『YOU KNOW? 〜知っているよね?』

1.

「あ」
デスクに向かってうとうとと眠りこんでいたキース・エヴァンズは、いつのまにか自分の肩に毛布がかけられているのに気付いた。
ウォンだ。
あえて自分の上着をかけていかないのが珍しい。普段のウォンは、ブランケットなど持ち出したなら、そのままキースをくるむようにしてベッドへ運んでしまう。その時キースが目をさましたなら、例の不思議な微笑を浮かべ、そっと抱きしめ、くちづけて……。
胸の奥が甘くうずいて、キースは思わず首を振った。
「疲れているのだな」
疲れもする。
全世界に広く呼びかけてサイキッカーを募ったところで、必要な人材や有能な者ばかりがやってくる訳ではない。キースに共鳴する者だけが集まっても、衝突は多い。敵は共通なのだから、と説得するだけで骨が折れる。自分の身体がひとつであることが悩みだ。いくら有能な右腕がいるとはいえ。
「あれは有能だ。間違いなく」
リチャード・ウォンがいなかったら、ノアはここまでやってこられなかったかもしれない。資金面での援助だけでない、ウォンは今までかげにひなたにキースを支えてきてくれた。ゆきとどかない部分をさりげなくフォローしてくれたり、ダーティワークをすすんで引き受けてくれたりした。実際、彼が裏で何を考えているのかはわからないし、甘くみることも油断もできないが、それでも年長者の如才なさと頼もしさは、若すぎる孤独な総帥にとって、失いがたい貴重なものなのだった。
キースは毛布を細長く折り畳み、胸の前でギュウと強く抱きしめた。
ため息をつくように小さく、
「……ウォン」
そう呟いたとたん、シュッと背後で鋭い音がした。
「お呼びになりましたか、キース様」
振り向くと、案の定そこにウォンの姿があった。彼はキースが一瞬頬を赤らめたのを見てとると、足音もたてずに近づいてきて、
「だいぶお疲れのご様子ですね。今夜はもうお休みになったらいかがです。よく眠ってからの方が仕事の能率はあがりますよ。ああ、どうしても急ぎの用ならお手伝いしますが」
「いや」
キースは立ち上がり、毛布の端を掴んでふわりとマントのように広げた。
「もう休むことにしよう。……君が今晩、私をゆっくり寝かせてくれるならの話だが」
「ふ」
ウォンは毛布ごと青年を腕の中に抱きとって、
「キース様がおのぞみでないなら、子守歌まででやめておきます」
「君の好きにしろ」
呟いてキースが目を伏せる。ウォンはその瞼の上にそっと口唇を押して、
「本当に好きにしていいんですか」
「ん……」
相手が小さく震えたのを見てとると、ウォンの囁きは妖しさと熱っぽさを増した。
「なら、いっそ貴方を食べてしまいたい……」
「馬鹿なことを」
「いいえ。たとえば貴方の肩に歯をあてるたび、このまま強く咬んだらと何度思ったことか。噛みちぎってしまいた時があります――細い指も、この柔らかな耳も」
「あっ!」
耳たぶをクン、と引くように咬まれて思わずキースは声をあげた。それにそそられたか、ウォンは抱擁をきつくして、
「よせと言わないと、本当に食べてしまいますよ。いいんですか」
「うっ」
キースは逃れようとしてかなわず、息をつめて堪える。ウォンは青年の敏感な場所に手をのばしながら、
「厭だと言ってごらんなさい。貴方の望まないことはしませんから。一言やめろと命令しさえすればよいのですよ」
「……にしろ」
「え」
キースはほとんど怒鳴るように、
「だから、好きにしろと言ったろう!」
「わかりました」
ウォンは不敵な笑みで応えた。
「覚悟してください。骨までしゃぶりつくしてしまいますからね」
「……勝手にしろっ」

まだ薄暗いその夜明け。
「キース様」
返事はない。
ウォンは目を細め、かたわらで寝乱れたままの若者の姿を見つめた。
安らかな寝顔と寝息。
執拗な愛撫に疲れ果てて、ぐっすり眠りこんでいる。
「こんなあどけない様子をして」
普段の尊大な命令口調も、彼の意地っぱりな性格をわかってしまえば可愛いものだ。総帥としての立場もあって、年が若いからといってなめられないよう、つけこまれないように表面をつくりこんでいるだけなのだ。その覆いを剥してしまいさえすれば、彼はごく素直な十八の青年になってしまう。こうして信頼もしてくれるし、思うままにするのも難しくない。
しかし。
最近のウォンは、それがやや物足りなかった。
「貴方を、食べて、しまいたい……」
そんな過激な台詞を口走るのは、キースからもっと愛情を汲み上げたいからだ。追いつめられて乱れ、理性を失って自分を求めるのが見たいからだ。
しかしこの年若い総帥はまだ、ウォンの渇きを癒すだけの泉を持っていない。それを責めるのは酷というものだが、潤いきらない彼の心を乾いた風が吹く日がある。もう飽きたというのではない、愛しいという気持ちは今でも強くあるのだが、この関係はもう長く続くまいと思う。キースの成長をじっと待つ手がないでもないが、その前に物別れになる気がする。かつての恋愛経験から考えて、そういう結果になるとしか考えられなかった。
「いえ、そうなる前に、貴方を殺してしまいそうで怖いのです」
青年の柔らかな胸板に掌をあてて、ウォンは低く呟いた。
手放したい訳ではない、いつまでも自分のものであってもらいたいのだ。裏切る気も今のところは全くない。しかし、ウォンの心のうつろいを敏感に感じとって、キースの方から離れていくことがあったら――男の我が儘と罵られるかもしれないが、その時はキースを許せず、この手にかけてしまうかもしれない。絆を断ちきられるぐらいならいっそ、と。
ウォンの精神衛生にとって一番いいのは、キースの右腕としての地位を維持しながら、別の気晴らしを見つけることだ。平和的な解決方法はそのぐらいしかない。
「他の人間と寝たら、貴方は許してはくれないでしょう」
キースは答えない。
指をその肌に這わせても、微かなうめきを洩らすだけだ。
「本当に食べてしまえばよかった。そうしたら、もう悩まなくてすむ。貴方は永遠に私のものになる……キース様」
憂いを含んだ声が、明け方の静寂に消えてゆく。
その悩みが思いもよらぬ方へ変わってしまう日が、ほとんど目の前まできていることも知らず。

2.

「会いたくない」
「会いたくない?」
バーン・グリフィスと名乗る年若いサイキッカーが、ノア秘密基地を訪ねてきた。
かつてのキースの親友で、行方不明の彼をずっと探していたという。
テレパシー放送をきいて訪ねてきたのだから、キースに協力する気がなくもない筈だ。超能力はまだ未知数の部分が多いが、かなりの強さが期待され、戦力として充分使えると判断された。
しかし、総帥キースはかたくなにバーンとの面会を拒んだ。何やかやと理由をつけて、絶対バーンと顔をあわせないようにしている。適当な部屋を与えて閉じ込めている。
それが何日も続いたので、不審に思ったウォンはキースに訳を尋ねた。
しかし彼は、決して理由をあかそうとしなかった。
「どうして会いたくないのです」
「どうしてもだ。追い返してもいいぐらいだ」
「追い返す?」
「そんなにあれが気になるのなら、君が相手をするがいい。私は口をききたくない」
言い捨てて姿を消してしまう。
「いったいどういうことだ……」
友情にも片想いというのがある。親友だと言っているのはバーンだけとあって、ウォンは少し悩んだ。ただでさえ多忙なキースに余計な負荷はかけたくない。総帥が嫌がるものを結社の一員にするのは好ましいことでなはい。しかし、本当に厭な相手であれば、キースは基地に入れる前にバーンを撃退している筈だ。
つまりこれは、いささかデリケートな問題なのだ。
たぶん、キースのバーンに対する気持ちは、好悪のいりまじったものなのだろう。かつての友人に会いたくないというのは、いらだちがあるからだ――つまり、自分が変わってしまったことと、相手が変わっていないことの両方に。
「……しかたない。まずは私が会うことにしましょう」

