『ふぁむ ふぁたる』

1.

丘の上の墓地。
その一番奥にある灰色の墓石の前に、白い百合の花束をさげて立ち尽くしている、リュウとした喪服の青年が一人。
そこへ、忍びやかな足音。……大きな紅薔薇の花束を幼子のように抱えた、気品ある黒衣の老婦人がゆっくりと近付いてくる。
青年は、老婦人の接近をちらりと眺めると、口の中で何事か呟き、虚ろな視線を六月の曇天に振り向けた。老婦人は、軽く会釈をすると、彼の前を稟然と進み、墓石に対して腰をかがめ、花を供えると、指を組み合わせて静かに祈った。このひとは、小さな掌を、細く厚みを縫い立てた黒い手袋でぴったりと包み、薄紗のヴェイルを何枚も重ねて、その下の表情を少しも窺わせず、まるで英国婦人のような隙のない身仕舞いをしている。あきらかに只人ではない。しかもそのバタ臭い仕草にはどうしても隠しきれない、なにか死を思わせる香すら漂うのだった。
青年は、虚空を見つめたまま、詩でも口ずさむように呟いた。
「庄司晶は、不治の病で死んだ……自殺だった……いや、殺されたんだ」
謎のような言葉を言い終えて、老婦人に視線を投げつける彼。
婦人は、微かな身じろぎさえしない。
その時、薄陽さして、墓石に刻まれた一年前の日付けと、三とおりの死を死んだ青年の名が、白くひかった。
青年は、詩の次の行でもよむように、静かに続けた。
「そう、あなたが殺したんだ」
その言葉は不思議に石畳に大きく波紋し、ゆっくりと墓地全体に広がった。
老婦人は、ようやく身を起こした。そして、着せかけられた言葉をたおやかに払いのけるかのごとくに、そっとヴェイルを持ち上げた。
……なんという、美貌。
いったい何歳なのか? 日本人離れをした、いや人間離れをしているといっていい、往年のデートリッヒを思わせるその肌の白さは、老いて衰えている筈の高い頬骨を、夢幻のように霞ませる。赤子のように澄みきった、ふかい瞳。柔らかな絹糸のような白髪。艶のにじむ薄い口唇に、仄かな微笑がたちのぼって、そこからあでやかな花が咲くように一言。
「その通り。……私が、この人を殺した……」
柔らかな、心の底までしみいってくるような声。
「そう。私が、やった……。この人だけでない、こんな罪を、今まで随分と重ねてきたわ。それで貴方が現れて、いよいよ悔い改める時がきたと、私を裁いて下さるのね?」
青年は首を振った。
「僕は、あなたを裁くつもりはない。僕があなたを待っていたのは、ただ本当の事が知りたいからだ。少し話がしたいだけなんだ。どうして彼は死んだのか、なぜあなたは彼を殺したのか」
そういって、老婦人の瞳をじっと見つめる。
婦人は、うなずいた。
「そうなの。それなら、少しお話をしましょう。貴方の話を聴きましょう」
二人は、連れだって墓地を出て行った。
無論、そうでなければならない。墓所というものは、死者が安らかに眠るための場所であって、生きている者が、乱し騒がす場所ではないのだから。
だがこの二人は、彼の死者について語りあわなければならないらしい。この青年は、本当に不治の病で、自殺で、殺されて死んでしまったのである。いったいどうやってそんなことになったのか、何故そんなことになったのか、残された人々はどうすればよいのか、しなければならないのか。
これは、そういった物語である。

2.

青年の名は、諸戸鉄雄という。庄司晶は、彼のはとこだった。それなのに鉄雄が友人などという言葉を使ったのは、半都会のこの街では、そのぐらいの血の繋がりはうるさく人を縛ることがなかったためで、また初等学校も違っていたので、彼は、晶をあまり意識せずに育ったためである。というよりも、鉄雄という人間は、男らしくさっぱりとした性格、といえば聞こえがよいが、つまり他人への好奇心が薄いので、それゆえ親しくなったのは、学校が一緒になった高校以降のこと、それで親戚という感じよりも、友人という想いが強かったのだ。
親しくなったことさえ不思議であった。鉄雄の内向きな性格に重ねて、晶もまた親友をもたない少年だったからだ。彼は顎のとがった美少年で、何事にも如才なく、性別を問わない取り巻きが多かったが、どこか大人びて近寄りがたいというか、いつ何時でもしっかりとした自分の意見があって、敵にニコニコと笑いかけることはできても、味方にこころをうかうかと許すことのできない、魂の孤高を保つ少年だった。その彼がいったい、不器用な鉄雄のどこに近しいものを感じたのであろうか、声をかけてきたのは、晶のほうだった。
それは、高一の初夏の夕暮れ。……鉄雄はその日、教師に手伝いを頼まれて、図書室で本の整理をしていた。美術関係の蔵書が新しく搬入されたので、何人かで作業をしていたのだが、いつのまにか最後の一人になっていた。そのほうがいっそ彼には気楽だった。遊びのように美術全集の山を崩すと、シュールレアリスムの画集を見つけ、何気なく手に取って、ページをめくった。
「ふうん、きれいな絵だな」
写真のように精緻な一枚をぼんやりと眺めていると、不意に後ろから声がかかった。
「光の中には、常に闇がある。そして、闇の中では、小さな灯も暖かく、しるべのようにともる」
はっと振り向くと、そこに晶が立っていた。いつの間に来たのか、なんのためにやってきたのか、そんなことを鉄雄が訝しむ間もなく、彼はいつになく真摯な瞳をして、肩越しに囁やいた。
「僕も《光の帝国》は好きだよ」
昼の空と夜の家並みが、無理なくひとつに溶けあっているその絵は、そんなひどく魅力的な題がついていた。
それから晶は、それを描いた画家の話を始めた。技法、思想、仲間達、生涯の不運と限界……その口調は抑揚に富み、小さな瞳は情熱に燦き、この少年の溢れる才気は、まるで金色の酒のように、聴く者の胸にこぼれてしみた。他の者が言ったならば嫌味な程の気障さ加減、と鼻につくところであっても、そのデイレッタンテイズムは、単に年不相応な広い教養などというものにとどまらず、確固たる信念に選ばれた良い趣味が、抑えた挙止を贅沢に磨いて、この少年の上気した頬を眺めているだけで、他のなにものもいらないような気持ちにさせた。それは、鉄雄を酔わせ溶ろかし、下手な画家の絵などより、余程しっかり彼のこころを掴んでしまった。
その日から鉄雄は、別人のように生き生きとしてきた。無理もない、顔をあげれば、いつもそこに晶がいるのだ。遠い未来を指さして、輝く目的地をきっぱりと告げる夢多き少年が。彼の話す事なら、鉄雄はどんな詰らない事も夢中で聴き、またそんな鉄雄に晶が意外な程にこころを開いて、いつしか二人は目配せだけで通じあえるようになっていた。
蜜月とでもいうべき日々。
しかし現実が、そんな夢のような幸福に、永遠を約束する筈がなかった。
その秋も大分深まったある日の事だった。
晶は朝から憂かぬ顔をしていた。口数少なく、眉間に皺を立てたまま、物想いにふけっている。いったいどうしたんだろうと、それとなく窺っていると、つい、と視線で誘ってきた。
「あの部屋?」
二人は古い資料室へ滑り込んだ。そこは、資料室とは名ばかりの倉庫替わりの空き教室で、一見外からは厳重に鍵がかかっているように見えるが、内側の掛け金に緩いところがあって、定規一本で簡単に開けられる偽の密室、しかもこの事は、この部屋を真面目に掃除したことのあるごくわずかの人間しかしらないという、学校内のエア・ポケット、まさに密談にうってつけの場所だった。……せせこましく詰め込まれて埃をかぶっているのは、昔の生徒の記録、学校の記念品、図書室からあふれた廃本、用済みになった文化部の備品、古ぼけた頑丈な木の机や椅子。ここはちょっとした砦、秘密の城と呼ぶにふさわしい、時間のふり積もった亜空間とでもいうべき場所だ。
晶は長机に寄りかかり、うつむいて黙っていたが、ふと垂らした前髪をくしゃりとかきあげると、呻くように言葉を漏らした。
「あと十年しか、生きられない……」
「何だって?」
鉄雄の身体は凍りついた。相手の声には、微塵の疑いも抱かせない張りつめたものがあった。
「医者の見立てで、よくてあと十年だというんだ」
「どうして……急にいったい、何故?」
晶はまるで怒っているような口調でしゃべった。
「この身体の中を流れている赤い血、それをつくりだす場所が異常をきたしているというんだ。半ば破壊されていて、ただ悪くなっていく一方なんだそうだ。現代医学では手の尽くしようがない、と」
「そんな! いったい、何が起こったっていうんだ?」
言葉が悲鳴になりかける。無理に抑し殺しているような晶の声が続く。
「中学の頃、僕は一度多量の放射能を浴びたことがあるんだ。……父の大学に遊びにいった時のことだ。あの人も一応理系の学者だから、研究室ばかりでない、放射線室にも自由に出入りできる。僕はちょっと悪戯気を起こして、父親の眼を盗んで危険な部屋に忍びこみ、……そこで、とりかえしのつかないことになってしまったという訳だ」
晶の父、庄司教授は高名な工学博士だった。晶の話は、まったくありえない夢物語ではない。だが、そんな馬鹿な! 鉄雄は、泣きだしそうになるのをぐっとこらえて、
「なぜ、そんなことが、しかも、今頃になって、判った?」
「身体に変調がきたんだ、今頃になってね。……夏の日焼けがさめた後に、火傷の様な妙なしみがうかんできて、何をやっても消えない。……気になって医者に診てもらうと、それがこの身体の凶のしるしだということが判ったんだ。それだけの事だ」
吐きだすように言うと、晶は急にこちらを睨んで、
「鉄雄……このことは誰にも言うな。まだ家族さえ知らない事だからな」
「そんな、だって医者が言う……」
晶の顔がなおさら険しくなって、
「医者は、父の助手のつてで行った。そういう知り合いで、事が事だし、知れてもどうしようもないことだから、伏せていてもらうように頼んだ」
父の助手……ときどき晶の言葉の端に見え隠れするひとだ。兄のように、実の家族以上にいろいろ面倒をみてもらったと聞いている。それ以上のことは話してくれなかったし、それ以上問いただしたくもなかった。
「でも、その助手の人が言う……」
「言わない。言ったら自分の監督不行き届きということになるから」
「そんな馬鹿な、だって」
さらに言いかける鉄雄を、晶はきっぱりとさえぎった。
「そういうことになってるんだ。もちろん家族にはそのうち知れるさ。しかし秘密はそれ以上漏れない。そういう家なんだ」
鉄雄は言葉を失って、晶を見つめた。それはそうなのだ。庄司家の人というのは血縁ながら、愛想はいいのだが、内情をけっして漏らさぬかたくななところがあって、もしこんな不祥事があれば、巧みなあしらいできれいにもみ消してしまうかもしれない。なんて恐ろしいことだろう……と、茫然と立ち尽くした。そんなこころのうちを読みとったのか、晶は美しい口唇を歪めて、
「いいか、同情はするな。まだ時間があるんだ。青年時代は、たっぷりと残ってる。……サトリのように、自分の未来をはっきり知っているのも面白いものさ、そう思わないか?」
鉄雄は、なにも答えることができなかった。晶はその沈黙に、おしかぶせるように一言、
「いいか。誰にも言うな」
言い捨てて部屋を出て行った。
鉄雄は一人取り残されて、今の出来事を噛みしめた。……なんという人生の皮肉。普段あれだけ冷静な晶が、あんな風に乱れたのも無理もない。あらゆる可能性を秘め、素晴らしい未来を夢み、又それに値する力を充分に備えた青年が、成人として立派な仕事をやり遂げる時間がない、などと聞けば、さぞ悔しくてやりきれないことだろう。できることなら、あまり人様の役にたちそうもないこの命が、代わりになくなってしまえばよいのに、と思った。あの優れた青年と、いつまでも友人でいられないのなら、果してこの自分に生きてゆく意味があるのか?
鉄雄は、苦しんだ。与えられた秘密の重大さと、秘密を胸の奥にしまいつづける辛さに。……秘密を分けあうということは、一種の契約に似ている。それは、厳然たる階級制度における王様と平民のように、ひとつの越えられない壁をつくり、またその関係から解き放たれることもできない。永遠に保たれる、遠すぎず近すぎない距離に耐えていかなければならない。
しかし鉄雄は、耐えることを学んだ。秘密を打ちあけられることは、信頼の証だ。その事を考えると、つらい想いもいつか熟して、いつまでもじっと味わっていたい、ほろにがい葡萄酒のような物想いに変じた。
お互いの生活が再開された。……晶は、こまごまとした詰らない勉強はさっぱりと切り捨てて、もっぱら好きな絵に打ち込むようになり、美術大学を目指した。そして鉄雄は、過ぎ去ったものを愛おしむ性質から、前から興味のあった歴史の勉強に力を入れ、それが学べる大学を目指した。
二人の進路はこうして別れた。
だが、物理的には別れようとも、二人の精神の距離はいつまでも変わらず、離れてゆくことがなかった。
月日は流れた。

