『完璧な躰』

1.

硬いベッドだ。
だが、その上に柔らかなバスタオルが敷かれているので不快感はない。
身体は横向きにされている。喉が楽になるよう顎を引かれ、曲げた左脚が右脚の上にくるようになっている。気道確保の姿勢だ。
なんと不覚な、倒れて病院に運び込まれたか。それにしては部屋がへんに薄暗いようだが。目がよく開かないせいか。
朦朧状態ながら必死に思考を巡らせていると、ひとつの人影が近づいてきた。
裸の背に熱いタオルがあてられる。
男の大きな掌、力強く手慣れた清拭。
ウム、これは看護師だな。部屋が暗いのは相部屋か何かで、他の患者に配慮してなのかもしれん。
その男はタオルを何度か取りかえつつ全身を清めていく。さっぱりはするが少し寒い。身体を震わせると毛布をかけられ、暖房のスイッチが入れられた。もう終わりか、と思っていると、新たなタオルをもって近づいてきた。下半身にかかっていた毛布がよけられる。されるにまかせていると、大きな掌が陰部を包んだ。
そんなところは構わなくてよい、と声を出そうとしたが出なかった。
む。
これは夢なのか。
夢だ――そうに決まっている。五十男のそんな部分を愛おしそうにさすりながら、口に含もうとする酔狂な男など……いる……ものか……。

「なにっ」
飛び起きた瞬間、狩魔豪は青ざめた。
我が輩はなぜホテルの浴衣など着ている。
フロントに電話をすると、待ちかねたようにクリーニングされた服一式が届けられ、さらに彼は狼狽した。
記憶が混濁している。
昨夜、やや酒を過ごしたことは覚えている。飲み過ぎたつもりはないが、おそらく悪酔いしたに違いない。一度路傍で吐いたことは覚えている。外での記憶はそこまでだ。
だが、いつの間にこんなホテルに。
もう昼に近い時間だ。
すぐに服に袖を通し、フロントに向かった。
「昨夜我が輩は誰と来た」
「宿泊名簿にいただいたお名前は、狩魔さまだけですが」
「見せろ」
慇懃なホテルマンが差し出した宿帳のサインは確かに、狩魔豪となっている。彼の名で支払いもすまされていた。しかしそれは、当然彼の手跡ではない。見覚えのない字だ。
「もう一人の男を覚えていないか」
「確かにお二人連れでいらっしゃいましたが、そうはっきり特徴のあるお顔だちでも……眼鏡をかけていらっしゃいましたし。お客様よりはお若く見えました」
「何も言い残していかなかったか」
「服が汚れてらっしゃるから、至急クリーニングをして届けて欲しいということと、お疲れなので、お休み中は絶対に起こさないように、ということしか」
「奴はいつ帰った」
「朝早くです。六時前でしたでしょうか」
「ぬう」
狩魔豪は絶句していた。
すべて夢ではなかったのか。
ありえない。
こんなことはあってはならない。
いや、いったいどこまでが現実なのだ。
すべて現実などありえない。もちろん、ホテルマンの証言と今の自分の状態から考えて、昨夜自分はもう一人の男と二人部屋に泊まったことだけはハッキリしている。
だが。
誰がいったい何の目的で、前後不覚の我が輩にあんな……あんな、破廉恥な……。

と、狩魔はそこでハッと我に帰った。
フン。
どうということもないではないか。
この程度のこと。
たとえ昨夜犯されたのだとしても、その秘密を知る者はその相手しかいない。
我が輩が誰なのか知ってホテルへ連れ込んだのだから、おおかた法曹関係の人間だろう。こちらの隙を狙っていたのかもしれん。だが、それなら奴を探し出し、いずれ潰せばいいだけの話。
乙女でさえ清らかであることにさしたる意味のないご時世だ。男もこの年になれば、どんな噂も傷にならない。二人目の妻のある身に男色の噂がたつこともあるまい。たったとしても、どうせすでに黒い検事として名を馳せているのだ、今更ひとつ増えたとしても痛くもかゆくもない。決定的な証拠さえなければ、我が輩はすべてから逃れえる。それでもあえてこの狩魔豪を嘲笑しようとする者は、その傲慢さをすぐ思い知ることになるだろう。
ホテルマンに向き直った狩魔は、落ち着き払ったいつもの笑みを浮かべ、
「昨夜、我が輩を介抱してくれた紳士の名を知りたい。もしもう一度このホテルに来るようなことがあれば、名をきいておいてくれ」
「ご連絡先は」
「いずれ我が輩もまた来る」
「かしこまりました」
名刺を置いていってもいいが、それこそ足がつく。
あのサインが本人の筆跡でないのは誰の目にも明らかだ。我が輩の意思で泊まったのでないのも簡単に立証できる。
狩魔豪は胸をはり、悠々とホテルを出ていった。
その灰色の瞳に宿るのは、被告を追いつめていく時の眼差しと同じぐらい、激しくも鋭く、熱い光――。

