『学 祭』


ニーズがあるようなので、大学のサークルの回想を書いておこうかと思う。


青山学院大学で推理小説愛好会に入っていた。対外的には「推理小説研究会」もしくは「青山ミステリクラブ」だったが、顧問の先生はいらしたものの、準公式の愛好会であったため、正式名称は愛好会だった。以下、推理研と略す。当時、設立から二十年余がすぎており、先輩方には日暮雅通さん、菊地秀行さん、風見潤さん、竹河聖さん、北原尚彦さん、津原泰水さんがいらっしゃる。つまり複数の作家・翻訳家を輩出した歴史ある愛好会だったが、入学時にはそんなことは知らない。それらしきものがあることは赤本で見ていたが、厚木キャンパスで勧誘チラシをまいていた先輩に捕まるまで、その存在も疑っていた。ところで推理研には他に、私がいた頃、世界史の講師で関連著書のある山内秀朗さん、前述の津原泰水さん、ミリタリー系ライターの松田立鹿(たつろく)さん、銀座・煉瓦亭当主の木田浩一郎さん、金沢で博物館長をつとめている足立拓朗さんなども在籍していた。そのうちの何人かについては、後で触れたい。


そもそも国立志望だった私にとって、青学は滑り止めの一つに過ぎず、サークルのことなど考える余裕がなかった。世はバブル末期、テニスサークル全盛期だったが、高校時代、テニスの授業後、脳貧血を起こしてぶっ倒れた身にとっては、そんな活動は悪夢でしかない。幼い頃から運動音痴で、中学までは幼なじみが手助けしてくれたが、進学校には技能教科の成績も飛び抜けた子たちがくる。体育はほぼ地獄の時間だった。スキー授業の時など、尻餅をついて起き上がれないでいると、下級生たちから「あの子、ぶりっ子してる」と陰口をたたかれた(なんでそんな必要があるんだ、そもそも一日でホイホイ滑れるようになるなら、スキーの授業なんか学校でうけない!)。今日は好きなものをやってもいいといわれれば、ほぼバドミントンをやっていたので、大学の授業もほぼバドミントンですませた。もちろんうまいわけではないが、テニスと比べれば運動量が段違いだからだ。


ところでなんで、推理小説研究会に入ろうかと思ったか?
高校生の頃、中学時代からの友人が、東海大学の学祭に行かないかと誘ってきた。東海大学は地元の大学で、バスで行ける距離であったので、たまにはいいかと遊びに行くことにした。すると、入り口近くに居たお姉さんから「これ、学祭で使える金券チケットだけど、だいぶ余ったのであなたたちにあげる」と、そこそこの金額をいただいた。買い食いには多すぎるので、東海大学のミステリサークルの会誌を何冊か買ってみた。正直、小説中のミステリサークル描写は、依井貴裕の作品をのぞいてほぼ嫌悪感しかわかないのだが、その会誌にはちょっと面白いところがあったので、「なるほどこういう活動があるのか、悪くない」と思った。
つまり早稲田に行くつもりがあったら、ミステリクラブを検討していたかもしれないということだ。
とはいえ行かなくて良かったとは思っている(実際、大学ミステリー連合でワセミスの人達のバンカラさもチラリと見たので)。


