▲同人誌周辺

「つりーくんのこと 〜私がまだ『幽☆遊☆白書』のスペースにいる訳〜(幽☆遊☆白書論)」

1.とりあえず、サークル名のこと。

うちのサークル名を《恋人と時限爆弾》という。
初めての印刷屋でそう告げると、「過激なサークル名ですねえ」と驚かれる。
イベント搬入のためにペリカン便の店に荷物を持って行くと、「凄い名前ですねえ」と感心される(あきれられる)。
この間の某イベントでは、朝のサークル出席確認の時にスタッフさんがいきなりぷっと吹き出したらしい。留守番していた妹が怒っていた。「自分がつけたサークル名じゃないのに、なんで私が笑われなきゃならないの」と。(という訳でスタッフさん、そこに座っているのは単なる売り子さんで本人とはあまり関係ないかもしれないんで、気持ちはわかりますが少しだけ我慢してください)
また、創作文芸の島でオリジナル推理小説を売っている時も、「まだこのサークル名やめてなかったの」といわれたりする。「まだ」といわれても、私はイベントに出始めてまだ二年もたたない駆け出しで、しかもその時は冬のコミケ初参加(夏に一度抽選漏れしただけの頃)であり、つまり「まだ」とかそういう問題ではなく、「恥ずかしい名前だから変えなさいよ」といわれた訳である。
さもあらん。
しかし、『幽☆遊☆白書』のスペースの端で、〈原作あり〉本を売っている時には、こんな無礼はされたことがない。この名の出典を、誰もが知っているからだ。『幽☆遊☆白書』に出てきた闇撫(やみなで)の樹が、微笑みながら吐いた台詞――

「時限爆弾と恋人をいっぺんに手にいれたような気分だったよ」

《時限爆弾と恋人》――この取り合わせのインパクトは、あの漫画を一度でも読んだことのある人は忘れえまい。従って、あれを下敷きにしてなにか書いて(描いて)いる人間が、うちのサークル名を面と向かって笑うことはありえないのだ。あの台詞が含んでいるとんでもない意味を、薄々でも知っているのだから。
冨樫義博という漫画家が、特に『幽☆遊☆白書』において、死というものをどう扱っているかということに関しては、あちこちのサークルですでに分析されており、そのどれもが興味深く、また的を得ているように思うので、それについてつけ加えることはない。出てくる仇役は皆すべて自滅の美学を持つ者達(&悪役は生きるに値いしなさそうな屑共)だが、それは別に冨樫氏の専売特許ではないと思われるので、ここではあえて取り上げない。彼の『幽☆遊☆白書』におけるオリジナリティは、彼がうみだした以下の三人のキャラクターに尽きると思うからだ。〈浦飯幽助〉というかすかに得体のしれないところのある主人公と、〈蔵馬〉というありがちに見えて実はかなりクセのある脇役と、それからおそらく少年漫画史上最強の敵キャラ――真の仇役でもなく、たいして強くもなく(それどころか戦闘場面すらなく)、ただただ台詞だけで完全に他キャラを圧倒した〈樹〉である。
とにかく最後の〈樹〉、こいつは凄い。例えば〈左京さん〉や〈躯様〉はカッコよくて私も好きだが、彼らのカッコヨサというのはある意味、誰でもかける種類のものである。また、『レベルE』の〈王子〉も〈樹〉似の美人で私は好きだが、彼は単なる悪ふざけ君であり、根は真面目でまとも、気のきいた作家ならかけるレベルの主人公と言えるだろう。
だが、〈樹〉だけは。
あれだけは、どんな漫画家も小説家もかけない。
他の人間がやったら絶対に別物になってしまう。
《天然の美学野郎》――この形容詞が最上の誉め言葉になるような美人が、そうそう存在してたまるかというのだ。
ゆえに私は〈樹〉を愛する。
その性格と生き方と美貌を愛する。
強烈なオリジナリティに対する敬意とともに。

2.つりーくんのこと。

《つりーくん》というのは、我が家での〈樹〉の呼び名である。
この章では(数は少ないと思われるが)、『幽☆遊☆白書』を読んだこと、及び見たことのない方に対する補足説明を行う。これは私が《つりーくん》というキャラクターをどう見ているか、ということを再確認するための部分なので、できればとばさずおつきあい願いたい。
つりーくんの登場は『幽☆遊☆白書』の後半、十四巻になる。十三巻から十七巻にかけて、俗に「魔界の扉編」などと呼ばれるパートで活躍する。
ここでは、仙水忍という弱冠二十六歳の青年が仇役で、妖怪のすむ世界に通じる巨大な通路をあけ、人間世界を混乱させようともくろむ。彼は霊感が強く一種の超能力めいたものをもっており、それだけでなく腕もかなりたつのだが、さすがに一人では実行できないため、自分と同じような特殊能力を持った人間を集めてこの計画をすすめていく。主人公達はなりゆきで仙水の企みに巻き込まれ、最初は人間界で、最後は魔界に墜ちながら戦う羽目になる――というのが大筋だ。
このなかでつりーくんは最初、忍の七人の仲間の一人として現れる。計画の中心であるトンネル製作を受け持って、静かな水をたたえた深い洞窟の底で、異次元への通路を黙々と開いており、他には特に何もしない。
他のキャラが活躍した後、十六巻で彼の正体がやっと明かされる。彼は魔界の妖怪、闇撫(やみなで)という特殊な種族で、空間を切りひらいて亜空間をつくれる者だった。腕はたいしてたたないが、自分のつくった場の中では無敵、つまり彼を殺せば誰もその場から抜け出せなくなるというのだ。また、昨日今日仲間にした人間達とは違い、十年前に仙水忍と知り合って、それからずっと行動をともにしてきたという。
十年前の忍は、その特殊能力を某所に見込まれて妖怪退治めく仕事をやらされており、その途中でつりーくんと出会った。初めはつりーくんも悪の妖怪として殺される筈だったのだが、たわいのない会話がきっかけで意気投合し、以後忍のかけがえのないパートナーになったらしい。ゆえに忍が、とあるきっかけから自分のやってきた事に絶望し、身体を損ない、悪に目覚めて愚行に走ろうとする時も、黙って見守り、ついてきたというのだ。
例の台詞はこのあたり、主人公の仲間達に、あの仙水のどこに惚れ込んだというんだ、などと詰問された時の返事の中に出てくる。

「《妖怪にもいろんな奴がいるんだな》――
小一時間ほど雑談した後、そう言った仙水の顔は年齢以上に幼く見えた。
敵を殺す術にかけては超一流の暗殺者が、新雪みたいに無垢な素顔も持っていた。
時限爆弾と恋人を、いっぺんに手にいれたような気分だったよ」

そして、なぜ仙水の計画をとめなかったんだ、おまえならやめさせられたろう、まさかおまえがけしかけたんじゃないだろうな、と重ねて尋ねられて、つりーくんはこう答える。

「誤解は困る。オレが仙水をしむけたわけじゃない。オレはただの影。
変わっていく彼を見守り、彼の望むままに手を貸しただけだ。
そして、これからも、そうするだろう」

彼はその台詞の通りに生きる。仙水忍が主人公達に倒されてしまうと、彼の遺体をもって異次元の狭間へと消える。その魂と身体を誰にも奪われないように。永遠に二人だけの時間を過ごすために。
泣ける。
なんと美しい話だろう。
つりーくんはいじらしい恋人といえるだろう。彼には何もできない。腕もたたないし、特殊能力も限られたものだ。ようやく最期の時になって、その能力が忍の役にたつ場面があるものの、結局たいしたことはさせてもらえない。お情けでもらった見せどころとさえいえる。
だが、つりーくんは不服を言わない。そして、忍をいさめることもしない。どうして彼が狂ったのか、全てのいきさつを知っているからだ。その痛みの大きさも、自分が彼の慰めになりきれないことまでも。
だから、つりーくんにできるのは、そばにいて見守ることだけだ。
できることは何でもしてやりたいのに、本当の意味では何もできない。
忍の亡骸を抱きしめ、何もない場所で静かに朽ちていくことしか。

……と、こう書くと切ない。つりーくんがけなげで可憐な男のように思えてしまう。
しかし。
行為だけひろえば以上は事実だ。
しかしまて。
彼が口走った例の台詞を思いだして欲しい。

「時限爆弾と恋人をいっぺんに手にいれたような気分だ ったよ」

いじらしくけなげで可憐な恋人なら、こんなことは絶対言わない。
そう、彼を一言でくくるとすれば、《カン違い》君というのが一番ふさわしいのだ。つりーくんが忍にずっとついてきて、自分の命および生涯をかけたのは、己の美学に忠実であるからにすぎない。しかもそれは悪い陶酔ゆえでなく、彼が天然ボケだからにすぎない。
とんでもないですね。
つりーくんと呼ばれるぐらいで、ちょうどいいと思いませんか。
でも、だから私はつりーくんが好きだ。
自分の欲望、信条のみに忠実で、それ以外のことには全く興味がない。そして、それさえ通せるのなら、自分の命さえどうでもいいという徹底ぶり――美しい。それはひとつの生き方で、しかも本人にも変えようのないものだ。だから他人には真似できない。真似ようとした瞬間に真似でなくなるからだ。
これは、まごうかたなき個性である。
愛しむべきオリジナリティと言えるだろう。

さて、つりーくんというこのトンデモ野郎は、本当はいったい何者なのか。
冨樫義博はマイノリティとマジョリティの平和的共存を描く(『幽☆遊☆白書』にしろ『レベルE』にしろそういうオチだった)漫画家である。ナイーヴな人間が生きにくい世の中で、彼なりの幸せを模索し解答を提示する。そして、連載で一番苦しかった時期に描かれたつりーくんは、期せずして作者のこの一番大事な部分を訴えているように思える。作者本人が〈樹〉が一番好きだと言っていたという話だし(どんなに画面が荒れている時も、つりーくんだけはとてつもなく麗しく描かれている)、この漫画を読みとく際には外せないポイントなのではないだろうか。
そう思って仙水忍とつりーくんの関係を見直すと、そこには信頼関係の基本が描かれていることに気付く。
二人は異種である。最初は敵同士でさえある。しかし、利害関係でなく、ほんのささいなきっかけから仲間になる。仲間になってからは裏切らない。余計なお節介は焼かず、相手の希望を最大限に尊重し、最後まで行動を共にする。置いていかれる辛さに耐えて。
友情、の二文字でくくってしまえば簡単かもしれない。忍と樹の間にあるものはロマンスではない、という方もいらっしゃるようだ。
しかし、深い信頼関係というのはそんなに簡単に結べるものではない。友人同士、恋人同士、それ以外の関係であっても、「この人だ!」「運命だ!」と思う瞬間はめったにこない筈だ。
この二人はだが、そこに至っている。最初から――そして、十年の時間をかけて。
忍にしろつりーくんにしろ、そうとうイイ性格の持ち主である。友達には欲しくないと思う方も多かろう。しかし、二人の間に結ばれた絆はこれ以上ないほど強く、美しい。生き物同士が結べる最上の種類のものだ。むしろ、二人が愛し愛されるのがあたりまえの関係でないからこそ、それは輝いているように思える。
価値があるから愛されるのではないということ、信頼しあえるということは他の何物にも勝る幸福だということ――意外に真面目なことを語っている部分に思えるのだ。
つりーくんは奥が深い。
面白い。

