『FAR FROM THE MADDING CLOUD 〜遥か狂気の群れを離れて』

1.

インターフォンを押しても応答がない。
故障の可能性もあるから、ドアを何度も叩いてみる。
「キース、いないのか」
「そんなに激しいノックをするな。人目にたつ」
本人の声で返事があったので、バーンはほっとした。
彼も人目にたちたい訳ではない。秘密の話をしたいからこそ、こんな遅い時間にノア総帥の私室を訪ねてきたのだ。中からロックされていて、暗唱番号を押しても扉が開かない。
「入ってもいいか」
「何の用だ。明日の朝では駄目なのか」
総帥口調を崩さない。周囲に誰かいることを警戒しているらしい。しかし、誰もいないからこそ、こうして来たのだ。今がチャンスなのだ。
「二人っきりで話したいんだ。キースは朝からいろいろ忙しいじゃないか。それとも誰か中にいるのか。邪魔なら戻るが……」
「そうじゃない。わかった。入れ」
ドアが開いた。
部屋の中は少々薄暗かった。バーンは中に入りながら照明のスイッチを探し、なにげなく光の量を上げてしまった。
そして気付いた。
明りはわざと落とされていたのだと。
「キース、おまえ」
はっきりそう悟れるほど、彼の顔は真っ青だった。これは他人に見られたくないだろう。黒の薄いタンクトップ一枚でソファに沈み込んでいる姿は、いかにも大儀そうである。
「もしかして、具合い悪くて寝てたのか」
キースは軽く首を振った。
「たいしたことはない。それより、急ぎの用ならすぐに話してくれ」
「あ、いや、別に急ぎというんじゃ」
この堅苦しい口調は、明らかに彼の身体の不調のせいだ。バーンがひきかけると、キースは眉をひそめて、
「急ぎでもないのに来たのか」
「いや、そうじゃなくて、その」
「まあいい。幸い今日は、他の客もきていない。座ってゆっくり話をしろ」
バーンはしかたなく、キースの向いに座った。こんな状態の相手に話せることではないので、しきりにもじもじする。
「どうした?」
「俺、実は……」
ノアを抜けたい。
親元へ、もしくはコロラドへ帰りたい。
もう半年もいたんだ、充分だろうと。
キースのやっていることの趣旨は理解した、基本的に間違っているとは思わない。改めてあてがわれた新米サイキッカーの世話をする仕事も、別に嫌じゃない。
だが、この場所は自分にはあわない。
裏切ろうというのではない、遠くから外から応援することはやぶさかでない。ここにいる連中もいい奴が多いと思う。だが、居心地はよくない。キースと一緒にいられる時間もよくとれない。だいたいこういう組織の中で、自分に出来ることはあまりないから――。
そういいかけた時。
「うっ」
いきなりキースが口元を押さえた。
バーンから顔を背け、立ち上がろうとしてよろけ、ソファの上に倒れ伏した。
「キース!」
黒革のソファの上に、どろりと赤いものが広がっていた。
口の中のものを吐き出した彼は、まだ喉に何かつまったような掠れ声でバーンを制した。
「誰も呼ぶな。大丈夫だ」
「誰も呼ぶなっていったって」
「これは病気じゃない。医者の直せるものじゃない。出してしまえばおさまるんだ、騒ぐな」
キースはなんとか立ち上がると、手近にあったタオルを引き寄せて血の海をぬぐった。汚れてしまった服を脱ぎかけて、また倒れる。
「おい!」
かけよって抱き起こしたバーンの、掌が腕が胸が血に濡れた。
「大丈夫なんかじゃないじゃないか」
「平気だと言ったろう。騒ぐならシャワーの所まで連れていけ」
しかたなく、バーンは彼を抱えて移動した。
キースは汚れた服をやっと脱ぎ、洗面台で顔を洗った。口をゆすぎ、青い顔をタオルで押さえる。まだ息が荒い。
「内臓やられてるんだろ。医者が好きじゃないのはわかるが、みてもらえよ」
キースは医者が嫌いだ。白衣の人間に身体をいじられると、超能力研究所に捕まって電気ショックを受けた頃を思い出すらしい。そんなようなことをぽつりと呟いた事がある。
「医者が厭だから呼ばないんじゃない」
キースは白いローブをとって肌に羽織り、先にシャワー室を出ていく。
バーンが慌てて後を追う。
彼はソファに戻りかけたが、血の匂いが残っているのに顔をしかめ、ベッドへ向かった。
「これは医者に直せるものじゃないんだ」
背を向けたまま呟く。
「身体の疾患は日によって違う場所に出る。やられてるのは神経の方だからだ。だが、精神安定剤をのんでも症状は抑えきれない。医者の手におえない患者なんだよ、僕は」
精神の痛みが、身体の内部に傷をつけるということ。
よくある話だ。
原因はおそらく過負荷だ。ノア総帥としての責任と悩み、忙しさと疲れが彼を深く蝕んでいるのだろう。いくら明晰な頭脳とカリスマ性があろうとも、若く体力があろうとも、一人で負いきれないことも多いだろう。
キースはベッドに腰掛け、ようやくバーンに顔を向けた。
「心配させてすまなかった。君の話をきくよ。椅子は適当に選んでくれ。僕はここで失礼する」
無理につくろった微笑。
誰も見ていなければ、ベッドへ崩れ落ちてしまいそうなはかなさ。
なんだか急に痩せたようにも見える。難しいことが続いて食事もろくにとっていないのだろう。バーンはきゅっと胸が詰まって、
「俺の話なんてどうでもいい」
キースをベッドへ押し伏せた。上掛けを肩へ巻くようにして、
「休まなきゃ駄目だ。今日だけじゃない、長い休みをとらなきゃ駄目だ。このままじゃおまえ、死んじまうぞ」
「駄目だ。ノアにいる間は休めない。ノアを離れることもできない。死がどんなに迫っても、僕は自分の仕事を続けなければならない」
キースは薄笑いを浮かべて、
「ノアが本当に僕を必要としているかどうかは、わからないけどね」
「おまえ……」
バーンの腕の下には、巨大な暗い穴がぽっかりと開いていた。
自分が何者なのかわからない、自分のやっていることの成果もわからないまま、辛い仕事を続ける者の虚しさ。
ただ、こういう人間にとっては仕事をやめることも破滅への道なのだ。自分の存在理由がわからなくなってしまう。倒れても破滅することには違いないだが、それでも必要としてくれる者がいるなら、それでいいという心理だ。
しかも今のキースの状態は最悪中の最悪、日々押し寄せるものに心をすり減らし、仲間の言葉も耳に入らない自暴自棄の時期に入っている。一刻も早く適切な手当てが必要だ。バーンは、友人の上にそっと身を傾けた。
「キース。おまえを、さらってもいいか」
「さらう?」
キースの口唇が皮肉に歪んだ。
「同情か? そんなことができると本当に思ってるのか」
「ああ。おまえが無茶を続ける気なら、力づくでも」
「君の方がよっぽど無茶だ」
彼がノアから姿を消せば、まずウォンが追っ手をかけるだろう。下手をしたらバーンなど殺されてしまうかもしれない。
「無茶なもんか。とにかく、おまえが明日から仕事を減らして休む時間を増やすって言わなけりゃ、今すぐこっから連れ出すぜ」
バーンは本気だった。キースは首をすくめて呟いた。
「わかった。休息はとる。だから、無謀な計画を立てるのはやめてくれ」
本当はキースは仕事をもっと増やしたいぐらいだった。忙しくしていれば気もまぎれる。内臓の痛みなど、動きまわるのにさしさわりなければ我慢できてしまえる。そのキースの思いを読み取ったかのようにバーンは畳みかける。
「本当は、今すぐおまえを休ませてやりたいんだ。でも、無理なら無理でやりようがあるだろ? だから……」
「ああ。わかったから」
「ならいいが……今日はすぐに眠れよ、キース」
バーンはぽんぽんと上掛けを叩き、立ち上がって部屋を出ていった。
