『行かないで』

1.

「行かないで……!」
泣きながら目が醒めた。
キース・エヴァンズは思わず目尻をぬぐい、濡れた自分の人差し指を見つめた。
「なんだ、今のは」
熱いものが溢れてシーツに落ちた感触に驚いて飛び起きた瞬間、どんな夢を見ていたかほとんど忘れてしまった。本当に叫び声をあげてしまうほど必死だったのに。
行かないで、と言った相手だけはかろうじて憶えているが。
結ばれた長い漆黒の髪、鋭く輝く瞳、不思議な微笑――あれはリチャード・ウォンだ。
「何故だ」
どうして行くな、と言ったのだろう。ウォンは何処から去ろうとしたのか。
ノアから?
それとも、キース・エヴァンズから?
「……僕は、弱いんだ」
キースは苦く笑った。
ウォンを失う不安を、自分が完全にぬぐいきれていなかったことに気付いて。
あの夢のような安らぎの日々の中で、つい、君を愛している、などと自信たっぷりに宣言してしまったが、あれは本当の自信ではなかったのだ。
ああ、もう、翌朝ウォンが一緒のベッドにいなくても、信じているから全然平気だ、などと思っていたのに。
こんなにすぐに不安になってしまうなんて。
「駄目だな。もっと大人にならなければ」
寂しい、なんて考えるものじゃない。
それより笑顔をウォンに向けよう。信じている、と繰り返して言おう。君は僕のかけがえのないパートナーなのだ、と何度でも告げよう。いつも対等でいたいのだと伝えよう。時には君を包んで甘やかしてみたい、と。
難しいことでは、あるが。
それでも心を引き締めなければ。
行かないで、なんて不吉な夢を見ないように。口走らないように。
ウォンの負担にならないよう、大人のように愛したいから。
そう考えると、暖かい気持ちが胸を満たしはじめた。
「大丈夫だ。ウォンが不安になっても、僕が不安にならないで受け止めればいいんだ。そうすれば大丈夫だ。たとえ物別れになっても、僕は君を嫌いになったりはしないから……」
心が落ち着くまで、キースは小さく呟いていた。
まるで何かのおまじないのように。
確かにそれはまじないに違いなかった。それが真実であれ、と願う祈りだったのだから。
だが、その相手は。

ウォンは、朝から自室のデスクで物思いに沈んでいた。
「キース様……」
もう何度も思い返している、雪山のロッジの最終日の朝のこと。
その日、キースの表情がそれまでと変わった。快活な様子で部屋の中を片付け、ノアに戻れるのが嬉しくてたまらないというような微笑を浮かべて歩き回った。
ウォンとしては、片付けや出発の仕度などより、もっとゆっくり名残りを惜しんでいたかった。この数日でキースという人間の新しい面を沢山知ったが、まだまだ足りない気がしていた。本当に二人っきりになると、こんなに愛らしく笑うひとだったのか、素直に甘えることのできる青年だったのか、と目をみはり、だからこそもっといろんな表情を知りたいと思った。もしくは、引き伸ばせる時間ぎりぎりまで激しく抱き合って、やっぱり離れたくない、もう少しだけでいいからここにいよう、とだだをこねる彼が見たかった。とろんと潤んだ瞳で、紅く敏感になった口唇で欲しがってもらいたかった。君が好きだ、と熱くしなやかな身体ですがりついて欲しかった。
それなのに。
仕方がない、か。
ウォンは低く笑った。
どんなに乱れても淫乱からはほど遠い人だ。寂しい時こそそっと肌を寄せてくるけれど、愛情を確かめるのに寝ることが絶対必要だとは思わないタイプなのだ。求められて拒まないのは、相手の気持ちを受け止めたいからで、それはむしろ同情に似ている。
「ウォン」
ふと名を呼ばれて、彼は顔を上げた。キースは出発の準備をすませたのか、手を洗って戻ってきたところだった。
「はい」
ぼんやりと壁際に立ち尽くしていたウォンは、いったい何を言われるのだろう、と眉を寄せた。仕度は出来たか、そろそろ行くか、などという叱責の類を言いにきたにしては、キースは変に真顔だった。
「あの、なんでしょう?」
キースはふわっと微笑んだ。
「愛してる」
あの瞬間、私はどんな顔をしていただろう。茫然としていたに違いない。何を言われたかわからなくて――いや、何を言われたのかわかったから。
今までキースは、愛している、という言葉を一度も言わなかった。
感情が高まった時の《好き》の一言でさえ、うんと照れや恥じらいのあった人なのだから当り前といえば当り前なのだが、今まできいたことがない。というか、この青年の口からこの台詞をきくことを少しも期待していなかっただけに、ウォンは驚いた。
しかもそれは、甘えしなだれかかってくるための前ぶれではなかった。
ほとんど輝くような笑顔でキースは続けた。
「君を、愛している。いま、僕は君を愛している」
「キース……様」
それがあまりにまぶしくて、ウォンは思わず瞳を閉じてしまった。
そこに立っているのは、昨日までのキース・エヴァンズではなかった。身体つきの華奢さかげんはともかく、どこか頼りないところや青臭い脆い雰囲気がすっかり消えて、心豊かな成人に生まれ変わった者が、そこにいた。
「ウォン。ノアに戻ったら、また忙しい日々が始まるだろう。二人きりで静かに話す時間もあまりとれなくなるかもしれない。だから、ここを離れる前に、ちゃんと言っておきたいと思ったんだ。感謝している。こんな幸せな気持ちにしてくれたことを。僕を愛してくれたことを。忘れない、この一週間を。もう僕は君の気持ちを疑わない。そのことで不安になったりしない。寂しくなったりもしない。愛しているから……たとえ君が、明日敵に回ったとしても、君が好きだ」
そう言って、キースはウォンを強く抱きしめた。
子供の可愛い抱擁や性的な甘えでなく、がっしりとした情愛深い大人のやり方で。
ああ。
まるで、繭をやぶって羽を広げた蝶のような鮮やかな変身。
文字どおりキースは成長したのだ。
内面が安定したため、他人を必要に応じて信じられる器量が大きく育って、真の指導者の名にふさわしい存在となったのだ。
mature――成熟。
まるく満ちた月のように、何の過不足もない状態。
言い替えれば、もう一人でも立っていられる、ということ。
ウォンは大人の抱擁を返しながら、頭の隅で、自分は用済みになってしまったのだと考えていた。キースはこれからも私を愛するだろうし、必要とするだろう。しかし今までの切実さはもうなくなってしまったのだ。自分に欠けた部分をどうしても埋めてほしい、と痛々しいほど求めてくれることはなくなってしまうのだ。
「ウォン?」
恋人の寂しそうな顔を見て、キースは自分の言葉がどう受け止められたか気付いた。
「そんな意味で言ったんじゃないんだ、僕は……」
「わかっています。わかっていますから」
ウォンはキースの身体を離すと、その掌をとってそっと口づけた。
「私にとってもそれは喜ばしいことです。ただ、少し驚いただけなんです。貴方はその手の言葉を軽率に口にする方ではないので、その重さが身に染みて」
「ウォン」
キースは相手の語尾の震えに気付いた。そして深くいたわるように、
「もっと早く言っておけばよかったな。君がそんなに感動するのなら」
優しく微笑んで口唇を結ぶ。
ウォンは言葉を失った。
例えば本当に神がいるのなら、それは差し伸べられた輝ける神の御手だった。ありがたい恩寵というものだった。
しかし、ウォンはまだ戸惑っていた。
これは現実なのか。
私が欲しかった瞬間なのか。
するとキースは瞳を細めて、
「ウォン。もう一度抱きしめてくれないか」
「しかし、いま貴方を抱きよせたら、服を引きちぎるぐらいじゃすまないかもしれませんよ。仕度を全部台無しにするかも」
押し倒してひどくしたらどうします、とかすれ声でつけ加えると、キースは相手の頬に手触れ、じっとその瞳をのぞきこんで一言、
「君は、そんなことは、しない」
催眠術にかけられた心地がした。それはいつもの断定口調より柔らかいが、信頼の筋金の入った強いロープで、まるで身体を縛られたひとのように、ウォンはぎこちなく青年の腰に腕を回した。
「キース様」
「うん」
抱きしめあい、名残りを充分に惜しんでから、二人はロッジを出た。
そして、寄り道をすることもなく、ここノア地下秘密基地へ戻って来たのだった。

「何故、苦しい」
ウォンは、自分の気持ちにただ困惑していた。
身体の芯が熱くて、いたたまれないような想いがそこで焦げついている。
「何故なんだ」
苦しくなる理由など一つもないのだ。自分はキースを愛している。キースも自分を愛している。会おうと思えばすぐに会える場所で、同じ目的のために生きている。寝ることにも何の障害もない。
なら、何が辛い。
「愛というのは、こんなに不思議な感情だったか」
ウォンの胸をいっぱいにしているのは一種の切なさだった。幸せだからこそ先が不安になる。失いたくなくて怖くなるのだ。時をとめてしまいたくなるのだ。今が永遠でないと知っているから。心は変わるものだから。
人は恋が達成されると、何をどうしていいかわからない気持ちになる時がある。ウォンはそのエアポケットに落ちていた。こういう不安の深さは、時にひどい自己嫌悪や破滅願望につながってしまうことがある。いま自分が落ち込んでいる部分を壊せば、この苦しさから逃れられる、などと矛盾したことを考えてしまうのだ。
「キース様」
ノアに戻ってから、予想通りかなり溜っていた仕事のために、二人の距離は再び開きはじめていた。親密さをわかちあった記憶はどんどん薄れてゆく。昼間のキースはすっかり大人びてしまったというか、元々あった落ち着きに磨きがかかって、誰も文句を言うことのできない立派な総帥ぶりを見せていた。つまりウォンに頼るというよりは、対等な立場で、同じ目線の高さで話をする。ベッドの中でもごく自然にしなやかな青年ぶりを発揮して、今までのように我慢して声を殺したり恥ずかしがったりはしなくなっている。
それがウォンには、何故か寂しかった。
「いったい何が足りないというんだ」
彼は気付いていなかった。
どうしてこんな気持ちになるのか。
それは、キースが気を遣っているからなのだ。
彼はいま本当の大人になろうと必死で、その分ウォンにやたらに甘えまいとしているから、遠ざけられている気がしてしまうのだ。
キースのたからかな愛の宣言は、実は深い不安の裏返しだったのだが、それすら見当がつかなくて。
「苦しい」
ウォンはひとつ深呼吸をすると、馬鹿なことを考えていないで、朝食前に一仕事片付けてしまおう、と端末を開いた。米軍サイキッカー研究所の一つが新しい動きを見せているのだ。これはチェックが必要だ。クリーンな兵器として人間そのものを使用せんともくろむ彼らの次のステップは――。
「なるほど、こう出てくるつもりですか……経済制裁だけでは足りないようですね」
仕事に打ち込み始めると、いつものように彼の不安はすうっと忘れられていった。
やる事が途切れた時、さらに強烈になって戻ってくるということも忘れて。

2.

その昼下がり、指令室の前に立つ一つの物憂い人影があった。そっとインターフォンを押して、
「キース様。ブラド・キルステンです。定期チェックの報告なんですが、お時間の方よろしいでしょうか」
「ああ。入ってくれ」
ブラドは指令室に入ってすぐ、デスクから顔を上げたキースが霞んだ表情をしていることに気付いた。頬はほんのり紅く、瞳はうっすら潤んでいる。近づくと、総帥が熱を出している様子がさらにはっきりして、ブラドの足はすくんだ。
「どうした?」
「いえ」
ブラドは思い直したように歩みより、そっと自分のカルテを差し出す。超能力の規模と発動時間、身体的状況他全てのデータが記されたそれを純白の手袋が受け取って、子細を確認し始める。
「……なるほど、君のサイキックはだいぶ安定してきたようだな。特に変化がないようなら、これからはテストの間隔を少しあけていこう。あとは殺人衝動を持つ第二人格をどうやって統合するかだが、どうやら現在のノアのスタッフにはそれに対する適任者がいないようだ。心理学者や精神医学を修めた優れた人材が必要だな。よし、早速検討して呼び寄せよう。これは手落ちだ、君以外にも専門家のケアを必要とする者は多いだろうし、それに今後の……」
的確な判断と滑らかな口調。だが、すこしかすれた、喉をいためている声。
「キース様」
おずおずとブラドは遮った。
「あの、熱が……」
「熱? どこか具合いが悪いのか、ブラド」
矛先を自分に向けられた彼は戸惑い、さらに口ごもって、
「いえ、その、あの、キース様の顔色があまり……」
「ああ」
キースは淡く微笑んだ。
「熱などない。少し疲れているだけだ。そんなに気になるなら、肩でも叩いてくれるか?」
冗談めかして言うが、肩が重いのは本当のようだ。熱があれば痛い箇所でもある。ブラドは失礼します、とキースの背後にまわり、その肩を軽く揉みはじめた。
「ああ、気持ちがいい」
キースはしみじみと呟いたが、ブラドは痛ましい思いでいっぱいになった。自分もかなり痩せている方だが、この人はなんと華奢なのか。身長もあるし幾重もの服で隠されているからなかなか気付かないが、いっそ頼りないほどではないか。
「なんだか眠くなってきた」
キースの目蓋が急に重くさがってきた。ブラドは力を少し弱めて、
「あ、じゃあ、そろそろやめましょうか」
「うん。もう……いい」
キースはクル、と椅子を回し、ブラドの腹部に甘えるように頬を埋め、
「有難う、ブラド」
と低く呟いた。
「キース……様」
銀の髪の下の小さい頭蓋骨の感触。
ああ、全世界のサイキッカーのためにいつもフル回転している頭脳は、触れてみるとこんなに小さいものなのか。
弱冠十八の青年であることを考えれば何もおかしくはないのだが、よりかかってくる仕草といい、容積の可愛らしさといい、なんとも保護欲をそそられる。
馬鹿な。
自分の方がこの人に助けられ、守られているというのに。
僕の暴走発作がしばらく起こらないでいるのは、キース様がこうして定期的に力を抑えて下さっているからだ。すべての超能力者の救世主という大役につきながら、僕のようなちっぽけな存在に対しても手を抜かず、気をつけて、心にかけて下さって。年下をなぜそんなにあがめる、などと笑う者はノアにいる資格がない。おまえなど出ていけと言い返してやる。確かに僕はキース様より六つも年上だけれど、キース様は十代だけれど、それがなんだと言うのだ。キース様はどんな大人よりも立派な指導者だ。誰よりも素晴らしく、代わりになれる者などいない。
「ブラ……ド」
キースは目を閉じてしまった。力が抜けてぐったりとブラドに寄りかかる。
その身体は熱い。
「キース様、あの、医局へ行った方が……」
「行きたくない……ただ、とても眠くて……」
ブラドに肩をほぐされ心地よくなったところで、かえって疲れを意識してしまったらしい。キースが目を閉じたまま動かなくなってしまったので、ブラドはしばらくそのまま彼を支えていた。静かな寝息が落ち着くまで。