3.さて、私はなぜ《恋人と時限爆弾》を使い続けるのか。

先にも書いたが、私はまだ即売会歴が二年にもならないほんの駆け出しである。
何故かというと、それまでイベントに興味がなかったからだ。
同人誌歴そのものは十数年あり、経てきた種類も様々で、最初の個人誌をオフセットで出してからすでに六年半ほどたつ。だが、自分の知らない相手に本を売るという体験はほとんどしていなかった(通販は細々とやっていた)。イベントに自分のスペースをとるような知人がいなかったためである。だからたまに、「どうして本をつくってるのにイベントに出ないんですか」などと言われると不思議な気持ちがしたものだ。私の同人誌即売会に対するイメージは十数年前でとまっており、そういう場所で本を売るためには、恐ろしくレベルの高いパロディをやらねば出られないのだろうと思い込んでいたからだ。
この場合のレベルの高さは、原作をどれだけ活かして楽しい話をつくれるか、という意味であり、できた作品そのもののレベルではない(ゆえに私はパロディは書けない。今でこそ原作ありの本をガンガン出し、その名で売っているが、あれをパロディとは思っていない。せいぜいパスティーシュ/贋作といったところだろう)。昔の即売会は、伝えきくところではファン同士のハイテンションな交流の場だった。パロディもファン同士の交流も苦手な私は、イベントとは縁のないままに同人活動を続けていく筈だった。
しかしある日、ひょんなきっかけで、私の作品のひとつがコミケに出る大手同人誌に載ることになってしまった。
ここで、私の発想と方向性はがらりと変わってしまった。
どのみち、私の名前(ペンネームだが)は市場に流れてしまう。
私もまだまだ個人の本を出すつもりだ。
なら、自分でもスペースをとって本を売ってもいいのじゃないか、と。
なんとも不純な動機である。
私はさっそくイベントなるものに出かけてみ、おおまかな雰囲気をつかんだ。攻略本なども読み、詳しそうな知人に話もきき、即売会用のサークルをこしらえて秋のイベントから出ることにした。
こうして、《恋人と時限爆弾》が誕生したのである。
最初の日に出す本を、オリジナルのショートショート集と『幽☆遊☆白書』本に決めて。

こう書くと、「おや、おかしいな」と思う方がいるだろう。
不純な動機だった、パロディは苦手で、などと言いながら、どうしていきなり少年漫画からサークル名をもってきて、しかもパロディ本を出そうとしたのか、と。
それは、その前の秋から冗談で、「今あたしにできるパロディ物があるとすれば、仙水くんと樹くんの組み合せぐらいだねえ」と言っていたためである。
当時は本当に冗談だった。ただ、この二人は当時から好きで、書こうと思えばなんとか書けると思っていた。翌春には原作も終わり、TVの放映も終了して、売るにはともかく書くにはよい時期になった(原作の解釈がゆっくりやれるし、設定と違ってしまったと慌てずにすむ)。そこへ持ってきて「さあイベントに出るぞ」である。
苦手も忘れて、一生懸命書いた。
読んだ人の意見をききつつ、それから一年で『幽遊』本を四冊出した(本が少ないと思われるかもしれないが、得意でないということと、他の同人誌とかけもちだったことを明記しておく。この年は四百字詰め原稿用紙換算で創作だけで千枚以上書いた)。
イベントではいいことが沢山あった。
新しい友達もできたし、即売会や同人誌に対する偏見も薄れた。『幽遊』本で書けることはもうほとんどないかもしれないが(たぶん今年は『サイキックフォース』をやっているだろう/超能力者の秘密結社をめぐる悲劇は美味しいネタにことかかないので)、『幽☆遊☆白書』のスペースでスタートをきれてよかったと思う。
だから私は、《恋人と時限爆弾》の名を捨てないことにした。
たとえどんな場所へ出ようと、もうしばらくは持っていようと。

そしてこのサークル名は、私のスペースにふさわしいものだとも思っている。
現在の私の主要なモチーフは、ロマンスと推理小説の中にあり、それを今後も書き続けていくつもりだからだ。その二つを表すのに、《恋人と時限爆弾》はぴったりである。
また、私にとって、爆発の瞬間を待つ爆弾と恋人はほぼ同義だ。死に向かって暴走するもの、死の翳りをどこかに持つものでなければ、決して魅かれない。好きにはなれても惚れこめない。理由は今ひとつはっきりしないが、情熱の対象が常に死、および破滅寸前の者であるということだけが確かで、これだけは二十年以上変わることがない。置いていかれる悲しみと別れの予感だけが、私の心をときめかせる。悪い趣味だが仕方がない。暖かい言葉も甘い抱擁も泣くほど嬉しいくせに、それだけでは決して満たされない。この妙な歪みのせいで、何人厭な目に遭わせたか――。
この執着は、実はパロディ物をやっていて気付いた。おかげで今は、この妄想だけでオリジナルが書けるようになった。つまり私は、《恋人と時限爆弾》作家らしい。芸幅はもう少し広いが、そういう部分が中央にあるらしい。妙な悪企みと淡い恋模様を、赤い導線でつないでニヤニヤするのが好きらしい。
ならばこの名は、ずっと使うべきだろう。

おや。
どうやら私は、つりーくんのことをあまり笑える人間ではなさそうだ。

(1997.5脱稿/初出・恋人と時限爆弾『つりーくんのこと』1997.5)

「STILL GOES MARCHING ON/エンタティメントは何処へゆくのか――二つのゲーム批評(サイキックフォース&スーパーロボット大戦F)を絡めて」

1.物語の使命とは何か/個人的通俗小説家としての誇りについて

文章を綴る作業にたずさわっている者として、いつも考えていることがある。それは、小説(もしくは物語)の使命とは何か、ということだ。
使命というと大げさにきこえる。おまえごときが何を偉そうに、とお叱りをうけるかもしれない。だが、これは私が創作を書き続ける時に必要な疑問なのだ。つまり、私はなぜ小説を書いているのか、と同義だからだ。そしてこれは、すべての創作家が常に自問自答しなければならないことだと思うのだが、どうだろう。無意識に無目的にひたすら書き続けている人は、いるのだろうか。

何も考えずただ書いている瞬間というのは、実はとても楽しいものだ。自分の頭の中にしまいこまれていた幾つもの場面が溢れでるひととき。流れるような指先の動きにつれて、ワープロの画面に映し出される文字。そして紙の上に、本のページの上に自分の物語が具体的な形として現れる時間は、いつも深い喜びに満ちる。一行一行に悩み苦しんだ上に変な作品が出来てしまった時の辛さや悲しさも、新しい成功のための経験だったのだと思えてしまう。
そう、事実この喜びは、書く前によく心を引き締め、充分な準備をしてからワープロに向かったからこそ生まれたのである。私たち創作家はまず、なんらかの戒めを自分に課している。漁師が投網にかかった小魚を海へもどし、目的の成魚だけを持ち帰るように、小説家もまた自分の秤や物差しで森羅万象をすなどっているのだ。
私の言う《使命》は、その物差しのことだ。もしくは狩猟の道具のことだ。何を選びどう料理するか、という選択の美学だ。
私は自分を《通俗小説を書く者(書きたい者)》と呼ぶ。自分の使命が通俗小説だと思うからだ。では、通俗小説とは何か――それは、他人のモデルになるようなキャラクターをわかりやすく描いた小説、もしくは一つの事件にたいして具体的な結論を示す(良い意味でのレッテルを貼る)小説である。それを何故私が《通俗》と呼ぶかというと、文学の世界では、そういう小説は上等でないからである。上等な文学は、読者に結論を押し付けないことになっている。あくまで結論は読者のものだから、考えさせるような曖昧さで終わらなければならないのだ。また、わかりやすいキャラクターをわかりやすい言葉で飾ることは品がなく、また、読者を馬鹿にしていることになるという。様々な印象を読者に与えるキャラクターこそが、深みのある上等な主人公なのだ、と。
しかし私は、そういう《上等》な文学があまり好きではない。結論の曖昧さは、まずほとんど作者の意図を読者に伝えない。間違って受け止められるか誤解され、ひどい時は逆手にとられてしまう。またそれは、作家自身の器量のなさや欠点を隠すためのトリックであることも少なくない。そして、様々な印象を与える深みのあるキャラクターとは、往々にして偽の多重人格者だったりする。いわゆる古典や名作と呼ばれる作品を読みながら、「なんだこいつ、正直者みたいな面してヒデェ男だ、こんな話のひねり方アリかい」「おいおい、そっちでこういうことを言う女が、こっちでこんなこと本当にするか?」と首を傾げた体験を持つ読者は少なくない筈だ。上等な文学を読む力量をもたない読者というのは(私も含めて)必ずいて、また、何を読んでも実にならない人というのもこの世に多く存在する。しかし、文学を読んでいて私たちが感じる「これは変だ」という直感はまず半分はあたっている。背景などをよく調べてみると、作家自身の歪みや嘘が小説に現れて全体を損ない、あげく私たちを混乱させていたのだということが判明することが多い。読者は自分の感覚を信じてよいのだ、「こんな話はイカン」「本当の女はこんなこと言わないし、しないよ、それにこれは無意味だ」と。しかしそれが上等の文学とされるため、有難がったり規範にして生きる人も出て来る。
私は、そういうのが、厭なのだ。
自分の慰めにも癒しにもならない文学は、読みたくないのだ。
だから、書き手としての私は通俗小説家でありたい。
ある一定の目的をもった、ある程度わかりやすい人物を使った、ある程度柔らかい言葉を使った小説を書き続けていきたい。
読んだ人の心にある程度の作用を及ぼしつつも、深刻にさせないものを。
これが私の使命だ、と思うので。

十代の終わり頃、勧善懲悪物が書きたくて仕方がなかった。それは一つの完成された箱だからだ。通俗物としての美しい形だからだ。自分の好みの善の主人公が、自分の好みの仇役と劇的にやりあうシリーズ物を書きたかった。
しかし未だにできずにいる。努力はしているが理想からはほど遠い。きっとこれは我が使命ではないのだろうと思う。
だが、使命でなくとも出来なくてよいのだろうか。
誰かがやってくれると思っているうち、誰もやらなくなってしまいはしないか。
この恐怖を、私はここ数年ひしひしと感じている。
というのは、簡単な娯楽の王道であるTVで、勧善懲悪物がほぼ完全に滅びてしまったからだ。さあ、TVの番組表を見てリモコンを手にとってスイッチを入れてみよう。
ほら。どこにある?
まともと呼べる子供番組さえないのだ。どこにも。
子供達はいったい何処で心の栄養を補給しているのだろう。学校や友人や家族から得られないものを、どこで慰めているのだろう。そして、大人達は?
答は、TVゲームにある。

2.悪役不在の格闘ゲーム/《サイキックフォース》というゲームの独自性?

ゲームの話を始める前に、私のゲーム歴を簡単に記しておく。長くやりこんでいる人とは意見が違うかもしれないからだ。だから最初に、こちらの背景を明らかにしておく。
私がゲームセンターに出入りするようになったのはここ四年程度、持っている家庭用TVゲーム機は、メガCD(メガドライブ)、セガサターン、ゲームボーイ、プレイステーション(購入順)。某漫画家(竹本泉)の影響でTVゲームを始めたのだが、はっきりいって腕は良くない。RPGは苦手でやると気分が悪くなり、落ちものやシューティングは不器用なのでクリアできず、走ったり飛んだりして得点を稼ぐものは最初から手を出さないし、格闘ゲームは買ってもどうにも扱えず一日で放り出す最低のゲーマー(と呼べるかどうかも怪しい/いったいおまえは何をプレイしてるんだと自分でツッコミを入れたくなる)である。
しかし、そんな私が、ゲームセンターから始めて、断続的ではあるが一年半以上家庭用TVゲーム機でやり続けている格闘ゲームが一つだけある。
それが、《サイキックフォース》だ。
このゲームに私がどれだけ金と時間をつぎこんでいるか書くと長くなるが、とりあえずこれの関連商品で私が現在まで買ったものをあげると、ムック四冊(他にも出ているがそんなに買っても仕方がない)、商業コミックス二冊(右に同じ)、ビデオ一本(二月以降増えてゆく予定)、ゲームCDが二種三枚、音楽とドラマCDが六枚(これもまたこの春以降増えてゆくだろう)、プレイステーション本体とジョイスティック二本(ソフト発売日にいっぺんに買ったので重くてたまらなかった)etc……。そして、予定があえば今でもサイキックの台のあるゲーセンに行くし、今まで足を運んだことのないゲームショウ、AMショー、AOUショー、ロケーションテストその他、サイキックオンリーのイベントにも通っている。雑誌の情報もこまめにチェックしている。自らを《サイキック貧乏》と呼ぶ熱狂ぶりだ。もちろんいわゆるマニアな人には遠く及ばないし、腕前は下の下の下だが(他の格ゲーも含めてやりこんでいる十代少年少女に勝てる訳もない)、《夢中になっている》と言っていいだろう。
では、私はサイキックフォースの何に、そんなに魅かれたのか。