しばらく後、キースは身を起こし、机に戻ってやりかけのデータチェックを始めた。
「仕事なんて減らしても変わりはしないんだよ、バーン」
キースの不調は、実はウォンとの関係が不安定になっているのが最大の理由だった。
例の増幅装置の改変の一件から、ウォンのサポートが減った。昼間はともかく、夜は決してキースの前に現れない。だから仕事の半分は一人でやることになる。それからまた、決して触れてこない。
かつてウォンの腕の中で眠るひとときは、キースにとってこの上ない安らぎをもたらした。だから昼間どんなに大変なことがあっても、夜には忘れることができた。困難な事も、一時忘れることができれば、解決策も案外浮かぶものだ。
しかし、今は。
彼は煮詰まるだけ煮詰まっていた。仕事がうまくゆかない上にウォンが何を考えているかわからない、という不安がかぶさる。一番身近な相手との関係が不透明になる時、人は大きなダメージを受ける。キースが血を吐いても無理はない。
ウォンは、夜な夜な総帥が倒れていることすら知らないのだ。
そう、あの顔はおそらく気付いていない。
「やさしいくせに……」
昼のウォンは今でもやさしい。物柔らかに微笑んでいつものように如才ない。
顔色が悪いですよ、ここは私がやりますから少しお休みくださいと気遣ってもくれる。
だが、手のひらをかえしたように冷たいとか、きっぱり裏切られた方がずっとましだと思う。
二人の間に何もなかったような顔をされるより。
あれは全部嘘だったのだろうか。
叱責ひとつで簡単に失われてしまうようなことだったのか。
甘いキスで私の身体をそっと開き、奥底までたずねて灼熱の想いを流し込む。洩れる吐息が愛しいと繰り返し、ぎゅっと息がつまるほど抱きしめてくる。激情にまかせて乱暴したり、恥ずかしいことを強要したりはしない。が、時折思いつめた瞳でこの胸を射ぬく。大きな身体で包みこむようにしながら、皮膚を喰いやぶる勢いで喉に噛みつく、鳥肌のたつうなじを吸う。口唇は胸をつたって喜びの中心を絞りあげる。耳に歯をあてられ、手指ものまれて文字どおり食べられてしまう気がする。熱い掌にさぐられて身体の芯も理性も溶け、舌をあわせ腕を回し堅くひとつに絡みあうと、陶然として二度と離れたくないと思い、夜明けが近づくのがひどく辛くなって――。
私は強く愛されていたのではないのか。
それとも、その愛はもう終わってしまったのだろうか。
人に触れられることの恐怖を癒してくれたのは、他でもないウォンなのに。
記憶の底に封印してしまいたいほど、過酷でずさんだった研究所の人体実験。
白衣の男達に押えつけられ、上と下に電極を突っ込まれ、ショックで失神するまでなぶられた。気がつくとさらに屈辱的な行為を強いられた。残る傷さえつけなければどんな淫らなことをしてもいいとばかりに、数人がかりで身体を折りまげられ、四つんばいにされ指を這わされ引き裂かれるようにして……十五の彼にはろくな抵抗もできなかった。超能力が自由に発動するようになってからは、攻撃を恐れたのかそんなことも少なくなったが、薬をつかって意識を失わせて悪戯する者もいた。
そんな忌まわしい記憶が、ウォンの腕の中では不思議に薄れていった。
真摯で誠実な愛撫がかつてさんざん弄ばれた若い肢体を癒したのだろう。身を寄せあう行為をキースは愛の証として喜べるようになっていた。大人の腕に抱きとられるのを心待ちにする日さえあった。夜中何度でも愛されたくて、潤んだ瞳で欲しがった。
「ああ」
そういえば、いつも先に触れてくるのはウォンだ。
そうか、彼が取り澄ましていても、自分から欲しがったらどうだろう。昼間からちょっと袖をひいて、今晩抱いてくれと囁けば。
「できるか、そんなこと」
思うだけで頬が染まる。身がこわばる。
なにせ愛撫がきつい時に、イヤの一言さえ言えないのだ。かえって誘ってしまう気がして、されるまま口唇を噛んで堪えてしまう。様子をみてウォンが加減をしてくれるから、今まで乱れ狂わずにすんでいただけのことだ。
それに。
「ウォンが、僕のことをまだ愛しているとは限らない……」
欲しがったりして、驚かれたら? いや、嘲笑されたら?
それは二度と抱いてもらえないかもしれないと思うよりこたえた。
応々にして、先に行為をなしてしまうと肝心な台詞が出なくなってしまう。今更尋ねるのも恥ずかしいというだけでない、怖くなってしまうのだ。暗黙の了解だと思っていた部分が違っていたらどうする? それに、毎日顔をあわせていても、気持ちの変化をとめることはできない。ウォンがもう自分に飽き、うわべだけのつながりになろうとしているのかもしれない。それを否定する材料がどこにある? またこんな風に間遠になって、しかも他の恋人の影もないのだ、ただ自分が遠ざけられているだけなんじゃないか。
惨めだ。
渇きはいやおうなしに増した。
ウォンに激しく求められた記憶は、虚ろな身体を満たして焼く。
空白の時間は長すぎて――。
「いいじゃないか。抱かれる前に戻っただけ、ただそれだけのことだ」
道理を呟いて、無理に不安を押し殺す。
まさかウォンに、再びこの手で焦らされているとはキースは夢にも思わなかった。自分の愛が幼いものなだけに、相手の手管がはかりきれないのだ。向こうが知らん顔をしているなら、こちらも知らん顔で忘れてしまえばいい、と単純に割り切ろうとしていた。身も心も欲しいという気持ちをだまし、取り戻したくてたまらない心を偽って。
「うっ」
胸をつきあげたのは新たな血だった。机上を汚さぬよう、口元を押さえてキースは水場へ走った。
吐けるだけのものを吐いてから口腔内を清める。
ハァハァと洗面台に手をついてしばらく痛みをこらえていると、ぽたんと新たな滴が落ちた。続けてそれは、頬を顎ををつたって落ちてゆく。
言えばいいんだ。欲しいって。
すがればいいんだ、抱いてくれって。
きけばいいんだ、まだ愛しているかって。
大人のふりなんてしなくていい。みっともなくたっていいじゃないか。
「できない……できないよ……」
怖い。
こんなこと、誰にも相談できない。だから誰も助けてくれない。
多くのサイキッカーを慰めることができても、僕は自分のことは何もできないのだ。なにかを決めることすらできないのだ。
思考がぐるぐるとめぐるうち、本当にウォンが欲しいのかもよくわからなくなってきた。
どうして最初に口唇を奪われた時、少しでも拒まなかったのか。どうして誘われるままにウォンの腕の中に落ちたんだろう。彼を好きだったのか? それともうまくあやされて気持ちが良かっただけなのか? 寂しくて温もりが欲しかっただけなのか? 貴方が好きです、と囁かれて胸が熱くなった時、どうして私も好きだと嘘でも応えなかった? 青ざめた顔で戻ってきた時、どうして身体ごと許さなかった? 戻ってきれくれて嬉しいと飛びついて、口吻のひとつもしなかった?
私はどうすればいい?
キースはがくんと床のタイルに崩れ落ち、仰向けになって笑いだした。
「はは……ははは……似合わない……こんなことで悩むなんて」
キースは涙で濡れた頬を半分タイルに押しつけた。低く笑ったまま、冷たい床の上で目を閉じ、そこで眠ってしまった。
「ウォン」
眠りながら呟いたその声を、今日もウォンは聴かなかった。知っていてもとんではこないが、本当に聞いていなかった。
ウォンの胸の情炎は別の色で激しく燃えさかっていたからだ。
離れ触れないことでキースの想いを募らせ、彼の方から自分の胸に飛び込んでくるのを辛い想いで待っていたのだ。
キースはそれを、まるで知らない。