「ん……」
キースは目を開けて、自分が指令室脇の仮眠室のベッドに横になっていることに気付いた。楽なようにウェストが緩められ、短套と肩あて、上着と靴が脱がされている。喉には柔らかい乾いたタオルが巻かれ、額には濡らしたタオルが置かれている。空調は暖かく、全体的に部屋の湿度が上げてあるようだ。枕元には、冷たい汗をかいているカラフとコップと解熱剤。
そして、赤みがかった紫の瞳の青年が、照れたような笑いを浮かべてベッド脇の椅子に座っていた。ごく慎ましやかな低音で、
「喉が痛い時って暖かい飲み物がいいですよね、何にしましょうか」
「ブラド」
キースはぼんやり壁面を見上げ、時計を見ようと目を細めた。
「ずいぶん長く眠っていたのか、私は?」
「三十分ぐらいですね。長いとはいえないと思います」
ブラドは陶製のポットに紅茶の葉を入れながら答えた。確かにそのぐらいの時間ならたいしたロスではない。疲れをとるための仮眠なら適切なぐらいだ。キースはやっと身体を起こして、
「すまない、どうして眠ってしまったりしたのか……」
呟きながら頬と目元をこする。まだはっきりしない顔は、休息の足りないことを示していた。ブラドはいつもの優しい声で、
「具合いの悪い時は仕方ないですよ。一応解熱剤だけ医局からもらってきましたから、よかったらのんでください」
キースはうなずいて、素直に薬をのんだ。冷たい水が喉の痛みを少し和らげた。ブラドの心づくしのおかげで、身体全体も楽になった気がする。キースはもう一杯水をついで飲み、ほっとため息をついた。
「すまない、君のカルテを見ている最中だったのにな。それこそ医局に行って、早く指示を出すべきだった。君のテストの件と専門家の件と……」
「そんなに急がなくてもいいです。僕だけのことなら。今は安定してるんですから」
ブラドはちょっとうつむきながら、
「……でも、いつも気にかけてくださって本当に嬉しいです。有難うございます」
「いや」
それはこちらの台詞だ。慌てたり騒いだりせず、そっと仮眠室まで運んでくれて、必要な薬ももってきてくれて、それでいて押しつけがましい態度をとるまいとする。その優しさは身にしみるようで。
「礼を言わなければならないのは私のほうだ、ブラド」
ブラドはちょっと頬を染めて、
「そんな。でも、僕がキース様の役に少しでもたてたなら良かったです。ちょっとでもお返しできるなら……あ、勝手にお茶入れちゃったんですけど、眠気ざましにいかがでしょうか」
銀のトレイに乗せて、暖かい紅茶を差し出す。
「ああ、すまない」
おいしい。
香りも高く、温度も濃さもちょうどいい。心が暖まるようだ。
ああ、あの破壊衝動さえなければ、こんなに穏やかないい青年なのに。あれ程強いサイキックパワーさえなければ、花を愛する平和な生活が送れたかもしれないのに。
しかし、仮定の話は意味がない。
「美味しかった。有難う」
カップを戻すとキースはベッドを降りた。
「さて。仕事の続きをしよう」
キースは服をつけなおして指令室に戻った。カルテはそのまま置かれていた。キースは必要と思われる指示を書き込むと、ブラドにそれを手渡した。
「すまないが自分で医局に届けてくれ。後で私も確認に行くが。なるべく早く手をうつようにする。専門家の方はできれば一週間以内に準備したいな。難しいとは思うが」
そう言って、熱のまだ下がっていない顔で微笑む。
「わかりました。ありがとうございました」
ブラドはカルテを受け取り、頭を下げて部屋を出た。
「……キース様」
おいたわしい。
あんなにたゆまず仕事をして、そのせいで疲れきって。
僕もこれ以上迷惑をかけないようにしなければ。
瞳の縁に光る銀の滴を隠そうともせず、ブラドはその場を離れた。まるでよろめくように、だが一応医局に向かって歩きだした。

「あの、ソニア、入ってもいいかい?」
「ブラド? どうしたのこんな時間に。夕食はすんだの?」
「うん、食べてきた。ごめんよ、部屋まで押しかけてきたりして。ちょっと二人で話をしたくて」
「そうなの。……別にいいわよ。入って」
ソニアは左手の手袋を外し、袖をまくりあげていた。注射針をしまってこちらを振り向く。
「あ、ごめん、鎮静剤を打ってたのか、言ってくれれば後にしたのに」
「いいのよ。今終わったところだし、食事もすませてあるし」
よく見ると、デスクの上に絞り出された銀色のチューブがぽつんと置かれていた。何とも味気ないが、それが彼女の一日の全食糧である。バイオロイドであるソニアは、超能力自体が不安定で、決められたもの以外を摂取することができないのだ。しかもそれだけで足りず、一定時間毎に抑制剤を打たなければならない。それでも足りない時はキース様があらためて力を使って。
そう、二人ともキース様のおかげで、平和に暮らしていられるのだ。
ブラドがふと口をつぐんでしまうと、ソニアは袖を下ろし椅子をすすめながら、
「あら、目が赤いわね」
「もともとさ」
「そんなことないわ、普段のあなたの瞳は綺麗なアメジストじゃないの。でも、暴走したんじゃなくてそんなに赤いってことは……泣いたの?」
そう言われた途端、ブラドは涙ぐんだ。
「……ソニア」
「どうしたの? サイキックテストで悪い結果でも出た? スケジュールが厳しくなったの? 確かテストはぜんぶ安全域に入っていたと思うけど、それとも他に何か……」
「そうじゃないんだ。僕のことじゃなくて、キース様のこと」
ブラドは目を潤ませたまま、今日の昼の出来事を話し始めた。少し肩をマッサージされたぐらいで、深い眠りに落ちてしまうほど疲弊しきっているキースのことを。喉をいためているのもたぶん睡眠不足のせいだ。思わず仮眠室に運んでしまったが、その身体の熱いこと、そしてあまりに痩せてしまっていること。
「あんまりお気の毒で……きっとすごく神経を張りつめているんだ。あれじゃいつかぷっつり切れてしまうよ。僕が入れたお茶を飲んだ後、《ありがとう》って微笑んだあの顔が忘れられない。あの人はきっと当り前のいたわりさえ、あまり受けたことがないんだと思う。だからあんなに嬉しそうにして……たった、あれだけのことで……」
「ブラド」
ソニアはそっとブラドの肩に触れ、清潔なタオルを渡した。
「確かにキース様はとても大変な状態にあるわ。でも、一番大事なことは、私達が今以上に余計な気を遣わせないことだと思うの。あなたが泣いたり情緒不安定になったりしたら、かえってキース様はお困りになるわ。だから……ね」
「わかってる。でも」
ブラドは目元を押えながら、
「あの、ソニアも、もしキース様が疲れてると思ったら、少し眠らせてあげてくれないかと思って……慰めてあげてくれないかって」
ソニアは一瞬動きをとめた。
ああ、そういう相談なの。
女だから、人を慰めるのが上手だろう、って言いたいのね。
あなたって意外に残酷ね、ブラド。
私はそういう性格でないし、たとえもしそうだったとしても、キース様は私を決してそういう目では見てくれないというのに。あの人はおそらく、他に誰もいなくても、決して私を選んではくれないだろう。
それなのに。
ソニアは薄く笑みを浮かべて、
「ブラド。今日、キース様があなたの腕の中で眠ったのは、あなたの思いやりがちょうどキース様にフィットしたからだと思うの。自然だったのよ。だから楽な気持ちになって、素直にお休みになったんだわ。もちろん私もキース様を見守っていくし、仕事の面以外でも出来るだけ力になりたいと思うけれど、あなたより上手に慰めることはできないかもしれない」
「あ」
ブラドは自分の失言を悟った。自分の感傷にまかせて、ソニアの心を傷つけてしまったことを。
「ごめん、そんなつもりで言ったんじゃないんだ、僕は……」
ソニアは首を振った。
「いいのよ。あなたの気持ちはわかるわ。なんとかしたいって思うのは自然よ。……でも、ノアには私達だけしかいない訳じゃないから。キース様の支えになれる人は一人ではないから」
「あ、……ああ」
ブラドは一人の男の姿を思い浮かべた。
例の長身の東洋人、リチャード・ウォン。ノアの巨大なスポンサーであると同時に、総帥の片腕の地位をキープしている有能な実業家。勤勉で物腰柔らかく、どこか謎めいた微笑の持ち主。
「でも、そんな風にウォンを信じてもいいのかな。確かに今はキース様の支えになってるみたいだけど、でも」
彼がどんな人間なのか、その正体はわからない。とりあえず今の時点では彼の悪意は見られないが、ただ善意の人とはどうしても思われない。そうであるには様々なしがらみや大きな夢や資力を持ちすぎている男だと思う――世界征服、だなんて。
「やっぱりブラドも心配なの」
「なんだ、ソニアもそう思ってたんだ」
「ええ」
一度、キースの親友と名乗る、バーン・グリフィスという青年がノアに来たことがあった。しかし彼はノア内では友の役にたつことが出来ず、結局ここを出ていってしまった。詳しい事情はよくわからないが、どうやら物別れになってしまったらしい。
だが、あのバーン以上にキース様を慰められる者が、今の基地内にいるだろうか。ウォンは確かに長い間、総帥を支えてきているようではあるが。
「そうか。やっぱり、大丈夫じゃないかもしれないんだな」
「ええ」
そしてソニアは、もう一つ別の心配を語り出した。
「リチャード・ウォンがキース様のことを好きなのは嘘じゃないと思うの。今のキース様がウォンに一番心開いているのは、その好意が偽りでないからなんでしょう。でも、好きあっているからといって、すべての面で互いを助けられる訳ではないわ。気持ちが間違った方向に強まれば、何も見えなくなって殺しあうことだってある。愛は憎しみに変わりやすいものだし、つよい気持ちは激しい爆発を引き起こしたりするでしょう。どんな人間もベッドの中では無防備に近いものよ、キース様だって……」
「えっ」
ブラドはびっくりしたように顔を上げた。
「好きって……もしかして、その、そういう好きってことかい」
ソニアは苦笑した。あら、そういう好きじゃなくたって、往々にして殿方同士の友情は、愛よりも恐ろしい結果を生むじゃないの、とは言いかねて、曖昧に言葉を濁した。
「ええ。まあ、そうね」
「そうか。それは……キース様は大変だな」
戸惑った表情のままブラドが呟く。ソニアはうかない顔のまま、
「キース様だけじゃないのよ。ウォンが本気だから怖いのよ。それでちょっと引こうとまでしてるみたい」
「引く?」
ブラドが眉を寄せるとソニアは軽くうなずいて、
「好きになりすぎて相手を引き裂いたら嫌でしょう? ただでさえ、相手を好きになりすぎると、人間て不安になって壊れてしまうのよ。ウォンは今、たぶんそれを恐れているの。だからキース様と距離をおこうとしているみたい」
ブラドは首を振った。
「……そういうの、僕にはよくわからないや」
「あなたはそういう人ですものね、ブラド」
ソニアは皮肉でなくそう呟いた。二重人格ゆえなのかもしれないが、正気の時のブラドというのはどんな子供よりも純真で、人生の複雑な汚い部分などまるで知らないように見える。だから他人の警戒心をとくし、誰にでも愛されてしまうのだが。
するとブラドは弱々しく微笑んで、
「だって、僕はソニアが好きだけど、引き裂きたいなんて思わないから」
ソニアは一瞬言葉を失った。
誰だって引き裂きたくて引き裂くものではないのよ、それにあなたは無意識に相手を引き裂く人じゃないの、と言いたかったのを飲み込んだからだ。その代わりに、
「私だってあなたが嫌いじゃないから、引き裂かれたりしたくないわ」
そう言って無理に微笑んだ。
「あ、ごめん」
ふとブラドが頬を染めたところで、ソニアは自分が口説かれていたのに気付いた。ブラドは自分が好きなのだ。本当に仲間だと思っているし、傷つけたくないと願っているのだ。それが彼の中では、恋と呼べるレベルまで高まっているのだ、と。
私は生身の女ではないというのに。
「いいのよ。気にしないで」
「うん」
ブラドは立ち上がった。背を丸め、いつものうつむき加減で、
「その……もっと早いか遅い時間だったら、またここへ来てもいいかな」
ソニアは一拍間を置いてから答えた。
「私がいる時なら、いつでも構わないけど」
「ありがとう。今日は邪魔してごめん」
ブラドは扉のところまで戻ると、ふと振り返って、
「今度来る時は、キース様のことを相談したりはしないからね」
それだけ言って出ていった。
「ブラドったら」
ソニアは苦笑した。
さっきまであんなにしょげていたのに。あの女たらしは天性のものなのだろう。
「悪い気はしないけど」
ブラドに恋している訳ではないが、好意を持たれたことを不快とは思わない。こういう男女の友情もあっていいと思う。気持ちが華やぐというか、心暖まる気がする。日々の仕事に疲れている時は特に。
「そうね、もしかして疲れているのかもしれないわ。私だってメンテナンスが必要よね」
呟いてソニアは部屋を出た。医局に行ってチェックを受けよう。そしていろいろと試そう、身も心もリフレッシュするために。
久しぶりに心からの微笑みを浮かべながらソニアは歩いた。
それまで自分が何を心配していたか、などということはすっかり忘れて。

3.