サイキックフォースには熱狂的なファンが多く、雑誌記事でも正当に評価されていると感じられることが多いので、業界内でも画期的なゲームだったのだろうと思う。ここで私が少し考えただけでも、プラスの要素を沢山あげられる。まず、格闘するキャラクターの設定を超能力者にし、空中に浮かべたこと。そのため戦闘は透明な結界の中で行われ、場外負けするつまらなさがなくなった。また、技を出すのが簡単でその見た目が派手、かつそれぞれの効果が面白い。普通の格闘ゲームよりもスピード感があり、一種シューティングゲームの要素も入っている。BGMもシンプルかつハイレベル。そして、なによりゲーム画面がおそろしく洗練されている。この背景はゲームセンターに足を運ぶ価値のある美しさで(家庭用では限界がある)、オープニングのデモだけでも十数分見とれていられる。一番美しい面にいたっては、闘っている時間によって景色が変わるので、その深い色合いを味わいたくて、あとちょっと勝てるところでも待って見ていることすらある。今まで格闘ゲームなどやったことのない女性ファンを多数引き込んだのは、以上の理由だけで充分だと思うほどだ。
しかし、あれだけ大勢の人間をのめりこませた最大の理由はやはり、あのダークな世界観とキャラクターのせいだろう。
サイキックフォースは、暗いのだ。
そう、暗い。
そして、その暗さが、たまらない。

サイキックフォースの世界観を説明する前に、それ以外のメジャーな格闘ゲームとサイキックの最大の違いを一つ記しておく。このゲームには悪役が存在しない。無自覚に悪いことをしている奴やラスボス(知らない人はこんな本読んでくれてないと思うけど、つまりゲームの最終面に出て来る親玉のこと)はいるし、個々人の間には恨みつらみもあるが、厳密な意味での悪役、仇役はいない。「ハハハハハ、よく来たな××よ、さあ、この私を倒してみよ」という存在がいないのだ。また、よくあるライバル同士という関係も存在しない。古い腐った世代を倒す(例えば父を殺す)という展開もない。宿命を背負わされて戦うという例の気の毒なヒロイズムも存在しない(ある日突然「君は実は勇者なのだ、○○の生まれ変わり/もしくは△△の継承者なので君が闘わねばならない」式の運命に巻き込まれ型キャラがいない)。また、いわゆる色気ネエちゃんも出てこない。いや、一人妙齢の美人女性キャラがいるにはいるのだが、彼女は人間でない上、男性が期待するようなサービス精神は皆無だ。レオタード姿やへそ出しファッション等でごまかしてはいるが、サイキックに出て来る女性キャラは、他の格闘ゲームに出て来るどんなキャラより色気がない。これはおそらく制作スタッフが秘かに打ち出している方針なのだと思う。何故かといえば、現在公開されている次回作《サイキックフォース2012(トウェンティトウェルブ)》の情報も、以上の条件からまったく外れていないからだ。というかさらに洗練されてしまっていて、新しく増えた女性キャラの一人はハイレグでごまかしつつさらにボーイッシュになり、無自覚に悪いことをする奴はついに姿を消してしまった。はっきりいってファンである私でさえ、そこまできれいにすることもないんじゃないかと思うほどだ。他の格ゲーのファンは、そのゲームの一種のダサさや無茶苦茶さ加減、気持ち悪さや理不尽な事や馬鹿馬鹿しさを全部含めて愛しているのだと思うが、サイキックにはそういう面がほとんどないのだ。
おそるべし、サイキック。

じゃあいったい、サイキックフォースというのはどういう設定のゲームなんだ、と知らない方は首を傾げるだろう。ないないづくしじゃないか、今あがったほかに、人が人と闘う理由なんてあるのかい、と思うだろう(実はある。愛する者のために闘う、というコンセプトは、さすがのサイキックにも出てくる)。
答はこうだ――ひとことで言おう。サイキックの世界はレトロSF漫画だ。
つまり、『地球(テラ)へ』、『超人ロック』(連載『Megu』で再開してるけど)の世界なのである。絵的にも、世界的にもだ(スタッフのつもりでは、これプラス『BANANA FISH』らしい。某キャラの生い立ちが主要仇役と同じにしてあるためだろう。が、性格や年齢がだいぶ違うので、ファンからは『機動警察パトレイバー』のパクリだと思われていた/でも無理ないよ、二十二巻の内海課長は長髪のカツラをかぶってて、英語名が同名の某社長と全く同じ髪型になっちゃってんだから。これじゃ否定されても説得力がないやね/最近はバドリナードばりにエミリオを囲ってるしな)。
以下、簡単にサイキックの公式設定を記すので、往年の漫画ファンは、これはなるほど『地球へ』『ロック』だ、と思いつつ読んでいただきたい。

二十世紀の終わり、各国政府は超能力者を新たな兵器として使用することを考えていた。彼らは超能力者をサイキッカー(狂った者)と呼び無差別に彼らを狩り、軍の収容所に閉じ込めて過酷な人体実験をほどこした。また、それに耐えられない者、逃げ出す者を惨殺し、闇から闇へ葬った。ときたま超能力者のおこした事件が一部ニュースになったこともあったが、軍関係の情報は当然流れず、また一般の興味もひかなかった。
少年キース・エヴァンズは強い超能力の持ち主で、自分の凍てつく氷の力を隠しながらひっそりと幼い日を過ごしていた。それでも十代前半、故国イギリスから逃げ出す羽目に陥り、家族と離れて単身アメリカに渡った。そこで唯一親友と呼べるバーン・グリフィスという少年に出会うことができたが、友情をわかちあうひとときは短く、キースは米空軍サイキッカー研究所に捕えられてしまう。
それが悪夢のはじまりだった。研究所内には人権や個人の尊厳は存在しなかった。キースの目の前で無雑作に殺されていく超能力者達。そして自らも踏みにじられ汚されて、さらに新たな能力がないかと調べつくされる。地獄の苦しみを味わった彼の考えたことは、研究所からの集団脱走だった。一人では無理だが、超能力のある者全員が協力して事を行えば、脱走は不可能ではない筈だ、と。
少年キースのカリスマ性と説得力、無駄に死にたくないと思う他の超能力者達の思いがあわさって、集団脱走計画はついに遂行された。
しかしその結果、無事逃げおおせたのはキースただ一人だけだった。収容所の仲間は全員死んだ。軍への憎悪に燃えるキースは奔走を始めた。自らの力を振り絞って全世界に呼びかけ、同志をつのった。二度とあんな目に遭いたくない。自分を含めた超能力者を、二度とあんな目に遭わせたくない。
この思いは少しずつ実を結んでいった。
西暦二○一○年、キースは弱冠十八才にして、超能力者の秘密結社ノアの総帥として活躍していた。リチャード・ウォンという有能な実業家のパトロンも得た。彼のテレパシー放送は地球上にあまねく届き、孤独と恐怖に震える超能力者達に、ノアという避難場所があることを教えた。
そこまでは良かった。キース・エヴァンズは間違っていなかった。
しかし、集まった同志の前で彼の口唇から放たれたのは次の言葉だった。
「これより、愚かな人間共に鉄槌を下す。ノアの目的は世界征服だ!」
そう、この日より、新たな悲劇の幕が開かれたのであった……。

今、これをワープロに落としつつちょっと泣きそうになった。
なんて悲しい話だ、というのもあるが、それ以上に他人事に思えないのだ。
すべて自分を少しでも異端(もしくは少数派・弱者)と感じる人間はこれを絵空事と片付けられないだろう。多少なりとも鋭敏な神経を持つ方は、馬鹿な話と笑えない筈だ。私だって、女性であるというだけで、キースと同じ立場に立つ可能性がある。頭脳もカリスマ性もないし、その状況に立っても「世界征服だ!」とは叫んだりはしないだろうが、その苦しみや辛さは痛いほど理解でき、なんていい話なんだと思ってしまう。
しかしそれはまた、私の世代、つまりかつての少年少女にとって深い馴染みの、ある意味王道の悲劇だからだともいえよう。幸いにして現実にこの辛さを味わったことのない人間も、フィクションの力でそれを疑似体験している。そして、それではいかん、正義は遂行されねばならない、という感情を条件反射的に沸き立たせるように訓練づけられている筈だ。
子供は基本的に、正義という概念を知らないで生まれて来る。弱い者をいじめてはいけない、苦しんでいる者を少しでも助けてやれ、というのは、社会がモラルとして教えることだ。その一端を、私の世代のTVアニメーションや漫画はになっていた。大人としての責任を果していたのだ。
サイキックフォースは若い世代にも人気がある。それはおそらく、キース・エヴァンズという超能力者の存在に訴えるものがあるからだ。そして、彼の暴走を止めようと駆けつけてくる昔の親友、もう一つの正義の存在としてのバーンがいるからだ。
それ以外のキャラクターも物語として大事な部分を押さえている。キースの純粋さを利用して暗躍する大企業家リチャード・ウォン。サイボーグ化され、洗脳され人工的な忠誠心を持たされて闘う女、ソニア。精神病に苦しんでノアに駆け込んできた筈なのに、結局殺人発作を繰り返してしまう青年、ブラド・キルステン。自分にとって唯一家族と呼べる姉を探してさまよう少女ウェンディ・ライアン。親に殺されかけて超能力が発動、自分の住んでいた村を壊滅させてしまって行き場(そして生きる場)を失った少年エミリオ・ミハイロフ。軍研究所の爆破で妻子を失い、そのためキースを逆恨みしているゲイツ・オルトマン。また、上に命令されるままに無自覚に超能力者を殺していく退魔師、六道玄真(ある意味彼が、サイキックの中で一番の悪人である。さしたる罪悪感ももたずに女子供から殺して行くからだ)。彼らの思惑は複雑にからみあい、そして悲劇的なラストを迎える。何かが間違っている、絶対間違っているんだ、と訴えながら。

サイキックフォースは、私達の世代が知っている一番いい意味でのSFを再現している。
(SFとしては萩尾望都の漫画の方が竹宮恵子より上だという方もいるかもしれない。しかし実際萩尾望都が他の漫画家より秀でているのは、時間軸をばらして再度組み立てる手腕と語り口だけだと思う。例えば『ポーの一族』や『トーマの心臓』が優れた作品として愛されているのは、エピソードが時間の順に提出されていないという理由につきると思う。時間が順番通りに流れているSF『11人いる!』よりも、この二作の方がはるかに精彩を放っているのを考えれば的外れな指摘ではあるまい。ブラッドベリの翻案等ならともかく、ヒューマニティやドラマ性としては、竹宮恵子のSFの方がはるかに訴えるものがある)。悪には悪なりの理由や状況があり、人と人が争うのは利益や憎しみやストレスだけでないのだと教えてくれる。だからあんなに暗く悲しい話なのに、サイキックは多くのファンに愛されているのだ。
大人達も含めて、若い世代はおそらく、こんな心の慰めをゲームの世界に見いだしているのである。

3.人間らしさの復権を求めて/《スーパーロボット大戦F》は戦士達のパラダイス?