「キースに会わせてくれ」
通されたウォンの私室で、バーン・グリフィスは当然の権利のごとくその台詞を繰り返した。
「キースは何処にいる。どうして姿をみせないんだ。まさか、俺がきてるのを知らないんじゃないだろうな。いや、そんな訳ないよな。邪魔してる奴がいるのか」
本人に避けられているとは夢にも思わないらしい。これでは、彼が会いたがっていないのだと伝えても、簡単には信じないだろう。ウォンはなるべく神妙な顔と声をつくって、
「キース様も、本当はあなたに会いたいとおっしゃっているのです。ただ、少し時間が欲しいと言われて」
「時間だと」
「キース様はただの十八歳の若者ではありません。ノアを束ねる責任ある身です。行動も自ずと制限されるのです」
「それで友達にあえないってのはどういうことだ」
「それは……」
ウォンは目を閉じ、キースの心についてもう一度考えてみた。その想像を口にする。
「あなたがある日突然、数万人以上の人間を一人で指導しなければならなくなったとしましょう。彼らは同じ目標のもとに集まっていますが、もとは他人同士です。うまくゆかない時もあります。どうしますか」
「どうしろっていわれたって……」
とまどうバーンに、ウォンは優しい声をかけた。
「とにかく、以前と同じではいられないでしょう。指導者としての鎧を身につけずにはいられません。誰に対しても公平な、むしろ冷たい態度を身につけなければなりません。あなた――バーン君といいましたね。キース様だとて、友人は特別扱いをしたい筈です。しかし、あなたを大切にすることによって現れる影響を考えたら――ひいきをしていると思われたらどうですか」
「だが……じゃあ、俺にどうしろってんだ。帰れってのか、一人で?」
大きな瞳に絶望のいろが浮かぶ。
断崖絶壁に立たされたひとのような、恐怖にも似た悲しみの顔。
なるほど、この青年は、本当にキースを愛しているのだ。何かしたくて、役にたちたくて、側にいたくてしかたないのだ。
ウォンの心に同情の芽がふいた。
「帰れとはいいません。キース様も、あなたに去ってもらいたい訳ではないのですよ。親友が心配して訪ねてきてくれたのです、誰だって嬉しくないわけがない。ですから、あなたがノアの趣旨を理解し、メンバーの一員として少しでも暮らすことができるなら」
「それが、キースの言う《時間》か」
「ええ」
大人の笑みでバーンを見おろし、
「しばらくノアに滞在してみませんか、バーン君。キース様がどんなことをしているのか、深く知りたくはありませんか。それから会うのでも遅くないでしょう。互いに無事であることはわかっているのですから、ね」
バーンは口唇を噛んだ。顔を背けるようにして低く呟く。
「キースは一人でいるのが好きだが、本当はすげえ寂しがりやなんだ。あいつ、こんなところにいて、本当に幸せなのか」
「そうですね」
ウォンは、青年の肩を軽く叩いた。
「キース様は私などより、ずっとあなたが必要なんだと思います。だから、待っていてあげてください。そうすれば、きっと……」
「わかった」
バーンはこくんとうなずいた。
「待つよ。俺、キースのために来たんだから」
ウォンはお、と目を細めた。
これはこれで可愛い。キースと方向性は違うが、やはり十代後半とは思えないほど素直である。サイキッカーの宿命を持ちながら、こんな清らかな心のまま、よくもここまで無事にやってきたものである。ウォンはやさしくうなずいて、
「私もキース様のためにここにいます。もし、ノアの内部で困ったことがあったら、なんでも相談してください。できるだけのことはしますから」
「……わかった」
とりあえず用意されている部屋まで送りながら、ウォンは柔らかな眼差しでバーンを見つめた。自分がこの年の頃はどうだったろう。血族との醜くも陰惨な争いの中にいて、誰かを思いやる余裕などまったくなかった。友人のために長い時間と道のりをかけてやってくる純粋さ――愚かしいといえばいえるが、いささかうらやましくも思う。
そんな気持ちが少しでも通じたのか、バーンは部屋に入る前、ふとウォンの顔を見上げて、
「あのよ……なんて呼べばいいんだ。悪い、俺、まだ名前もきいてなくて……」
しおらしいほどの様子で尋ねる。ウォンは鷹揚な笑みを浮かべて、
「私ですか? リチャード・ウォンといいます。ウォンと呼び捨てて構いませんよ」
「じゃあ、俺も君づけしなくていい。あと、あんま気を遣わねえでくれ。自分のことは自分でやれる。子供じゃないんだ」
「バーン」
ウォンは若者をまっすぐに見つめ返した。
「誇り高き者なのですね、あなたは」
「別にそんなんじゃねえけどよ」
ウォンはいつもの不可思議な微笑をうかべ、
「いえ、最初から子供扱いするつもりなどありませんでしたよ。一日も早くノアに慣れて、私達の仕事を手伝ってください。よろしくお願いします」
丁寧に頭を下げた。
「……ああ」
バーンは何故か曖昧にうなずき、部屋に入ろうとしない。ウォンはその背を軽く叩いて、
「後で連絡しますから、安心して待っていてください」
「うん。わかった」
バーンは押されるままに部屋に入り、おとなしくドアを閉めた。
「いい青年だ」
呟きながら、ウォンは廊下を引き返した。
どうしてキース様は彼に会いたがらないのだろう。あのバーンという青年、素直で単純だが、誠実な心を持っているし、頭も悪くなさそうだ。いったい何が納得できず、かたくなにあおうとしないのか――と、物思いにふけりながら角を曲がった瞬間。
「キース様」
ウォンは我が目を疑った。
なぜこんなところに立っているのだ。
つい先ほどまで部屋に閉じ込もり、山のような書類とトラブルの前で苦しんでいた筈の彼が、どうしていきなりこんなところへ現れたのか。
ノア総帥はくすんだ顔でウォンをにらむように、
「バーンに会ったのか」
「ええ。それが何か」
君が相手をするがいい、と言ったのは彼本人ではないか。ウォンは一瞬戸惑ったが、すぐにはぐらかすような冗談めかした口調で、
「そんなに心配なさらなくとも、キース様の昔の失敗談を尋ねたりはしませんでしたよ。子供の頃はどんなにやんちゃだったかなど」
「そうじゃない」
キースの瞳のいろはやはり妙だ。ウォンは頬を引き締めて、
「彼はノアに役立つ存在だと思います。キース様を心配してきているのです、少なくとも害をなすことはないでしょう。私が相手をしておいて損はない。個人的にあったのは、ただそれだけの理由です」
「それはわかっている」
「では何故そんな……」
「わからなくていい」
キースはくるりと背を向けた。これ以上きいても無駄だとでもいうように。
「バーンと会うのを禁じた訳ではない。気にするな」
言い捨ててその場を離れていった。
その背に、硬く怒りを貼りつかせて。
ウォンは、自分の身体が微かに震えるのを感じた。
「キース様が……」
嫉妬している。
自分よりバーンが気にかけられていると思っているのだ。
これは自惚れだろうか。
しかし今のは彼らしからぬ、まったく意味のないアクションだった。
キースがすぐに姿をみせたのは、彼が二人の動向を見守っていたからだ。
バーンを心配してきたのなら、陰からそのままのぞいていた方がいい筈だ。バーンの様子が知りたいだけならウォンに尋ねればよいのだ。あんな駄目を押す必要もない。
そして、あの濁った怒りの表情。
「これは、よほど念入りにお膳だてしないといけないようだな」
ウォンは胸中に激しいときめきを感じていた。
バーンを使って、キースの心を揺さぶることができる。
たやすい作業ではないが、しばらくは退屈せずにすむ。
彼はうっとりと目を閉じた。
「キース様が、私を……」
深いため息が洩れる。普段の意地を忘れたように、幼い焼き餅をやいてくれるとは。怒りを抑えられないほど、私の存在を心にかけているとは。
常ならぬ感動が湧きあがる。
「愛されていると思うのは、悪い気分でないものだな……」
本当は、今すぐ追いかけていってこの胸に抱きよせ、何の心配もいらないのです、私が全部いいようにしますから、と囁いてやりたい。手の内もすべて見せてやりたい。
しかし、あのキースをもう一度見てみたい。
何もかも忘れてウォンの元にかけつける彼を。どろどろした複雑な感情に引き裂かれた顔は、別人のようだった。あれは、生きとし生けるものすべてが持っている負の瞬間だ。氷の仮面を持つ彼も、熱い血の通った人間であるという証拠だ。
ゾクゾクする。
とことんやって破滅にたどりつくつもりはない、ただ、彼の恋情をどれぐらい煮つめられるか試してみたい。その限界を知りたい。
「バーン・グリフィス――楽しませてもらおう」

3.