自己嫌悪。
「存外浮気な男なのか、私は」
キースの気持ちが沈んでいるのは、今日の昼間のブラドとのことのせいだった。
まさか、あんな風に自分が眠ってしまうなんて。
それに、ブラドの腰に顔を埋めた時のあの安らぎ。
「違う、あれは友愛というものなんだ」
ここ三日ばかり急な仕事が入っていて、それはやりがいもあるしまた丁寧にやらなければならないものだったので、かなり寝不足になっていた。緊張の糸も張りつめっぱなしの数日間だった。
だからといって、他人の腕の中でいきなり寝てしまうなんて。
あの時のブラドの好意が裏表のないものだっただけに、キースにはそれがひどく心地良く感じられて、どうも後味が悪かった。僕は性的にブラドを誘惑したりしなかったろうか、などと考えてしまう。誰かが見て誤解した訳でもないし、それぐらいのことは素直に受け取るべきいたわりといえるのだが、キースの潔癖さはあの程度の抱擁でも、つい自分を責める種にしてしまう。
彼は自室のデスクに頬づえをつき、苦笑した。
「まあ、ウォン以外の人間に癒されていけないことはない筈なんだがな」
それでも、あんな風に誰かに甘えたくはない。いくら微熱があったからとはいえ。別にウォンを裏切っている訳ではないけれど、もしうっかり変な気分になってしまったら自分が嫌いになってしまう。他に心を動かしたくない。だって、いま僕が愛しているのはウォンだけなんだから――。
その時、シュッと微かな音がした。
「キース様」
「あ、ウォン」
いざ愛しい者が目の前に現れると、キースの気持ちはさっと晴れあがってしまった。相手の微笑が柔らかな日差しのように全身を暖めてくれる気がして、思わず少し瞳を細める。ウォンはその手元をのぞきこみながら、
「お邪魔でしたか? 句切りが良くないようならお手伝いしますが」
「そうだな。頼もうか」
二人はデスクの角を挟んで座り、調査書に目を通して決定事項をまとめはじめた。
すぐにキースがため息をついた。
「やはり、二人とも留守にすると、少しでもしわ寄せが出てしまうな」
いくつかの仕事に印をつけながら、
「手遅れの事件はないし、いい知らせも入ってはきているが、意外なところで急ぎですませねばならない計画があるようだ」
ウォンはええ、とうなずきながらも、
「至急のものは、大まかな指示さえ出していただければ、細部立案と実行は私がします。それが私の仕事ですから。とりあえず軍の動向はほぼ確実に掴んでありますから、さらなる悲劇は防げるでしょう」
「そうだな。そうしてくれると助かる」
キースはあくびをかみ殺しながら、
「すまない、ちょっと疲れがたまっているようだ。今ベッドに入ったら泥のように眠ってしまうな」
やんわりとした拒絶の言葉。今晩は君とは寝ないと言っているのだ。ウォンは静かに目を伏せて、
「では、今晩はこの辺にしておきましょう。続きはまた明日お手伝いしますから」
「うん」
しかしキースは、立ち上がろうとしたウォンの袖を掴んだ。
「眠る前に、キスだけ」
ウォンは目をみはった。
私は誘われている。
はっきりと、言葉で、態度で、誘われている。
しかもキースは眠気を帯びた甘い眼差しでこちらを見つめ、
「いまキスをしたらそれ以上我慢できないっていうなら……してくれなくてもいいけど」
ウォンは思わずキースの椅子の傍らにひざまずいた。口唇だけが触れるようにそっと顔を差し出すと、キースの腕がその背にからみついた。
「ああ。ウォンだ」
しみじみと呟くと、豊かな身幅を味わうように、キースは相手にもたれかかった。ウォンもゆっくり手を伸ばして、青年の身体を支えるようにした。
「ウォン」
その口唇は相手を味わうようにゆっくりと動いた。そっと押し付けられて、そして離れて。君が好きだ、と囁くよりも雄弁に、その口吻は愛を語っていた。ウォンは激しい誘惑にかられて、キースの背骨にそって指を這わせ、すうっと撫でおろすようにした。あ、とキースの吐息が尖る。
「駄目だ……ん」
しかし、そのまま彼はウォンの首筋にぐったりと顔を埋め、動かなくなってしまった。
「キース様?」
青年はもう眠りに落ちていた。身体の重みが変わっている。寝たふりではない。
「本当にねむかったのか……」
それにしても、こんなことは初めてだ。
愛撫の途中で寝てしまうなんて。おそらく触れられて気持ちがよくなった瞬間に、ふと緊張がとけて眠りのモードに入ってしまったのだろう。
「そんなに無防備でいると、本当に襲ってしまいますよ」
しかしこの小さな寝息をきいては無体なこともできない。ウォンはキースをそっとベッドへ運んだ。
靴と上着を脱がせて、身体を締めつけているものを全部ゆるめる。着替えさせてもいいが、こんなに疲れているのを起こすのは気の毒だ。
しかしこの、甘やかされ安心しきった赤子の表情。
可愛い。
キースのこんな顔を知っているのは自分だけだと思うと、ウォンは優しい気持ちになって、その銀の髪をそっと撫でた。
「う……ん」
キースの目蓋が震えた。まだ眠りが浅かったのだ。寝る前の仕事が神経を使うものだったので、緊張がとけきってなかったのだろう、こうなると少しの刺激で覚醒してしまう。
いけない、とウォンが慌てて手を引くと、キースの口唇が微かに動いた。
「お母……様」
夢心地らしくキースは淡い微笑みを浮かべて、
「子守歌、歌って」
ウォンははた、と困った。
英語の子守歌などあまり知らない。記憶を辿ってみても、彼の母が歌ってくれたのはどれも中国のものだった。キースは上流家庭の生まれなので、ちゃんとした子守歌を聴かされているかもしれない。知っているナーサリー・ライム(伝承童謡)やらマザー・グースはなくもないが、節も歌もわかっていてなおかつ子供をあやすような歌はとっさに出てこない。
「どんな歌がいいの、キース?」
男の声だから気付くだろう、と思いつつ答えると、キースは嬉しそうに、
「どんなのでも……お母様が新しくつくったのでもいいから」
なるほど、そういうものでもいいのか。知らない歌でもいいのだな。
ウォンはキースの背中に手を回し、あやすように軽く叩きながら、記憶の隅にあったメロディーを、すでにおぼろになった詩を補いながら歌い始めた。

《眠れ良い子よ
揺らり揺られて
月の滴に……》

「ありがとう、お父様。おやすみなさい……」
再びキースは動かなくなってしまった。
ウォンはあやす手をとめて、じっと青年を見おろした。
そうか。
私はこの人の親がわりだったのか、と。

ウォンが自分の明るくない生い立ちをかなり話しておいたせいか、キースも自分のそれを少しずつ語ってくれたことがある。
エヴァンズ家は貴族としてはあまりいい家柄ではなかったが、それでもイギリス社会では上の下ぐらいの階級に属していて、キースの親の代で落ちぶれたとはいえ、かなり格式ばった厳しい教育をなされたらしい。母というひとはやはり美しい銀髪の御婦人で、優しくはあったが生来病弱なため、しょっちゅう郊外で一人孤独な療養生活を送っていた。ゆえに幼いキースはあまり彼女に甘えることはできなかったという。父は政治的な活動で忙しく立ち働いていたが、妻の病気で経済的な困窮に拍車がかかり、あげく死なれてからはかなり偏屈な男になったという。小さい頃はいない母の代わりに子守歌ぐらいは歌ってくれたようだが、物心ついてからのキースは父に構ってもらった記憶がない。適切な乳母もつけてもらえず、ひたすらおまえは身体を鍛えろ、と過度のスポーツを強いられたりしたので、かえってキースは内に籠る少年になってしまったらしい。思い返すと、母は少し超能力らしいものを持っていて、療養先からテレパシーめいたものを息子に送ってきたこともあったようだ。それは病弱な者に現れがちな特殊な力だったのかもしれないが、その母方の祖父もいわゆるカンのいい人だったらしい。イギリス空軍で一番身長の高いパイロットで、戦場では目立ちすぎると揶揄されたが、いい腕の持ち主でかなりの戦績をあげた。しかし戦後は自分が殺した人間の数を誇るのはなんと馬鹿馬鹿しいことだ、沢山仲間を死なせたのに、とかなり長い間鬱状態に陥ってしばらく結婚もしなかった。晩年になって彼の救いとなった、とある健全な令嬢が現れるまでは。

そういえば彼は、祖父は少し君に似ている、と呟いたことがあった。墓石が二メートル以上もあるんだ、あの身体でどうやって狭いコクピットに収まったんだろうな、などと懐かしそうに話していた。この飛行士の祖父は娘によく似た孫を無条件に可愛がったらしい、せっかく得た配偶者を早くになくして寂しかったというから。
「なるほど」
キース様は私に自分の家族を重ねて見ていらしたのだ。祖父や父や母親に求めるものを、すべて私に求めていたのだ。幼い頃の幸せな記憶を、心の故郷を。
どうりで乱れてくれない筈だ。
誰だって、家族と思う者にあえて欲情はしないだろう。
「今晩はこのまま添い寝でもした方が良さそうですね」
ウォンはするりと上着とチョッキを脱ぎ、キースの傍らに静かに横になった。
「もし怖い夢を見たら、私にしがみついてもいいんですよ」
そう呟いて、目を閉じた。