実は《スーパーロボット大戦F》に関しては、あまり語る言葉をもたない。これはシリーズ物であるのにこの一本しかプレイして上、私はシナリオの簡単な片方しかクリアしていないからだ。また、これ以降「新世紀エヴァンゲリオン」に関して言及する部分が出てくるが、私はEVAのTVシリーズをほとんど観ていないことも前提としてあらかじめ記しておく。これは、碇指令を見ると気持ちが悪くなってしまうためだ。つまり、この章では、断片的に入ってきている情報だけで論を進める。だから、間違ったことを書いてしまう可能性があることをお断りしておく。ただ、この章はあくまで私の希望的観測を書く部分であり、お叱りは受けるが訂正の指示は受けない、という前提で展開させていただく。そうでないと始められないからだ。

スーパーロボット大戦Fは、ここ三十年の間に日本で製作された代表的なロボットアニメに出てくるロボットが総出演する、というなかなか凄いシミュレーションゲームである。スーパーロボットシリーズというのがずっとあって、この《F》でセガサターンに移植された。私は第四次スーパーロボット大戦のCMがTVで流れていた頃から、何度か「やりたい……難しそうだけど、やってみたい……」と呟いていたのだが、この《F》でとうとう買ってしまったのであった。
始めてみると、これがやはり難しい。初心者向けのシナリオの方を選び、攻略本と首っぴきでやらないと出来ない。しかし、面白い。はっきりいって、見たことのないアニメのロボットが半分ぐらい混じっていてよくわからない部分もあるのだが、楽しい。時々物凄く難しい面があって、一週間ぐらい進行がストップして泣きそうな時もあったが(一人の敵に味方が十数名やられた時はさすがに恨んだ/いや、それよりも原作で弱いザコキャラが妙に強い事の方がよほど腹が立つのだが)、私にとってはどんなRPGよりも精神的に楽だった。
楽だったその訳はいろいろと考えられるが、おそらく一番大きな理由は、出てくるキャラクター達が基本的に人間らしかった、からではなかったろうか。

人間らしさ。
昔のアニメの主人公は、必ずいい意味での人間らしさを持っていた。強さと弱さ、単純さと複雑さ、熱さと冷やかさ、しなやかさと脆さをそれぞれ適当なバランスであわせ持っていた。だから、このスーパーロボット大戦Fに出てくる懐かしいキャラクター達はみなほどよく人間らしい。
しかし私が一番ほっとしたのは、その懐かしさに対してではない。エヴァンゲリオンに乗る少年少女の三人組が、おそらく原作より幸せなことにある。

TVアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」の主人公碇シンジは、同居していた母が亡くなった時、それまで離れて暮らしていた父親が自分をひきとってくれるというのでその仕事場へ訪ねて行く。まだ中学生で、他に身寄りのない少年としてはごく普通のアクションである。しかし、そこで待っていた父なる人は、彼の期待するような存在ではなかった。いきなり妙な殺人機械を見せられ、これに乗って操縦しろ、やってくる敵を倒せ、出来ないなら(おまえなどいらないから)帰れ、と頭ごなしに言われる。シンジは父の冷酷さと無茶さに震え上がるが、おまえが乗れないのならこいつを乗せる、と酷い怪我をして包帯を巻いているような少女を見せる。脅迫され逃げ場のなくなったシンジは、エヴァと呼ばれるその殺人機械に乗る羽目になるが、当然まともな操縦など出来る筈もない。機械は勝手に戦い始めるが、シンジは恐ろしくてパニックを起こし続ける……。
このシンジの父は鬼畜である。少なくとも人間とは呼べない。本当に息子を戦士にしたいのなら、最低でも子供の頃からひきとって責任をもって仕込むべきである。いきなり息子を使わなければならなくなったのなら、せめて理由を説明し情に訴えるなりすればいい。しかしおそらく、この父にとってシンジ少年は、自分の子供でもなんでもない。ネジ穴に合わなければ捨てられるネジほどの価値もないのだ。
私はこの碇指令という男がどういうキャラクターか知った時、血が凍った。そこには、なんて厭な、とか、なんて残酷な、とか、そんな言葉では説明しきれない不気味なリアリティと悪意があった。しかし、これだけの存在感があるのなら、せめてその人は悪役でなければならないと思った。途中で改心するか、もしくはどうしてこの父がこんなひどい人間になってしまったか説明されるかしないのなら、息子に倒されるべき人だと思った。そうでなければやりきれない。夕方で子供も見る時間にやっているのだ、そういう勧善懲悪な部分が少しでもあるだろうと思った。
確かに、シンジは物語の最後の方で、知り合った子供達となんらかの安らぎをわけあったようだ。これを見て癒された子供もいるというから、すべて気持ち悪さで押し通した物語ではなかったのだろう。
しかし私はうっかり見てしまったのだ。見てはならないものを。TVシリーズの最終話の最後の二分間を。

私はその日、少し早くTVをつけすぎてしまった。その部屋の時計が進んでいたのだ。見るつもりはなかったが、シンジ君がこう叫んでいたので、つい画面を見てしまった。
《僕は、ここにいていいんだ!》
私は思わずうなずいた。
「そうだ! 人間は誰でも、《ここにいる》権利を持ってるんだ!」と。
しかし次の瞬間、私はさあっと青くなった。
画面が暗くなって、以下のテロップが出たからだ。

《母よ、さようなら》

これはわかる。母はもう死んでしまった人なのだから。問題は次だ。

《父よ、ありがとう――そしてすべての子供達(チルドレン)へ》

私は思わず、「ちっがーうっ!」と叫んでいた。
どうして君があの父親にありがとうを言わなければならないんだ、それは間違っている。どうして君はありがとうを言うんだ、君はあの男のいいなりに殺人兵器にされたんだぞ、感謝すべきことは何もないんだ、わかっているのか、君がありがとうを言ったということは、殺人兵器になった自分をなんの疑問も抵抗もなく、肯定してしまったことになるんだぞ!と。
大人がエヴァンゲリオンを見て面白がることは、別に構わないと思う。ひねた視聴者にとっては面白い部分もあるだろうと思う。このオチも一種の現実だと思う。また、碇指令の残酷さは、一つの斬新さとしてブームに値するのかもしれない。
しかし、この番組を見ていた子供達は、このエンディングから何を受け取った? 私はパニックに陥った。実際、十代の視聴者もかなりいた筈だ。そして、この番組に慰められた子供がいた筈だ。だが、彼らに残されたのは、まさしく虚無だ。救いようのない絶望だ。彼らの魂を正しく救える大人は、そこにはいない。正義は打ち負かされたのだ。

しかし、スーパーロボット大戦Fの中では、シンジ(と他二名のエヴァ操縦者アスカとレイ)はとりあえずこんな悲惨な結末は迎えていない。そう、特にシンジは原作よりずっと幸せである。
彼はある日、戦闘中に発作的に戦場を抜け出そうとして、戦艦艦長のブライト・ノアに殴られる。「今は《どうして僕が戦わなきゃいけないんだ》とごたくを並べている時間はないんだ!」と。シンジの疑問は間違っていないが、殺らなければ殺られるという状況でそんなことを言っている暇はない。ブライトは間違っていない。が、そこにいるアムロ・レイが(昔の自分を思いだしたのか)静かにとりなす。「シンジ君。今だけ我慢して戦ってくれ。この戦闘が終わったら、君がエヴァを降りられるかどうか、皆で相談しよう。そうして君の今後のことを決めよう」と。
これはある意味、欺瞞なのかもしれない。大人のよくやる卑怯な手なのかもしれない。
しかし、これでシンジはとりあえず納得して戦う。もしアムロ・レイがシンジの父親ならば、シンジが父に礼を言っても私は気持ちは悪くなったりしないだろう。アムロはブライトから自分をかばってくれた。相談にのろうとも言ってくれた。彼は今後、アムロに頼まれれば、無駄なパニックを起こさずに戦えるようになるだろう。もしくは自分の意思で戦わないことを選びとれるまで、成長できるだろう。
実際シンジは、戦いの意味を自分なりに模索しはじめる(間違ったカッコ良さに憧れて仲間のアスカに馬鹿にされたりもするが)。そして、周囲にいる者に、どうして戦っているのか尋ねはじめる。するとこんな答がかえってくる。「自分の優れた能力を他人に認めさせたいから」「自分の乗っている機体がカッコイイから」etcetc.
そしてシンジは、流竜馬(ながれ・りょうま/ゲッターロボ)に食いつく。以下、QがシンジでAが竜馬(リョウ)の問答を、おおまかであるが書いておく。

Q:リョウさんはどうしてゲッターに乗ってるんですか?
A:どうしてって……正義のためさ。
Q:正義ってなんですか?
A:いきなり哲学的だな。まあかんたんにいえば、正義とは俺の心の中にある良心、だな。正義なんて人によってちがうものだから。
Q:そんなものなんですか? でも、自分がまちがってたら……。
A:その時は考えを改めるだけさ。自分がまちがってるかもしれないからといって、何もしないわけにはいかないだろう? 確かに世の中のすべてを知り尽くせば、なにが正義なのかはわかるかもしれない。けど、すべてを知り尽くすなんて神でなければ不可能だよ。だから、人はやれることをやるだけなのさ。

まさしく、これが私の知っている正義である。
シンジはよくのみこめない様子ながらも、この先輩の言葉をきいている。彼がこれに納得したかしなかったかはこの時点ではわからないが、少なくとも例の血縁上の父と一緒にいるよりは、リョウのお説教をきいている方が幸せである筈だ。
そして、この台詞にはかなりの説得力がある。神谷明があてているからだ。二十数年もヒーローを演じ続け、常に弱きを助けてきた彼だからこそ言える台詞なのだ(今でも彼は主役格を演じ続けているし、なおかつ高齢者や女子供の味方をしている時が一番生き生きとしている)。
実際シンジは、その後パニックを起こすことがなくなり、ベストではないがよりよい生き方を考えようとする余裕を持ち始める。
これを見ていると、スーパーロボット大戦Fの製作者が、あえてエヴァンゲリオンをこのゲームの中に取り込んだ意図がわかる気がする。
製作者は、現代に生きるこの気の毒な少年達を、少しでも幸せにしたかったのだ。
子供がどのみち何かと戦わなければならないのなら、せめて良い大人を周りに配し、暖かくサポートしてやろうと。それが旧世代が次の世代に送れる、せめてもの花束だと。
私のような者があえてスーパーロボット大戦Fについて書かせてもらったのは、こういう訳である。
私はこれが言いたかった。
正義は死んでいない。
少なくとも、ゲームの中では。
そして、ゲームをつくる者の良心の中では、と。

4.物語は今どこにあるのか/特別な晩餐でなく、常食としての創作を求めて

前二章を読んでいただいた方はご理解いただけると思うが、ゲームは子供に何かを与えられる、と私は思う。
だからゲームが頑張っているのはいいことだと思う。例えばパロディ同人誌では、アニメーションより今ゲームジャンルの方が元気だという。良質なゲームはちゃんと売れていて、これはなかなかいいことだと思う。
しかし、実際何万本、何百万本と売れているゲームを、子供達はちゃんとやっているのだろうか。また、子供と一緒にゲームをやって楽しんでいる親や大人はいるのだろうか。
私には、任天堂のポケットモンスター以外のゲームをやっている子供達がそんなに沢山いるとは思えない。例の光過敏性てんかんで多くの子供達が倒れたのは、せいぜいポケモンぐらいしかまともに見られる子供番組がなくて、だからこそ一生懸命見すぎていたのではないのかとさえ思うほどだ。
今の子供は頭がいい。情動の面では五十歩百歩かもしれないが、おそらく私の世代が同年齢で持っていた知識よりも、はるかに多くの情報を持っている筈だ。しかし、だからといってゲームに関してもすべてたけているという訳ではない。現在のTVゲームは大人だましが多く、子供にとって面白い訳でもない。おそらく多くのゲームは途中で放り出されてしまい、子供達に何も教えない。
TV番組がゲームより優れているのは、同じ内容ならばかなり容易に子供に訴えかけるものがあるということだ。一緒にいれば大人も見ることができ、内容について子供と語り合うことができる、ということだ。子供はこれで、TVと大人の両方から価値判断を教わることが出来る。無計画にTVをつけはなしにしていたり、下品な番組を平気で子供に見せて喜ぶ親もいるだろう、という方もいるかもしれない。しかしそういう親の反応からでも、子供は学ぶものがある筈だ。単なるだらしなさだけでなく、親の人生観をも見るだろう。
だから、ゲームだけが頑張っている状況はおかしいのだ。
実際、子供番組は絶滅の危機に瀕しているのだから。

本当に残念な話なのだが、九七年春以降に放送された子供番組で、子供も大人も並んで安心して見られるものを、私は一本しか挙げることができない。
《虹色定期便》(NHK教育)である。
二十世紀の終わり、日本の虹が崎市というところで、人からやる気を奪うキルケウィルスという病原菌が発生する。これに冒された人間は遺伝子レベルで争う力をなくすが、同時に夢も希望も失い、未来社会はすっかり停滞したものになる。
時は流れて三十世紀。一人の少女科学者アスラは、タイムマシンに乗って時間をさかのぼってこの虹が崎市にやってくる。病気の発生前のこの街で、最悪の事態をなんとか食い止めようと――。
ある程度年のいった方は、昔NHKでやっていた少年少女ドラマシリーズを思い出すかもしれない。日が暮れてTVをつけ、「時をかける少女」や「幕末未来人」、「夕ばえ作戦」や「なぞの転校生」を見たことを懐かしく思い、あれは面白かった、と呟くかもしれない。実際、《虹色定期便》はわずかながらもその流れを汲んでいる。現代社会の暗黒面もさりげなく折り込みながら、王道のヒューマニティを懸命に訴えている。
しかし、この番組は一回十五分で二週間に一話しかすすまない。しかも平日の午前中にオンエアされている。子供達は道徳の時間でもない限り、夏や冬などの長期休みにしかこの番組を見られない。
いい話でも、これでは絶対的に量が足りない。子供は正義を常食にしていなければならない。不幸や絶望やストレスに押しつぶされる前に、健全な精神を常に訴える存在があることに安らぎを憶える時間が、せめて最低一週間に一度はなければならないと思う。漫画のように自分から開く必要はなく、ゲームのように疲れる必要もなく、ただTVのリモコンを持てばあらわれる魔法の時間がなければならない。大人が見たら馬鹿馬鹿しいほどレトロな設定の物語でもいいのだ、少しでも面白ければ、波長があえば、子供達はTVを見る。制作者の熱意を感じ取って何かを育てていく。それがないのは、現代の子供達の絶対的な不幸なのだ。
そして、不幸なのは子供ばかりではない。