「何事だ」
定時のテレパシー放送を終えて指令室を出ようとしたキースは、眼下の地下中央通路に人だかりがしているのに気付いた。
「また諍いか」
「いいえ」
指令室の脇の一室で、いつものようにテレパシー増幅装置を扱っていたソニアがすかさず答える。
「喧嘩になろうとしたところを、バーン・グリフィスが止めたのです」
「バーンが!」
キースはそのまま続きをのんでしまった。
ソニアの言葉どおり、よく見ると通路の人群れは笑いさざめいていた。中央にバーンの姿があり、いつもの屈託ない笑顔であたりを照らしている。
なかなかやる。
あのグループは争いが絶えなかった。キースがどう説得しても、少し目を離すとこぜりあいが起きた。
それは仕方のないことといえた。同じ超能力者だからといって、皆が同じ考えを持っている訳ではない。同世代でも無理なこと、まして国籍も性別も生い立ちも違うのだ、まとまりようがないのは当り前なのだ。
それが、いっときとはいえ、皆すっかり和解している。
これはすべてバーンの手腕と人柄――そして自分にはないもの。
キースが物思いに沈んだのを見てとると、ソニアは機械のスイッチを切り、立ち上がって彼の傍らに立った。
「そろそろお会いになりますか、彼と?」
「いや」
キースは短く否定して、バーンから目をそむけた。
「会わない。かつての知人だからといって、特別扱いする必要はないからな」
「いいえ」
ソニアは首をふった。
「今までキース様は、特別でないものとも沢山お会いになりました。会いたいと望むものには、どんな相手であろうと、できるだけ公平に時間をさいてこられました。バーン・グリフィスにだけ誠意を示さないのは、逆に特別扱いです」
キースは薄く笑って、
「君もバーンの味方をするのか。彼がノアに必要な存在だと思うのか」
ソニアは表情を変えず、ただ大きな瞳をみはって、
「味方など。ただあまりにキース様らしくないではありませんか」
「ウォンに何をふきこまれた、ソニア」
キースは口唇を奇妙に歪めて、
「何故そんなにバーンを身びいきするのかしらないが、私には私の考えがあるのだ。そう言っておけ」
「私はそんな」
ソニアが詰まったところで、キースは会話の方向を変えた。
「今日のテレパシー放送は、ずいぶんと楽だった」
ソニアはほっとした顔で、
「ありがとうございます、お手伝いしているかいがあります。あ、それとも今日は体調がよろしいのですか、キース様?」
「そうかもしれん。手ごたえが軽いんだ……増幅装置のせいかな?」
口調こそなにげないが、その瞳の鋭さが暗い疑惑を隠せない。ソニアは言葉を失った。
「どうした、ソニア?」
応答が一瞬遅れたせいで、彼女の動揺はさらに激しくなった。冷汗を浮かべたような顔でその場に凍りついてしまう。キースはさらに畳みかけるように、
「君がいじったのか?」
ソニアはがっくりと首を垂れた。
「増幅装置の最適化をはかろうと思ったのです。キース様が少しでも楽に発信できるようにと……勝手に改変して申し訳ありません」
「そうか」
キースはソニアを離れ、壁一面を占める装置を見上げた。
「改造するのは構わない。私のつくった機械ではないのだし、機器の開発はもともと君の仕事なのだから。……ただ、今度からは相談してくれ」
「キース様」
振り返ることなく、総帥は部屋を出ていった。
ソニアは再び首を垂れた。
「申し訳ありません、キース様」
増幅装置をいじったのは彼女ではなかった。
しかしあの場は、ああ答えるしかなかったのだ。
なにしろこれは、キースのための嘘。
「もしかして、気付いてらっしゃるのかもしれないけれど……」
いや、気付いてはいないだろう。
増幅装置の最適化は彼の望む形でなされていない。だから、もし彼が真相を知ったら、自分を、相手をその場で裁くだろう。
一応ソニアがやりました、と説明したのだ、その嘘をあばいてこちらの顔を潰すようなことはしないとは思うが。
「……痛い」
綱渡りの危うい心地に、ソニアの心臓部にある増幅装置がきしんだ。身体が機械でも人間の魂を持つ者は、全身で苦しむ。まして機械に頼らぬ超能力さえあるのだ、二重苦三重苦だ。
「どうか悲劇が起こりませんように。それぞれの誠意が正しく伝わりますように」
彼女は神に祈った。信じてもいない、自分をこんな立場においやった、むしろ憎むべき存在に願った。
ノア崩壊の日が来ないことを。

4.

「人間てのはおかしなもんだな」
バーン・グリフィスは、背後に暗い気配を感じていた。
「どうして平穏を喜べない?」
彼は薄々、誰が自分をつけてくるのか気付いていた。この間やっと争いを治めた二つのグループにまとわりついていた男だ。直接的な利益はないのに、ちょこちょこと諍いの火だねをまいて煽るようなことをするのだ。歪んだ気性の持ち主らしい。
「武器商人が戦争を喜ぶのはまだわかる。汚ねえ根性だとは思うが、気持ちはわからなくもねえ。目的ははっきりしてるからな。だが、おまえはいったい何を考えてる?」
人の傷をいじくりまわすのが趣味だという人間の気持ちが、バーンには理解できない。たいして楽しそうでもない、第一馬鹿馬鹿しいと思う。逆に言えば、そんなことしか出来ない、人生に大事な何かを持たない連中は哀れだと思う。だが、同情もできない。あまりに自分とかけはなれていて、想像力が同情に追いつかないのだ。
「おまえみてえのは、誰でも面倒みきれねえぜ。たとえノアが超能力者の楽園だって、悪者までは抱えきれねえ」
そう呟いた瞬間、水の匂いが鼻をうった。
はっと振り向く間もなく、彼の全身は冷たいものに包まれた。
「うっ」
息ができない。水圧が全身を圧迫する。球体型になった大量の水が彼を閉じ込めて溺れさせていた。
水の超能力!
すぐに炎で切り開こうとしたが、相手の技が強力でなかなか解けない。
「畜生っ……」
水と炎は本来は相反する力ではない。基本的に水は癒すもの、炎は清めるものだからだ。ゆえにうまく打ち消しあわない時がある。
しかも憎悪が力を増している!
だが、バーンが気を失いかけた瞬間、ふっと水の檻が消えた。
しめた、と炎の鳥を出そうとした瞬間、今度は水の龍に食いつかれた。
「うわぁっっ」
腹部がちぎられる痛みに焼ける。
もう駄目か――そう思った瞬間、聞き憶えのある声が響いた。
「時よ!」
世界の全てが灰色に変わり、時間が凍り付いた。
次の瞬間、バーンは自分を襲ったサイキッカーが倒れているのに気付いた。その背に長い剣が刺さっているのを見た。そうして自分を助けてくれたのは――リチャード・ウォン。
ウォンは彼を抱えおこし、素早く心音と脈を確かめた。
「大丈夫ですか、バーン」
「大丈夫だ。それよりあいつ……殺っちまったのか?」
バーンが顎をしゃくると、ウォンは首を振って、
「一時的にダウンさせているだけです。三十分もすれば目をさますでしょう。ただ、あなたを襲った理由いかんでは、そういう処置もありえます」
「おい、追い出すとか殺すのとかはやめてくれ。救いがねえよ」
バーンは自分で身を起こして、
「誰でも心の具合いが悪い時があるだろ、そういう時はどこへ行ったって救われねえんだ。あいつがまともになるまで、あんま酷いことしないでやってくれ。どうしても駄目なら仕方ねえけど」
自分を襲った相手への適切な慈悲。
ウォンの顔に柔らかな微笑が浮かんだ。
「あなたは優しい人ですね」
「キースだってそうだろ、だからこんな秘密結社なんかつくったんじゃねえのか」
ウォンは手を貸してバーンを立たせてやりながら、
「どうでしょう。キース様は決断を伸ばして相手を生殺しにしたり、恐ろしいほど冷酷な判断を即座に下したりしますよ」
「それは冷たいんじゃねえよ」
バーンは声を低めた。
「確かにあいつは考えすぎる。俺もびっくりしたこともあったさ。でも本当は、キースの方がずっと正しいし優しい。俺なんか全然……」
「そうですか? 友達思いなあなたの方が優しいかもしれませんよ。心配して何年も友人を探し、探しあてた今も何かの役にたちたいと願ってここにいる。それは間違った誠意ですか?」
「いや、そうじゃねえけど……」
バーンはふとうつむいて、
「あのよ、その言葉遣い、ちょっと変えてくれねえか? 丁寧すぎて気持ちが悪いや」
「しかし、バーンにだけ丁寧にしている訳ではありませんから」
「なら、俺にだけ普通にしゃべってくれよ。他の奴には丁寧でいいからさ」
「わかりました、気をつけましょう」
バーンは頬をふくらませ、
「そうじゃなくて、わかった、とかさ」
ウォンはなるほど、と腕を組み、
「よし。わかった、バーン。……これでいいかな」
「うわ、なんかめちゃくちゃ言いにくそうだな、似合わねえし」
「そうですね。これはなかなか難しい」
「無理だったらやめてくれ。かえって気味がわりいかもしんねえ」
「はははははは」
二人は顔を見合わせて朗らかに笑い、肩を並べて救護室に向かって歩き出した。