「あ」
翌朝早く、目覚めてキースは驚いた。普段は朝まで部屋にいないウォンがベッドにいて、しかも腕枕までされている。
次に昨晩自分からキスしたことを思いだしてはっとした。誘うようなことをしたあげくに眠ってしまったのだ。そして、我慢させてしまったのだ。下着を脱がされた様子もないし、ウォンも服を着たままで寝たのは寄っている皺でわかる。
「おはようございます」
ウォンは低く囁いたが、その顔はどこか寂しげというか不安そうだった。キースは少しく戸惑いながら、
「僕はあのまま……?」
「ええ。だいぶお疲れで心細い御様子だったので、私もここで寝かせていただきました」
「ウォン」
キースはどきんとした。
泣いた跡は顔にはないようだが、僕はもしかして例の悪夢をよりによってウォンの腕の中で見てしまったのではないのか。寝言で《行かないで》と言ってしまったのではないか。
まるでウォンを全然信じていないかのように。
キースは相手の腕に顔を埋めながら、
「変な夢を見ていた気がする。何か言ってなかったか、僕は」
「いいえ、何も」
ウォンの答には含む響きがあって、キースの鼓動は早まった。
ああ。
やはり、行かないで、と言ってしまったのだ。
「ウォン、君を信じてるからな。あれは夢だ、単なる夢で」
しかし彼は目を細めて、
「わかっています。信じていただけて嬉しいです」
そう呟いたがその顔は、言葉とは裏腹に悲しみに満ちていた。
信じてほしいんじゃない。
家族扱いで安心されるなんて、嫌だ。
私は貴方に、恋人として欲しがってもらいたいのだ。
しかし、そんな事は口が裂けても言えない。
言えるものか。
自分の年齢の半分しかいっていない青年が、こちらを親扱いして甘えてくるのは当り前のことだ。
それなのに私は、だだをこねようというのか。
しかも、これ以上欲しがってもらいたいなんて。
愚かな。
ウォンは自分の瞳が潤んでいるのに気付いた。
駄目だ、こんなところで泣きだしては。キース様が変に思う。それに、どうしてこれくらいのことで泣きたくなるのだ。そう、これっぽっちの事じゃないか。
「ウォン」
キースは思わず相手の胸にすがりついた。
「信じてるんだ、離れたくなんてないんだ。眠ってしまったのは君が相手だから安心してしまって……その……」
相手の悲しみをどうせき止めたらいいかわからず、様々な言葉を継ぐ。
「すまない……もしかして、僕が離さなかったから眠れなかったんだろう、そんなつもりじゃなかったんだ、甘えるだけ甘えて知らん顔をするなんて……ああ、今日一日仕事なんか休んでしまってもいい、埋めあわせにずっと君と一緒に過ごすから許してくれないか」
ああ、そんなに懸命に言い訳をして。
ウォンはぐっと目をつぶって涙をこらえた。
「いいんです、キース様」
家族扱いぐらい、されても構わないじゃないか。
私だって、朝からこの青年と乱れたい訳じゃない。この身体には確かに魅かれているが、それよりも心が欲しいのだ。
だから、ずっと君と過ごすから、の一言がもらえれば充分だ。この人は本当はこんな台詞を口ばしるタイプではない筈だ。
「いいんです」
「駄目だ、まだ君は泣きそうじゃないか」
「泣いてなんかいませんよ」
ウォンはそうっとキースを抱き寄せた。
いま、私しかこの青年を守れる者はいない。安らがせることのできる男はいない。それでいいじゃないか。これが私の仕事なのだ。そして誇りなのだ。
ほら、こうして包み込むだけで彼の表情が変わってきた。
「ウォン」
ため息にも似た囁きがキースの口唇から洩れた。
「その……起き出さなければいけない時間まで、まだ間があるから……だから……」
一度しよう、と頬をシャツの胸に埋めてくる。ウォンはなだめるように、
「でも、お疲れでしょう? 朝からすると消耗しますよ」
キースは少し怒ったような命令口調で、
「これは昨日の夜の分だから平気だ。それに二度も三度もしてくれとは言ってない」
「わかりました。それでは」
ウォンが愛撫を始めると、キースはまるで枯葉に火がつくようにぱっと燃え上がった。欲しかったんだ、欲しかった、とうわごとのように呟いて強くウォンを求めた。久しぶりといっていいほど乱れ、寂しい子供の素顔をのぞかせた。
「まだ終わらないで……離れたくない……まだ」
「キース様」
ああ、変わっていない。
ウォンは胸に何かが満ちるのを感じた。
そう、これが私が好きになった彼だ。普段は大人らしく理性の鎧で冷たく全身を覆っているくせに、いったんそれを脱ぐと激しい情熱を溢れさせる幼子である彼。言葉ではあまり言わないけれど、溶けたような眼差しで、可憐な身振りで、甘い吐息で、つまり全身で精一杯《愛している》と伝えようとする。ああ、こちらの想いに応えようとこんなに必死になって――可愛い。
「離れませんから、終わりにしますよ」
そう言ってウォンはキースの熱情を巧みに一段落させ、その後を清めた。
「あ……」
まだ震えがとまらない若い肢体をなだめるように優しく口づけ、
「このまま抱きしめていますから、少し眠って下さい。そうですね、三十分たったら起こして差し上げますから」
キースはチラ、と壁の時計を見上げて、その時間の意味するところを知った。部屋を出る仕度その他を考えていつも通りに仕事を始めようとすれば、それ以上は休んでいられまい。キースは呼吸を整えると念を押すように、
「三十分でちゃんと起こしてくれるんだな?」
「ええ。間違いなく」
「わかった」
キースは大人しく目を閉じた。けだるい疲れと心地よさが、あっという間に彼を眠りの世界へ引きずり込んでいく。
ウォンは低く囁いてみた。
「キース」
大丈夫、反応しない。昨夜よりも深く、ちゃんと眠っているようだ。
ウォンはあらためて、キース・エヴァンズという青年をじっくりと見てみた。
本当なら、まだ子供なのに。
十八を成人の年齢と考えれば子供扱いすべきではないのだろうが、実際の十八の青年でこんなに無茶な仕事を一人で背負っている者がいったい世界にどれぐらいいるか。すべての超能力者に平和と安らぎを、などという曖昧な目的を掲げて本気で実践しているのだ。それは若さゆえの美しい理想なのかもしれないが、彼は出来るところから本当に一つずつ成し遂げているのだ。そう、世界征服よりもよっぽど難しいことを。力や金で他人をねじふせるのはある意味簡単だ。目の前にある敵を倒すだけで平和が来るのならば、戦略をたてるのもそんなに難しいことではない。殺せばいいだけなら。
しかし、彼が真に戦っているのは見えない敵だ。ノアの外部にも内部にも自分の中にもある、悲しみや憎悪や妬みや卑屈さだ。
誰も癒せないこの世のマイナスに、こんな小さな身体一つで立ち向かって。
けなげだ。
「軍がはっきり敵と決っていれば、私も苦労しないんですがね」
例えば軍の研究所を潰すことだけがノアの仕事、と決っていれば、ウォンはいくらでもキースに協力してさっさとそれをすませただろう。しかし研究所内に捕らえられている者の保護、他の研究所や政府機関の対応への影響、軍以外の秘密研究所の存在などを考えればそう簡単にはいかない。まして研究所にまだ捕らえられていない者の保護や破壊活動でない諸方面への働きかけなどを同時に行っているのだ、暴力テロばかり起こしている訳にはいかない。
もしかして、いっそノアに必要なのは巨大な敵なのかもしれないと思うことがある。人がもっともよく行動できるのは、自分に対する悪の存在がはっきりしている時だ。それがあれば、キースも細かいことに神経を使う時間がなくなって、かえって今より楽になるだろう。彼のしたい正義を思う存分遂行できるようになるだろう。
思えばウォンの十代は、親族への憎しみと我が身を守ることで過ぎた。今のキースと同じ年の頃、庶子の彼の周囲は敵だらけだった。そして二十代は彼ら血族への復讐で始まった。この手を何度も朱に染めた。しかし、今考えると、あの頃は余計なことを考えずにすむという意味では幸せだった。邪魔者すべてを廃し、一族の長の座を得た時、彼が得たものは満足よりもむしろ虚無感に近いものだった。だから彼は再び誓ったのだ。こんなちっぽけな会社一つで自分は満足すまい、この世界すべてを手に入れてやる、と。
ああ、そろそろ三十分がたつ。まだこの安らかな寝顔を見ていたいけれど、約束通り起こしてあげなければ。
すると、キースは薄く瞳を開けた。
「……時間か?」
「ええ。よくわかりましたね」
「いや、君の身体の緊張の具合が変わったから」
キースはすっと身体を起こした。脱いであったものを簡単に身につけて、
「シャワーを浴びてくる。ちょっと待っていてくれるか?」
「私は急ぎませんから、ごゆっくりどうぞ」
「うん」
キースは無表情にも似たぼんやりした顔で、シャワールームへ歩いていった。寝起きらしいしっかりしない足取りの後ろ姿を、横になったままウォンは見つめていた。裸のまま行かないのが潔癖症の彼らしい、そういうしどけなさが嫌いで見せたくないのだな、などと考えながら暖かい眼差しで。

首から下の全身にぬるめの湯を弱くあてながら、キースはじっと立ち尽くしていた。
「……」
僕は全然ウォンのことを考えてない。昨晩少しでも眠れたのか、彼は。三十分たったら起こせだなんてよくも言ったものだ。一日一緒にいてもいい、と言った舌の根も乾かぬうちから。
そして僕は汚い。身体でごまかすようなことをして。
あのウォンの悲しそうな顔は本当はなんだったんだろう。その意味を知るのが怖くて、その苦しそうな表情をそれ以上見ていたくなくて肌身でなだめようとしたのだ、僕は。
いや、元々僕という男は卑怯なんだ。
ウォンが本当に欲しいなら、夜、彼の部屋に自分から行けばいいのにそれをしない。僕は、向こうから触れてこなくても、とりあえず向こうから部屋に来たという事実から、自分がより多く愛されていることを確かめたいのだ。なんと馬鹿げた考えだろう。
キースは湯の温度をあげ、水流を強くして頭からかぶるようにした。
「……臆病な。いっそ、あの悪夢を話して笑いとばしてしまえばいいのに」
流れる湯の下、声にならない声で呟く。
自分の不安の原因はわかっているのだ、それを正直に話せば、ウォンだって安心して何もかも話してくれたかもしれない。
だが、言えなかった。
「だって、笑い話にならなかったら?」
もしウォンがノアを離れる計画を立てていても、自分には止める術がないのだ。彼が何を考えているか、本当のところは知らないのだから。メリットがなくなるか、より大きなメリットの得られる場を見つければ、彼はこの秘密結社を即座に捨てていくだろう。本来、サイキッカーの平和が目的でここにいる男ではないのだから。
今のところ、ウォンが自分を好きでいてくれるという確信はある。現在の彼の優しさは嘘ではないだろう。しかし、それが彼をノアに縛りつける理由にはならない。愛など醒めるものだし、また、常に一緒にいなければ醒めるものなら愛でもあるまい。それに、愛がまだ死んでいないのに別れてしまう恋人同士は沢山いる。様々な理由で彼らは離れてゆく。
だから、僕達がそうならない、と誰が断言できるだろう。
開いた口唇に湯が流れ込んで滴り落ちる。水分と空気を含んでふくれた髪が顔を覆う。首筋を、肩を、背中を、熱い流れが叩き続ける。
押し流されるように、舌から、髪から、肌から、ウォンの味が、匂いが消えていく。
顔を濡らしているのは涙ではなかったが、自分が声を殺して哭いているのをキースは感じていた。聞かれてはいけない。悟られてはいけない。この不安を。悲しみを。僕は苦しくなんてない、幸せなのだ。僕は恋人と愛の朝を迎えた満たされた男なんだ。だから、そういう顔で、そういう態度で、ウォンの前に出ていかなければ。

キースは髪と身体を拭き、顔をあたってから新しい服をつけてウォンのところに戻った。ベッドでじっと待っていた彼は、さっぱりとして出てきたキースの姿に目を細めて、
「髪がまだ濡れて……」
「すぐに乾かす。君もシャワーを使うなら使ってきてくれ。服を着るなら着て」
ぶっきら棒に返事をして、ベッド脇の小さな鏡の前で、ハンドドライヤーを使い始めた。
本人にとっては無意識なほど慣れた仕草だが、ウォンは目のあたりにしたことがなかったので、櫛を通された銀の髪がふわふわに戻っていくのをじっと見つめていた。
「どうした?」
あっという間に八分どおり乾かして、キースはこちらを振り向いた。ウォンはゆっくり身を起こし、ベッドを出て上着に袖を通しながら、
「いえ。一緒にシャワーを使ったことはあっても、あまり髪を乾かしているのを見たことがないのは不思議だな、と思いまして」
キースは苦笑して、
「元々人に見せるものじゃないからな。急ぎでなければ君にもあまり見られたくはない」
「そうなんですか」
ウォンがなるほど、と感心したようにうなずくので、キースは首を傾げて、
「君だってドライヤーぐらい使うだろう。珍しい光景でもないし、見ていたいようなものではないだろう?」
「こんな風に朝、ぎりぎりまで貴方と一緒にいるのは珍しいですからね。それに、ふっと、貴方のすることは、みんな見ていたいと思ったんです……ですから……」
その顔と声がなんとも幸せそうで、キースの胸は暖かくなった。
よかった。もうウォンは悲しんでいない。とりあえず大丈夫のようだ。
それなら僕も心を翳らせる必要はない。このまま微笑みかえせばいい。
「ウォン」
「はい」
キースは上着と短套をつけながら、
「昨夜の仕事の続きだが、午後、指令室脇の書斎で手伝ってもらいたい。君の予定は大丈夫か?」
「それは大丈夫です」
ウォンは即答し、頭の中でスケジュールを組み直した。今日はそれで問題ない筈だ。
「そこまで急いでいらっしゃるのなら早めにすませましょう。資料は午前中に私がもう一度検討しておきますから」
「ああ。いや……その」
キースはうなずきながらも軽く頬を染めて、
「全部昼にすませておけば、夜は空くだろう? それでその……たまには僕も君の部屋へ行って、ゆっくり朝まで過ごせれば、と思って……だから……」
言い終えてさらに赤くなった青年を、ウォンは思わず抱きしめてしまった。
「キース様」
ああ、今、時をとめてしまいたい。
さもなくば、この幸せよ永遠なれ。
いや、私が貴方と永遠にともにあればいいのだ。
この命が尽きるまで貴方のために生きよう。その汚れない魂のために。
「ウォン」
抱きすくめられて、キースも熱い想いに満たされていた。
愛されている。
僕は今、間違いなく愛されている。
全身に染みるように彼の気持ちが伝わってくる。そしてそれが、本当に嬉しい。
「キース様、口吻だけ……あとは夜まで我慢しますから」
「うん」
互いの身体に腕を回して、短いけれど気持ちを込めたキスを交わす。
「じゃあ、僕は先に行くから」
「ええ。行ってらっしゃい」
キースが部屋を出ていってからしばらく、ウォンはじっとそこで幸福感を噛みしめていた。
本当に時が止まればいい、と彼は念じた。
自分以外の者の時を本当に止められる筈の男が。
恋に目がくらんでいるから、彼はまだ気付いていなかったのだ。どんな時に人が時を止めることを望むかということを。それは幸せの絶頂にいる時で、これから先にこれ以上希望できることはないと本人が悟っている時、もしくは失意のどん底に叩き落とされることを予想してしまった悲しい時なのだということを。
そう、世界中の時は止められても、二人分の生を動かすことは自分に出来ないということ――それを、ウォンは、忘れていた。

4.