3.

大学を卒業した夏、晶は死んだ。
その葬儀は、親族さえ除けてごく内々に行われる予定だったが、いったいどこから涌いてでたか、その死を聞きつけた友人知人と名乗る青年等が、さざ波のようにとめどなく、後から後から彼の家に押し寄せてきて、家族達は少なからず当惑した。この弔問客の群は、庄司邸に収まることができず、道にあふれて近隣の人々を圧した。
彼等は皆一様に行儀がよく、葬式につきものの、おざなりの嘆きぶりや、ぎこちない悲しみ方をしているものがなかった。見知らぬどうしであっても、誰彼となく目が合えば、自然に忍びやかに彼の思い出をしみじみとささやきあって、しめやかな雰囲気をこわす事がなかった。皆この秀抜な青年の死を、心から悼んでいた。……いつも彼方を見つめていた黒い小さな瞳、きりりと一文字にむすんでいた紅い口唇。水にさらした絖のような肌にぴったりと包まれた細面……控えめで洗練された物腰と、絵かきには珍しい乱れない身仕舞い。けっして無用に騒ぐことなく、だが口を開けばこぼれる機知。冷酷さを感じるほど的確無比の判断力をもちながら、他人の難を見過ごしにできず、損を承知で正義を譲らぬ熱血漢……あの人が夭折するとは、佳人薄命という言葉はいったいなんのためにあるのか、なんの意味があるのだろうか、などと。
そんな愁いの渦の中、諸戸鉄雄は、あてがわれた控えの間で、葬儀の始まるのをじっと待っていた。準備が遅れているとのことで、手伝いを申し出たのだが、かえって邪魔になるのか、丁重にことわられてしまったのだ。せめてもう一度晶に逢いたいと思うのだが、言いだしそびれてしまっていた。
そして、最後に逢った日のことを思い返していた。