推理研の活動はどういうものかといえば、定期的に読書会、例会、合宿、定期的な会誌発行。そして会誌の印刷費用を捻出するために、学祭で展示をしていた。こう書くと普通で真面目にやっているように思われるが、まあ、『究極超人あ〜る』の春風高校光画部のノリである。寝坊して読書会にこないとか本を読んでこないなんてことはザラにあり、週末の飲み会なんか平気で二時間遅刻してくるので、誰も来ないととっとと帰っていた。渋谷は遠いので(大概は中目黒で飲んでいた。東横線渋谷駅にはまだ黒板式の掲示板もあった)夜十時を過ぎると、電車で自宅に帰れなくなるのだ。
会誌は「A・M・マンスリー」という名前だったが、毎月でなく年四回しか出ない。春休み、夏休み、冬休み、テスト期間を外すと、そうならざるをえないのだ。つまり出る時は五月六月、十月十一月と、二ヶ月続いて出る。そのうち年三回は、私が入学した頃はガリ版刷りで出されていて、学生ロビーでガリ版を切り、ローラーでわら半紙に印刷をしていると「学生運動の方ですか?」と声をかけられたりもしていたらしい。
私の祖父は塾講師をしていたので、子どもの頃から教材用の謄写版輪転機が家にあったが、自動で回転する式で、ローラーを使う物ではなかった。なのでまさか自分が鉄筆をもち、ガリ版を切る日が来るとは思わなかった。小学生の頃だってすでに蝋紙でなく、ボールペン原紙を使っていたのに。ちなみに私は入学直後から、会誌すべて(合計十六回)に小説を書いていて、在学中十五回執筆した竹河聖の記録を塗り替えている。ただ、最初の二年は小説を書き出したばかりだったのもあり、合評会では「わからない」「わからない」とよく言われたものだ。ちなみに、ローマ字の「ナリハラアキラ」のペンネームは大学三年から使っている。その頃、後輩から『あ〜る』を教えてもらったためで、面白かったのでそこからとった。それまでは高校時代に考えた筆名であったりした。
さて、学祭の時に発行される(一応外部向けに売る)秋の号だけが最初からオフセットだった。その費用がかさむため(現在のように同人誌専門の印刷会社が林立している時代ではない。専門の会社でも、ざっくり値段は現在の倍以上かかっていた)、学祭の展示には力をいれていた。そのうち会長になった某Hくんが、自宅に持ち帰ったガリ版のセットを家族に捨てられてしまい、その後、オフセットで年四回刷るようになったが、その数十万円の費用が捻出できていたのだからたいしたものだ。
学祭の展示は例年、SF小説に出てくるクリーチャーを立体化して何体か並べ、個別に説明するもので、簡単に言えばお化け屋敷である。推理小説研究会はSFを読む人間も多く(読書会でクラークを読めたことは今でも感謝している)、私の入学前、一部の会員がSF研に分裂した後も、みなSFを読んでいた。なにしろまだサンリオSF文庫が古本屋で普通に買えた時代である。
私が製作にかかわった中でよく記憶に残っているクリーチャーは、ピエール・クリスタン『着飾った捕食家たち』の捕食家だ。身体はなく、頭に触手つき、空中を飛んでくる。提案者の津原さんが空中滑走のギミックを考えた。そして「頭部はハンズで球体の発泡スチロールを調達するとして、問題はどうやって毛を生やすかだ」というので、私は「そんなの簡単ですよ。ミカンを入れるようなネットで包んで、その編み目に毛糸を結わえつければいいんです」と答えた。不器用ではあるが小さい頃から物をつくるのが好きで、工作系の本やテレビ番組をよく見ていたので、そういう知恵があった。「ミカンのネットってどうやって手に入れるの?」と訊かれ「近所に梱包資材の問屋があるのでそこで買います」といい、白いアクリルの毛糸とネットを買ってきて、頭ほどの大きさの丸いスチロールをネットで包み、ラグをつくる要領で毛糸を結わえつけて切っていった。ロビーで作業をしていると、先輩の青木太郎さんが「ああ、なりはらさんも女の子だったんだなあ」と失礼な感想を述べてくれた。全部で三体つくった。仕上げに金色のスプレーをかけられ、伸縮自在のかぎ爪つきの手をつけられた。ちょっと可愛くなりすぎてしまったが、無事、空中を滑走して、見る人を驚かせた(はずだ)。
