『深い眠り』

「知らないんですか先生。尊属殺人なんて法律、もうこの世に存在しないんですよ」
「境さん」
冷静な口調とは裏腹に、境実恵の瞳にはうっすら涙まで浮かんでいた。
「平成七年に、刑法二百条は削除されたんです。だって、親を殺した時だけ問答無用で死刑か無期懲役だなんて、おかしいから。どんなにひどい親だったとしても、子どもが殺した時だけ必ず極刑だなんて、刑罰を決める人たちだって変だと思ってたんですよ。だから、昔よりずっと殺しやすくなったんです、親なんか」
「そうよね。確かにおかしいものね」
うなずきながら、北内菊江は微笑んでいた。
やっとこの子の本心が見えた。
ごく普通の十七歳なのだ、世の理不尽に、形にはめこもうとする大人に憤りを感じつつ、それに対して具体的な解決も方向も見えない。そのもがきが「殺意」という形で現れているのだ。
誰だって生きていれば殺意の一つや二つは抱く、ただ実行しないだけのことだ。特に受験の頃というのは、過ぎてしまえば何ともないが、実に息がつまるものだ。ただでさえ親の存在がうっとおしい思春期に、期待が過度であったり折り合いが悪かったりすれば、それはなおいっそう辛いだろう。逃れるためならなんでもしようと思いつめる。そんな時こども達は「十三歳までなら殺人を犯しても少年院に送られない」とか「十八歳未満なら死刑にならない」とか、つまらぬ情報にすがってみたりする。悪い想像をすることで、目の前の現実を耐えるのだ。
「先生は何もわかってない。私の家がどんなで、私がどんな気持ちだか」
必死で感情を抑えこんでいるらしく、声がかすれだしている。北内は優しく肩に手をかけて、
「わかるとは言わないけれど、境さんがそういう気持ちでいるなら、少しでも協力できると思うの」
実恵の濡れた瞳が、怪訝そうに北内を見つめた。
「私もね、境さんと同じくらいの頃、親を殺そうと思ってた。いろいろと計画もたてた。だから、そういう相談になら、のれるわ」
「先生」
次の瞬間、思春期の重い躰が腕の中に飛び込んできた。
強く抱きしめてやりながら、北内の頭の隅をかすめたのは、当時の日記はどこへやったっけなどという、いささかのんびりしたこと――。

* * *

高三ともなると、女の子は皆やめていく。音大を受けるならともかく、受験生にはピアノレッスンなど邪魔なだけだからだ。それは現実的な選択だ。趣味なら大学に入ってから再開すればいいので、ゆえに彼女達を引き留めようとは、北内菊江は思わない。もっとも最近は子どもの数が減って、推薦枠で早く大学が決まるケースも多いらしいが、何がどうあれ片田舎の音楽教室のピアノ教師が、彼女たちの進路をどうこういう権利はない。
ひるがえって十七年前、つまり自分が受験生だった頃、いったい何を夢見ていたかよく思い出せない。しがない雇われ教師の今日に至るために、グランドピアノを用意してもらったり、祖父に高い学費を出してもらったのではなかったはずだ。自分に才能があると信じていた訳でもない、ただ音楽が好きだっただけのこと、それこそ趣味にとどめておけばよかった。難関かつ就職の難しくなる音大など、神経をすりへらしてまで狙う必要はなかったはずだ。
そんな自分が、若い娘たちに説教できる訳もない。何を考えて彼女たちが教室にやってくるのか等と余計なことは考えず、淡々とつとめよう。
そう割り切っていたはずの北内の心を、唯一かきみだしたのが、境実恵という少女だった。