2.

「ああ…っと」
「珍しいですね、あなたが医局にいるなんて」
「そうかな」
軽く流して通りすぎようとしたが、バーンの目は一瞬泳いだ。顔を背けそこなったような妙な笑いを浮かべる。
「まあ、俺だって健康診断ぐらい受けるさ」
ウォンは首を傾げた。
「それはそうかもしれませんが、もしかして定期チェックの時期ですか?」
「あ……うん」
そんな筈はない。バーンはノアへ来てから何度かすませている筈だ。大怪我や大病でもしたならともかく、そんなに頻繁に医局から呼び出される訳がない。すすんで来たい所でもない。最近のバーンの仕事は新しく受け入れたサイキッカーの簡単な世話だが、それで危険な目に遭ったという報告もきいていない。顔色も健康そのものである。
「なんでえ。じゃあ、おまえは何しにきたんだよ。なんか用でもあんのか」
しかも、この乱暴な挑むようなこの言い方。
妙だ。
こんな風ににらまれる憶えはない。
なりゆきで一度抱いたことはあるが、それきりどうということもない。一緒にいる時間が減ったのでよそよそしくなったぐらいだ。この青年はそういうタイプの人間なのだ。同情心は厚いが、さっぱりとしてこだわりがない。だから肌をあわせても、ウォンに対して特別甘えるようになったり見下したりしないのだ。秘密を握って脅迫するなどは論外、後くされのまったくない、逆にいえば執着してくれない物足りない相手とも言える。
それが今日はつっかかってくる。なにやら様子も変だ。
ウォンはあえて落ちついた声を出した。
「私は常に、他のサイキッカーの状態を把握していなければならないのです。身体的に不調な者、能力や人格が暴走する可能性のある者、反対に常に力の好調な者を知らなければ、いざという時に外部と戦えません」
「把握だって」
バーンはいきなりウォンの袖を強くひいて、ひと気のない片隅へひっぱりこんだ。
「おまえ、一番肝心な男を忘れてないか?」
「ああ」
ウォンはやっと腑に落ちた。
キースの顔色がよくない、といいたいのだろう。
たしかに彼の体調はすぐれないようだ、昼間でも青ざめている時がある。
ときどき思いあまったような視線を投げて、助けてくれと瞳で訴えていることさえ。
バーンは真剣な顔で、
「あいつ、俺がちゃんと休みをとれって言ってんのにききやがらねえ。おまえからも言えよ、あれじゃあ倒れる前に死んじまう! 心も身体もボロボロなんだ」
「では、私が何も気付いてなかったと言いたいのですね」
ウォンが目を光らせるとバーンは気色ばんで、
「おまえ、あいつにちゃんと言ったか? まさか言ってもきかねえってのか? きかせなきゃしょうがねえだろ、なあ?」
ウォンは小さくため息をついた。
昼間はちゃんと声をかけている。仮眠をすすめることもある。仮眠室のテレパシー遮断壁も厚くしてある。おそらく夜もあまり眠らずに仕事をしているのだろう。だが、明るいうちは充分なことをしているつもりだ。
それにあれは、仕事の疲れではない。
「ゆっくり休ませてあげたいのは私もやまやまなんです。でも、他人に言われて休むひとではありませんからね。そういう意味では、あんなに頑固な人はいません。それに身体を直すには、キース様が自分から休もうとしなければ意味がありません。ですから……」
「無理だってのか」
「あなたに出来なかったものが、私にすんなり出来ますか?」
そう呟いて、ウォンの胸はきしんだ。
この私でさえ休ませることは出来ない。
キースの勤勉さは、胸に巣食う大きな虚のせいなのだから。
あの胸に開いているのは、永遠に血の乾かない傷だ。どんな激しい雨も洗い流せない汚れなのだ。彼の人間不信と虚無は生まれついてのもののようにぬぐいきれない。
ノアの総帥などという激務がつとまるのはそのせいだ。忙しくしていれば嫌な記憶を思い出さずにすむ。身体をいじめていれば疲れて悪夢も見ないだろう。そういうことなのだ。
だからたとえば、すべてのサイキッカーが人間といがみあうことなく幸せに暮らせる時がくれば、彼の心も少しは明るむだろう。
だが、そんな日は永遠に来ない。
だからたとえば、彼を愛し、その心を常に過不足なく暖め、彼に深く愛される者がいれば、少しは痛みも和らぎ、身喰いするような真似はしなくなるかもしれない。
ああ。
私はキース様の中で、いったいどれだけの重みがあるのだろう。
ウォンは声を低めた。
「私達が手助けできるのはほんの僅かのことですよ。違いますか」
バーンはいきなり怒鳴りつけた。
「馬鹿野郎! 駄目なら殴ってでも眠らせてでもいいからこっから連れ出せよ。ちょっとでいいから普通の暮しをさせてやれよ! おまえになら出来るだろ! 俺の方がよっぽど無理じゃねえか!」
「バーン」
その怒り。
ウォンは目を伏せて黙り込んでしまった。
この青年は友を思い、手の届かない友の苦悩を思って苦しんでいる。
なんと清らかな愛情だろう。
それに比べて、私はなんとかたくなで馬鹿なことをしているのだ。
わざと何ヵ月も突き放して、自制心の殻を破って欲しがってくれるほど愛されているか知りたいなんて。
本当は私は自信がないのだ。貴方に絶対必要な存在なのかということに。
実際、離れている時間が長くなるほど弱気になってきていた。試す時間が長すぎて、もうキース様は私のことなんかどうでもよくなっているかもしれないと思う時がある。もう、ノア運営をする者のひとりぐらいにしか思ってくれていないかも、と。
「もういい。おまえには頼まない」
バーンは燃えたつ怒りのままに医局を早足で出ていった。物騒なことを呟きながら。
「俺はな、あいつを殺してでも楽に自由にさせてやるんだ……見てろ」
ウォンはそれを耳にしつつも、柱の影でじっと動かずにいた。
急に湧き起こった激しい不安を懸命にこらえていた。
本当はいますぐ確かめたい。抱きたい。欲しい。
「一言でも、仕草だけでもいいんだ、少しでも甘えてくれたら……」
その時は全身愛しつくす。この煮詰まった想いの全部をぶつける。厭だと言っても隅々まで印をつけ、裏返して押し開いて乱れ狂うまでむさぼりつくす。今まで言ったことのないいやらしい言葉で責めたてて、全身が朱く染まったところで恥ずかしいポーズをとらせてから――。
「そうじゃない」
駄目だ。
今そんなことを考えたら、彼のいる場所へ飛んでしまう。劣情のままに犯してしまう。
駄目だ。
渇ききって、欲しがる彼を見たいのだ。
こちらからしかけたら全部ぶち壊しだ。
今まで私の掌が触れるのを彼が拒んだことがあったか。何をしてもされるままだったから不安になったのだ。どれだけ愛されているか試そうなどと思ったのだ。
いや、あの青ざめた顔はもう限界なのだ。求めているのだ。誘いたいが人目があるから出来ないのだ。だから、もし二人きりになれたら、そうしたら……。
初めての恋をおぼえた少年のように、ウォンの胸は熱くなった。
キース・エヴァンズ。
貴方が私の腕の中で柔らかくなって、それからそっと腕を回してくる瞬間、いつも死んでしまいそうになる。貴方が私の舌を軽く噛んで、いじらしくもキスに応えようとする瞬間、心臓が引き絞られる思いをする。
全身が触れあっているのが好きで、静かに包み込むようにすると甘えたような微笑をみせる。一段落をすませて肌を離そうとすると、アイスブルーの瞳が薄く涙を溜めて《まだ行かないで》と訴える。そのまま貴方の薄い胸の上に顔を伏せて休むと、髪に細い指が絡んできて、その心地良さに私も離れたくなくなってしまう。
優しくしたい。
意地悪を知らん顔を全部謝って、うんと優しく愛したい。
貴方がどれだけ大切か、この身の熱さで教えたい。
「キース様」
ああ、試すのなんかもうやめてしまおう。自分が無駄に苦しいだけだ。
今日、夜が更けたら、そっと部屋に忍んでゆこう。肌身を許してくれたなら、いつもよりもっと大事に丁寧にして、ずっと欲しかったと告げよう。貴方から誘って欲しかったのだと全部話してしまおう。誘惑の仕方も教えよう。ごく自然な、あの人でもできるやり方を――足を開いて挑発されたりしたら興ざめだ。好ましいのは、微妙に袖を引くとか、服の背にそっと口唇を押すとか、上目使いとすぼめた口唇とか机の下でとんと足をつつくとか、ちょっとだけ体温のあがるような方法だ。そんなことでも恥ずかしくて、あの人は頬を薄く染めてうつむいてしまうかもしれないけれど。
見たい。
服を着ている間はせいぜい《君の好きにしろ》ぐらいしか言えない彼だ。どんなにぎこちなく誘ってくるだろう。それともすぐに慣れて、もっと凄いことを平気な顔でやってみせるか。
どちらでもいい。
欲しがってさえくれれば。
いや、求めてくれなくとも、もう限界だ。
今夜抱いてしまおう――そう、真夜中を過ぎてから。
ウォンは自分の情炎がカッと燃え上がるのを感じた。
眠らせないだろう。ブランクは違和感よりも新鮮さをもたらして、朝まで溺れてしまうだろう。何度でも休むことなく愛し続けるだろう。必要ならば時もとめて。
「愛しています……」
こつんと額を壁に押しつけて、たぎった想いをさまそうとする。
「貴方が好きです……貴方なしでは生きられない……貴方を想うと私はもう……」
何度も繰り返し呟いて気持ちを鎮めてゆく。
再び燃え上がるのは、今晩キースの私室をノックして、彼をこの腕に抱きとってからだ。
それまでは抑えておかなければ。

ウォンが元通り昼の顔に戻って歩き出したのは、それからしばらく後のことだった。
彼はその晩、後悔することになる。
昼間でも何でもいいから、抱いてしまえばよかったと。
思った時に伝えておけば、と。

3.

その日夕食が終わってすぐ、キースは自室に戻って端末を開いた。
それぞれの計画の進行状況や、全世界のサイキッカー分布図など、ある程度のことなら部屋の小さいコンピューターでも処理できる。今日は静かで落ち着けるところでいろいろ作業したかった。
「ち」
我ながら行儀が悪いと思うが、一人の時のキースはしょっちゅう舌打ちする。物事は理想家の彼の思いどおりにならないことが沢山ある。
一番辛いのは、ノア内外から彼に助けを求めるものに応じきれないことだ。
総帥キース・エヴァンズとて全能の神ではない。すべてのサイキッカーに救いを与えられる訳ではない。無力感にうち震える日がいかに多いことか。
助けてくださいと差しのばされる無数の手。
通りいっぺんの気休めしかしてやれない者。
一度助けてやると際限なく甘えてくる者。
期待して損をしたと砂をかけて去ってゆく者。
そのひとつひとつに応じられず、どんなに歯がゆく思っているか。
いったい自分は何なんだろう、何様のつもりなんだろう、と。
深いため息をついた瞬間、ノックがあった。
「誰だ」
「俺だ。入るぜ」
暗唱番号を押す音がして、すっとドアが開いた。
「よお、キース」
バーンは手をあげ明るい声で近づいてきたが、その顔はくすんでいた。なにやら大きな荷物を抱えている。
キースは端末の電源を切った。
「何か用かい? 今日はゆっくり話をきけるけど」
体調が良くなった訳ではないが、まだ時間も早い。以前よりは話すようにもなっているが、互いの仕事の質が違うせいか、つっこんだ話が出来るほどゆっくりしゃべったことがないので、こういう訪問は大歓迎だった。休め休めとうるさく言われるのは閉口だが。
「ああ。話があるんだ」
バーンはずっと近寄ってきて、キースの脇に立った。
「おまえ、前ん時、自分はノアに必要ないかもしれないって言ってたな」
キースの瞳はすうっと翳った。
「そう思うことも、あるよ」
そう言われると結構辛い。
「力不足だから、誰かにのっとられることもあるかもしれないしね」
自嘲気味に呟くと、バーンの瞳が暗くなった。
「じゃあ、例えばウォンとかがおまえの代わりがやれるなら、おまえはいなくなってもいいよな? 代わりは絶対にいるよな?」
「え?」
バーンはキースの襟首を掴んだ。ぐっと顔を近寄せて、
「何週間も待たせやがって。もう待てねえ。おまえをこっから連れ出す。嫌だってんなら力づくだ」
「バーン!」
彼はその左手に炎をまとった。
「いいか? もしおまえが嫌がったら……俺がおまえをさらえねえってんなら、殺してやる。他の連中も殺してやる!」