あとは大学三年の頃、ハインライン『宇宙の戦士』の機動歩兵用パワードスーツをつくった。これは主に(前述したミリタリー系ライターの)松田立鹿さんが厚紙に図面を引いた。特に頭部はほぼ彼が一人でつくってきた。最初は玩具メーカーに就職したが、なにしろデパートの玩具売り場にある(主に)バンダイ系玩具の値段をすべてそらんじている人だったから、「俺は手先が器用じゃないから」などと言いつつ意地でつくってきたようだ(そういうのは私にはできない)。
パワードスーツとはなんぞ、という方は、まあ等身大のガンダムと思っていただければ(こちらが元祖であるが)。できあがった立体に銀色のペンキを塗った。ロビーでキラキラした色のペンキを塗るのは楽しかった。しかし宇宙空間でこれは目立ちすぎであろうと言われ、上からつや消しの白を塗った。おかげでなおさらガンダムっぽくなった。白を塗ってから銀を塗った方がよかったのかもしれない、と立鹿さんも言っていた。トム・ソーヤの気分で、DIY入門番組のテーマソングを歌いながら、ブースを仕切るためのボードに黒いペンキを塗りたくった。
ちなみに仕上げが間に合わず、特別講義を一日さぼってしまった。その日は神宮輝夫先生の『指輪物語』の講義で、おかげで私は今も指輪を履修していない。神宮先生の授業で取り上げられたため、『床下の小人たち』も『フランバーズ屋敷の人々』も履修したし、『海へ出るつもりじゃなかった』も『第九軍団のワシ』も先生の授業で教わらなかったら読んでいなかったろう。なにしろナルニアさえ履修し損ねて大人になったので……。
客の呼び込みだけでなく、着ぐるみの中に入って見る人を脅かしたりもした。ゼミの先生も呼んだ。「わーっと脅かされて一体百円は高い」などとも言われた。かかった金額と時間を考えれば、ぼってはいないと思うのだが。
器用な人は他にもいて、高校の頃、家庭科の成績が10(10段階評価)だった某先輩は、あるクリーチャーの肩を覆う部分が必要だと知ると、そこらにあった布を肩にあて、軽く畳んで折り目をつけ、フリーハンドで袖山をかくと、切り抜いて袖をつくった。それを見ていた私はびっくりして、近くに居た同級生に「先輩すごいよ、フリーハンドで袖山をかいたよ」と言ったら、「袖山ってなに?」とキョトンとされたのもいい思い出だ(その同級生も結婚して二人の子持ちである)。
学祭の打ち上げは、それぞれのサークルが列をなして、渋谷の街を練り歩くことになっていた。推理研では仮装して歩くのが決まりで、それこそ展示したクリーチャーの頭部などをかぶって宮下公園まで歩いた。その後は飲み会で、私が初の朝帰りをしたのは学祭の時である。「もう帰れる時間じゃなくなったから」と電話で家に連絡をし、飲み会が終わった後は学校近くのダンキンドーナツで始発の電車が動く時間までを過ごした。ダンキンドーナツは長っ尻していても怒られないのだが、うたた寝すると追い出されるので、お互いに寝ないよう、つつきあって頑張ったが、まあ時々ウトウトしていた。そういえば諸先輩方は会誌の版下作成を学校近くのカトレアという喫茶店でやっていたこともあるそうだが、あそこは毛布があったというし、常連だから泊まれたのだろうか? 会誌は学食の隅で版下を切ったり、個人宅に行って版下を切ったりすることもあった。私は字があまり綺麗でないので、主に文字の部分でなくタイトル文字やイラストなどを描いた。いま思うと私がつけペンやミリペンで絵を描いていたとは大胆な話であるが、学生のサークル誌なのでヘタでもなんら問題はなかった。
今やカトレアもダンキンドーナツもない。大学前の無印良品と山田帽子店は、まだ生きているのだろうか。
ところで津原泰水さんの幻想短編「水牛群」に、山田帽子店と木田浩一郎さん(がモデルとおぼしき青年)が登場してカメラの貸し借りをしたのを読んだ時、思わず噴き出したが、展開が展開だったので「これは木田さんが読まないと思ってこう書いたんだろうな」(木田さんは基本的に読まないと公言していた)と思っていたところ、ある日の例会で木田さんと再会した。「今日は津原はどこかな。まだカメラを返してないんだ」と笑いながら言われた時は心底ギョッとした。今でも読んでいないに違いない。


