自由のブレンドコーヒーを頼み、ひたすら外を見つめている。
ランチタイムはすでに終了しており、他に客はいない。
外は炎天下、仕事でもなければ誰も出歩かない暑さだ。誰かと待ち合わせでもしているのだろうか。駅まで五分という立地ゆえ、この店は電車を待つ間の時間つぶしに使われることも少なくない。独特の出でたちからすると、どこかへ出かけた帰り道、ここで一息いれているだけかもしれないが。
なんにせよ、彼女の眼差しは鋭すぎた。
嫌な予感にとらわれつつ、Aはオーダーどおりのものを運んだ。伝票とは別に、小さなメモ用紙を客の前に滑らせ、低く囁く。
「もより郵便局の電話番号です。携帯電話をお持ちでなければ、店の電話がレジ脇にあります。内密のお話でしたら、次の交差点のはす向かいに電話ボックスがありますから、そちらでも」
「何の話?」
女性客は窓の外を見つめたまま、冷たい声で答えた。Aは声を低めて、
「失礼しました。ただ、この店にきて迷わずその席について、すかさずホットコーヒーを注文される方は、その後の行動パターンが決まっているので――十中八九、あそこに立っている赤いポストの」
Aは四角いポストを指し示しながら、
「一の一○番って番号のついたあのポストに、投函してはいけないものを入れてしまった人です。何か入れ忘れたとか、後悔するものを入れたとか。だから、回収業者が来る時間まで、ここで様子を見ようとなさるんです。外は暑いし、そうでなくともポスト脇にずっとつったってるのは、変な感じですしね」
客は視線を動かさない。Aはさらに声を低めて、
「だけどそれ、ダメなんです。ドラマなんかだと、その場で返してもらってたりしますけど、あれ、現実ではできないそうですよ。いろいろと悪いことに利用する人がいるので、たとえ差出人本人であることを証明できたとしても、一度投函したものはその場では返してもらえないそうなんです。所定の手続き――《取り戻し請求》とか言ったかな、郵便局の窓口にいって、免許証とか保険証をみせて、書類を書いたりなんなりしないと返してもらえないらしくて。僕自身はやったことがないので、具体的なことは知りませんが、ここで何度も大騒ぎをみてきたので……何時頃に、駅の西口の【喫茶J】前のポストに投函したもので、封筒の大きさは色はこんなですよ、って説明するといいみたいです。もちろん取り戻すのは配達される前でなきゃ駄目ですし、それに急いで連絡すれば、取り戻しの手数料を払わなくても、返してもらえたりするらしいですし」
その客はそこでやっと、Aの顔を見た。
口唇をゆがめ、吐き捨てるように、
「あなた、顔はいいけど、おツムはよろしくないのね」
「は?」
「余計なお世話、って言葉ぐらいは、知ってるでしょう」
銀盆を持ったAの手が一瞬震えた。
「いや、それはわかりますが……」
客はぴしゃりと遮った。
「わかってなんかないでしょう。見てたかどうか知らないけど、私があのポストに投函したものがあるのは事実。回収にくる人を待っているのもあってる。ポストに表示されているとおりなら、あと一時間ぐらいでとりに来るでしょう。だけど、だからといって、あのポストから取り出してもらいたいものがある訳じゃないの」
「はあ」
首をすくめるAに、客はたたみかけた。
「だいたい、いったんポストに入れたものを取り戻そうなんて、そういう人間は根本から間違ってるわね。中身をよく確かめもしないで出すなんて、たいしたものじゃないでしょう。道中を他人の手にまかせるんだから、大事なものなら、なおさらよ」
「ではなぜお客様は、業者が取りに来るのを見届けようとなさるんですか?」
「あてて、ごらんなさい」
やっと客は笑ったが、良い種類の笑いではない。Aはつつましく目を伏せて、
「お言葉をかえすようですが、大事なものは基本的にポストには投函できません。ええと、郵便法の第十七条とかで、現金、総務大臣の指定する貴金属、宝石、その他貴重品は、書留でないと出せないことになってます。だからポストでなく、郵便局の窓口に行かないと」
「私がそんなに非常識な人間に見えるの?」
客の声は、眼差しよりさらに尖った。
「現金を現金書留で出すのは、当たり前のことでしょう。私がいっているのは、大事なものなら充分神経を配りなさいということ、そう大事でもないものを、やたらに人に送りつけるな、ということよ」
「では、お客様が投函したのは当然、大事なものですね」
「もちろん。厳重に梱包してあります」
「なら、どうしてポストの前で見張っていなければいけないんです? ポストが爆発する訳でもあるまいし」
客の口の端は、さらに嫌な形につりあがった。
「私があのポストに時限爆弾でも投げ込んだとでもいうの? もし入れたら、こんな近くで見てないで、さっさと逃げます。ポストをふきとばす破壊力のあるものだったら、本当に危ないじゃないの。そんなに私を犯罪者にしたいの? ポストを見ているだけで犯罪?」