地元進学校の三年生、早生まれでまだ十七だが、夏を過ぎても辞める気配をまったくみせない。進路が定まって悠々としている訳でもないらしく、春先の発表会は辞退している。
とにかく口をきかない子だ。
二年前に別の教師から引き継いだ生徒だが、かすかに首を傾けて、うなずくような仕草を見せても、それが声を伴わない。返事を求めても無表情に見返されるだけで、笑顔どころか怒った顔すら想像がつかない。しかしそれが、取り澄ましているのでも反抗しているのでもないのは、弾き方でわかる。指導は通るのだ。嫌われているのでもない証拠に、レッスン室に入ってくる時はお辞儀らしきものもする。修学旅行の土産など律儀にもってくる。休むどころか遅刻もしない。何かの病気かと疑った時もあったが、実恵の通う高校は生活指導面においても都会の私学に劣らぬ厳格さが評判だ。精神に大きな偏りがある子なら、最初から受からないし通いきれまい。
ところでこの真面目な生徒が優れた弾き手かというと、テクニック面からいえば実にお粗末極まりない。引き継ぎ時の情報によれば、小学校低学年から教室に通い続けているらしいが、その技術は十年以上かけたものとは到底思われず、少しでも速度をだすと指が転ぶ。どんなに姿勢を正しても腕に力がこもらず、粒のそろった音が出ない。ならば勉強としての音楽に興味があるかと思えば、楽典の知識に乏しく楽譜もろくに書けないどころか、とんでもない読み違いさえする。親に言われてしぶしぶ通っている子ならそういうこともままあるが、彼女の場合は逆なので、「どうしても辞めたくないから、先生がかわっても続ける」と本人の強い希望で続けることになったらしい。北内はそれが信じられない。
しかし、素直に彼女の演奏に耳を傾ければ、表現の余地の少ない単調な小曲であっても、情感たっぷりに弾きこなすことに気づく。普通の弾き手はある程度練習をし、ひととおり弾けるようになってから曲想をつけ表現を深めていくものだが、彼女は最初に曲想をつかんでしまうらしい。テクニックの優れた生徒よりよほど勘所を押さえていて、易しい曲がこんなに美しく響くものかと驚く。
もったいない。
この表現力を、どうにかして伸ばしたい。
そのためには、運指などの基礎練習に多く時間をさく必要があるが、音楽で食べていくつもりもなさそうな彼女に強制することができるだろうか。多くの生徒が地味な練習でやる気を失うのだ、そのせいで彼女のなけなしの表現力が奪われてしまったら元も子もない。難しい曲を与えて曲中でテクニックを磨いていく方が本人のためになるかとも思うが、それでは飽きるほど時間をかけても一曲も仕上がらない可能性が高く、それではもっとやる気をそぐ。
本人の意向をきくのが一番とわかっている。しかしコミュニケーションの成立していない今の状態で、とっかかりもなしに何を切り出せるか。
そんな風に思いまどう時、北内はつい回想してしまう。
自分は高三の頃、いったい何を考えていたかと。
もしかしたらこの自分だって、端からみれば得体のしれぬ少女だったかもしれない。もうあまりにも遠い昔で、それこそ記憶も霧の彼方だ。

