ロボット工学三原則

1)ロボットは、人間に危害を与えてはならない。
また、人間に危害を与える行為を見過ごしてはならない。

2)ロボットは、人間の命令に従わなくてはならない。
ただし1の原則に反する場合はこの限りではない。

3)ロボットは、1、2の原則に反するおそれがない限り、
自分を守らなければならない。

1950年 アイザック・アシモフ
「われはロボット」より


『完全な世界』

1.

その夕方、杉隆一は背中を丸めて酒場のドアを押した。
「いらっしゃいませ」
慇懃な低音と物腰で彼を出迎えたのは、若い美貌のバーテンダーだった。
ゆるく束ねた長い髪、透き通るように白い頬。慎ましく伏せられる二重瞼、神経質そうに孤を描いて伸びる細い眉、常に不思議な微苦笑を浮かべる薄い口唇の甘いニュアンス。
乱れた前髪を軽く払うと、外人女性モデルのような物憂い仕草で彼はこちらを見た。
タック入りのスタンドカラーのシャツも小さな蝶ネクタイも、金釦のついた黒チョッキも恐ろしいほど似合って、清潔でシックな店内に咲く一輪の華といえた。男だとわかっていても、胸がときめくような美しさである。
軽くきいた冷房と目の前の麗しさに少しく心慰められて、杉はストールに腰を乗せた。バーテンは優美な手つきでグラスを磨きながら尋ねる。
「何になさいますか」
見渡すと、珍しく他に客はいない。これは杉には都合がいい。早口の低い声で、
「今日はショウコさんは?」
バーテンは首を振った。
「申し訳ございません。主人は商用がありまして、本日は不在です。御用の場合はまた後日ということで」
馬鹿丁寧に答えて、冷たい水をスイ、と差し出す。たいそうに《主人》というのはこの青年の姉に過ぎないのだが、こう言うようにしつけられているのだろう。いや、宵子がいないのは更に好都合だ。彼にもう一つの仕事が頼める。
「いや、彼女に用がある訳じゃない。今日は、情報屋のAと話をしにきたんだ」
とたん、青年はぱっと瞳を輝かせた。悪戯っぽい笑みを浮かべて、
「で、H署の若き敏腕刑事さんが、今日は何の用?」
麗しい挙作はすっかり消えて、年よりもずっと子供っぽくはしゃぐ。杉は苦笑して、
「皮肉を言うなよ。今日は警察の仕事じゃないんだ」
「ふうん。別にいいけど。僕が教えられることなら、個人的用件も大歓迎」
Aはカウンターに肘をついてニヤニヤと笑う。
杉はひとつため息をついた。
本当にこの男に出来る仕事なのだろうか、頼んでいいものだろうか。今までの実績を考えれば、そんな懸念もすぐにふり払える筈なのに、こうして改めて見直してみると、目の前にいるのは、自分より幾つも年下の華奢な一青年に過ぎない。そう考えると、どうも感情が納得しないのである――有能な情報屋のA、という現象を。
杉がAと知り合ったのは半年ほど前、彼が姉とこの街に流れてきて、《J》という酒場兼飲食店を開いたすぐ後くらいのことだった。
その頃、H警察署に一人の常習の中年詐欺師が自首してきた。取り調べに素直に応じ、過去の罪状もあらいざらい語る。その様子があまりにサバサバとしているので、先輩刑事達が席を外した時、杉はこっそり自首の動機をきいてみた。
すると詐欺師は、遠く夢みるような顔になって、
「ああ。エイの奴が、あなたもそろそろ潮時でしょう、そんな小さいことしかできないのなら、いっそ足を洗ったらいかがです、って言ったんだよ。確かにこれはいい句切りだった、気持ちがさっぱりしたな」
「えい?」
「ああ。あいつはエイ、というんだ。アルファベットの大文字でA、と書くんだとさ。若いがやり手の情報屋だ。女みたいに綺麗な顔してるから、一度拝んでみるといい。損はしないさ」
そう言って妙に嬉しそうに笑った。
杉はAに会ってみようと思った。詐欺師の言うことだから話半分としても、犯罪者と少しでも関わりのある人間ならば放ってもおけない。教えられた酒場を訪ねてみて、とりあえずAという人間の外側を見てみた。
第一印象は《やはり詐欺師だ、奴に騙された》だった。こんな青年が、情報屋などやっていける訳がない。荒っぽい裏の世界とつながりをつけるには、それなりの腕っぷしと度胸と凄みが必要だ。だが、Aというこの男、身長こそは人並みだが、ほっそりと痩せていて、ちょっと肩を押しただけでもひっくり返りそうだ。確かに美人ではあるが、少々ぼんやりした所があって、客との会話も時々とんちんかんなくらいだ。こんな青年にいったい何が出来るというのだ。
しかし、これが一種の仮面、隠れ蓑ということもありえる。そんな疑問を抱きつつ、姉の宵子の線の強い美しさ(ここの家は姉弟揃ってよく似た美形だ)にひかされて何度か通ううち、杉は決定的な瞬間を見た。Aの誘導で、店の隅にいた若い女性が自分の身の上とそれに降り掛かる問題をベラベラしゃべりだし、解決策を授けられて出ていく場面を。
それで杉は思いきって、Aを試すことにした。自分が受け持っている事件、知っている事件の手がかりをAに与えて、関連の情報を引き出すよう頼んだのである。
杉の期待以上にAは応えた。なんでもないような情報が、事件を一気に解決に向かわせた。おかげで杉は、優秀な若手として周囲から一目置かれるようになった。それまでは、真面目なだけが取り柄の目立たない公務員だったのに、その手を汚さず事件の鍵を取り出してみせる、派手な魔術師へ変わってしまったのである。
驚いた杉は、仕事の合間を縫って、自分の魔法の種であるAという男を調べてみることにした。どうしてこんな能力があるのか、どんな生い立ちの青年なのかと。
しかし、これが皆目見当がつかなかった。戸籍を調べてみて、名字と本籍を何度かいじろうとした事まではつきとめたが、それ以上は何も知り得なかった。前科も賞罰も一切なし、日に三度歯を磨くぐらいのことしかわからない。不審がった杉はある日、冗談めかして本人に直接尋ねてみた。
「おまえさんは、本当は何者なんだ?」
それまで無表情だったAが、急に目を細めた。
「僕はただのAだよ。もし、それ以上の事が知りたいなら、情報料を払ってもらわなきゃいけない。でもそれ、相当高くつくからね」
そう言ってふふ、と鼻で笑った。
あの時のAの瞳の冷たさはとうてい忘れられない。殺気すら感じられ、それ以上動いたら命は保証しないよ、と無言の念を押された気がして、それ以上の詮索を杉はやめた。犯罪者であるというのでもなし、下手な事をして大切な手蔓を失う必要もないからだ。
だが、今度の仕事、果してこいつにやれるだろうか。
「……で、今回杉さんの知りたいことはなんなの?」
Aは薄笑いを浮かべ、頬杖をついたまま尋ねる。杉はようやく物思いを捨て、
「何を知りたいというんじゃない、ただ、ある女性と少し話をしてもらいたい。それだけなんだ」
Aはギュッと眉を寄せた。
「どういうことさ。杉さんの彼女の身元調査?」
「そうじゃない。まあ……こういうことだ」

事の起こりは一ヶ月前、杉の下宿を、彼の従兄弟の瑞木蒼二がふらりと訪ねてきた時だった。
「どうしたんだ、そんなにやつれて」
従兄弟を一目見るなり、杉は驚きの声をあげた。その時の蒼二には、まるで生気というものがなかった。肌も乾いて張りがなく、二十歳を過ぎたばかりの青年の頬ではない。
「うん。……たぶんこれは、恋わずらい、とでもいうんだろうと思う」
杉は仰天した。
この従兄弟に一番似つかわしくない台詞だったからだ。常に沈着冷静、理性ですべてを推し量り、意思の力で感情を抑えてしまう青年だった。十五の年に事故で両親をなくした時もほとんど取り乱さなかった。十八歳まで杉の家に預けられて生活していたが、その時も激して声をあげたことはまったくなかった。けなげとも言えるが、実はこれは性格だ。昔から大人びていたし、感情の乱れを外に出すのがどうしても厭なのらしい。
その蒼二が、恋わずらい、などと自ら呟くとは。逆に言えば、そういう人間が捕まる恋は、そうとう重い病なのかもしれないのだが。
「とにかくあがれよ」
「有難う」
幽霊のようにおぼつかない足取りで部屋に上がる。
出された茶にも手をつけず、蒼二は自分の恋を語り始めた。どれだけ彼女が優れているか――柔らかな声音、陰影にとんだ瞳、穏やかながらどこか謎めいた気質。言葉の端々に機知が溢れ、どこにも嫌味というものがない。雪花石膏のように白く緻密な肌、均整のとれたしなやかな肉体、あんな上等な人間がこの世にいるとは思わなかった、あれこそが《未来のイヴ》、リラダンが描いた完全な女性だ、あんな素晴らしいひとが相手では、とても自分はつりあわないと。
名前のように青みがかった目蓋を伏せて、蒼二は呟いた。
「……もし彼女をあきらめられるんなら、悪魔に魂を売ってもいい」
「逆だろう?」
杉は眉をひそめた。
「それを言うなら、彼女が手に入るなら、だろう……ああ」
その瞬間、杉には解ってしまった。それは、蒼二にとっては辛すぎる恋なのだと。いっそ捨て去った方がいい物想いなのだが、どうあがいても逃れられないのだと。
「蒼二。あまり、つりあわないなんてことばかり考えるなよ」
「わかってるよ。わかってはいるんだ」
蒼二はしきりにうなずいた。よほど彼女がつれないのだろうか。少しも振り向いてもらえないのか。
しかし、蒼二だとて秀抜な青年だ。文学が専門だが大学の成績もとびぬけて良く、来年は奨学金をもらって院に進学することになっている。頬の引き締まった端正な容貌も、過不足のない身体つきも人並み以上だし、親の残した資産もかなりある。
まあ、良い条件が揃っているからといって恋が成立する訳ではない。これは世の不思議だが、人間に限らずどんな生き物も好みというものをもっていて、単純に優れていれば愛せる愛されるということはない。大体その相手の女性だとて、蒼二は女神のごとく崇めているが、他の人間からみればごく平凡な娘かもしれないではないか。
杉は従兄弟の肩を軽く叩いた。
「あまり無理するなよ。もうすぐ夏の休みだろう? いつまでも思いつめるより、いっそ気晴らしでもした方がいい」
「そうだね。できるものならそうするよ」
蒼二はしおれた様子のまま、夜更けた道を帰っていった。
厭な胸騒ぎのした杉は、翌日、Y市にある蒼二の下宿を訪ねてみた。
彼は留守だった。呼び鈴を鳴らしても応答がない。
それから、何度訪ねても留守が続いた。どうやら大学にも行っていないらしい。大家に頼んで部屋を開けてもらったが、当然のように蒼二はいなかった。中は綺麗に片付いていて、日記の類や書き残したものなどもなかった。
そうやって、蒼二は完璧に失踪してしまった。どんな捜索も空しく、彼に関しては何の手がかりも見つけられなかった。
見事すぎる消失――これは犯罪がらみだ。
「もしかしてあれは、俺に最後の挨拶をしにきたのか」
杉は胸の中心がすうっと冷たくなるのを感じた。
残された糸口は、蒼二が言い残した恋の相手だけだ。思いきれるものなら、悪魔に魂を売ってもいいという女性。
杉は彼女を捜し出し、何度か話をしてみた。だが、彼女は何かを知っているようでありながら、決して何もしゃべりはしなかった。
杉は困り果てた。彼にも毎日の仕事がある。失踪届けは出したが、進展はみられない。また、個人の事情で所轄外の事件を調べるのには限界がある。
その時、杉はふとAの能力を思いだした。誰を相手にしても警戒させず、なんなく口を開かせて自分の思いどおりに操る青年のことを……。

