『HONEYMOON』

「う……ん」
コーヒーの香りで目が醒めた。泳ぐようにシーツの中でひとしきりもがいてから、ようやく上半身を起こす。
素肌に感じる暖炉の熱。昨日脱いでおいたシャツに袖を通す。少し冷たい。
「おはようございます、キース様」
湯気のたつ分厚いマグカップを一つずつ両手に持ちながら、リチャード・ウォンはベッド脇に近づいてきた。午前中にふさわしい、ミルクをたっぷりと入れたコーヒーを手渡されて、キースはそれを掌の中にくるみこんだ。
「熱いですから気をつけて……どうしました?」
キースがカップを見つめたまま口をつけないので、ウォンは首を傾げた。するとキースはカップをヘッドボード脇の小卓に置いてしまい、
「これを飲む前に……おはようのキス」
ウォンは一瞬虚をつかれた顔をしたが、自分もカップを置くと、ベッドに腰掛けてキースの身体を抱きよせた。
なんとなくぎこちない、口吻。
キースは気付いていた。どうやらウォンは、朝から戯れかかるのが苦手らしい、と。夜はあんなに優しくスマートなのに、翌朝になってこちらから身を寄り添わせたりすると意外な戸惑いをみせる。きぬぎぬに相手から迫られるのが初めてという訳でもあるまいに。それとも、キースという普段淡泊な青年が、朝から甘え求めてくるのが驚きなのだろうか。いやらしい、と嫌われてしまったろうか。
でも、せっかくの休暇なんだから。
ノア内部ではなかなか落ち着いて二人で過ごすことが出来ないので、一週間の休みをこうして外でとることにしたのだった。
これはいわばハネムーンなのだ。
だから、昨夜のことはすべてどこか儀式めいて。
借りきった山奥の小さなロッジ。ささやかな晩餐とアルコールの味のキス。ほろ苦く、だがじんわりと痺れるような。
いつもよりさらに優しく抱きしめられて、柔らかく沈みこむようなベッドの中、キースは自分のあげる声がいつもと違うことに気付いた。堪えきれずにはねあがって。理性の弦が震え出して止まらない。恥ずかしい、と思わず呟いて身を硬くすると、大丈夫ですよ、と囁かれ、愛撫の手を緩めてあやされた。しかし安心すればするほど喜びが深くなって、しがみつかずにいられない。おかしくなってしまいそうで。
「……怖い」
「大丈夫、私を信じてください」
しかし、そういうウォンの瞳も潤んでいた。情熱を抑えようと必死になっている顔。愛しいひとをこれ以上怖がらせたくない、とでもいうように。キースは胸を熱くしながら、
「信じてる……だから、受け止めたい……んだ。全身で、君の想いを」
「キース様」
「愛して……」
キースはそっと相手の胸板に口づけた。ウォンはぴく、と身をこわばらせたが、キースを静かに包むように抱きなおした。
甘くとろりと溶けてしまいそうな心持ち。
「ウォン」
思わずため息を洩らすと、その口唇をそっと塞がれて。
「ん」
口吻だけで気が遠くなって、また少し不安になった。受け止めきれるだろうか、この情熱の激しさを。身も心もすべて開いたら、壊されてしまわないだろうか。
ふと、ウォンが低く呟いた。
「もし、貴方をこれ以上好きになってしまったら……私は、どうしたら……」
悲しげな瞳。
幸福の絶頂によくある破滅の予感をキースはそこに見た。いつかくる別れ。もしくは裏切り。感情の変化。新しい恋人。横恋慕の嫉妬。組織の解体。年齢差。主義や嗜好の違い。喧嘩。古い愛人に対する冷酷さ、残忍さ、軽蔑の眼差し。
「ウォン。今は今だ。もし僕をいま好きなら、愛してくれ。不安なのはわからなくないけど、後で君にズタズタに引き裂かれたって、僕は恨まないから……君が、好きだから……」
「キース様」
ウォンの声には驚きがあった。まだ十八歳の――十六も年下の青年が、いつの間にかこんなにしっかり自己主張を始めている。そう、本当に内気で、今まで自分を愛してくれ、などととても言えなかった、あのキース・エヴァンズが。
「そんなに私を信じてよいのですか」
「信じてくれと言ったのは君だろう」
「でも」
ウォンは何か言いかけ、そしてやめた。
「……そうですね、その通りです」
そして二人は愛し合った。何故か二人とも、初めての夜のように緊張していた。しかしすぐに好きあっていることを改めて確認し、深く深く交わった。キースの喜びの声にもうためらいはなく、ウォンも自分の情熱をためらわず吐き出して、優しい眠りに落ちるまで互いを何度も味わった。