「境さん?」
その日は無表情というより、顔色そのものが悪い気がした。練習用の小曲もよくさらえていない様子なので、思わず北内は実恵の肩に手を置いた。
「大丈夫?」
その身体は一瞬びくんと震えたが、拒絶する風ではない。むしろ何も言わずうつむいている姿は愛らしくさえあって、ふいに北内の中に愛しいという気持ちがわいた。
この子は身も心もこわばっているのかもしれない。スキンシップでほぐれてくるものがあるかもしれない。肩をつかんだまま、北内は言葉を重ねた。
「大丈夫なの?」
「はい」
かすれ声の返事に、北内は微笑んだ。
「じゃあレッスンに戻りましょう。もう題名はつけてきた?」
北内は、実恵にひとつの課題を与えていた。曲想はすぐにつかめるのだから、それぞれに自分で新しい題名をつけてごらんなさい、と。文字による表現が加わることで、彼女の心中がもっとよく伝わってくるかもしれないからだ。それによって会話も引き出せる。
実恵はうなずいて、ショパンのピアノ曲集を開いた。先々週から「ノクターン・作品番号九の二」に入っていた。難易度はやや高いが、有名なので彼女も耳馴染みがあるだろうとあえて与えてみた。
例によって、左手の和音がとぶのに苦労している。早い部分で右手の指が転ぶ。それでもメロディはすでに歌い始めている。北内は自分の選択は間違っていないと思った。
しかし。
「深い眠り?」
神経質そうな鉛筆書きの四文字に、北内は首を傾げた。
ノクターンをそのまま日本語になおせば夜想曲だが、眠い感じのする曲ではない。もっと昏い意味が込められているのかとも思うが、それならばショパンには葬送行進曲がある。この曲につける題なら、もう少し別のものがあるだろう。
「ピアノを弾いている時、少し眠いんです」
実恵の口からはっきりした言葉が洩れたので、かえって北内は驚いた。
「集中すると、痺れたように眠くなってくるんです。この曲が楽に弾けるようになったら、もっと深い眠りを味わえるかもしれないから」
実恵が言うのは、どうやら演奏による忘我の境地のことらしい。
ふっと北内の中に閃くものがあった。
実恵はピアノに【その瞬間】を求めているのか。
単にそういうことなら、彼女の音楽の喜びを増やすことは簡単だ。レッスンの時間そのものを増やせばいい。それなら自宅で基礎練習が不足しても、補いうるものがいくらでもある。
ひととおり「深い眠り」を弾き終えた実恵に、北内は思いきって切り出してみた。
「先生ね、今度自宅でもレッスンを始めようと思ってるんだけど」
例の眠っているようなぼんやり顔で、少女はこちらを見返している。北内は声に精一杯の優しさを込め、肩に再び手を触れながら、
「もし時間が許すなら、境さん、うちの方へも来てみない? 毎週じゃなくてもいいわ、受験に差し支えない程度に」
実恵はわずかに首を傾げた。
「月謝が」
「それは今までと同じで構わないの。境さんは記念すべき第一号ってことで、据え置きにします」
すると実恵は鞄の中から生徒手帳をとり出した。メモ用紙になっているところを一枚破って北内に差し出す。
「先生の家までの地図を書いてください」
北内の顔は笑み崩れた。
「慌てないで。いくらレッスン料が変わらないとしても、まず親御さんのご了承が必要でしょう?」
「いいえ」
はっきりと実恵は首をふった。声も確かに、
「嘘をついてでも、行きます」

