『神様は見ている』

「あ」
気づいた時には、もう左耳が軽かった。店に入るまではあった気がする。だとしたら、落としてからそう時間はたっていないから、すぐ探せば見つかるかもしれない。クロークのあたりにないだろうか。新雑誌創刊記念パーティだ、遅刻してはいけないと慌てていたので、鞄を預ける時に、肩下げ紐を耳にひっかけてしまった気がする。もし入り口でないとしたらどこだろう。その後はお手洗いに行って、それから一番奥のテーブルに移動して、パーティの主催者と挨拶をし、「あなたの次の小説は、いったいどこから出るのかしら?」と、女言葉で嫌味を言われ……。
美砂は壁際の席の前で、足をとめたままだった。慌てていなかった。とはいえ冷静だった訳でもない。「見つかるだろう」という気持ちと「ないなら仕方ない、それでもいい」という気持ちの間に、宙ぶらりんになっていた。
落としたイヤリングは二年前、つきあいだす前の有理に、旅先のお土産としてもらったものだ。陶磁器の店で買ったというそれは、透き通った濃いみどりいろの背景に薄い桃色の花が浮かび上がるシックなもので、若い有理の大人っぽい趣味と、十近く年上の美砂への配慮をうかがわわせた。だがむしろ、子どもっぽい美砂の顔には、それはふさわしくないとも言えた。
最初は有理に見せるため、美砂はそれを職場につけていった。が、電話をとると受話器にぶつかる。陶器なので、傷ついたり割れたりする可能性もあるから、普段づかいはやめにした。有理と遊びに行く時にもつけていかなくなった。なぜかつけると、彼女が恥ずかしそうな顔をするからだ。だから美砂は、体力のない時、どこか気のすすまない所へ独りで出かけなければならない時に、有理のイヤリングをつけた。彼女の力をちょっとでも借りるつもりで。
しかし最近は、それすらしないでケースにしまいこんでいた。
それは、つまり――。