……なんという花なのか、T総合病院の庭には、きいろとすみれいろの花が咲き乱れている。鉄雄は空を仰いだ。すこし陽の傾きかけた初夏の空。日差しはまだかなり強くて、常緑樹の埃を洗い流し、くっきりとした緑が眩しい。なにもかもが燦いていて、草むらに落ちている壜の破片のようなごくつまらないものが、この世で一番美しいものに思われる、胸が痛くなるような、耀ける季節がやってきたのだ。
「もうすぐ四時か……」
それが、定められた面会の時間だった。看護婦だけでない、晶もきちんと守ってくれるようにと言うので、一秒たりとも、遅れたり早かったりしないようにしている。すこし早めに来て、晶の部屋の窓を見上げ、白いカーテンが風にはためくのを眺めるのが、常だった。
「よし、行こう」
鉄雄は、暗い病院の廊下を歩き出し、物想いに浸った。……この貴重な時間は、果してあと何回残されているのだろうか、と。身の内を焦れるような、この想い。
この完全看護をうたい、広く手を尽くし様々な活動をしている大病院で、晶が個室にはいってから、もう大分時がたつ。個室というのは、最後の場所だ。毎日来られるわけではない。逢うたびに、病みやつれてゆくのがわかる。そんななかでは、気分のわるい日もあるだろうに、いつも微笑んで迎えてくれる。最近では眠っていることもあって、そんな時は、決められた時間いっぱい、やすらかな寝顔を眺めてゆくのだが、点滴をうけて静かに横たわっている姿を見ていると、今この瞬間、このいのちが失われるかもしれない、と気付いて、不安でたまらなくなる。その覚悟はとうの昔にきめた筈、と何度自分にいいきかせたかしれない。……それでも。
足音さえなんとなく忍ばせて、病室の前に立つ。はめ込まれている病人の名前を見あげる。時計の秒針をみつめて待つ。そして、時間とともに、ノックをして入るのだ。
「!」
中でガシャンという音がした。はっとして、鉄雄は部屋へとびこんだ。
「どうした、庄司!」
「やった……」
晶は呟くようにいって、鉄雄と目があうと、はにかむように笑った。無理に半身を起こしかけていたので、慌てて駆け寄ると、わかったよとでもいうように、再びおとなしく横になった。
「いったい何が……」
「ああ、別になんでもない。ただ、そこら辺に、気をつけてくれ。ガラスが落ちてるから……ちょっと手を滑らせて、砂時計を、割っただけのことなんだ」
なるほど、あたり一面、こなごなに砕けたガラス片と、銀色の砂が散っている。
「これはひどい……片付けよう。道具はどこかな」
「その、隅のロッカーの中に、箒がある。……ああ、すまない……」
急いでまわりを掃き集めた。
「有難う、きれいになったよ」
晶はにっこりと笑ってみせたが、その額には、隠しようのない冷たい汗がじっとりとうかんでいる。鉄雄は手早くごみを片付けてしまうと、枕辺に立ってタオルを渡し、
「あんな砂時計があったかな? 見た記憶がない」
晶は管の入った右手でタオルをうけとると、器用に汗をふいた。自分のできる始末をひとにやってもらうことを嫌う、訓練の賜物、とでもいうべきな手さばき。
「そうかい……? 大分前に、ひとからもらったものでね。大きな目盛りが刻んであって、実に単純ないいかたちをしていてね、砂の落ち方も滑らかで、けっこう気に入ってたんだが、今手に取って眺めていたら、落として台無しにしてしまった。……どうもこのところ、手元が怪しくなってきたらしい」
タオルを置くと、細長い指を、斜めに差し込む陽の光にかざして、血のいろを透かしてみせる。点滴の壜の中の透明な液が、この腕を通って全身にまわり、彼の血潮を薄めているのだ。そして毛布の下の左腕は、注射の針跡が数限りなくついているのだ。まるで年寄りのような言葉、蒼ざめた顔色……鉄雄はいやな連想にとらわれて、言葉を喉につまらせた。そして、それをごまかすように、まだ少し水の残っている水差しの水をとりかえた。
枕元のテーブルの上で、タンブラーが濡れてひかっている。窓辺の鉢植えに、それで水をやったのだろうか、土がしめっている。それは鉄雄が持ってきたおじぎ草の鉢だった。葉がすこし閉じかけている。いままではいろいろな鉢植えがあったのだが、誰が片付けたのか、これしか残っていない。
晶はふと、その鉢に目をやり、そして、独り言のように呟いた。
「もう、この鉢の面倒もみられそうにないな……諸戸」
「なんだい」
「悪いが、この鉢を、弟に持っていってくれないか? 透なら、今までもときどき手入れをしていたから、代わりの世話ができると思う。……そうしてもらいたいが、構わないだろうか」
珍しく頼み事をするので、鉄雄はふたつ返事で承知した。
「構わないとも。透君に預ければいいんだね?」
鉄雄は、少し大きめの鉢を持ち上げた。面会時間は終りに近づいていた。
「ああ、頼む。……少し眠るよ。ありがとう、諸戸……」
そういって晶は、薄い目蓋を閉じた。鉄雄は彼を起こさぬよう、そっと部屋を出た。
それが今生の別れだった。

その後容態が急変したのだった。家に帰って、ぼんやりテレビを眺めていると、電話がかかってきた。一種の予感がして、家族からその事実をきいても、ただ気のない相鎚をうつことしかできなかった。あっけなさすぎる別れ。しかし、どんな別れ方があったというのか? 最後の一幕で、僕はちゃんと自分の役割をつとめたと思う。他にいったい、何ができたというのだ?そう自問して鉄雄は、どこか奇妙におちつかない自分の心を抑えた。
ふと気付くと、もうとっくに葬儀の始まっていい時間になっていた。鉄雄は自分がなおざりにされているのかもしれない、と急いで控えの間をでたが、式の始まった気配はない。
「なにか変だ」
晶の母親は、忙しく立ち働いているが、それは単に気を紛らわすためのようで、用意の方はどうみても、すでに整っているとしか思えない。このひとは同時通訳を仕事にしていて、それゆえいつもとても歯切れがよく、てきぱきとしたひとなのだが、今日はなにを尋ねてみても、曖昧でうわのそらでボウヨウとしている。だが、彼女が心ここにあらずというのは、息子が死んだのだから無理のないこととしても、喪主である父親の姿が見えないのは、いったいどういう訳なのか。さっきまでいた透君も、どこかへ消えてしまっている。
鉄雄は、庄司邸の中をさまよいあるいた。誰かが、もうすこし事情を説明してくれてもいいはずだ。たずねあぐねて、足は自然、晶の部屋に向かった。中折れのねじまがった階段を登ってゆくと、人声が鉄雄の耳を捉えた。透君の声が、晶の部屋の中から洩れてきているのだ。彼は普段、聞き取りにくい掠れ声なのだが、今日はやけに甲高い、不安定な調子でしゃべっている。
「あなたはいったい、兄さんに何をした! 僕達家族が、大事に守ってきた兄さんを!」
ただならぬことを言っている。いったい誰と話しているのか?
「兄さんは、切り刻まれてしまったんだぞ。しかも、生きるために仕方なくじゃない、長い事苦しんで、やっと静かに眠ることができる筈だったのに! それを、あなたが……あなたのせいで……」
語尾がくだけて奇妙に途切れる。鉄雄は思いきって、部屋の戸をノックした。
「諸戸です。失礼しても構いませんか」
「あ……」
でてきた透君、鉄雄を見て、なぜかはっと困った顔をした。彼は長身の兄に対して、小柄で可愛らしい青年である。髪を短く切って、秀でた額を隠さない。いつもひたすらひたむきで、傷つきやすいことこの上なく、親しくしようにも近づきにくい相手だ。非常なお兄さん子で、その兄の熱烈な心奉者だったから、今のような不安定なときには、ごくごく丁寧に切りださなければならない。鉄雄はとにかく、できるだけ優しい声をつくって、
「とりこんでいる最中に済まないけれど、いったい御葬式はどうなってるの? 大勢の人が待っているのに、時間はとうに過ぎてるし、君のお父さんはいない。お母さんは何も言ってくれないし、……あれ、あの人はいったい誰?」
きちんと片付いた晶の部屋を覗くと、こちらに背を向けてすっきりと正座をしている、喪服の女性がいる。先の透君の話の相手はこの人らしい。正体を見極めてやろうと、なにげなく部屋に入ろうとすると、透君、小さい身体を精一杯伸ばして戸口をふさいで、
「すみません……鉄雄さんには、兄が本当に長いことお世話になったのに、なにもお話していなかったんですね。申し訳ないと思います。それでも、あとほんの少しだけ待っていただけませんか。もうすぐ、いろいろとはっきりしてくる筈ですから」
鉄雄は苛立った。
「なにを待つ必要があるんだい? 大勢のひとが、君のお兄さんと最後の別れをしたくて、ずっと待っているんだよ。応えてあげなきゃいけないよ。どうなっているのか、少しでも説明してもらわないと」
「でも、無理なんです」
透君の瞳に、涙がにじみかけてきた。
「兄はまだ、かえってきていないんです。遅れてるんです」
「かえってきていないって、いったい!」
勢い込む鉄雄に、透君は瞳を潤ませて、
「兄の遺体は、まだ警察にあるんです。検死に時間がかかっていて。……兄は皆さんが思っているように、病気が原因で死んだんじゃないんです。変死なんです。そしてたぶん」
そこまで言って、顔をそむけた。
「そこにいるひとが、殺したんだ。このひとは、目をつけた人間を必ず殺してきたっていうんだ、死神なんだ!」
「なんだって?」
鉄雄は驚き、なんとしても透君の手を逃れて部屋へ踏み込もうとすると、後ろからぽんと肩を叩かれた。振り向くと、頬の削げた慇懃な男が立っていて、
「諸戸鉄雄さんですか?」
「そうですが?」
鉄雄が警戒のいろを露わにすると、男は黒い手帳をちらりと見せて、
「H署の龍院といいます。あなたは、庄司晶さんの死ぬ少し前に、彼と会ったそうですね」
「ええ」
「その最後の様子を、話していただけないでしょうか。遺族の依頼で、その死の不審な点を洗っているのですが、今のところ私達は、彼が自殺したものとみて、調査をすすめているのです」
その言葉を聞いた瞬間、鉄雄の口元になぜか薄笑いがこみあげてきた。その気狂いのような正常でない笑みは、彼の顔に能面のように張りつき、口唇は勝手にうごいた。
「わかりました。どうぞなんでも聞いて下さい。お話します」

4.