「不思議なものだな」
その午後早く、指令室で書類のチェックをしながら、キースは自分の身体と精神がカタカタと心地よく働いているのを感じていた。
「うまくいく時というのは、なんでも順調にすすむものなのか」
ノアに必要な人材が不思議なほど次々と集まってきている。そして適所で成果をあげている。トラブルの種が減りつつある。めどのついたジグソウパズルが楽しくてたまらないように、それは心地よい興奮を引き起した。もちろん片付かない問題はノア内外に残っているが、それはむしろじっくり構えるべきものばかりなので、キースの神経をひどく傷つけたりはしない。
「もう、あまり悪夢も見ないしな」
一週間前、ウォンの部屋に行った晩から、例の夢を見ていない。独り寝をしていても、行かないで、と泣きながら目覚めるようなことはなくなっていた。
「ウォン」
思い出すだけで全身が暖かくなる。あの日のことは。

だいぶ夜も更けた頃。
ウォンの部屋の前まで来て、キースは急に全身が緊張するのを感じた。
シャワーを浴び、新しい服をつけ、意を決して来た筈だった。
いまさら何だ。
仕事とはいえ、今日は午後もずっと一緒に過ごしたのに。
そう思いながらも、心臓の鼓動が早まって仕方がない。
それを押さえつけるように素早くインターフォンを押し、キースは低い声を出した。
「私だ」
「開いていますよ。お入り下さい」
戻ってきた声の穏やかさに、キースは少しほっとしながら部屋に足を踏み入れた。
ウォンはデスクの端末に向かっていた。キースを半分振り返るように見て、
「すみません、とりあえずそのソファで待っていて下さいますか」
言いながら再び端末をのぞきこみ、何回かタタン、とキーを叩いて画面を閉じる。
その間、ソファに落ち着いたキースは、部屋の中をぐるりと見回していた。
ウォンの私室はこんな風だったのか。
考えてみると、本当にここに入ったことがない。
彼にしては地味な部屋だと思う。中華趣味でゴタゴタと飾りたてていると思ったが、それらしいものは東洋風の黒い大きな衝い立てと金糸の房のついた暗い緋色の絨毯ぐらいで、それ以外は有能なビジネスマンらしくきちんと片付いた清潔なたたずまいだ。棚に並んでいる数カ国語に渡る雑誌の類や幅広いジャンルの音楽ディスクなど、意外な品の良さ、趣味の良さを感じさせる。
ウォンな何気なく立ち上がり、自分が飲んでいた中国茶を新しいカップについでキースに差しだした。
「何だ?」
「桂花茶です。気持ちが落ち着きますよ」
「桂花?」
キースが首を傾げると、ウォンは柔らかく微笑んで、
「ジャスミンの類もそう呼びますが、これはキンモクセイのお茶です。味はほろ苦いですが、後にいい香りが残るんですよ」
「……本当だ」
熱い液体を口に含み、喉を通すと、不思議に甘い花の匂いが漂った。確かに気分が落ち着くようだ。変なものが含まれているような味もしないので、キースはそれをすぐに干してしまった。
「もう一杯、お飲みになりますか」
「うん」
茶を入れるウォンの仕草はゆっくりと焦りがなく、反対にキースは少し焦りはじめていた。どうやって誘ったらいいだろう。部屋に入ったらぎゅっと抱きついてしまおう、などと考えていたのだが、こんな風に普通に迎えられてしまうとどうしていいのかわからなくなる。
そんなキースに気付いたのか、ウォンはようやく彼の脇に座ってくれた。
「どうぞ」
「有難う」
受け取った茶を飲みながら、相手の様子をうかがう。
あ。
この匂い。
よく洗って乾かした髪の匂いがする。
キンモクセイの香に混じって淡いが、それはウォンの髪からしていた。
なるほど。
抱きすくめにもこないし普通の顔を装っているが、実は相手もいそいそとそういう仕度をしていたのだと気付いて、キースは少し可笑しくなった。
「どうなさいました?」
「なんでもない」
洩れる微笑をごまかすように、キースは相手の胸元に寄りかかった。口吻を求めるように目を閉じ顔を仰向けると、ウォンは彼をソファへそっと押し伏せて、
「今晩は、本当に朝までここでゆっくりしていって下さるんですね……」
その低い囁きは、深くキースの胸に染みた。
まるで長く逢えなかったような、訳ありで人目を忍ぶ恋人のような台詞。
ただこの部屋を自分から訪れただけなのに、そんなに嬉しそうに念を押さないでくれ、と思いながら、キースは小さく呟き返していた。
「うん……でも、ソファじゃ……その……」
「わかりました」
舞踏家のように優雅にその身体は離れ、ウォンはキースを寝室へいざなった。手をとられ、滑るようにベッドまで運ばれ横たえられて、キースはそれだけで甘い情感に溺れた。
「君のベッドは、天蓋付きじゃないんだな」
上着のボタンを一つずつ外されて、とりとめない想いの中でキースは呟いた。
ウォンのことだから寝台は広いと思ったし、それは事実そうだったが、なんとなく四本の支柱が凝った天蓋と豪奢なカーテンを支える例のフォーポスターという奴では、と思っていたのだ。ウォンはああ、と軽く眉をあげ、
「別荘にはありますよ。キース様が天蓋をお好みでしたら、基地内にも入れさせますが」
「いや。そうじゃない」
フォーポスターは静かだし、寝ている顔をぶしつけに見られることがないのでいいものだが、ふと病身の母を思いだした。恋人とのベッドにはもしかしてふさわしくないかもしれないと思って、キースはそうじゃない、を何度も繰り返した。
「では、貴方の好きなものを教えて下さい。なんでも構いませんから」
ウォンは静かに青年の身体を抱きよせる。
キースは薄く口唇を開いた。相手の上着をするりと脱がせて、広い背中に腕を回す。
「……君だ。君の全部」

「う、ん……」
腕と身体が痺れる感覚に、キースは目を覚ました。ウォンが珍しく、彼の左半身に顔を埋めて眠っていたのだ。自然にかかる体重はかなり重いものの、ほかならぬ信頼の証に思えて、おいそれと身動きがとれない。
「ウォン」
小さく呼びかけてみたが、答はない。
しかし、ウォンはふとキースの腕の付け根あたりに頬をこすりつけ、心臓の鼓動を確かめるようにしてから安心の吐息を洩らした。
子供が懐くような、もしくは、年長の恋人の腕の中で甘えるような仕草。
こんなウォンは初めて見る。
「昔の恋人でも思いだしているのか……」
そう考えても、不思議に嫉妬心は起こらなかった。相手は自分より十数年を多く生きてきた男だ。年上の恋人もいくらもいたろう。誰かの胸にすがりついたことがあったろう。その相手を羨ましいとは思わなかった。例えば未来の恋人にも、ウォンがこんな無防備な様子を見せる日がくるかもしれない、などと想像してみたが、それでも悲しくならなかった。逆に言えば、それだけキースは満ち足りていた。今のこの一瞬の記憶だけで、一生涯ずっと幸せでいられる気がするほど、心は安らいでいた。
「あ」
ウォンがふいに目を覚ました。はっと身を起こして、
「もう朝ですか?」
「ああ。もうすぐ起きる時間だ」
「そうですか」
妙にがっかりした声を出すので、キースは思わず苦笑して、
「心配しなくても、そんなにすぐに出ていったりしないぞ」
「いえ、うっかり眠ってしまうなんて、と……」
一晩中眠らないで愛しあうつもりでいたのに、とでもいいたげなので、キースはその頬に優しく手を伸ばし、
「いいんだ、君の寝顔を見てるだけで幸せだったから」
だが、頬も染めずそう言いきった青年を、ウォンはむしろ悲しげな瞳で見つめた。
「キース様」
「うん」
口唇に相手の吐息を感じて、キースは目を伏せた。
しかし、ウォンの口唇はすぐに離れた。もう一度触れてきたが、それも何故かためらいがちなキスだった。
「……?」
いぶかしんだキースが目を開くと、ウォンは不安げに口唇を離した。本当に触れてもいいのか、応えてくれるのかというような心細げな表情。それでいて離れられない、離れたくないというニュアンスのある距離を保って止まっている。
その瞬間、キースの脳裏にウォンに最初に抱かれた晩の情景が閃いた。
そうだった。
どうしてあの時抵抗できなかったか、すっかり思いだした。
あの晩も、ウォンがこんな口吻をしたからだった。いつも自信たっぷりで、やることなすことスマートな大人の男が、まるでうぶな少年のような頼りないキスをしてきたからだ。《貴方が好き、貴方も僕が好き?》と尋ねるような口吻。《貴方の瞳があまり美しかったので》などと言い訳を囁く声もかすれかかって、その恋情が演技や偽りでないことをはっきり示していた。
だから、拒めなかったのだ。
いや、むしろすすんで応えていた気がする。愛されるのが嬉しかった。ウォンが自分を愛してくれているのが嬉しかった。切ない瞳で見つめられて、胸が苦しいほどだった。いろんなことを考えた。いつの間にウォンは僕をこんなに好きになったんだろう、戸惑っている様子なのは、もしかして今日触れてみて初めて気付いたんだろうか。僕はどうして厭じゃないんだろう、こんな夜を内心待っていたんだろうか、ウォンにならこの肌を許してもいいなんて今まで考えたこともなかったのに、何故こんなにすんなり抱かれてるんだ、しかもそれが嬉しいなんて。別にウォンが嫌いな訳じゃないけど、でも……そのうち何も考えることができなくなった、愛撫に溺れまい、狂うまいとするのが精一杯で。
あの晩からもう長い時が過ぎた。その間、互いの気持ちを確かめなければならないような事も何度かあった。そして解りあい、身も心も開いて溶けあった。そのたびに絆が強くなったと感じた。
それなのに、どうして今日は微笑んでくれないのか。
笑顔が見たい。この幸福感を、君とわかちあいたい。
「何か心にかかることでもあるのか?」
「いいえ。ただ、貴方と離れたくないだけです」
そう言って、ウォンはキースの左胸に口唇を押した。
「あっ」
まだしびれが残っていた部分に触れられたので、思わず変な声が洩れた。
「駄目だ、そこは……っ」
大きな掌にすっと撫でられて新たな情感が生まれた。キースが身をよじって逃れようとすると、ウォンは微妙な場所で手を止めて、
「お厭ですか、もう」
「そうじゃない……そうじゃなくて……ああ!」
返事もできず堪えることもできなくなって、キースは自分からウォンにすがりついた。
「キース……様!」
それから二人はひとしきり激しくもつれあった。
身体の昂ぶりがおさまっても離れられず、潤んだ瞳で見つめあい、熱い口唇を重ねた。
「どうしてこんなに愛しくてたまらないのか……」
ウォンにそう呟かれ髪を撫でられた瞬間、いま死んでしまいたいと思った。今までも何度かきいた台詞だった、それなのにキースの胸も愛しさに痛んでたまらなかった。いっそ死んでしまえば二度とこんな怖ろしさは感じずにすむ、だから殺してくれと口走ってしまいそうだった。
口唇を堅く噛みしめた恋人を見て、ウォンの手が止まった。
「どこか苦しいのですか、キース様」
「うん……君のせいだ」
声が震える。泣いてしまいそうだ。
「君があんなキスをするから……胸が苦しい」
「キース様……」
包みこむようにあやされると、涙がこぼれはじめた。
「君の、せいなんだからな……君の……いまさら、あんなにこわごわキスするなんて……怖くなるじゃないか……」
「すみません、あまり幸せすぎて不安になってしまって」
「ウォン……不安だなんて……」
「すみません」

