『月 下』
先日、竹中半兵衛と大谷吉継が策を用いて、四国と安芸を平定した。
豊臣は凱旋の喜びに沸いた。
黒田官兵衛他、軍師と呼ばれる者をすべて投入した一種の総力戦だった。失敗すれば豊臣の戦力は大きく削られたはずで、この軍略の成功が喜びで迎えられるのは当たり前といえた。
吉継はいっとき、毛利についてみせ、半兵衛を裏切ったかのごとくに振る舞ってみせたが、彼がその場その場で、双方から身をかわしてみせることが、今回の策の要であった。毛利を討ち取ったのも吉継で、武勲を褒め称える者はあっても、咎めだてする者など、いるわけもなかった。
もちろん、三成もそうだろう。
だが。
吉継は動揺していた。
《三成は、あれを、知らぬ、であろうな?》
毛利に寝返ったと見せるため、その眼前で、吉継は半兵衛と戦ってみせた。
その時、吉継は戯れに、半兵衛にこう言った。
「賢人よ。われが去った後の三成は、どうなった? いっそ、将としてしゃんと目覚めたか?」
すると半兵衛は笑みを浮かべた。むしろ、からかうような声で、
「そうだね。その答えは、君の望む通りだと思うよ」
その時、吉継の胸に押し寄せた感情は、なんとも説明のできないものだった。
われは三成に、何を望んでおるのか。
朋友に裏切られても、すみやかに乗り越え、豊臣の左腕として迷わず進むことか。
それとも、取り乱し、恨み、泣きわめくことか。
《われは……われが望むのは……》
胸の裏側がざらめく。
われを信じて待っていよ、と言い置いてきたというのに。
三成に泣いて欲しいのか。不幸になって欲しいのか。
そう、われは、徳川が裏切った時よりも、ずっと深く苦しんで欲しいのよ。
三成……!
* * *
ある夜、三成がなかなか戻らなかったことがある。
夕刻、竹中半兵衛に呼ばれていったので、まだ用事が片付かぬのだろう、と吉継は不思議に思わなかったが、人の気配を感じて庭へ出てみると、井戸端で三成が声を殺して泣いているのを見つけた。
月のあかるい晩だった。
うつむいた白い頬からしたたり落ちる、銀の滴。
吉継はしばし、それに見とれていた。
そのうち吉継に気づいて、ハッと顔をあげた。袂から懐紙を取り出して、急いで頬を押さえる。
「やれ、どうした。賢人に叱られでもしたか」
気づかれては仕方が無いので、吉継は静かに輿を近づけていく。
喜怒哀楽を素直にあらわす男である。涙を見たことがないわけではない。だからさして心配もせずに訊いたのだが、三成は声を低くして、
「いや。半兵衛様はむしろ、いたわって下さった」
「では、なぜ泣く」
三成は顔を背けた。
「己の愚かさが許せない」
「んん?」
まだ喉に詰まった声で、
「昔、紀之介が忠告してくれたことは、すべて正しかった。私は人を見る目がない、と。あれは、豊臣の力にはなりえまい、と」
吉継は目をみはった。
ということは、徳川のことで泣いておるのか。
アレに裏切られたことが、泣くほど悔しいか。
吉継が言葉を失っていると、
「半兵衛様は、私が家康に何を話したか、それとも、教えていなかったか、ひとつずつ、優しく尋ねてくださった。もちろん、大坂覇城はたやすく破られはしない。それでも家康は、城内の秘事をいくつか知っているのだ。私のせいで」
吉継はため息をついた。
裏切りは戦国の世の常、よくある話だ。
教えた事があるにせよ、重大な秘密もさしてあるまい。
「三成、ぬし……」
どうにか慰めようと口を開いた吉継に、三成は首をふった。
「すまない、刑部。見苦しいところを見せてしまった。こうなった以上、裏切り者を斬滅する以外ない。泣いているひまなどないのに」
「そうよなァ」
「顔を洗ってから行く。じき、落ち着く」
「さよか。では、先に休んでおる」
吉継は、静かに三成に背を向けた。
ぬし、そんなにもアレに、信を置いておったか。
われに隠れて、泣かずにはおられぬほど?
三成のその泣き顔は、吉継の胸に深く沈んだ。
もし、われが裏切ったら、そのように美しい涙を、ぬしは流してくれるのか――?