以前、職場の同僚と帰ろうとした時に、《ちょっと待って、そこで『フライデー』買って帰るから》と言われてコンビニの前で待っていた事がある。私はとがめるような視線で彼女を見たらしい。どうしてあなたのような知的な人がそんな俗っぽい写真雑誌をわざわざ買うのだ、急いで見たいような写真でもあったのか、という顔をしていたらしく、しきりに言い訳を始めた。
《だって、こういう雑誌を見ると、世の中、自分より下の人間がいるのがわかって、少しほっとするじゃない》
ああ、そういう考え方もあるのか、と私は思った。
彼女も日常の苦しさに窒息しかけていたらしい。その絶望を少しでも和らげるために、週に一度くらいは他人の不幸を見ないとやっていけないと思うほど。
人はいつでも何かしら物語を求めているのだ。他人のエピソードを食べて生きているのだ。例えば週に一度でいいから、自分は何もしなくても楽しめるような娯楽がないと精神が餓死してしまうのだ。優れた物語を楽しむことは逃避ではない。むしろ、健全で必要な栄養補給の時間なのである。

今回、ひねったゲームの話などとりあげたが、実は私の言いたいことは一つである。

物語よ、エンタティメントよ、ゲームだけでなくあらゆるジャンルで力を取り戻せ!
優秀で闘志を秘めた創作家達よ、今こそその力を見せろ!
私達は、生の行進をまだ止めていないのだから。

補記

一九九八年度もNHK教育で「虹色定期便」というシリーズをオンエアしているが、これはSFでなく、異文化交流をテーマにした道徳のTVになっている。(1999.1)

追加補記

この稿を書いてからしばらくして、二人ぐらいの人と「エヴァンゲリオン」について話す機会があり、見てもいない番組なのに再考を迫られる事となった。話してみて気付いたのだが、視聴者は皆、どうやら主人公のシンジの父親を、制作者(監督)とイメージを重ねて考えているらしい、という事だった。しかし、その時私は、監督が某所でのインタビューで「僕自身の家庭環境があまりよくありませんでしたから」というような台詞を洩らしていたのを読んだ事を思い出した。そこで私が思ったのは、監督の分身は、むしろ主人公のシンジ君である、と考えた方が自然なのではないか、ということだった。もし、監督自身の父親が、あんなに訳のわからない存在であったなら、彼の子供時代はパニックの連続だっただろう。そのパニックをなんとか克服できたと思った時、彼はすでに貴重な子供時代を、本来は輝かしい豊かであるべき時期を、無惨に失ってしまっていたとすれば?
そう考えると、《母よさようなら》の後の《父よありがとう》という台詞の意味は激変する。というか、大変明確になる。つまりあれは、「お父さん有難う、おかげで僕はこんなに立派にグレることができましたよ」という痛烈な皮肉の一言なのだ。なにしろあの父親を見た視聴者のほとんどは“これはなんて酷い父親だろう”と思った筈で、監督は親への個人的な恨みを、そこで少しでも晴らす事ができたのではないか。監督の父親が存命かどうかは知らないが、もし描かれている通りの人なら皮肉どころか悪罵すらきかない相手であろう。だとすれば、番組が商業的に成功する事や見た人が幸せになれる事よりも、世間に自分の哀れさを思い切り吐き出し、丸ごと訴えた方がいい、と彼は考えたのかもしれない。そういう風に考えると、すべては納得がいき、辻褄があう。というか、そうでなければ腑に落ちない。思い返すと、監督の昔の代表作とされる「不思議の海のナディア」でも、主人公のナディアは情緒不安定な妙ちきりんな娘だったし(シンジよりはアスカに近いキャラクターではあるが)、その父親であるネモ艇長も、娘に対して言うべき事を言わない、どこか得体の知れない不気味な存在であった。実は私は「ナディア」が嫌いであまり見ていなかったのだが、その画面から伝わってくる妙な雰囲気は今でも覚えている。それは例えば富野監督の描く親子関係(親同士が不仲で子供が中途半端にグレている)とは違う、生理的に受け付けない雰囲気だった。という事は、あの番組を見て面白かったのは、「うちの親があんなでなくて良かった」と胸を撫で下ろせる人と、「シンジ君の気持ちがわかるわ、ウチもあんななのよ」という人達なのかもしれない。そして、そのどちらにも属さない私は、やはり「エヴァ」を面白いと思えないし、その事を反対に幸せと感じている。(1999.2)

(1998.2脱稿/初出・恋人と時限爆弾『STILL GOES MARCHING ON』1998.2)

「パロディ同人誌の行方――女の人は、いったいどこまでいけるのだろう? その自立と恋愛と……。」

1.こんなこと、分析すべきじゃないかもしれないけど。でも、誰かが一歩先に進むために。

パロディ同人誌について、ちょっと書いてみようと思う。
こんなことを、今更書くのは遅いような気もするけれど、一時期より下火になったとはいえ、女の子達のパロディ熱はまだまだ続いている。その中から登場し、プロ(もしくはセミプロ)として活躍する女の子達もあとをたたない。なんでもかんでもとりこんでいってしまう貪欲な彼女らの中には、漫画でも小説でも結構実力のある人がいて、その行く末を見守ってみたい気にさせる。
今回は、この現象について、分析してみたいと思う。
なぜ彼女達はパロディ熱にとりつかれていくのか、どうしてそこから出発していくのか、そしてその中で、なぜ好んで男性同士の愛を描くのか、それについての私見を述べようと思う。
一応、同じ女性として、彼女らの気持ちを語れれば、と思うのだ。

そこで。
この手の話題の苦手な方は、この後は御遠慮ください。
興味のない方には、わかりにくいところもあろうかと思いますし。……それ以外の方、よろしいでしょうか?

2.女の人が男性同士の愛を描くのは、本当に様々な理由がある。――だがたぶん、男の人にはわかるまい。

なぜ、こうもたくさんの女性が、男同士の愛を必死に描いているのか。
その人によって、もちろん理由は違うだろう。
私などには、はかりしれない理由もあるだろう。
しかし、いろいろと読んだり見たりしてくると、いやでも女性ならではの理由がいくつか見えてくる。
その理由をグループにわけて、一つずつ見ていこうと思う。
作家によっては、複合的な理由があると思うが、単純化することによって、問題をはっきりさせたいと思う。

まず一つ目。
恋愛小説の緊張を高めるため、男同士の愛を描くグループ。

今、ロマンスは、ぬるま湯の時代だ。TVドラマは、完全にお笑いの世界に入っている。とにかく、男女の悲恋、なんていっても、時代がかっていて、ぴんとこない。少女小説のふわふわした夢物語はいかにもマンガじみて、それを卒業した女の子達は、読むものがなくて途方に暮れる。
だが、愛し合う二人が両方男だった場合、いろんな古典的な恋愛のパターンが突然命をふきかえしてくる。こんな些細な設定の変更だけで、見慣れたエピソードも刺激的にかわるし、涙をそそる悲恋も、ぴったりくる。
そういう効果を狙った一群が、ある。

男同士の物想いであれば、純愛も美しく書ける。
(「葉隠」は日本の美。たぶん永遠に古びないでしょう)
性の問題に踏み込まず、清潔な恋愛でとどめておいても、読者は満足してくれる。
また、そういう特殊な状況なので、男性に対する単純な憧れを歌っても、はれんちな感じはしない。(むむ。時代錯誤的な言葉を使ってしまった。しかし、女の人が手放しで男の人を誉めるのは、なんとなくはばかられる感じがするでしょう? 慎みがないというか、女の目から見ても厭な感じがすることがある)そんな訳で、むしろ、すっきりした恋愛感情が描けるのである。

男の人の中には、ここらへんを勘違いしている人がいて、男女の恋愛は生々しいので、男同士にして書くんだろう、というけれど、女の人の感情というのは、そんなに純情一本やりではない。清潔な世界の美、としてとらえているとは思うが、別に今更、男女の間は不潔だ、などとおびえている訳ではないのだ。……たぶん。
そうでなければ、あの、おびただしいいかがわしい作品群の説明がつかない。
男同士のいかがわしい恋愛行為を描いた作品は沢山ある。それ自身を目的として書かれた、高いテンションを持つポルノ的な作品が。(わあ、また時代錯誤的な言葉がでてきてしまった。すみません。しかし、こういう場合、アダルトという言葉も使えないし……)

という訳で、二つ目のグループの紹介。
女性の性的な興味を満足させる、という、割ととんでもない理由を持つグループである。
(こんなことをいうと男の人は怒るだろうが、女の人が男同士の愛の世界に走るのは、男の人のせいなんだぞ。)

女の人は、性的な面で、社会的に本当にもの凄く抑圧されている。いや、男性にだけ、にじゃない。女性同士でも、恥ずかしいので、抑圧をする。そういう話をすることさえ、タブーである、という意識がある。

え、おおげさだって?
そんなことはない。これは身近な問題だ。
ちょっと、男性の会話に耳を傾けてみよ。
女性が性的なものに興味を持つと、「Hだ」とかなんとか言って、非難がましいこと言う輩が沢山いる。おもてだって激しく攻撃する輩も沢山いる。
普段は良識も常識も理解もある男性でもだ。

もちろん、慎みは美しい。必要なことだと思う。
だけど待てよ。
男なら、そういう話が許される場面がある。男なら当り前で、女だったら駄目、というのは、おかしい。
もちろん。慎みのある男性も沢山いる。だが、そういう人も応々にして、ステレオタイプの女性観から抜けられない。女の人は、それぞれ一人の人間なのに、すべて純情可憐な少女や聖母と見るか、ものすごくいかがわしい娼婦的な存在と見るか、そのどちらかに振り分けて女性を片付けてしまう人のなんと多いことか。一人の女の人の中に、本当に割り切れない様々な人間的側面があるはずなのに、それが見えない。
女性にも問題も偏見もあるが、この事実には腹が立つ。
これはまさしく抑圧だ、と。

だから、女の人は、自分達女性が性的な犠牲にならない、男同士の恋愛の姿を見たがるのだ、と思う。
面倒なことを考えなくてもいい、自分達が腹をたてなくてもいい、すっきりした世界として。
だから私は、いがわわしかろうともなんだろうとも、こういった作品群にもちゃんと存在価値があるのだ、と思っている。
だが、それはなんという闇か。

三つ目のグループへいこう。
ここは、一見特殊なグループだが、この中には、しっかりとした作品を書くひとが多く、注目したいところだ。
それは、女性同士の恋愛を描きたいのだが、そのままでは問題があるので、男同士の愛に置きかえて書く一群。

女の子には、大切な同性の友人が存在する場合がある。
(ああ、もちろん男の子もいるでしょう、たぶん沢山)
その感情を大切にしたい、と思い、作品にする人がいる。
ここに、経験に裏打ちされた、繊細なロマンスがうまれる。

それを、なぜ、男同士の話にするのか?
それは、今の世の中が、こういう世界に対して、とても冷たいからだ。

これが、一昔前なら、まだよかった。
吉屋信子の世界として書けば、許されたのだ。
つまり、『花物語』の系譜。「おねえさま」の系譜である。
女学校時代特有の、美しい世界として。

吉屋信子をよく知らない、という人は、是非『少女日和』(川崎賢子著/青弓社)をぜひ読んで下さい。この分野では本田和子なんかも面白いけど、なかなか勉強になるので。

ところが今は、そんなのは流行らない。
つまり、やっぱり女の子同士の、というと、所詮おままごとの世界だ、と言われる。未成熟の女性の姿である、とか、男性との葛藤のないイージーな解決の世界だ、ととらえられる。この世界は、男性にも女性にも攻撃される。気持ちが悪い、という偏見も根強くあるし、本当に浮かぶ瀬がない。

それで、男同士の話にして、書く訳だ。
日本には、もともと武士道の世界や、男同士の愛を描く世界があった、という情緒的な歴史がある。それを踏まえて、書く訳だ。
それなら、まあね、といってようやく彼女達は、市民権の半券くらいを手にいれるという訳。

しかしこれも、おかしな話だ。
そう、思いませんか?