「いやそれは」
「そんなに法律うんぬん言うなら、教えてあげるわ。郵便専用の物件又は、現に郵便の用に供する物件に対し、損傷その他郵便の障害となるべき行為をした者は、これを五年以下の懲役又は五○万円以下の罰金に処する。郵便法・第七十八条よ。爆弾どころか、ケチャップを投げ込んだって、犯罪なのよ」
「いえ、ですからお客様がどうこうでなく」
「じゃあ、あなたの定義では、何がどこから犯罪なの? 言ってごらんなさいな」
Aは口をつぐんだ。
この、目立つ服装。
私を犯罪者にしたいの、等といいながら、言わなくてもいいことを淀みなくしゃべる様子。妙な知識のひけらかし。きつい問いつめ方は、怒っているのではなく、相手を誘導しようとしているようにしか思えない。
やはりこれは、嫌な予感どおり――。
Aはすかさず頭を深く下げた。
「大変失礼いたしました。お詫び申し上げます。これ以上余計な詮索はいたしませんので、どうぞ、ごゆっくり」
Aは単なるウェイターだ。いらぬ想像を話して、客を怒らせる必要はない。この人が法に触れていないというなら、なおさら余計な口をはさまぬ方がいいだろう。
じっとポストを見つめている理由など、いくらでも考えらえる。たとえば彼女の恋人がここらへんを回っている郵便回収業者という可能性だってある。思い詰めた顔をしているのは、親が二人の仲を許してくれないので、これから駆け落ちしようとしているのかもしれない。この白づくめは当然、結婚衣装のつもり――想像だけなら、どんなことでも考えられる。誰を、何を待っているのか、その可能性は無限だ。
しかし、その理由がなんであろうと、この皮肉な美女を、これ以上煽る必要はない。
依頼されてもいないことに、首をつっこむべきではない。
そう判断して、盆を抱えてAはすっと引き下がった。
「ちょっと、逃げるの?」
「いえ、そういう訳では」
「頭が悪いだけじゃなくて、腰抜けなのね」
客は挑発の台詞を吐いたが、Aに興味をなくしかけているのか、窓の外へ視線を投げる。
カウンターの奧でフライパンを動かしていた宵子が、ふと皿をひとつ、銀盆の上に載せてAに示した。
「これ、お詫びの印に、お客様にお出しして」
「え、でも」
「一口でも試食していただいて、感想をきいてもらえると嬉しいわ」
「今?」
宵子は無言でうなずいた。
この客が来るまで、手持ちぶさただったAと姉の宵子は、秋の新メニューの相談をしていた。客層の変化に対応して、古いメニューを整理しようと前々から頭を悩ませていたからだ。片田舎といっていい町だが、最近新しい路線が開通して、東京からの所要時間が短縮されたため、駅前に高級マンションが増えた。芸能人や高所得層は、こじんまりとしたこの喫茶店には来もしないが、だからといって、常連客のみ相手にしていては先がない。
「姉さん、そろそろ新しいパスタを追加するって言ってなかったっけ?」
現在、この店が扱っているパスタは、シンプルなバジリコとカルボナーラしかない。しかも若い女性向けといって、昼間の時間帯しか出さないのだ。それはともかく、どうしてトマトソース系のメニューをおかないのか、Aは常々不思議に思っていた。年輩者にはミートソースやナポリタンの方がとっつきやすいし、そういうメニューを昼も夜も出した方が効率がいいはずだ。若者向けにお洒落な感じを演出したいなら、ペスカトーレという手もある。せっかくここは海に近くて、魚介が安く手に入るんだから、と。酸味があって暑い季節でもいけるし、スープ系だから冬場もいいし、と。
だが、姉は首を振った。
「トマト系はやめておくわ。服にとんだ時、赤い染みが目立つから」
「え、たったそれだけのことなの?」
「だって、午後の仕事が控えてるOLさんや、大切な誰かと待ち合わせている女性にとっては、たったそれだけのことじゃないもの」
たとえ水だって、こぼせばシミになるじゃないか、と思いつつ、Aは姉に対してそこまでは言えないので、
「じゃあ、新メニューはどうするの」
「考えてなくもないのよ。秋だからキノコとか……和風もいいかと思って」
「そうだね……あ、いらっしゃいませ!」
会話は自動的にそこで終わった訳だが、宵子はコーヒーをいれた後、その新メニューの試作品を黙々とこしらえていたらしい。
盆の上にのっていたのは、スープスパゲティだった。たしかに数種類のキノコが入っていて、刻み海苔までかけてある。色味や香りも和風だ。
矛盾している、とAは思った。
トマトソースを嫌がる姉が、このスパゲティを、結婚式帰りのような白服の客に出す? スープや海苔が服についたらどうなる。あの客が「お腹なんか空いてません」と怒りだしたらどうする。それにこの暑さだ、いくら店内の空調がきいているとはいえ、同じ出すなら冷製パスタの方が、まだ良いんじゃないだろうか?
