『終わりのある脱毛体験コース』

「クレさん、お久しぶりです」
「あ、海尾くん、戻ってきたの」
「はい、またお世話になります」
「こちらこそ。よろしくね」
海尾渡くんが郵便局に戻ってきた。
私のような中年下っ端事務員に、すらりと「お世話になります」と言える青年だ、復帰は喜ばしい。
そうだ、そろそろ肌を露出する季節だ。いろいろあって、だいぶさぼっていたけれども、清潔感は大事だから、もう少しきちんとしておこうか……。


毛深いと薄毛、どちらが遺伝的に強く出るかといったら、毛深い、ではないだろうか。母は腕も足もツルツルだが、父は類人猿のようなモジャモジャで、私も妹もそこまでひどくはないが、「ここばかりは母に似たかった」と、いつもぼやいている。顎を一日二回処理しないといけない女性は、そんなに多くはないはずだ。
もちろん、肌が露出しているところをさっと剃ればすむ話なわけだが、たとえば五枚刃の老舗であるジレットの女性版、ヴィーナスエンブレイスの説明書には、さらっと恐ろしいことが書いてある。「剃るのは簡単です。しかし、一度剃ってしまえば一生剃り続けることになります。その覚悟がありますか」――え、たかがカミソリにこんなに脅されなければならないのか? ただしさすがにジレットで、剃り心地は素晴らしい。女神の抱擁というだけはある。耐久性があればもっといい。
除毛クリームは肌に合わない。何種類か試してみたが、肌が傷まないという触れ込みはほぼ嘘だし、使ってもすぐに生えてくるので、カミソリの方がずっとマシだ。


終わりのある脱毛体験コース、というサロンの宣伝文句は嘘だ。
永久に生えてこない体毛などない。
実は二度ほど、サロンで光脱毛を試してみたことがあるが、やはりすぐに生えてくる。
光脱毛とは、次に生えてくるまでのサイクルを、すこし長くできるだけの話なのだ。毛根は人体の中で二番目に早く細胞分裂するという、簡単に根絶できるわけがない。
ただ、単純に剃る回数を減らしたいのであれば、自宅で光脱毛という手がある。二、三万も出せば自宅用が買える。色に反応して毛根を焼いていくので、「ほくろのあるところに使わない(ほくろのない人いる?)」とか、「あればファンデーションで隠してから使え(そんなもの塗ったら機械についちゃうよね)」とか、「日焼けする予定のところには使わない(日焼けする予定じゃないところの脱毛って必要ある?)」とか、なかなか無茶を言ってくる。だが、カミソリで処理したあと、センチ単位で照射をしていけば、しばらくは生えてこなくなる。それを何度か繰り返していけば、目立ちにくくなるし、本数は減らしていける。本数だけなら。
つまり、あるひとつの方法をのぞいて、終わりのある脱毛は、ない。