鉄雄は問われるままに、淡々と晶の最後の様子を語った。そして、反対に晶の死因に付いていろいろとたずねた。細かい周辺捜査はまだだが、彼の死は、血管に空気を注射したことによるもので、そのほか体内から比較的検出されにくい特殊な睡眠薬が発見されたことが明らかになっていた。
鉄雄は、口に拳をあてて考えこんでいたが、やがて顔をあげると、
「晶が自殺、ということは、彼は、特殊な睡眠薬をどこからか入手し、それを服用したのち、空の注射器を打って死んだ、というような事になるわけですね。……しかし、何のために? 病気は予定よりも早く進行していました。それでも、死に急ぐ必要があったのでしょうか。いまさら彼が、死に脅えたとでもいうのでしょうか。それとも、生きることに疲れたとでも? ……それで、具体的な証拠は、たとえば薬の袋や針つきの注射器なんかは、みつかったんですか?」
龍院氏はひどく難しい顔をして、
「まだみつかっていないのです。しかし、あなたのお話から、注射器の行方は突きとめられるかもしれません。おそらく彼は、使用済の注射器を、植木鉢の中に隠そうとして、全部を埋めてしまう前に、一部を落として割ってしまったのではないでしょうか。粉々になったものを片付ける時間がなかったので、とっさに枕元の砂時計を割って、ごまかしたのだとおもうのです」
「それでは晶は、自分が自殺であることを、少しでも隠そうとしたわけですね。事故があったが、僕を使ってうまく注射器を始末したわけだ。しかし、変な話ですね。それで、いったい誰が得をするんでしょう。昔から死病だった彼ですから、巨額の保険がかかっていたわけでもないでしょうし」
「まだ自殺と断定したわけではありませんよ。薬や注射器の入手経路が明らかではありませんし、病院に出入りしていた人間の調べもまだ済んでいないんですから」
そのとき鉄雄は、自分でも思いがけないほど鋭い声で、
「殺されたのかもしれない。彼を憎む者がいるというのは考えにくいけれど、人間、どんなことで気持ちがもつれるかわからないし、そんな話なら、僕だって、晶を殺せたんだ。誰かが殺したというのなら、それなら……」
と、我が手を見つめて呟いた。龍院氏はごく冷静に、
「いまのところ可能性はいくらでもありますから、あまり思いつめないでください。ところで、あなたが透さんに渡した鉢というのは、この部屋の中にありますか」
陽当りのよい窓辺に、いくつかの鉢植えが置かれている。鉄雄が答えるより早く、透君がそのなかのひとつをもってきた。
「これです。そんなものが入っているとは思いもよりませんでした……」
「なるほど、これですか。有難う御座います。ところで、晶さんの部屋を少し調べてみたいのですが、構いませんか」
龍院氏はおそろしく丁寧に頭を下げて、晶の部屋に入った。透君は、どうぞ御自由にと、部屋を出た。さきほどの婦人も、黙って部屋をでて、軽く会釈をすると、さりげなく去っていった。どうにもひきとめようのないような、ごく自然な様子で。
鉄雄は、部屋の入口に立ちすくんで、龍院氏のすることをじっと見守っていたが、ふと、戻ってきた透君に袖を引かれた。
「行きましょう。すこしお話があります。父もお会いしたいそうです」
「しかし……」
鉄雄は、ためらった。赤の他人が晶の部屋を、という想いがあったし、自分の知らない何かがここに隠されているのでは、という気持ちもあって、ここを離れる気にならなかった。だいたい君は平気なのか、といぶかしむと、透君は奇妙な目配せをして、
「いいんです。大事なものは、ここにありますから」
と小さな声で言って、上着の下から、白い布張りの表紙の小型の本のようなものをとりだした。
「兄さんの日記です」
「それが」
鉄雄がおもわず手をのばすと、透君はさっとそれを引っ込めて、
「あとでお見せします。さあ、下へ」
そううながされて、鉄雄は操り人形のようにふらふらと、階下へ降りていった。そしてそこに晶の父、物理工学教授、庄司英雄氏が立っていた。
重くたるんだ目蓋の下に覗く薄ら目、闘犬の様に皺を折りたたんだたっぷりとした頬、むっつりと閉じられた端の引き下がった口唇、丸い肩に厚い腹に、実年齢以上のゆったりとした貫禄がある。そのひとが、鉄雄を迎えると、がっしりと肩をつかみ、目を伏せると、深い感情を込めていった。
「よく来てくれた。鉄雄君にはお礼のいいようがない、他人とうちとけないあれとよくつきあってくれた……いろいろと迷惑をかけただろう、本当にすまないことだ。……しかしあれは、そんな君の気持ちをなんだと思っていたのだろう、最後には、きみを自分の代わりとおもってくれなどと、勝手なことまで言っていた……君のような立派な青年を、心の弱いあれの代わりに考えるなど、とんでもない話だというのに」
鉄雄はその様子に言葉にすっかり胸をうたれてしまって、
「僕なんかでよろしければ、いつでも呼んで下さい。晶君の代わりには程遠いですが、みなさんがよろしければ、いつでもここへ来ます」
と、殊勝らしい返事をした。庄司氏は赤い目をして喉を震わせ、
「その気持ちだけで充分だ、有難う……」
と言いながら、鉄雄を奥の小部屋に引き込んだ。そこには、白木の棺が無造作に置かれていた。警察から戻ってきたのを、多すぎる人目につかないように、ここへおしこんだに違いない。鉄雄が戸惑っていると、庄司氏は独り言のようにとりとめなく訴えだした。
「あれは、なにもかも自分でやった。家族がどんなに心配しても、勝手なことをやった。私の仕事に興味を持っても、私に直接尋ねずに、助手の八十から学んだ。そして、自分のした実験で、あんな身体になってしまった。だが、私はあれに、なにもしてやれなかった。いくら自分の専門ではないとはいえ、医者でもなんでもしてやれたことがあったろうに、全くふがいないことだ。だからあれは、私に絶望して、役にも立たない絵などに憂き身をやつしていたのか……」
「伯父さん、晶は……」
鉄雄は言いかけた言葉をのみこんだ。こうやって嘆いている庄司氏に、晶が自殺したのか、それとも殺されたのかなどとはどうにもきけはしない。だが庄司氏は、鉄雄のはさんだくちばしに、はっと我に返ったようで、
「ああ、すまない、こちらの事情などはどうでもいいことだった。君の気持ちも考えずに、詰まらない繰り言を……。式はもう少し遅れても構わないだろう。親族が、最後の別れを惜しむぐらいの時間はあっていいはずだ。そうだろう?」
ちらりと棺に目をやると、それ以上は何も言わず、そのまま静かに小部屋をでていった。
とりのこされて鉄雄は、ゆっくりと棺のほうに歩みよると、苦心してその蓋をそっと払った。
「晶……」
神々しいばかりの穏やかな顔をして、彼は眠っていた。どこまでも白い、だが安らいだ仏相とでも言うべき表情。鉄雄は、花に埋もれている掌をとると、未知なるものにでも触れるように、ぎこちなく自分の頬におしあてた。かつて打ち合わせ握りあったこともあるその大きな掌が、いまでは蝋のように固くよそよそしく、その冷たさは骨にしみ、心にしみた。涙は頬の内側を滑り落ち、胸の底で灼けるような痛みに変わった。……
しばらくして部屋を出ると、そこに透君が立っていた。彼は上目づかいのひどく申し訳なさそうな顔をして、白い紙束を差し出した。
「すみません、鉄雄さん。あのあと、日記、警察に持っていかれちゃったんです。父が余計なことに気が付いて、みつかちゃったんです。ですから、現物をお見せできません。でも、前にコピィをとっておいたので、かわりにこれを……」
鉄雄には、彼の気持ちが痛いほどわかる気がした。彼には兄が、本当に大切だったので、兄がたとえどんな死に方であったとしても、その事実を真実を許せないのだ。兄の偶像をなんとか守りたくて、あちこちに喰ってかかったのだ。たとえば警察に、たとえば父親に、あるいはただの弔問客にでも、言いがかりがつけたかったのだ。皆が思うよりもっとずっと兄は優れていたのだ、と。……しかし、日記のコピィまでとっていたというのは。背中の冷たくなるような、恐ろしい執念のようなものを感じさせる。思い出を自分だけのものにしたかったのか、兄のものを汚すことを恐れたのか、いや、どこかになにか救いを見つけることができないか、自分あての言葉はないか、としらみつぶしにするためにとったものなのかもしれない、なんにせよなんと痛ましいことだろう。
透君が去り、一人置かれて鉄雄は、我が手に残された十数枚の白い紙に視線をおとして、惜しまれて夭逝した才子が、端然と刻んだ言葉の跡を追っていった。だが、ふと、めくる手が止まって、ある箇所に目が釘づけになった。
そこには、こう書かれていた。
「僕は、《ふぁむ ふぁたる》に殺されるのだ。彼女は、死のコレクターだ。野放しにされている殺人鬼だったのだ。狙った人間を間違いなく殺してしまう。油断のない、隙のない、恐ろしいやりかたで。そして僕も、その犠牲者とされてしまうのだ」

5.