「あれー、センセ珍しい。これからどこ行くの」
「そういう日高さんこそ。学校の帰り?」
「いや、今日は滑り止めの願書出した帰りで」
「念には念をってことね」
「推薦蹴っちゃったんで、後がないんで」
駅のバス停で声をかけてきたのは、制服姿の日高真美だった。彼女も高三だが、北内のレッスンを続けている。将来幼児教育に携わりたいのだそうで、ピアノも仕事につなげるつもりで習っているからだ。情緒あふるる演奏ぶりとはいいがたいが、素朴で端的な音を出す。幼い子に対してはこういう音の持ち主がいいだろう、と北内は思う。
日高はいつもの人懐っこい笑顔で、
「センセん家って、こっち方面なんでしたっけ」
「今日はちょっと実家の方へ行くの」
「ふーん。ってアレ、実家ってバスで行ける距離なんですか」
「そうね、道が混んでなくても一時間はかかるけど、電車を幾つも乗り換えていくのも面倒だから」
日高はあきれ顔になった。
「センセんちって、やっぱお金持ちなんですね」
「どうして?」
「だってセンセ、実家も近いのに一人暮らしなんでしょ。しかもそこに、グランドピアノ置いてるわけでしょ。当然防音は完璧にしてあるはずだし、実家にだってたぶんピアノあるわけでしょ。さーすがー、ダテに音大出てないなって」
北内は苦笑しながら、
「そうでもないのよ。祖父がね、自分の蓄えから出してくれただけだから」
「つまり、おじいさんがお金持ち」
「それは否定できないわね。亡くなったのは十年も前だけど、それまでに孫に充分なものを遺してくれたから。ピアノも、一人で暮らす場所も――つまり今すんでるのは、祖父がレッスン用に建ててくれた家なの。他人様からみたら、とんだ贅沢者よね」
日高は首をすくめた。
「ご愁傷さまです」
「気にしないで。あんなに可愛がってもらったのに、もう夢にも見ないぐらいなんだから。八十近くまで生きたんだから、もう祖父も充分だったと思うわ」
日高が言葉の接ぎ穂を失ったところで、目当てのバスが来た。それじゃあ、と北内が別れを告げようとした瞬間、
「私も西河原駅行き、乗るんで」
そう言って、日高は先にタラップをあがった。
これでは話を続けない訳にはいかない。少々気詰まりを感じながら、北内も続いた。
二人掛け席の窓側へ座るよう、日高の視線にうながされる。時節的には進路関係が世間話かと悩んでいると、通路側に腰を降ろした日高の方から口を開いた。
「境さん、センセとは口きくようになりました?」
はっと身体を縮めた北内は、日高にけどられぬようにその緊張をゆるめた。
「学校では相変わらずなの」
「もう授業もほとんどないんでわかりませんけど、変わったって話はききません」
実は日高と実恵は同じ高校なので、知っているかどうかそれとなく尋ねてみたことがあった。ああ、と日高は眉を寄せて、
「境さんが無口なのは、センセを嫌ってる訳じゃないですよ。学校でもしゃべらないんで有名なんで。そういう子なんです。教師も全員知ってるから、教科書の音読させたりもしないの」
「何か問題でもあるのかしら」
「中学まで別の学校だったからよく知らないですけど、やっぱウチが変らしいですよ。担任が心配して、家に行って話すると、お母さんが悠然とお茶をすすめながら、こういうんだって――【思春期の子は大人と口などきかないものです。何も話されなくとも、私はよくわかっておりますから。子どもの心を十二分に汲んで、親としてできるだけのことをしております、どうぞご安心ください】って」
北内は慄然とした。
学校が匙を投げる訳だ。【わかっている】どころの話ではない。異常状態を異常と思わぬ親に、何を言っても無駄だ。その子がなぜ大人に対して口を開かぬかもおのずと明らかだ。誰も彼女を助けることができないからだ。本当はグレたいところだろう。しかし非行に走ったところで、事態はおそらく良くなるまい。ひたすらな無言で不服従と絶望を表現するほか、彼女には手がないのだろう。
「他でもしゃべらないのかしら」
「さあ。一人っ子じゃないらしいし、家でも子ども同士じゃ話するんじゃないですか。学校でだって、まるっきり友達がいない訳でもないみたいだし」
「そう。親御さんがね……」
北内は深刻そうな顔をしてみせたが、内心しめたと思った。それならば私は母性を示せばいい。親への怒りに共感してやればいい、と。
北内の自宅に通ってくるようになってから、実恵は少しずつしゃべるようになっていた。先をうながすために静かに背を撫で、あやすように髪をすいてやると別の声を出した。あとは鍵盤に触れるのと同じだった。卵を握るように優しく、しかし揉むように力を込めると、実恵は妙なる音を漏らした。本人の演奏にも艶が加わってきた。
しかし、事が終われば実恵は無表情に戻る。彼女の本質をひきだすには、ただ身体をほぐすだけでは駄目なのだと北内は気づいた。
そんな時、日高の話がヒントを与えてくれた。
会う回数は倍に増えているのだ、北内はじっくりチャンスを待った。どんなに絶望した子でも、憎むよりは親に愛されたい年頃だ。親の悪口など地道に囁き続けていれば、いつかひっかかって不満を吐露するに違いない。そこからが私の本当の出番だと。
そのきっかけを、北内はうまく捕まえた。
どんなにひどい親でも、殺してしまうのは子どもが不利、と教訓めいたことを呟いた時、実恵は鋭く反応した。
「知らないんですか、先生。尊属殺人なんて法律、もうこの世に存在しないんですよ。だから、昔よりずっと、殺しやすくなったんです」
親に対する、殺意。
北内はそれをいさめなかった。そんなことをしたところで、実恵は再び口を閉ざすだけだ。それよりも具体的な殺人の計画をたててみることで、それがどんなに馬鹿らしく面倒なことか教えようと思った。もちろん実際には、準備すらさせるつもりはない。万が一の場合、殺人教唆になりうるからだ。
「……センセ? 起きてます?」
「起きてるわ」
日高に腕をつつかれて、北内は物思いから醒めた。
「境さんはガサツな私なんかと違うから、ちゃんと息抜きさせてあげてくださいね」
「え?」
意味がわからず北内が真顔で見返すと、
「あと、特別レッスンはほどほどにした方がいいですよ。本当に特別なんじゃないかって、アヤシイ噂がたってるんですから」
北内はすぐに微笑をつくろった。
「本人が何もしゃべらないのに、一体なにが噂になっているのかしら」
人が「みんなそう言ってる」などというのは、せいぜい二、三人ぐらいのことだが、女の子の噂の伝播力は強い。広まる時は一気に広まってしまうので、動揺を見せてはならない。そして笑顔で否定すれば、いずれ噂は消えていく。
日高は大人の策を知ってかしらずか黙り込んでしまった。早い黄昏の風景へ視線をそらしていたが、
「次の停留所で降ります」
北内の前でコートの腕を伸ばしてブザーを押す。
「もう一つ質問してもいいかしら、日高さんに」
「なんですか」
「親を殺してみたいと思ったこと、ある?」
日高の顔に、はっきり軽蔑の表情が浮かんだ。
「親なんか、殺したって、しょうがない」
一語一句切るように言ってから、鞄をひっつかむようにして少女は闇の中へ降りていった。