「あの、イヤリングの落とし物はありませんでしたか」
ようやく美砂が店の入り口まで引き返したのは、それから三十分以上もたった頃だった。
若い女性のクローク係は、けげんそうに首を傾げた。
「イヤリングは、どのようなものですか」
美砂は残っている、右のイヤリングを指さした。
「これの片割れです。店の中で落としたと思うのですが、どなたか届けてくださっていないでしょうか」
「お待ち下さい」
係は当日の落とし物をひととおり点検してくれた。だが。
「誠に申し訳ございませんが、現在お預かりしているものの中には、ないようです」
頭を下げる女性に、美砂も頭を下げた。
「わかりました。また後で来ます」
なくして、しまった。
胸のすきまを、すうっと風が通り抜ける。
清々した、という気持ちが半分だった。つけないイヤリングをもっていても仕方がない。つけている姿を一番みせたいのは有理なのに、見せられない。それならば、もっている意味がないだろうと。そして心の残りの半分は、かすかな痛みに侵されていた。今さら訊かれもしないと思うが、あれはどうしたの、と有理に問われたら、「ごめんなさい。お洒落しようと思って、出版社のパーティにつけていったら片方なくしてしまったの」と謝ろう。嘘ではないから、素直に言える。
美砂は軽いアルコールのグラスを新しく受け取ると、テーブルを少しずつまわりはじめた。慣れないヒールに、あか抜けないオレンジのワンピース姿、しかもイヤリングは片方だけ。ワンピースのポケットを名刺でふくらませて歩く姿は、どんなにみっともないだろう、と美砂は思う。それでも美砂は、一人でいる客を見つけると、まっすぐ見つめて近づいていく。つくり笑顔でおずおずと話しかけては、自分と自作のアピールをして、「よろしくお願いします」と名刺を交換してもらう。精一杯の営業活動だ。実際は、パーティで名刺を渡すことにはあまり意味がない。肩書きなしの美砂の名刺など、皆すぐに捨ててしまうからだ。しかし美砂は相手の名刺は、すべてきちんととっておく。何か新しいことをやりたいと思った時、新作の売り込みをしたい時、どんなにパーティ当日に話がはずまなかったとしても、「いつぞやはお世話になりました」と相手に声をかけるきっかけになるからだ。そうやって人脈を少しでも広げておかないと、美砂のような貧乏作家には先がない。わずかな知り合いのおかげで彼女は生きながらえているのであり、小さなパーティにお呼びがかかることすら、まれなのだ。ただでさえ若くも美人でもない、気の利いた洒落のひとつもとばせない。書きものも女性同士のラブロマンスでマイナー路線ときては、「黙っていても声をかけられる」という訳にはいかないだろう。昼間のバイトも薄給で、ここ十年の間に買ったよそゆきは、今着ているワンピースを含めて二着だけという有様が、彼女のすべてを物語っている。
「あ、連れがきたので、今日はこれで」
話相手が知り合いに声をかけられて、また美砂は一人になる。
疲れてきた。
髪がショートの美砂の場合、耳元は目立つはずなのに、イヤリングについて触れてくる人間は誰もいない。片耳ピアスは同性愛のしるし、と誰も気にしないのだろうか。
それもずいぶん古い噂だ、イヤリングでも同じとされていたかも記憶の彼方だ。耳から首にかけての皮膚が弱く、少しの傷でも化膿しやすい美砂にとって、ピアスなどはもっての他だ。イヤリングは好きなのだが、金具を強く締めつけると、そこからひどいことになる。自衛のために、首回りのお洒落は主に、短くて軽いネックレスかスカーフにならざるをえない。
だが、実は美砂の身体のパーツで一番美しい部分は、耳から鎖骨にかけてのほっそりしたラインであり、友人の土産はイヤリングであったりすることが多かった。若い頃はよく耳元でシャラン、と音をたてていたものだ。有理もきっと、美砂の耳元を観察して、あのイヤリングを買ったに違いないのだ。
テーブルにグラスを置くと、美砂は店の入り口へとってかえした。
「すみません」
クローク係は、さっきと違う女性だった。交代でやっているのだろう。しかたなく美砂は、もう一度自分の右の耳を指さした。
「このイヤリングの片方、落とし物として届いていないでしょうか」
「お待ちください」
ちょっと身を屈めた後、二度目の女性はカウンターの上に、壊れて金具だけになっているイヤリングをのせた。
「いま届いているものはこちらだけです。お客様のものではありませんね」
「そうですね。わかりました。パーティの途中で拾ってくれる人がいるかもしれませんから、帰り際に、また来ます」
美砂は会場に引き返すと、空いているスツールに腰掛けて、新たにジンジャエールのグラスをとった。
有理は今日、どこへ遊びにいっているだろう。
働く若い女性としては、彼女は非の打ちどころがない。
美しい。笑顔を絶やさない。落ち着きがあり、何でも手際よく処理する。その声は優しく柔らかく、相手をリラックスさせる。美砂と有理が並んでいたら、誰でも有理に仕事を頼むし、有理と美砂に年齢差があることすら気づかない。実際に職場では有理が先輩で、美砂より仕事がずっとできるという事実を知らなくても、結果は同じだろう。
しかし一度職場を離れて、恋人としてみた時の有理はどうだろう。公の場を離れると、実は有理は気難しい。ふだんが温順なだけに、一度怒り出したら彼女より怖いものはない。プライベートな生活のペースは絶対に崩そうとしない。デートの申し込みも、先約があればあっさり蹴る。顔も知らない有理の友人に、美砂は簡単に負けてしまうのだ。だから美砂も、彼女を女性同士のイベントには誘わない。秘密主義のくせに、相手に深く共感すると、恋人がいても構わず寝て、それを隠さなかったりするからだ。正直で真面目なのだということもできるだろうが、実際つきあえば骨の折れる相手だ。
いや、それが楽しいと思えるのが恋愛であって、骨を折るだけの価値が有理にはある。美人がもてるのは世の常、苦労するのが当たり前で、つきあえただけでもいいじゃないかと。いける、と思ったからこそ告白をした訳だが、さてこの恋にどこで疲れて行き詰まるか、という気持ちも最初からあった。伊達に有理より長く生きている訳ではない。女性を好きになったのも、有理が初めてではない。
頃合いか、と美砂は思う。
かつての失敗をなぞりかえさぬよう、上手にフェイドアウトしよう。いいお友達でいましょう、は、存外簡単に言える気がする。それを告げるには早すぎるだろうか。飽きた訳ではない、他に誰かがいる訳ではない。しかし何より私の心の中で終わりかけているのだ、さとい有理は気づいているに違いない。恋愛の機微にはうとい感じもしなくはないが、眼差しから仕草から言葉の端から、この気持ちは知れてしまっているだろう。
酔いはどんどん醒めていく。疲れはどんどん降り積もる。パーティなど早く終わってしまえ。気のきいた人たちは、もう姿を消したか、二次会の約束をきめて準備している。そろそろ司会者が最後のスピーチをする時間だ……。
驚いたことに、帰り際、美砂に挨拶にきてくれた人が二人ばかりいた。デザイナーと名乗る人たちにありがたく頭を下げたが、立ち上がることすらできなかった。お開きになり、あらかた人が会場を出ていくまで、美砂は椅子の上でじっとしていた。
やっと重い腰をあげると、美砂はもう一度クロークに向かった。鞄を出してもらい、鞄の中にイヤリングが落ちていないか確かめてから、新たなクローク係に声をかける。
「あの、私、イヤリングを片方落としたんですけど、何か届いてませんか」
やや年輩のクローク係は、念のため拾得物袋を確認してくれたが、すぐに首を振った。
「イヤリングの落とし物は、ございませんね」
美砂は鞄から薄手のスケジュール帳を取り出した。
「あの、後で問い合わせしても大丈夫ですか」
係は怪訝そうな顔をする。
「お問い合わせとは?」
「この後、お店の掃除をしますよね。その時に出てきたら、ここへ届けられることもありますよね?」
クローク係は、非常に言いにくそうに呟いた。
「……小さなものですと、誰も拾わないこともありますから」
「ああ」
美砂の口から、思わずため息が漏れた。
確かにイヤリングなど、踏まれて潰れてしまったら、見つかったとしてもゴミ扱いだろう。
よし。
これですっかり諦めがついた。有理に言おう。
自分がなくしてしまったことを、謝ろう。
イヤリングを、貴女への誠実な気持ちを。
本当は、言う必要もないことかもしれないけれど。
三十後半の私の時間は、貴女より早く流れてしまうの、心の変わり様までこんなに早いの、と。
「ありがとうございました」
軽く頭を下げると、美砂はようやく店を出た。
身体は変に軽かった。
片方のイヤリングをつけたまま、家に帰った。