「頼む、A。彼女と話をしてくれ。他に方法が思いつかないんだ」
杉が拝むようにすると、Aはため息をついた。
「犯罪の影に女あり、か――古典だね」
急に興味をなくしたらしく、しかつめらしいバーテンの顔に戻ってしまった。背後の棚からホワイトラムとブランデー、ホワイトキュラソーを素早く取り出した。軽くレモンを絞ってシェーカーに入れ、右肩前で軽く振り出した。
できあがりを小さなカクテルグラスに注ぐと、杉の前にトン、と置く。
《ビトウィーン・ザ・シーツ》だ。シーツの海の中で、という妖しい名のカクテルを出して、生臭い男女問題など投げかけてきた杉に対する皮肉をきかせたらしい。薄く笑って、
「残念だけど、それは僕の仕事じゃないよ。悪いからこれは一杯おごり」
「A」
「あのさ、僕は情報屋であって探偵じゃないんだよ。それに、犯罪捜査のプロが出来なかった捜査を、素人にやらせようってのは、ちょっと無理があると思わない?」
「それはそうだが、今まで色々やってくれたじゃないか」
杉が慌てるとAは口唇を歪めた。
「質が違うじゃないか。だいたい僕は、恋愛関係は苦手なんだよ。得意なのはもうちょっと陰惨な種類の……」
「頼む!」
杉はいきなりカウンターに額をすりつけた。
「陳腐なのはわかってるんだ。個人的なことで使って申し訳ないとも思ってる。だが、俺の大事な従兄弟なんだ。こっちが知ってる事、把握してる事は全部教える。危ないことはしなくていい。必要なら護衛もする。Aにしてもらいたいのは、話をすることだけなんだ。少しでもいい、なんでもいいから手がかりが欲しいんだ」
Aは小さく舌うちした。うんざりしたような口調で、
「……じゃあ、料金は前払いで、杉さんのお給料一カ月分。成果の保証はできないけど、それでいいならやってもいい」
杉ははっと顔を上げた。
いくらなんでも、そこまで高額の料金を請求されたことはなかった。一カ月分はさすがに痛い。だが、彼の迷いはすぐに消えた。きっぱりとAを見据えて、
「わかった。金は明日朝一番でもって来る。それならすぐに始めてくれるか」
「杉さん」
本気なのか、とAは目を丸くした。だが、杉は構わず腰のポケットから小さな手帳を取り出して、中を読み上げ始めた。
「彼女の名前は《シヤ・ハルコ》。師谷遥子――師匠のシに谷間のタニを書いてシヤ、ハルコは遥かな子供だ。蒼二のいる仏文のゼミの後輩で、Y市に親と一緒に住んでる。最近は……」
Aは慌てて手を振った。
「わかったよ。本気なのはわかったから、もういいよ。この話は引き受けるけど、また明日来てよ。で、お店じゃなくて裏の、家の方に」
「引き受けてくれるのか」
Aはコクンとうなずいた。
「そうまで言われちゃ仕方ないでしょ。他ならぬ杉さんの頼みだし。それに急いでお金いるんだ。姉さん今、ちょっと難しいトコやっててさ。あんまり大きな事件を受けると、明日から僕が働けないから、それも困るしさ。……だから、ぼったくるつもりじゃなかったんだよ。もし、少しでも余ったら返すからさ」
なるほど、宵子もここに店を開いて半年、開店時よりも難しいことの出てくる時期だ。今夜も経営上のトラブルがあって、金策に走り回っているのかもしれない。
「そうか。Aも大変なんだな」
「大変なのは姉さんだけさ。僕はむしろお荷物だからね」
「そんなこともないだろう。こうして留守をしてるんだから」
言いながら杉は気付いた。Aは生活を感じさせないお坊っちゃん風な所があるが、それは実は今まで苦労してきたからではないのか、と。辛さを抱えて表に出さないのは、苦労人の証である。
杉はふむ、とうなずくと、出されたカクテルに口をつけた。
「いいよ。金が余っても返さなくていい。それよりも、これからも手助けをしてくれた方が有難い」
「そりゃ、僕に出来ることなら、いつでもなんでもするけどさ。でも、今回ちょっとキツそうだからさ……」
Aがそう言いかけた瞬間、店のドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
その瞬間、Aはいきなりバーテンに立ち戻った。透明で力強い声が、入ってきた客をすんなりとカウンターへ導く。
「何になさいますか」
若い客はどうやらAが目当てできたらしく、嬉しそうに席につくとすぐに注文をした。
「ダイキリを」
「かしこまりました」
Aは優雅に笑んで、シェーカーをすいと取り上げた。
その折り屈みに見とれた杉は、ふと妙なことを考えた。Aの普段のぼんやりは、単に有能な姉への甘えなのかもしれない、と。しっかり者の姉がいれば自分が頑張る必要はない。だとすればむしろ、宵子の存在はAにとっては有害なのかもしれない。実は何でも出来て、一人でしっかり暮らせる青年なのだとしたら。
「……じゃあ、俺は帰る」
「ありがとうございます」
Aが頭を下げると、杉は軽く目配せした。
「悪いが、今日の分は明日につけといてくれ。必ず来るから」
「わかりました。ありがとうございました」
Aの声に送り出されて、杉は生温い夏の夜の空気の中を泳ぎだした。
「蒼二は助ける……いや、絶対に助からなきゃいけないんだ」
そう呟いた途端、杉の目の端から光がこぼれおちた。思い切って内々の事情を他人に打ち明けたので、緊張が緩んでしまったらしい。丸めたハンカチを押しあてて汗をぬぐうふりをしながら、彼は足を早めた。
「協力してくれる人間もいる。俺も今後も動くんだから」
不安はだが、ぬぐいきれない。どこか暗い場所で冷たい骸になって横たわっている蒼二の姿が、亡霊のように胸底に沈んで消えようとしない。
「無事でいてくれ。頼むから間に合ってくれ」
祈りの言葉を繰り返しながら、杉は薄闇の中を歩き続けた。
しかし、平凡な失踪に見えて、これはキカイな事件だった。杉の暗い妄想は、現実とさしてへだたりはなかったのである。

2.

ふうん、これが《未来のイヴ》か。
Aは、師谷遥子を見つめて呟いた。
「なるほどね」
夏の木漏れ日の中で、遥子はベンチに白いサマーワンピースの裾を広げている。
確かに、日本人の十人中十人が彼女を美人というだろう。こぼれそうに大きな瞳もこづくりの口唇もふくよかな頬も、白い顔の中で完全に均整がとれている。丸みを帯びたしなやかそうな身体も、くびれるところはしっかりとくびれ、袖口からのびる腕も裾からのぞく足もすんなりと細く、二十歳を過ぎているにも関わらず、十代の少女の面影を充分に残している。意思の強そうなまっすぐな眉、きっちりと結いあげられたポニーテールは凛々しささえ感じさせる。美女といってもあまりにスタンダードすぎて、かえって形容に困るタイプだ。一言で表すならば、日本製バービー人形、とでもいおうか。
「そんなに凄いってこともなさそうだけどな。蒼二くんてのは、彼女のどこにそんなに惚れ込んだんだろう」
Aは、遥子の美しさにたいして感心しなかった。自分が美人だから自惚れているのではない、姉の顔で美形を見慣れているからでもない、単に彼の好みからややずれているからだ。
「それにしても、もっと涼しいとこへ動けよな」
Aは彼女の斜向いのベンチに座り、暑さにぐったりと手足を投げ出していた。
彼は今朝早くに起き、電車に乗って午前中からY市にやってきた。杉に言われた場所をひとつずつあたるために、駅からかなり離れた、市営の小さな動物園までえっちらおっちらのぼってきたのだ。それというのもすべて杉のせいだった。
「……普段は家か学校にいるんだが、今は夏休み中らしくて、外に出てることが多い」
杉にそう言われた時、Aは抗議の声をあげた。
「嘘だろ、炎天下で人捜しさせる気かい? 話をするだけでいいって言ったじゃないか」
「捜す必要はない。家にいなければ、最寄りの駅か、近所にある動物園にいる」
「動物園? アルバイトでもしてる訳?」
「いや。ただ動物が好きで、よく出かけるらしい。駅でぼんやりしてなけりゃ、そこにいる筈だ。もし、そのどの場所にもいなかったら帰ってきていいから。頼む」
何度も頭を下げられて、仕方なくAは動物園までやってきた。そして杉の言うとおり、入口付近のベンチで、座っている彼女を発見したのである。
「見つけなきゃよかったな。暑いのは苦手だ」
小声でぼやく。どんな人間だとて、夏の一日を炎天下で過ごせばバテもする。彼の短いTシャツと薄いGパンはじっとり濡れて、まるで汗を着ているようだ。今日は髪も結んでいないので、首から背中へ滴がひたすら流れおちる。
だが、彼女はまるで涼しい顔だ。一日中、じっとベンチに座って、道行く人々を興味深そうに眺めている。席をたつことはほとんどない。いくら木陰にいるとはいえ、飲み物さえとらない。
「もしかすると、とんだお嬢さんなのかもしれないな」
古今東西、やんごとない身分の女性というのは細かい物事に動じない大胆な存在と決まっている。どんなにひもじくても澄まし顔で耐えぬき、食べなければならない時は底抜けに食べる得体の知れなさが高貴の生き方というもの。恐ろしく繊細な神経と心配りを持ちつつ、目の前で何があっても平然とやり過ごし、いざとなればとんでもない荒業を度胸ひとつでやりとげるのが姫君の資格というなら、彼女も間違いなくやんごとないお嬢様なのだろう――目の前を通る下々をただ眺めながら、楽しそうな表情を崩さずに慎ましく座る彼女は。そばで煙草を吸うのさえためらわれて、Aはそのままじいっと待った。
「ただいま閉園三十分前です。入場時間は終了いたしました」
頭上の小さなスピーカーから、のどかな音楽と共にそんなアナウンスが流れだした。
Aはついに立ち上がった。
気の長い彼も、いいかげんにらめっこに飽きた。つかつかと遥子に歩みよると、細い腰に手をあてて一言、
「そろそろ閉園だよ」
と投げつけた。
「そうみたいね」
遥子は素直にうなずいた。特に嫌がる風もみせず、かえって手振りで彼を傍らに招いた。
Aはしまった、と思った。どうやら彼女が動かないでいたのは、話しかけられるのを待っていたものらしい。お嬢さんだから自分から話しかける無礼はせず、働きかけられるのを大人しく待っていたのだ。
Aは小さく舌打ちした。そうとも気付かず、暑気の中でにらみあっていたとは、自分はなんと間抜けかと。遥子の傍らに座りはしたものの、視線もあわせずぶっきら棒に、
「この暑いのに、よく一日中座ってられたもんだね」
「ええ。でも今日は楽だったわ。あなたのおかげで、今日はあまり声をかけられなくてすんだから。ありがとう」
Aはますます苦い顔になった。嫌味で言っている訳ではなさそうなのが尚更シャクにさわる。それはそうだろう、相当のレベルの美男美女が、少し離れたベンチで向い合い、ずっと相手をうかがっていたのだ。割り込む根性のある奴はそうそういるまい。
「君はここに何しにきてるんだい? 動物も見ないでさ」
遥子は軽く眉をあげた。
「あら、他の動物よりも、人間を眺めている方がずっと面白いわ。私はここで、喜怒哀楽の観察をしてるの。どんなことが人間を動かすのかしらと思って。実際に見なければ、考えもまとまらないものだし」
「へえ」
Aは首を傾げた。彼も人混みは嫌いでないが、彼女の言葉はあまり尋常でない。天使か妖精の類が人間を見おろして言うようだ。
「君はなんだか、まるで自分が人間でないようなことを言うんだね」
「ええ」
遥子はうなずいた。
「だって私はアンドロイドなんですもの」
おい。
その瞬間、Aの背中は冷たくなった。
やってくれるじゃんか、杉さん。おとなしい顔して一番大事なことを隠しとくなんて。彼女はちゃんと話をしないんじゃない、向こうの世界にいっちゃってて、まともな話が通じないんじゃないか!
そういえば、精神分裂症の破瓜型という奴は、十代後半から二十代にかけて発生しやすいときいたことがある。大人しい病人だから周囲にもなかなか気付かれず、いつの間にか廃人になってゆくというパターンらしい。なるほどこれは、とんだ《幻の女》だ。
いや、待て。
確か彼女は仏文の学生だときいた。自分が機械人形だと言うのは、文学的な比喩なのかもしれない。私は感情に乱れのない冷血な女なのよ、とかいう類の。
そう、きっとそういう意味に違いない。
第三の可能性として、本物の機械人形という選択枝もあるが、まずそれはありえないだろう。SF小説の中ならばもう七十年以上前から存在しているし、日進月歩の世の中で部分的には人間以上に精巧なロボットが出来ているとはといえ、現在の科学では光る頬のうぶ毛まで人間そっくりに仕上げた機械などつくれたものではない。だいたい、彼女の瞳の光はガラス玉であらわせるものではないだろう。かなり強いエネルギーを内側に秘めているその表情――つくりものに出せるものではない。
「そうか。君はアンドロイドなのか」
Aはなるほど、とうなずきながら遥子を見た。確かに理想の人造人間の女性型というのをつくれば、こういう風になりそうだ、なとど考えたのだ。
すると遥子はニッコリとした。Aのあけた間を、自分の言葉を理解するための時間ととったらしい。
「ええ。今、感情計算の仕上げの調整中なの。どうすれば人間が怒るのか、どうして悲しむのか、全部を細かく計算して、回路に組み込んでゆくのよ。これがすっかりすんだら、私は完全な人間になれるの」
「へえ」
Aは気の抜けた相鎚をうった。
が、急に瞳を光らせて、すいと遥子の瞳を覗きこむ。
「でも、完全な人間なんて、あんまり面白いもんじゃないよ。面白くない、つまんないってことは、結局完全じゃないと思うんだけどな。だから、ちょっとだけ不完全な人間が、本当に完全で素晴らしいと思うんだ」
「え?」
不意をつかれて遥子が軽く身をひくと、Aはさらに畳み掛ける。
「あのね、完全っていうのは完全じゃないんだ。ひねったことを言ってるみたいだけど、僕だけがそう思ってるんじゃないんだよ。あのさ、《収穫逓減の法則》って知ってる?」
「シュウカクテイゲン?」
Aはうなずいて、
「うん。逓減ってのは少しずつ減るってこと。収穫逓減っていうのは、物事に対しての努力が百パーセントに近づくと、得られる結果が逆に減っていくっていう意味でね。だいたい八十パーセント前後をピークにして、仕事と成果が反比例していくって経済法則」
「あら、そんなことがあるのかしら」
遥子はそれと気付かずに、Aのペースに引き込まれていた。いや、本人も引き込んだ事に気付いていなかったかもしれない。いったん枷が外れるととめどなく無邪気にしゃべりだすのは彼の性格である。
「うん。例えば、図書館の仕事を考えてみようか。図書館では本を貸し出すよね。それで利用者の案内と司書の管理のために、蔵書の記録をとってカードや目録をつくるよね。最近はコンピューターに記録を打ち込むところがほとんどかもしれないけど、それにしても管理のための仕事が必要だ。ここまではいいかい? 言ってること、わかるよね」
「ええ。入ってきた本がどんな内容で何処にあるか、貸し出されているかいないかをチェックするには、それなりの記録をすることが必要ね」
さすが文系らしく、本のことに関してはのみこみが早いようだ。まあ、誰でも子供の頃、図書室の目録くらいは見たことがあるかもしれないのだが。Aは相手の理解にうなずき、よしよしと先を続ける。
「うん。ところがね、新しい図書館をつくる時、蔵書のカタログの仕事を百パーセント終えてから開館しようとすると、その図書館は、利用者には永遠に開かれないんだ。どうしてかわかるかい」
遥子は首を傾げた。
「どうして永遠なの? カタログを全部つくるのは不可能なの?」
「うん。だって、本っていうのは毎日新刊が出るんだから。そして、それはどんどん図書館に送られてくるんだ。当然、ついたばかりの本はカタログされてない。だから、ついたと同時に貸し出す事は出来ない。それで、仕事は常にたまるから、カタログ作業を百パーセント完成することは不可能だ。だから、八割方が終わったところで貸し出しを始めてしまった方がいいんだよ。そうでないと、かえって仕事が遅れて目茶苦茶になる。八割であっても、開館したあと順繰りに、片付いたところから貸し出していけばいい訳だからさ。人間、常に八割を目指せば、一番能率のいい完全を達成できるって訳。ドナルド・アーカートって図書館員がこういう格言を残してる――《最善は善の敵》って」
「面白い理屈ね」
遥子は興味深そうにうなずいた。
「普通の人間なら、百の結果が欲しければ、百二十も二百も努力しろっていうでしょうに、善を目指すために無駄な二割は諦めろっていうのは……そういう考え方があるとは思わなかったわ。私の感情計算もまだまだね」
するとAは首をふった。
「いや。別に君がまだまだとか、間違ってるとは思わないよ。だって君はアンドロイドなんだから」
「え?」
「だって君は、本当は完全な人間じゃなくて、完全なアンドロイドになりたいんじゃないの?」
「完全な……アンドロイド?」
遥子は目を瞬かせた。Aは軽く肩をすくめて、
「うん。だって君はアンドロイドなんだから、人間そっくりになることを目指してもいいけど、結局人間になる訳じゃないからあんまり意味ないじゃん。それに、完全な人間は全然面白くないけど、完璧なアンドロイドは凄いよ。どう考えても人間より優れてる筈だし、それ以上立派なものなんてないと思うけど」
「ああ」
遥子は頬に手をあてて呟いた。
「そうね。確かに、完全なアンドロイドの方が優れてる筈だわ。完全な……人間よりは」
しばらく考え込んでいたが、彼女は急に顔をあげた。
「ところであなた、何者なの? どうしてここに座っていたの」
Aは苦笑した。本当に他人に関心があるなら、これを最初に尋ねるだろうに、と。それでもいつもの口上を、ごく簡単に述べてみた。
「僕は一応人間で、仕事は情報屋。今日は単なる情報収集で、ここにずっと座ってた。何気ない会話の端から、とんでもないことがわかることも多いからね」
滑らかに舌が回る。Aの表情は真面目だったし、声にも説得力があった。嘘をついているでもないからなおのことだ。
「情報屋」
おうむ返しに呟くと、遥子はAを再びじっと見つめた。Aも彼女を見つめ返す。
「うん。君が知りたいことのすべてを教えるよ。僕が知ってる範囲内だけど。あとは、料金に応じてね」
遥子は、大きな瞳をさらに大きく見開いて、
「感情計算でもいいの? 人間は何をしたらどう反応するか、なんてことも」
「うん。僕のわかることならね」
「そう」
遥子は口唇を噛んだ。しばらく黙っていたが、思いきったようにこう言った。
「じゃあ、完全に他人を遠ざける方法を教えて。……殺人も含めて」

3.