「突然来るね、相変わらず」
「連絡しておいたら、あなたは玄関に鍵をおろしておくでしょう」
「根性も曲がったままかい」
しかめ面の母親を無視して入り込み、北内は実家の屋根裏部屋へあがった。
高校時代の教科書やノートが残っていれば、それで当時にひたれるかもしれないと思ったのだ。落書きひとつあれば、当時をもっと多く思い出せるかもしれない。実恵の心情にさらに近づけるかも。
しかし、屋根裏に彼女の私物は何もなかった。すべて捨てられたならさっぱりするがと思いつつ、高校まで使っていた部屋もついでに覗いてみる。
普段は閉めきられているのか、畳の色がいささか若い。ふとスチール製の本棚に目をやって、北内はハッと顔色を変えた。学校時代の教科書やノートが、そこに鎮座していたからだ。
それだけではない。
この家を出る時にまとめて捨てたはずの茫大な日記類が、びっしり棚に並べられていた。何冊か抜いてみてもう一つ気づいた。授業で使っていたのと同じ、安価な大学ノートに日記とも書かずに綴っていたのに、時間順に整理されている。
「どうして」
呟いたとたんに、背後で母親の声がした。
「どこまでも浅はかだからさ。日記なんて、いらなくなったら燃やすもんだ。ただ紐でひっくくって廃品回収に出すなんてさ、人にはプライバシーがどうこう五月蠅く言うくせに、ずいぶんと無頓着だよ。どこの誰に拾ってかれるかわからないってのに」
「まさか、あの時拾ってきたの」
母親はうすら笑っている。
粘着質で過干渉のこの母と、菊江はよく衝突した。
端から見てもすさまじいものだったにも関わらず、父は見ぬふりをした。娘夫婦を案じた祖父が、しかたなし手をうった。自分の土地の一部を売って、孫のための音楽室つきの家をこしらえたのだ。ピアノを弾く指がつかみあいの喧嘩などしちゃいけない、それより、いつでもこの静かな部屋へ来て、もっと練習にうちこみなさい、と祖父は言った。
菊江はその通りにし、一触即発の事態を回避した。
祖父の言うとおり、ひとりピアノを弾いていると鬱屈が消え、魂が解放された。そうして北内は危険な時期を乗り越えた。乗り越えたはずだった。
「本当に幼稚な子だよ。高三にもなって、親を氷で撲殺する話なんか書いてさ。凶器がとけちまえば捕まらないだろうなんて話、今時どんな安っぽいメロドラマでもやらないよ。小学生だって鼻もひっかけないさ。今の子が昔より賢いからって話じゃないよ、あんたが……」
北内菊江は、そのまま無言で実家を出た。追い打ちをかけようとする母親の声は耳に入れなかった。
私より、世間より、境実恵が正しい。
いっとき離れていれば衝突は避けられる、思春期さえ過ぎてしまえば、女同士は後でいくらでもわかりあえる、などと俗に言う。
嘘だ。
いくら年をとろうと親は親、子どもは子であることから逃れられない。歪んだ関係は修復されることはない。どちらかが死ぬまでひきずっていくのだ。
さっきあの台詞を聞いた瞬間、火をつけて全部燃やしてやりたいと思った。しかし当時も、そして今も殺さなかった。何故といえば、殺してしまえばあの女は、苦痛すら二度と感じなくなるからだ。
思いとどまった理由は、ただそれだけ。
殺そうと思う実恵の方が、まだ正しい。
その時、暗闇でギラギラと瞳を輝かせる北内の顔は十代に戻っていた――本人の期待どおりに。