やめた配達員が郵便局へ戻ってくることは、よくある。
もちろん戻ってこないこともある。私が知る限り、ミュージシャン志望系はお客さんに人気があるが(配達先もファンにできないようでは成功しないそうだ)、夢が叶いそうになるとやめて、誰も戻ってこなかった。
そもそも郵便配達はしんどい。年末年始に学生アルバイトが配達できるぐらいだから、さして体力もいらないだろう、簡単だろうと思ってやってくる人間は、半日で音を上げる。紙の重さをなめてはいけない。それを50CCか90CCのバイクの前後にみっちり乗せて走り続ける。雨の日も風の日も配達はある。雪の日も花粉がひどい時期も配達はある。一番つらいのは夏の暑さだ。新規バイトが配達に慣れる前に夏がきてしまうと、大概はやめてしまう。ヘルメットをかぶったまま、濃い色の制服を着て、直射日光に当たり続けるのだ、身体がもつわけがない。時期によってはいろいろと営業もさせられる。配達しながらそこまでできるか、この給料で、となるのだ。
さて、それでは公務員ですらなくなった郵便局員として、働く意味はなんだろう。
一番よくきく志望理由は、バイクに乗る仕事がしたい、だ。かなり年配の男性でも、四輪の荷物配達より二輪を希望する人が多い。そういう人たちは休みの日もツーリングしていたりする。そんなに乗って飽きないのかとも思うが、彼ら彼女らにとっては、郵便局を一歩出てしまえば、ひとりバイクで動き回れることが、つらさを超えて楽しいのだろう。新聞配達にもそういう人は多いのではないだろうか。夜中でも起きていられる人で、休配日が月に一度しかないという辛さに耐えられるなら、新聞を配達する方が楽かもしれない。少なくとも誤配達や不着があったところで、私信を届けているわけではないので、激しく怒られはすまい。誰かの人生を左右することもないだろう。
バイクはどちらでもいいや、という人が郵便局で働くメリットとしては、まあ元々が親方日の丸なので、比較的休みがとりやすいというのがある。福利厚生もそこそこ手厚い。アルバイトと正規職員の格差はまだまだ大きいが、自分が優秀でありさえすれば、繁忙期以外は定時で帰れるので、共稼ぎ家庭に向いている。妻のかわりに子どものお迎えに行くお父さんもいる、親の介護にかけつける息子もいる。夜勤も拒否しようと思えば大体できるようなので、「こんな仕事のできる人が、どうしてアルバイトを」と思う人もそれなりにはいる。五年以上働くアルバイトは無期雇用を申請できて、大多数が契約を切り替えるが、正社員登用試験はあえて受けない人もそこそこいるのは、転勤があるからだ。せっかく地元で働けているのに、他県に飛ばされてはかなわない。
まあ、私が知っているのは、自分が勤める浜砂市の本局のことだけだ。社員数四桁弱の中規模局、集配部と郵便部がわかれており、私は集配部所属で配達の上っ面しかわからない。貯金や保険のことは、別会社なのでまったくわからない。もっときつい局、もっとのんびりした局もあるだろう。うちは当てはまらないという方は、なにとぞご容赦ください(誰に向かって言ってるんだ?)。
さて、海尾くんはなぜやめていったのだろう。
二親とも公務員でお堅いご家庭に育ったときいている。ああいう挨拶がすらりと出てくるのだからそうなのだろう。だとすると、いつまでバイトでやっているんだと叱られて、別の所に就職しようとしたのかもしれない。一時期、運転代行の仕事もしていたらしいが、酔っ払い相手の仕事は彼には向いていないだろう。それで戻ってきたのかもしれない。
真面目に働いていてもあまり報われないというのはあるだろう。彼は好青年で、仕事の上でも信頼できるし、帰局時間も早い。営業成績をみてもお客さんに嫌われていることも考えられないが、容貌でだいぶ損をしている。顔中ニキビ跡だらけで、地毛だと思うが髪の色も少し薄い。おそらく見てくれで不良と思われている。再訓練の時に指導員に怒鳴られたという話もにわかに信じがたく、要領のいい子でないかもしれないが、態度を見てあげて欲しいと本気で思った。まあもう三十代後半で子どもという年齢ではないが、一回り以上年上の私にとっては「いい子」としか呼びようがない。
先日も、タイムカードを切った後に残っているので、「どうしたの」と様子を見にいったら、同じ地域を担当する班に入ってきた年かさの配達員に、業務用携帯端末の使い方を丁寧に教えていた。彼は感謝して帰っていったが、私は首をかしげた。
「海尾くん、あれは職員さんの仕事じゃないの」
「だって今日は、みんなまだ帰ってきてないし、一人で困ってたから」
「そうかもしれないけど、サービス残業じゃない」
「同じ班なんだし、可哀相だよ。面倒見ないと、辞めちゃうし」
まあ確かに、郵便の配達員の仕事は昔とはだいぶ違っていて、私がこの局にきた頃は、アルバイトは六時間勤務で通常郵便のみの配達、書留配達はぜんぶ正職員の仕事だった。今はアルバイトも八時間勤務で、書留どころかすべてをやらされる。だいたい一ヶ月で端末の入力作業まで覚えないといけない。さもないと「あいつは無能だ」と仕事をまかされなくなる。そりゃイジメだろうと思うが、そのうち一定量以上の作業をこなせないアルバイトは自動的にクビになる時がくる。いくらそういう時代とはいえ、あの月給でどれだけ働かせようとしてるんだ。一ヶ月勤めてみて、あまりの給料の安さにびっくりして辞めていった人もいるんだぞ。
「そういうクレさんこそ、帰らなくていいの」
「うん、そろそろ帰るよ」
「クレさんって、日向原の方に住んでるんだっけ?」
「違うよ。どうして」
「この間、昼間、日向原を自転車で走ってるのをみかけたから」
あー。
地元の郵便局で働いていて一番怖いのがこれだ。いつもと違うところを歩いていると即座に捕捉される。友達と遊びに行くのも、お墓参りも、うかうか行かれない。どうしてあんなところを、と訊かれる。困ることは、あまりないけど。
「私もトシがトシだからね、市民病院で定期検診を受けてきたの」
「どこか悪いところがあるの」
「ないよ別に」
「ならいいけど」
「うん。ねえ、私も帰るから、海尾くんももう帰ろう。また明日ね」
「また明日。お疲れ様です」
うん、ね、いい子だよね?