* * *
「ああ、刑部、よく戻った」
厳島から帰還した吉継を前にして、三成が浮かべたのは安堵の笑顔だった。
だが、その明らかな喜びぶりが、吉継の胸を淀ませた。
なんとも目を合わせづらく、ひとこと交わした後は、二人きりになるのを避けて夜まですごした。
不在の間の報告を受け、簡単に身を清めると、吉継は早々に閨にひきとった。
三成がやってきて、気まずさが隠せないようなら、寝ているふりをするか、とさえ思っていた。
三成は、興味のないものにはまったく興味が無い男だが、裏を返せば興味のあるものしか見ていないということで、つまり、吉継の顔色は読めてしまうのだ。
のべた床に入り、本当に横になろうとした時。
「んん?」
聞き慣れた足音が近づいてきた。
そして、障子の外から、低い声。
「刑部。入ってもいいか」
吉継は反射的に返事をしていた。
「やれ、どうした。今更、遠慮せずとも」
「疲れているのだろう? もう寝るというなら、私は……」
「われが、帰れ、とゆうたら、帰るのか」
一瞬、間があいて、障子越しの三成の声は、さらに低くなった。
「帰りたくは、ない」
「明朝、われが起きるまで、そこで待つ気か」
三成は、静かに障子を開けた。
「刑部。何があった」
水底いろの瞳に見つめられて、吉継は思わず目をそらした。
「約束通り、信じて待っていた。戻ってきてくれて、嬉しい。なのに、どうしてそんな、困った顔をする」
三成は膝をつき、にじり寄ってくる。
「ぬしは、ほんに、疑うということを知らぬな」
顔を背けたまま、吉継は呟く。
「われがいっときでも、豊臣を裏切った、とは思わぬか」
「貴様になにか、後ろ暗いことがあるとでも?」
三成は首をかしげた。
「私は知っている。刑部は心から秀吉様を敬愛している。むしろ、私よりも深く強く、秀吉様の恩義に感じているはずだ。裏切りなど、あろうはずもない」
吉継はため息をついた。
「そう思われておるからこそ、歓迎されたのであろうが、われが実際、何をしてきたか、ぬし、知らぬであろ」
「己が手を血に染めるのは、もののふの常だ。何をおそれている?」
吉継はようやく三成を見返した。
「たとえば、われが、毛利と寝た、とは思わぬか?」
「策のためにか」
三成は表情を変えなかった。
「それが、楽しみのためだろうがなんだろうが、そうした方が事を進めやすいと思ってしたことなら、私にはとめようもない。情宜を通じたとしても、それを裏切りとも思わない。それとも、嫉妬してみせろということか? だが、貴様はその手で、毛利を屠ってきたのだろう」
吉継が、いらえを返さずにいると、
「だいたい、本当に寝てきたのなら、貴様はそうは言わない。色事抜きで倒したからこそ、たとえ話にするのだ」
図星だった。
「やれ、ほんに、ぬしにはかなわぬ」
吉継は苦笑した。
なんという、迷いのなさ。
あまりにも三成らしい。
つまらぬ淀みを語ろうとも、一刀両断に斬り捨てる。
この濁りのなさは、たしかに美点であるもかもしれない。
「実はな。賢人に、われの留守の間、三成はしゃんとしておるか、と戯れに訊いてみたのよ」
突然、三成の瞳が泳いだ。
「半兵衛様は、なんと……?」
吉継はふと、三成をからかいたくなった。
「昼のうちはとり澄ましておるが、夜は毎晩、着物をかぶって、さびしい、とひとりで泣いておる、と」
「半兵衛、様」
三成の声は震えていた。
どうやら、今度はこちらが図星をさしたようだ。
もちろん、半兵衛がそういったわけではない。
吉継の望みとしては、昼間から取り乱されても困るが、だからといって、吉継なしで平気で夜を過ごせるというのも、癪にさわるわけで。
「刑部は私を、軽蔑しているのか」
「んん?」
「信じて待っていよ、といわれたのに、子どものように泣いていたから」
「いや」
吉継は目を伏せた。
「ぬしは元々、泣き虫ゆえ」
「刑部?」
「徳川がおらぬぐらいで、ぬし、泣くであろ。あれでは、左近が怪我でもしたら、それこそ、大泣きするのではないかと」
「違う」
三成は吉継の膝に掌をおいた。
「貴様を想って流すものは、他とは違う」
「三成」
「私の誠を疑っているのか、刑部」
「それは」
三成は吉継を抱きすくめた。
耳を甘噛みされて、吉継は、びくりと身を震わせた。
「貴様が欲しくてたまらない。貴様でなくては厭だ。何度そう囁けば、信じてくれる」
三成の身体は熱かった。その言葉通りに。
「ぬしを、疑って、など」
声がかすれた。
一番大事に思ってくれなければ厭よ、と思っているのは。
今このときも、隅々まで慈しんで欲しい、と肌を疼かせているのは。
われよ。
われだけが、三成の幸で、ありたくて……!