だって、女同士の恋愛というのも、本当は大変なんだぞ。恋愛とはなにか、真剣に考えなければいけないんだから。根本と向き合わなければならないんだから。そうでなければ、友情との垣根を越えられない、難しい関係なんだから。
『百合子、ダスヴィダーニャ』(沢部仁美著/文藝春秋)を読んで、私はえらく考えた。湯浅芳子への興味で手にとった本だが、私の考えていた問題に、ぴったりくる答を多く与えてくれた。芳子と百合子。自由で力のある女同士の恋愛なのに、男女の役割を演じなければならないような場面や、さまざまな不幸が描かれていて、はっとした。
まさしく恋愛とは幻想なのだ。
思い違い、すれ違いの世界なのだ、と。

とにかくこのグループには、作品のレベルが高い人が多い。
ロマンスの書き手としてだけでなく、ロマン(小説)の書き手として、かなりの資質を持っている。
それはきっと、江戸時代の風俗小説や、昭和初期までの少女小説の伝統を継承している、ということもあるのだろうが、頑張って欲しい一群である。

うん、そんなところか。
私としては、以上三つが、女の人が男性同士の愛を描く、主だった理由、主な流れだと思っている。意識的にせよ、無意識的にせよ、こういう理由をもって書く知的な女性達がいる。私はそのことを、ずいぶん前から感じていて、いつか理論化したいと思っていた。
これらはなんという不幸か。この歪みに気付いた時、その向こうに見えてくるものが、果してあるのか、と。

ところが私は、最近とんでもない本にめぐりあい、私はまだまだ若い、甘ちゃんだなあ、と痛感させられた。
今までの三つの理由は、やはり未婚女性の世界である。(別に結婚した人が、あれらを書いたり読んだりしてもおかしくはない。しかもどうやら、今や沢山いるらしい)
しかし、既婚女性の不幸を、この世界で描く人がいたのだ。

これはたぶん、四つ目の理由。
女性の不幸をあげつらって悲しんでみても、男の人と息荒く闘っても、あまりにも手ごたえがなく空しいので、キャリアウーマンの悲しみを、男性にも味あわせてみせましょう、というすごいもの。

そのすごい本とは、これ。
『私説三国志/天の華・地の風』(江森備著/光風社出版)。
三国志のパロディ本である。なんと、冷徹怜利の天才軍師である諸葛亮孔明が、男性に庇護的な愛を求める話である。軍師としては歴史に残る程、カリスマ性と美貌に恵まれた彼が、男性の問題だけには弱く、その情と自分の力量に板挟みになって苦悩する物語だ。
これが、とてつもなく面白い。
ルードヴィッヒ二世的な、耽美、かつ硬質の美の世界だ。
作者はどえらく勉強しているらしく、努力でここまで書き上げたんだな、というのが、ひしひしと伝わってきて、その気迫にのまれる。ゆえに、素人ゆえのつたない部分や、納得のいかない部分があっても、すべて許せてしまうような力強い作品となっている。

楽しく読み終えて、しばらく後、おや、と思った。
この孔明君、女の人だったら、よくある話じゃないか、と。(ただし、あの時代に女性軍師が活躍できたかどうかと考えると、やはり男でないと書けない話か、とも思うが……でも、戦乱の世にはいつでも女傑がいるし、三国志にもいるしね……)

そんなことを考えて、ふと、軍師とは何か、という問にぶつかった。
軍師は、戦の先頭をきる軍人ではない。
政治の上に君臨する、王でもない。
誰かにつかえなければ働けない、非力な人間である。
人を思いのままに動かす、王に匹敵する存在なのに、ある意味で影の存在である。

江森さんというひとは、軍師の女性的な不幸、に目をつけたのかもしれない。軍師も、たてる人間がいなければ、何の役にもたたない、という側面がある、というところに。そしてその上、孔明君に、男性によってでないと、性の喜びが得られない、という欠点を、致命的なものとして付け加えた。

これはまさしく、仕事ができる既婚ヘテロセクシャル女性の姿だ。
仕事だけでやっていると半人前に扱われ、家庭も大事にしなけりゃならず、いわれのない差別を受けなければいけない時もあり、旦那に(演技にしろ)かしずかなければならない部分もあり。
そういう苦しみを持った、女の人の姿だ。
なんてこったい。
現代の女性ってのは、ここまで不幸なのか!
畜生! で、オレにどうしろってんだ?

とにかく、女の人が男同士の愛を描き、読みふけるのは、男の人との深い溝やら、女の人同士の無理解や弱さや幻想やらなにやらによるものなのだ。
本当に、目を覆いたくなるような、不幸なのである。

3.こうして見ると、パロディの向こう側にあるものは――。とりあえずここまでやってきた女の人達は、いったいどこまで走っていけるのか。

さて、前章で、男同士の愛を描く女性達とそのとてつもない不幸について書いた訳だが、これらの理由の延長線上に、どうして女の子達はパロディ熱にとりつかれていくのか、どうしてそこから出発していくのか、という理由も見えてくると思う。

簡単にいえば、これはフェミニズムの走りなのだ。

む、こんな、簡単な言葉で片付けてはいけないな。

つまり、女の子達は、自己表現がしたいのである。
いろいろと自己表現の仕方はあるけれど、とにかく小説でもやってみたいのだ。その一歩なのだ。
え。それならみんな、普通の小説を書けって?
無茶いうなよ。
知的な女の子のみんながみんな、そんな才能に溢れかえってるわけじゃなし。
だいたいこの物語世界の崩壊した現代に、何を書けっての?
いいお手本が、ないんだぜ。

私が書ける物語って、なにかしら。恋愛物は今更だし、文学はわけがわかんないし、外国のSFや推理小説は面白いけど、なにかしっくりこないし。アクション小説もいいけど、やっぱりとっつきにくいところもあるしね。まあ、ファンタジーくらいなら、なんとかなるかしらね。いったい、何から勉強したらいいんだろ。こまっちゃうな。

というような状況下に置かれている現代の女の子達は、パロディ熱に走るのだ。
自分達の栄養になりそうなものは、つまらなかろうとなんだろうと、貪欲に取り入れる訳だ。そして、針を棒にしてみることで、物語の作法を身につけるのだ。キャラクターを取入れ、設定を学び、好みの筋を見つけ……
そういう、訳なのである。

これを根拠のないものとお笑いの方は、ヴァージニア・ウルフの評論をご覧あれ。
徹底的な男尊女卑の英文学世界の中で、女性達が新たなものを書くために、先輩の女性達の書いた種々雑多のうもれそうな小説群を、いかにむさぼるように読んだか書いてある。

その彼女らと、パロディ熱の女の子達の姿の、なんと見事に重なって見えること!
驚いたね。
大学でやったフェミニズムと、こんな所で出くわすとは。
えらいこった。

さて、そろそろしめよう。
「男もつらいけど、女もつらいのよ」(矢野顕子)

この言葉の本当の意味を、男の人も女の人もわかりあえる日がくるだろうか。
難しいよな。
だって、この世は、幻想で成り立ってるんだから。
女の人がどこまで走っていけるのか、男の人はそれについていくつもりがあるのか。
それだって疑問だもの。
どうでしょう。
ね?

とりあえずはここまでやってきているみなさんに。
がんばれ!

付記

最近は女性向けの《男同士の恋愛物》はあまり目くじらをたてられなくなった。ゲイ男性から「我々を差別的に見るものである!」と抗議されたり、先輩フェミニスト達から「生身の男の子と恋しなさい(それはまた違う話のような)」と言われる時代を過ぎて、やや落ち着いてきたようだ。そして「女の子が、好みの男性が二種類も出てくるロマンスを読みたがるのは普通のことじゃないの?」とさらりと言い放つ人もぽつぽつ出てきた。時代は変わる。私自身の考えも少しずつ変わっている。いま言えるのは、《男同士の恋愛物》市場は、ここまで拡大してしまった以上絶対に滅びまい、ということだ。そしてそれは、あらゆる意味で決して悪いことではない――と今の私は考えている。(1998.12)

(1992.6脱稿/初出・Narihara Akira編『のんしゃらんと第3号』1992.6)

「打ち捨てられた子供達――ジュブナイルの行末を危倶する」

1.子供番組が、もう駄目かもしれない。

この私が柄にもなく、子供向け特撮風のアクション物を、百枚程で書いてみた事がある。九年前の秋だ。含む所、裏事情もあったのだが、エンタティメント路線の王道のパタンを一度やってみたい、というのが第一の目的だった。
筋は非常に単純にした。ごく普通の男子学生が、宇宙人にとりつかれてしまい、困り果てる、という話。とりついた宇宙人は、お家騒動で母星を追い落とされてきた王子様で、当然のように追っ手がかかっており、とりつかれた学生はそいつらと戦わざるをえなくなる。幾人か追っ手達を片付けた所で、王子はとりあえず力を得、学生に礼を述べてそのまま地球を去る。
たわいのない展開である。それなりに工夫はこらしたが、やはりくだらない話である。
だが、それを書くのは、大変楽しい作業だった。妹が協力してくれ、アイデアを貸してくれたというのもあるが、キャラクターに苦労しなかったから、というのが大きかった。
その頃は、まるでネタに困らなかったのだ。面白い子供番組が毎週沢山放映されており、私はそれらを楽しく見ていた。手に汗握るキャラ同士の台詞の駆け引きや、役者の情熱がほとばしる厚みのあるドラマに、血沸き胸踊った。ひいきの脚本家の小技を楽しみ、物語の盛り上がりに心をときめかした。当時の子供番組は造形のレベルも高く、私の好み系の役者さんやキャラクターや設定がごろごろ豊富に転がっており、小説のモデルは、シリアス向けのものも含めて、そこからいくらでも拾ってこられた。だから、それらのつぎはぎだけで、力のない人間にも、なんとかオリジナルの百枚が書けた。
だが。
今は駄目だ。
書けない。
今の子供番組が、ほぼ、あまりにつまらないからだ。

小さいお子様をお持ちの親御さんであれば、ほぼ間違いなくTVの子供向けヒーロー物、ヒロイン物をごらんになっていると思うが、それ以外の方で、今、子供向けの特撮(アニメでもいい)を見ている大人は、いったいどのくらいいるのだろうか。
数年前までは、たぶん、確実に今より沢山いたと思う。アニメ雑誌や普通の情報誌が特撮の特集をしはじめ、いわゆる《オタク》でない人間が、純粋なお子様向け番組を、それなりに楽しんで見ていたと思う。
例えば十年前、電車の中で、ごく普通の女子高校生が「××って番組で、○○っていうのが、変だけどミョーにカワイイの」と友達としゃべっていたのにでくわして仰天した記憶がある。その「××」とは当時土曜日の夕方にオンエアされていた戦隊シリーズ物のタイトルで、「○○」は仇役の家族の名前だったからだ。
当時は、ははあ、物好きというのは私だけではないんだな、と思った。
だが今は、あの頃は本当に面白かったから、若者達が喜んで見ていても、当然だったよな、と思う。
逆に言うと、そのくらい、現在の子供番組は、ほぼ、どれも貧しい。
主役もカッコ悪けりゃ、仇役もヘナちょこ、脇役もピンボケ。スタッフの熱意が感じられないから当然のように盛り上がらず、いつの間にか終わってた、という感じで、次の番組。
だから、ぜんぜん、面白くない。
私は、とても悲しい。

大人が子供番組を見る必要はないのだから、大人のおまえが悲しんでも仕方があるまい、と言われるかもしれない。たかが子供番組、大部分が少し位つまらなくたって、どうってこともなかろう、くだらないことを気にしやがる、と思う方もいるだろう。これを機会に幼稚な物からは足を洗ってしまいなさい、と忠告してくださる方もいるかもしれない。
しかし、私は悲しいし、大問題だと思うし、できれば足を洗いたくもないのである。