「呉さん、髪、自分で染めたんですか」
事務席の後輩から、さっそくチェックが入った。
「うん。私、近所の千円カットで髪を切ってるから。そこはシャンプーもしないし、染めてもくれないからね」
「え、千円カットで、そんなに可愛く切ってくれるんですか」
「うん。腕のいい人はすぐいなくなっちゃうし、そもそも切る人を指名できないけど、千円プラス消費税で、私のくせっ毛をここまできちんとしてくれるなら、おつりが来ると思って」
「どこのお店ですか」
「こゆるぎ坂通りの教会の隣。ただ、夕方五時でしまっちゃうし、日曜日が休みだから、病院と同じで平日の非番の日じゃないと行けない」
「じゃあ、私が行くの、難しいかな。髪、すごく綺麗に色が入ってますよ」
「ほんと? うれしい。泡カラーの一番濃いので染めてるんだ。うまくいかないこともあるけど、今回は成功したのかな」
「してますしてます」
「私、二十五ぐらいから白髪が目立ち始めてメッシュみたいになってるから、定期的に染めてるんだけど、プロに染めてもらうの、やっぱり高いからさ」
「お家でそれだけ染まれば十分ですよ」
「ありがとう」
美容室の雑誌で、異性にモテるためのメイク特集をみかけるたび、メイクって基本的に、男のためにするもんじゃないよ、と思っている。私みたいに女として終わってるおばさんが化粧をするのは、女性の同僚の目を意識せざるをえないからだ。
就職して、社会人として最低限のメイクをするようになったが、チェックを入れてくるのは、ほぼほぼ女性である。男性は私がメイクしようしまいが、ほとんど気にしない。まれに口紅の色が変わったことに気がつく男性がいたりして、指摘されてびっくりする。まあ親ぐらいの年齢の人だ、娘のようだと思って見られることもあるんだろうなとは思う。
髪の色は気にするが、ハゲることについては、若い頃からほとんど心配していなかった。重大な病気にかかったところで、今はずいぶんいいカツラがある。私は帽子も好きなので、かぶってしまえばわかるまい。だが、白髪が許容される年齢になりつつあるとはいっても、茶色い髪は似合わないので、二ヶ月にいっぺんは黒く染めるようにしている。そういう時にすかさずチェックしてくるのは、やはり同僚なり後輩なりだ。
私は計画事務という内務のアルバイトで、窓口業務とは無縁なので制服が支給されず、かわりに支給される作業用エプロンをつけて、ジーンズ姿で毎日走り回っている。外から持ち込まれる砂ぼこり、郵便物からでる紙ぼこりでとにかく汚れるし、物が多くて足下も危ない職場なので、デニムを履いて叱られることはない。私以外の内務女性も、ほぼパンツ姿かロングスカートだ。そんなわけで、お洒落をしても意味がないと思うのだが、出がけにバタバタしていて仕上げの粉をはたくのを忘れていったりすると、隣席の同僚が気づいて厭な顔をする。何か言いかけると、言い訳は聞きたくないとばかりに遮られる。知らんふりしてくれればいいのに。
私は席を立った。
「そろそろ午後の切手交付、取りに行ってきます」
「いってらっしゃい」
計画事務というのは他業種ではあまり聞き慣れない言葉だと思うが、簡単にいうと、総務部の下請けのなんでも屋である。各種データの交付、点検、資料作成、給与計算、備品整備、電話対応、普通の事務員がやる仕事のほとんどを、各自分担してやっていると思ってくれたらいい。配達担当者が外で売ってくる、切手や印紙やその他販売品は、当日に総務から交付される。その内容を再確認して配達フロアへもってくるのは、私のルーティンの一つである。基本は朝の仕事で、配達に出る前の配達員を一人一人つかまえて渡す。忙しい時間帯の中、なかなか大変な作業なのだが、今日は午後も思ったより量があった。総務から受け取ったものを抱えて、エレベーター前で難儀していると、
「押すよ」
海尾くんが通りかかって、ボタンを押してくれた。
「持つよ、それも」
「ありがとう、でもいいよ。海尾くん、まだ昼休み中でしょ」
「どうせ、集配まで降りるし」
「じゃあ、台車の方を押してもらっていい?」
「いいけど、そっちは重くないの」
「渡すと落としちゃいそうで。台車に乗せると滑り落ちちゃうし、お客様へのお届け物を落とすわけにいかないし」
「そうだけど、腕に力が入らないんじゃないの。この間、班日誌、取り落としてたよね」
「まあ、五十肩だからね。うっかりするとそうなる。けど日誌は床に落としても、拾って拭けばいいだけだから」
「前に左手の指を骨折してなかったっけ?」
「それは大分前だし、もう治ってるから」
「治ってても痛いんじゃ」
「それはあるけど、大丈夫」
「あんまり無理しないでよ。それでこの台車は、どこへもっていけばいいの」
「エレベーター降りたら、またもらうね。すぐそこの班に渡すやつだから」
「わかった」
うん、本当にいい子だなあ。
私は自分の腕をちらりと見た。今は脱毛器の効果が出ていて、まあまあ綺麗になっている。
こういう子だから、私がどれだけボーボーにしていようが気にしないだろうとは思うが、メイクと違って毛の処理は、男性にもみられている気がする。そろそろ腕を露出する季節も終わりで、袖まくりをする可能性はあるにしても、そろそろ脱毛も終わっていいのかもしれない。真面目にやるなら冬の時期に仕上げた方がいいが、どのみち生えてくるのだ。今のところは。