「安っぽい音」
いつもの無表情だが、声に嫌悪感がにじんでいる。
「そうね、温泉旅館には似合わないわねえ」
北内は相づちをうった。ロビーに流れるのっぺりとしたノクターンより、実恵の弾く「深い眠り」の方がよほどいい。
「早く部屋へ戻りましょう、先生」
「ええ」
二月末に地元私大の薬学部に決まったという知らせを聞いて、北内は実恵に卒業旅行をもちかけた。レッスンの時間だけではもう足りず、二人きりで泊まってゆっくり語りあってみたかった。大人と一緒なら親御さんも否とは言わないでしょう、と誘うと素直にうなずいたが、泊まるところは私に選ばせてください、と実恵は言った。
若い女の子だ、ピアノのあるペンションかコテージでも選ぶかと思ったが、意外にも実恵が予約してきたのは、近間の温泉旅館だった。若い女性同士でもないので、かえってしっくりくる、と北内も思った。
夕食の猪鍋をつつく実恵は饒舌だった。「裏の牧場で飼ってるから新鮮だそうです」「猪の肉はいくら煮ても硬くならないそうですよ」などと豆知識まで披露した。
しかし部屋へ戻る道すがらノクターンを聞いたとたん、実恵の瞳の色はふと思い詰めたものになった。二人で殺人計画を練り直すという当初の目的を思い出したのだろう。
つられて北内もしんみりした気分になり、山奥の静けさにも耐えられず、持参の地酒を出した。飲んでもいいかと実恵に尋ねると、私もお相伴しますという。明日でようやく十八になるという彼女が、たしなみがない訳ではないので、と自然に盃を受ける。その姿から、北内は家庭の昏さをふたたび思った。
「氷は、凶器としては問題外だと思います」
飲みながら実恵は整然と反論する。
「まず殺すことが大事なんです。確実に息の根をとめるためにも、扱いづらいものは避けたいんです」
「それらしい凶器がなければ、事故や自殺に見せかけられるかもしれない、とは思わないのね」
「どうしても事故や自殺と思わせたいのなら、ガスを使う方がいいと思います。練炭は心中事件のせいで流行しすぎてしまったし、他の人に迷惑をかけてしまう可能性もあるし。古くからある手でも、車の中に管を引き込む手を使ったらどうでしょう」
撲殺や刺殺については、二人とも考えていなかった。実恵には腕の力があまりない。一種の熟練や心得がいる殺し方は自動的に却下された。絞殺は力ないものでもやり方次第なので、検討されていた。どのみち後始末が問題になるが、そこらへん実恵は大胆なもので、
「私は刑から逃れたい訳ではないんです。手を汚すということは、それも覚悟することだと思います」
白黒つけたがる若者らしい、きっぱりとした口調で言う。小細工をしない方が発覚しにくいということもあるだろうし、二人はとにかく確実性を追求した。何度もトイレへ立つほど盃を重ねるうち、さすがに論議も曖昧になってきて、いつしか二人とも布団へ倒れ込んだ。

寒さで目醒めて北内は絶句した。浴衣のまま手足を縛られている。キャスターつきの台で運ばれていた。一服盛られたかのように、身体は痺れたようになっている。
「やっぱり薬も確実じゃないですね。先生は私の眠りにつきあってくれたから、眠らせたまま殺してあげようと思ったのに」
なぜ、という言葉は、声にならなかった。
「先生は教え子に手を出した上、心中を持ちかけたので、教え子に殺されたという筋書きです。私達のことは噂になっていますから、みんな信じてくれます。それで私はあの家から逃れられる」
北内が連れてこられたのは、旅館の調理室のようだった。
「これから食肉用の冷蔵庫に先生を入れます。完全に凍った頃を見計らって、食肉用のスライサーで先生の首を落とします。これで絶対確実です。うんと話題になって、あの親にやっとダメージを与えることができる。直接手を下すより、ずっと」
私がどんな悪いことをしたというの、と言いたくとも、北内の喉から声は出なかった。
冷蔵庫の前にキャスターを無事つけると、実恵はそのまま北内を蹴りこんだ。
ドアを閉めるまえに、一言だけこう呟いた。
「大人は何でも、勝手に決めつけるからよ」

(初稿・1985.3頃/改稿・2004.2/初出・Project Free Charge Anthology『競作集 かさねる』2004.5発行)

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