私が子供番組に興味を持ち始めたのは、高校三年の秋だった。
部活がなくなり、夕方早く帰れるようになってTVをつけたら、そこでいくつかの面白い番組に出くわしてしまい、そのままズブズブと泥沼に入っていってしまった。児童文学や絵本の類も、子供の頃はさして興味がなく、大学二年の後半から、専門の関係を少しずつ読み始めてハマった、というとんでもない奴なのである。もちろん、幼い頃にもかなりお世話になってはいたのだが、本気で面白いと思い始めたのは、ハイティーン以降なのである。
つまり私は、懐古趣味の方々や、古い子供番組は素晴らしかった、と叫ぶ方々と、立場が違うのだ。ゆえに、ちょっと肩身が狭い。
アメリカあたりでは、幼い頃早めに子供文化を卒業してしまったために、ハイティーンになってからジュブナイルや絵本に戻ってくる子供が増えているらしいが、日本では、そういう人はひとにぎりの研究家、専門家、もしくは変わり者の類である。私は別に、研究家でもなければそれで食べていくつもりもない、物好きであるつもりもない、ただ、優れたお子様文化のファンであるだけだ。
だから、今のものがつまらないのが、素朴に悲しいのだ。

さて。
個人的な感傷はおいておいて。
何を大問題だと騒ぐのか、だけれども。
それは、子供達が、こんなにつまらないものばかり与えられていて、本当にいいのだろうか?という疑問である。
もちろん、子供は複雑な筋立てなど理解しない。素晴らしい主人公をつくったとしても、その一部しか記憶しない。オンエア後一年たったら、話の細かい部分など、キレイさっぱり忘れてしまうだろう。名作を見て涙したり、感動できたりするのは、ある程度年がいって、社会を自分なりに理解できてからの事になる。
だが、だからといって、適当な話でいいのだろうか?
気の抜けた、つじつまもあわない、みすぼらしい話を見せていていいのか? 気味の悪い、脂の抜けた、つまらない話ばかり見せていていいのだろうか?

エンタティメントの王道である、時代劇と刑事ドラマが廃れて久しい。今でも面白い時代劇はやってるし、刑事物もそれなりの視聴率をとってるよ、と言う方もいるだろうが、一時の勢いは影も形もない(昔の時代劇の素晴らしさについては、橋本治の『完本チャンバラ時代劇講座』を読むと面白いと思う。読者諸君、ぜひ手にとって見られたし)。
実は、子供番組の脚本を書いている人間と、刑事ドラマや時代劇の脚本を書いている人間、またスタッフは、かなり重複している。
物語の組み立て的にはかなり近いものがあるから、さして驚きもしない。だが、この二、三十年、おんなじ画面を撮り続けている監督がいる。おんなじ曲を流し続ける作曲家がいる。そして、お昼のメロドラマと子供向け特撮番組とアニメと火曜サスペンスの脚本家が、全く同じ人間だったりするのである。メロと火サスはこの際どうでもいいが、TVの大衆娯楽担当者の世界は、世代交替という言葉はどこへいったんだ、と思うような、とんでもない有様らしいのだ。
これでは、どんなにすぐれたつくり手であっても、衰える。
才能が、すりきれる。
職人の意地があるから、そこそこのものはできるかもしれないが、所詮、それだけのこと。彼らが死んだら、いったい次の世代の子供達は見るものがあるんかいな、と思うくらいの貧しい状態なのである。
アニメもおんなじで、爆発的なヒットをしている番組の脚本家は四、五人だ。交替で、似たような番組を順繰りに書いている。彼らが消えたら、子供が楽しめる番組はなくなるんではないか、としか思えないくらい、同じ名前しか見ないのは何故だ。新しい名前の人間が書いた話はまず面白くないし、彼らは、あっという間に消えていく。
これは……マズイよ。
老兵は老いるばかり、しかも新人が育ってない。その上、その影響は子供にばかりでなく、当然新しい大人達にも広がりつつある訳で。
子供がつくる子供番組なんて、ない。
これは、生み出す側の大人が、なんとかするしかないのだ。だが、ほとんどの大人がそういうことを気付いていないし、わかっていても、テコいれできるだけの力のある人間も、とても少ない。三流どころの質の低下は、はっきりいって、その上の娯楽の質の低下を招く。
このままじゃ、遠からず、日本の娯楽番組は、クイズ系を残して滅びてしまうんじゃないだろうか?
これは、マズイ。
時代は変わったんだよ、かわりに、いいTVゲームなんかがあるからいいんじゃないの、などと嘘ぶく向きもあるかもしれない。子供向けは採算のとりにくい分野だし、新しい世代は、わざわざ古典的な子供番組なんかにとりくもうとはしないだろうさ、と肩をすくめるかもしれない。
しかし、TVゲームはTVゲームだ。コンピューターは、最初から与えらえる栄養としての物語とは、別種の楽しみだ。物語の王道、人の生き方の基本を行く筈の子供番組が、このまま滅んでしまっては……駄目だ。
そう、思う。

では、なぜ、子供番組は滅びようとしているのだろうか。
子供が、見ないからか?
ファミコンの方が、楽しいから?
それは、違う。
魅力が、薄いからだ。

確かに、今の子供は忙しい。夕方の時間帯は、むしろ年のいった人間のためにある。ファミコンも楽しい。楽しめるものがあるのは否定できない。今の子供は、昔の子供と違うのは確かだ。
だが、本当に子供達は変わったのだろうか?
保育園に行き、子供達の声に耳をすませば、ヒーロー物の歌をあいかわらず歌う子供がいる。新しい番組がはじまれば、すぐにおぼえて新しい歌を歌うのである。
子供達は、決して醒めているのではない。
「××って子供番組で誰が好き?」と尋ねれば、主役の名前をあげ、絵本を指さして微笑む。「どうして好きなの?」と尋ねれば、「カッコイイから」「強いから」「正義の味方だから」などと答える。
つまり、二十年前の子供達と、答は寸分変わらないのだ。
それだけに、私は彼らを気の毒に思う。
可哀相に。
おまえさん達、大人達に見捨てられているんだよ、と。
だから、子供向けの文化は、滅びかけているんだよ、と。
おまえさんが今享受しているものは、ちっともカッコよくないし、つまらないし、つよくて素晴らしいものでもなんでもないんだよ、と。
真面目に見てるおまえさん方は、むしろ損してんだよ、と。
そう、いいたくなってやめる。
あまりにも、空しいので。
彼らの言葉に、ニコニコと相づちをうって、別れる。
本当に、いやな話である。

2.子供達は、昔から見捨てられてはいた。けれど……。

前章の結びは、無用の哀れみだ、と云われるかもしれない。余計なお世話、年寄りの繰り言と云われるかもしれない。昔を美化しすぎている、と云われるかもしれない。そんな文句を云うなら、おまえがつくれ、と云われるかもしれない(こればっかりは耳がイタイ)。
それに、子供文化が、特に成立していない国もあるのだ。大衆文化が充実している場所では、子供文化などなくてもどうって事はない、子供時代の存在というのは現代的な概念で、昔は幼い子供達も労働者として立派な社会人だったのだから、なくても問題なかったのだ、と言い切る研究者もあるくらいだから。
だいたい、子供の文学の中でさえ、子供達はたやすく見捨てられていた。悲惨な孤児の物語は多い。私の好きな『秘密の花園』や『ムーミンパパの思い出』なども、打ち捨てられた子供の物語である。
しかし、それらのほとんどには、最後に救いがなかっただろうか?

私はバーネットの『秘密の花園』が好きだ。子供の時代から大好きで、今でも好きだ。小学校の頃、子供向けリライトだけではあきたらず、新潮文庫の分厚い翻訳を、日曜日を丸々つぶして読みふけった事もしばしばあった。同じバーネットでも、あからさまなお涙頂戴である『小公女』や『小公子』にはほとんど興味がなかったが、『秘密の花園』は、通好みというか、特別に面白かったのだ。
まず、イントロダクションがいい。
陰鬱なイギリスの枯れ野を、一台の馬車がガラガラと走っていく。乗っているのは痩せこけた顔色の悪い小娘で、しかもブスッと黙り込んでいる。
少女の名は、メアリー。
この娘の不機嫌や、貧相な有様には理由がある。
彼女の父親は、インドに赴任するイギリス人の貴族だった。インドのジメジメした気候はメアリーにあわず、幼い彼女は病気ばかりしていた。また、彼女の母は大の社交好きで、メアリーを一切かまいつけなかった。そうして育ったメアリーは、気にいりの乳母しか寄せ付けず、「つむじまがりのメアリー嬢」なとど呼ばれる、癇癪もちの我が侭な少女となった。
だが、彼女の不幸は、それだけにとどまらなかった。彼女の屋敷で、伝染病が発生したのだ。彼女の気に入りの乳母は死に、親達も死んだ。強力な風土病は家中に蔓延し、幸いにしてかからなかった使用人達も、我先に逃げだした。ほったらかしにされていたメアリーが目をさました時には、すでに屋敷は空っぽ。……彼女は、孤児になっていた。
ようやくかけつけてきた知人達は、残された彼女をみて驚いた。打ち捨てられていたゆえに助かったとは、なんという皮肉だろう。あまりの気の毒さに声も出ず、仕方なく、彼女をイギリスの親戚にあずける事に決めるのである。
こりゃあ、かわいそうだ。
これじゃ、普通の物語の主人公のように、元気でニコニコ、はつらつとした美少女でいられる訳がないや。
こうして、メアリーにすっかり感情移入した時点で、馬車は彼女の親戚の家につく。
だが、ここの家も、大層不気味な屋敷である。
まず、主人は、妻を亡くした悲しみから心をわずらってしまって、長期静養旅行中だという。また、部屋数は百を越えるというのに、開けてはならないドアがあると脅かされる。夜中に子供のすすりなきが聞こえてくるらしいという噂もあり、化物屋敷の極めつけみたいな陰気な家だ。
メアリーは長旅の疲れから、早めにベッドに入る。そして、どこからともなく聞こえてくるのは、案の定、悲痛な子供の泣き声であった……。

この、怪談まがいのイントロ。
ツボ、押さえてるでしょ。
引き込まれるんだけでなく、以降の展開に素晴らしく深みを与える伏線になってたりしてて、また、いいんだ。
こんな少女が主人公ではさぞ面白くないだろうと思われるかもしれないが、メアリーはこの荒涼たるイギリスの田舎で、少しずつ変わっていくのである。必要な手助けを得て、ぐんぐん成長する。自然と触れ合って、内にある健やかな生命力を復活させた彼女は、打ち捨てられた廃園を自力でよみがえらせ、情愛の種を蒔き、病んでいた人々を救っていくのだ。
ありがちな成長物語と思うかもしれないが、主人公が天使のような善良な少女でないのがミソで、説得力やリアリズムも充分、その成長のステップや描写の細やかさがため息物なのだ。幕切れもファンタジックな要素があって美しく、何度読んでもうっとりする。
打ち捨てられて、死にかけていたものが、あるきっかけによって息をふきかえす。新しい芽を育て、周囲にも影響を及ぼし、明るく変えてゆき、爽やかなハッピーエンドを迎える。
多少のひねりはあるものの、これが、子供の物語の王道を行く筋立てであろう。
やっぱり子供は、こういうものを読まなきゃいかんぜ。見せられなければいかんよ。
別に、見せた時に、子供が感動しなくてもいいんだ。涙を流さなくてもいいと思うよ。だから、「なんだつまんねえ」とそっぽ向かない限り、お節介でも名作を見せてやれよ。優れた作品を与えてやれよ。いいものは、ありすぎて困ることなんてないんだから。それが絶対、将来の栄養になるのは間違いない。優れたフィクションは事実を越えて、子供にいろんなものを伝える。ハッピーエンドや救いなんて、そうそう有り得ない事かもしれないが、努力すればそれなりの報いがあるんだよ、充実感があるんだよって事を、子供に教えてやんなきゃさ。
それが、物語の、第一の使命だと、私は思う。
だから、大人向きのものはどうあれ、子供達を見捨てないでやってほしいと思う。
これは、切なる、願いである。

3.大人がおままごとしてる時代って、ちょっと悲しくないか?