他人を遠ざける方法――殺人も含めて。
よせやい、とAは思った。
君に関わった男が一人、姿を消して一カ月も行方不明なんだぜ。洒落にならないこと口走るなよ、と。
だが、彼女とは一応初対面だ。互いに名前すら名乗っていないのだからそんなことは言えない。Aはため息をついた。
「いきなり難しいことを言うね」
遥子はあら、とAの横顔を見上げる。
「そういうことは、知らない?」
「いや、実は得意分野なんだけど」
Aは襟元に落ちる重い髪を払いあげながら、
「あんまり腕がたたないもんだから、そういう方にばっかり頭を使って生きててね。だから色々知ってるよ。でも、ただ単に遠ざける方法って言われても、ずいぶん漠然としてるからさ。それに、確認のために一つきいときたいんだけど」
「なあに?」
「それは、相手を好きで遠ざけたいの? それとも嫌いだから? 好きでも、相手のためを思ってってこともあるしさ、動機によって、微妙にやり方変わるから」
遥子はあ、と口元を押さえた。表情こそほとんど変えないが、返答にかなり迷っているようだ。
まあ、自分の内実を赤の他人に知られたくないのはよくわかる。相手を特に好きでも嫌いでもなくとも、遠ざけたい時もある。必要以上の詮索は、この際よくない。
「いいよ、無理なら答えなくても。どんな知り合いにも使える方法が、二つばかりあるしね」
Aがそう続けると、遥子は顔をあげた。
「どんな相手にも?」
Aは真剣な顔で応えた。
「うん。一つ目――相手の悪口を言う」
「あら」
遥子は思わず笑いだした。冗談だと思ったらしい。だが、Aの方はますます真面目くさって、
「悪口なんて子供じゃあるまいし、って思うだろ。でも、意外に効果があるものなんだよ。大人の方がかえってきくくらいでね。相手に悪く言われるのは、どんなに正論でも辛いことだから」
「あ」
ふっと遥子は笑うのをやめた。AはOK、と腕を組み、
「まず、基本は陰口。本人の前では原則としてやらない。それで、遠ざけたい相手の友人知人職場関係――なんでもいいからそいつの周辺に、あまりよくない噂を何種類か流すといい。時間をおいて何回かね。よくないっていっても、こっちの品位を損なわない程度の軽い話でいいよ。どうせ尾鰭がついてくものだから。……それから、本人にどうしても会わなきゃいけない時は、退屈そうにしてて、他の人だけうんと誉めるといい。いつも誰かとひき比べて、あの人は本当に素敵ねって。軽い厭味くらいはつけ加えてもいいかな。そうすると相手は面白くないから、段々と離れてく。自然に絆が消えていくんだ」
「……それは、ずいぶん時間がかかりそうね」
遥子は低い声で呟いた。Aは口唇の端を歪めて、
「てっとり早い方法って注文はされなかったよ。それに、人間ってのは、そんなに簡単に動くもんじゃないからね」
「二つ目は?」
「二つ目は――無視」
Aの口調はハッタリめいてきたが、遥子はもう笑わない。黙って話の続きを待っている。
「これは、陰口より強力かつ切り札。一つめと同時進行でもいいんだけど、できれば単独でやった方がいい。とにかく相手を完全に無視するんだ。絶対に会わない。偶然会っても空気扱いにして、全然反応しないでおく。表情も変えちゃいけない。どんな言葉をかけられても、赤の他人扱いで知らん顔をするんだ。変な奴ってのはどこでもいるから、可愛い女の子が自衛のために無視したって、誰もおかしくは思わないからね」
遥子はじっとAを見つめる。Aも遥子の方に身体を傾け、演説にさらに熱を込める。
「それを繰り返していくと、周りも君に味方してくれるようになる。なにしろ君は、全然悪いことしてないんだから。諦めない相手の方が、しつこい奴だと思われるだけだ。まあ、あまり同情されすぎると、余計なお節介を焼かれたりして困りものだから、友達には心配しないでね、と一言断わっておくといいかな。……とにかく、物理的な接触はすべて断つんだ。手紙は読まないで捨てる。かかってきても電話には出ない。しつこい無言電話をかけられても、怒ったりしないで、黙って番号を変える。知りあいが周囲に多い方が安全だから、引っ越したりはしない方がいい。あと、相手にもらったもの、電話番号とか住所なんかは一切燃やした方がいい。連絡の必要がないんだから。何も知りません、見知らぬ人ですってしておけば、相手も暴挙に出づらいし」
「そういうものなの」
「うん。ただ、完全に遠ざけるには、一年くらいはみといた方がいいね。結構忍耐力がいる方法だよ。でも、無視はきれいなやり方だし、確実だね。喧嘩したり酷い目にあわせたりすると早く片付くような気がするけど、実はそれはあんまりよくないんだ。相手を刺激するだけで、かえって離れづらくなる。それに、徹底的に悪い人間になるのはあんまりおススメできない。逆恨みされるのは困るし、それに、相手がどんなクズ野郎だとしても、思い出までは奪う権利はないような気がするからさ」
「権利?」
遥子が眉を寄せると、Aも眉をしかめて、
「うん。思い出をもってられるだけでも不愉快な奴もいるけど、記憶っていうのは人間の最後の財産だもの。どんな人でも墓場までもってけるのは、お金でも名誉でも友人でもなくて、思い出だよ。それを汚すのは、やっぱりあんまりよくないことだよ」
「そうね。そうなのかも」
遥子はぼんやりとうなずいた。Aはふっと空を仰いで、
「とにかく、自分の手は汚さないのがいい。コンクリ詰めにして海にボチャン式は、確実そうに思えるけど発見後とかが厄介だしね。手蔓があってすぐ出来るならやってもいいけど、品がないから僕は好きじゃない。一番スマートなやり方で気にいってるのは、『エリア88』のアレなんだけど」
「エリア・エイティエイト? なに?」
「あ、読んだことないかい、新谷かおる? 有名な少年漫画なんだけどな。あのね、美しい裕福な婚約者のいるエースパイロットが主人公でさ、なにもかも持ってるからひそかに友人にねたまれてて、ある夜そいつに酒場へ連れだされるんだ。で、主人公は酔い潰れたところで、《ほら、外泊証明書だ、サインしとけ》って一つサインをさせられるんだ」
「サインを?」
「うん。次の日、主人公はびっくりする。夜が明けたらいきなり外人部隊行きってことになってて、今いる部隊から強制的に連れ出されちゃったから。つまり、前の晩に彼がサインしたのは、雇兵部隊入隊の契約書類で、しかも放棄不可能な奴――これが友人の陰謀だった訳」
「ああ!」
遥子が眉を開くと、Aはふふ、と笑って、
「なかなかカッコイイやり方でしょ? ただサインをさせるだけで、主人公を一定の間遠ざけることができたんだから。行く先は当然危険地域、うまくすれば死んでくれるかもしれないし、死んでくれなくとも、主人公の留守中に婚約者にコナかけてとっちゃえるかもしれない。賢い完全犯罪っていうのは、こういうのを言うんだと思うよ。単に目の前から追い払いたいだけなんだから、手間かけて殺すなんて馬鹿馬鹿しいでしょ。犯罪全体の味が落ちるよ」
「そうね。私には出来そうにないけど、面白いわ」
遥子は感心したように呟く。Aは頭の後ろに手を組んで、
「うん。僕にも出来ないけどね。……で、君はどんな方法で、僕をこれから遠ざけるつもり? それとも、もしかして、最初から遠回しに消えろって言われてるのかな」
「あら、別に皮肉で尋ねたんじゃないわ」
急に、遥子の瞳に強い光が満ちた。
「私は、あなたから遠ざかるつもりはないもの」
「あっ……と」
Aの頬が微かにひきつれた。遥子の右手が、彼の左手首を捕らえて、しっかり握りしめたからだ。
ふりほどこうとすればほどけなくもないが、そんなことをするとかえって大変なことになりそうだった。こういう時の女より怖いものはない。
獲物を決して放さない狩人の瞳から顔を背け、Aは低く呟いた。
「そりゃどうも。……ただ、最初に言っとくけど、僕は好きな人がいるし、浮気する気もないからね」
「ええ。私もそうよ」
遥子の手にこめられた力が強まる。
「そういう意味でなくて、ただもう少しだけ話がしたいだけなの」
「話?」
「ええ。話だけでいいの。何でもいいから話して。お願い」
「何でもいいって言われても」
その瞬間、頭上のスピーカーから軽やかな音楽が流れてきた。のんびりしたアナウンスが流れる。
《ただ今をもちまして、本日は閉園とさせていただきます。またの御来園をお待ちしております》
「閉園だってさ。とにかくここを出なきゃ」
Aは相手を刺激しないよう、そろそろと立ち上がる。だが当然、遥子は彼の手を放さない。握ったままで立ち上がる。
「そうね。ここは出なきゃ駄目ね。で、あなたはこれからどこに行くの?」
「帰るよ。帰らなきゃいけないんだ。姉さんが僕を待ってるんだ」
嘘ではない。もうそろそろ宵子が帰って来ている筈だ。Aの金で一息ついて、今日から店にいてくれる筈なのだ。だからすぐにも戻らねばならない。
すると遥子は、更に両手でAの手首を握りしめた。
「わかったわ。じゃあ、これからあなたの家まで行く」
「えっ」
「だってあなたは帰らなければいけないんでしょう。だから、あなたの家まで一緒に行くって言ってるの。それなら、もう少し話が出来るから」
Aは慌てて後じさりした。
「そんな。駄目だよ。もしなんなら明日もまた来るからさ、今日はここまでにしとこうよ」
「明日なんて厭。連れていって、お願い」
「駄目だよ。家の人になんていうのさ」
遥子はきっぱり首を振った。
「家なんてないわ。私はアンドロイドだもの。心配する人もいないし、帰らなければならない場所もないの」
「でも、そんなこと言われてもさ」
「お願い」
押し問答がしばらく続いたが、やがて片方が深いため息をつく羽目になった。
「しかたないなあ」
どのみち、この少女と話をするつもりだったのだ、いっそこれは好都合だと考えよう。あたりさわりのない話からはじめて、杉の依頼を早いこと片付けてしまおう、とAは思った。
「わかったよ。おいで」
「よかった」
黄昏に凪いだ空気の中、青年が編み上げサンダルを引きずる音と、少女の白いフラットシューズがたてる乾いた音が、並んで坂をゆっくり降りていった。