あの翌朝のことは、思い返すと頬が染まる。だいぶ恥ずかしいことを言ってしまった。あんならちもない甘え方をしたのは初めてだったせいか、ウォンもしばらく戸惑っていたが、最後は上手になだめてくれて落ち着いた。笑みかわすこともできた。
「ウォン……」
どんな辛い日々を過ごしても、生きてさえいればこんな穏やかな気持ちを味わえる日も来るんだな、とキースは薄く赤らんだ頬を押さえた。
不思議な一体感がずっと続いている。抱き合ったのは何日も前のことなのに、今も肩を抱きしめられている気がする。彼が隣に座っていて、その腰や足の体温をしみじみ味わっているような感覚がある。後ろからそっと抱きすくめられて、口吻を降らされている感触が蘇る時もある。身も心も愛されていると思うと、こんなにも幸福感が長続きするのかと我ながら驚く。
「それにしてもあのウォンが、幸せすぎて怖い、なんてな」
二人きりの時は、むしろ大人らしく接しない方がいいのかもしれない。子供らしく我が儘をぶつけた方が、ウォンにとっては嬉しいようだ。なるべく素直に、甘えていい時にはうんと甘えてみせた方がいいのだ、きっと。
ああ、そんなことを考えるだけで、淡い情感が全身を包んで――。
「キース様。入ってもいいですか?」
その時、インターフォンの向こうから聞こえてきたのはブラド・キルステンの声だった。
「ああ。入りたまえ」
キース・エヴァンズは思わず姿勢をただし、表情を引き締めた。総帥の威厳で入って来る痩身の青年を待つ。
「キース様。お話ししたいことがあるんですが、お時間少しよろしいですか」
「構わない」
キースは机上の書類を整理し、片肘をついてブラドの方へ身を乗り出した。
「それで、どうした? そういえば、新しくきた医者はどうだ? 君の症例にふさわしい人材を選んだつもりだが、もしあわないようなら変えるから遠慮なく言ってくれ」
「いい方です、すごく」
ブラドは嬉しそうにうなずいて、
「二重人格だと困る、という考え方を変えようって言って下さって……人間は誰でも凶暴性ぐらい持っているのだし、様々な側面を持っているものなんだから、人格の統一を無理にはかろうとしてはいけないっておっしゃるんです。それよりも、普段の人格の時にもっと自分の喜怒哀楽を出していくことを考えようって。殺人発作が起こっても実際相手を殺さなければなんとかなるものなんだから、日常生活の方をむしろ豊かにしていこうって。その方が緊張が少なくなって、破壊的な行動に出ることも減る筈だっていうお話なんです」
「そうかもしれないな」
キースはふむ、とうなずいた。
常に善人であろうとすると誰でもストレスが溜り、かえって凶悪な事件をひき起こしたりする。しかし適当に息を抜くことができ、なおかつ自分を的確に表現できるようになれば、ほとんどの人間は馬鹿なことをしなくなるものだ。
正しい学者が来たな、とキースは満足した。東洋人は陰陽といって物事を二面的に物事を捕らえるという。西洋の人間は自己同一性を重視するので、裏表のある者を裁きたがる傾向がある。ブラドのような病者の場合、発想の転換がはかった方がきっといい結果をうむだろう、と東洋系を選んだのが正解だったようだ。
「良かった、これで君の苦しみも少しずつ和らいでいくだろう。本当に良かった」
「有難うございます」
ブラドが頭を下げると、キースはいや、と首を振った。
「別に私の手柄ではない。それに、先日は世話になったしな」
「あ、実は、その……」
ブラドは急にしどろもどろしはじめた。
「ああすまない、君の話をきくんだったな。それで、用件はなんだ?」
「あの、話というのは、その、この間の……」
そこで言葉を失ったブラドは、デスクを回って、総帥の椅子の脇までやってきた。
「キース様」
「ん?」
翳りのない瞳で相手を見上げたキースは、次の瞬間、額に濡れた口唇の感触を覚えた。
「ブラド!」
全身がゾク、と震えた。
今の口吻は何だ、いったいどういうつもりで――。
するとブラドは身を屈めたまま呟いた。
「キース様。僕なんてたいして物の役にたちはしませんけど、でも、正気の時の僕はいつもキース様の味方です。だから、もし僕で良かったら、辛いことでもなんでも話してください。キース様が少しでも楽になるのなら、僕、何でもしますから」
それはどうやら純粋な好意らしかった。キースを抱きたいとか恋人になりたいというのでなく、他の人間で埋められない部分があったら思いだしてください、自分もいますから、という程度の申し出らしい。
キースはほっとして微笑を取り戻した。
「有難う。頼りにするよ、ブラド」
「いえ、その、本当に……」
そういう意味ではなくて、いやそのそういうつもりでは、などと慌てるブラドに、キースは優しい視線をあて、
「わかってる。君の好意はとても嬉しい。よろしく頼む」
掌をとって堅く握手してやる。
「キース様……」
なんとなくぽうっとなってキースを見つめるブラド。
次の瞬間、ソニアがいきなり指令室に飛び込んできた。
「失礼します、キース様! 今すぐブラド・キルステンをお預りしたいのですがよろしいですか!」
「ああ、ソニア」
キースは少しも慌てず掌を放し、
「私は構わないが。ブラドは?」
「いえ、その……構いません」
ブラドはそのまま指令室を引っ張り出され、キースは笑顔で見送った。
どうしてソニアが無作法に飛び込んできたのか、ノア総帥はうかつにもまるで気付いていなかった。
そして、ブラドの方は気が付いていた。
「悪いけど、副指令室のモニターであなた達を見ていたの。それで、私の言いたいことはわかっているわね?」
「うん……なんとなく」
ソニアの私室まで連れてこられたブラドは、すっかりうなだれ打ちひしがれていた。椅子にも座ろうとせず、部屋のドアに寄りかかったまま、
「わかる気がする。今のをソニアが見てたってことは、ウォンが見てた可能性があるってことだね?」
「そうよ」
ソニアは大きなため息をついた。
「そういうことにすぐ頭が働くなら、どうしてあんなことをしたの……いきなり額にキスするなんて、まったくあなたらしくないじゃない。余計な誤解を招くわ」
「うん。僕もそう思う」
「じゃあ何故」
ブラドは首を垂れたまま低い声で、
「……ウォンがどうして、キース様に夢中になったのかわかる気がする。支えられているのは自分の方なのに、それでもなんだか守りたくなるんだ。だって、部屋に入るまで、キスなんてする気はなかったんだ……それなのに、キース様の顔を見てたら、凄く綺麗で、抱きしめないようにするのが精一杯だった。僕でさえふっとそんな気持ちになっちゃうんだから、恋人は本当にたまらないと思う、きっと」
「ブラド」
「ソニア、ごめん」
それきりブラドは、口唇を堅く閉ざしてしまった。ソニアはその肩にそっと手を置いた。
「もういいわ。あれをウォンが見ていないことを祈りましょう。見ていても誤解しないことを祈るしかないわ」
「……」
ブラドは、黙ってソニアをそっと抱き返した。
しかし、ソニアの祈りは無駄だった。
時、すでに遅し。
ウォンは見ていたのだ、すべてを。

★ ★ ★

「キース・エヴァンズの敵、か」
その昼下がり、ウォンは私室で集まった資料に目を通しながら低く呟いた。
ノア内部の業務はこの一週間でだいぶ整理した。これで、キース様もだいぶ動きやすくなっている筈だという確信さえある。
あと、必要なのは、適切な仇役だ。倒すべき目標だ。
彼は資料の中に、ずっとそれを探していた。
「こればかりは難しい……」
ノア総帥が相手するにふさわしい敵となると、ある程度の条件をクリアしてないといけない。キースの気持ちを魅きつけられるよう、あまり弱すぎず、むしろ手ごたえがあるぐらいの存在でなければならない。そして、特定の一個人であることが望ましい。集団に対する敵意というのは焦点がボケて長持ちしないからだ。また、まるで見知らぬ相手であってもいけない。人間の憎悪は基本的に知人に向けられるものだからだ。全然関係ない場所で生まれ育った赤の他人を敵に選ぶ者はいない。
その条件にあてはまる、妥当性のある者は誰だろう。
「ゲイツでは役不足だしな」
ゲイツ・オルトマン――キースに配偶者と幼い娘を殺された気の毒な軍人の名だ。正しく言えば、キースが米空軍サイキッカー研究所を逃げだそうとした時に、ゲイツの妻子が基地爆破に巻き込まれただけのことなのだが。つまりは完全な逆恨みなのだが、当のゲイツは自らの身体にサイボーグ手術をほどこしてまで、打倒キースに燃えている。
鋼の肉体に復讐心を秘めた軍人は手強い。手ごたえという意味では条件をクリアしている。しかし、実際にキースとゲイツが闘ったらどうなるか。
「ゲイツは軍の一兵士に過ぎない。彼を倒しても何も変わらない。そんな小物とキース様を闘わせる訳にはいかない」
それに、わざとではないが、妻子を殺しているという負い目があっては、キースも憎悪の矛先が向けにくいだろう。
「軍という着眼点自体は間違っていない筈だ……」
キースが一番憎んでいるのは軍だ。直接に恨んでいるのは米空軍である。そして、世界各国の軍事力のバランスを考えても、敵にすべきはアメリカだろう。
「軍、か」
物心ついた頃から世界を我が手に、と考えていたリチャード・ウォンにとって、軍と軍事力は常に興味の対象内だった。小学校の頃、平和教育と銘うって、女性教師がある資料を授業で配ったその日から。
「……一九四五年以来、人類は米ドルに換算して核兵器に四兆ドルも費やしてきました。これは、地球上の全人類を十二回以上殺すのに充分な量です」
少年時代のウォンはそれをぼんやり聞き流していた。明日の核兵器よりも今日の刺客の方が切実な問題だったからだ。半分しか血のつながらない兄達の攻撃は時に容赦ない。父の目の届かない学校内などはかえって危険で、授業などよりも保身に考えが行く。
女性教師は続ける。
「ただし、人間が一回以上死ぬなどという仮定はまったく意味がありませんから、これは実際には、地球上すべての人間を一回だけ殺すために、七億ドルが支出されたことを意味します。しかも、支出額はすでにその十二倍なのです」
彼女は戦争というのはなんと無駄金を使うものか、と訴えたいらしかったが、ウォンはむしろ薄く笑った。説得力のない話だ、と。
無駄金だろうとなんだろうと、それは金の流れである。兵器の売買が国家経済を支えている国があるという事実を忘れてはならない。一般民衆から絞りとった税金で兵器を買ったり流したりすることが、経済の発展をうながすというのは実に矛盾しているが、それが現実なのだ。武器商人ぐらい儲る職業はない。おそらく手腕ある者にとってはそれは面白くてたまらないだろう、戦争という幻影で国を軍を操り渡り合い、おそらく永遠に使えない負の商品を売りさばくことは。
しかしウォンは核には興味がなかった。廃棄後の処理問題についてやかましい論議がすでになされていることを知っていたからだ。処理技術の遅れは目に余るもので、現場にも優秀な人材が育っていない。そして基本的に、他人の後始末をする産業は儲らない。先行きの暗い核兵器や原子力発電などのことを考える暇など自分にはない、とウォンは思っていた。武器ならば、今後はもっとクリーンなものを開発すべきだ。だいたい人殺しというのは、直にやってこそ面白いものだ。かけひきの道具などにしたら味が落ちる。核を使うなどというのは、殺人の方法としては下の下の下だ。
全く小学生らしくない思考をめぐらすウォンの上に、教師の講義の声が降り続ける。
「二十世紀にはもうすでに二百七回の戦争があり、七千八百万人が命を落しました。世界の国々の三分の二、世界の人口の九十七パーセントが、最低でも一度は二十世紀中に戦争に巻き込まれています。第二次世界大戦以降百二十回の戦争がありましたが、その大半が第三世界において発生しています。一九四五年から一九八五年までに、九十三カ国の新しい国が誕生しましたが、その多くはなんらかの戦乱を経たものです。そうした国の大半が、領土内に外国の軍事基地や軍事施設の駐留を抱えています。そしてその多くが軍政下にあります」
女性教師はそこで一拍間をおき、チラリとウォンを見た。
「そんなことを、皆さんはすべて他人事だと思っているかもしれません。軍政下にない国の人間には関係のないことだ、彼らが苦しむのは気の毒なことだけれど、僕達に何が出来るだろうと考えてしまうかもしれません」
ウォンは平然と相手を見返し、サラリとノートにペンを走らせさえした。そして彼女も眉をひそめたりせず、堂々と先を続けた。
「しかし、軍や戦乱は飢餓を引き起こし、難民を発生させ、国家間の力関係を狂わせます。そして、なによりも地球を汚染しているのです。環境破壊という言葉がありますが、戦争のように何のプラスにもならない活動が、一番地球環境を悪化させているのです。地上も、そして大気圏外も、すでに戦争によって汚されています。新しく生まれてくる子供達は、ほとんど百%、何らかの欠損をもっています。現在の地球では、一国の危機が他国に深刻な影響を及ぼしてしまうのです。例えばミューテイションといって、特殊能力を持つ人が時々ニュースになりますが、あれも地球全体の状況が激変しているために生まれてきたという説があります。実際、遺伝子学者の中には、二十世紀に入ってから傷つけられたと推定される遺伝子があまりに多いという報告をする人もあり……」
さすがにウォンは顔をしかめた。教師本人はあてこすりのつもりはないだろうが、超能力を秘めたおまえは環境破壊の犠牲者なのだと決めつけられてしまっては面白くない。
僕が時を止める力を持っているのは、誰のせいでも何のせいでもない、ただいずれ、自分がこの世の覇者として立つにふさわしいからこそ備わったものなのだ、と彼は心の中で呟いた。
もちろん、近い将来、地球規模でのなんらかの改革は必要だろう。
しかしそれは、自分の仕事ではない。
単に軍事力を持つだけでは、全世界を征服できないように。
「私も本当に可愛げのない子供だった」
回想からさめてウォンは苦笑した。物の考え方があの頃からあまり変わっていないな、と。あくまで軍は使うものだ、という発想さえ。
「軍は使いようだ……適切な指導者がいれば、力を発揮する組織の筈だ。だからこそそこに逸材があれば……」
ノアの良い敵ともなるのだが。
「まあ、これは慌てる必要もない」
ウォンは資料を置き、眼鏡を軽く押し上げて端末に向かった。スイッチを入れ、画面を何度も切り替える。
「ふむ。何処も問題はなさそうだ」
彼が見ていたのは、基地の要所要所に仕掛けておいた超小型監視カメラの映像だった。超能力でも暗視カメラでも発見しにくい材質と光源を使っているそれのモニターテストを、ウォンはノア基地内でやっていたのだった。研究は順調といえた。元からあるモニターにも映っていないし、今までのところ誰も気付いていない。そう簡単に察知されてはテストにならないが。この基地の設計自体、ウォンが深く関わっているので、そのアキレス腱も死角も熟知している。彼の胸ひとつにおさめてあるこのカメラの秘密を知る者はノア内にはいない。
「これだけの性能があれば、すぐに実用化出来るだろう」
サイキッカーの能力にも限界がある。好不調もある。ウォンは時を止める自分の超能力にこそ絶大な自信を持っていたが、テレパス、感応力といった類の力の不足を感じていた。ひとを欺くにしろ民心を束ねるにしろ、相手の動向を把握することは大切なことだ。こういった機械でできるだけ補わねば、と考えていた。部下の報告だけでは偏りが出る。物事の判断は自分の目で確かめてから下したい。
それが孤高の君主たる彼の方針だった。自身が有能すぎるため、無能な他者を信じられない一種の不幸である。
「……ああ」
順繰りに画面を切り替えている最中、指令室に仕掛けたカメラが、総帥が職務を遂行している姿を写しだした。
「キース様」
ウォンはしばしそれに見とれた。
自分の腕の中で、日に日に美しくなっていくキース・エヴァンズ。
その笑顔は甘い蜜をたたえて咲ききった花の風情。手折りむさぼり尽くすしかないその魅惑。しなやかな肢体と滑らかな素肌の熱さは、離れていても忘れかねるほど。そして、寄せられる無防備といっていいほどの一途な信頼。
「苦しい……」
ああ、何が苦しいというのだろう。
キースに信頼されるのは嬉しい筈だった。しかしウォンは、何故か底無し沼に溺れていく感覚を味わっていた。それは恐怖だった。命を狙われてあわや、という時にも感じたことのない寒さだった。自分の全身が砂糖か何かで出来ていて、キースという水にさらさらと溶かされていくような気さえする。
元々ウォンにとって、信頼と裏切りは二つでワンセットだった。他人を信用させるというのは、欺くことと同義なのだ。だから今まで彼は、純粋な意味で他人を裏切ったことはないと言える。ただ最初から騙してきただけだと言い切れるからだ。
しかし、この場合は違う。
信頼させたのは利用するためではない。最初はそのつもりだったが、今は違う。
愛しているのだ。この人のために何かしたくて、そのために信用してもらいたいのだ。
親がわりにされようと構いはしない、とさえ思っている。
愚かな。
この自分のなんというだらしなさだろう。恋人の映像に見とれ、ふれもしていないのに心を震わせ、その上恐れるとは。愚かとしかいいようがない。
「……っ!」
その瞬間、ウォンは信じられない映像を見た。
ブラドの接吻を受けて、逃げないキース。
そして。
「キース様。僕なんてたいして物の役にたちはしませんけど、でも、正気の時の僕はいつもキース様の味方です。だから、もし僕で良かったら、辛いことでもなんでも話してください。キース様が少しでも楽になるのなら、僕、何でもしますから」
「有難う。頼りにするよ、ブラド。君の好意はとても嬉しい。よろしく頼む」
掌をとって堅く握手してやるキース。
その打ち解けた笑顔。
「ブラドごときに……っ!」
全身が嫉妬で沸騰した。
わかっている、キースがブラドに対して恋情など持っていないということは。
しかし、どうしても許せない。
「あんな……あんな表情を……」
自分以外の者にたやすく心開き、あの笑顔を見せるとは。
わかっている、自分以外の者に微笑みかけてほしくないのなら、閉じ込めて誰の目にもふれないようにしてしまえばいいのだと。
しかし、問題はそこにない。つまり――かつての親友のバーン・グリフィスが相手ならばともかく、たかがブラドにそんな顔を安売りすることはない。
ああ。
私一人にその信頼が向けられていると思うからこそ、ここまで努力してきたのに。
「ふふ……ふふふふふ……ハハハハハハハ!」
ウォンはいきなり笑いだした。
いる。
ここにいるではないか。
キース・エヴァンズの好敵手にふさわしい者が――腕が立ち、明晰な頭脳と優れた技術を持ち、個人として明たるカリスマ性を備え、ノア総帥と感情的に密接なつながりのある男が。
その男がキースを手酷く裏切り、米軍超能力研究所に入れば、敵として最適の条件が満たされる。
ウォンは目元に涙がにじむほど笑い続けた。
「こんな簡単な事に気付かなかったとは! ああ、私が貴方の敵になれば、何もかもうまく行く!」
そうすれば、キースは永遠に私を忘れない。
四六時中、私のことを考えていなければならなくなる。
そして私は、貴方に気に入られるために、心を震わせたり苦しんだりする必要がなくなる。これからは、貴方の前に財界の王者のみならず軍を掌握する者として立ちはだかり、思う存分憎んでもらうのだから。
貴方に正面から闘いを挑まれる瞬間に、私はこときれてもいい。
そういう恋ならば、きっと堪えられる。
「キース・エヴァンズ。……愛していますよ、キース!」
ひとしきり笑って気がすむと、ウォンはそっと涙をぬぐった。
端末画面を切り替え、いくつかの秘密のコマンドを入力する。新たなプロジェクトのためのパスワード。
何もかもが、世界中のサイキッカーの運命が、そして全世界が、ウォンの指先の動きひとつで決まろうとしている。
この瞬間、世界は本当に彼のものだった。
彼のものでないのは、キース・エヴァンズの意思のみ。
そして悲劇は、深く静かに進行しはじめた。……