前章までは子供の話で、「私は関係ないよ」と思う方もいるかもしれないが、子供はいつしか大人になってしまう訳だから、この余波は、着々と私達にも近づいている。
たとえば、一つ気になっているムーヴメントがある。
パロディ同人誌の動きだ。
一時期、社会問題になり、マスコミにも取り上げられ、今でも論じられているパロディ同人誌だが、衰えを見せながらも、全く死に絶えない。
なぜ、それらが存在し、書き続けられているのか、その意義については、以前、『のんしゃらんと』3号で考察した。あれはあながち的外れでもないらしく、フェミニズムの勉強をしても、フィクションの動向を見ても、あの論を引き下げる必要はない、と思っている(そう言えば、最近また、業界ではヤオイやらJUNEやらについて、いささかかますびしいようだ。私には関係ないやね、と思っていたのだが、最近突然、「え、あなたもヤオイでしょうに?」などと言われ、驚いた。身に覚えのないつもりでいたが、言葉の定義は変わるものらしい。なるほど私もヤオイだったのか)。
だが、最近、もう一つ、別のニーズを発見した。
子供達が、若者達が、パロディ同人誌でやっているのは、あれは、小さい時にやりのこした、おままごとが含まれているらしい、と。

パロディ同人誌には、それこそ様々なジャンルがあるらしい。純粋な楽しみで創作する作家は減り、プロの売り込みやスカウトの場でさえあるらしい。だから、その実態をほとんど知らない人間がこんな推論をするのはおこがましいとも思うのだが、ぼんやりその手の本の案内を眺めていると、この本の目的は一体?と思うものがちらほらと見えてきて、気になる。
それ――某さんと某さんの何のへんてつもない日常生活を描いた本、という形のもの。
彼らは買い物にでかけたり、食事をつくったり、愚痴をこぼしたり、仲直りしたり、とにかく平和に暮らしている。そして、いつまでも一緒、いつまでも幸せね、とほのぼのしている。
なんだ、これは?
そこには、とりたててドラマもストーリーもない。ただ、普通の生活が普通に行われているだけだ。日記的な興味もないし、家族ドラマ的な味付けもない。恋愛ドラマと気負っている訳でもないし、結婚生活の良さという話でもないらしい。これ、書いてて何が楽しいんだろうか。読む方も、どこを面白く思うんだろうか。
と考えた次の瞬間、私はうめいた。
「これってもしかして、子供のおままごとのやり直しじゃないの?」

この推測は、すべてのその種の本にはあてはまらないと思う。だが、商業ベースの作品に欠けているビタミンを、こんな形で補っている素人が、確実にいるように思われる。子供は、家族の模倣をして育っていく。ままごとをしながら確認していく。基本的な生活、基本的なふれ合いを、追体験の形で学んでいく。
こんなのは、現実の生活で腐るほどやればいいことで、わざわざフィクションで味わう必要はない筈のものだが、現実で足りない部分だからこそ、フィクションで補わなければならない人間も沢山いる。その欠落が、こんな形で現れているんじゃないだろうか。
典型をさがしもとめ、とりあえず形だけ整っていればいい、という家族が多く現れる病んだ世の中じゃ、これは間違いなくニーズだ、とも思う。
悲しいぜ。

なんだか本当に泣きたくなってきちゃったので、この駄文を閉じる。
それにしても、本当に、これでいいのんかー?

後注

3章あたりの考察は高慢な態度としかいいようがないが、この頃の筆者は、将来自分がパロディ同人誌を出す可能性をまるで考えていない。飛び込んでみないとわからない世界がある、という想像力に全く欠けているのである。
そして、自分が書いているものがパロディである、と胸を張っていられるレベルに到達しているとは、パロディらしきものを書き始めて四年目の今になっても言えないでいる。何事も難しく、突き詰めれば奥の深いものだと思う今日この頃である。(1998.12)

(1994.3脱稿/初出・Narihara Akira編『のんしゃらんと第14号』1994.3)

「同人女性はすごい。」

いわゆるイベント/同人誌即売会というものに出かけるようになってから、一年半ほどになります(自分の店を出し始めてからは一年三ヶ月)。思ったより、いろいろ勉強になります。トラブルの話や悪い噂などよくきいていたので、自分で行ってみるまでは偏見の眼鏡をかけていたのですが、現時点での感想は、そんなに悪いものじゃないな、というのが正直なところです。どんな場所にも心得違いの人がいますし、トラブルもあります。とりあえず私は、あまりヒドイ目には遭っていません。単にラッキーなのかもしれませんが。
で、今一番強く思うのはやはり、《同人女性はすごい》ということです。
だって、凄いですから。

「同人女性はスゴイなあ」と、時々思わず呟いてしまうのですが、妹が《そういう君も同人女性じゃないか。それとも自慢してるのか?》とすかさずツッコミを入れてくれるので、あまり口にしないようにしています。
でも、やっぱり同人女性の皆さんは凄いです。
学校行って、仕事に行って、家のこともこなし、原稿を描いて(書いて)、その上友達づきあいを怠らず、お洒落の手も抜かず、毎月毎月本をつくり、休日には売りに出かけ、同人対象への愛も延々注ぎ続ける彼女達の総エネルギー……半端じゃないです。好きだからこそ出来る業とは言え、寝る時間もうっちゃり、寸暇も惜しんで原稿を書き続ける彼女達の勢いというのは、《命を賭ける・我が身を削る》という表現でしか言い表せない気がします。パワー全開の十代少女から、礼儀正しく常識をわきまえた三十代四十代の有職女性(子持ちの方も多いです)まで、皆それは同じです。趣味などという名で呼べないレベルの熱中ぶりです。もし、男性が同じだけのエネルギーを何かに注ぐとしたら、確実に一生の職業にするか、そうしないまでも確実に金を儲ける手段にするだろう、と思われるほどのものです。
何故そんなにしてまで、とも思うのですが、ある時、三十四歳開業医(自営)という方が一つの答をくれました。
「私、これやんなきゃ、ストレスで死んじゃう」
なるほどなあ、と思いました。
つまり、日常が多忙であればある程、彼女達の同人熱はあがる訳です。それは単に逃げ場というのではありません。レベルの高い本、誠実な姿勢で本をつくっている人は、他の場面でも基本的に、有能でタフで忙しいのです。だからこそ、同人という場での情熱も純粋で、人の心をうつようです。
ちょっと、尊敬。
私もちゃんとやんなきゃ駄目だ、と初心に帰ることしばしばです。倒れてる場合じゃないよ、コツコツやらねばさ、と思います。
やっぱり、同人女性は凄いです。

男性諸氏が、同人女性の悪口をなんだかんだといいたがる気持ちもわからなくないな、と思う時があります。同人じゃなくて、俺達の方を見てくれよってことなのね、と(笑)。でも、そりゃ無理な話だよ、とも思います。それに、あの情熱を生身に全部注がれたら、死にますよ――たぶん。

(1996.12脱稿)

「直感的な、JUNE・やおい・BL」

自分が♂♂系二次創作を人目にさらすようになって八年半。
書きつつ読みつつぼんやり思うのは、やはりJUNEとヤオイとBL(ボーイズラブ)は、ひとまとめにされがちだけれど、実はそれぞれ違うものであろうということです。専門に学術的にやっている方、古くから親しんできている皆さまには、それぞれご意見がおありと存じますが、私には私の視点がある訳で。で、それぞれを俯瞰すると、やはり表現形式としては別の流れの上にあるものなのではないか、と推測する訳です。

●JUNE:一言でいえば「栗本薫一派」(彼女がつくった雑誌の名前なんだから間違いあるまいよ)。なので、漫画より小説の方が大きな流れ。というより御大がある意味「いかにも」小説「らしい」小説を標榜しているので、一般の娯楽小説との境目が一番微妙なジャンル。「私はヤオイとは違う」となぜか力説する柴田よしきの『聖なる黒夜』は、むしろ古典的なJUNE以外のナニモノでもないと私の目には映る。このジャンルが非難されるのは、「レイプから始まる恋愛」を取り扱い、そんなものは存在しないのだから、と一刀両断にされる。だが、レイプを扱うのは別にJUNEだけではない。そして、男性向けのポルノでは「レイプ=征服=その後はいいなり=対象に興味をなくす・どうでもいい」という流れが根本にあることに対して、JUNEのレイプは「非常に強く思っているだけではダメで、愛しているのなら能動的に体当たりしないと手に入らない」なのであり、恋愛における女性の受動性を攻撃に転じて相手を得よ、という主張であることは頭の隅においておくべきではないのか(そう主張する御大自身は実は悲劇的結末を好む訳だが、それは自らを罰する意味であろうということは評論・エッセイのページ収録「『名探偵は精神分析がお好き』を読んで(栗本薫論)」で大昔に書いた)。

●やおい:この言葉の意味はともあれ、発生したところが同人誌即売会であったことを考えれば、基本的には同人用語というべきかと。そういう意味では私の書き物もここに入るが、その性質上、漫画の方が大きな流れ。何故私がこのジャンルに興味をもっているかというと、ここに一番の表現の可能性と自由度を感じているから。1980年代末に登場したカリスマ・尾崎南が、悲恋漫画に男性向けの要素をとりこんで、うまく融合させたことに大きな意義があると思う。つまり単純に二次創作というだけでなく、男性向けエロ表現のパロディにもなっているのだ。二重のパロディ化だ。
彼女が描くと「マーガレット」の刷り数が倍になるという大人気作家だった訳で、今の二十代同人漫画家たちで、尾崎南の名を見たことも聞いたこともないという人は稀なはず。自分たちの好む表現を自由に取捨選択していいのだ(欲望の多様化)、激情はここまで表現してもいいのだ(「女性は常に慎ましく落ち着いて大人たれ」の打破)ということを学んだ若い描き手達が、その後どれぐらい進化したかはそれこそ即売会に行ってみればわかる。現実の♀♀な人たちが、やおいを読んだり描(書)いたりしているという事実は、そこではどんなファンタジーにも可能性があり、たとえば百合的表現も可能で許容されるからだろう。

●ボーイズラブ:歴史的には一番新しく、いろんな要素が混ざっていると思われるが、本当に大雑把に一言でくくると「若い人向けハーレクイン」ではないかと。大昔の少女漫画の一つの流れを汲む、オトメチックハッピーエンド物。漫画小説問わず。おそらく「やおい」愛好派・同人系とは一種相容れない作品群。というか、ターゲットとする年齢層が違うと思われる。若い娘の購買力に目をつけ、商業的に成り立つと知った人たちが始めたものなので、自動的にハーレクイン系になったと思われる。何故ならそういう読み物は大昔から需要があるからだ(その昔、アメリカに子供の図書館がまだなかった頃、若い女の子向けの読み物といったらそれこそハーレクイン以下のものしかなかったという。裏返せば、粗悪なものでもそういう物語は売れたということだ/では男性にはそういう需要はないのかというと、いかにも古典的な美少女物の氾濫を見れば、確実に「ある」)。
ちなみに、BLとはつくものの、BLゲーはまた違う種類のもの。これは単純にギャルゲーの仲間。BLゲーをプレイするプレイヤーのうち、男性が一割ほど占めるという統計があるが、例えば「炎多留」(あまりにも高名なので説明するのもなんだが、この男子攻略ゲームはゲイショップで男性しか買えない)を熱心にプレイする女性もいる訳で、BLゲーを楽しむ彼らの全部がゲイなのでもあるまい。おそらく女性を攻略するのと同じ種類のゲームだからできるのだ。

という訳で「♂♂な関係を描いている」からといってひとくくりにしてしまうと、いろんなものが見失われてしまうと思う訳ですが、皆さま如何。読む方も作り手も、それぞれの事情があるはずですよ(特に商業系の人は「生活のため」なんて切実な理由もあると思う)。

私自身は、「キース本人は大人同士が合意の上ならば同性同士であろうと愛を貫くべきというリベラル派だが、そういう類は二人の寝室が一緒などというのはきいただけで怒り出すだろうから」が現在の基本♂♂観なので(PFページ所収「初夜」)、「怒り出す」人は二次創作のページには入らない方がよいです。まあ最初から入らないと思いますけれども。
というかインセストの方がまずいと思うんだけど、こちらはあまり気にされたことがなくてね……それが気になるのです。

(2004.5改稿/初出・日記『その日のヨタ話』2004.5.23)

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