強い電車の冷房の中で、一日分の汗はすっかり乾いた。だいぶ気分の良くなったAは、遥子との会話を再開した。
彼女は自分の名をハルと名乗り、人間の学生のふりをしてある大学に通っていると自己紹介した。
「ふうん。専攻は?」
「近代フランス文学」
「へえ。っていうと……」
Aは思いつく限りの仏文の知識を片端から引っ張りだして、すらすら並べたて始めた。バルザックにフローベールにユイスマンス、モーパッサンにプルースト。ランボォにヴェルレーヌにマラルメ、ボードレールにロートレアモン、コクトーにポーにジャン・ジュネにサド公爵。ヴィリエ・ド・リラダン伯爵まで持ち出して(しかもマニアックにも『未来のイヴ』には触れず)延々しゃべった。
遥子は頬をほんのり赤くして、熱心に受け答えした。席が空いても気付きもせず、立ったままで語り合う。勤勉な学生にとって、心ゆくまで学問の話を出来る相手は得難い貴重な存在だ。自然話ははずんで、時間は驚くほど速く過ぎゆく。目指す駅はすぐそこだ。
「そういえば、ポール・ヴァレリーに『テスト氏』って小説があったね」
「ヴァレリーってあの詩人の?」
「うん。あのヴァレリー。彼は哲学家だし、小説なんかも書いてるんだよ。主人公のムシュウ・テストは人間のあらゆる感情を修めた男でね、自分の内側でそれを全部自由にコントロールして再体験できるんだ。つまり君と同じで、感情計算をする男って訳」
「知らなかった。読んだことないわ」
「確か今、F社の文庫に入ってるよ。読もうと思えばすぐ読めると思うけど……あ」
電車がホームに滑り込み、ドアが開いた。Aはいけね、と眉をしかめた。
「ここで降りるんだ。足元気をつけて」
「ここなの」
「うん。家は駅からすぐなんだけどね」
改札を出、生ぬるい空気の中を並んで歩きながら、遥子はほっと尊敬のため息をついた。
「Aって、とても沢山本を読んでるのね」
「そんなこともないけど。でも、本を読むのは楽しいからさ」
「楽しい?」
沈みゆく太陽の光を両頬に受けながら、Aは目を細めて、
「うん。どんな事でも《知る》ってのは楽しいよ。《こうもり傘とミシンがどんな恋をするのか》なんてファンタジー、自分じゃ思いつかないでしょう。そういう時は、文学って面白いと思うよ。こんなに純粋な楽しみって他にないと思うんだ」
『マルドロールの歌』など嬉しそうに引用する。遥子は少し遅れて歩きながら、
「でも、物の役にはまるでたたないでしょう。普通の男の人は、そういう文学的なことはつまらないって言うんじゃないかしら。違う?」
Aの口唇に皮肉めいた翳が浮かんだ。
「僕が、普通じゃないって言いたいの?」
「あ」
遥子が口唇を噛むと、Aはすぐに微笑を浮かべ、
「普通のつもりもないから、別にいいけどさ。でも、《そんな知識は役にたたない》なんて他人を笑ったりわざわざ指さしたりする輩はほっとけばいい。例外なく、そいつは馬鹿で失礼なんだからさ。だいたい、自分がうんと楽しいって思うことより素晴らしいことなんて、この世にあるかい? 誰に迷惑かける訳でもないのにさ」
「でも」
遥子の足取りはさらにのろくなった。
「楽しければそれでいいの?」
「違う? だって、《役にたつ知識》ってもっともらしいけど、全ての人間に役にたつ知恵なんて、あるわけないもん。ある人にとっては素晴らしい真理や経験も、他人からみればくだらないたわ言や妄想だってことは沢山ある。だから、どんな事でも知ってた方がいいと、僕は思うよ。なんでも物の役に立つ。どんな偏った知識でも、今まで目に見えなかったことを改めて見とおす力になるよ」
「わかったわ」
遥子は立ち止まった。
「何が?」
「Aが情報屋をやってるのは、そういう理由なのね」
「あ」
今度はAが口唇を噛む番になった。
「そういう訳でもないんだけどね」
実はAは、遥子と話をしているうちに仕事のことをすっかり忘れていた。信頼されようと思って相手にあわせたのでなく、単に話せる話だったので熱くなっただけなのだ。
Aが他人に好かれるのはこのせいだ。打算のない人間は警戒されない。打ち明け話の相手によく選ばれるのも、子供の無心があるからだ。ただし、本人はそれを嬉しがっていない。単純ということは、イコール頭が悪い、と思われることが多いからだ。
「そういう訳じゃないんだよ。ただ、僕は人と話すのが好きなだけでさ。だから、便宜上情報屋なんて名乗ってるだけでさ。そんなに立派なことじゃない」
「人と話すのが好きで、それが役にたつのなら、充分立派な仕事だと思うわ」
「たてばいいんだけどね……あ」
話に熱中していたこともあって、ゆっくり歩いてきたのだが、二人はいつの間にか《J》の前まで来ていた。
さて、この後どうやって遥子を帰そう。
Aの思考回路は、今ひとつ調子がよくなかった。いつもなら、いきあたりばったりでもなにか奇策を思いつくのだが、今日はどうも名案が浮かんでこない。
まあいい。
店に入れば宵子がいる筈だし、なりゆきで泊めても構うまい。なにか差し障りがありそうだったら、杉に連絡をすればよいだろう。この娘のお守りまでは頼まれていないのだし。
そう考えて、思いきって店のドアを押そうとした瞬間、Aはその場に硬直した。
「……なんだこれ」
そこには、《都合により本日は休業致します》の貼紙がしてあった。宵子の字である。
「しまった。姉さん、いないのか」
Aは青くなった。
鍵を回すのももどかしく、店の中へ飛び込む。
宵子は一度は帰宅したようだった。カウンターの上に、こんなメモが貼ってあったからだ。


Aへ

ごめんなさい。
Aが金策をしてくれたのはとても嬉しかったけど、
お金で全部カタのつくことじゃないから。悪いけど
あと二、三日は戻れないから、留守を頼みます。
お店の方は開けなくていいから。とにかく、動かないで。
絶対に、下手な手出しはしないこと。
お願い。

宵子

「嘘だろ……」
Aは低くうめいた。がっくりとカウンターにつっぷすと、全身の力が抜けたように動かなくなってしまった。
「A」
遥子は戸口で待っていたが、Aがいつまでも起き上がらないので、仕方なく後から入ってきた。
「なんだよう、俺のすることは全部無駄かよ……どうしてなんだよ、なんで何にもさせてくんないんだよ……」
Aの背中は細かく震えていた。遥子はその肩に触れようとして、寸前で手をとめた。
「A、熱があるわ。触らなくても熱い」
「熱?」
Aは顔をあげず、くぐもった声で答える。
「熱くらい出すさ。一日ずっと外を歩いてきたんだから。あんまり丈夫に出来てないもんでね」
「そうね。普通は疲れるわね」
遥子は、ふと店の中をぐるりと見渡した。
「……あの、お台所を借りてもいい?」
Aは答えない。
「じゃあ、勝手に借りるわね。持ち合わせがないし、お礼もあまりできそうにないから」
遥子は注意深くあたりを歩き回り、店の冷蔵庫を点検し、裏の家に続くドアを発見して、もう一度彼に声をかけた。
「この奥に、Aの部屋があるの?」
Aはまだ答えない。
「身体が動かせるようなら、奥で寝ていて。横になった方がずっと楽になる筈だから」
Aはつっぷしたままである。遥子は構わず奥に入り、ダイニングルームの点検を始めた。

4.

「師谷さん」
瑞木蒼二は、うす青くひかる頬を引き締めて、相手をじっとにらみすえた。
「お嬢さんを僕に下さい、とはいいません。でも、今の遥子さんは本当に幸せでしょうか」
深くソファにもたれていた師谷京作は、丸眼鏡の奥の瞳をスウと細めて、
「それならば、君は遥子を今以上に幸せにできる、とでもいうのかね」
声に敵意はない。広い胸幅から出る柔らかなものだ。というより、世間知らずの若造を前にした大人の、圧倒的な余裕に溢れている。
蒼二は大きなソファから身を乗り出すようにして続けた。
「師谷さん、僕がいうのは、彼女を解放することです」
京作氏は色のない薄い口唇を、ゆっくりと動かした。
「それは、できない」
「必要以上に束縛しているのを認められるんですね」
「瑞木君」
京作氏は、椅子からわずかばかり身を起こした。
「私は娘を愛している。そして、今の遥子には私の庇護がまだまだ必要だ。ただ、それだけのことなんだよ。たぶん君は、何か余計な誤解をしているんだろう」
落ち着いた声でそう言いきる。都合の悪くなった男が後ろ暗いところをごまかしているというような様子は微塵もない。蒼二が言葉につまると、微笑を浮かべて先を続ける。
「悪いが、君のことは少し調べさせてもらった。高校の時に御両親を事故でなくされているそうだね。兄弟もいない、今も一人で暮らしているときいたよ。遥子も母を知らないし、心の陰翳を知っている娘だ。君の孤独は理解するし、同情もするだろう。だが、それ以上の感情を君にはもっていないようだ。だから……」
「いいえ!」
蒼二は鋭い声で京作を遮った。
「僕は同情される人間ではありません。だいたい、両親をなくして寂しいと思ったことはない。世間でいう懐かしみを彼らに感じたことはないんだ」
蒼二の瞳は燃えていた。触れられたくないことにいきなり触れられて逆上する人間の目である。
京作氏はふむ、と口をつぐんだ。様々な理由で、親と不仲の子供がある。しかも思春期に死に別れ、和解の時間も充分なかったとしたら、その感情は沈みこじれ、世間の他の親も信じられない、ということがあるかもしれない。
「なるほど。それが遥子に魅かれる理由か」
京作氏が低く呟くと、蒼二はさらに瞳を熱くして、
「どういう意味です」
「いや」
京作氏は失言をした人のように、頬を隠すようにして眼鏡の縁を押し上げた。
「遥子は完全な淑女だ。そして、妻にも母にもたやすくなれる。だから君は、遥子に女性らしさのすべてを求めて恋着するのだ」
「それは」
違う、といいかける青年をやんわりと遮る。
「だが、彼女の自由はともかく、君に渡すことはできない。それは私の狭量ではない。遥子が望んでいないからだ」
蒼二は苦しそうに口をつぐんだ。目前にあるものを認めたくない人のようにぎゅっと瞼を閉じ、うめくように言った。
「……遥子さんが望まないのは、あなたがいるからです」
「だからそれが誤解だといっている」
しばし、沈黙が流れた。
先に口を開いたのは、京作氏の方だった。
「わかった。では、君と勝負をしよう。君が勝てば、君がしたいようにして構わない。たぶん君は勝つことはできまいが。なにしろ命を賭ける勝負なのだから」
「命を」
望むところだというように、蒼二は不敵に微笑んだ。
「いいでしょう。なんでも受けて立ちます。彼女を諦められるものなら、とっくに諦めています。あなたと差し違えられるなら、いっそ本望というものです」
まるで、遥子より京作氏を愛しているような勢いで言いきる。京作氏は軽く嘆息した。
「羨ましいほど若いな。だが、根くらべは苦手だろう」
「あなたと闘うとなれば、どんな辛いことでも耐えてみせます」
「よろしい。……では、来たまえ」
京作氏は立ち上がった。蒼二もつられたように立ち上がり、大人の風格を漂わせる背中を見つめて歩き出した……。

5.