……そこまで語ると、鉄雄は言葉をふと途切らせて、そのコピイを老婦人に差しだした。
この二人は墓地を出た後、近くにあった《とんぼ》というコテージふうのカフェに入って、差しむかいで長い長い追想を重ねていたのだ。すでに窓は暮れかけて、蒼い薄闇のなかに二人の顔がぼんやりと白く浮かんでいる。鉄雄は中空に視線をさまよわせ、暗記してきた台詞を棒読みでもするような調子で、
「《ふぁむ ふぁたる》というのは、世紀末の文学や芸術一般のの用語で、運命の女という意味だそうですね。非常な魅力で男を惑わし、その運命をもてあそぶ悪女、古めかしい言葉をひっぱりだすと、妖婦、とでもいうのでしょうか。……僕は、絵空事にでてくるステロタイプの女性なんかにはたいした興味も涌きませんが、現実に自分の力で人を殺してまわる婦人がいるということになると、しかも身近な人間が関わっているとなると、話が違ってきます。ひとつひとつ調べていって、そこに書かれていることがみんな本当の事だとわかったとき、僕は自分がどうしたらよいのか判らなくなった。高峰さん、あなたというひとは、いったいどんな心の持ち主なんですか」
高峰さん……そう呼ばれた老婦人は、鉄雄の問いにこたえず、ただ静かに微笑み、大女優が芝居の脚本を自分の台詞を一度でそらんじてゆくような風格をみせて、受け取った紙束に丹念に目をとおしていった。そして、ひととおり読み終えると、顔をあげ、
「そう、この日に初めて晶さんにあったのよ……」
と、少女のように華やいだ声で言うと、日記の部分を指さした。鉄雄は顔をそむけるようにして相鎚をうつ。
「そうらしいですね」
落日の淡い光にようやく見える、書き連ねられた細い文字。そのほとんどは事務的な記録であるが、ところどころに気になる記述があった。鉄雄はそちこちをチェスでもさすように指さし、老婦人に示すのだった。……

某月某日

S美術館にムンクをみにゆく。《病める子供》のリトグラフの前に立っていたら、きれいなおばあさんに声をかけられた。貴方の瞳は、この病床の少女の澄んだ瞳によく似ている、などという。僕はまだ死を悟りきった目などしていない筈だし、見知らぬ人にこんな奇妙なことを言いかけられるのは不愉快だったので、果してこれは澄んだ瞳でしょうか、ただ虚ろなだけではないでしょうか、などと呟いた。しかし、おばあさんは負けず、いやこれはとても暖かい、ひとびとを慈しむ瞳だ、といった。僕はなんだかひっかかって、死にゆく者が美しいなどと思うのは幻想だと思う、死にゆく者もまだ生きているのだし、と大人げなくきりかえした。すると、そのひとは、それでも、残される者は夢をみてもよいのではないかしら、といった。死にゆく者に、そして残される自分というものに、と。なるほど、と思う。同じタイトルで描かれた油絵には、死の床の少女の霞んだ横顔ばかりでない、その手を取って涙にくれる美しい母親もいるのだった。死にゆく者は、そんな残される者の美しさや思いや夢をつみとる権利などないのだ。もちろん踏みにじるのは、勝手だろうが。死にゆく者にもそのくらいの権利はあるだろうから。いたずらな同情は疎ましいだけなのだから。――

「晶さんは、本当に真面目な画学生だったわ。他人の絵を見たら、それの隅々まで分析して、自分のものに取り込んで。そんな細かい計算の上で、主題にまっすぐにぶつかって。……これなんて、入院直前の日付ですものね。本当に最後まで頑張って絵を描こうとしていたのね」
「そうらしいですね……」

某月某日

あと何枚絵が描けるだろうか? カンバス砥ぎをしながら考える。ただ悪戯に、画板に白をかさねてゆく。何故白か? 黒を下地に描きだしても構いはしない。しかし、すべての光を集めれば白に灼けつく。白く砥ぎあがったカンバスというものは、ひとつの完成した作品かもしれない、と思うと臆病な今の自分は、どんな構想が浮かんでも、白から始めてしまう。なにも描けない画家……まるで『最後の一葉』だ。しかし、オー・ヘンリーでは、なにやら優等生すぎる気がする。それならアルベルト・モラヴィアの『倦怠』のほうが、この僕にはにつかわしいだろう。なにもかもあって、なにものも持ちえない、放蕩息子の道楽の果ての白いcambus、そんなようなものだ。……そして、それは僕自身の象徴かもしれない。もうすぐ落着のつく人生。なにもなしえず、なにも残せず。なにかのために、誰かのために、最後になにかできないかと、ただあてどなく思いつめて、それなのに、何の役にもたたない未完成品である自分。たとえば他人の命の足しになるとか、医学の進歩に役立つとか、そのくらいのこともできないのだろうか? どんな些細なことでもいい、宿命の糸に絡めとられる前に、自由でいられるうちに、なにかひとつ。……などというのは、無理だろうか。

「晶の白いカンヴァスは、何枚か残っていました。滑らかに大理石のように砥あがって、その上に絵の具をのせるが、惜しいような仕上がりで」
「そうなの……いったいなにを描くつもりだったんでしょうね」
「あなたの肖像画かもしれません。あなたを描いたスケッチが何枚か残されていましたから」
「私を描いた?」
「ええ」
鉄雄はそれから、老婦人に関する記述のところを、幾つかを順に指さしていった。

某月某日

高峰さんは不思議なひとだ。どうして僕の行く先へいつも不意にあらわれるのだろう。今日はなんと病院で逢ってしまった。知り合いがいるのかと思いきや、あのひと自身が長い病気なのだという。いったいどんな、と尋ねてみようとしたが、あの麗しい微笑でうまくはぐらかされてしまった。反対に水をむけられて苦労する。奇妙に鋭いので、曖昧なこともいえず、カリエスなどとごまかして、いつもの絵の話へもっていった。このことなら、何時間でも話せる。そして、楽しい。他の誰と話をするよりも楽しいと思うことが、たびたびある。不思議だ。

某月某日

今日で入院一月目。個室に移って一週間。退屈はしない。今日も高峰さんが見舞いに来てくれて、いろいろ面白いものを差し入れてくれた。画集に限らず、小説の類とか。
それは良いのだが、あのひとが帰ってから、不快な話を聞いた。看護婦のNさんが、いやに蒼ざめた顔色で耳打ちをしてきたのだ。どういう人なのか、いつ知り合ったのか、どんな関係で相手の事をどのくらい知っているのか、などというようなことを、奥歯にものの挟まったような物言いできいてくる。僕が、あまりよくは知らない、と正直に言うと、Nさんは直更声をひそめて、あのおばさんについては、あまりよい噂を聞かないから、これ以上親しくなるのはやめた方が良い、などというようなことを言う。良くない噂とはいったいなんなのか、と問いつめると、なにか言いにくそうに、あの人は重病人を見つけるとついてまわってひどく親切にし、運悪く患者が死ぬと、なにかおこぼれをもらう、といった詐欺まがいのことをしているらしいというのだ。病院の昔の関係者で、出入りを差し止めるのが難しいという話で、だから心してつきあうように、と訴えるように言う。
僕は、あのひとは単なる知り合いだし、自分はまだ若くて、他人に残すようなものはなにもないのだし、別に心配するようなことはなにもない、とNさんの言葉をさえぎった。まさか、と一笑にふしてもよかったが、有難く好意としてうけておいた。
可能性としてありえない話ではない。葬式婆などという商売もあるのだし、それがまずいことだとも思われない。あのひとの常人離れした美しさや人格の深さは、実業に従事しなかった故に磨かれたのだとすれば、それはそれで立派なことのようにも思える。……しかしあのひとには、そんな小手先の仕事以上のものがあるような気がする。Nさんの話は単なる噂の類であるかもしれないが、あのひとの裏には何かがあるというのは、真実のような気がする。それはいったい、何なのか……