そう、そのすぐ翌朝だというのに、このよそよそしさ。
口唇が離れると、ウォンはそれ以上触れようとはしなかった。立ち上がって再びカップを手にとり、キースに背を向けて飲み始めた。
キースもカップを手にとって、まだ冷めていないコーヒーを口に含んだ。
これはなんなんだろう。
気がすんでしまった、というやつか。
えてしてずっと追い続けてきた相手が自分の手の内に完全に落ちてしまうと、ごちそうさまでした、もういいや、という気になることがあるときいたことがある。
それとも、なんと淫乱な、と呆れられでもしたか。
自分から動きも動かしもした。凄くいい、などと口走ったのも昨晩が初めてだった。恥ずかしくはあったけれど、感じているのを知らせたかった、君の愛撫に夢中なんだと教えたかった。二人っきりで誰かが聞き耳をたてている訳でもないから、そのくらいのことをしても言ってもいいと思った。それに全身で応えたかったから――愛している、好きだ、欲しい、と。
「ウォン……あの」
口をついて出たのはなんとも頼りない声で、キースは思わず赤面した。不安がもろに出てしまっている。
「はい?」
振り向いたウォンはいつも通りの微笑を浮かべている。キースはさらに口ごもって、
「いや……なんで今日は紅茶じゃないんだ?」
キースもウォンも朝はコーヒーの人間ではない。少なくとも基地内では。ウォンはああ、とうなずいて、
「紅茶は冷めると美味しくなくなりますから。それに、こういう朝はコーヒーの方が《らしい》と思いませんか?」
「そうか」
夜明けのコーヒー、というやつか。
ウォンも意外に世間にあわせようとするらしい。世界を自分の法律で支配しようと考える男の発想とは思えないな、とキースは苦笑した。ウォンはそれに気付かぬ様子で、
「さて、これからシャワーになさいますか、それともそろそろ朝食を?」
「そうだな」
キースは首をかたむけ、昨晩の痕や匂いをすぐに消してしまうのも厭だな、と思い、それからふと思いなおして、ウォンに向かって腕を伸ばした。
「シャワーにする。君と一緒に」

半分ほど湯を張った大きなバスタブ。上から細かく霧のように降り注ぐシャワー。
「あ」
声を上げたのはウォンの方だった。キースの口唇に胸を吸われて。
大人の男の声。
しかし濡れた、艶めいた声。
口唇を噛んで堪えようとする仕草にそそられて、キースはさらに舌を動かす。
心をこめて、気持ちをこめて。
「ふっ……」
ウォンはバスタブの縁をきつく掴みながらも、ズル、と湯の中に沈みこんだ。キースがそれを支えようとして、やはり滑って沈みかける。ウォンがそれを受け止める形で下になる。幸い二人ともどこも打たなかった。
「受け身でいると怖いという気持ちが、少しわかりましたよ」
体勢を立て直しながらウォンが言う。濡れてしまったキースの頬を掌でぬぐいながら、
「自分の意識を手放して、相手にすべて委ねるのは、信じていても怖いんですね」
「怖かったのか? あれっぽっちのことが、君でも?」
「ええ。キスだけでも」
最初はウォンがキースを清めようとしたのだが、キースからウォンに口づけたところでそれが逆転した。普段自分がされているように指で触れ口唇で触れているうち、ウォンの肌が赤らんできて抵抗しなくなった。こんなつたない愛撫でも感じるのだな、それともぎこちなさが新鮮なんだろうか、などと思いながら、キースは引き締まった筋肉の何カ所かに朱い印をつけていった。降ってくる熱い吐息。閉じられた瞳。硬くなる胸の突起。乱れ落ちる黒髪。喉の奥でくぐもるうめき。びくっ、と微かに身じろいで――ウォン。
「実はあまり、こんな風にされたことがないんです。相手まかせにして寝首をかかれてはかないませんから」
「なるほど」
ウォンがあの最中もなるべく冷静に相手を見つめようとするのはそういう訳か。一瞬でも気を抜けない時期が長すぎて、それが習慣になってしまっているのだろう。
「あまりさせたことがない、か。ということは、今日は僕を信じて、感じていてくれたってことなんだな」
キースは自分の頬に当てられた掌に軽く口づけた。ウォンはその掌をキースのうなじへ滑り下ろし、
「ええ。でも、貴方だってそうでしょう? 昨晩あんなに乱れて、欲しがってくれた……初めてみました、貴方のあんな姿は」
「本当はちょっと恥ずかしかった……君に軽蔑されてないといいんだが」