一時間後、Aははっとカウンターから身を起こした。宵子のメモを見た瞬間にどっと一日の疲れがでてしまい、あのまま眠りこんでしまっていたのだ。
立ち上がると軽い眩暈がする。本当に少し熱が出ているようだ。
Aは店の流しで腫れぼったい顔をざっと洗うと、裏続きのドアを開け、ダイニングルームへ首をつっこんだ。
「ハルさん、いる?」
「あ」
コンロの前にたっていた遥子がスラ、と振り向いた。ずっと料理をしていたようだ。
「ごめんなさい、お台所借りてるわ」
「勝手にお勝手借りました、って?」
皮肉っぽく呟くと、Aは潤んだ瞳を細め、テーブルの上にある大皿を見つめた。それに加えて、二人分の食器が並べられている。
「ふうん。アンドロイドも晩御飯を食べるんだ」
「そうね。形だけだけど。もしAが食べられるようなら一緒に、と思って」
「うん」
Aは冷蔵庫に寄り、製氷室からアイスノンを取り出して額にあてた。
「食べるよ。有難く頂戴します」
本音だった。何をするのもおっくうな感じなので、食事をつくってもらえたのは嬉しかった。空腹はあまり感じなかったが、気落ちしている時や体力のない時は少しでも食べた方がいい。Aのように痩せた青年は特にそうだ。
「じゃあ、あと五分待って」
「うん」
Aは頬を冷やしながら椅子に座った。姉のエプロンをつけた遥子が、つくった料理を皿に並べていくのを黙って見守る。
たきたての御飯に薄いスープ、ゆで豚に夏野菜の洋風煮物がすぐに彼の目の前に並んだ。
「ラタトゥイユ、口にあうといいけど」
「ああ。ラタトゥイユって実物は初めて見た」
「そう? 茄子だの玉葱だの胡瓜だのをトマトで煮るだけよ。あと、オリーブオイルとスープの素と白ワインも借りたけど、ちょっとだから勘弁してね」
「そりゃ、食べられるものなら何使ってくれても構わないよ。つくってもらったものなんだし。……じゃ、いただきます」
酸味が適度でさっぱりと仕上がっている。普通ならばこんなに野菜ばかり食べられるものでないが、いくらでも入るような気がしてくる。普段は口にしないセロリまで食べてみる。
「おいしいよ。ハルさん、料理じょうずだね」
遥子は御飯をつぎながら、
「ううん、これは簡単なの。ただ煮るだけだから。私、本当は中華の方が得意なんだけど、でも、ここはお腹にやさしい方がいいかと思って」
「ふうん。中華ね」
Aは、額に氷嚢を巻いたまま食事を始めた。肉やスープに口をつける。遥子も斜め向いに座って、箸を動かし始めた。
「ハルさんをつくった人ってどんな人? 凄い科学者だよね」
「そうね。たぶん彼は、今の日本の科学技術の最先端を行っている人だと思うわ」
「そうだね。最先端だろうな」
Aは霞んだような視線を宙にさまよわせながら、
「……何年か前に二足歩行のロボット完成させたのって、W大の理工学部だったっけ? 実験用だけど秒速二歩、よろけても倒れないし、人工頭脳もちゃんと内臓してる奴」
遥子は目を丸くした。
「よく知ってるわね。でも、彼はW大の人間じゃないの。関係は多少はあるんだけど」
「ということは、スポンサーかなにか?」
「そんなところね」
「でも、今一番人間に近い動きする日本のロボットって、原子力発電所の中でつかう極限作業ロボットでしょ。……あ、まさかハルさん、軍用じゃないだろうね」
「まさか。違うわ」
Aはゆるんできた氷嚢をずりあげながら、
「本当かい? だって、最近のTVゲームのバーチャル・リアリティとか3Dのビジュアルって、元々アメリカ空軍のパイロット用シミューションとして開発されたんじゃなかったっけ? スピードが速すぎる今の飛行機だと、実際の戦闘訓練ができないからって。カーナビゲーションだって、今でこそ普通のおじさんおばさんが《自動車用便利な動く地図》くらいの認識で利用してるけど、あれだってアメリカの衛星の情報を借りてるんじゃないか。暗殺したい人間をレーザーで誤差なく狙えるキラー衛星の技術と、たいして隔たりのあるものじゃない」
「あら、軍用だったらそんなに困る?」
遥子が笑うのでAは口を尖らせて、
「だって君が軍用だったら、それこそ最重要機密だろ。内閣調査室に追いかけ回されたり、CIAに殺されたりするのは厭だよ。軍用じゃなくて民間企業モノでもめちゃくちゃヤバそうなのに」
遥子はさらに笑み崩れた。
「ロボットだってそんなに物騒なものばかりじゃないわ。海底探査や宇宙開発用の機械だってあるもの。アメリカは今後の火星探査にロボットを使うのよ。来年の夏に探査船がつく予定だし、再来年までにはかなり詳しい調査をするっていうから、そのために無人機械を送るんですって。その方が不便な生身を送るよりも安上がりだから」
Aはため息をついた。
「まあ、アメリカは宇宙開発には意地と歴史があるからね。でも、日本はちょっとその点では遅れてる……」
遥子は眉をあげて、
「あら、日本だって、二○○二年完成予定のNASAの宇宙ステーションに参加してるのよ。JEMって部分は日本が制作してるの。アメリカ製作のNodeなんかは、去年の春の強度実験で失敗したままなんだから。純国産の実用ロケットもうちあげてるし、日本もこれからはアメリカに売るようなものをつくるのよ」
「それはそうだろうけどさ」
Aは、箸をおいて腕組みした。
「でも、君はとにかく破格の出来だよ。だってさ、歩けて、動けて、言葉がしゃべれて、料理ができて、価値判断もできてさ……そんな膨大なアクションが全部できる人工頭脳って、とてつもなくハイレベルなんじゃないかい? コードやケーブルで沢山機械をつないだら、それこそ動けなくなっちゃうしさ。個々の能力はともかく、全ての能力を登載したものは、試作品でもまだできてないと思ってたけどな」
「A、今のスーパーコンピューターのレベルを本当に知ってる? 昔よりうんと小型化されてるのよ。電源だって、紙より薄い電池のある世の中なんだから」
「でも、スパコンだって冷蔵庫ぐらいの大きさはあるよ。上から八六、六○、八七のスレンダーバディには入りきらないと思うけど」
遥子の動きが一瞬止まった。
「……どうして、サイズがわかったの」
「あ」
Aは腕をほどいた。
「ごめん。女の子に対して無神経なこと言って。あてずっぽだよ。そのくらいかなと思っただけ。ハルさん背が高いし、体型のわかりやすいワンピース着てるし……あっと、ごめんね」
「いいわ」
遥子は、気まずさを払うようにエプロンの端をはたいた。
「そういう気は使わなくていいのよ。私は女の子じゃないから。アンドロイドなんだもの」
「ハルさん」
Aが言葉を継ごうとすると、遥子が先に話題を変えた。
「でも、Aはいいところに気付いたわ。確かに、単一の人工頭脳では補いきれない部分もあるのよ。でもね、世の中にはリモコンというものがあるの。言ってることわかる?」
「遠隔操作か! でも、すごく強力な電波が必要だろ?」
「でも、今の日本はアンテナだらけよ。携帯電話があるから。ポケットベルなんて子供が持ってるじゃないの。微弱電波は飛び放題よ、私のための電波がその中にこっそり混ざってるとしても、そんなにおかしくないでしょう」
「それは凄いや」
Aは身を乗り出しかけて、下がった氷嚢を再び押し上げる。
「じゃ、ハルさんはリモコンで動いてるんだ。誰がどうやって?」
遥子は口唇を丸めてふふ、と笑った。
「これ以上は秘密。教えない」
「そか」
Aはついにアイスノンを外してテーブルに置いた。
「それにしても凄いなあ。まあ、軍用技術も数年で民間ビジネス用におりてくる世の中だとは知ってたけどさ」
遥子はうなずいた。
「ええ。目的がはっきりしているものなら、人間はなんでもつくるのよ。ロボットをつくるロボットだっているんだから」
「そうだねえ。目的さえあれば、機械だって子供を産むんだもんね」
だが、もし目の前の遥子が精巧なアンドロイドだとするならば、その目的はいったいなんだというのだろう。
だいたい、なぜ女性型なのか。男が女の形を人工物に象るという話は、ギリシャ神話の昔からある。ピグマリオンは自分の好みを追求するために女性の彫像をつくった。
それ以来、文学は常に未来のイヴを描いてきた。
数千年の歴史をもつ理想の女性――それが、目の前に存在しているのだ。
Aは軽く首をふった。
そんな事がある訳が無い。
確かに、現代科学は一般人の知らない部分で常に進化している。だが、いきなりこんな人間型の機械が登場するものか。確かに出来のいい人工皮膚くらいはつくれもするだろう。医療関係の技術も進化してるし、薄暗い場所でなら通用する程度のものはあるだろう。だが、中身まではまだ決してつくれはしない。僕は熱に浮かされて、いったい何をしゃべってるんだ。相手にあわせるのもいいかげんにしろよ。
「A」
「ん?」
遥子の表情が和らいでいた。
「もう食べない?」
食欲は再び消えかけていた。Aは両手を合わせて頭を下げた。
「あ、うん。ごちそうさま」
「じゃあ、話の続きをしてもいい?」
遥子は幼い子供が昔話をねだるような声を出す。Aは、冷えた額をぬぐいながらぼんやりと返事をした。
「話の続き? どの?」
「だから――他人を遠ざける方法」
「えっ」
Aは腰を浮かせた。
「さっききいたのもいいやり方だとは思うわ。でも、そんなに時間のかからないのを教えて欲しいの。完全な方法なら殺人でもいいから」
君はまだそれを言うのか。
ついてきたのは、そんな物騒なことをききたいからだったのか。
この娘の意図はなんだ。何をしたいというんだろう。
Aは眉間に皺をたてて、遥子をじっと見つめた。
「殺人でもいいってことは、殺人でなくてもいいってこと?」
「……できれば、殺人とそれに近い線。ある程度誰にでもできる、完璧な仕方」
「やれやれ」
Aは肩を落とした。適当な返事もそろそろ種切れである。ここはギブアップとしておこう。
「ごめん。手持ちのカードがもうないや。難しいから、少し考える時間が欲しい」
「あら」
遥子はエプロンを外した。
「じゃあ、いいわ。一緒に考えて」
「一緒に? これから?」
立ち上がってテーブルを回ってくる。
「何かヒントが欲しいのよ。今までずっと一人で考えてきたから。頭の中を整理したいの。今まで圧縮してきたものをぜんぶ解凍するから……」
彼の脇に立とうとした瞬間、Aがいきなり怒鳴った。
「やめてくれ! 解凍プログラムでもなんでも、一人で勝手に作動させてくれよ!」
「あ」
遥子はビク、と動きを止めた。Aは首をすくめた。遥子を見ずに低く呟く。
「ごめん。怒鳴るつもりじゃなかった。でも、本当に熱があるんだよ。少し休ませてくれないか。奥の部屋で静かに寝させてもらえば、明日には直るから」
「ごめんなさい」
遥子はすっかりうつむいてしまった。
「じゃあ、奥で寝ていて。私、待ってるから。片付けをすませたら、布団敷くわ」
「いいよ。布団は自分で敷く。片付けだけお願いする。じゃ」
Aはのろのろと立ち上がり、自分の部屋に引き取った。遥子は横顔に翳を落としたまま、ダイニングの片付けを始めた。

「A」
「ん?」
汗の染みた服を脱ぎ、緩い貫頭衣風のパジャマを着ると身体がだいぶ楽になり、布団に入ったAはすぐにうとうととしていた。寝入りばなを起こされたので、霞む目をじっと凝らして相手を見つめる。
「……ハルさんか」
「ええ。ごめんなさい、起こして。氷枕つくってきたんだけど、あてる?」
どこから見つけてきたのか、昔ながらのゴムの氷枕である。柔らかいタオルが巻かれており、ゴツゴツとした大きな氷の塊の感触も心地良い。これに慣れてしまうと、保冷剤の入ったインスタント水枕が使えなくなってしまう。氷をかくのはかなりの手間だが、それをはぶく気がなくなる。
Aは少し身体を起こし、枕を受け取った。
「ありがとう。少し寝たら気分が良くなったから、これして寝たらもっと良くなると思う」
「あと、何をしたらいいかしら」
遥子は心配そうにAを見つめる。このまま額に触れられたり、熱をはかりましょうかと言われたり、身体を拭きましょうかなどと言われてはたまらない。Aは小さくため息をついて、
「アンドロイドも、夜はやすむの?」
「どんな機械も永久機関じゃないわ。ずっと働かせてたらいつか壊れるから、定期的に休みをとらないとね」
「そう」
Aは額に手の甲をあて、遥子の視線を遮った。
「じゃあ、隣の部屋を使って休んでてくれないかな。それが一番有難いんだけど」
「そうするわ」
しかし、遥子はなかなか立ち上がらなかった。Aの脇に膝をついたままおし黙っている。
「……まだ、話がしたいの?」
皮肉のつもりで尋ねると、遥子はうなずいた。
「ひとつだけ。簡単に一言で答えられることなんだけど、きいてもいい?」
「ひとつだけだよ。なに?」
遥子は身を屈め、長い睫毛を伏せた。
「恋愛感情って、何?」
「えっ」
Aは息をのんだはずみにむせかけた。
「それを、簡単に一言で言えっていうのかい?」
「ええ」
「それこそ難しいよ。物凄く個体差のあることなんだから」
熱があがるようなことをきかれて、Aは焦った。これはいよいよ貞操の危機かもしれない。どうやったら無様でなく逃げられるかと身構えた瞬間、遥子が重ねて尋ねた。
「だから、Aは?」
「え?」
「好きな人がいるって言ってたでしょう。それは、どんな気持ちなの」
「あ、そうか。そういうことか」
Aはほっと一息ついた。他人の話をききたいだけならそんなに心配はない。単純な好奇心なら。
「そうだなあ」
Aは薄く目を閉じた。
「そのひとがいてくれたら他に何もいらない。そのひとに選ばれることが、一番の幸せ。……そういう、気持ちかな」
「それだけ?」
遥子が物足りないような顔をするので、Aは軽く笑んだ。
「一言でっていったじゃないか。そりゃ、細かく言えばいろんな気持ちが混ざってるよ。独占欲とか嫉妬とか将来の不安とか、不純物は沢山含んでる。でも、僕の恋の一番大事な部分は、お互いの幸せだもん。信じられる人といる幸せは、他のものとはとりかえられないよ。あの、なんていうか……全身が平穏に凪いで、そのあと暖かくなる気持ちは」
「そう」
遥子は頬に手をあてて考えこんでしまった。
「私も、それに似た感情を自分の中に備えてるわ。でも、それを恋愛感情とは呼ばない。私にとっては、別の種類の絆に思える」
「そう」
Aは、布団の中で少し伸びをした。
「それが何かまずい?」
「え?」
「それはそれだよ。たぶん、君の恋は僕とは別の場所にある。それだけのことだよ。そんなに悩む必要ないよ。それに、無理に恋愛しなくたって、人間の価値が変わる訳じゃなし……あ、人間じゃなかったんだっけ」
「A」
遥子は彼の言葉をしばらく噛みしめるようにしていたが、そのうちゆっくり立ち上がった。Aが黙ってしまったので、眠ってしまったと思ったのだ。
しかし、部屋を出ていこうとした瞬間、Aは再び口を開いた。
「ありがとう、ハルさん」
「え? なに?」
Aは目を閉じたまま呟いた。
「氷枕と、それから、笑わないでくれてありがとう」
「笑う?」
「うん。おまえの恋は女々しいって笑わないでくれて。よく言われるんだよ、何が《最上の幸福》だって。馬鹿じゃねえのかって。でも、男の方が、いっそきれいな恋をしたがるものだと思うんだけどな……」
Aの声はまどろんでいる人のように鈍かった。遥子は聖母の笑みをみせて、
「そうかもしれないわね」
それだけを呟くと、ドアを静かに閉めて去った。

6.

「遥子。おまえを愛している。おまえが大切だ。おまえに危害を加えるものがあれば、命にかえても守りたい。おまえに何もかもを残してやりたい。なんの不安もないようにしてやりたいのだ」
「お父様」
天蓋つきの寝台の上で、師谷京作は薄く瞳を開けていた。傍らに椅子をひいて座っていた遥子は、枕辺にたおやかな手をのべて、
「私は一人でも生きていけるわ。そんなに私の心配ばかりしなくていいのよ」
「そうだな」
京作氏は大きく胸を上下させ、
「確かに、今のおまえは、一人でももう生きてゆけるだろう。だが、それでも私は、おまえのためにできるだけのことをしたいのだ。たとえそれが、自己満足に過ぎなくとも」
「そんな。それは違うわ」
遥子が声を上げると、京作氏は身幅の広い上半身をゆっくりと起こし、穏やかな微笑を浮かべた。
「とりあえず、瑞木蒼二の件だけは方をつけておこう。私達の完全な世界を破壊しようとするのは許しがたい。排除しなければなるまい」
「排除」
遥子は瞳を大きく見開き、訴えるように、
「いくらなんでもできるからといって、無理をしないで。お金や人を使うのは、もうよして」
「そうだな」
京作氏は、娘の手をそっととった。
「確かに、金にまかせて人任せというのもつまらない。彼を遠ざけるには、私自身が手を下そう。完璧な方法を使ってな」
「完璧な方法?」
「完璧な犯罪、完全な殺人というのはどうだ?」
「お父様!」
丸眼鏡の底の瞳のいろはまともでない。だが、遥子は京作氏の手を握りかえし、そっと微笑み返した。
「……そうね。完璧な犯罪で、いっそ葬ってしまう方がいいかもしれないわ」
「そうだろう。思いついたんだ。そのやり方を」
師谷京作がいきなり倒れたのは一年前のことだった。悪性の腫瘍が脳を犯していたのである。一度手術はしたものの、全摘出は困難を極めると言われた。つまり、万に一つも助からないということだ。
頭骸骨全体を締め付けるような激痛にしばしば襲われながら、彼は退院してしまった。やるべき仕事があまりにも多く残されており、入院したままベッドの上で死ぬ訳にはいかなかったのだ。苦しみを他人に悟られないよう、最大限の努力を払って彼は過ごした。事情を知る者さえ、病状が軽快したと信じる程に。
しかし、最近の彼はさすがに、時々おかしなことを口走るようになっていた。再び活動を始めた腫瘍が膨れ、無事な部分の脳を圧迫するのだ、言動が狂うのもやむなしと言えた。
遥子は、重篤の病人の娘として、どんなに奇妙なことを言われてもそのまま受け答えをしていた。それが父親の慰めになるのなら、なんでも言うことをきいてやろう、と。
「私の方法は完璧だ」
京作氏の視線は虚空をさまよう。そこに台詞が書かれている俳優のように、雄弁に語る。
「汚い死体はつくりださない。血も流させない。もちろん、死体を溶かしたり消したりする訳ではない。無粋な凶器は使わない。ガスや薬も使わない。万一事が露見したとしても、私は捕まらないし、決して裁かれない。当然、彼を自殺させる訳でもない。それ自体は誰にでもできる方法だが、おそらくこれは、今の日本では私にしかできまい。そして、一人も他人の手を借りずに、彼を完全に遠ざけることができる」
彼らしくない言葉であるが、実は京作氏の書庫には数多くの推理小説が眠っている。普段くだらないことを言わない大人ほど、いざとなると意外に子供っぽいことを言うという例だろう。遥子は調子をあわせた。
「まるで不可能犯罪ね。捕まらないというのは、密室殺人かなにかにするの?」
「そうだ。密室殺人でもある。だが、それは誰でも自由に出入りできる密室だ。鍵は中からかけるのだし」
「いったいどんな方法なの?」
京作氏は、幼い子供を愛しむ父の瞳で娘を見つめた。
「ヒントをあげるから、遥子も少し考えてごらん。それは、私の仕事に関係のあることだ」
「お父様の仕事?」
「そうだ。……さあ、おまえはそろそろ部屋に帰って休みなさい。なにもかもいいようにしてあげるから」
遥子の手をポンポンとやさしく叩くと、娘を追い出しにかかった。
これが、一カ月半前の出来事であった。

7.