5.

「本当にこんなことが出来るんだな」
その夜キ−スは、指令室から私室に戻ってきて、ほっと一つため息をついた。
新しくノアへやってきたサイキッカ−達が、それぞれあてがわれた部屋に引き取って一段落したのである。
百人を越える彼らは、すべて無事に到着した。
「君のおかげだ、ウォン」
そう呼ばれて、連れだって入ってきた長身の東洋人はいつもの微笑で応えた。
この快挙はすべてリチャード・ウォンの手腕によるものだった。米空軍第十七サイキッカー研究所に捕らえられていた超能力者達を、まるで無傷で、つまり、交渉だけでノアに引き取ることができたのだった。
今回ウォンは、軍研究所のみならず、その資金源に巧みなゆさぶりをかけていた。そのおかげで、研究所は資金難でほとんど閉鎖するしかない状況に追い込まれたのだった。どんな機関であれ、先立つものは金である。金銭的にむくわれない仕事を喜んでやる者はいない、まして超能力者相手の危険な仕事をすすんでやりたがる者は元々あまりいなかったのだ。しかし困るのは捕まえていたサイキッカー達の処分である。一番簡単なのは皆殺しであるが、すでに人員の減りつつある研究所内では、そういったことも容易でない。
そこへ彼はこう持ちかけたのであった。私がすべていいようにしてあげましょう、本当に超能力者の研究をしたい学者はウォン財団の私設研究所で仕事を続けられるようにしますし、研究所内のサイキッカー達は、全員ノアに引き取って軍の機密は洩れないようにしますし、軍研究所を秘密裡に閉鎖する費用は私が出しましょう、と。
それで今回の超能力者解放計画は、武力を行使することもなく完全な勝利をおさめたのだった。
キースは繰り返した。
「有難う。これは、君でなければ出来なかったことだ」
そう、これは海千山千のウォンでなければ出来ないことだ。普段からダーティワークをいとわず、全世界の財界と緊密な関係を結んでいる実業家だからこそなせる業だ。
「いえいえ、すべての国のすべての研究所で今回の方法が使える訳ではありませんよ」
礼を言われてウォンは目を細めながら、
「超能力を使わなくともこれだけのことが出来る、という例にすぎません。たまたま現在の第十七研究所に、軍が貴重と考えるサンプルがいなかったから成功したのです。キース様は流血沙汰がお嫌いですから、たまにはこういうやり方もいいかと思いまして」
「ウォン」
キースは本当は武力行使が嫌いだった。同胞を研究所員達に殺されたことに対する怒りはあるが、だからといってやたらに人間を殺すのは本音の部分では嫌なのだった。
何故神は、強力な氷の超能力など彼に授けたのだろう。暴力への強い嫌悪を持つ彼などに。出来れば世界征服などしたくないと考える平和主義者に、あんな残酷な日々を与えたのか。
ウォンは静かに目を伏せた。
「それより、これからが大変です。彼らはあまり戦力になりません。超能力が微弱だからこそ、軍も簡単に手放したのです。しかし、数だけは多い。彼らをまとめてゆくのはあまり簡単なことではありません。下手をするとノア全体が烏合の衆になってしまいます」
キースはすうっとウォンに身を寄せて微笑んだ。
「それぐらいのこと、君の手腕があればなんということもない。……手伝って、くれるんだろう?」
「ええ」
ウォンは優しく微笑み返し、
「私になら、できますよ」
そう、私には何でも出来るのだ。こうして貴方の役にたつことも、そして貴方の害になることもできる。不幸のどん底へ突き落とすことさえ。
そう、準備はもうほとんど整っている。
後は、効果的な一瞬をどうやって狙うか、だけだ。最大限の効果をうむ瞬間をつくり、機が熟すのを待つだけだ。
「ウォン」
目を閉じたキースを抱き寄せて口唇を奪う。
「ん……」
されるままに陶然の表情を見せるキース。
そして、ウォンもまたその口吻に酔っていた。
初めてだ、こんなキスは。
裏切りの味というのは、こんなに甘美なものなのか。
今まで、欺いてきた多くの人間と口唇を交わしてきたが、こんな風に痺れるほどの味わいはなかった。
ふいに残酷な衝動が湧き上がる。この場でキースを死ぬ目に遭わせたい、というような。
「あ……あれ」
ほっとしたせいか、キースの瞳から急に涙が溢れ落ちた。
「なんで、涙なんか……」
ウォンはその背を軽く叩いて、
「お疲れなんですよ。少し休みませんと」
キースは頬をこすりながら、
「そうだな、今日はいろいろあったから気が抜けたんだ。たぶん、そのせいだ」
「今晩は、お一人でゆっくりお休み下さい」
「そうする」
ウォンはキースが上着を脱ぐのを手伝ってやり、ベッドの脇まではついてきた。
「それでは」
と身を翻そうとしたウォンに、キースは思わず声をかけた。
「行かないで……」
言ってからはっとして口元を押さえる。ウォンはおや、と眉をあげ、
「どうなさいました?」
「ウォン……」
キースは既視感に襲われて、激しい眩暈を起こしていた。
例の悪夢の中でみたのは、今のウォンだ。
どうして? どうしてそう思う?
どうして行ってしまうと思うんだ? どこにそんな根拠がある?
混乱したキースの口唇から、不安がどっと溢れ出した。
「行かないでって言いたくないんだ。君に、行かないで、なんて言いたくない……これは言ってはいけないんだ……だって君は自由だから……縛る気なんてないんだ……それなのにどうして行かないで、なんて言ってしまうんだろう……言ってはいけない……」
「ああ、神経がたかぶってらっしゃるんですね」
ウォンはキースをベッドに座らせ、自分もその脇に座った。
「行きませんよ。今晩、貴方が眠るまでここにいます」
「そうじゃなくて……そうじゃ、なくて……」
頭を抱えてしまったキースの肩を抱き、
「キース様は、私を信用してくださっているのでしょう?」
「うん」
「行かないで、と言ってもいいんですよ。いつまでも側にいて欲しい、と言うのは、命令ではないんですよ。縛る気なんてない、だなんて寂しいことをおっしゃらないで下さい。私は居たくてここに居るんです。貴方の愛が欲しくて。むしろ貴方の信頼にがんじがらめにされたいんです。ですからもっと欲しがって下さい。必要として下さい」
「うん……有難う、ウォン」
キースをあやし寝かしつけながら、ウォンは新たな喜びを感じていた。
もう、私は揺れない。
この青年に何を言われようと、優しい恋人の演技が出来るじゃないか。
疑問を抱かれても軽くかわすことも出来るし、いきなり殺すことだって出来るだろう。
この純粋な魂をもてあそぶだけもてあそび、そして冷酷に捨てる。
その空想だけでも楽しかった。
私は本来そういう男だった筈だ。年が自分の半分ぐらいしかない若造に振り回されるような小物ではないのだ。
さて、そろそろキースも私の計画に気が付き出したようだ、早めに決着をつけた方がいいようだな。
口唇に淡い微笑を浮かべながら、ウォンはいつまでも青年の髪を撫でていた。
本人は気付いていないが、ひどく名残り惜しそうに、どうしても離したくないように。

6.