宵子はAの表情を読んだか、小さな声でつけくわえた。
「だって、コーヒーのお客様よ」
つまり、あの服にコーヒーがとんでも気にしない客なんだから、淡い色のスープが飛ぼうが気にしないだろう、ということらしい。
Aはおそるおそる、客に暖かい皿をもっていった。
「オーナーから、お客様に新商品の味見をしていただけたら、とのことです」
「そう。じゃ、そこにおいて」
声はあいかわらず冷たいが、置かれた皿に客は手をのばした。手袋をしたまま、銀のスプーンを取り上げる。
相変わらず窓の外をちらちら見ているが、だんだん視線が皿に落ち着いてきた。どうやらお気にめしたらしい。
「いやね、今日は本当に眩しくて」
独り言を呟くと、客は鞄の中から、薄い紫色のレンズのはまった枠なしサングラスをとりだした。さすがにこれは、どこも白くない。言い訳でなく本当に目が痛むのか、薄く涙を浮かべて何回も瞬きし、目を細めて暗い店内を見回した。
すぐ脇の壁にある絵で、その視線は止まった。
「あれは誰の絵? Aってサインが入ってるけど」
小さな木の額縁に入っているのは、大きな樹が枝を広げて、涼やかな木かげをつくっている絵だ。鉛筆で細密に描かれており、その上に、うんと薄めた青と緑とオレンジの水彩絵の具が重ねられている。
せっかくかけたサングラスをはずして絵を見つめる客に、Aはつつましく手を揃えて答えた。
「僕が描きました。色を塗ったのは姉です」
「うまいじゃない。あなた、名前はなんていうの」
「エイです」
「え?」
「本当の名前もエイです。だからそうサインしています」
「そう。お姉さんも、心得のある人ね」
姉を誉められたとたん、Aの顔はパッと明るくなった。それでも声だけは控えめに、
「心得があるかどうかはともかく、この店のレイアウトは全部、オーナーである姉の仕事ですから」
「そのようね。お店の内装とよく調和してるし。木かげに寄り添ったオレンジ色のおかげで、ほっとするわ」
「ありがとうございます」
客はそこで、軽く眉を寄せた。
「でも、色がついていることで凡庸になったともいえる。色があせたら、さらに俗っぽくなるわね。だけど」
Aの顔を見つめながら、
「これはただの風景画ではないんでしょう。それを隠すために塗ったんだわ。陰翳に、執拗なところがありすぎるから」
Aは苦笑いした。
専門家でない人間の方が往々にして鋭いらしい、と。
その絵は数年前、ある女性カウンセラーがこの店にやってきた時に描いたものだった。《バウムテスト》といって、木を描かせることで、対象者の心理をおしはかるテストなのだが、あまり絵がうますぎる人間だと、読みとるのが難しくなるらしい。実際そのカウンセラーも、これは、と驚いた絵だ。
姉という大樹の影にいる自分、を表現したつもりなので、Aは陰翳をしつこく描いた。それを見て、地面に散る光の見事さを誉めてくれた人はいるが、何の説明もなしに、そこに込められたAの感情の複雑さに気づいた者はいない。黙って色を添えてくれた、姉をのぞいては。
Aはほんのり微笑んだまま、客の問いかけが質問でなくなるまでの時間を無言で稼いだ。ただの風景画からそこまで見抜いた人間に、これ以上自分の情報を与えるのもどうかと思われたからだ。
気づいたのかどうかはわからないが、客は話を変えた。
「あなた、絵に興味はあるのよね? みるのも?」
Aは素直にうなずいた。
「ええ、まあ一応」
「神能丈治って銅版画家、ご存じ?」
「カンノウ?」
どこかで聞き覚えのある名前だが、Aはすぐに思い出せない。すると客は、鞄から手帳大の厚いノートを取りだした。いや、それはノートではなく、絵はがきをつづりあわせた、ポストカードブックだった。
「今、白銀台美術館で展覧会をやってるのよ。代表作っていったら、やっぱりこれかしらね――《女と虎》」
真珠色に輝く、美しい表紙を示す。
そこには裸に大小の宝石だけまとった女が、毛並み豊かな虎と寄り添って、ニッコリ微笑んでいる絵が印刷されていた。銅版特有の繊細な線、描かれる美女が漂わせるオリエンタルなムード、要所におかれた色彩の鮮烈さ。一度見たら忘れられまい。複製でもこれだけ美しいのだから、原画は文字通り、輝いているに違いない。
「ああ、この人のことでしたか」
神能丈治は、昭和中期の短い期間に華々しい活躍をした、職人肌の銅版画家だ。作品の美しさとハンサムなルックスで多くの女性にもてたが、実は大変な恐妻家で、有名になった後も、マネージメントをしていた典子夫人の尻にしかれっぱなしだったという。代表作《女と虎》の虎は、少々人間くさい顔をしているが、その顔が夫人にそっくりだという話が、まことしやかに囁かれている。
そういえばつい最近、彼の作品が美術番組でとりあげられていたのをAは思いだした。途中からだったので気づかなかったが、なるほどあれは、その展覧会の紹介だったのだろう。ふとTVをつけた時、年配の女性が優しい声で、自分が編んだという新しい作品集を開きながら、それぞれの絵の特徴を説明していた。それが実に心地よい声だったので、Aもついつい見てしまったのである。