「rrrrr……rrrrr……」
電話が鳴っている。
半覚半醒で、氷のとけたゴム枕の弾力を楽しんでいたAは、ベルに気付くといきなり飛び起きてダイニングルームへ走った。すぐに受話器にかじりつく。
「はい、Aです! 姉さん?」
「Aか。……杉だ。朝早くにすまない」
Aは大きくため息をついた。
「なんだ。いったいどうしたの?」
「夜勤あけで少し時間がある。追加情報を提供したいんだが、いいか?」
「あ」
Aは、遥子が休んでいる筈の姉の寝室をうかがった。ここからなら声は聞こえない筈だが、なにしろ相手はアンドロイドだ。察した上でついてきたのかもしれないが、今の時点では杉と関係があるのが露骨に知れるのはぜひ避けたい。Aは曖昧に口調を濁し、
「……うん。まあ、全部教えてもらった方がいいけどね」
「昨日、師谷遥子と会ったか? 話はしてくれたか?」
「うん。少しだけだけどね。具体的な話はまだだよ」
この顛末を杉にどう説明したものかわからない。昨日得た知識といえば、遥子というのは意外に物騒な娘だということだけで、杉にとってはあまり喜ばしくない情報だろう。
なんにせよここで話を続けるのはよくない。Aは受話器の周りを手で囲みながら、なるべく普通の声を出した。
「とりあえず、時間があるなら外で話をしようよ。駅の角のドトールでいいかい? 十五分で行くから」
「じゃあ、俺も十五分で行こう。後でな」
電話は切れた。
Aは姉の寝室をノックした。
「ハルさん。おはよう。いいかい?」
「ちょっと待って」
二分後、昨晩どおり髪をきっちり結わえ、皺ひとつないワンピースをつけた遥子が出てきた。これはたいした早業だ。いや、もうとっくに起きていて、ある程度仕度をしていたのかもしれないが。
「朝からごめん。ちょっと出かけてくるから、留守しててくれる?」
「あら」
遥子は頬を押さえた。
「一人にしていいの? 私が金目のものを盗んで、逃げたりしたらどうするの」
Aは苦笑した。
「手癖の悪いアンドロイドだとでもいうのかい? でも、ロボットって、人間に危害はくわえない、命令に従わなけりゃいけない、それに反しない限りで自分を守っていいって存在じゃなかったっけ」
遥子は首を傾けて微笑んだ。
「ロボット三原則? あれはアシモフがつくったきまりだもの、私の法律とは違うわ。カレル・チャペックの昔から、人造人間と生身の人間は戦ってきたのよ。信頼しすぎちゃいけないわ」
Aはこめかみを掻いて、
「そりゃ、情緒的な判断のできる機械は、馬鹿な人間より遥か上の存在だとは思うけどさ。でも、賢い奴ってのは争いや無駄なことは嫌うんじゃないかな。それに、この家にはたいして金目のものはないよ。借金だらけで貧乏なんだから」
言われてみれば、室内は清潔でも質素である。彼の着ているものも、そんなに高価そうではない。美形のAが着ているからこそ、襟元の開いただらしなさも様になっているのだ。
遥子はうなずいた。
「そうね。誉められたんだかなんだかよく判らないけど、信用されてまかされたのなら、大人しく待ってることにするわ」
「サンキュ。朝御飯は勝手にやってていいよ。たぶんすぐ戻るけど、たぶん外ですませてくるから」
「じゃあ、そうするわ。しっかり鍵をかけて、誰も入ってこられないようにしておく」
「うん。僕以外には誰もこないと思うけど、よろしく」
人差し指と中指を並べ、額の前でチャッと振ると、すぐにAは洗面所へ向った。ざっと顔を洗ってシャワーを浴び、着替えて外へ出るのに十分以上かかった。

十数分後。
一杯百八十円のコーヒーショップの一番奥で、杉はアメリカンをすすっていた。カウンターについたシャツの肘はよれよれ、徹夜あけらしく、たるんで青ずんだ目元。薄赤い瞳をぎょろつかせていたが、Aを見ると手をあげた。
「こっちだ。朝飯はおごる」
Aは頬をふくらませた。
「うん。当然でしょう。こんな早くに起こしてくれたんだからね。水商売だし朝は苦手なんだ。昨日の残りもあるし、朝御飯を外で食べる必要なんかないんだから」
いきなりやっつけられて、杉は首をすくめた。
「すまん。でも、宵子さんまだ帰ってないんだろう?」
「あ、うん……まあね」
そういう気の使い方だったか。一人で冷たい飯を食うよりは、涼しいファストフードで温かいものを一緒に食った方がいいだろう、という判断らしい。それに、誘ったのは訳ありとはいえAの方だ。
「で、追加情報って?」
コーヒーとホットドッグを注文すると、Aは杉の隣に座り、物憂く前髪をかきあげた。杉は小さなシステム手帳を取り出し、ボールペンが挟んであるところを開いた。
「師谷京作の事だ。遥子の父親の。彼についてはほとんど話してなかったろう」
「彼女のお父さん?」
Aはカウンターに頬杖をついた。
「もしかして、中華が好きで、機械工学の専門家で、しかも生ませの父でない人?」
「産ませの父? ああ、血のつながりのある親の事か」
杉は変な言葉をきいて、眠そうな目をこすりなおした。そして、やっと気付いたように、
「なんだ。もう随分具体的な話までしたんじゃないか。そんな内輪の事情まで知ってるってことは」
Aはうへえ、と舌を出した。
「全部あてずっぽだよ。当たりだとは思わなかった」
杉も肩をすくめた。
「こっちだって、中華が好きかどうかまでは知らない。それに、機械工学が専門というのもちょっと違う。ただ、彼は機械関係には顔がきくんだ。W大学の理工学部の名誉顧問で金銭的にもかなりの援助をしてる。T電力の大株主だし、Y電機の実質的な社長だし、H社にもK産業記念事業財団ともつながりがある。N宇宙開発事業団やR総合技術研究所やらへも金を出してるから、日本の主だった機械産業にはすべて精通してると言えるだろうな。真実機械を愛する男だ」
「凄いな。ただのエリートじゃないね。で、本業は?」
「本業は文系だ。社会心理学の研究者で、フィールドワークを中心にやってる。大学教授じゃないが著書も何冊かある。理系の仕事は、ある意味趣味の世界らしい。当然、それで稼いでもいるらしいが」
Aは首をすくめた。
「ますます凄いや。学者でもありビジネスマンでもあり夢追い人でもあるって訳だ。普通の人の何倍もの人生を生きてるってタイプだね」
「とりとめないとも言えるがな」
「いや、とりとめなくもないよ。だって全部、アンドロイド産業につながってるもん。心理学も感情計算に役立つしね」
「うん?」
杉が言葉尻をききとがめると、Aは頬杖をつきなおした。
「いや、なんでもない。……で、京作さんとやらが生物学上の父じゃないってことは、遥子さんは連れ子かなにかかい?」
杉は手帳のページをめくり、
「いや。彼女は養女だ。血のつながりは全くない。師谷京作は結婚したことは一度もないんだ。母一人子一人で育っていて、その母親も数年前に死んでいる。係累は全くない」
「ふうん。まあ、それだけの仕事してて、あんな大きな娘のいる人なら、母親が死んでてもおかしくない年かもしれないけど……あ、養女か」
「おい、京作はまだ三十八だぞ」
「三十八!」
Aはピンと背筋を伸ばした。
「待ってよ。三十八歳で、どうしてそんな凄い資産を持ってるのさ」
杉は眉も動かさず、
「ああ。彼の父親が金持ちだったからだ。寛道――ヒロミチという男だが、造船業で身を起こして、かなり手広く仕事をやってたんだ。I貿易という会社の名は知ってるだろう?あれも寛道のつくった会社なんだ」
「ひゅう、別世界だね……あれ? さっき、京作さんてのは母一人子一人って言ってなかった?」
「ああ」
杉は更にページをめくり、
「寛道は京作の認知はしたが、京作の母親とは籍を入れてなかったんだ。一緒に暮らしていた時期もなかったらしい。当然遺産騒動もあったらしいが、京作が実業家としてかなり実力があったし、他に子供がいなかったというのもあって、すべてが彼のものになったらしい」
「ふうん」
Aは、やってきたホットドッグに手を出した。端を噛みちぎってコーヒーで流し込む。
「で、遥子さんはどういう流れで京作さんの養女になったの」
「京作がフィールドワークをしている最中に出会ったらしい。遥子というのは昔は全然笑わない少女で、身体の病気なのか神経の病気かどちらかだろうと疑われていたほどだったらしい。それに京作が目をつけたんだな」
「全然笑わない?」
あの遥子が? さざ波のような微笑を、常に頬にたちあげているようなあの娘がか。
「ああ。実の親がアル中でな。妻に逃げられた腹いせに、ひどく娘を虐待してたんだ。子供の頃は、本当に物言わぬ人形だったらしい。京作は妻帯してないんで、遥子を養女としてひきとるのに少々時間がかかったらしいが、実の親が泥酔中の事故で死んで、やっと縁組みできたって話だ。だから、知り合ったのは十年前くらいだが、一緒に暮らしているのはここ数年らしい」
「うんと望まれて、やっと娘になった訳だね。そして彼女は幸せに暮らしました、メデタシメデタシ……」
Aはもう一口パンの端をかじり、
「で、そのお父さんがどうかしたの?」
「一カ月半程前から行方がわからなくなってるんだ。使用人に尋ねてみても、体調を崩されたので別荘で静養していらっしゃいます、連絡はとれません、どなたともお会いになりませんの一点ばりで」
「へえ」
Aは首を傾げた。
「そういう時こそ、国家権力ふりかざせばいいのに。殺人事件に関係あるかもしれないんだから」
杉は恐ろしく厭な顔をした。
「死体もないし根拠もないのに、強引に捜査なんかできる訳ないだろう。令状もとれないし、第一相手は金満家で、国家レベルの事業に関係する男なんだぞ。俺みたいな若造一人に何ができる」
「ふうん」
Aはつまらなそうにうなずいた。
「で、そのお父さんが怪しい、と」
「怪しいというんじゃないんだ、ただな……」
杉は辛い夏の日を思い返し、ため息をついた。
あれは、長くて暑い日々だった……。

「この青年をご存じありませんか。この近所で見かけたことはありませんか」
「さあ」
非番の日の杉は、常にY市をしらみつぶしに歩いていた。蒼二の写真を持ち歩き、自分で単独調査を試みていた。しかし、従兄弟を見知っているものは誰もいない。屋敷町の住人達は慇懃で冷たい。彼の疲労はとめどなかった。
「……まあ、悪い情報もないんだしな」
無駄足ではあっても、歩くと気持ちが楽になる。じっとしているよりはましだし、相棒がいる時よりは緊張しない。
「職務質問のいい練習だ」
杉は職務質問が好きでなかった。できなくはないが、うまくない。先輩警官が上手にやっているのを見ると感心はするが、反対に吐き気を覚える。うまい職務質問というのはひどくイヤラシイものだ。柔らかい言葉で少しずつ、相手の論理の外堀を埋め、相手の気持ちをあちこちへ散らしてからめ手で弄び、最後にとどめの一撃をくらわせて息の根をとめる――俗な論理と相当に悪どいやり方で。それを繰り返しみるたびに、警察官のやっていることの方が犯罪者よりタチが悪い、と思ってしまう。
「俺は警官に向いてないのかもしれないな」
あまり知られていないことだが、警察官の自殺は多い。真面目で勤勉であればあるほど、警察内部と社会の間の矛盾に悩み、逃げ場のない所まで追いつめられてしまうからだ。かなり要領のよい人間、器用に仮面をつけかえられる人間でないと、なかなかつとめきれるものではないらしい。そういう意味では、杉は素直でありすぎた。
「師谷さんのお宅について話をうかがいたいのですが」
「あなた、本当に警官なの?」
手帳を見せてもこんな応対をされることが多い。偽者のように見えるのだろうか、手帳も自分も。
「いくら警察でも、他人の家のプライバシーをむやみに尋ねるものじゃありませんよ。まして、師谷さんのお宅なんて。どんなに叩いたって、悪い噂なんて微塵もでませんよ」
歩き回っているうちに、杉は気付いた。普通はどんなに質問が下手でも、市民はもう少し協力してくれるものだ。つまり、師谷という家自体の評判がいいのだ。隣人達の口の固さは、京作や遥子に対する好意なのである。
「やるもんだ」
幅広く事業を手掛けているだけでなく、近所づきあいまでこなしているとは。
普通、金持ちというのは、ある程度は周囲に悪く言われるものだ。惜しみなく金をつかうとか挨拶はかかさないとか、細かい部分まで気を遣っているのだろう。心理学を修める男だというし、群衆心理なども巧みに操って、他人を抑えつけずに味方にしてしまう術を知っているのかもしれない。
しかし、そんな完全な人間が、そうそうこの世にいるだろうか。
近所の老婦人の一人は、杉の疑問を見透かしたように、厚みのある微笑を浮かべてこんなことを言った。
「京作さんは、本当に優しい方なんですよ。遥子さんも、ここへ来たばかりの頃は、人形みたいに無表情な娘さんだったけれど、京作さんの処へきてから、すっかり息をふきかえしたみたいになって」
「優しい方、ですか」
おうむ返しに呟くと、老婦人はしきりにうなずいて、
「ええ、ええ。お母様も、そりゃあいい方だったから。それに京作さんにうんと期待なさってたから。京作さんがいい息子になったのも当り前だし、いいお父様になるのも当り前よ。大きなお屋敷を建てても偉ぶらないし、心配りも忘れないし、なにより本当に心根の美しい方なんですよ」
杉は首を傾げた。
「でも、期待されすぎて潰れる人間や、心が歪む者もいます」
老婦人は諭すような声を出した。
「人間はね、望まれれば何にでもなれるもんですよ。正しく望まれれば本当にいい人間になれるもの、実際の力以上の力を出すんです。京作さんも、そういう一人なのよ」
「そうですか」
杉はそのまま、渋々ひきさがらずを得なかった……。

「別にどこにも変なところがないのか。それじゃ、踏み込めそうにないね」
Aはなるほど、とうなずいた。あらかたを食べ終えて口元を押さえる。
杉はおかわりのコーヒーをすすり、顔を伏せた。
「だが、娘を熱愛する父というのは、時に危険じゃないか?」
Aは首を振った。
「確かに、必要以上に過保護な親っているよ。娘が男とつきあうのを面白く思わない男親も沢山いるでしょう。娘のBFが気にいらなけりゃ、いきなりぶん殴るような過激な人もね。でも、そういう意味でも、京作さんてのは異常な人じゃなさそうだ。話をきいてる分にはね」
「……そうか」
杉が肩を落とすと、Aは立ち上がった。
「話はそれで終わりかい?」
「ああ。だいたいはな」
「わかった」
Aはすらりと立ち上がった。
「じゃ、今日も遥子さんに会う予定だから、もう少しつっこんだこときいとくよ。ごちそうさま」
シャツの裾と薄茶の髪を翻すと、モデルのような優雅な歩きっぷりで店を出ていく。後ろ姿を見送りながら、杉は大きなため息をついた。
「帰って少し寝るか」
準待機の時も動き回っているので、疲れは相当たまっていた。このままの生活を続けていたら、蒼二を見つける前に倒れてしまう。
「今日はAにまかせよう。……頼むぞ」
ゆらりと立ち上がると、伝票を掴んでレジに向かった。

8.