仲睦まじく歩くウォンとバーンの姿は、指令室のモニターに映し出されていた。
「あの水使いのサイキッカーの処分はどうなさいます?」
ソニアが声をかけるまで、キースは無言でモニターを見つめていた。
「キース様」
「処分か……」
キースは深いため息をついた。本来ならカウンセリングを施して、再び元の集団に戻すべきなのだろうが、かつて人体実験をされたキースは、そういう手段を好まない。誰でも他人にいじられない権利がある筈だと考えてしまう。
「とりあえず超能力防護室で一週間の謹慎だ。グループの他のメンバーとも話をしなければならない。その後、改めて彼の配置場所を考える」
言葉にすれば簡単だが、それはひどく神経を使う仕事だ。珍しいことではないが、重い負担であるのは確かだ。ソニアはキースの目の下の黒ずみを気にして、
「お疲れの御様子ですわ、少し仮眠をとられては? 何か特別なことがあった場合は、私がお起こしいたしますから」
「ああ……いや」
キースはモニターに気をとられて曖昧な返事をしたが、すぐにソニアに向き直って、
「最近、夜はよく眠れるんだ。だから昼間寝る必要はない。テレパシー放送も楽になったしな」
「それならよろしいのですが」
キースはしかし眉をひそめた。
「いや、よくないこともある。楽になったのはいいが、最近テレパシー放送に対する反応が変わってきたんだ。うまく言えないんだが……なんというか……」
「お気のせいでは? 時間が経過すれば、同じ放送に対しての反応が変わっても不思議ではありません」
「そうだな。だが……」
キースは口元に手をあてて考え込み、
「やはり疲れているのかもしれない。仮眠をとる」
「はい。後はおまかせください」
言いながらソニアは、総帥が仮眠用の小部屋に向かって歩き出すのにつき従った。
「あ」
キースがふいに眩暈を起こして倒れかけ、ソニアは慌ててその腕を引いた。
その瞬間、全身の回路が焼けつくかと思うほどの激しい念が、ソニアに一気に流れこんできた。
〈僕の物だ・僕のものだ・ボクノモノだ・僕のモノダ・僕の・僕ノ・ボクノ……ッ!〉
「キース様!」
「大丈夫だ。手をはなせ」
キースは彼女を振り切って、小部屋に閉じ込もってしまった。
ソニアは茫然としていた。
なんという――一言で説明できない、複雑に絡み合った憎悪。ひと色で塗り分けられない、ドロドロとした嫉妬。
「人間て、なんて不思議な生き物なのかしら」
思わず自分の身体を抱いた。キースへの忠誠心やノアのサイキッカーに対する同胞愛こそあるが、あんな気持ちは持ったことがない。それは自分が機械の身体に閉じ込められているからなのか、それとも同じ立場に立たされたことがないからなのか。
そして、もう一つわからないのは、リチャード・ウォンの心。
「いったい何を考えて」
最近まで、傍目から見てもはっきりわかるほどキースに夢中になっていたというのに、近頃はやたらバーンと親しげで、ああしてついてまわっている。単に焼き餅を焼かせたいのかと思うが、それだけでないような気もする。
誰に対しても口を出せない立場だけに、ソニアの悩みは深かった。うかつな行動をとれば、かえって今のバランスを崩すかもしれない。
何もすまい。それぞれの動きだけは注意して。
とりあえずはきれいな三角形が成立しているのだから。

5.

「すげえ」
あたり一面ひろやかな緑の畑。まぶしいほどの星空。澄みきった甘い空気。
「風が冷たくて気持ちがいいや」
「季節が変わりはじめているんです。寒くなければいいのですが」
「寒くなんてないさ。いいとこだな、ここ」
バーンがウォンに連れてこられたのは、まぎれもない《外》だった。
ノア地下基地の西の通路を専用の車でずっと走ってきて、いきなり視界が開けたらここだった。目立たない場所に幾つか、こういう出入口があるらしい。
車を降りて歩き出すと、すがすがしいことこの上なかった。ウォンも外の空気にあたったせいか顔色よく、手にした小さいランタンをかかげながら、
「ずっと基地内に閉じ込もったままでは心にも身体にもよくないでしょう。それに、あなたには、こういう開放的な場所が似合います」
「そうかもな。それにここ、コロラドの田舎にどっか似てる」
「故郷はコロラドなんですか?」
ウォンが眉を上げるとバーンは肩をすくめて、
「ああ。……ってえか、俺の実家は山に近いんだけどよ、じいちゃんばあちゃんが平地で畑やってんだ。そこに似てる。夏はよく遊びいったな」
「では、実家のご家族は」
「父ちゃん母ちゃんと妹がいる。って、妹は家をおんでちまってるかもしれねえな。結構頭良かったから、奨学金をもらって東部の学校行くとかぬかしてた。こんな田舎に埋もれてられるかってな。まあ俺も、十二の頃からスポーツ特待生で家を出ちまってたし、あんまあいつのことは言えねえや。二人そろって親不孝だ」
「特待生?」
「あ、らしくねえって思ってるんだろ? その通りさ。あんまむいてなかったな。アメフトいくらでもやらせてくれて良かったし、いろんな勉強タダでさせてもらえるから我慢してたけどよ。それに、キースがいたしな」
「その学校で一緒だったんですか」
「寮で同じ部屋だったんだ。あいつ、最初はなかなか打ち解けなかったけど、一度心開いてからはすっげえいい奴でさ、いろいろ気ぃつかってくれたよ。誕生日とか絶対忘れねえで、俺がずっと欲しかったものくれたりしてさ。気持ち出すのが下手だから友達少なかったけど、本当はそれ以外の連中にも結構好かれてたよ。正義感が強くて、間違ってる奴見ると、なんとかしなけりゃって一生懸命考えて――優しい奴だったよ。きっと今でもそうなんだよな、たぶん」
そこでちょっと顔を翳らせた。会えないために仮定でものを言う自分が悲しくなったらしい。ウォンはぽんと肩を叩いて、
「その通りですよ。心配ありません。それに、キース様はそろそろあなたに会おうと思っていますし」
「ホントか!」
「ええ。私からも言ってありますから」
「そうか!」
バーンは思いきり伸びをして、夜の空気を大きく吸った。
「良かった! 本当に会えるんだな……あ、あんなとこに教会があるんだ」
彼らのゆく道の奥に小さな教会が建っていた。
正面の壁の高いところが小さく十字にくり抜かれていて、そこから淡い光が洩れていた。
光の十字架を指さしてバーンは呟いた。
「きれいだな」
「ええ。あそこで神様に祈りますか、バーン?」
ウォンが水を向けると、彼は首を振った。
「いいんだ。もう願いごとは叶ってるから」
その顔に浮かんだ笑顔が、その願い事が何かを物語っていた。
キースの無事を見届けること、それをずっと長い間祈ってきた、と。
ウォンは足をとめた。
「キース様が本当に大事なんですね。……なんだか焼けてきますよ」
冗談めかして言ったのに、最後が喉にひっかかった。慌てて咳ばらいをすると、バーンは真面目な顔になった。
「わかってるよ、ウォンもキースが大事だってことは。最初に会った時からわかってるから気にしなくていい。わかるよ、ほんとあいつイイ奴だからさ、誰でも好きになるって」
ウォンが答に詰まると、今度はバーンがその背を叩いた。
「今日は気晴らしさせてくれて、サンキューな。そろそろ帰るか」
「いえ」
ウォンはやっと笑顔を取り戻した。天を仰いで、
「今夜はいい晩です。もう少し歩きましょう。あなたの話をきかせてください」
「俺の話なんてたいして面白かねえよ。あ、キースの事が聞きたいのか?」
「どちらでも。あなたの好きな方を」
「そうだな」
星の降る道をふたたび二人は歩き出した。空気はさらに澄んで、道ゆく二人の胸の曇りを癒した。
こんな日もたまにはいいものだ、とウォンは心の底から思った。嘘でなく彼は、バーンが好きになりはじめていた。
「バーン、これを」
ウォンが彼の掌に落としたのは、車と西出口のスペアキーだった。
「ここで一人になりたい時は、これを使ってください」
「いいのか? 俺が悪い使い方したらどうすんだよ。誰かに売りとばすとか、ノアの秘密を売ったりしたらどうする」
バーンは鍵をひねくりながら首を傾げた。ウォンは笑って、
「どんな使い方をしても構いませんよ。好きな時に出ていって構いませんしね」
「別に出ていきゃしねえよ」
「そうですね」
ウォンがうなずくとバーンは声を高くして、
「おい、それってキースのためだけじゃないからな」
「バーン?」
彼はじっとウォンを見つめて、
「なあ、時々二人でこようぜ、ここ」
「キース様と二人で、ではないのですか?」
バーンはニヤッと口唇をひいて、
「本当は、キースを誘っても来なかったから、俺なんか連れてきたんじゃねえのか? あいつあんま外が好きじゃねえからな。でも、三人で来たっていいんだ。この景色は誰のものでもないだろ、そうだよな?」
ウォンは小さく笑った。
「ええ。今度は月のきれいな時に来ましょう。三人が無理でも、あなたとね」
「おうともよ」
バーンの大きな瞳に浮かぶ暖かさが、ウォンに今まで欠けていたものをすうっと満たした。それはキースでは獲られない何かだ。
「ありがとうございます、バーン」
「礼をいうのは俺のほうだぜ」
「いいえ、私の方です」
ウォンは祈る気持ちになっていた。
なんという恵みだろう、単純明快な信頼と感謝は。心理戦や策略の上にない言葉は、なんと心地よいものか。
彼は友愛をこめてバーンの肩を抱いた。
「ありがとう」
バーンはしきりに照れて、人柄の良さを示す。
「また、二人で来ましょう」
「ああ」
同じ台詞を繰り返しながら、彼らは夜の底を歩き続けた。
この世に他の人間がいることなど、醜い感情の争いのあることなどすっかり忘れて。