★ ★ ★

その夜更け、副指令室でコンピューターをいじっていたソニアは、遠くでドン!と爆発音がしたのに気付いた。
「何処っ!」
指をたたん、とキーボードの上に走らせる。自分の中の聴覚装置の感度を上げる。
医局だ。
「誰か返答を!」
「はい!」
常駐の医師は無事だった。その報告によると、破壊されたのは大した部分ではない。薬品庫の一部と保存血液ブロックの一部、医療データの一部らしい。
ソニアはマイクに向かって厳しい声を出した。
「誰がそんなことを?」
「わかりません。簡単な時限式の爆弾がそれぞれの場所で使われたようです。被害規模が小さいので、通常の医療診療投薬等には支障は出ないと思います」
「わかりました。すぐに確認に誰か回しますが、新しい情報があったら必ず知らせてください。いいですね」
「了解しました」
通信が切れると、ソニアはスイッチを切り替えてキースの部屋につないだ。
誰も出ない。
「もう眠ってらっしゃるのかしら?」
真夜中まではまだ間がある。疲れてもうベッドに入っているのかもしれないが、一応報告しておこう。いきなり部屋を訪ねるのは失礼かもしれないが、どこにいるのか基地全部を調べたりして大ごとにするのもよくない。他のサイキッカーの動揺をまねく。
ソニアはウォンの部屋の端末にも情報を流し、副指令室を出た。

「T・M・D……」
なんどノックしてもインタフォンを押しても名前を呼んでも返事がない。中から鍵をかけていれば暗唱番号を使っても開かないので、確認のためにしてみた。
シュッと音をたてて、ドアは開いた。
部屋のあかりは落ちていて、しんと静まり返っている。
「鍵をかけずに眠ってしまわれたのかしら」
と呟いて部屋の中に踏み込んだ瞬間、嗅覚装置が異常を告げた。ガスではない。
「なに、この匂いは……キース様?」
あかりをつけた瞬間、
「キャアアッッ」
ソニアは悲鳴を上げた。
床は一面血の海だった。焦げた服の切れ端が落ちている。
「キース様!」
これがキースの血なら、この量を流したのなら、彼は絶対死んでいる。
しかし遺体はない。まさか炎に灰まで燃やし尽くされてしまったのか。
「キース様!」
無意味だと思っても名を呼びながら探してしまう。
「あっ、これは」
一番奥まった壁に大きな血文字があった。

〈最後の舟よ沈め! 忌まわしきノアよ滅びよ!〉

たっぷりの新鮮な血液で描かれた呪いの文字。
「誰? こんなことをするのは誰? 誰がこんなことを!」
その時、背後にシュッと音がした。ソニアは一瞬身構えた。
「これはひどい」
リチャード・ウォンだった。ソニアの悲鳴を聞いて飛んで来たのだった。
「ソニア、来てから何も触っていないでしょうね」
「はい。でも、キース様が……」
「この血が全部キース様のものとは限らないでしょう? 慌てる必要はありません」
「いいえ、キース様のものです」
ソニアの中の元素成分分析機が、この血液はA型、キースのものだと告げている。総帥に関するあらゆる基本資料は、彼女の中に入っているのである。
「キース様が……死……」
ソニアは目頭が熱くなるのを感じた。嫌な予感はずっとしていた。
これはバーン・グリフィスの仕業だ。
ついに三角のバランスが崩れたのだ。
あなたがかまってやらないから。若者二人のどちらにもいい顔をして、その後冷たくなんかするから。
これはバーン・グリフィスの仕業だ。
それ以外の相手であれば、キース様の抵抗の跡や犯人の血痕がある筈だ。素直に殺られたのは、かつての親友相手で安心しきっていたからだ。
遺体は運び出されたのだろう。
血の気の失せた亡骸を、涙を流しながら連れ去ろうとする青年の姿が目に浮かぶ。
ノアを呪って。深くノアを呪って。
「いいえ、ソニア」
ウォンは壁の文字を見て、皮肉めいた微笑を浮かべた。
「あなたにはもう一つキース様の情報を入力しておくべきでした。だいぶ崩してはありますが、これはあの人の書き文字ですよ」
「えっ」
ソニアはにわかに信じられなかった。
どうしてキース様がこんな文章を、と目を丸くすると、ウォンはフッと笑って、
「これは古典的な狂言の殺人です。こんなに大量の血を流して生きていられる人間はいまい、と誰でも思うでしょう。しかし、基地内には、いざという時のために、保存血液が常備してあります。たとえ身体中の血が全部流れ出てもそれを補うぐらい、各自で採血してあるんですよ」
他のサイキッカーの血と混ざった時になんらかの影響が出るとまずいので、大怪我をしても必ず自分の血を輸血できるようにしているのだ。医者嫌いのキースだとて、採血や血液の冷凍保存ぐらいはしているのだ。
ソニアははっとした。
「では、先程の医局の爆破は」
「ああ、その報告は見ました。それはたぶん、キース様の細かいデータと保存血液がなくなったのを知られないようにするために、医局を破壊したのでしょう。バーン・グリフィスの仕業です」
昼間医局で会った時には、まさか保存血液を盗みだして爆弾を仕掛けていたとは思わなかった。信用してある程度の権限をもたせておいたのが悪かったようだ。新人のサイキッカーを案内する時はどんな場所もフリーパスにしておいたから、医局も怪しまなかったのだろう。しかもバーンは脱出口を知っている。車も与えてある。
うかつだった。
よもやこんな小細工をして、あの人を盗み出す男とは思わなかった。
何をしても連れ出すという言葉を甘くみて。
キース様がすんなり、さらわれることに同意するとは思わず。
これはもしかして私のせい――か。
「でも」
ソニアは心配そうに呟いた。
「この文字を書いたのがキース様だとして、そこまでは狂言だとしても、その後バーンに襲われてしまった可能性はないのでしょうか」
「生きているとみせかけて、反対に、と?」
「はい」
ウォンは首を振った。
「それはないでしょう。キース様の反撃の跡はないのです、不意をつかれたとしても、襲われて一撃も返せないことはないでしょう。そんなに部屋の中は壊れていませんし……たぶん、それらしくすることよりも、大きな音を立てるのを恐れたのでしょう。バリアガードの音でさえかなり響きますしね」
ソニアは目を伏せた。
「しかし、無事だとしても、追っ手をかけて明日の朝までに戻っていただかなければ」
「いいえ」
ウォンはくるりを壁に背を向けた。
「追っ手はかけません。少ない人数ではあの二人を止められませんし、多い人数で追えば、総帥がノアを捨てたことが大勢に知れてしまいます。動揺は最低限にとどめなければなりません」
ソニアは慌てて、
「しかし、黙っていては絶対に戻られません。テレパシーで呼びかけても多くに知られます。もし明日の朝までにお戻りにならなければ、さっそく業務が滞ってしまいます」
「私が代わりをします」
ウォンは慌てることなく、
「確かにノアの仕事で一番肝心なのはテレパシー放送です。ですが、一日休んだから困るものではないし、代わりの人間がやって悪いことはない。キース様は新しい作戦のためしばらく単独行動をし、皆の前には出ないと宣伝すればいいのです。増幅装置を使えば、私のテレパシーでもかなりの範囲まで届く筈です。そのように改良したのですから」
「そんな」
「いずれお戻りになります。もし戻られなければ、折りを見て私が迎えにゆきます。ですからソニア、騒ぐことは許しませんよ」
「でも」
ソニアはもう一度血文字を見上げた。
どうして、キース様はノアよ滅びよ、なんて。
確かにバーンなら、最後の舟よ沈め、とは書かないかもしれない。弱者の微かな希望を打ち砕くような歪んだ青年ではなかった。ノア自体を呪っていた様子はなかった。
しかし、だとすれば。
「キース様はノアを憎んでいらっしゃるんですね」
ウォンは軽く肩をすくめた。
「それはどうか……憎むというより、距離を置きたいのかもしれない。今のキース様には、そういうことが必要だったのでしょう、たぶん」
「ああ、疲れていらしたから……」
人間はひとつのことを長くやれない。真剣な仕事であればあるほど、時に休息を、気分転換を求める。そういうことなのだろう。
ソニアは無理に納得し、廊下に通じるドアを開けた。
そこでくるりと振り返って、
「これから医局の爆破の程度をチェックしにまいります。この部屋は誰にも開けられないよう封鎖したいと思いますが、どう思われますか」
ウォンはうなずいた。
「行きなさい。この部屋は私が封鎖します」
「わかりました」
ソニアは廊下を足早に戻っていった。
ウォンは一度ドアを閉めて、内側から鍵を壊した。
ふと、血の匂いが強くなった気がする。
「キース様」
赤黒い染みのついたベッドへ、ウォンは崩れ落ちた。
ここで抱いた、あの細い身体を。
ここで知った、あのか弱い笑顔を。
苦しい。
彼がバーンを選んだということ――そして、永遠に失うかもしれないということ。
ソニアの前では自信ありげに取り戻すなどと言ったが、迎えに行ってはねのけられたら?
ノア自体の運営はどうにかなるだろう。
問題はあの人が、私の腕の中に戻ってきてくれるかということだ。
駄目かもしれない。
駄目かも。
ウォンは自分の上着に血がうつったのに気付いた。
まるでキースをこの手にかけて、返り血を浴びたかのようだ。
胸が痛い。
「死んでしまいたい」
今この瞬間に、神様が心臓を止めてくれたらどんなに楽か。
この血の海が私のものだったらどんなに嬉しいか。
「ふふ……ふふふふ……」
シーツに顔を押しあててウォンは低く笑った。涙を流しながら笑い続けた。
そんな風に嘆く彼を、逃走中のキースはまったく知らない。想像さえしていなかった。
そう、もし知っていたら。