「ただいま」
Aが家に戻ると、彼女は店の方にいた。
「本当にここ、お金になるようなものが何もないのね。家の方にもお店の方にも。グラスもよく磨いてあるし、掃除も行き届いてるからごまかされちゃうけど、このお店の中のもの、みんな中古品でしょう。Aの服も、他人のを手直ししたみたいなのが多いじゃない」
数十分で検分をすませたらしい。真贋の見極めの力も確からしい。Aはやれやれとため息をついた。
「やだなあ。盗みの場数踏んでるアンドロイドなんて、家にいれなきゃよかったよ」
「あら、場数踏んでる訳じゃないわ。もし慣れてるなら、どんなものでも持ち出して売っぱらってたわ」
遥子はケロリとして答えた。これは育ちのせいなのだろうか。性格そのものは悪くなさそうだが、とにかく突拍子がない。情緒的に落ち着かない幼年期を過ごしたせいで、今頃子供をやり直しているいるのかもしれない。
Aは苦笑した。しゃべらなければ完全な淑女なのになあ、と。いや、土壇場となれば何でも売りこかすというのは、かえって高貴な生き方なのかもしれないが。
遥子は艶然と微笑んだ。
「さて。話の続きをしましょうよ」
「ああ。完全な犯罪の話か」
Aは、ストールに座って背を丸めた。
それにしても、さっき杉にきいた話が本当なら、この娘の父親は蒼二をコンクリ詰めにして沈めることなど、指一本動かさないで出来そうである。そんな娘を相手に、自分は何を言えるというのか。
「ハルさん。それって曖昧すぎるから、もう少し条件をつけてくれないかなあ。死体の処理が完全な犯罪とか、絶対捕まらない類の犯罪だとかさ。そしたら考えるよ」
遥子は少し考え込んだ。
「そうね。殺人なんだけど、汚い死体はつくりださない。血も流させない。もちろん、死体を溶かしたり消したりする訳でもない。無粋な凶器は使わない。ガスや薬も使わない。万一事が露見したとしても捕まらないし、決して裁かれない。当然相手を自殺させる訳でもない。それ自体は誰にでもできる方法で、他人の手を借りずに完全に相手を遠ざけることができる方法。できれば密室が舞台であることが望ましいけど、密室だから不可能な犯罪というのでなくてもいいわ」
「ひゃあ」
暗唱でもするようにすらすら言うので、Aは頭を抱えた。
「わかったよ。しかし、なんか難しそうだなあ。まあ、条件がそれだけつけられれば、答が出そうな気もするけど」
「本当?」
「うん。あと、一つ質問してもいいかい?」
「何?」
「強い病原菌で殺す、なんてのもありかい?」
これでどうか、とAが眉をあげると、遥子は首を振った。
「それは駄目ね。死体が必要以上に汚くなると思うし、事が露見した時に刑務所行きになるのは同じだと思うの」
「そうか」
Aはカウンターに肘をついて、
「でも、適当な凶器を使わないとなると、後は呪い殺すしかないような……自然死にみせかけて殺すんだって、バレたら捕まるし、事故にみせかけてもなあ」
「だから、そこなのよ」
遥子がそう言ったとたん、表で声がした。
「こんにちわー。今日、やってますー?」
Aは慌てて立ち上がった。
「うわ。お客さん来ちゃったか」
「お客さん? まだ午前中よ」
遥子が首を傾げると、Aは舌うちして、
「ここは、朝十時からは喫茶店なんだ。簡単な料理とかも出すの。でも駄目だよ。姉さんいないから。ちぇっ、表の貼り紙見て帰ってくれればいいのに」
「こんにちわー!」
声はまだ続いている。
「いいじゃない、A。入れてあげれば?」
「冗談言うなよ。入れてどうするんだよ」
「簡単な料理くらい、私がつくるわよ」
そう言われると、Aも客を入れてもいいかという気になってくる。姉がいないから閉めておく、というのもだらしなさすぎる気もする。Aは戸口に向かって、明るい声を出した。
「はい。開いてますよ。どうぞ」
「よかったー」
入ってきたのは十代後半の少女二人連れだった。
「君達か」
「そうよー」
二人はカウンターでなく、隅のテーブルに座った。
「ホットウーロン二つちょうだい」
「はいはい、お茶のウーロンだね」
Aは素早く伝票を切り、エプロンをつけてカウンターの中に入った。少女の一人が尖った声を出す。
「お茶だなんてわざわざ確認しなくてもいいじゃない。頼んでも、昼間はお酒出さないくせに。それよりAさん、宿題教えてよ」
「高校生の夏休みの宿題なんか、とてもじゃないけどわかんないよ」
もう片方が、のんびりした声を出す。
「嘘ぉ。一学期の英語の課題、手伝ってくれたじゃなーい」
「数学の追試もよ」
「やめてくれよ。あれはインチキ教えたんだって。僕は身体弱くって、学校ろくに行ってないんだから」
「えー。カッコイー」
「格好よかないよ。はい、ホットウーロン二つ」
熱い茶をあてがわれた二人は、ぶつぶつ言いながらテーブルの上にノートを広げた。ここが格好の勉強室とでもいうように。
「ねえ」
ふと、のんびりの方が軽く遥子の方へ顎をしゃくった。
「その人、Aさんのお友達? それとも、新しいウェイトレスさん?」
遥子の頬に緊張が走ったが、Aはこともなげに、
「両方。姉さんが留守なんで手伝いにきてくれてるんだ」
「ふーん」
二人はたいして詮索もせず、辞書をひきながら課題を始めた。だが、彼女達の集中力は十分ももたなかった。
「なんかさー。最近楽しいことないよねー」
「うん。つまんない。せっかくの夏休みなのにさ」
「つまんないよねー。何やってても、誰といても、つまんないつまんないつまんないー。ねえ、Aさん、何か面白いことなーい?」
Aは熱い茶を自分もすすりながら、
「そうだなあ。じゃ、君達が主食抜きダイエットをやめたら相談にのるよ」
「嘘ぉ」
尖った方が鉛筆を置いた。
「なんでAさん、私達がダイエットしてるの判ったの? 前より痩せた?」
朝から熱いウーロン茶を飲むようでは、何も言わなくてもおのずと知れるが、Aはもっともらしく口元を押さえて、
「いや。そんなに目立っては痩せてないけど、でも、つまんないつまんないってあんまり繰り返すからさ」
「えーっ。関係あるのー?」
「そりゃそうさ。人間ってのは基本的に、炭水化物をとらなきゃ駄目なんだ。いくらカルシウムをとってもイライラがおさまらなくなるの。だから、毎日がつまんない人はまず、バランスのとれた美味しい食事を三度とるべきなんだよ。まだ十代なんだから、大食いしなきゃそんなに太りゃしないよ。朝早く起きて、夜も早く寝て、間食しなきゃね」
「朝の早起きもしなきゃ駄目?」
「三食をちゃんととるのは、生活リズムが整ってないとできないからね。ちゃんと食べてれば頭がすっきりして、なんかしら面白いことも見つかるでしょ。まだ若いんだから、少なくとも、今よりはかったるくなくなるよ」
「でも、それでもつまんなかったら?」
「そしたらまた相談においで。少なくとも、面白い話のひとつやふたつはしてあげるよ。今のうちちゃんと食べとかないと、二十代で醜くなるよ」
「そっかあー」
「でも、やっぱり脂肪、気になるよね」
「その脂肪は、あと何年かしたら美人曲線の元になるんだよ。ダイエットのしすぎで拒食症になったりするよりずっとマシだよ」
「えー。でもなー」
結局二人は、ウーロン茶を飲み終えるとさして長居もせずに退去した。Aに説教めかしたことを言われたのが面白くなかったらしい。店の冷房を緩めておいたのもよかったようだ。
「さて……と」
Aは店の扉を調べ、姉の貼り紙がそのまま残っているかどうか確認した。
「じゃあ、出かけようか」
「え? どこへ?」
Aはエプロンを外した。
「僕も知らないよ。君の製作者氏の別荘って、いったい何処にあるんだい」
「どういう意味?」
「そこに、完全な密室がある筈だからだよ。あの娘達と話して、わかったんだ。君の言いたかった事と、完全な犯罪の方法が」
「わかったの!」
遥子の瞳が輝いた。
「ヒントをちょうだい。私が解決しなきゃいけないのよ。全部教えなくていいから、ヒントをちょうだい」
Aは、遥子に低く耳打ちした。
「……《死せる孔明、生ける仲達を走らす》って知ってる?」
遥子は、Aの言葉に目を見張った。
「それって、完全な……方法?」
「君が自分をアンドロイドだって言うのは、お父さんがアンドロイドだからじゃないのかい」
Aは奇怪な事を呟いたが、遥子は大きくうなずいた。
「そうなの。そうなのよ。でも……だけど、それだけで完成するやり方かしら」
「一つの賭だと思うけどね。でも、機械は御飯食べなくとも生きてけるし、最善は善の敵だしね」
遥子はああ、と手を打った。
「つまり、物事は八割方までやった時に、一番効率のよい結果を産む!」
「そういうこと」
「そうよね。行きましょう」
二人は簡単な旅仕度をすると、店と家に鍵をかけ、すぐに数時間の旅に出た。
師谷京作の完全な犯罪を暴くために。

★ ★ ★

師谷京作の完全な犯罪――それは、精巧な機械人形を使って行われた。その人形は、京作氏そっくりにつくられており、水を飲むこと、人間のように歩くこと、遠隔操作によって簡単な音声を発する、という三つの機能を同時に登載していた。
そして、生前の京作氏は、瑞木蒼二に一つの賭を申しでた。
君が本気なのはわかった。二人の男が一人の女をとりあうのだから、ここは正々堂々と決闘をしよう、と。
ただし、京作氏の提案した決闘は、剣でも銃でも殴りあいでもなかった。
「遥子は暴力を嫌う。私も暴力で方をつけたくはない。だから、我慢比べをしようと思う」
二人(というか機械人形と蒼二)は、京作氏の別荘の一室に籠もった。
そして、向かい合って座り、互いににらみあった。
「我慢するのは食事だ。一緒に飢えと戦ってもらう」
その部屋には、一応水道がひかれていた。トイレも部屋の中にあった。換気扇もついていたから酸素供給も大丈夫だった。
「水だけは、いくら飲んでもらっても構わない。部屋の中には、それ以外の食物はない」
「勝敗はどう決めるんです」
京作氏(の人形)は顔を伏せた。
「そうだな。もし、食欲に負けてなにかにかじりついたり、互いの身体に触れたりしたら負けだ。勝負は、完全にこの部屋の中だけで行われる。どんな状況になっても、外に先に出たものの負けだ。病気や事故や火災が発生してもだ。……どうだ、この勝負をやる気があるかね」
「もし、僕が勝ったら?」
京作人形は微動だにせずに答えた。
「君が、命を賭けて遥子を愛しているのを認めよう。遥子を家から出して、自由にしてやる。ただし、私が勝ったら、君は二度と遥子の前に現れてはいけない。どんな種類の接触もしてはならない。いいね」
「わかりました」
蒼二はうなずいた。
「私は君を殺す気はない。この部屋は中から鍵をかけてあるだけだ。完全な密室だが、君が出たくなったらいつでも開けられるし、自由に外へ出てもいい。ただし、その時は君の負けだよ」
こうして賭は始まった。
この人形は、椅子に隠された充電機から、常に充電がきくようになっていた。定期的に立ち上がり、水分をとり、トイレでそれを排出し、椅子に戻るという動作を、半永久的に繰り返す事ができた。
蒼二の勝ちは、ありえなかったのである。
しかし会話は、といぶかしむ方もいらっしゃるかもしれない。だが、蒼二はほとんど口をきかなかったのだ。元々無口な方であったし、最初から恋のために憔悴していたし、相手は憎い男だし、無駄な体力を消耗するからと、最後の方では口をきく気力すらなくなっていたからだ。

以上のことは、別荘の管理人と京作氏人形と、彼の残した遺書から判明した。
京作氏が自分そっくりの人形をつくっていたのは、自分の趣味の集大成というのもあるが、まずひとえに死を悟ったからだった。それを使って、死後に起こるごたごたを少しでも遅らせたかったからのである。巨大な資産の行方は、若い遥子一人に簡単に扱えるものではない。処理は弁護士らにまかせ、ある程度はすすめたものの、死亡の知らせはできるだけ遅らせたかった。そのための試作品を、蒼二との賭に使用したのである。
確かにこれは完全な犯罪だった。
必要以上に汚い死体はつくりださないし、血も流させない。死体を溶かしたり消したりする訳でもない。凶器は使わないし、相手を自殺させる訳でもない。事が露見したとしても、京作氏は殺人罪には問われないだろうし、どんな罪に問われようと、死んだ人間は捕まえられないし裁かれない。
まして、機械人形ならば。