6.

指令室脇の書斎で各地からの報告書に目を通しながら、キースは頬杖をついた。
「おかしい」
何がおかしいのか掴めないのだが、どうしても妙だ。ノアが変質しはじめている。誰でも受け入れる避難所の意味あいが薄れはじめている気がする。いや、別のものになっても構わない。だが、悪い意味で変わっては困るのだ。
「時間がたてば組織は変質するものだが……他に原因はないのか」
こんな時ウォンがいれば、自分の直感を形にしてくれるのに。
キースとは得意とする範囲が違うが、彼もまた現実より夢を見て暮らすタイプだ。だからウォンは、他の者よりよくキースの屈託を汲んでくれる。そして、彼の心を傷つけない方法を考えてくれる。彼より優れた相談相手はいない。
だが、最近ウォンは、あまり指令室に顔を出さない。困れば呼びつければいいようなものだが、キースの自尊心はそれを邪魔した。ウォンも別に暇な訳ではない、彼は実業家で、ノアの仕事だけしているのではないのだから、などと自分に言い訳する。ノア内の仕事でさえ、キースが把握しているだけでも常人の数十倍の量あるのだから。
「疲れた」
もう夜も更けた。休もう。
キースは書類を片付けると、立ち上がって指令室へ入った。
仮眠室でなく自室へ戻るべきか、などと考えたら急にだるくなった。胸の奥からこみ上げてくるものがある。一人で寂しいのはどちらも同じだと思うと……。
地下通路が見おろせる大きな窓に寄って、キースは小さく呟いた。
「バーンのことも、どうにかしないといけないしな」
彼がノアにきてからもう三ヶ月、すっかりこじれてしまったような気がする。
ただ彼に、今の自分を見せたくなかっただけなのだが。
「馬鹿な意地を張って」
大事な相手だからこそ、自分の疲れや醜さや血濡れた過去を知られたくなかったのだ。結構日常的に荒業もやっている。もしすべてを知ったら、彼は――。
いや、それだけでない。
バーンが何故か、昔より遠く感じられるのだ。
以前、彼を襲った水使いのサイキッカーの気持ちがわかる気がする。あの屈託のなさがうらやましく、そして憎くもなる。自分の中の暗い気持ちが否定される気がするのだ。
昔なら、彼の明るさ善良さがなによりも救いだったが。
「時間は残酷だな」
今ではバーンの明るさよりも、ウォンの如才なさの方が好ましく思える。そして、自分でも驚くべきことに、二人が笑顔を交わしているのを見て、《僕のバーンだ》と思った次の瞬間、《私のウォンだ》と思うのだ。そしてだんだん、後の感情の方が重くなってゆく。
馬鹿馬鹿しい嫉妬だ。
二人を近づけさせたのは、いったい誰だ。
苦笑いした瞬間、キースは背後に人の気配を感じた。
サイキックを使わず、音もたてずに近づいてくる。
「…………」
ふりかえれない。
声も出ない。
誰だかわかっている、危害を加えようとしているのでないのもわかっている。だから自然に振り向いて笑ってみせてもいいのに、それができない。
だが、ウォンもまた無言のままだった。
静かに後ろに立ち、そっとキースの背中に左手を押し当てた。貴方の辛さも苦しさも何もかもわかっていますよ、というようないたわり深いやり方で。
「ん……」
幾重もの布を通して肩甲骨に染みてくるぬくもりに、キースは思わず身をすくめた。
思えばしばらくこんな風に触れられていない。背中のぬくみだけで慰められて、胸の奥にぽうっと火が灯る心地がした。次に来るのは甘い口吻――キースは瞳を閉じて、顎をとらえにくる大きな掌を待った。
しかし、ウォンの掌は背中から下へ滑った。腰骨の辺りを包み込み、薄い筋肉の感触を味わうように動かない。
ああ。抱きよせてくれればいいのに。
何もかも忘れられるほどきつく抱きしめてくれたら。
しかしウォンは、腰から先へすすめようとしない。
「あ……」
手が触れている所から突然、とろけるような甘い熱が腰に広がった。ただ掌をあてられているだけなのに、それは這いのぼって胸を満たし、そして全身を浸した。
膝の力が抜ける。
キースは身をねじって、ウォンの胸に倒れこんだ。
ウォンはようやく彼の背に腕を回し、そっと抱きよせて低く囁くように、
「ベッドまで歩けますか、キース様」
「ここでする気か」
「まさか」
そんなに飢えてはいませんよ、と目で言って、キースの身体を軽がると抱えあげた。
「何をする」
「女の様に運ばれるのはお厭ですか? ああ、ベッドでない場所も面白いといえば面白いですから、ここの方が良ければそうしますが」
キースは思わずウォンの首にしがみつくようにして、
「ベッドがいい」
「そう言うと思いました」
だだをこねる子供のようなキースを見おろして、ウォンはいつもの微笑を浮かべた。
「私も、貴方を清潔なベッドの上で抱きたい。貴方が求めてくれる時に、貴方の望む形でしたいんです……こんな風にね」
「!」
求めるという言葉に反応して、キースはカッと首筋まで赤くなった。うっかり甘えたのが不覚とばかりに暴れだし、
「降ろせ。自分で歩ける」
「キース様」
しかたなくウォンはキースを降ろしたが、立ったなりで再びぎゅっと抱きなおした。
「これじゃ同じだ」
キースは首をすくめたが、それ以上は抵抗せず、次の動作を待つ媚びさえみせてウォンを見上げた。
寂しくてたまらなかった、と全身が訴えている。
ウォンの胸は少なからずとどろいた。
久しぶりに触れて思い知った。自分がこの身体に、この魂にどれだけ深く魅かれていたかを。今晩はキース自身がもっと欲しがるまでじっくり待とうと思ってきたのだが、いや、今日に限らずあえて距離をおいていたのはそのためなのだが、その反動か、今すぐこの場で辱めたいと思うのをこらえるのが精一杯だった。すっかり声もかすれて、
「貴方が……欲しい」
ウォンはさらうように彼を抱えあげ、うむをいわせずキースの部屋へ、ベッドへと運んだ。溢れる気持ちのままにキースを押し伏せた。
シーツの上で、キースは声をあげなかった。自分から求めることもなかった。しかし、ウォンの手も腕も決して拒むことはしなかった――最後まで。