★ ★ ★

「あかり、こんなんで悪いけど、結構明るくなる筈だからね。四、五時間はもつし」
「なんかいろいろすんません。メシもお湯も寝るところまで」
「気にしなさんな。おやすみ」
屋根裏部屋の扉が閉まる。
太ったおばさんが渡してくれたのは大きめな厚手のガラスのコップだった。中にはスズのカップに入った赤い蝋燭が入っていて、小さな火を灯している。
バーンは先に寝床に入っていたキースにそれを見せた。
「結構きれいだな」
「そうだね」
バーンは、煉瓦でできた低いでっぱりにランプがわりのそれを乗せた。
小さな部屋だが、暖炉の煙突の一部が通っていて、その熱で暖かい。床まで分厚いキルトのカーテンが垂れていて、すきま風を遮っている。彼らが夜食をすませ、身体を清めている間に、彼女達は掃除したこの屋根裏にふかふかの羽根布団をいれてくれた。細長いのを二つ並べて、若い二人が語りあかせるように。
あの夜から三日が過ぎていた。キースの部屋を用意してきた血で汚し、車を使って脱出し、あらかじめ話をつけてあったレンタカーに乗り込んでひたすら西方へ逃げた。バーンは一度家に戻ろうかと思ったが、真っすぐ帰ってそこでウォンに捕まっても困ると思い、ジグザグな道を逃げた。キースは身体が弱っていて、夜があけても目をさまさない。時折目を開けるが、冬景色に驚いたように目を閉じ、こんこんと眠ってしまう。
もう十二月で、かなりの土地が雪に埋もれていた。車の中ではキースはあまり休めないとみたバーンは、ある程度日が暮れると泊めてくれる家をさがした。それはなかなか見つからなかったが、この田舎町でおばさん二人で暮らしている家が快く泊めてくれて、こうして部屋もあてがってくれた。
キースはぼんやりしていてろくな挨拶もできず、それをかばうバーンを見て、彼女達はひどく同情してくれた。
「お友達は病気なの? お医者様は? これから往診に来てもらってもいいのよ」
「いや、こいつは疲れているだけで」
「でも顔色があんまり良くないわ。診てもらった方が絶対いいわよ」
「そうするつもりです。でもまず故郷に帰ってから。それから医者を探します。こいつ、半分はホームシックで」
「あらまあそう。それでお国は何処なの?」
「ええと、それがその、西海岸の方で……」
「遠いわね、大変だわね」
保身のためにすらすらと嘘八百を並べる友を見て、キースはさらに虚ろな瞳をした。
もうどうでもいい。
どうだって。
「どうやってもおまえをさらう」
あの時、バーンの勢いは恐ろしいものだった。おまえが否というなら、ノア基地全部破壊する、と爆弾を見せた。それぐらいのものではもちろん全部壊すことは無理なのだが、他のサイキッカーが傷つくのを見るのは嫌だった。
「そんなもの、どこで用意したんだ」
「時々基地の外へ出て調達したんだ。必要だからな」
バーンはキースをさがす旅の中で、いろいろと武器をつくることを学んでいた。マッチ箱と煙草、もしくは蝋燭の一本もあれば簡単な時限爆弾ぐらいはつくれる。時計やハンダがあればもう少しましなものまで。
苦労をしてきたのはキースだけではなかったのだ。
「君がそういう小細工をろうするなんて思わなかったよ」
キースは軽く驚いたが、そうまでして連れ出したいというバーンの気持ちに打たれた。
「わかった。僕をさらってくれ、バーン」
抱かれるようにして彼は基地を脱した。
しかし、車の長旅はキースの神経を思いのほか傷めた。
エンジンの振動、雪がつもる音、固いシートの感触の悪さ、排ガスのいやな匂い。
なによりこたえたのは寂しいことだった。
バーンは彼を心配して、食糧を調達する時も車に閉じ込めてゆく。
キースは人のざわめきが好きだった。
それが途絶えるのが耐えられないタイプだった。
ノアの基地内では、望めばいつだって誰かの声を聞けた。
どんなに苦しい時もノアを離れたがらなかったのは、こういう孤独を怖れたからだ。
たった三日で、キースは逃亡を後悔していた。
基地内は混乱しているだろう。していなくても主要なメンバーが多くの負担を背負っているだろう。私を恨んでいるだろう。
せいせいした、と思う者もいるかもしれないが。
ウォン。
たぶん君はそう思っているんだろうな。
「バーン。結局何処へいくつもりなんだい?」
「おう、最初はガッコの友達んトコへ転がり込もうと思ってたんだ。けど、おまえの事説明すんのが面倒くせえから、じいちゃんばあちゃんの家にしようかって思ってる。もし先回りでもされてなきゃな」
「そこは静かなところかい?」
「まあまあかな。ちょっと不便もあるけどよ、いいとこだぜ」
バーンも自分の布団に入った。
それに背を向け、小さな火を見ながらキースは呟いた。
「後悔してないかい?」
「何を?」
「僕を連れだしたりして、ずっと追われることを考えたかい?」
「おまえのためなら、追われたっていいさ」
「でも、君には君の人生がある。たとえば、君はアメフトの選手になるんじゃなかったのかい? 本当は特待生だったんだし、将来はそれで食べてくつもりだと思ってた。だって、憧れてたじゃないか、スーパーボウルの優勝トロフィー。ボールの形をした純銀の」
「ああ。欲しかった。あれは毎年、ティファニーの特注でつくるんだ。だから同じもんは二つない。すっげえ欲しかったな」
「でもこんな生活をしてたら」
「いや、俺は特別待遇ってのが好きじゃなくてな。やりたいことは自分の力で最後までやりとげてえんだよ。それに俺、世界に二つないもんを、もう持ってるからな」
布団の上から、キースをギュッと抱きしめた。
「キース。好きだ」
「うん」
キースは弱く微笑んだ。
バーンのいう《おまえが好きだ》に特別な意味はない。
これじゃない。僕が欲しいのはこれじゃない。
どうしようもない飢えがキースを襲った。
全身で熱っぽく囁く、これでもかこれでもかと愛撫の雨を降らせる男が欲しい。
ウォンの腕の中で、彼の情愛で灼かれたい。
ああ、抱擁はちっとも変わらない筈なのに。バーンより友達甲斐のある青年はいないのに。こうして暖めようとしてくれるのに。
キースは聞こえないよう小さなため息をついた。
「バーン。あの狂言がバレて追っ手がかかったら、僕を守ってくれるかい」
「当り前じゃねえか。おまえ、ただでさえ弱ってんのに」
「そうだね」
超能力の事だけ考えるなら、キースの方が勝っている。物事の処理能力も。だが、素手でならバーンがはるかに強い。今の精神的肉体的状態では、キースは完全に守られる身だ。
追っ手が来たなら、必ずバーンが相手をするだろう。
彼が傷つく。万が一、ウォンなどやって来たら。
「でも、二人で逃げるのは目立つよ。そろそろバラバラにならないかい」
「嫌だ。そしたらおまえはノアに帰っちまう。なあ、ここで俺が目を離したら、その身体であそこへ戻ったら、おまえ本当に死ぬぜ。わかってんのか?」
「でも」
「追っ手がきてから考えようぜ。今まで無事だったんだしよ。向こうもなにがなんでも殺そうとはしてこねえだろうし、俺も闘うだけが能じゃねえってことぐらいわかってる。そんなに無茶はしねえよ。な、キース、ちょっとでいいから静かなトコで養生してみろよ。そんでちょっとでも元気になってから、ノアのことを考えろよ。おまえにも向こうにも戻るのが一番いい時期になるまで、忘れろ」
「わかった。……ひとつ、頼みをきいてくれたら」
「なんだ?」
「ちょっと寒いんだ。しばらく抱いててくれるかい」
キースの瞳が光った。
バーンはなんと応えるだろうと、じっと息を殺した。
「いいぜ。来いよ」
バーンはすんなり腕を伸ばし、そっとキースを抱きとった。
「これからは、なるべく一緒にいるから。俺がいるから、さ」
腕の中で囁かれて驚いた。キースの寂しさを彼は気付いていたらしい。
「俺、この三年間、いや、それ以上おまえに何にもしてやれなかったから、ちょっとでも役にたちたいんだ。悲しい顔させたくねえ。だから、あったかい方がよけりゃ、いつまででも抱いててやるから」
「ごめん」
キースはバーンの胸に顔を埋め、少し涙を流した。
「謝るなよ。俺はおまえが好きだから、好きでこうしてんだから」
「ごめん」
さらわれてしまおう、と思った。
逃げられるところまで逃げよう。たとえ殺される目に遭っても。
バーンと行こう。
「な、そろそろ明り、消そうか?」
「いい。暗くして眠るのはあまり好きじゃないんだ」
キースは天井を見上げた。その隅まできちんと照らす炎は、その色だけで暖かい。ゆらゆら影が揺れるのは、ガラスコップの狭い中で、熱された空気が動くせいだ。おばさんが言った通りもつものならば、眠りに落ちるまでは明るいだろう。
「そうだったけか」
「うん」
朝目覚めた時、ウォンはいないのが当り前だった。そして彼は、キースが眠ると灯火を消すのだった。愛しあう時こそ少し明るくするが、あとはぬばたまの闇。それがキースには寂しかった。夜中にひとりで目覚めた時に、相手がいるのに、寝顔がよく見えないのは悲しい。
「明るいと眠れないかい、バーンは?」
「俺は平気だな。焚火の前でも寝ちまうもん。時々髪とか焦がしたな」
「えっ、その髪を!」
「笑うなよ、これを切るのは大変なんだ。染めたりもしてるし」
「手入れも大変そうだし」
「まあな。あんま前だけ長くつったててると、一色だと間抜けだしな。銀とか紫とかいろいろやってみたけど、結局この赤に落ち着いたんだけどさ。髪が長い方がテレパシーの感度が増す気がすんだよな。なんつったっけか、聖書に出て来る神話の怪力野郎」
「長髪の怪力男って、サムソンかい?」
神のお告げで髪を切らず、神通力をもらって闘った英雄の名だ。バーンはニッコリして、
「おう、そいつ。髪を切られると力がなくなるって奴。だから俺、ゲンかつぎでなるべく長い間伸ばし続けてたんだ。前だけでも立ててりゃアンテナになるかなあ、とか馬鹿なこと考えてさ。でも、おまえの声がちゃんと聴こえたんだから、まんざらでもなかったよな」
「バーン」
本当にたゆまず彼は、自分を探してくれていたのだ。そんなに明るい顔をして、苦労もなかった顔をして。
「まーたそんな顔しやがって。いちいち泣きそうになんなよ。なんでもねえんだからよ」
「……うん」
キースは小さくうなずいて、相手のシャツの胸を掴んだ。バーンはくすぐったそうに、
「な。眠れよ。いやな事忘れるには、ぐっすり眠るのが一番だからさ」
「うん」
キースは大人しく目を閉じ、バーンの腕の中で寝息をたてはじめた。
小さな明りに頬の端を、銀の髪を照らされながら。