「軽蔑? 何をです」
「色狂いだって思われやしないかって」
「まさか。それを言うなら私の方がよっぽどいやらしいじゃありませんか。それに、本当にいやらしいと思いますか、これが?」
細い首筋を掴んでそっと抱きよせる。
「あ……んっ」
湯のはねる音。ぱしゃっと打ちつける暖かい滴が、周りのタイルにまで跳ねとんで。弾むように触れあう身体。ウォンは低く囁くように、
「ここでしてもいいですか、キース様。さっきので身体が熱くなってしまって……」
キースは小さくうなずいた。相手のウェストに腕を回しながら、
「うん。欲しかったんだ、僕も。……来て」

時間は、思っていたより静かに緩やかに進んだ。互いをむさぼる時はともかく、例えば素朴な食事に噛じりついたり、ラジオの名曲特集を聴いたり、とうに春の盛りを迎えた下界のニュースを伝える地方色豊かな新聞を広げて広告を眺めたり、窓辺に積もった雪を集めて小さな三頭身の雪だるまをつくったり……そういう時はあっという間に過ぎたりせず、いかにも休暇らしくゆったりと流れた。
しかし、ウォンの方は少々ぼんやりし始めていた。二人はその朝スキーをして、ロッジに戻ったばかりだった。
「どうした? 何を考えてる」
汗を拭き、濡れた服を着替えて椅子に先に座ったのはウォンの方だった。その視線はどこか虚ろで、キースは相手の膝に腰をのせ、その首に腕を回して尋ねた。
「考え事をしているように見えましたか?」
「ああ。もっとも君は、謀り事をしていない時間の方が少ないかもしれないが」
「そうですね」
ウォンの頬に微苦笑が浮かんだ。頭の中で幾つもの計画を同時進行させ、次々と発展させつなげて行くのは当り前のことだ。優秀な企業家は誰でもそんな風に能率良く時間を使い、無駄なブランクの時期など持たない。たとえ恋人に夢中になっている時も、頭の隅では仕事の次のアイデアを検討してしまっている。ウォンもその例に洩れないのだった。
「別に構わないんだ。せっかく二人きりなんだから、僕のことだけ考えてくれ、四六時中甘やかしてくれ、なんて言わないから」
そう言いながらも、キースはウォンの上半身にそっと自分の体重を預けた。寂しいというのではないけれど、寄り添っていたい。隙き間なく重なりたい。
「キース様」
ウォンも青年を抱き寄せた。椅子が倒れないように、そっと静かに。
「私は悪い男ですね、貴方にそんなことを言わせるなんて」
「いや。そんなことはない」
椅子がギ、ときしんで鳴った。キースが更に力をぬいてウォンに寄りかかったのだ。
「いくら休暇を言い出したのが君だからといって、何でもしてもらおうなんて思ってない。それに、二人きりになれただけでこんなに嬉しいなんて思わなかったから……不思議なくらい落ち着いてるんだ、心が」
ウォンの服の胸に顔を埋め、口唇をひとつ押して、
「こんなこと、今までなかった。あの、こういう気持ちを言うんだろう……幸せって」
「幸せ、なのですか?」
「たぶん。もうしばらくこのままでいられたら、もっといいけど」
ウォンは胸がきゅうっと締めつけられるのを感じた。ついさっきまで雪と戯れ遊んでいたキースは年相応に若々しく、いやむしろ子供っぽいほどで、二人でしんみりしに来たことなど忘れているように見えた。ノアの総帥としての重責から束の間解放された喜びで、あんな風に笑うのだ、としか思えなかった。
しかし、そうではなかった。いわゆる良い子が欲しいものをおとなしく我慢するように、キースも自分を抑えていただけだったのだ。心を引き締めて相手に必要以上の負担をかけまいとしているのだ。でも、本当はいっときだって離れたくない。触れあっていたい。甘えていたい。自分だけ見て欲しい。自分のことだけ考えて欲しい。ただひたすら愛されたい。ずっとそうしていて欲しい。でも、今だけでいいから。今だけで。君の体温だけで満ち足りるから、お願い、しばらく抱きしめていて。
「ウォン?」
ふと顔をあげて、キースは恋人の辛そうな表情に気付いた。
「どうした? 重かったか、それとも何処か苦しい……」
ウォンはそれを遮るように、
「どうして私をそんなに信用するんです。無防備に心をさらけ出すんです。これが何も生み出さぬ関係だとは思わないのですか? ただ肉体的に気持ちがいいだけかもしれない、相手が私でなくとも良いかもしれないという疑問を抱いたりはしないのですか」