ようやく息が整って、キースは胎児のように身を丸めた。
ウォンは身体を伸ばしたまま、目を細めてこちらを見つめている。
キースは視線をそらした。
庇護され触れられるのは心地よいが、それに負けまい、崩れまいという気持ちがあらわれて、自分からはどうしても甘えきれない。
こんな時にそっと寄り添ってみせれば、ウォンはどんなに喜ぶだろうと思う。
せめてウォン、と呼びかけてみようか。そうしたら向こうから近づいてきて、もう一度優しく抱きしめてくれるだろうか。
待て。
ウォンが本当に愛しているのは誰だ。
今、一番気にかけている相手は。
そう思った瞬間、身体に残っていた甘い痺れがかき消えた。
「バーンのことだが」
思わぬ台詞が口をついて、キースは驚いていた。しかも続けて冷やかな声が出る。
「彼にサイキッカーの指導をさせるつもりなのか」
「まさか! サイキッカーの指導は、キース様の仕事です。他の何者も奪える訳がありません、このノアでは」
ウォンも普通の声で応えた。抱き合っている時の優しい調子は消えていた。
「ただ、バーン・グリフィスは良い青年だと思います。ノアの趣旨もすっかり理解しています。ひねくれた所もありませんし、頭も悪くない。使える場面では使っていくべきだと思うのです。彼は有能です」
「ずいぶん誉めるな」
「力のある者を使うのは当り前の事です。誉めてなどいません」
「だが、特別に目をかけて使っている!」
キースの声に嫉妬が溢れた。ウォンは目を丸くして、
「彼はキース様の御友人です。いいかえれば貴方のものです。私が特別に扱える訳がありません。もしそうだというなら、これからは貴方がバーンをお使いになればよいのです。きっと彼は、私よりも貴方のいうことをきくでしょう」
「わかってるくせに!」
叫んでドン!とウォンの胸を叩いた。相手がベッドから落ちる勢いで、激しく叩き泣き声を上げた。
「何に怒ってるか知ってるだろう! 私をもてあそんでそんなに楽しいか! それとも馬鹿にしたいのか? 私をなんだと思ってる!」
シーツごと二人は床へ転がり落ちた。
「馬鹿っ!」
「すみません」
「おまえなんか!」
キースはふと殴るのをやめた。シーツの中から身を起こして、
「……貴様、私に焼き餅を焼かせるのに成功したぞ。これで気がすんだか」
怒りを無理に押さえつけた低い声。言いたりない、殴り足りないのに、いつもの理性で懸命に割り切ろうとしている。
ウォンはキースの腕をとらえ、自分の胸の上に軽くひきたおした。
「焼き餅を焼いたのは私の方ですよ」
倒れこんだキースの頭の上で呟くように、
「私にはこんなに素直に抱かれるのに、貴方はバーンには絶対会いたがらない。延々つっぱらなければならないほど好きだなんて、どうしたって焼けるじゃありませんか。だから意地悪したんです」
ぽんぽんと背を叩き、
「大丈夫です、まだ友達として充分やり直せますよ。別れた恋人同士によりが戻ることがあるんですから、貴方達だって平気でしょう」
「そんなことは心配してない」
「では会っておあげなさい。なんでもないことでしょう?」
「わかった。……近いうちにな」
ウォンはかすかに微笑んで、いい子いい子とキースの頭を撫でた。
「子供扱いするな」
「しませんよ。ベッドに戻りましょう」
「あ」
髪をすかれただけでゾク、と震えがきた。その額から耳にかけて、長い指がゆっくりとたどってゆく。
「はぐらかしてすみませんでした……本当は、なんと言っていいかわからなかったんです。どうしたらわかってもらえるでしょう、髪の毛一本まで私はすべて貴方のものだということを」
「おまえは……おまえ自身のものだろう」
口唇の縁を、短いうぶ毛をなぞられて、キースは口をつぐんだ。ウォンの吐息がその上に落ちる。
「ええ……そうですね」
キースはそっと瞳を閉じ、顎を上げた。
熱い口吻が降ってきて、青年の肌を覆い尽くした。冷えかかっていた彼の口唇も、それに応えて相手を溶かした。
ひとつになりたい。
らちもなく乱れて、二人は互いを求めあった。ただ、キースは誰それのもの、などという相手を見おろした考え方でなく、同じ場所でもつれあいたかった。ウォンはどうしても相手にかしづきたく、丁寧におごそかに、そして熱狂的に抱きしめた。
そうやって微妙に食い違ったまま、彼らの格闘は続いた。夜明け近くに眠りにつく頃には、互いの境はどこなのかもわからなくなっていた。

先に瞳を開けたのはキースのほうだった。
「ウォン」
傍らの男は静かな寝息をたてている。
その顔に、今この瞬間に死んでも悔いのないような幸福の微笑を浮かべて。
自分もこんな満ち足りた顔をしているのだろうか。
キースは肘をついて上半身を起こした。
身体中に力がみなぎっている。胸の中にぎっしり詰まっているものがある。渇きは嘘のようにすっかり癒されていた。
ウォンの乱れた黒髪は美しく肩をふちどって、白い肌をくっきりと浮きたたせている。
キースはその胸に手をあてて、しばらく鼓動を楽しんだ。
「どんな夢をみてるんだろう」
空いている方の手で相手のこめかみに触れ、思念を集中した。
次の瞬間、キースはウォンからとびのいた。
「おまえ……!」
ウォンもはっととび起きた。頭の中をのぞかれたのに気付いたのだ。うかつだった、と口唇を噛む。浅い眠りの中で意識のブロックが外れ、一番肝心な事を知られてしまったのだ。
キースはじっとウォンをにらんだまま、
「私に二度と触るな。理由はわかっているな? 私が一番許せないことをしたとわかっているな!」
「キース様」
「言い訳はきかない。出てゆけ。薄っぺらい同情もはきちがえた愛も私はいらない」
「わかりました」
ウォンはすっと背を向け、ベッドから降りた。服をつけても振り返らず、
「申し訳ありません。許していただけないのはわかっていましたが……失礼します」
それだけ言って部屋を出ていった。
キースは茫然としていた。
なんとあっさりした幕切れ。
「どうして……どうして本当に何もいわずに出てゆくんだ」
昨晩の交わりで、身も心も深く触れあった筈だった。
それなのに、いとも簡単に去ってしまうなんて。
自分がいけないのだろうか。
出ていけなどと一刀両断にせず、落ち着いて話をきくべきだったのだろうか。
それとも彼は、最初からことが露見した時は消える覚悟だったのか。
そう、許してもらえないとわかっていた、とウォンは言った。
「馬鹿な、隠さず相談してくれればよかったんだ」
呟いて気付いた。前もって話をされたら、十中八九断わった筈だ。
すべて私のため――
キースはシーツの中に再び沈みこんだ。
もしこれで、ウォンがノアからいなくなってしまったら。
昨夜の残り香の中に、氷の滴が幾つもしたたりおちた。
「ウォン」
今、おまえが必要なのに。
キース・エヴァンズはかつて多くの人間に裏切られた。だからあまり他人を頼ることをしなかった。部分的に信用はしても、かけがえのない存在にはしなかった。彼にとって重い存在といえば、子供時代のバーンぐらいのものだった。
それなのに。
この、肺を切り取られてしまったような痛みと呼吸困難はなんだ。
「おまえなんか……!」
声はもう出なかった。
身体も凍りついたように動かせず、ただ泣くことしかできなかった。

その日、キースはテレパシー放送をしなかった。
心配をするソニアに一切をまかせて部屋を出なかった。
再び夜が来るまで、彼は笑っていた。
いつまでもいつまでも笑い続けていた。

7.

「あ、いたいた!」
遅い夕食をすませたバーンは、自室に戻る廊下を歩いているウォンを見つけた。
「すっとさがしてたんだぜ、何度も部屋いったりしてさ。な、今晩ひまか?」
腕にぶらさがって顔をのぞき込む。
その時、ウォンには表情というものがなかった。ただ無言で眼鏡を光らせている。
「なんかあったのか」
「え」
ウォンはやっとバーンに気付いたようだった。掴まれている腕の感覚もないかのようなぼんやりした顔で、
「どうかしたんですか、バーン」
「おいおい、そりゃ俺の台詞だぜ。その調子じゃ飯も食ってねえだろ?」
「いえ、そんなことは……」
と答える声もうわの空だ。
「しょうがねえなあ、ちょっとこっち来いよ。そんなんじゃ、今晩仕事あってもまともにできゃしねえだろうしな」
バーンは、掴んだままのウォンの腕をぐいぐいひっぱり始めた。ウォンもあえてさからうようなこともせず、行く先も尋ねずに素直に引かれていく。
西通路口にある駐車場まで来ると、バーンは例の車にウォンを押し込んだ。
「今夜、満月なんだ。こないだんトコ行こう。外は晴れてるらしいから、きっと綺麗だぜ」
「そう、ですね」
ウォンは無雑作にハンドルを握ると、霞んだ顔のまま真っすぐに通路を走りだした。