その解説者の名は日取(ひとり)弘枝といい、《若き日の神能丈治のパトロンをつとめていた洋画家、日取頼通の一人娘》という説明のテロップが画面に流れていた。だが、だから当然の権利として作品集の選定に加わったのでなく、本人も絵に精通しているのが伝わってきた。
神能の作品は、和紙に線だけの絵を刷りあげた後、作者の手で丹念に水彩絵の具を重ねていく手法がとられていて、複数ある作品はそれぞれ微妙に色が違うらしい。作家の家が水害に遭い、いい状態で保存されているものが少ないので、ファンの間では非常に価値があがっているらしいことも、その番組のコメントでAは知った。
恐妻家と言われているが、妻が早く亡くなるとぱったりと創作をやめ、枯れるように死んでしまった、と二人の愛の強さについても語っていた。典子夫人は元々、日取頼通の絵の弟子で、彼の紹介で神能と結婚したので、つまり見合い結婚だった訳だが、子どもっぽい頑固者だった神能にとって、夫人は適切な保護者であったし、結ばれてからの絆は、結局他の何よりも強かったろう、と。
客は、表紙絵を手袋の指先でなぞりながら、
「あなた、本は読むのかしら。『女か虎か』はご存じ?」
Aは一瞬ムッとした。『女か虎か』は、アメリカの小説家、F・R・ストックトンの代表作で、結末の推理を読者にゆだねる《リドル・ストーリー》の例としてあまりにも有名だ。これを下敷きに書かれた作品は数しれず、だが、Aはあまり好きでない類の話だ。
それでも彼はすぐに表情を整えて、
「もちろん知っていますが、この絵があの小説の回答の一つとは思いませんでした」
――とある国で、身分の低い若者が王女に恋をし、二人は愛し合った。しかしそれが王の知るところとなり、激怒した王は、若者を独自の裁判にかけた。二つの扉のついた闘技場に若者は投げ込まれた。片方は腹を空かせた獰猛な虎が、片方には絶世の美女がいる部屋に続く扉だ。虎の扉を開ければその者は即座に食い殺されるが、美女の扉を開ければ許されるが、彼女と結婚しなければならない。王女はどちらの扉を開ければ虎がいるかを必死に調べて、事前に知った。だが、事ここに至っては、若者は殺されるか、他の女のものになるしかないのだ。そして、自分を見つめる若者に、王女は手真似で片方の扉を示した。
さて、彼女が示したのはどちらの扉だったか?
若者は果たして、どちらの扉を開いたか――?
これが『女か虎か』の概要だが、Aは常々、この話の若者を傲慢だと思っていた。
命をかける覚悟もなしに身分違いの恋をし、あげく王女に助けを求めたという話なら、そんな腰抜けは虎に食われてしまえ、と。どんな想いでいたにしろ、王女には迷惑がかかるのだ、視線すら彼女に向けるべきではない。そんな男は、美女の夫になる資格すらない。美女だっておさがりは迷惑だろう。虎もきっと、そんな腐肉は迷惑に違いない。
しかし、もし神能丈治の出した答えがこの絵というなら、悪くないとAは思った。虎も美女も若者など相手にしませんでした。なぜなら扉の向こうで美しい友情を結んでいたからです――それならそれは良い話だ。王女はいい面の皮かもしれないが、そんな男は王女から捨ててしまって、いいだろう。
客はAの表情を充分読んでから、先を続けた。
「神能は『女か虎か』で、私家版で手帳サイズの絵本を出したの。その表紙のために刷られたのが、この絵よ。当時の人気を考えると、本当は商業媒体で出されるはずだったんだろうけれど、本人の例の凝り性のせいでね、一冊一冊手塗りでの作業が許されなければ、出版社からは出したくないと言って、自分で一から十までやったらしいわ。彼の死後、こうやって一番印刷される絵になってしまったのが、皮肉といえば皮肉だけど」
Aは改めて表紙絵に視線を向けた。
「いい絵ですからね、それは仕方がないでしょう。艶っぽい題材なのに、いやらしくないですし。神能丈治が女性にモテたって話、これを見るとなぜだかよく解ります」
「何がわかるの?」
Aは、あわく輝く虎と女を見つめながら、
「女好き、っていうと言葉が悪いかもしれないんですけど、この人は女性好きでね。その好きって気持ちも、なにかしたいっていう下心じゃなくて、相手の女性を素直に尊敬している《好き》です。自分を丁重に扱ってもらって悪い気持ちのする人はいませんから、女の人は自然に神能氏が好きになっちゃう。しかも自分の中にある輝きを、こうやって画にしてもらえるんですから」
身を屈め、絵に顔を近づけて、
「この絵の虎の顔は、目のぱっちりした夫人がモデルだってきいたことがありますけど、逞しくて凛々しくて、世間知らずの夫を養う強い女性のイメージにぴったりだし、宝石をまとった美女は、虎とよりそって、この人ってちょっと困った人よね、と見る者に語りかけてくる優しさがある。きっと神能氏の愛人の一人に、そういう母性的な人がいたんでしょう」
