『二 心』
「む」
秀吉は天守の書庫で、異変に気づいた。
「ひとつ、足りないな」
大坂城の天守前にある、秘密の小部屋の鍵がない。
通常は、仏像や金銀のたぐいがしまってあるが、いざという時のために兵士を潜めておく場所でもある。
つまりは秘密の場所なので、小部屋そのものの存在を知っている者は非常に少ない。鍵も二つ必要で、両方の場所を知っているのは、秀吉と半兵衛と、そして……。
「秀吉様……!」
予備の鍵で、そっと扉を開けて入ってきた主君に驚き、三成はハッと立ち上がった。
それまで、盧舎那仏の前でぬかずいていたようで、しかも、頬に涙の痕がある。
「どうしたのだ、三成」
「申し訳ありません、秀吉様。一人で少し、心を落ち着けたく……」
それは、あまりに普段の三成らしくない物言いだった。
秀吉は小部屋の扉を閉めた。
「吉継と、何かあったか」
三成は首をふった。ややためらいがちに、
「刑部とは、何も」
「では、あの若造か」
三成は青ざめた。言葉を失っている。
「左近と何があった」
「何も」
今度は即答した。
つまり左近と何かあったが、何かをしたわけではないということだ。
「三成よ。ここには我しかおらぬ。正直に、泣いていたわけを話してみよ」
「わ、私は……」
三成は明らかな動揺を見せたまま、
「私はかつて、秀吉様に、紀之介と一生添い遂げたい、と申し上げました」
「そうだな、我は許した。紀之介がよいなら、とな」
「私は今でも、刑部以外の肌を知りません」
「そのようだな」
「なのに……」
「どうした。左近に迫られて、口唇でも許したか」
「いえ」
三成は、自分の下屋敷で左近に略式の茶をふるまったことを話した。
春めいた陽気につられて、左近が三成への恋心を再び募らせているらしいことをきき、少しでもなだめてやろう、と考えたからだ。
「すると、左近は……刑部一筋である私が、好きだと……」
三成の動揺の理由を、秀吉は察した。
つまり三成は、自分も左近を好きだということを、自覚していなかったのだ。
左近の気持ちに少しでも応えようとして、拒絶されたことで、それに気づいた。
いつの間にか、二心を持ってしまっていたのか――それは三成にとって、かけがえのない朋友や主君への裏切りに等しかった。
「左近の前では取り繕えたものの、一人になると、どうしようもない恥の思いにとらわれ……私は己が誓ったことを、たやすく破る男だったかと……秀吉様に顔向けができないと思いながら……今の姿を刑部に見られるわけにもゆかず……しかたなく、ここに籠もっておりました」
ようやくそこまで吐き出すと、三成は頭を垂れた。
確かにこんな様子では、左近と何かあったかと、吉継に誤解されるだろう。
三成が己の身を隠したくなり、みだりに人が入ってくることのない場所を求めて、ここで一人、うずくまっていたのも理解できる。
秀吉はふっと微笑んだ。
「ふられて良かったではないか」
「秀吉様?」
「貴様は吉継を裏切らずに済んだ。今後は左近の想いを斟酌しなくてもよくなったのだ。今までどおり、己を律していけばよい。そう、泣く必要もなかろう」
「しかし」
「本当に二心があったなら、とっくに抱いていたであろう?」
「それは」
「慕ってくる者を、愛い、と思うのは自然なことよ。若者の純情を受け止めてやるのも主君の仕事。慕われるようになった己を、誇りに思うがよい」
「よい、のでしょうか」
よるべない子どものような顔で、問いかける。
秀吉は、三成の腰に腕を回した。
そして、そっと引き寄せる。
「あ、秀吉、様……っ!」
寛い胸に抱かれて、三成の声はうわずった。
情の深い主君だが、こんなことをされたのは初めてだ。
秀吉は、低く三成の耳に囁く。
「三成よ。これを我の、二心だと思うか」
「思いません」
「こうされるのは、嫌か」
「ああ、あまりに、もったいなき、こと……!」
三成が、ようやく声をしぼりだすと、秀吉はその背をあやすように撫でながら、
「では左近も、同じように思ったであろう」
「秀吉様」
「今後もよく導いてやれ。豊臣の左腕の部下として、恥ずかしくないよう仕立ててやるのだ。それだけで、あれには充分よ」
「秀吉様が、私に、してくださったように?」
「そうだ。吉継には、今後もゆるぎない情を示してやれ。些末なことでわずらわせるな。あれは治らぬ病の身、他に頼る者とてないのだ。泣きたいのはあれの方であって、貴様が泣き顔で、どうする」
「それは、よく、わかって、おります……」
三成が目を伏せると、秀吉はさらに優しい声で、
「まだ落ち着かぬというなら、我がひとつ、茶を点ててやってもよいが」
「いえ、そんなわけには」
「では、顔を洗って屋敷に下がれ。豊臣の左腕はどこだ、と皆が騒ぎ出す前にな」
「誠に申し訳ございません、秀吉様」
「いや、かまわぬ」