某月某日

誰か来てほしいと思う時、いつもあのひとがやってくる。そのタイミングの良さ。高峰さんは、普通の見舞い客と何かが違う。神出鬼没というか人目にたたないようにやってくるだけでない、ふつう見舞われた後には疲れが残るが、あのひとの来た後には力が残る。とにかく話し方の巧みな事、あのひとが口にしたことは皆、すべて興味深いことに聞こえるのだ。あのひとは、いつも心から楽しそうに、そして聴く者の心をを浮き立たせるように話す。それは長い人生経験からくるものなのだろうが、本当にうらやましい。また、人の話をひきだすのもうまい事、自分の事で、話していないことなど、もうなにひとつ残っていないのではないかと思うときも、必ずなにかしゃべらされる。それで今日はうっかり口を滑らせて、例の噂のことを尋ねてしまった。そういえば高峰さんは、耳馴れないあだ名で呼ばれているんですね、などとうかつに口走ってしまったものだから、後にひけなくなってしまった。いったいどんな話を聞いたのか問われて、死んでしまう人間とばかりつきあっているんですってね、僕もですか、と冗談めかしていうと、あのひとは少し困ったような顔をして、だが、いままで自分の過去に関係のあった人々について話をしてくれた。……
彼女はもともと医者の妻であったという。彼女自身は良家の家の出であったが、その家庭は大変理解があって、彼女に医学のたしなみをつけてくれていたので、二人は小さな病院を開業し、着実な生活を始めた。しかしまもなく太平洋戦争が始まり、夫は軍医として南方に派遣され、そこで死んでしまった。未亡人になった彼女は、戦後ある画商と知り合いになり、結婚して医院を親戚にゆだねた。ところが画商は、画家とのつきあいの中で結核にかかり、まだ良薬のない時代に、療養も空しく死んでしまった。そのころ両親も亡くなり、彼女はしばらくもと自分の病院に身を寄せていたが、事故で故障した身寄りのない運動選手と知り合い、彼の全快をもって再婚。しかしまもなく彼が壮年期に達すると、筋ジストロフィーであることが判明、この人も長い闘病生活の後に逝ってしまった。……それ以降、彼女が知り合い、こころひかれた異性というのは、知らず命の限りが目の前にある人間ばかりだった。先天的に心臓に欠陥のある青年であったり、あちこちに腫瘍の転移した癌で手術も不可能な状況の男性だったり……男運のない、などという言葉は使いたくない、とにかくそういう運命にぶつかってしまったのなら、むしろ病人の力に、慰めになろう、と彼女は思い定めた。そしてこんな風に、病院の中をさまよって、いろいろな人と話をしてまわっている、というのだった。そんな嫌な噂も故の無いことではない、病院も大きくなって、昔の事を知らない人も多い、そこを正式な看護婦でもないうろんな人間がうろついていれば、疑われずとも嫌がられるのは間違いない。しかし、もう自分の生涯も残り少ない、なんらかの形で人に尽くしたいので、最後まで続けたい、と彼女は言った。純粋な乙女の様な瞳をして。
僕は納得がいった。……彼女のあだ名は《ふぁむ ふぁたる》という。運命の人という意味の言葉だそうだ。仏帰りの二度目の夫が、そんな風に彼女を呼んだそうだ。その人の気持ちは良くわかる。それがそのまま、固有名詞のように呼ばれていることもよくわかる。このひとは人をひきつけずには置かないひとだ。高峰ゆりという本当の名前は、彼女の本質に違いない。手を伸ばしても届かない高山の、気高く独り香る、清げで真っ直な白百合、それが彼女だろう。
彼女が、自分のことをここまで打ち明けてくれたのは初めてだったので、僕も自分の短い過去を話した。まだ人生とも生涯ともよべない時間の中にも、節目があったこと、秘密があったこと、それをみんな話した。気持ちが軽くなり、心が暖かくなった。
……ゆりさん!

某月某日

何という事だ! あのNさんの言ったことの正体は! 何と愚かしい事か、彼女のあだ名の裏の意味をまるで気付かなったとは! 出会い方からして奇妙であった事を思いだした。すべて計画の通りだったのだ。僕は、《ふぁむ ふぁたる》に殺されるのだ。彼女は、死のコレクターだ。野放しにされている殺人鬼だったのだ。狙った人間を間違いなく殺してしまう。油断のない、隙のない、恐ろしいやりかたで。そして僕も、その犠牲者とされてしまうのだ。獲物とされてしまったのだ。なんということ!
このことはささいな事から判明した。八十さんが見舞いにきて、偶然彼女を見とがめても不審に思わなかったら、そして、その素性を調べてくれなかったら、僕は何にも気付かず、このままうかうかと殺されていただろう。これは不幸中の幸いか。
彼女は確かに、戦争で夫を亡くし、病気で二度目の夫を失った。しかしそれ以降は、やはり遺産めあての再婚だったのだ。それが身すぎ世すぎの手段で、仕方の無いことだったのなら構いはしない。しかし彼女はそのうえで、夫達を早死にするようにしっかりと仕組んでいたらしい。医者があと何ヵ月の命と日数を切れば、助かる可能性を家族として断わり、延命は決してさせなかった。それが赤の他人であっても、親しくなった病人には、親切めかした忠言をして、一番危険な療法をとらせたり、実験材料まがいの治療を受けさせ、その命を縮めていた、という。
悪意のある報告なのだと思い込もうとしても、その数は十数人にのぼり、証拠をかきあつめてきた八十さんは、恐ろしい顔をして忠告した。「犠牲者はみなこの女にすっかり魅いられてしまっていたらしい。そして、誰も何も出来なかったらしい。確たる証拠があるわけでないから、スキャンダルとして訴える事もできないが、お願いだ、晶君、迷いをふりきってあの女を近づけないで欲しい。君がそんな死に方をするなんて我慢ができない。君の生に責任があるのは、この僕なんだから」と。
すっかり興奮してしまっているので、僕も困ってしまい、八十さんには、僕もいろいろ世話になったのだし、責任をとるといって、父の助手の仕事もやめたのだし、あなたに罪があるわけではないのだから、などと、どうにか宥めて帰ってもらった。
しかしこの忠告をうけて、これが真実として、僕にはいったい何ができるのだろう? なにか反撃ができるのだろうか? いま僕は具合いの良いとき、こっそり病院の中を探検してまわっている。いつもの悪い癖がでているだけの話だが、うまくすれば敵が何を使ってくるか、調べる事ができるかもしれない。もう子供ではないし、病人の散歩は目立ちやすいだろうが、昔取ったなんとやらで、何とかやってみよう。
僕は他人の思いどおりに、むざむざと殺されたりはしない!

某月某日

もう駄目だ。すべてが手遅れだ。
僕の身体を流れるものは、すっかり変質してしまった。もう赤い血潮ではない。なにか透明な液体がたまっているだけだ。僕はもう僕ではない。意志も気力も残っていない。いろいろな本や、画を整理してしまった。枕元に銀の砂時計だけを置いておく。僕の生は、こんな形で閉じるのだろう。僕の生は人の掌のなかで弄ばれる時間のようなものになるのだろう。僕には、この時計すらひっくり返す力すらもない。ここまで書くのに、一時間もかかってしまった。もう、僕は。

日記はそこで終わっていた。死ぬ前日の日付だった。
とうに全部読み終えた筈なのに、老婦人は紙束にじっと視線を落としたままだ。その頬に落日の残光が薔薇色に輝いて、神仏のような無表情になんともいえない翳をつけている。鉄雄はその顔色を窺いながら、判決を下す裁判官のような冷徹さで、老婦人の罪の告発を始めた。
「僕は調べた。晶の日記の中で、八十氏が言っている事は、ほぼ真実だということが判った。あなたは愛人の死に出会いすぎ、生死の正常な感覚を狂わせた。普通の人間はそんな感覚は圧し殺し、全てを忘れたふりをして正常な生活へ帰ってゆくが、あなたはそうはしなかった。特殊な立場を利用し、人の命を弄ぶことを楽しみだした。特異な美貌で病の人々をたぶらかし、様々な方法で追いつめた。外科的に、内科的に、そして精神的に。わずかな生を刻む人々を責め、苦しめ、確実に死に追いやった。そして、――晶を殺したんだ」
老婦人はようやく顔をあげ、鉄雄を正眼に身据えた。銃口をつきつけられても直、自分のした事を信じて頭を垂れることのない真摯な兵士の様に、姿勢を正し、意気に満ちて、対手の瞳をじっと見つめた。
「それで私は、何を話したらいいのかしら。どうやって晶さんを殺したかという事? どんな風に苦しめ、死なせたかという事かしら?」
鉄雄はその瞳にたじろぐことなく、それどころか捧げ銃になんの疑問を持たない愛国者のように、まっすぐに背を伸ばして鋭く、
「その通りです。僕はききたいのです。今までの僕の話では足りない所を」
老婦人は笑った。それは今までとは違う、触れたら凍りそうな冷めたい笑いだった。
「貴方は皆、知っているのではないの? 一年かかって、じっくりと私の知らない事まで調べあげてきたのではないの? それでも?」
鉄雄は、無力な人間にの頬にナイフをつきつけるような、ひどく嫌味な皮肉な様子で、
「だからききたいのです。確かめたいんです。あなたの口から、あった事を全部。あなたの事実を話して下さい」
と言うと、老婦人から紙束をとりあげた。
「私の事実? ……そんなものはありませんよ。私が話せるのは、自分の夢の話だけ、もし貴方が言うことがすべて事実だとしたら、私の話はみんな嘘になります。それでもききたいというのね?」
「そうです。あなたがしてきた事、あなたが晶とあってからの事、そしてあの日の事を」
これは闘いだった。お互いが一線もゆずれない闘いだった。
「ひどく簡単な、よくある話よ。それでも?」
「そうです」
そう、これは初めからこの二人の闘いだったのだ。

6.