今度は客に視線を向けて、
「それが相手を操る術だったなら嫌らしいけど、神能氏の場合、たぶん本気で、それぞれの人を大事に想っていたんじゃないかって、そんな風に思えます。僕にはとてもそんなことはできないけど、相手の女の人たちがそれでいいなら、他の人が文句をつけられることじゃないだろうって」
客の瞳は、Aの言葉を否定しなかった。
しかし、その声はまだ冷たさを残していた。
「神能は、美女の絵ばかり描いてた訳ではないのよ」
カードブックを開いて、Aに示す。
「あ、これもTVで見たことがあります。海幸彦・山幸彦の連作ですよね」
古事記や日本書紀にある、火照命(ほでりのみこと)と火遠理命(ほをりのみこと)の物語は、海彦・山彦の通り名で、あまり本を読まない子どもにも知られている。
ある日、弟の山幸は気まぐれをおこし、自分も海のものがとってみたいと兄の海幸に頼みこみ、すぐれた釣り針をむりやり借りて出かける。だが、一匹もつれないばかりか、借りた針をなくしてしまう。怒った兄は弟を許さず、代わりの針をもってきても受け取らない。途方にくれた弟は、結局海の神様に助けてもらい、兄の釣り針をとりもどす。そして弟は、自分を許さなかった兄をこらしめるため、釣り針に呪いをかけ、兄を困らせたあげくに海神の魔法の宝珠で溺れさせる話だ。
「これって二十代の頃、パトロンの日取氏に捧げられた作品ですよね。技術の冴えは感じますけど……」
それなりの勢いはあるが、絵としてはやはり、《女と虎》の方がいい。題材も題材だ。特に、溺れ苦しむ兄を描いた一枚はひどく痛々しく、この寓話ではいったい誰が悪いのかを浮き彫りにしている。そう、普通に考えれば被害者は兄の方である。弟のだらしなさを叱っただけで、子々孫々まで呪われていいのか。むしろ弟が、盗人たけだけしい、と指さされていい話だ。
「お世話になった人に送る絵じゃないかもしれませんね。僕は、山幸はあんまり好きじゃないので」
客の瞳が急に輝き出した。
「そう。あなたは山幸彦のやったこと、どこからが犯罪だと思う?」
「犯罪?」
「最初から返すつもりもなかったんだとしたら、犯罪だとは思わない?」
「何の話です?」
つい引き込まれて尋ねてしまったAに、客は絶妙のタイミングで返事をした。
「大学生の頃、私がいた文芸サークルに、お金持ちのお嬢さんがいたの。そのくせ成績優秀だからって、奨学金までもらってたわ。そうね、名前は仮に、幸子さんとでもしておきましょうか。私、彼女に、うっかりあるものを貸してしまったの。それが、神能丈治の、私家版『女と虎』。しかも百冊もない私家版の、通し番号二番のものだって」
Aが目を丸くすると、客は苦笑して、
「そんなに珍しいものだとは知らなかったの。母が集めていたレシピ集の間に、普通に本棚にさしてあったから。だからパラフィン紙でカバーはかけてあったけど、まさか雨の日にもちだしたりしたら、一発で表紙がダメになるような、そんな繊細な本とは思わなかったのよ。だからある時サークルで『女か虎か』の話が出た時も、私、なんとなくその絵本ならうちにあるわ、って話してしまったのね。そしたら、幸子さんが興味をもったの。羨ましいわ、ちょっと見てみたいから貸してっていうのね。だから気軽に貸してしまったの。……その先は、想像がつくわよね」
「返してくれなかったんですね」
「ええ。あれは母のものなの、早く返してちょうだいって、何度催促してもだめ。うるさいわね、次に会った時に返すわよ、って言い続けたあげく、彼女はサークルをやめた。又貸しした自分がバカだったと猛烈に反省したけど、後でサークル仲間に愚痴をこぼしたら、彼女に何か物を貸して、返してもらった人はひとりもいなかったことがわかったの。本やCDや画集、そんなに高価なものを貸した人はいなかったけど、実はみんな結構大事にしていたものばかり。故意に返さないんだったら、これって泥棒よね。大学を卒業してからは引っ越してしまって、すっかり音信不通。公務員試験にうかって、たしか今は総務省のお役人さまって噂をきいたわ。怖い話よねえ」
口元に手をあてて笑う。
Aは眉を寄せた。
「あの、お母さんは、どうして私家版をお持ちだったんですか」
よく気づいたわね、と客は呟き、カードブックの一番最後の一葉をAに示した。
「その答えは、この絵を見たら納得してもらえるんじゃないかしら」
それは、茶色の紙に印刷された、女性の立ち姿だった。
銅版に白い鉛筆で陰翳の描きこまれた絵で、題名は《純江〜或るモデル〜》というなんの変哲もないものだ。
しかしAは、客の言った意味がわかった。
そのモデルは、彼女と全く同じ服装をしていたからだ。
白い日傘、帽子、ワンピース、長手袋、鞄、ローヒール。持っていないのはケーキの箱ぐらいのものだ。
客は何かを懐かしむような声で、