キースは今更何を言い出すのだ、といわんばかりに眉をしかめて、
「私達二人が何も生み出さないということはないだろう。ではノアの今までの業績はなんなんだ? 超能力者を造りだした事さえあるのに。君と寝るのは君が好きだからだ。君以外の人間として多少の快楽を得られるとしても、それが何だというんだ? 今の僕に、君以上の意味を持つ相手などいないのに」
「やめてください」
ウォンは腕の中の青年を強く抱きしめながら、
「これ以上誘惑されたら、貴方の《好き》に溺れてしまう……愛しさに堪えかねて締め殺してしまう」
「殺しても、いい……」
「だから!」
ウォンは青年の口唇を自らのもので堅く塞いだ。余計なことを言おうとする舌を絡めとり、喉の奥の声まで封じようとした。
キースは少し苦しがったが、そのうち自分も相手に応えて口唇を舌を探り始めた。激しいキスは嫌いではない。優しいキスでとろかされるのも好きだが、情熱がはじけて相手をむさぼらずにいられない瞬間も好きだった。愛が確かめられる気がして。快楽を求めるだけなら、ただ憐れまれているだけなら、そんなキスにならないだろうと思うから。
ああ、もうたまらない。
そう思った瞬間、ウォンの掌がキースの服の下に滑り込んで、敏感になっている部分を掴んだ。
着替えたばかりなのにこれでは汚してしまうな、という考えがチラ、と頭の隅をよぎったが、キースはそのまま相手の胸にすがりつき、指で触れられている場所に意識を集中した。かなり昂まっている。このまま一度気持ちよくなりたい。
「……あ、もう」
かすれた声に喉をくすぐられて、ウォンははっと我に帰った。
「そろそろベッドへ行きましょうか」
「うん」
のぼりつめようとしていたところで愛撫を中断されて、霞んだ顔のままキースはうなずいた。ここでもいい、とはさすがに言えず、ゆっくり立ち上がった。
「!」
よろめきかけた所をウォンが支え、すっかり力の抜けているキースに気付いて、抱えるようにしてベッドに運んだ。
「ウォン」
キースはすでに熱病の人のようだった。頬は紅潮し、全身は細かく震えて、助けて、と喘ぐ口唇が痛々しい。これ以上焦らさないで、と瞳を潤ませて。
しかし、この青年から洩れた次の言葉はこうだった。
「今だけで、いいから……ウォン」
ああ。
この、寂しい子供。
こんな場面でもそれを言うのか、貴方は。
「あっ」
押し伏せられてキースは息をのんだ。ウォンは恐ろしい顔をしていた。本当に殺されるかもしれないと思うほどで、身体中の熱が一瞬ひいた。彼は低く呟くように、
「貴方を目茶苦茶にしてしまいますよ、いいですか」
その声を聞いた途端、安心が戻ってきた。
ウォンはすでに強くブレーキをかけている。つまり、自分に言いきかせて。こちらに予告をして。強張った顔は激情の印、殺気はいどみかかる狩人につきもののそれなのだ。
キースは薄く微笑んだ。
「殺してもいい、ともう言った」
「殺すよりも残酷なことを、意地悪をするかもしれませんよ」
「構わない」
相手の首筋に顔を埋め、軽く歯をたてながら、
「ただ、その前に一度達かせてくれたら……」
ウォンの瞳の光が強くなり、さらにずしりと体重をかけてきた。
「ええ。……何度でも」

さすがに、疲れた。
キースが本を読んでいていつも疑問に思うのは、どうして夜中愛しあった恋人達が、翌朝も元気に出かけられるのだろうということだった。冷えた汗で風邪をひいたりもしない。あれはやはり作りごとだからなのか。それとも彼らがタフなのか。身体を清めて暖房を強めれば、心地よい疲れの中でぐっすり眠れて、短い睡眠時間でも平気になるのだろうか。
「大丈夫ですか」
戯れが一段落して、ふと気付くともう夜になっていたのだった。キースは苦笑いをして、
「ああ、と答えたいところだが……ちょっとな」
「すみません、辛くしてしまって」
ウォンは青年を半分裏返し、腰のあたりの筋肉を揉むようにほぐしはじめた。キースは痛、と顔をしかめた。まだウォンと触れあっていたい、その肌の感触を味わってはいたいとは思う。だがしかし。
「今そんなことをしなくてもいい……君だって疲れてるだろう」
「したいんです。させてください。これが終わったら、すぐに夕食の準備をしますから」
「夕食」
凄いな、とキースは思う。あれだけ愛しあった後なのに、疲れをしらないかのような指の動き、力の込め方。この上夕食まで仕度しようというのだ。