その翌日から、キースは静かな表情で落ち着いたそぶりをみせるようになった。
バーンは安心した。
キースが自分を信じてくれ、心の健康を取り戻したと思ったからだ。
だが、コロラドの目的地にたどり着いた日、その静寂の本当の意味を知った。
祖父母の家の前に車が止まった時、キースは手近の紙を引き寄せて、さらさらとこう書いた。
「今、耳がまったく聴こえなくなった。テレパシーも誰のものも聴こえてこない。たぶん、ノアとの絆をすっかり切ろうとしたせいだと思う。だけど、目の前にいる君の声さえ、もう完全に」
バーンは思わずその手を押さえた。
「嘘だろ?」
キースは悲しそうに笑って、続きを書いた。
「ごめん。その声も聴こえない」
ノアを離れてから、少しずつ駄目になったんだ、と記して、目を伏せた。

近所の町医者は、何度も往診して検査をし、完全に耳が聴こえないことを確認し、これは心因性のものだろうと言った。内臓の疾患も精神的疲労によるものだから、せめてこの冬の間ぐらいは、何もさせずゆっくり休ませなさいと告げた。彼の心は殻に閉じ籠っているが、それは彼が完全な休息を必要としているからだ、と。目も見えているのだし、誰かがついていれば家の中の暮しに不便はあるまい、と。
その診断が下された後、待っていたキースの前で、バーンは用意したノートにこう書いた。
「なんも心配いらねえから。俺がいる。俺がついてる」
キースは不思議そうな顔をした。
「別に、心配なんかしてないよ?」
「おまえ、なんでそんな……」
と言いかけてバーンははっとした。キースは表情を変えずに、
「何も聴こえてこなくて、かえって楽なぐらいなんだから。今も困ってないし」
「そうか」
バーンはノートを閉じた。
「ならいい」
この友が、聴覚をなくした方がましなほど限界ギリギリまで働いていたのだと思うと、彼は言葉を失った。
俺は、どうしたらいい?
なおしてやるのが本当は親切なのだろうが、またどこかで超能力者の悲鳴をきいたら、こいつは我が身構わず飛び出してゆくだろう。そんなことになるぐらいなら、このままの状態でここへ閉じ込めておいた方がいい。繭のような、温室の中のような暖かい安楽な暮しをさせて、何にも考えられないぐらい甘やかして……。
馬鹿、それも全然幸せじゃねえじゃねえか!
ああ、俺はどうしたらいいんだ。
するとキースは親友の顔に浮かんだ苦悩をすくいとるような声で、
「バーン。君には感謝してるんだ。だから、そんなに悩まないでくれ。僕の聴覚のことは気にしなくていいよ。なおる時はなおるだろうし。時間が必要だって言ったのは君じゃないか」
優しい、十五の頃と変わらぬ眼差し。
「そうだよな」
呟いて、バーンはキースの首を引き寄せた。
抱きしめられて、キースは薄く笑った。
「あんまり憐れまないで……いやだよ」
「すまねえ」
「バーン。だから、やめてくれって」
「わかってる」
それからというもの、バーンは日常の世話をあれこれ焼いた。
冬に鎖ざされた家の中で、そのいたわりは続いた。
水を吸った青葉が色を取り戻すようにキースの表情は戻ってきて、時々くすぐったそうな微笑さえうかべた。
バーンは幸せだった。
そしてまた、親友も本当に幸せだと思いこんでいた……。

4.

「コロラドの椅子、か」
目を閉じたままキースは、バーンの祖父がつくったという古い木の揺り椅子を動かしてみる。総帥の椅子とかいう訳のわかんねえもんより、こっちの方がおまえに似合いだ、とバーンが言ったその椅子。
しかし、キイ、と微かにテラスの床がきしむのも、風の音も聴こえない。
今朝、バーンが青い顔で家を飛び出していったので、それで静かというのもあるが。
「でも、どうしたんだろう」
もう昼近くなったと思うのだが、いまだに帰ってこない。
なにかさしせまった電話でもかかってきたのだろうか。
暖かい服の上にこれでもかと巻き付けた毛布のおかげで、まだ三月初めだというのに外の揺り椅子でも寒くない。今年は暖冬で、早く雪がとけて風が和らいだのだ。
なるべく太陽に、外の空気に触れた方がいいと医者がいったので、キースはなるべく椅子を外に出していた。買ってきてもらったハードカバーを開いて読む。眠くなったら目を閉じる。そのうちメシだぜ、とバーンが連れにくる。
この一週間、それの繰り返しだった。
普段なら、そろそろバーンの祖父母が麦畑から戻って来て、三人で食事になる。じゃがいもをオーヴンで焼いてチーズをかけ、朝の残りの肉を切りわけ、野菜を煮込んだスープを添える素朴なメニュウ。
ここには、今までのキースに足りなかったものがみんなある。
昼と夜の明るさ。豊かな自然の実り。他人にわずらわされない静かな休息の時間。単純だが美味い食事。親友の笑顔といたわり。
おかげで、今までのような激しい発作は起こらない。突然倒れることもない。
しかし、何もする気が起こらない。
バーンはそんなキースをみて、
「まだ疲れが残ってるんだ。身体も心も充分に休めてやらなきゃ駄目さ。気長にやろうぜ」
と言う。
そうなのかもしれない。
本当に、何もしたくない。
なんにも、手につかない。
簡単な家の手伝いすらおっくうで。
「無理にする必要ないさ。したくなったらやればいいんだ。耳がなおってからでも遅くない。医者も安静が一番だって言ってんだし」
バーンも、彼の祖父母もそう言う。
その言葉に甘えて、キースはこうして引退した老人のように、ぼんやり椅子を揺らしていることが多い。
しかし、こうして一人になると、知らずため息が洩れるのだ。
「どうして一人にしておくんだ、バーン」
その時、胸の奥でひとつ、コトン、という音がした。
耳が聴こえるようになったのか、と思うぐらい、はっきりと。
身体の中に釣りさげていたハートの、細い糸が切れて落ちた音に思えた。
いかにも中身が虚ろといわんばかりに、高く固く響いて。
急に冷たい風が吹いてきて、空が暗く曇った。
天気が変わるな、ちょっと部屋へ入ろうかと思った瞬間、バーンがテラスへ戻ってきた。息をきらしているのに青い顔だ。
「どうしたんだい、バーン」
ちょっと待ってろと仕草でしめして、中からノートをもってくる。書きなぐるようにして、
「すまねえ、じいちゃんが畑で倒れたんだ。医者のとこへ連れてったんだが、場合によっちゃあもっと大きな町の病院へ連れてかなきゃならないかもしれないんだ。俺、今から荷物つくって出かけるから、留守しといてくれ。ばあちゃんも一緒に行くから、おまえ一人になっちまうから、家の中に入って鍵かけとけ。何があっても外へ出んなよ」
「わかった」
バーンは家の中にとって返し、しばらくして大ぶりの鞄を抱えて飛び出してきた。
「キース」
すまない、というように片手をあげ、そのまま走っていった。
「車を使えばいいのに……」
止める場所ぐらいあるだろう、あんなに急ぐなら運転していった方がいい。
「慌ててるんだな」
キースは椅子からようやく立ち上がると、小さい白いものが肩にとまったのに気付いた。
「雪だ」
風はますます冷たくなった。ちらちらと雪片が飛ばされて輝く。
お年寄りは天気の変化に敏感だ。バーンのおじいさんもこのせいで倒れたのだろうか。何かの発作なのかもしれない。あまり重篤でないといいが。
キースは毛布をまとったまま、椅子を家の中にひきずりこんだ。
居間の暖炉に火をいれて、扉にはしっかり鍵をかけた。
「バーンも大変だな」
とたん、キースは妙な気分になった。
家の中に一人でいて、独り言を呟いてしかもそれが聴こえないとなると、急に孤独が身に染みてきた。
再び椅子に戻って、TVのスイッチを入れる。
ローカル放送が古い漫画をやっていて、音がなくてもわかるドタバタ喜劇をやっている。最初は物珍しかったがすぐ飽きた。他のチャンネルに変えると、年のいった女性歌手がひとりで歌っている画面があった。
二重に字幕がついていて、歌は異国の古語と知れた。