「今では料理にしか興味のない、ただのおばあさんだけど、昔は画学生で、やっぱり日取頼通の生徒だったんですって。そんな縁で、神能丈治のモデルをやったらしいの。どうやら彼の好む顔だったみたいね。それで、大事な私家版を一冊ぽん、とくれたらしいの。《女と虎》の女の顔は、私の母のものに似ていると思わない?」
「ということは、まさか」
客は吹き出した。
「いやねえ、私の父親は別にいるわ。もう他界したけど、母とは本当に仲良しだった。だいたい、本の扱い方の雑なことでわかるでしょう。神能の方は母を好きだったかもしれないけど、母にはそのつもりはなかったわね。嫌いじゃないけど困った人、と笑っていたのよ。だから私が勝手に本を持ち出して失くした時も、叱ったりしなかったわ。これもひとつの勉強ね、って笑っただけ。ええ、母はいつも、とても優しかった」
「過去形、ですか」
「ええ。いつでも過去形になるような状態が、一ヶ月ばかり続いてるわ。いえ、もう過去形よね。見込みもないんだから」
ということは、病気か事故かはわからないが、純江さんなるこの人の母親は意識もなく、ただ寝ているだけの状態になっているということか。
客はパタン、とカードブックを閉じた。
「本当は、母が元気なうちに、『女と虎』を取り返したかった。しょっちゅう住所を変えられて、督促郵便を出しても無視されて……でも十五年ものんびりグズグズ、その気になればいつでも取り返せたはずなのに、と思うと、今さら後悔してるわ」
Aは難しい顔になった。
胸の隠しから、自前のメモ帳を取り出すと、
「すみません、お客様のおっしゃるとおり、僕は頭脳明晰という訳ではないので、一つ図を描いてみてもいいですか?」
「なんの図?」
「今までのお話をまとめると、こういうことですよね?」


                     夫
                     ‖―――――お客様
                ┌―  美女(純江)
              弟|
              子|
                ┌――虎  (神能典子)
                |   ‖
                | ┌ 青年(神能丈治)
              弟| |
               子| |パトロン
                 | |
   王(日取頼通)―――王女(弘枝)
                       ‖――――――?
                       婿

「あらあら、洋画家の大家が、娘を溺愛する暴君?」
Aにメモをつきつけられて、客は面白そうに笑った。
「そうは言いませんが、日取氏は神能氏のパトロンだったのに、娘の弘枝さんを与えずに、わざわざ自分の弟子と結婚させているんですよね。その判断は正しかったと僕も思いますが、弘枝さんの活動をみる限り、彼女は神能氏が好きだったんじゃないでしょうか。そのポストカードブックにも、監修者の名前に、弘枝さんの名前があるじゃないですか」
客の表情は急に引き締まった。
「意外に、観察力が鋭いのね」
「この図がもしあっているなら」
Aは《?》の部分を指で指し、
「幸子さんの名字は《日取》さんですよね」
「ご名答、といいたいけれど、だとしたら、なんだっていうの?」
「ここまで長々と誘導されて、ご名答と言われても嬉しくありませんが、つまり幸子さんは、あなたが妬ましかった。そう、おっしゃりたいんですよね」
Aはやれやれ、と肩をすくめて、
「そりゃそうでしょう、日取家は人脈も金も力もある、なに不自由ない金持ちで、お抱えの版画家までいたというのに、その貴重な作品は愛人の家に流出していて、その娘が無邪気に持ち出せるような保存のされ方をしている。幸子さんが文芸サークルに入ったのも、あなた目当てだったのかもしれない。他の人間の持ち物も返さなかったのは、ずぼらだったり盗癖があったりした訳じゃなく、一種のカモフラージュだったかもしれない。お役人になるような人が、そんなことをするなんて考えるのも嫌ですが、二十歳前後の娘が、私怨で友人を騙すぐらいのことは、あってもそんなに変な話じゃない。《お母さんたら、神能丈治に夢中なくせに、そんなに鷹揚に構えてるから、虎や美女にとられちゃったんじゃないの!》ぐらいの気持ちでいたかもしれない」
「あら、そんなに可愛い女とも思えなかったけど?」
Aは小さくため息をついた。
「それは僕の想像です、本当のことは知りません。それに今の話だって、お客様の話がすべて本当だという前提で成り立ってますから。それより僕がさっきからずっと気になってるのは、テーブルの上におきっぱなしの、そのケーキの箱です」
「箱が、どうかして?」
「甘い匂いがしないからです。つまりその箱には、ケーキなんか入ってない。何か別のものを入れて、持ち歩いていた。たぶんそれは、夏場のケーキの箱に入っていても、誰も怪しまないものです」
Aは、客の瞳をじっと見つめた。