高峰ゆりというひとは、戦前かなりの資産家の娘だった。貧しい医者と結婚してもまだ余裕のある生活をしていた。敗戦後、天涯孤独になったものの、財産はなんとか残り、それで新しい生活を再開しようとした。しかし彼女の生活はいつでも寸断された。一緒に生活を築きあげていこうとする人間を選ぶと、その人は必ず、死神の方にさらわれてしまう。……彼女は考えた。果して自分自身に疫病神がとりついているのか、それとも、死の翳りをもつ人間に魅かれるようになっているのか、と。
彼女がまだ医者のはしくれであった頃なら、まだよかった。死の影を見抜く力があるのであれば、それを自分の仕事に役立てただろう。しかし、戦争の不条理に夫を奪われ、医術の空しさを噛みしめていた彼女は、そんな力を疎んだ。そして、長い間、苦しんだ。……自分が始めた病院は、他人の手に渡って大きくなり、様々な人を救うのに、自分がつれてゆく患者は何をやってもことごとく助からないのだから。
彼女はそこで、考え方をかえる事にした。自分がそういう人間であることは、もう否定できない。そして自分は生き続けている。これは、自分の生を楽しめという天の啓示ではないか、と。歳を重ねるにつれ、なにも持たない彼女は、自分の生しか、楽しみがなくなってきた。暖かい太陽のぬくもりのなかで、じっと生きていることを感じる事、それが彼女の楽しみだった。
しかしそのまま老いてゆくには、彼女は美しすぎた。目立たぬ姿をしていても、なおにじみでる気品というものがあった。隠してもなおあふれてくる、人を魅きつける力というものがあった。彼女は一人ではいられない人間だったのだ。そして、彼女の疫病神はなお健在で、犠牲者は後をたたなかった。彼女の意識は、良くない方に傾いていった。
そして、彼女の罪の意識は飽和量を越えた。どのみち人を死なせてしまうのなら、殺してしまおう。重病の人間には一か八か人体実験まがいの事をし、死の願望のある人間には、その準備を手伝ってやろう、と。そして彼女は彼らの限りをつけた生の上に夢を描いて楽しもうと思った。自分の運命を知り、精一杯最後を生きようとする人の美しさや、惜しまれながら散ってゆく才能のはかなさ。それまで普通の人間だったひとが、それ以上のなにかに変化する時がある。その美しさを彼女は弄び楽しんだ。
もちろん彼女はいつも相手を愛した。恋人達は幸せに死んでいった。しかしそれは、この世の愛というものではなかった。日数をきった、あとくされのない、割り切れた感情関係。それは一種理想的な感情関係ではあったが、真実のものではなかった。面倒な行き違いや、長い間に変質していかない感情などというものは夢か幻、ただのゆきずりの、利害関係の無い他人に対する好意のような、うすっぺらい愛だ。
しかし彼女には、時を耐えて通じあう愛は与えられなかったのだ。夢ばかりを次々にとりむすんで、生きる楽しみとするしかなかった。……彼女は割り切った。期限のある恋ならば、むしろその方が楽だ。突然の変事に心を苦しめずにいられる。最後の日まで笑って暮らせる。そう思うことにした。
そんな時、彼女は、庄司晶という青年に出会った。
いつものごとく、彼女はこの青年の内なる翳を見抜いた。そして、青年の資質に魅かれた。彼はすばらしい獲物だった。彼は取り乱すことがなかった。死せる病人といってもいつも高潔ではない、時々鼻につく我儘もあるというのに、この青年にはそれがなかった。苦しみもがく不様さを隠し、体調の好不調の波立ちも抑えて、彼女の気持ちを傷つけまいとした。彼女はそれを知り、その苦心に応えて、楽しい時を与えすごした。青年は非常に聡明で、何もかもよくのみこみ、内なるものを昇華した。
しかし彼の労苦にも、限界が近づいてきた。もうまもなく彼は自分の苦しみを内に抑えることはできなくなるだろう。あげく錯乱、狂乱状態になるか、静かに廃人のような末期をむかえるのか、それを見るのは忍びなかった。青年のすさまじい精神の力は見ているこちらも息苦しい程で、楽にしてやりたい、と思うようになった。早くけりをつけてしまいたい、という気持ちが湧いてきた。彼女は慌てた。もうすぐ死ぬものを何もわざわざ殺すことはない。だが、このままでは晶は苦しいまま死ぬ。罪に問われようとも構わない、早く殺してあげよう、などと思い始めた。
そんなある日。
近くの山でいい軟水が湧いているので、それを氷にしたものを差し入れた日のことだ。
お茶をいれようかと思ったが、晶がそのまま氷の冷たさを味わいたい、というので、タンブラーに大きな塊を入れて、水をさして渡した。
「これは、どんな効き目のあるものなんですか」
「長寿の名水だそうよ。とにかく、清水は身体の中をきれいにするそうだから、飲んでみてちょうだい」
「はい」
少し飲んで、晶はむせた。手からコップが滑り落ちた。
「あらあら」
彼女は慌ててタオルを取った。晶は自分の力がまるでなく、軽い振動でコップを取り落としたことに、一瞬茫然としていたが、落ちた氷を左手に乗せると、ぐっと握りしめた。彼女は驚いて、その掌をこじあけようとした。だが晶は掌を開かない。
「やめてください。僕は生きているんです。……僕は、生きて、いるんです」
指の間から、たらたらと水がしたたり落ちる。赤い血潮のように見えて、彼女は悲鳴を上げた。
後で氷を捨てた掌は、真っ赤に腫れてしまった。それでも晶は平気な顔をしていた。
彼女は決意した。この青年は、もう、生きているとはいえない。生きてゆくには、するどすぎる魂の持ち主だ。そして、その美しい魂を、かなりくちかけさせている。もう、見てはいられない。自分に挑むように生きている青年を見るのは忍びない。彼女は決意を固めた。
決行の日、彼女はこの病院で行われた「骨髄移植の可能性」というフォーラムに参加をした。スタッフの一員として、細かい雑用をこなした。映写技師もかってでた。そして、ほかの人間が映像を見ているとき、こっそりと青年の部屋へ行った。
睡眠薬はフォーラムの前にうまく飲ませておいたので、よく眠っている。彼女は用意していた注射器を用いた。そして、なに食わぬ顔でフォーラムへ戻り、映写が終わると白々しく一席ぶった。今日の死病も、明日はわからない、と一般人の立場から、延命の魔法の希望を延べたてたのだ。彼女は青年が冷たくなって行くのを思いながら、熱を込めて語り続けた。
……こうして彼女は一人の若人をまんまと殺害したのだ。ごく簡単にあっさりと、ほとんどなんの疑いも持たれずに、自然死のように片が付いてしまったのである。そして彼女は、今も病院の中をさまよい、新しい獲物を、生きる希望を追い求めているのだった。

……鉄雄は眼を閉じて、老婦人の訴えに真面目にじっと耳を傾けていた。だが、話が終わるとにこりと笑って、
「確かに、あなたの話は夢ですね」
と一言で片付けた。

7.