Onques n'amai tant que jou fui amee.
Or m'en repenc, se ce peust valoir
Lasse! pour koi fui je de mere nee?
Par mon orguel ai mon ami perdu.

愛された時、愛しかえせませんでした
いまは後悔しています、あなたは尽くしてくれたのに
ああ、私はなぜ生を受けたのでしょう
自尊心から恋人を失って

Si me doint Dieus d'amours longe duree,
Que je l'amai de cuer sans decevoir
Qant me disoit k'iere de li amee,
Mais n'en osai ains descouvrir le voir:
Biau sire Dieus, baisie et acolee
M'eust il or et aveuc moi geu,
Mais qu'il m'eust sans plus s'amour dounee,
Si m'eust bien tous li siecles veu!

神様、永遠の愛を下さい
嘘でなく彼を愛していたのです
あの人が告白した時、私も愛していました
でも本当の心を告げませんでした
神様、もし彼が私にくちづけて
腕の中にさらいこみ、そのまま抱いてくれるのなら
もし彼が私を愛してくれるなら
白日にさらされようと構いません!

Ne ne m'en laist retraire ma pensee
Ne si n'en puis soulas ne joie avoir.
Lasse! l'amour que tant li ai veee
Li sera ja otroiie et dounee--

Mais tart l'ai dit, car je l'ai ja perdu.
Car trop ai tart mon felon cuer vaincu.

彼を思わずにいられません
慰めも喜びもありません
ああ、長い間拒んできましたが
私の愛は彼のものです――

でももう遅すぎました、あの人を失ってしまいました
自制心を征服するのが遅すぎたのです

「ああ」
僕もそうだ。後悔している。とても。
ウォン。
瞳に涙が浮かんだその時、キースは自分の耳が元通りになっているのに気付いた。
聴こえる。
伴奏なしの透き通ったソプラノが、ちいさな部屋を響かせていた。
「聴こえなかったのは、すべて認めたくなかったせいか」
何もしたくないのは、何も思いだしたくなかったから。
怖くて目を背けていたかったから。
彼が一番怖いのは、一人の追っ手もこないという事実だった。
リチャード・ウォンがその気になれば、バーンの行き先をさぐることなど雑作もない筈だ。祖父母の家をつきとめるのに一週間もいらないだろう。
本当に死んでしまったとは思っていまい。遺体もないというのに。
つまり、満身創痍のキース・エヴァンズなど、もうノアには必要ないということなのだ。功利を第一に考えるウォンにももちろん――それを考えるのがひたすら嫌だったのだ。
バーンと逃げて、ノアを捨てると決めたつもりだったのに。
それでもどうしても寂しかったのだ。
身体の奥に落ちたハートが、パリンと小さな音をたてる。
どこかにひびが入ったようだ。
思わず口唇が動いて、あの名を呼んだ。
「ウォン……」
胸がつまった。口元を覆ってそれ以上の涙をこらえようとした。
その瞬間。
「おかげんはいかがですか、キース様」
シュッという微かな音とともに、一つの影が目の前に現れた。
高い上背。豊かな黒髪。白い頬に浮かんだ、懐かしくも暖かい微笑。
だが、とっさにキースの喉をついて出たのは憎まれ口だった。
「どうして君が自分できた、ノアをほうってまで。私を殺しにでもきたのか?」
「逢いたかった、といったら?」
ウォンは、いつものように彼をそっと抱きすくめて、
「そんな泣き顔をして……貴方にどうしても逢いたかったんです」
キースの耳元に口唇を寄せ、
「まだだいぶ悪いようなら、しばらく私がここに滞在しても構いません。二度と貴方と離れたくありませんから」
「またそんなそらごとを」
「嘘だとお思いですか」
「あ……っ」
脇に忍び込んだ手が弱いところをくすぐる。思わず洩れた声にキースは頬を染めつつ、
「やめろ、こんなところで。バーンが帰ってくるかもしれないんだぞ」
「珍しいですね、貴方が抱かれるのを拒むのは」
「そういう問題じゃない、誰かに見られるのは厭だと言ってるんだ。僕がここに滞在していることを知っている者は何人もいるんだ、留守を訪ねられたら」
「なら、二人きりになれる静かなところで、少し話をしましょうか」
「そんな場所はここにはない」
「ありますよ。さあ、一緒に」
ウォンはキースの手をひいて、家の中から連れだした。
ちょっと歩くと、他から離れた一軒の家が見えてきた。
「ここは? 空き家か」
怪訝そうなキースに、ウォンは静かに微笑んで、
「夏に避暑にくる、とある家族のための家です。ただし鎧戸をたてきれば、冬でも充分暮らせる家ですが」
「よくそんなものを見つけたな」
「調べたんです、ここらの地理をくまなく」
ウォンは肩に手をまわしてきて、低く呟いた。
「心おきなく貴方と愛しあえるように」