「さすが世界征服を公言する男は違う」
思わず皮肉めいたことを口走って、キースははっとした。
ウォンの顔は青ざめていた。手の動きは止まって、強くキースを掴んでいる。
「どうしたんだ」
「私がまだ、世界征服などという世迷い言を考えているというんですね」
「世迷い言?」
なんと彼らしからぬ台詞だろう。
世界征服、という言葉の持つ不思議なニュアンスは、ウォンのような男にこそふさわしい。彼の名字の意味は《すめらぎ》で、つまりそれを冠する者は皇帝の末裔、自分もいずれは覇者となる存在である、ということなのだ。有能な実業家であり、ノア内でも有形無形の数々の業績をあげ、あらゆる場面で忙しく立ち働きながらコセコセしたところを全く見せないリチャード・ウォンという男は、半ば本気で《征服者》という言葉を使っているのだろうし、それを馬鹿な夢だと一笑に賦すものは、あとで彼の力を思い知ることになる筈だ、自らの命を失うことによって。
「君のノアにおける目的は、世界征服ではなかったのか?」
キースが世界を手中にしたいと考えるのは、この地上にいる大勢の超能力者達が幸福に暮らせるようにしたいからだ。しかしウォンのいう世界征服は、経済的な軍事的な、つまり野心的なことである筈だ。全世界を牛耳る――大変なことだが、しかしそれは彼にとっては絶対に不可能な事ではないだろう。
しかしウォンは首を振った。
「世界征服という考えは現実的ではありません。私は、今の自分に何が出来て何が出来ないかを考えている所なんです」
「それはあまり、君らしくない物言いだな」
おかしい。
最近ノアの動きが停滞しているとか発展のきざしが見えなくなったというのならともかく、ウォンはウォンなりにこの秘密結社を有効に利用していた筈だ。キースはそれをまずいとは考えないし妨げたこともない。投下した資金や時間を取り戻すのはウォンの権利だと思うからだ。
それとも。
もう用済み、ということなのだろうか。ノアもキースも。
なるほど、軍との接触でもうまくいって、すでに割のいい裏切りを決めているのならわかる。この悲しそうな顔が、この恋の終わりを惜しむ気持ちから来ているのなら。懸命に感情にブレーキをかけようとしているのは、自分の計画にこの情熱が邪魔だからなのだ。
そうか。
一週間の休暇を言い出したのはそういうつもりだったのか。
これはハネムーンなどではなく、別れるための旅なのだ。
せめて記憶に残る日々を、と今まで愛してきた者に対する思いやりで。
しかし、それだって蜜月と呼んでいいだろう。まだ欺かれてもいないのだし。
キースは静かに微笑んだ。
「ウォン。君が世界をいつ自分のものにしようと、僕は君を憎みはしない。いつノアを出ていこうと気にしない。大変な時にはもう一度協力してくれたら嬉しいと思うが……無理なら、いいんだ」
「そうではありません」
ウォンは手の力を緩めた。
「貴方一人を扱うことさえ持て余している私に、世界など奪れる訳がないと言っているのです。だからもっと現実的になりたい、と」
「持て余している?」
「ええ。随分前から空腹なのに、まだ貴方から離れたくないんですから。色狂いというのは今の私を言うのだと思います……ああ、このまま、どうにかなってしまいたい」
ウォンはキースの身体の上にそっと身を倒してきた。その語尾には涙がにじむようで、洩れる吐息の熱さに嘘はなかった。キースはうつぶせたまま、
「買い置きのパンがまだ残っていた筈だ。食事は今日はベッドの中でとればいい。それなら長い間離れる必要はないだろう」
「そんなことをしたら、間違えて貴方を食べてしまいますよ」
「それで、僕が一番美味しい、と言うんだろう」
キースは低く笑った。ウォンはその肩にそっと口づけて、甘い声で囁いた。
「……ええ」

(1997.12脱稿/初出・恋人と時限爆弾『HONEYMOON』1997.12/再録・恋人と時限爆弾『風の行方(fate of wind)』1998.3)

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All stories written by Narihara Akira
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