「お客様は、厳重に梱包した何かを、ポストに投函したとおっしゃいました。つまりそれは、ポストに入る厚みのもの、薄い、小さなものということです。そこまでヒントを出されていて、中身が何かわからなかったら、たしかに僕のオツムはどうかしてるでしょう。幸子さんは転々と引っ越しているっていうお話でした。ここら辺は風光明媚な上に東京から近いので、ハイクラスの人が避暑にくることもあります。きっと最近は、この近所に住んでいるんですね。そして、郵便が回収されるまで、あなたがここで見張っている理由は――」
その瞬間、青いスーツ姿の女が、長い髪を振り乱して飛び込んできた。
「この泥棒、ここで何してるのよ!」
怒号が店中に響きわたった瞬間、Aはレジ脇の電話のプッシュボタンをすかさず押していた。郵便局の電話番号だ。
白い服の客は、嫣然と微笑んだ。
「あら、犯罪者はどっちかしら? 人のものを盗んでおいて、ずっと逃げ回っていた泥棒は、幸子さんでしょ」
幸子と呼ばれた、大柄なスーツの女は、
「だから返すって言ったでしょう。いい、いくら元々あんたの持ち物だとしても、貸したものを勝手に勝手に取り返したら、こっちは反対に訴えることもできるのよ!」
たぶんずっと行方を探していたのだろう、すっかり息ぎれし、額には血管が浮き出ている。
白い服の女はいっこうにたじろがない。
「望むところよ。みっともないあなたの十五年間の逃亡を、ぜんぶ人前で暴いてあげる。お母さんに振り向いて欲しくて、友達から本を盗むようなみっともない人間なんだって吹聴してあげる。いい、犯罪には時効があるかもしれないけど、無償で貸した物を取り戻すのに、時間制限はないの。貸した人間が死なない限り、請求できるのよ。痛快よね、お役人の昔の盗癖を、素人が法廷で暴露できるなんて!」
「なら、あんたを家宅侵入で訴えてやるわ! とにかくあの本を返しなさい。そんなふざけた格好して! どこに隠してるのよ!」
怒鳴り声がひどくなるほど、白服の女は冷静さを増した。
「私は家宅侵入で訴えられることはないわ。なぜなら私、白銀台の展覧会に行って、幸子さんのお母さまにお会いしたの。そして、あなたに昔、あの本をお貸ししたことを話したわ。そして、水野純江はいま危篤状態で、彼女の息のあるうちに返していただきたいので、申し訳ないのですが、娘さんのお部屋に入れていただけますかってお話して。だから、あなたのお母さまが部屋の鍵をあけて、どうぞと入れてくださったのよ。もちろんあなたのちょっとした留守を狙ったけど、盗んだのでなく受け取ったものよ。だから私のやったことは、犯罪でもなんでもないの」
「そんな話、誰が信じるもんですか! お母さんが? 嘘にきまってる。嘘つき!」
ガチャンと皿がなった。残っていたスープが、派手に白いワンピースにぶちまけられた。
ひっくりかえる、白い箱。
だが、客は平然と、
「あら、もし私が懐に隠してるとしたら、どうするつもりだったの? 今ので、一発でおしゃかよ?」
Aは、目を背けたかった。
だが、他の誰かに迷惑がかかる可能性がある上に、客同士の喧嘩をほうっておく訳にもいかない。
あの白い服の客が、どうして僕に目撃者の役をふったかしらないが、ひとつ僕にも出来ることがある。
「すみません、郵便局ですか。ちょっと前、一の一○番のポストに、氷が投げ込まれたみたいなんです。中の郵便が濡れちゃうんで、大至急開けてください。大事な本を投函したばっかりなんで、ダメになっちゃ、困るんです」
「そこのウェイター、今なんて言った!」
日取幸子が、凄い剣幕でAに向かってきた。
しかし、客はそのスーツの肩をぐっとつかんで、はなさない。
「心配することはないわ、A。厳重に梱包したと言ったでしょ。ドライアイスで冷やしてきた氷と一緒に、ビニールで二重三重に梱包したから」
Aは受話器の口元を押さえながら、
「でも、暖まったら結露して、封筒が濡れますよ。他の郵便も駄目になるかもしれない。それこそ郵便法違反で、犯罪じゃないですか」
「あの本を、濡らしたですって!」
幸子の肩から、急に力が抜けた。白い服の客はその肩から手を離し、
「ええ。まだ投函して三十分もたってないから、補修がきく段階かもしれないけど? きっといい滲みがでて、美しくなってるころじゃないかしら。あなたのお母さんは、また美しい作品が減ったって、嘆くかもしれないけど」
「嘘……私、あの本が本当に好きで……なのに……」
「ええ、よくわかる場所に飾ってあったわね。あなた、見つからないから返せない、なんて言ってたけど、やっぱり嘘だったじゃないの」
言葉を失っている幸子に、白服の客は囁くように、
「安心して。もう私を脅かす必要なんてないのよ。私、あの本をあなたにあげることにしたの。宛名にあなたの名前を書いて、ポストに投函したから。あなたの優秀な部下たちは、明日にでもあなたの家に、届けてくれるわよ」
虚ろな目で幸子は呟く。
「信じられない……物の価値もしらないくせに……あの本を駄目にするなんて……信じられない……!」