胸の奥を熱い風が吹く。
ウォンの愛撫は、静かだが細やかな情に満ち、何度もキースに深いため息をつかせた。
「う……ん」
「キース様」
その眼差しはやさしい。腕の中で甘いうめきを洩らす青年を、愛しくてたまらないというように見つめ、口唇を押す。
何度も繰り返される口吻。
会いたかった、触れたかった、と力をこめる腕。
最初はされるままだったキースも、いつしかウォンに応え、自分から求めついばむようになった。頬には赤みがさし、胸はしきりにあえぐ。久しぶりの陶酔に瞳を潤ませながら相手をにらむようにして、
「なんで、今までこなかった……」
ウォンは瞳を細め、笑いを含んだ声で答えた。
「ということは、待っていてくださったんですね、私を」
「別に」
キースはすねたように顔をそむけて、
「だいたいノアにいた頃だって、ほったらかしにしてくれてたじゃないか。ただ、最初から追いかけてくるつもりだったなら、随分遅いと思っただけだ」
ウォンは彼の髪をそっとすきながら、
「ほうっておくつもりはありませんでした。ただ、貴方に触れるなと言われたのがこたえたので、貴方が自分から許してくださるのを待っていたつもりだったんです。無理にして、貴方に心を閉ざされてしまったらと思うと」
「ふん、都合のいいことを。じゃあ、今回遅くなったのはどういう訳だ。ノアの中で何かあったか? 君なら処理に数カ月もかかることはないだろう」
身をくねらせ、問いつめるように裸の肩を押しつけると、ウォンはそれを抱きとって、
「本当は私も、もっと早く迎えに来たかったんです。ただ、あの時の貴方には休息が必要でした。だから、バーン・グリフィスが貴方をノアから盗みだしたのも、いいきっかけだと思ったんです。緊張を感じない時間を、自分でつくった組織を呪わずにいられる時間を、しばらくの間でも持ってもらいたかったんです。心と身体を十二分に休めてもらいたかったんです……ですが、貴方はここでも安らいでいない」
キースは口唇を噛んだ。図星をさされて即答できなかったのだ。ウォンはそんな彼の耳元に口を近づけて、
「もし、ここで暮らす方がよりよく生きられるというなら、いっそノアに戻ってこられなくともいいかもしれない、と思ったこともあります。貴方にあんな過酷な仕事を強いる権利のある者は誰もいないのですから。ですが、この休息がむしろ害を及ぼすならば……」
ウォンの声が熱い吐息に変わった。
「私が、貴方を、さらいたい」
「ウォン……」
ああ。
キースの目尻から、涙がひとすじ溢れ落ちた。
不覚。
だが、さらいたい、などという台詞がこんなに甘いとは思わなかったのだ。
虚しさと寂しさがどれだけ深く自分を蝕んでいたか、今更思い知る。
僕は馬鹿だ。
バーンの勢いのままさらわれてしまった後で、こんなことを思うなんて。
ノアのすべてを思いきろうとして、聴覚まで閉ざしたのに。
こうして君に抱かれてしまうと、そんな覚悟も片意地もどうでもよくなってしまうなんて。
色狂いか、僕は。
でも、それだけ欲しかったんだ。
この肌が、この熱さが、この囁きが欲しかった。
君を待っていた。君の迎えを待っていたんだ。
愛されている証がかけらでも欲しかった。
ウォン。
涙はさらに溢れた。
「泣かないで……」
ウォンの指先が、キースの頬をそっとぬぐった。
「ん」
目を開いて、キースは胸を突かれた。
ウォンの黒い瞳が潤みかけていたのだ。その声も震えて、
「泣かないで、ください……泣かないで」
さっきまで余裕たっぷりにこの身体をもてあそんでいた男が、ほんの少しの涙をみただけで動揺し、自身も泣きそうになっていた。今にも胸の張り裂けそうな顔で抱きすくめ、
「もう、悲しませたく、ない……貴方の涙を見るのは、苦しくて……すみません、本当にもっと早く来たかったんです、でも、怖くて……もし会ってくださらなかったら、汚らわしい、触るなと叱られたら……死んでしまう」
ああ。
二人とも同じことを考えていたのか。
自分の気持ちの揺れが大きすぎて、相手の気持ちを確かめるのが怖くて、触れていいかどうかもわからなくなって、時間ばかりが過ぎて。大事で。大切すぎて。
そう、私はやはり愛されていたのだ。
キースはそっと相手の頬に手を伸ばした。じっと瞳をのぞき込んで、
「ウォン。君が欲しい」
ようやく口にできた、その一言。
キースはやはり頬を染めてしまった。
別におかしなことではないのに。恥ずかしいことではない筈なのに。この今も、二人きりで、一糸まとわぬ姿で抱きあっているのに。
「キース様」
濡れた瞳で見つめられ、甘く呼びかけられてウォンの理性はふきとんでしまった。狂ったようにキースをかき抱き、その胸を舌で濡らしながら、
「もっと名を呼んでください……貴方の声がききたい、その甘い声で欲しがってください」
「あ……!」
のけぞった白い喉から切ない吐息が洩れる。ウォンの愛撫がきつくなる。指が蠢く。
「キース様、もっと」
「ウォン……あっ、そんなとこ……厭っ」
もがき震えるキースの下半身をさらに抱え込み、外と内からとろかしながら、
「貴方を狂わせたいんです。乱れるところが見たい」
「でも、駄目だ、おかしくなる、ウォン、もう駄目だから……そこ、もうやめ……」
「まだです。そんな口をきけるうちは」
「なら、もっときつく……そんなに焦らされたら本当に……ひどくしていいから、早く」
「そんなにすぐ欲しいのなら、私の名を言って頼みなさい。そうしたら、してあげなくもないですよ。どうです?」
キースは涙を散らしながら、
「ウォン……して……お願いだから」
「よし、いい子だ、キース。可愛いよ」
言われてキースははっとし、羞恥で全身を赤く染めた。ウォンは優しく抱え直し、くちづけてから湿った楔をあてがって、
「では、貴方の望む通りに。本当は、私もすぐに欲しかったんです。ほら、もうこんななんです……ね?」
「あっ、ウォン、熱いっ、あああっ!」
最中に、彼が相手の名を呼ぶことは今まで一度もなかった。どんな陶酔の境をさまよっても、名を呼んで愛撫をねだったことはなかった。出来なかったのだ。他のことと同じく。決して緩むことのない自制心のロープが彼の全身を縛っていたから。
しかしその時はそれが解けて、掌で触れられ、舌で溶かされるたびに口を衝いた。
何度も達しながら、逞しい大人の身体に、腕を足をからみつかせて叫んでいた。
「ウォンッっ!」
離れたくない。
全身の血が叫ぶ。このまま何度でも激しく揺さぶられたい。死んでもいい。
気を失う間際、キースの視界は白熱した。きつく眉をよせ、そして、ガックリとくずおれてしまった。
まるで、死に人のように。

気がつくと、ジープらしい四駆車の中にいた。
後部座席で薄い毛布にくるまれて、その上からウォンの腕が彼を抱いていた。車の細かい振動と優しい腕は、揺り籠のようにキースをあやしていた。
長く眠っていたようだ。疲れは重く残っているが。
「お目覚めですか」
「何処へ、いくつもりだ」
キースはうっすらと重い目蓋をあげ、周囲の景色を眺めた。
すでに何時間も走っていることを示すようにあたりは暗い。寒々とした雪の風景がヘッドライトに照らしだされている。
しかしこのゴツい4WDはいったい――運転手こそいるものの、ウォンにはあまりに似つかわしくない車だ。この雪の荒野を走るにはぴったりだから、目立たぬためにいつもの趣味を犠牲にしたのだろう。つまり本当に逃げるつもりなのだ。案の定ウォンは、
「ノアへ戻ろうと思っています」
そう言ってキースの額にそっと口唇を押し、
「それとも、またどこか別の静かな場所へ避難しましょうか。貴方の体調も万全ではありませんしね。かけおちも悪くありません……貴方となら」
「ウォン」
僕はまた、別の場所へ逃げてしまっていいのか。
安楽な時間をむさぼっていいのか。
いや。
今の自分に必要なのは休息ではない。休息では、この身体は元に戻らない。
キースはうつむき、ウォンの胸板を押し返すようにして、
「戻る」
と一言呟いた。ウォンはうなずいて、
「そうですね。それが一番よろしいでしょう」
彼はあえて、キースをもう一度抱き寄せようとはしなかった。
本当は、まだちょっと怖かった。
何度もすがりつくように欲しがってくれたのは、単に久しぶりだったからではないのか、気を失うほど激しく乱れたのは、初めて手加減しなかったので狂っただけではないのか、などと考えてしまうと。
いや、こうして逆うことなく一緒に戻ってくれるのだ、それだけで充分じゃないか。本当は触れさせてくれなかったかもしれないのに、思いは充分とげられた。君が欲しい、の一言もきけたのだ、あといったい何が欲しい?
キースは黙ってうつむいたままだ。
ウォンは少々意地の悪い声を出した。
「さて、バーンのことはどうなさいます? 彼に黙ってきてしまいましたが」
「ああ」
キースは曖昧な声を出した。
黙ってくるしかなかったと思うと。
ウォンが返せとかけあって、大人しくキースを渡す筈がない。それどころか、連れ出そうとした瞬間に命を賭けて阻止しようとしたろう。もしかすると今だって、キースの失踪に気付いて追いかけてきているところかもしれない。しかも車を使っているのだ、雪の一本道はその気になれば追いつくことも可能だし、場合によってはキースだけが引き返すことも不可能でない。
だからウォンは、わざとこの質問をしたのだ。今からでも遅くないですよ、私とバーンとどちらをとりますかと尋ねているのだ。
どちらもキースには必要な存在だというのに、選べというのだ。
彼は顔を上げた。
その口唇には不敵な笑みが浮かんでいた。
「構わないだろう。それに、おそらくバーンは戻って来る。ノアに」
「そうですね」
ウォンも不思議な微笑を浮かべた。
キースの断定口調があまりに彼らしく愛らしかったのと、その自信にみちた言葉が胸の深い部分をチク、と刺したためだ。キースがバーンを愛し、友として絶対的に信頼しているというその事実が、毒のように心に沈んだ。
ウォンはキースの肩に手を回した。いつものようにいたわり深い声で、
「もう少しお休みください。ヘリの中ではあまり眠れないでしょうから」
キースは軽く眉を寄せ、
「そんなものを用意していたのか。この天候に」
「ええ。でも、必要でしょう? 戻るのなら絶対に――たとえ独りで戻ることになったとしても」
ウォンの声はわずかにかすれた。その可能性が少しでもあったことに胸の棘がうずいたのだ。
その声の翳りをキースは感じとった。
「そうだな。……でも、一人じゃないからな。そうだろう?」
そう言って相手の掌を引き寄せ、指をからめてきゅっと締めつけた。ウォンが驚いて握りかえしそこなうと、キースは背伸びをして相手の口唇に噛みついた。
「……んんっ」
チュ、と音がして長い口吻が終わると、キースは顔を近づけたまま小さく呟いた。
「君が、好きだからな。……迎えにきてくれて嬉しかった。有難う」
ほんのり赤らんだ頬は、そのまま相手の胸に埋められた。
「でも、ちょっと疲れた。しばらく頼む」
キースは瞳を閉じ、ウォンの腕の中でこんこんと眠り始めた。
ウォンの口唇から深い吐息が洩れた。
この信頼。
胸底の毒は、きんいろの美酒に変わって全身に満ちた。
「キース様」
「うん……」
キースは微かに身じろぎし、更にウォンの胸に深くもたれこんだ。
ウォンも瞳を閉じ、キースに静かに身を寄せてそのぬくもりを愛しんだ。
ああ。
初めて彼が、自分からこの腕の中に入ってきてくれた。
そして、私を好きだと言った。
目の裏に熱いものが盛りあがってくる。
「ウォン」
キースの口唇が動いた。寝言らしく籠った声で、
「泣く、な……僕も……悲しませたく……な……」
とめどなく涙は頬をつたって、キースの上に落ちた。
抱きしめる腕をとくこともできないまま、リチャード・ウォンは泣き続けた。
それは、二人の孤独を共に癒す雨だった。
願わくば、永遠に。

(1997.11脱稿/初出・恋人と時限爆弾『WHERE DARK-ANGEL FEARS TO TREAD(堕天も踏むを恐れる処)』1997.11/挿入歌;リシャール・ド・フルニヴァル「ONQUES N'AMI TANT QUE JOU FUI AMEE.」部分)

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