学祭の話はこんなところだが、もう少しサークルの話を書こうと思う。


年に一度、六月頃に例会というのがあった。これは大きめの飲み会で諸先輩方がぞろりと来る。当時、山村正夫先生が神泉に住んでいて、名誉顧問的存在として例会に来られていた。先生の仕事場にも遊びに行くことがあり、『湯殿山麓呪い村』のハードカバーにサインしていただいたこともある。新入生の女子は山村先生に「最近は何を読んでいるの?」と訊かれたら、頭の悪そうな本を答えなさい、と言われていたが、頭の悪そうな本がなんだか、私にはわからなかった。当時、国書刊行会が香山滋の復刻をガンガン行っていて、地元の図書館に何冊もあったので、夢中になって読んでいた。なので、例会で先生からお尋ねがあった際「香山滋の復刻を読んでいます」と正直に答えたら、すこし難しい顔をなさった。周囲の先輩が「誰です?」と尋ねると「知らないのかい、僕らの大先輩だよ」と簡単に答えて表情を戻された。あの答えが正しかったかどうかはよくわからない。小栗虫太郎なら『人外魔境』、夢野久作なら『犬神博士』が一番好きという嗜好の持ち主だったので、正しくなくても知ったことかとは思う。
ところである日、千葉の海岸で合宿が行われた時、当時OBになったばかりの北原尚彦さんが来られた。そして私に香山滋の復刻版『ゴジラ』を下さった。「家でダブっているので、これはナリハラさんにあげるよ」というのでありがたく頂戴した。どうしてゴジラを下さったのかについては、後日だいぶたってから知った。実はそれ以前の飲み会に参加した北原さんが「最近は何を読んでいるの」と私に訊いた。ちょうど鞄にいれていた香山滋の『怪異馬霊教』を取り出して、「これを読んでいます」と答えた。「十八歳の女の子が香山滋の復刻を読んでいるなんて、それは偉いと思って、ゴジラをあげた」とのこと。その話を最近、ツイッターで呟いたら、北原さんが「今でも同じ事をしてる、若い人にそういう理由で本をあげたばっかりだ」と返事を下さった。押しも押されぬ日本のシャーロキアンの第一人者、相変わらずのフットワークだ。

合宿でも読書会があった。野尻湖畔で行われた時に、久生十蘭の「ハムレット」で読書会をしたことがある。私は同世代の筈のキャラクターが、青年と老人と壮年に描き分けられているのは演劇上の描写というだけでなく、そこに作者の意図があるからだという持論を展開した。が、顎十郎捕物帖を含むテキストを選択したのでみな「ハムレット」を読んでこなかった。「ハムレット」は小松の抜け抜けとした生き様が好きで今でも好きな短編だが、国書刊行会の復刻版で初期バージョンの「刺客」を読んで、びっくりした。ひとつも面白くない。読まなければよかったと思ったぐらいだ。旧かなで読まされているせいもあるだろうが、久生が書き直した理由がよくわかる。書き直されなければこの世に残らなかったろう。

あと、思い出に残る合宿といえば、大島で行われた合宿がある。夜、晴海埠頭から出港して船の中で雑魚寝し、朝に大島に着いた。ああいう船旅はめったにできることではない。前年に大島には噴火があり、宿のつい先まで溶岩が流れてきてテニスコートを覆ってしまったときいた。宿のテレビはなんとモノクロで、アニメや戦隊物をみても誰が誰だかよくわからない。今のテレビがいかにカラーに頼っているかがよくわかった。
あと、木田さんが淡いピンクの三つ揃いを着てやってきた。成人男子が淡いピンクを下品でなく着こなしていて、しかも三つ揃いであることにお育ちを感じた。店(煉瓦亭)のことは会社と呼べ、と厳しく育てられており、卒業後は社会経験をつむために大手百貨店などにしばらく勤めていらしたが、あの品の良さならどこでも通用するに違いない。拙作『美少年興信所』で、金持ちの息子である満潮音純が、常に白い三つ揃いを着ているのは、現実にそういう人がいることを目の当たりにしたことも原因の一つである。そういう層が、この世の中にはあるのだ、と私は知っている。


(2021.11)


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