教会の上に月が出ていた。
「でけえ月だな。眩しいぐれえだ」
「そうですね」
おかげで今日は灯火がいらなかった。二人は冷たい銀いろの光に照らされて、くっきりと影を落としていた。
「あの教会、あかりがついてるけどよ、中に人いんのかな」
バーンが水を向けると、ウォンは首を振った。
「夜は誰もいませんよ。あそこの牧師の家は、少し離れたところにあります。あのあかりは、旅人の道しるべの代わりです」
外気にあたったせいか、ウォンの言葉ははっきりしてきた。バーンは喜んで、
「よく知ってるな」
「よく知りもしない場所に出口をつくったりはしません」
「そっか」
いつものウォンに戻ってきたので、バーンはほっとして、
「あそこは入れるのか?」
「たぶん。普段は鍵はかけられていません。盗むようなものもないし、あまり人も通りませんし」
「じゃあ、行ってみようぜ」
バーンは先にたって走りだした。
ウォンの言うとおり、中には誰もいなかった。
説教台と整列した木の机、そして備えつけの聖書。高いところの窓はごく普通のガラスがはめてあって、吊されているランプの暖色をはねかえしている。説教台にかけられた深紫の布以外は、虚飾の一切ない教会である。
ウォンは扉を押しあけて、壇上に座っている彼を見つけた。
「これで完全に二人っきりだよな」
バーンは笑っていなかった。
「ウォン、教えろよ。キースと何かあったんだ」
「なんのことです?」
ウォンはバーンに近づきながら微笑を浮かべた。
「顔に書いてあるんだよ、喧嘩したってな。どうしてだ」
「喧嘩などしていませんよ。何を言わせたいのです?」
バーンは立ち上がってウォンの胸元を掴んだ。
「とぼけんなよ。人があんな顔するのは、大事なもんをなくした時さ。それぐらいのこと、子供だってわかるぜ。そしておまえが一番大事なのは――」
ウォンは弱々しく笑って、バーンの掌の上に自分の掌を重ねた。
「喧嘩をした訳ではありません。ただ、キース様は絶対私を許さないでしょう。それだけのことです」
「いったい何したんだ、おまえ」
「増幅装置の改変」
「なんだそりゃ」
ウォンは気のゆるんだバーンの手を静かに胸から外して、
「キース様は毎日テレパシー放送をなさっています。今までのサイキック増幅装置は、それを全世界に発信するためのものでした。地球上にいるすべてのサイキッカーにノアの救いを伝えたいとおっしゃったので、最初の増幅装置はそれを助けるためのものにしました。広くあまねく、大都会へも人の少ない場所へも同じように届くようにしました」
「なるほどな。で、いったい何を変えたんだ?」
ウォンの口の端が奇妙につりあがった。
「最初の装置はキース様に大変な負担を強いることになりました。毎日毎日、どんな遠くへも届くよう、必死になっていらした。普段はなにげない顔をなさっていますが、この一年の間に、キース様の体重は十キロ以上減っています。もともと痩せていらしたのに。日に日に青ざめていく姿を見て、私は我慢できなくなりました。そして、増幅装置を根本から変えたのです。一定の反応がある地域のみに絞って発信できるように。それから、返ってきた反応も、キース様にあまり不快感を与えないものだけ受け取れるようにしました。もちろんすぐに気付かれないよう、今までのデータを分析して調整をしました。特定の地域に偏らないようにして、反応もいろいろ折り混ぜて――長いこと私は、キース様を騙してきたのです」
バーンはなるほどとうなずいて、
「そんでキースが怒ったのか」
「出てゆけ、と。言い訳はききたくないと。絶対に許してはくださらないでしょう。私は差し出がましいことをしたのです。そばにいて、これだけはしてならない、と当然わかっていなければならないことだったのですから」
「でもよ、キースのためを思ってしたんだろ、大丈夫さ。しばらくは怒ってるかもしれねえけど、ちゃんと謝れば許してくれるって」
その途端、ウォンの瞳に涙が溢れた。
「違うんです。私には、キース様の気持ちがわからないんです……あの人の支えになりたいと思って、今まで何もかも知っているふりをしてきましたが、本当はいつもおびえていたんです。キース様が不自由のないように頑張ってきたのは、切り捨てられることを怖れていたからです。いえ、私は……私は……」
女のように美しい顔を涙が濡らしていく。
大の男の涙などあまりみたことがないバーンは言葉を失った。
しかもそれは真実の涙。
「すみません、泣くつもりなどなかったんです、ただ私は……」
「ウォン」
「キース様は私を信じていたのです。それなのに私は裏切った。あの人が命を賭けている場面で、それを台無しにしたのです。ただ無事でいてほしかったというそれだけの理由で――許してくださらないのは最初からわかっていました。だから相談もせずにやったのです。でも、弱っているあの人をみすみす死なせる訳には……」
「わかった」
バーンはウォンの肩に手を回し、説教台に座らせた。自分もその脇に座って、
「なあ、平気だよ、キースはきっと許すさ。あいつはそんなに了見狭くねえよ、大丈夫だよ、な?」
「……駄目です」
ウォンはバーンの肩に顔を埋めてきた。
「泣いてていい。泣いてていいよ……」
その言葉にウォンが顔をあげると、バーンと目の高さが同じになった。あまり上背のないウォンは、少し斜めによりかかるだけで、見つめあうことができた。
「俺がしつこくきいたからいけねえんだよな。泣いてていいから」
バーンはウォンの濡れた頬にそっと口唇を押した。
「な? キースもそうだけど、おまえも無理しすぎてんだよ。疲れてんだ。だからよくないことばっか考えるんだよ。ちょっと休みな。今だけは頭ん中からノアのこと追い出しな。俺がいるから」
「バーン」
ウォンはいきなりバーンの口唇に噛みついた。喉の奥で彼の名を呼びながら、舌を探ってからみつかせた。
バーンは動けなかった。
激しく求められて驚き、それから甘い情感が全身を浸して力が入らなくなった。こんな所でバチあたりかな、と思いながら、相手の腕に身をゆだねた。
「ああ……私は何を」
ウォンは一瞬我に帰って身体を離した。
「気の迷いです、これは気の迷い――私はいったい何を……」
涙の乾かないその顔を、バーンの腕が引き寄せた。
「俺もちょっと気が迷ってるかもしんねえ」
バーンは胸に強い保護欲を感じていた。母のように妻のように、相手の痛みを和らげてやりたいと思った。
「男に抱かれたことはねえが、女じゃないんだからなんてことねえよな。――こいよ」
ウォンは目をみはった。
「そんなことを言って、後悔しますよ」
「ああ、後悔しないように、ちょっとは優しくしてくれよ、な?」
その少しはにかんだような笑顔に吸い込まれるように、ウォンは再びバーンにくちづけた。腕の中にさらいこんで、低く囁いた。
「優しくします」

8.