「貴方の言いたいことは、いったいなんなのかしら。貴方が使う夢という言葉は、いったいどんな意味のつもりで使っているのかしら」
老婦人の言葉には西洋剃刀のような鋭い味が加わってきた。しかし鉄雄は、ジャックナイフの無骨な強さでそれに応えていった。
「何がいいたいか、ですか? 文字どおりの事です。たとえその話があなたにとって真実でも、それは夢物語だということです。あなた自身、わかっているはずだ。本当にあなたが殺人を犯したというのなら、あなたはとうの昔に、警察に捕まっているはずです。病院の中の人も黙ってはいないでしょう、あなたを告発する人がいるはずだ。しかしあなたは自由の身だ。ということは、あなたは彼を殺していないんだ」
老婦人は姿勢をわずかに崩した。だが、艶な笑みで取り繕って、
「諸戸さん、貴方は『幻の女』という探偵小説を御存知?」
「アイリッシュのサスペンスなら、前に読んだ覚えがあります」
「あの話は、一人の人間が殺人罪に問われようとしているのに、レストランのウエイター達は、ほんのわずかなお金を握らされただけで、この人など知らない、といくらでも偽証をしたのよ。それはお話としても、現実も似たようなものじゃないかしら。とりわけ、私は一応病院の関係者なんですから、中の人間は内幕やら恥部やらを外の人に漏らすわけがないでしょう? 警察もいろいろと仕事があって忙しいんだから、死期間近の若者の死を詳しく詮索する気なんてなかったでしょう。貴方は今まで、私が殺してきたと断じてきたのに、自分の話と少しつじつまがあわないといって、私の話をすべて夢物語と片付けていいのかしら。それで、よろしいの?」
「少し震えていますね? でもお気の毒ですが、あなたの話は、どんな風にも片付けられますよ。……残された植木鉢のなかから、注射器の針と破片が発見されたんですから。それは間違いなく晶の死に使われたものという結果が出て、警察は見事に自説を立証しました。僕も調べましたが、あなたがフォーラムで演説を力説し始めたのは、四時。あなたは晶が死んで発見されるまで、そのフォーラムをでていかなかった。僕はその間、彼に逢っている。彼は眠っていなかった。そして、生きていた。死んだのは、しばらくして後です。あなたには殺せなかった。彼は自殺だったんです」
きっぱりと言いきって、鉄雄は一歩も譲る気配を見せない。老婦人の笑みはだんだん強張ってくる。
「自殺だなんて、ありえない話だわ。私がこの手でしたことなのに。そう、晶さんは薬が足りなくて、貴方がきたときちょうど眼を覚ましたのよ。まだその時、晶さんが生きていた、というだけの話だわ。植木鉢の中から何かが出てきたといって、それがなんの証拠になるの? それに、あなたの手を経て、弟さんの手を経て、いったいどこで何が起こったかもわかりはしないわ。自殺だというなら、薬の事はどうなるの? 病人の晶さんがいくら頑張ったところで、特別な薬を手に入れることなど、出来なかったはずだわ」
「あなたの言っていることが、すべて間違っているといっているんじゃないんです。それでも、もう少し、はっきりさせておかなければならないことがあるんです」
鉄雄は上着の胸元をあけて、折り畳んだ一枚の紙片を取り出した。
「彼の残した白いカンヴァスのなかに、《諸戸君へ》とかいてあったものが一枚あって、庄司の家から譲り受けたんです。それをいじっていたら裏側に仕掛けがしてあって、一部が外れてこんなものが出てきたんです。御覧になりますか?」
「遺書だとでも?」
その紙片の文字は、あきらかに庄司晶の手で書かれた、流れるような美しいものだった。老婦人は受け取り、絶句した。

《諸戸君へ

僕は死ぬ。死んでしまう。……死ぬということは、誰の上にも間違いなくふりかかってくるものだが、僕の死は予定された死だ。不意に襲ってくるものじゃなく、僕自身も、周りの人間も準備のできている死だ。幸福な死とでも呼べるような死だ。運命であるからには、これで仕方の無いものだと思っていた。
しかし、いざ病院で死と向かい合ってみると、割り切っていた筈の気持ちがぐらついてきた。初めは、大人しく死んでゆくつもりだった。みんなの望むように最後までけなげに立ち向かうつもりでいた。
だが僕はそんな自分の気持ちが演技の様に思えてきた。最後まで、といっても、肉体的苦しみが極限までつのり、精神さえも圧し破壊するときがきても、じたばたしなければならないのか。小細工で延命が果たせたとしても、今の僕にいったいなんの意味があるのだろうか。もう残り少ないこの命をいったいどう使うべきなのか。そんな事をずっと考えていた。
そんな時、目の前に、一つの目的が現れた。僕の生と死を欲している人がいるのだ。その人は僕に夢を描いている。僕は、この人の夢を完成させてあげようとおもう。その人はまだこれからも生きてゆくのだ。そのためには僕は夢か幻のようにうまく死んでしまわないといけない。
諸戸君、君には本当にすまないと思う。こんな驕った、勝手な死に方を選ぶ僕を許して欲しい。いや、許して欲しいなどという資格はないのだろうけれど。
それでも最後に一言礼を言わなければ。今まで本当に有難う。
さようなら。 ――晶》

「どういうことなの、これは……!」
「初めに僕が言った通りの事です。庄司晶は不治の病で死んだ。そして自殺だった。そして、本当にあなたに殺されたんです」
カードは出揃った。だがその表側は、突き合わせても一見すべて食い違っている。この勝負は、単純なトランプのゲームに似ていた。目の前にあるものを並べあわせ、捨ててゆけばよいのだ。最後のカードはたった一枚、その覆面のジョーカーを見破った者の勝ちなのだ。青年はその最後の札をめくった……

8.

「彼はあなたに殺されなければならなった。あなたのために。しかし彼は殺されたくなかった。死ぬのは仕方が無くとも、自分の意志にそむいた死に方はしたくなかった。それに、あなたを殺人罪にすることも厭だったのでしょう。それで、あなたのやりかたにのっとって死んでいったんです。彼はすべてを見抜いていたんです。あなたは晶に薬をのませたといった。彼は、たぶんそのときは飲まずに、どこかにうまく隠してしまった。あなたが注射を打ちにきたときには、眠ったふりをしていた。そして、空の注射器を自分に突き立てた。そのあと、あなたの薬を飲み、僕を待った。時間を見計らって注射器を打ち壊し、わざと僕にみせて、ガラス片を隠した鉢をもっていくように頼んで、自分の生涯のカーテンをひいてしまったんだ。彼はあなたに殺されまいと思えば死なずに済んだ。だから彼はあなたに殺されても、自殺なんだ」
「そんなことが……」
老婦人は顔を覆った。鉄雄はしばらく相手を見つめていたが、うつむいて、そっと白いハンカチを差しだした。
「すみません。あなたを追いつめたりして。……僕はあなたに嫉妬していたんです。あなたのために晶は死んだ。晶はあなたを《ふぁむ ふぁたる》と呼んだ。あなたは今も生きていて、相変わらず病院の中をさまよっているという。僕が死の追憶に生きているとき、あなたは新たな生の上に生きている。それが判ったとき、僕はあなたのみている夢物語を壊したくなったんです。自分も同じような夢をみていたのに。……僕には、あなたを裁く権利なんてないんです。僕はただあなたに無理にでも勝とうとしただけなんです。年月を重ねたひとの方が、生きてゆくのが上手なのはあたりまえなのに。……僕の罪の方が重いのかもしれない」
老婦人は差しだされたハンカチを受け取り、濡れた頬を押さえた。
「そう、貴方には何かあるのでは、と思ってはいたのだけれど……貴方があやまる事は何もないでしょう、晶さんは貴方に、本当の事を知ってもらいたかったでしょうから……そうなの、わかったわ、あの人は、わざわざ小細工までして、残された全ての人に夢を残していったのね。知人には病気の友人の記憶として、家族には誰かに殺されたのかもしれないというな日記を残して、私には幻を、貴方には真実を残して。驕っているだなんて、自分の偶像性をよく知っていたのね。神の子でもできないような逝き方をして。……鉄雄さん、私達は同じ仲間なのね。勝ち負けなんかないのね」
鉄雄は相手の言葉にひどく驚き、ひどくはにかんだ顔になって、
「そんなふうに言って下さるなんて。彼のことはともかく、僕はあなたを敵のように扱ったのに」
老婦人はハンカチを返すと、青年の掌をしっかりと握った。
「敵だなんて。『Phantom Lady』、あのロマンスでも主人公を救ったのは、初めに彼を捕まえた刑事だったのよ」
「そうでしたね」
そして二人は立ち上がった。庄司家へゆくのだ。徹君の幻想がもし歪んでいたなら、それは晶の遺志にそむく事になる。自分達を思いやって死んでいった彼のために、ゆかねばならない。
日入り果てて、二人は店を出た。
扉の鈴がチリンドロンと、教会の祈りの鐘のように鳴り響いた。

(1989.10脱稿/初出・探偵趣味倶楽部『群探第13号』1989.11)

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Narihara Akira
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