「幸子さん、こんなところでぼんやりしてるヒマがあったら、あなたこそ郵便局に電話した方がいいわよ。私宛の郵便が届かないんですけど、ポストに残っていませんかって」
その言葉をきくやいなや、幸子は店を飛び出していった。
ポストを叩きながら、携帯電話で叫んでいる姿が、道路越しに見える。
「あの、水野さま」
それまで黙っていた宵子が、カウンターから出てきた。
「着替えをお持ちではないですよね。すぐ処理すれば、染みにはならないとは思いますが、その濡れたお服のまま、店をお出になる訳にも……」
水野と呼ばれた客は、長手袋の手を振った。
「それは気にしないで。どんな服でも着こなせるのが、私の自慢なの。近所の洋品店で、着替えを探して帰ります。心配しないで。それより、ご迷惑をおかけして、本当にごめんなさい。いくら他にお客様がいなかったとはいえ、私のしたことは、美しくも正しくもなかったわ」
「いえ、うちのものが、ゆきとどきませんで……」
「それはいいの。それより、あのパスタ、美味しかったわ。ぜひ新しいメニューに加えて。母も喜ぶわ。もし万が一にも意識が戻ったら、素敵なお店に会えたって伝えます」
「ありがとうございます」
「ごちそうさま。コーヒー代と迷惑料をここにおいていきます。じゃあね」
一万円札を伝票の下に置くと、客は颯爽と店を出ていった。
窓の外では、まだわめき声が聞こえている。
「姉さん」
「なに?」
「あの人、誰?」
宵子は眉をよせた。
「まさか、Aが知らないで話しかけてるとは思わなかったわ。いくら興味がなくても、TVぐらいもうちょっと見た方がいいわよ。舞台女優の、水野ひびきじゃないの」
舞台女優はそんなにTVに出ないんじゃ、と思いつつ、Aは尋ね返した。
「水野ひびきって、誰?」
「水野純江の娘よ。まあ、そうじゃなきゃ、私も知らなかったかもしれないけど。たしかに純江さんに、あまり似てないわよね。父親似なのかしら」
「えーと、水野純江って?」
宵子はすっかりあきれたように、
「どうしちゃったのよ、A。料理研究家の、水野純江よ。パリでモデルの仕事をやりながら西洋の家庭料理を覚えて、日本に持ち帰った人じゃないの。石井好子と並んで、日本の洋食に大きな柱を一本たてた人よ。うちにも彼女のレシピ集があるでしょう。まさか、知らないなんて言わないわよね。さっき、ひびきさん本人もハッキリ言ってたでしょ。最近TVにも出なくなって、癌で入院してるって噂はきいてたけど、そんなに悪くなってたとは知らなかったから――おいたわしいこと」
「ええっ?」
言われてみれば、そんな名の料理研究家がいた気がする。やはり非常に穏やかな、そういえば、あの宝石美女の面影がなくもない――。
「娘さんのお墨付きをいただいたから、やっぱり秋の新メニューはあれにするわ。ちょっと味が濃いから、出すのを悩んでたんだけど、あれなら年寄りにも若者にもいいと思うし」
「そうか。そうだね」
Aはテーブルを片づけ始めた。幸いなことに、皿は割れていなかった。床に落ちていた空のケーキ箱をひろいあげると、ちょっと悩んでから、捨てた。
「姉さん」
「なに?」
「《女か虎か》って、やっぱり一番ひどい目にあったのは、王女様なのかな」
「そうねえ」
窓の外へ視線を投げながら、宵子は呟いた。
「王女にも女にも虎にも、それぞれ立場があって、それぞれ辛かったかもしれないわ。好きな人と結ばれなかった王女、好きな男と結ばれたけど浮気される虎、言い寄られて悪い気はしないけど、はっきりいって迷惑だった美女、って話なら、誰が一番ひどい目に遭ったか、私には決められないわね。むしろ娘さん達が、立派な大人になって仕事をしているのに、前の世代の思いをひきずってしまっているなんて、その方がよほど、いたましい気がする。失われてしまったものは、もう二度と取り戻せないのに」
「そうだね」
「A。おかわりのコーヒーが余ったの。ちょっと一服しましょうか」
「ありがとう」
カウンター越しに向かい合い、二人はそれぞれコーヒーを口に含んだ。
「そうね。私だったら、虎の立場が一番嫌かもしれないわ」
「どういう意味?」
「心配ってこと。相手が誰かも知らないのに、余計なお節介を焼こうとする、弟がね」

*文中に出てくる「郵便法」について:
2007年秋に予定されている民営化のため、順次法律の改正が行われています。「取り戻し請求」についても、作中では「電話でとりあえず受け付ける」ことができると書きましたが、詐欺や悪質ななりすまし事件が多発したため、2006年夏現在、直接請求(窓口に本人確認できるものを持参して申し出る)しかできなくなっています。今後、犯罪行為の増えないことを祈るばかりです。

(2005.11脱稿/初出・恋人と時限爆弾『彼の名はA〜取り戻す〜』2005.11)

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