戻って、こない。
「本当に行ってしまったのか」
一晩中、ウォンは基地に帰ってこなかった。
キースは、まんじりともせず指令室で彼を待っていた。時には自分の部屋に戻り、時にはウォンの私室を訪ねたが、どこにもその姿はなかった。
思いあまってテレパシーで呼びかけようとしたが、昨日自分のしたことを思い出すとどうしても出来なかった。
「つなぎとめられる理由もないんだ……」
ウォンは自分の自由意思でノアへやってきた。この秘密結社をこの大きさまでにしたのは彼の功績であり、キースに借りなど少しもなかった。二人の関係は支えられる者と支える者の関係、与えられる者と与える者との関係だ。支える者、与える者は、その相手に突き放された時、失うものはなにもないのだ。
「ウォン」
私は失ったのだ。潤沢な資金と、明晰な頭脳と、疲れることをしらず動き続けるバイタリティと、いざという時には頼れる相手を。
いや。
それだけなら、優秀な人材を新たに探せばすむことだ。
キースは、心のどこかでウォンを信じていたのだ。どのみちいつか離れてゆく男だ、もしくは手ひどく裏切られるかもしれない、と自分にいいきかせても、失いたくない気持ちは消えなかった。
だって、ウォンはいつでも誠実だったじゃないか。
その手に触れられるたび、その胸に抱き寄せられるたび、魂の震える思いがした。乾いた地面にしずくがさっと吸い込まれるように、その吐息が、熱い眼差しが、優しい愛撫が、情愛に飢えきった身体に染み込んできた。
ウォンは全身で囁く。
愛しています、と。
その気持ちは純粋で、だからこそキースは抵抗できずに身をまかせてしまう。
愛されている、そのことだけは絶対に嘘ではなかったから。
増幅装置をいじったことだって、それは私のためを思って――。
その瞬間、ノックの音がした。
「キース様……」
その遠慮がちな声は、まさしく待ちこがれていたものだった。
リチャード・ウォン。
「入れ」
言われるままにウォンは指令室に入ってきたが、ドアの側から動かない。
「どうした? こっちへ来い」
ウォンは目を伏せた。
「許してくださらなくて構いません。二度とキース様に触れたりしません。でも、せめてお別れだけは言わせてください。私は……」
キースは、自分からウォンのいる所へやってきた。
「早まるな。ノアから出ていけと言った訳ではないんだ。増幅装置の事は……難しいがこれからいい方法を考えよう。君と一緒にな」
「本当ですか」
ウォンは目を開き、すぐにキースのやつれた顔に気付いた。どんなに自分が言ったことを後悔しているか、どんなにウォンに帰ってきて欲しかったか、その瞳は雄弁に物語っていた。ときめく胸のままに、彼は念を押した。
「本当に、これからも貴方のそばにいて、いいのですね」
「うん」
キースは子供のようにこくんとうなずき、そのままウォンに抱きつこうとしてはっとした。二度と触るな、とは確かに言った。怒りにまかせての言葉で本心ではないが、今ここで自分から相手の胸に飛び込んでいったりしたら、抱いて欲しくてひきとめたようではないか。いや、抱かれたくないと言ったら嘘になるが、その身肌に焦がれているから戻ってきてもらいたかったのではない、私はただ――。
「……どうなさいました?」
ふと動きをとめたキースに、ウォンはヒヤリとした。昨夜激情にかられてバーンを押し倒してしまったことを気どられたのではないかと思って、心のガードを固くした。身体の方はすっかりきれいにしてあるから、おかしな行動でもとらないかぎりバレない筈ではあるのだが。
「なんでもない」
キースはくるりと背を向けると、心の混乱が溢れ出さないように、なるべく抑えた声を出した。
「戻ってきてくれて、嬉しい」
「キース様」
ウォンは一瞬我を忘れた。思わずぎゅっとキースを抱きしめて、
「本当に許してくださるのですね? 本当に……」
「苦しい。やめろ」
キースはウォンを突き放した。自分の気持ちを気どられてはかなわない。今すぐおまえに抱かれたい、優しく甘くいつものように――などと。
「すみません、そんなつもりでは……」
ウォンはすぐにうなだれた。二度と触れるな、の言葉は未だ鋭く彼の胸に突き刺さっていた。ノア総帥は、リチャード・ウォンを必要としているが、それはあくまで精神的金銭的な部分で、肉体的には欲していない、というのだと思った。
そうだろう。
キースはどんなことをしても抵抗しないが、自分から求めてくることはない。黙って身をまかせるのは一時の気晴らしに近く、まあまあ気持ちがいいから好きにさせてきたのだろう。もちろん嫌ってはいないだろう、他の人間と仲良くしていたら面白くないと思うぐらいには好いてくれている筈だ。
だが、それだけだ。
それだけのこと。
「私もそんなつもりで言ったのではない」
キースはキースで慌てていた。ウォンに抱きしめられることも愛されることも好きだ、プラトニックな関係に戻りたい訳ではないのだ。
「私は、ただ……」
キースは口唇を噛んだ。このままでは抱いてくれ、と口走ってしまいそうだ。何か別の事を、別の話題を考えなければ。
ああ、あったじゃないか。不自然だが急に思い付いたふりをすれば。
「ところで、バーンに今日あおうと思う。準備してくれるか?」
「今日ですか?」
バーンは自分の部屋でまだ眠っている。いくらウォンが手加減したとはいえ、初めての体験でかなり疲れてしまっていた。ウォンに車に乗せられた途端に眠りはじめ、部屋まで秘かに連れてゆくのも大変だった。
「何かまずいのか」
「別に不都合はありませんが……それで、何処でおあいになりますか? 堂々とここ指令室で、それともキース様のお部屋へ差し向けるか、それともお訪ねになりますか?」
「そうだな、とりあえず二人きりであいたい。私の部屋によこしてくれ。夕食後でいい。私は少し仮眠をとるから」
そう言ってちら、とこちらを見上げる。
その瞳には潤みと熱が浮かんでいて、軽くウォンの胸を打った。声音の端に甘えがあって、今なら口吻ひとつで自分の腕の中に崩れ落ちてきそうだ。帰ってこないから心配で眠れなかった、責任をとって寝かせつけろ、とでもいいたげにほんの少し開いた口唇。
なんだ、やっぱり欲しいんじゃないか。
ウォンはほっとして腕を伸ばそうとして、やめた。
駄目だ。いま抱きとってはいけない。言葉で行動で欲しがっているものを与えてはならない。なんのために今まで焦らしてきた? たまらず自分から身を投げかけてくるようにしたいからだ。こんな風にとりつくろえるようではまだまだだ。その想いは熟しきっていないのだ。
しばらく触れまい。
気長にゆこう。この恋は、まだ充分楽しめる。
焦って失うことはない。
待とう。彼の気持ちが深まって、いずれ花咲き熟すその時まで。
「それでは、そのようにバーンに伝えておきます。ゆっくりお休みください」
ふっと身を引いて頭を下げ、甘い空気を振り払った。キースはちょっと寂しそうな顔をして、
「君は休まなくていいのか」
「大丈夫です」
いつもの微笑を浮かべてウォンはドアに手をかけた。半ば振り向くようにして、
「お別れを言わずにすんで、よかった」
シュッと目前でドアが閉まって、キースは一人取り残された。
「あいつめ……」
ていよくあしらわれたのはわかっていた。が、別れずにすんで良かったというのがウォンの本音であることも知っていた。
許してやるか。
キースは仮眠室に入って上着をとった。
自分の身を強く抱いて、深いため息をついた。
「良かった」
深い安堵が全身をひたしていた。
本当に良かった。
ウォン。好きだ。
心の中で呟いて、狭いベッドへ横になった。
彼はまだ気付いていなかった。
再び恋の罠に落ちてしまったことを、その網にからめられてしまったことを。

その日の通常の作業をひととおりすませ、キースは自室に戻った。
夕べの食事も終わって、後は書類とにらめっこの時間である。現在の計画の分析と展望、次の作戦の立案、過去の成果の細部の点検、やることはいくらでもあった。
「ん、そろそろバーンが来るか」
彼が机の上を簡単に片付けたその時、ドアをノックする音がした。
「キース。いるか?」
「バーンか。入る前に暗唱番号を押してくれ。TMD6932だ」
ピ・ピ・ピと電子音が響いてドアが開いた。
「よ」
部屋に入ってバーンはすぐに壁にもたれた。腕を組んでニヤッとし、
「まったく、随分待たせてくれたじゃねえか。はるばる訪ねてきた友達に対して失礼だぜ」
間近に見るかつての友人は、すらりと背が伸びて逞しく、そしてまた少々大人びていた。笑顔だけは変わらず明るく屈託なく、キースの心の壁をたやすく乗り越えて入り込んできた。少々はにかみながらも、立ち上がって近づく。
「僕はまだ、君の友達かい」
「当りめえだろ。そうでなきゃ、わざわざ苦労して探しにきたりしねえや」
「そうか」
「とにかく会えて良かった」
バーンはキースの手をとって力強く握手した。
「おう、おまえの無事もわかったし、妙なことしてるんでもねえらしいし、とりあえず安心したぜ」
「じゃあ、ノアの趣旨を理解してくれたんだね、バーン」
「おう。ウォンにみっちり教わったからな。大変だったんだよな、キースも」
「うん」
二人はソファに並んで座り、ここにたどり着くまでお互いがどんな道をどんな風に通ってきたか話し始めた。キースは超能力研究所に捕らえられ、脱走し、ノアを設立してそれを大きくしたことを。バーンは捕まったキースの声がきこえる気がするたびに出かけ、高校へ通うかたわら、政府組織や超常現象の研究をし、時には長期の旅行をしながら少しでも手がかりを掴もうとした。最後の決め手はキース自身のテレパシー放送で、半信半疑ながらここまでやってきたということを。
「バーンも危険な目に遭ったろう。能力が発動したんじゃ、研究所に追われた筈だ」
「おう。キースほど酷い目には遭っちゃいねえが、多少はな」
「無事で良かった」
「そだな」
ふと、語り合う顔が近づいて、これはキスするしかないという間合いに入った。
「あ」
二人ともなんとなく頬を染めて、ぱっと顔を離した。
彼らが考えた相手は同じ人物だった。
バーンが先に口を開いた。
「あのよ、ウォンっていい奴だよな」
「え? あ……うん」
「いい奴だよ」
「そうだね」
互いに曖昧な笑顔を交わしながら、二人は同じ言葉を繰り返した。その台詞が何を意味するか知らないまま。

(1997.10脱稿/初出・恋人と時限爆弾『WHERE DARK-ANGEL FEARS TO TREAD(堕天も踏むを恐れる処)』1997.11)

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