年末繁忙期に新しいシフトができた。年賀状などの携行販売品を持って戻ってくる配達員に対応するために、上司の一人が夕方に勤務時間をずらした。もともと正職員の仕事なのにバイトの私たちにやらせることにしたのだ。それで交代で夕方勤務をやることになったが、これがすこぶる不評で、これが原因で新婚の後輩が一人辞めた。「これでは夫に夕食もつくれないんですが」という。とても優秀な人だったので、みんな困った。シフトをつくった上司の人気はガタ落ちした。私はこの年までずっと独身だが、私以外の女性アルバイトは全員既婚者なので、辞めないまでもみんな怒っている。中途半端な時間帯のシフトなので、出勤前に用事を片付けることもできず、私もイライラしている。
ただ、天気の悪い日はみんな、濡れるのを恐れて販売品を持ち出さない。受け取りや点検作業がほとんどなければ、夕方は暇になる。灯油ストーブをいくつか用意して、濡れた服を乾かせるようにしておけば、あとはゆっくり自分の仕事をしていればいい。とはいえ今日はひどく寒く、年内だというのに、めずらしく雪まで降ってきた。配達の人たちは大変だ。私も自転車通勤なので、はやく帰りたいという気持ちはあるが、バイク乗り御用達の、ワークマンのイージスプロの上下をロッカーにつるしてあるので、それを着てレインブーツで帰れば、短時間なら大丈夫だ。雪が積もって歩道と車道の区別がつかないほどになっても、平らな土地の多い浜砂の人たちは自転車で走りまわる。私もその一人だ。
「ふう」
海尾くんが帰ってきた。濡れた物の始末をして、私の席へ寄ってくる。
「今日は手袋もなんの意味もないよ。端末ケースまでぜんぶ濡れちゃった」
「お疲れ様。端末は無事なの」
「大丈夫。みてよ、手も真っ赤。冷たい」
海尾くんの手が、私の目の前に差し出された。
それは、触って冷たさを確かめろ、という出し方だった。
私は一瞬迷った。
今、フロアにはちょうど、誰もいない。
握って暖めてあげてもよかった。
しかし、私はいつものように、手が汚れていた。
私は掌を裏返し、曲げた人差し指で、ちょんと彼の手の甲をつついた。
「ほんとだね。冷たい」
すると海尾くんは顔を背けて、
「ねえ。端末の方が大事なの。俺の手はかわいそうじゃないの」
「え、そういうわけじゃ。でも今、手が汚れてて」
「いいよ。わかった」
海尾くんは席からすうっと離れて、そのままフロアを出ていった。
待って。
彼にはそういうつもりがあったの?
私が気づいてなかっただけ?
いや、気づいてたとしても、何もできなかったけども。
だって、私は……。