羞恥に身をすくめていると、三成は吉継の口唇をなぞりだした。
「貴様だけだ。私には、貴様だけだ」
吉継は、三成の指先を、そっとはんだ。
「なら、ぬしので、たっぷり、われを」
「刑部!」
押し倒され、なめまわされ、全身を濡らされる。
呻きと喘ぎだけが吉継の閨を満たし、そのまま月は傾いていった。
トロトロに蕩かされて、吉継は三成の胸に甘えていた。
吉継の留守中、例によって三成は禁欲していたのだろう。驚くほど濃いものが注がれ、飽くことなく求められて、吉継は満足していた。
これが、われの、菫色の星。
われだけの三成。
三成も満足したらしく、吉継の背を撫でる手の動きは優しく、余裕のあるものになっている。
「みつなり……」
更にぴったりと身をそわせると、三成はため息まじりの声で、
「戻ってきてくれて、本当に、よかった」
吉継は、一瞬、身を硬くした。
《ぬし、徳川が頭を下げて戻ってきたら、アレに対してもそう言うのではなかろうな?》
そんな疑念がわいた瞬間、思わず口走っていた。
「われが、ほんに戻らなかったら、ぬしはどうする」
「いくさばで落命したら、ということか」
「いや、そうでなく」
「貴様がなんらかの事情で、豊臣に永遠に戻らないことを選ぶ、ということか?」
「まあ、そのようなことよ」
三成は、吉継の背中に回した腕に、ぐっと力を込めた。
「その時は、貴様が私の命を断て」
「三成?」
「私を殺してから、豊臣を去れ」
その声の昏さに、思わず吉継は顔をあげた。
「たちの悪い冗談をいうでない。われにぬしを屠る腕などないわ。だいたい、ぬしがおらねば、豊臣が傾く。そうやすやすと、死を口にするでない」
三成は真顔だった。
「貴様無しでは生きられない。貴様を恨んで生きることもできない。だから、殺してくれ、といっている。だいたい、どうしても貴様が豊臣を見限るというなら、その後、私や秀吉様がどうなろうと、かまうまい?」
三成のいっていることは、道理だった。
へりくつをこねているのは、こちらの方だ。
「刑部が私に飽いてしまって、もう淫らごとなどしてくれるな、というのなら、それは仕方ない。だが、そうではないのだろう? あんな、可憐な仕草で応えてくれて……」
吉継は思わず、三成に肌をすりつけた。
こちらが厭だといったら、この男はどんなに自分が欲しくとも、本当に抱かないからだ。
三成は、吉継の首筋に頬をうずめた。
「私は、信じて待っておれ、といわれたら、そうとしかできない男だ。私の命の尽きる日まで、信じたままにさせてくれ。私は、この世の誰を疑うことがあっても、貴様だけは疑わない。だから裏切る必要すらない。だいたい、戯れ言を並べることはあっても、貴様は誰より篤実な男だ。皆、知っていることだが」
「三成」
吉継が留守にしていた間、大の男が毎晩、ひそかに泣いていた。
信じていても、離れていることがそれだけつらい、ということだ。
それだけ思われていて、これ以上、三成に何をいわせようとしておるのか。
「好いた者の前では、どうにも我が儘になってしまうものよな」
「刑部?」
「われだけの三成、と思うておっても、その証やらなにやら、余計なものまで欲しゅうなる。ぬしの涙まで、すべて」
三成の顔が、ぱっと輝いた。
「すべて貴様のものだ」
「わかっておる。われも、ぬしと離れて寂しゅうて、つまらぬことを考えてしもうた。ただ、それだけのことよ。案ずるな」
「刑部!」
幼子のようにむしゃぶりついてくる三成の腕の中で、吉継は微笑した。
《愛い……そう、この世でもっともこの男を不幸にできるのも、われ、で、間違いないのよ》
三成は、再び吉継の肌をまさぐりだし、吉継も昏い情感にひたされたまま、その愛撫を喜び、身を波打たせて――。
(2015.10脱稿)
《よろずパロディ》のページへ戻る
Written by Narihara Akira
http://www5f.biglobe.ne.jp/~Narisama/
|