「キース、おまえは間違ってる!」
「バーン」
昔の親友が、もう一度ノア地下秘密基地を訪れることは予想されていた。キースはむしろ確信さえ抱いていた。半年も間をあけずに来るとさえ思っていた。もう一度友人として話しあおう、と言ってくると。
しかし、来るなりバーンは激しくキースをなじった。
「俺はおまえが、本当は平和な世界を望んでると思ったんだ。ノアは超能力者の避難場所で、サイキッカーに必要な組織だと思ってた。でも、あんなことしてちゃ駄目だ。絶対駄目なんだ!」
地下通路の中央にシュンッと結界がはられた。
バーンは本気だった。本気でキースと闘うつもりでいた。ほとんど叫ぶようにして、
「なんなんだよ、あれは。軍の施設も民間の施設も無差別に襲いやがって。サイキッカーもそうでない人間も皆殺しにしやがって。あれがおまえのやり方なのかよ! 今のおまえはどうかしてる!」
「どういう意味だ、それは」
「知らないとは言わせねえ! ノアのテロ活動がな、軍でも秘密にしきれないほど派手になってるってことだ! 毎日ガンガンニュースで流れてらあ!」
「嘘だ……」
キースは茫然とバーンを見返した。
「嘘だ! それこそ軍の情報操作だ! 私達はそんなことはしていない。騙されているんだ、君は!」
「白ばくれるな! 全然思い当たらないみたいな顔すんじゃねえよ!」
バーンの全身が炎に包まれ、猛スピードでキースに突っ込んでくる。キースはバリアでそれを素早くかわしながら、
「バーン! 話をきけ!」
「それは俺の台詞だ! 耳を塞ぐな、キース! わかってる筈だ、真実がなんなのか!」
キースは全身が痛むのを感じた。
それはバーンの物理的攻撃によるダメージではなかった。バーンの言うことが本当だと直感で悟ったからだった。自分が望んでいない殺戮と悲劇――僕は騙されていたのだ、目くらましをかけられていたのだ、一番近い者に裏切られていたのだ、と気付いたからだった。
だが。
ウォン。どうして。
僕のためを思ってか?
それとも自分の利益のためにか?
しかし、本当に君なのか。
僕が無駄な血を流すのを嫌いだと知っていて手を尽くしてくれた君が、本当にそんなことをしたのか。
信じたい。君を信じたい。
裏切られることなんて、とうの昔に覚悟していたけれど、行かないで、と泣きもしたけれど、でも、今は君を信じたい。
だって、君は……!
「キース!」
隙を突かれて、キースはぐっと胸ぐらを掴まれた。
「キース、おまえは間違ったんだ。どうして……どうしてあいつを選んだんだ!」
バーンは泣いていた。
どうして俺を選ばなかった、選んでくれなかったのか、と。
田舎町の片隅で目立たず生きる道を、平和をのぞんで地道に活動する道を、と。
しかしキースは首を振った。
それは僕のとるべき生き方ではない。バーン、君のことは好きだ。だが。
「僕は君を選べない。過去も、今も、そして未来も、二度と君を選べない!」
「キース!」
殴りかかろうとするその刹那。

「今ですね」
軍用ヘリの中、モニターをのぞいていたリチャード・ウォンは、無雑作にリモコンの起爆スイッチを入れた。
高度千メートルでも聞こえる、にぶい爆発音。
外部からの攻撃ならICBM三発の直撃にも耐えられるノア秘密基地であるが、内部の要所に爆発物をしかけておけば脆いものでる。
ウォンならではの仕事ではあるのだが。
この爆発で基地内はほぼ壊滅状態に陥るだろう。大勢が無意味に無惨に死ぬだろう。力ない者が滅びるだろう。新しいプロジェクトに必要な強力な超能力者達は、すでに選び出し移動した。エミリオの様に精神的に弱い者は眠らせて。ガデスのように裏表のない男は説得して。そしてノアという秘密結社を潰した功労を認められ、私は軍の一員として迎えられる。当座の階級を持たされて、軍サイキッカー部隊のトップとして活動を始めるのだ。
「ウォン少佐」
仮につけられた軍の目付け役の下仕官が、続く爆破音に耳を傾けながら呟く。
「これで本当に、ノアは完全に機能停止するのですか?」
ウォンはふふ、と鼻先で笑い、
「今の爆発だけで全員殺せはしません。脱出口で掃討部隊が待ちかまえていますが、強いサイキックパワーを持つ者はどうしても逃れるでしょう」
そう、この程度でキース・エヴァンズは死ぬまい。おそらくバーン・グリフィスも。
「しかし、それでは……!」
ウォンはリモコンを胸のポケットにしまい、相手を制するように指を立てて、
「慌ててはいけません。何度も何度も叩くことです。彼らが組織を立て直せなくなるまで、いいえ、その希望も失うまで、徹底的にね。急いで全員抹殺するよりも、その方が効果的なのですよ。世間に対するアピールにもなりますし。ノアが悪なのだ、軍のサイキッカー部隊はそうでないのだ、という宣伝に使えるのです」
「あなたは軍というものを御存知ない。軍というのはそういう弾力的な組織ではないんです」
「果して、本当にそうですかねえ……まあ、部下に意見される程度には弾力的のようですが?」
皮肉を言われて下仕官は黙ってしまった。
それが事実だからだ。ウォンがすでに少佐として軍に組み込まれてしまっているので、民間人の分際で、とは言えず、部下として命令に従うしかないのだ。
これからこいつは好き放題にやっていくぞ、上層部はいったい何を考えているのだ、と下仕官は口唇を噛んだ。
それを見透かしたようにウォンは笑った。
「まあ、ゆっくり見ていなさい。私もそう愚かではありませんよ。なにもかもいいように事を運びます。補佐官殿をキリキリ舞いさせるようなことはないでしょう」
「少佐、私はそのような……」
「感情が正直に顔に出る者は好きです。君をいじめるつもりはありません」
そう言ってウォンは遠くを見つめた。
そして、胸の奥にしまった一つの笑顔を抱きしめて祈った。
時よ、時よ速く流れよ。
この不思議な痛みが少しでも早く薄れるように。
覚悟していたこの別れが、新たな希望につながるように。
「さあ、そろそろヘリを軍研究所へ!」
その時、ウォンのいつもの朗らかな声にかすれはなかった。
これですべてを完全に思い切った、とでもいうように。

★ ★ ★

「消えろぉぅ!」
その叫び声と共に、超能力の棺に飲み込まれて空中の一点で動けないバイオロイドの胸が、紫の長剣で鋭く貫かれた。
パキィンという衝撃音、そして相手の敗北を示す落下。
「……終わりだ」
長剣を出した金髪の青年は、肩を大きく喘がせながら自分がしとめた相手をキッとにらみつけた。
強い憎しみを秘めた暗い菫いろの瞳。
そんな凶悪な表情をしていなければむしろ美しいほどの顔なのだが、感情を鬱屈のひといろで塗りつぶされて、そんなことに構っていられないといった風情だ。先ほどまで《闇に染まれ!》などと叫びながら全力で相手に殴りかかっていたのだから、殺気だっていて当然といえば当然なのだが。
その頭上に穏やかな声が投げかけられた。
「合格です。今日はもういいでしょう、あがってきなさい」
「ウォン少佐」
強化ガラス張りの監督室を見上げた青年の表情が、そこでやや和らいだ。結界を解くと、命令のままに訓練室を出た。二十代の伸びやかな長身を白い特殊スーツに包み、軍人らしいいかめしい歩き方でウォンの前までやってくる。
「新しく追加した技の具合いはどうです? ミラーズコフィンはやや隙が大きいようですが」
「今ご覧いただいた通りです。使いこなしてみせます」
上官の柔らかな問いに、間髪をいれず青年は答えた。無能を嘲られるのを極度に恐れたスピードだ。かえって余裕のなさを露にしているのにも気付いていない。ウォンは例の不思議な微笑を浮かべて、
「では、更に使いこなすための新たなプログラムを組むことにしましょう。栄えある人工サイキッカー第一号にふさわしい訓練をしなければ――君には期待しています。今まで機械人形にしか適合しなかった能力を、こんなに素早くマスターした生身の人間は君だけなのですから。実際、素晴らしい」
青年の瞳に微かな光がさした。
「ありがとうございます……その、光栄です……」
緩みかけた声を、そして口唇を、再びきっと引き結ぶ。
明らかに、誉められるのに慣れていない様子。
そして、慌てて人を信じまいと取り繕う仕草。
わかりやすい、とウォンは心の中で呟いた。
この青年は、今までずっと《何者か》になりたかったのだ。生まれ落ちてから二十数年間、誰一人として彼の資質を認めてくれた者がなかったらしい。手本となるべき父親が人生の敗北者としかいいようのない意気地のない男で、彼もまた多くの屈辱を味わってきたという。軍ならば、強力な武器と厳しい規律で自分を救ってくれると信じて入隊したのだが、実際の軍はそのような場所ではない。弱い者は強い者の餌食となる。規律はひどく甘いもので、また決して平等でない。精神的にも肉体的にも再び打ちのめされた彼は、人工サイキッカー計画が軍内部で希望者を募るときいた時、真っ先に志願した。他人にない力さえあれば、大勢が認めてくれる。何かになれる。満たされる。今までの屈辱を晴らせる。
そう考えた彼を選んで拾いあげたのが、元民間実業家、現在軍サイキッカー部隊を統率する特殊将校リチャード・ウォンだった。
ゆえにこの青年は、ウォンに対しては今のところかなり従順だった。素直に言うことをきき、意外なほどの進歩をとげている。
わかりやすい。
つきあうには、こういう輩が楽だ。
ウォンは優しい眼差しで青年を見つめながら、自分の過去をかえりみた。
ある意味、私達は似ている。長年積もらせた屈辱を、自分自身の手で晴らしたいと願う気持ちはわかる。人として正しい復讐の仕方といえるだろう。愚かしい衝動だとそしる者もあるだろうが、それこそ人の心の暗部を知らぬ愚か者の発言だ。
私達は間違っていない。
自分の人生の道は、自分で選び、歩いていくものなのだ。たとえそれが他人の目から見て誤った誇りであろうと、他人に操られ歪められ強制された道を歩くより正しい筈だ。
「少佐……御命令を」
「ああ」
青年は、物思いに沈んだ上司にやや頼りない声を投げかけてきた。ウォンは鷹揚にうなずいて、
「第一段階はほぼクリアしたようですから、今後、君をコードネームで呼びます。名前は刹那――君の名前は刹那です」
「SE・TSU……NA?」
発音しづらいのか、妙なくぎり方で繰り返す。ウォンは聞き取りやすいよう、青年の左後ろに回って耳元で囁く。
「ええ。刹那です。日本という東洋の国の言葉で《瞬間》という意味です。素早さと的確さの意も含んでいます」
「日本の言葉、ですか?」
「ええ。君はサムライの瞳をしていますから」
「サムライ――あの、誇り高い勇敢なファイターのことですか?」
「そうです。時を操る私の第一の配下として、そういう国の言葉、そういう意味の名も、なかなかよいでしょう」
「セツナ……」
もう一度呟いて響きを確かめている。
日本語では、それに一つ母音をつけ加えると、どうしようもなく胸が苦しい、という意味になるんですよ、とウォンは小さく呟いた。
「わかりました。刹那ですね」
新しい名が嬉しいらしい。くすんだ表情がだいぶ明るんで、愛らしいぐらいに見える。
ウォンはふと興をそそられて、さらに青年に身を寄せた。
「今晩、君の部屋を訪ねても構いませんか、刹那」
「少佐」
御用があるなら呼びつけてくだされば、と言いかけて、刹那は口をつぐんだ。
腰に押しあてられたウォンの掌の感触が、今夜の用が何かを如実に伝えてきたからだ。
「……ご期待に添えるといいのですが」
無理強いされた記憶が多すぎるのか、刹那の口唇は皮肉に歪んだ。ウォンはおや、と肩をすくめ、
「今まで君が、私の期待にそむいたことはありませんよ」
刹那は目を伏せた。慇懃に身を引いて、
「……わかりました。お待ちしています」

「何故、泣くのです」
「……ふっ……う……」
ベッドの上で、刹那は顔を覆ってすすり泣いていた。ろくな言葉もでない有様だ。
そんなにひどくした覚えはない。焦らし過ぎたりもしなかった筈だし、醜い行為を強要したりもしなかった。さして抵抗もされなかったし、もし初めてだったとしても終わった後で惨めな思いをするような愛撫はしなかったつもりだ。それなのに。
「何がつらくて、そんな……」
「あ……」
ウォンの掌に髪を撫でられて、刹那はようやく声を絞りだした。
「違い、ます……こんなに優しくされたのは……初めてで……それで……」
彼の涙は赤ん坊のそれだった。暖かく包み込まれて身も心も裸にされ、新たに生まれ変わった者が流す涙だった。あなただけは信じていいんですね、いえ、信じさせてください、さもなければ死んでしまいます、と濡れた瞳で懸命に訴えている。
「可哀相に。今まで利用されるだけで、愛されたことがなかったんですね」
「少佐!」
青年は激しく泣きはじめた。切なさを埋めて欲しいとばかりにウォンの胸にしがみついてくる。
「可哀相に……刹那」
抱きしめてやりながら、ウォンもまた別の悲しみに浸されていた。
どうして私は、キースという青年をあれほど怖れなければならなかったのだろう。
彼だって刹那とそう変わりはしない。氷の鎧の下に寂しさと脆さを秘めて、いつも私を待っていてくれた。受け入れようと必死に努力してくれた。その魂に魅かれ、肌身に溺れそうになるのは自然のことだ、何もあんなやり方で遠ざけなくてもよかったではないか。殺すような目に遭わせる必要など、本当にあったのか。
しかし。
もう遅い。
遅すぎる。
今更後悔などしたとて。
刹那は少し落ち着いてきたのか、そろそろと泣き顔を上げてウォンを見つめた。
「少佐……」
「ベッドの中ではウォンと呼びなさい。誰もきいていないのだし、私は本来軍の人間ではありません。階級など、外の社会では全く無意味なのですから」
「……ウォン」
だが、そう呼ばれた瞬間、ウォンの瞳にもふっと涙が沸き上がってきた。
「刹那」
もう一度しっかり青年の身体を抱き寄せると、ウォンは歯をくいしばって泣くのをこらえた。
これはすべて決めたことだ。後悔すべきことではない。
それにもう、引き返すことはできない。
何もかももうすぐ動き出す。
そう、次は敵として貴方に会おう――キース・エヴァンズ。
「愛しています……」
その低い呟きを聴いて、刹那はさらに強くウォンにしがみついた。
誰に対して向けられた台詞なのかも知らず、ただ必死になって。

西暦二○一二年、時満ちた世界は、新たな悲劇の幕をきって落とそうとしていた。
だが、その舞台の結末を知るものは、まだ誰一人としていなかった……。

……To be continued to 《PSYCHIC FORCE 2012》.

(1998.2脱稿/初出・恋人と時限爆弾『風の行方(fate of wind)』1998.3/参考文献・東洋経済新報社「新フェミニスト経済学」マリリン・ウォーリング/篠塚英子訳)

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