★ ★ ★

遥子とAがかけつけた別荘のある一室で、衰弱しきった蒼二の姿が発見された。以前からの不摂生と運動不足と栄養失調でかなり弱っていたため、すぐに救急病院に運ばれた。
命はとりとめると思うが、かなり危険な状態ですから、と念を押され、それでも帰宅の許可を得て、二人は病院を後にした。

遥子をY市まで送って行く電車の中、Aはしばらく黙っていた。遥子もしばらく黙っていた。二人で並んで立って吊革につかまり、窓の外を眺めていた。
最初に口を開いたのはAの方だった。
「いくつかきいてもいいかい」
「どうぞ」
遥子は前を向いたまま返事をした。Aも前を向いたまま尋ねる。
「あの、お父さんの人形のことは、いつからどのくらい知ってたの」
「最初から全部よ。影武者にするんだって笑ってた。人前にでて手を振るだけなら、今の機械には簡単にできるからって。別荘にいったら、もう会えないだろう。遥子には辛い思いをさせるが、私の芝居に最後までつきあってくれって。でもまさか、あんなことに使うとは思ってなかったけど」
遥子の頬には、なんの表情も浮かんでいなかった。しかし、普段の微笑を考えれば、内側に渦巻く悲しみを深く隠しているのだろう。Aは少しおどけたくなった。
「京作さんて、凄く中華趣味なんだね。料理も中華が好きで、住む場所も中華街に近い街で、諸葛孔明の真似までしてさ」
「そうね。《死せる孔明》をやるとは私も思わなかったけど」
遥子は少し微笑んだ。
京作氏のしたことは、《死せる孔明、生ける仲達を走らす》――三世紀の中国の軍師諸葛孔明は、戦の最中に無念の病没の憂き目にあい、相手軍の仲達の攻撃を鈍らせるために、自分そっくりの人形を前面に押したてて撤退せよと死ぬ時に命じたその故事をなぞったのだった。しかし、日本もからくり人形の国だ。それなりの歴史があるし、京作氏がつくったロボットの動作ぐらいなら、こなすものもあった筈だ。
遥子の微笑に力づけられて、Aは話を続けた。
「ハルさん、もうひとつきいてもいいかい?」
「何?」
「どうして僕を信用して、ついてきたんだい」
遥子の口唇が笑みに歪んだ。
「あなたが、ちゃんとした名を名乗らなかったからよ。お父様のことは心配だったけど、具体的に何をしてるかはわからなかったから、警察の人にもうちあけられなくて。家の中にいる人はかえって信用できなかったの。弁護士も使用人にも、それぞれ利害関係があるでしょう、お父様が死んだ後、全員が味方でいてくれるとは限らないから。そんな時、情報屋だなんてうさんくさいことをいいながら近づいてきたから、これだと思ったの。この人なら使えるって」
「ああ、そうか」
Aは、どうして父を案じる遥子が家にじっとしておらず、駅だの動物園だのをほっつき歩いていたのかたった今理解した。父が死ねば、家は安住の地ではない。それならば、知らない人間が沢山いる場所に、なるべく長い間いる方が安心だ。
その不安と孤独――行きずりの人間しか信用できない、感情を整理せずには収めておけない、機械仕掛けの心。
思わずAが言葉を途切らせると、遥子はうつむいた。
「あとね。……A、《単純な殺人は犯罪としては味が落ちる》って言ったでしょう? その時の言い方、少しだけ、お父様に似てたの」
そう言って、遥子は口唇を固く閉ざした。
彼女は泣きはしなかった。
だが、Aには頬をつたう光が見えた気がした。
アンドロイドの涙が。

蒼二の身体は衰弱していたが、水分もとっていたし、元は健康な若者ということもあって、しかるべき処置で順調に回復した。
こうして、この事件はAの活躍と共に無事に終末を迎えたのである。A自身は、不本意過ぎるほど働いた、と満足してはいなかったのだが。

9.

「よう」
「いらっしゃいませ」
《J》に入った時、返事をしたのは宵子の方だった。蒼二発見から一週間がたって、杉が店を訪ねたその午後、Aは隅のテーブルにひっこんでいた。客より横柄な様子で、一人紅茶をすすっている。杉は女主人に微笑みかけた。
「宵子さん、元気かい」
「おかげさまで」
「じゃ、紅茶を頼みます。熱いのをミルクで」
「はい。ホットでミルクつきね」
杉はAのいるテーブルについた。宵子がすぐに紅茶を持ってくる。
「お待たせしました。他には何か?」
「いや。とりあえずこれだけで。ちょっと、Aと二人で話をしたいんで」
「あら、男二人で何の相談?」
宵子が愛想よく笑むと、Aは少々眉をしかめて、
「男二人の相談とくれば、どんな話でもイヤらしいに決まってるじゃないか。姉さんはあっちへいったいった」
「あらそう。じゃあ後でね」
宵子が滑るようにカウンターの中へ戻っていくのを見届けてから、Aはテーブルの下から紙の箱を引っ張り出した。
「レーズンサンド、杉さんも食べる?」
「うんと甘いか?」
「そうでもない。ハルさんが、近くに美味しいお店があるからって送ってきたんだけど、食べきれなくてさ。昼飯の足しにしてるんだ」
隠すようにして少し取り出す。杉は大人しく受けとって、包みを開いて食べてみた。レーズンとホイップクリームを柔らかいビスケットで挟んだ菓子だが、結構いける。
「ハルさんて、あの――師谷遥子か」
「うん。あのハルさん」
杉は急に真面目な顔になった。
「A。今日は礼を言いにきたんだ。おまえのおかげで蒼二は助かったんだ。遥子が別荘に行く気になったのも、全部おまえのおかげだったんだろう?」
Aは渋々うなずいた。
「うん。まあそんなとこかな」
「ありがとう。遥子以外の人間じゃ、蒼二を助け出すことはできなかった。誰も近づけないようにしてあったんだそうだ。おまえは蒼二の命の恩人だ。ありがとう。えらい仕事を頼んでしまって、すまなかったな」
杉がしきりに頭を下げるので、Aはカウンターの方をうかがいながら首をすくめた。
「それだけのお金もらってるから、いいよ。あ、でも思ったより早く終わったし、半分返すよ。蒼二くんの入院費用の足しにでもしてよ」
「いや。別にあいつはそんなに貧乏じゃないんだ、大丈夫だ。親の保険金があるし、うちで三年暮らしたしな」
「ふうん」
Aは興味なさそうにうなずいた。
「でもさ、大金よりも、今度からはもっと楽な仕事をまかせてくんないかな。今回、なんだか妙に疲れちゃってさ。あの後、また熱出して寝こんじゃったよ。姉さんが帰ってきてくれなかったら、僕の方が衰弱死してたかも」
「すまない」
女のように口唇を尖らせるAを見て、杉は微笑した。愛らしいくらいのこの様子で、十二分に期待に応えてくれた青年が、弟のように愛しく思われた。
「しかしなあ」
「何?」
杉はテーブルに片肘をついた。
「京作氏はどうして蒼二をあそこへ閉じ込めたんだ? 二十四時間監視つきで餓死寸前まで追いつめるなんて、なまぬるいようでいてかなり凄い事だろう。完全犯罪を目指すなら、いっそ氷漬けにでもして、死体を粉々にくだいちまった方が早い筈だ。遥子は蒼二が好きじゃなかったんだし、そうまでする必要があったのか、と思ってな。それとも……」
「それとも?」
「蒼二の想像通り、二人は親密だったのか。必要以上に束縛する関係だったのか。だがまあ、血がつながってなかったんだから……」
Aは首を振った。
「違うね」
「断定するのか?」
Aは力強くうなずいた。
「うん。断定する。ハルさんを見ればわかるよ。京作さんは、最後までただただ完全な父親でありたかったんだ。だから、足りない時間を補うために、機械人形までつくったんだ。卑しい気持ちの人間なら、そんなことしないよ。京作さんが怖れたのは、もっと別のことさ」
「別のこと?」
「うん。京作さんの最期の時間にはハルさんが必要だったし、ハルさんの十代後半にも京作さんとの時間が必要だった。それは、本当に貴重で綺麗な絆で……だからこそ、誤解されたり踏み込まれたりするのが、本当に厭だったんだよ。娘が相手にしないような若造に邪推されるのすら、ね」
Aは醒めた茶をすすり、喉を潤した。
「人間てさ、凄く沢山の他人を望むじゃない。いい親とか兄弟とか、いい友人とかいい仕事仲間とかいい恋人とか、全部欲しいと思うじゃない。でも、だいたい全部は手に入らないでしょ」
Aの声にはやけに熱がこもっていた。杉は曖昧にうなずいた。
「ああ……まあ全部あればいいが、それは無理だな」
「いや、無理っていうより、いつもいつも全部は必要じゃないんだよ。優先順位も時によって変わるしさ。要所要所で必要な他人がいれば、それでいいんだよ。望みすぎて不幸になるよりもね。十代後半からのハルさんには、理想のお父さんが必要だったし、京作さんには理想の娘が必要だった。それで、二人はそれ以上のものはいらなかったんだよ。だから、それでいいじゃないか。完成された完全な世界を、やたらな他人が壊しちゃいけないよ。蒼二くんには悪いけど、彼は当然の報いを受けたんだと思うよ」
Aは、奇妙に頬を紅潮させながら、再び茶を口に含んだ。杉はふと、以前の疑問を彼にぶつけてみたくなった。
「A」
「ん?」
「おまえ、姉さんから離れて、一人で生きていこうと思ったこと、あるか」
「え?」
杉はぐっとAの方に身を乗り出して、
「一人の時のおまえは恐ろしく生き生きしてる。仕事も出来る。何をやらせてもソツなくこなす一人前の男だ。だが、宵子さんの前だと、おまえ急に自堕落になるじゃないか。悪ふざけしたり甘えたり、完全にガキじゃないか」
「あ」
Aの顔に、一瞬奇妙な翳が走った。図星をさされた人の硬直、不意を突かれた人の驚きだ。
だが、彼はすぐにいつもの微苦笑をつくろった。
「杉さん。それは勘違いだよ。のんびりしてるのが本当の僕なんだ。こうして楽にしてるのがさ」
杉は慌てた。Aの微笑の裏に鋭い棘を感じたからだ。
「いや、いつも緊張してろというんじゃない、姉さんと別々に暮らせと言ってる訳じゃなくてだな」
Aはふふ、と鼻で笑った。
「僕はまだ一人前じゃないよ。それに、姉さんがいなかったら、僕はとっくの昔に死んでたさ。いるからなんとかもってるんだ。しっかりしなきゃってたまに思うのも、一人の時になんとかやってられるのも全部、いつも姉さんがいるからさ。だから、もうしばらくは側で甘えてるつもりだよ……あ」
他の客のオーダーがすんだらしく、宵子がカウンターから再び出てきた。こちらに近づいてくる。どうやら杉の紅茶のおかわりらしい。Aは慌てて箱をテーブルの下に隠した。
「ポット置いておきますから、御自由にどうぞ……あら」
宵子はAの挙動を見とがめた。瞬間、杉に菓子を出したのにも気付いてしまったらしい。
「A、お客さんに何を出してるの! ひきあげなさい」
「わかったよ。はい」
Aは大人しく紙箱を姉に差しだした。宵子はそれを脇に抱え、Aをコツンと殴る真似をした。
「相手さんの気持ちも考えなさい。無神経もいいところよ」
「ごめんなさい」
「すみません、杉さん。代わりにケーキでもお持ちしますから」
「いいですそんな。また、今度の時にいただきます」
宵子のケーキは美味しいのだが、杉には少し甘すぎた。宵子は残念そうな顔をして引き上げていった。背中にはまだ怒りが残っている。
杉は首を傾げた。
「宵子さん、何をあんなに怒ってたんだ? 店の食べ物できちんともてなせってことか?」
「ううん、違うよ」
Aはポケットに忍ばせていた白い包みを取り出した。
「フランスなんかだとね、レーズンサンドって葬式饅頭なんだって。そのことうっかり姉さんに教えちゃったもんだからさ。縁起の良くないものを客に食わせるなってことが言いたいらしい」
「ははあ、葬式饅頭か」
杉はなるほど、とうなずいた。遥子がなぜそれをAに送ってきたのかようやく理解したからだ。京作氏の弔いを手伝ってくれて、どうもありがとう、という意味なのだろう。
そして、Aが杉にそれをわけた理由も、それに近いものなのだ。同じ事件に関わったものが、同じ痛みをわけあうという意味で。
杉は、勘定分の小銭を置いて立ち上がった。
「また来る。また頼む」
「うん」
見上げるAに、柔らかい声をかける。
「そうだな、今度はもう少し楽な仕事を頼もう。そうでないと、俺の方も辛いからな」
「そうだね。ぜひそうしてよ」
Aは小さく手を振り、座ったままで見送った。
杉は、いいかげん涼しくなりだした秋いろの街へ、そのままゆっくり歩みだしていった。

★ ★ ★

その後の瑞木蒼二について、最後に少しだけ触れておく。
一ヶ月の断食とその後の入院の安静が、僧侶の修行のような成果をもたらしたのか、つきものが落ちたように穏やかな丸みのある青年に変わった。冷たい印象は消え、しっとりと落ち着いた風情を持つ男になったのである。全ての刺激から長い間隔離され、ただひとつことを念じるという経験は滅多にあるものではない。ある種の悟りをひらきもするのかもしれない。
秋を過ぎた今の彼は、恋に狂う無分別な青年ではない。真面目な学究の徒であり、遥子の良き先輩の一人である。師谷京作氏の完全な計画は、見事に実を結んだのであった。彼の目的は殺しではなく、適切な距離まで彼をひかせることだったのだから。
そして、機械仕掛けの偽の父は、今でも師谷氏の別荘の一室で、静かな眠りを眠っている。

(1996.9脱稿/初出・Narihara Akira編『のんしゃらんと第20号』1996.9/恋人と時限爆弾『彼の名はA』1997.5)

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