「有理さん」
パーティの翌日、仕事帰りのロッカールームで、美砂は有理に切り出した。
「あのね、私、前にもらったイヤリング……」
有理はそれを遮った。
「気にしないでください」
「気にしないでって」
黒目の大きい瞳は澄み切っている。ふっくらと美しい口唇は微笑んでいた。
「日曜のパーティにつけていったんですよね」
美砂はハッとした。
「有理さんの知り合いも来てたの?」
「学生時代の友達に、グラフィックデザイナーがいるんです。メールくれて……今日は小説家の来栖さんに会ったよって。イヤリングをなくしたって、パーティの間じゅう、青い顔してずっと探してたよって」
有理はうっすら頬を染めて、
「……そんなに大事にしてくれて、ありがとう」
はにかんだように視線をそらす。
それについ引き込まれて、美砂は思わぬ台詞を口走っていた。
「残ってる方、ペンダントにつくりかえてもいい? 身につけていたいの」
「だから気にしないで。新しいの、プレゼントするから」
有理のつぶやきは、そこでぐっと低くなった。
「今度のも、大事にしてください」
神様はどこで見ているんだろう、と美砂は思う。
何にも知らないのだ。もしくは知っていて悪戯をしているのだ。
どうしてこんな時に、可愛らしい有理を見せるのだ。今なら彼女は、怒って私と別れられるのに。新しい恋人を選べるのに。彼女は気づいていないのだろうか。私の心の動揺に。それとも私と離れがたくて……?
美砂はそっと有理の腰に腕を回した。
半分の心の「本当」で、低く囁きかえした。
「ずっと、大切に、するね」

(2005.5書き下ろし)

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