「呉さん、あれから生理は来ましたか」
私の執刀担当医が、定期検診の電子カルテを見ながら尋ねてきたので、私は驚いた。
「えっ、今、薬でとめてるんじゃないんですか」
「生理をとめるのはニュープリンの方で、呉さんは前回の注射が最後で、半年たちましたので、そろそろ来てもおかしくはないです」
「いや、来てません。タモキシフェンを飲み続けてるから来ないものだと思ってましたが、また来る可能性があるんですか」
「まあ、年齢的に、そろそろ閉経してもおかしくはないのですが、呉さんの場合は手術前はきちんと来ていたということですから」
嘘でしょう。
もう、女は終了したと思ってたのに、また来る可能性があるの?
まあ生理が来たとしても、この身体を個人的に人目にさらす気もないのだけども。
五年前に左胸にがんが発生した。違和感があって近所の産婦人科医に検診してもらったが、「この盛り上がりは大胸筋でしょう」といわれた。それで半年ほど放置していたら、そこが小さくポコンとへこんだ。大胸筋がへこむことはありえないので、急いでもう一度産婦人科へ行くと、老医師は顔色を変えて、市民病院への紹介状を書いてくれた。それから検査に次ぐ検査、有給までとって何日もかけて確認したところ、おそらくはステージUで、左胸は全摘と言われた。抗がん剤のきくタイプの癌ではないので、手術後はホルモン治療になるでしょうと。判明した翌月に入院して手術、患部は無事取りきれたし、再検査の結果、やはり抗がん剤は必要なしとなったが、再発防止のために、女性ホルモンをコントロールする薬を二種類使うと言われた。女性ホルモンががん細胞と結びついて、他へ運ばれて転移することを防ぐためだ。抗がん剤を使わずにすんだのはよかった。髪が急に抜けたり、しょっちゅう休むようになったら、職場で悪目立ちしてしまう。がんの場所が場所なので、同僚にも全員には伝えておらず、上司には書面で病状を説明したが、難しくて理解してもらえなかったようだ。「しばらく見なかったけど、どうしたの」と訊いてくる人には「ちょっと悪い物ができて、とってきました」と嘘でない範囲でごまかした。
左胸はなく、ただ縫い合わせた痕だけが残り、生理もこないとなれば、まあこれは女として終了、と考えていいだろうと思っていた。男になりたいと思ったことはないが、女らしくありたい、とか、子どもを持ちたい、とか、あまり考えたこともなかったので、それはそれでよかった。
むしろ独身でよかったなと思ったりもする。一度銭湯に行ってみたが、私をジロジロ見る人もおらず、他人が気にしないなら、私が何かを気にする必要はなかった。切ったところが、ただ痛いだけだ。成人女性の十人に一人は乳がんにかかるという、何もしらずに患者同士で笑いあっている可能性も高い。人に言いにくい箇所だからだ。薬で人工的に更年期障害を起こしているので、身体は楽ではないが、この年齢なら人工的に起こさなくても、同じ症状が出ていたろう。
がん細胞は高速で増殖するので、抗がん剤は増殖する細胞を狙って攻撃するようになっている。毛根は二番目に増殖が早いので、抗がん剤はそれも狙って攻撃し、結果、髪も抜けてしまう。それを防ぐために、頭部を冷却しながら抗がん剤を使用する方法もあるらしいが、まあ、ここまで効果的な脱毛方法はあるまい。
ただ、今のところは無事だが、万が一再発し、気づくのが遅れたら、ついに、毛なんて二度と生えてこない状態がやってくる。
そちらの方が大問題だ。
なのに、今さら、女に戻れるよ、と言われても。


海尾くんにはバレンタインの日にチョコを渡したが、簡単に礼をいわれただけで、特にお返しなどはなかった。
私も応じて欲しいわけではなく、ただ、あの雪の日のあの瞬間をすまなく思っているということが伝わったら、と思ったのだが、たとえ手が汚れていたとしても、とっさに触れることができなかったというのが、私の生理的な答えだ。何も伝わらない方が、むしろいいのだろう。


彼は今でも黙々と配達していて、私への態度も特に変わらない。
この好青年の今後を、私の人生に巻き込む必要はないだろう。


だから、これで、いいのだ。


(2022.11脱稿/初出・オカワダアキナ主催アンソロジー『終わりのある脱毛体験コース』2022.11発行)

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