秀吉は、三成が、吉継に心の乱れを打ち明けずに良かったと考えていた。二人の仲にひびが入り、豊臣の未来の両輪が回らなくなっては困る。そのあたりは半兵衛が気にかけて、時々二人を佐和山に籠もらせたりしているので、今まであまり心配していなかったのだが。
「我にとっては、頼もしい左腕であると同時に、可愛い佐吉よ。頭のひとつも撫でてやりたい、と思う時もある」
「秀吉様」
三成はふっと頬を赤らめた。
秀吉は気づいた。
この男は、父とも頼む主君に、頭を撫でてもらえたら嬉しいと思う、幼い心をまだ持っているのだ。
こうまで純粋では、己の心のわずかの穢れも許せまい。
それはそれで、得がたいものでもあるのだが。
秀吉は、水底色の瞳をのぞき込み、白い頬をそっと包んでやった。
「三成よ。貴様は貴様にしかなれぬ。これからも、揺らぐことなく、進むが良い」
「はい、秀吉様……!」
かすれた声で返事をしながら、三成は慈愛に満ちた薄赤い瞳を、とろけるように見つめ返していた――。
「やれ、やっと戻ったか」
すでに寝支度を調えていた吉継が、三成の気配に振り返った。
「すまない。遅くなった。秀吉様のお召しがあったのだ」
「さようか。太閤になにを言われた」
三成は微笑した。
「いろいろだ。左近のこともご相談した。よいお言葉をいただいた。一軍の将たる自覚をもち、過たず進め、と」
「そうよなァ」
「刑部」
「ん?」
三成は、静かに吉継を抱き寄せた。
「欲しい」
抱きしめられた瞬間、吉継は甘い吐息をもらした。
「あ、ああ……!」
三成の薄い胸にその身を預け、声をすっかりかすれさせて、
「われも、ぬしが、ほし……!」
終わっても、吉継は三成から離れなかった。甘えるように、ぴったり寄り添っている。
「みつなりぃ……」
とろけた声で呼ばれて、三成は吉継の口唇を優しく吸いあげる。
顔が離れると、吉継はため息をついた。
「いったい太閤は、ぬしに何を教えたのよ」
「秀吉様がどうした」
「今宵のぬしは、まるで別人よ。何をいわれたら、そのように、漢らしゅうなる」
「おとこらしい?」
「われ、ずっと、ぬしに、こんなふうに、して、欲しいと……」
そこまで口走って、吉継ははっと頬をこわばらせた。つまり、今まで物足らなかったというに等しいことで、思わず三成の表情を探るような目をしている。
三成は微笑んだ。
「わかった。貴様の意にそうよう、今後もつとめよう」
「怒らぬのか」
「何を怒る必要がある。刑部が満足してくれて、こんなに嬉しいことはない」
「怒って、よい」
吉継は目を伏せ、声を低くした。
「われ、ぬしと左近を二人きりにしたことを、ぬしが戻ってくるまでずっと後悔しておったのよ。茶席のことは、われからぬしに頼んだものを……何も起こらぬと思いながら、何か起こってしまったらと」
「刑部」
「ぬしが戻ってきた時、われは恥じ入っておった。ぬしの晴れやかな顔をみたら、つまらぬ妬心など消えてしまった。もし何かあったら、ぬしは平気ではおられぬであろう。左近も落ち着いた様子であったし、己の疑心を謝りたいほどであった。なのに、ぬしは」
三成は、吉継の口元に指をあてた。
「謝らなくていい。私を信じてくれて嬉しい。左近の様子を知らせてくれて、ありがたいと思っているのだ。怒るわけがない」
「さようか」
だが、やはり吉継は不思議そうだった。
「わからぬ。ぬしが昼のうちに誰とも寝ておらぬのは、肌を重ねてみて、ようわかった。太閤に閨事を教わったわけでもないな。ならば、どうして巧くなった」
「巧くなった、わけではない」
三成はようやく自覚した。
主君の抱擁を受けたことで、相手が安心する抱き方があることを肌で理解した。それを無意識に吉継にほどこしたのだ。主君への憧れがある吉継にとって、秀吉を思わせる抱き方は好ましいものであり、余裕さえ持って悦びを与えてくれた三成に、すっかり惚れ直しているのである。
「刑部が、うらやむと思って、いわなかったが……」
「ん?」
「秀吉様が、私の頭を撫でてくださったのだ。今後もゆるぎない情で、吉継を慈しんでやれ、といわれた」
「太閤が?」
「ああ。秀吉様の慈愛に触れて、私はすっかり落ち着いた。今宵はたぶん、そのせいでいつもと違ったのだろう」
「さよか」
吉継はホウ、とため息をついて、
「では、今度はわれも、太閤に撫でてもらおか」
「ん?」
「二心の疑いなど、もたずにすむようになァ」
「私は、貴様の信頼に足らぬか」
「むろん、信じておる。信じておるゆえよ」
「刑部。秀吉様の慈愛に触れるのは、もちろん、かまわないが」
三成は力強く吉継を抱き寄せた。
「その前に、何もかも忘れさせるほど、抱いてやる……!」
(2015.7脱稿)
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Written by Narihara Akira
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