* * *

「準強姦かな……」
ぶっそうなことを呟きながら、御剣信は薄く笑った。
昨夜の記憶を反芻すると胸が疼く。背筋がゾクゾクする。
そう、あれは誰にも言えない秘密のひととき。

「狩魔検事!」
誰もが羽目をはずす金曜の夜だ、余計なお節介かとも思ったが、すでに秋も深いことだし、万が一ということもある。酔いつぶれ路地裏に倒れている人影を抱き起こそうとして、御剣信は我が目を疑った。
狩魔豪じゃないか。
なんでも「カンペキ」が口癖の名物検事だ。堂々たる態度とその手腕は司法関係者すべてから一目置かれている。
まだまだ駆け出し弁護士の御剣信は、ひとつの尊敬を込めてそれを遠くから見ていた。老いてくれば人は、自分が完璧でないことを知る、妥協もする。それをせず無敗を誇るということは、プライドに見合っただけの力を持つ人間だということであり、そして羨ましいほどの若々しさと純粋さを保っているということだ。誰もがそうでなくていい、だが、正義の闘士にはそういう一徹さも必要だろう。眩しい人だと思っていた。
だがその人が、こんな風に正体もなく酔って、巷に醜態をさらすとは。
よほど疲れていたか、嫌なことでもあったに違いない。吐瀉物まみれのネッカチーフを外し、頬を叩くと、かすかにうめき声をあげる。
「自分の名前が言えますか」
「オロカな。ワカゾウがナニヲ……エラそうに……」
ろれつは回らないが、意識はハッキリしているようだ。何かの発作を起こしているふうでもない。病院へ運ぶほどではないなと判断し、信は狩魔検事をおぶうと、近くのホテルの入り口をくぐった。
「ツインは空いているだろうか」
「シングルの部屋にベッドを追加することならできますが」
「すぐできるのならそれでも構わない」
「お時間をいただきませんと。あとはスイートしか」
「スイートでもシングルでも構わない。この人を寝かせたいのだ」
「かしこまりました」
結局、やや狭い角部屋のスイートを案内された。信は狩魔検事をソファへ座らせると、服をてきぱきと脱がせにかかった。シャツまで脱がせてホテルの浴衣に着替えさせてしまうと、一式をホテルマンに渡し、
「こんな時間で悪いが、大至急クリーニングしてくれ」
「お預かりします」
信は、検事をトイレへ連れてゆく。水を少し飲ませ、吐けそうだったら吐いてください、とトイレの前に膝をつかせる。検事はもう吐かなかった。ただぐったりとしている。
「すこしさっぱりするでしょう」
レモンの香りのついた冷水をもって、ホテルマンが戻ってきた。それを検事に飲ませると、やはり吐きもせず飲みくだす。まだ頬も赤く、全身をほてらせているのに。
「だいぶお疲れのようだ。ゆっくり寝かせたい。明日は起こさないであげてくれ」
「承知いたしました。では、ベッドへ運ぶところまでお手伝いを」
「いや、私だけで大丈夫だ」
「ではもうお邪魔いたしません」
「ありがとう」

狩魔検事がひどく汗をかいているのに気づいて、御剣信は一度着せた浴衣を脱がせた。まだアルコールも抜けきっていないようだから、本当は汗をかかせた方がいいのだろうが、せっかくここまで連れてきて、風邪をひかせるのもなんだろう。ピアスをどうするか迷ったが、小さいものだし、外し方がよくわからないのでやめた。
ベッドに新しいバスタオルを敷く、熱い湯にひたして絞ったハンドタオルで、その身体を手早く拭きはじめる。病身の妻の面倒を見ること数年、そういった手当てに彼はよく慣れていた。
ほっそりと病みやつれ死神に連れ去られた彼女をふと思いだし、その姿を胸の底へ押し込める。目の前にある壮年男性の肉体は、女のものとは当然似ても似つかない。肌は驚くほど白いが、長年の鍛錬の成果なのか、さながらギリシャ彫刻のようによく引き締まって、年齢を感じさせない。
陰部以外を拭き終えて、身体を仰向けになおす。男性自身も立派なものだ。二十歳そこそこの娘が日本にいるのに、アメリカで再婚してもう小さな娘がいると聞いたことがある。その年齢で夫婦仲がむつまじいのは羨ましいことだな、だがそれなら日本での一人暮らしはなおいっそう寂しいだろう、と余計なことを考えながらそこへ手を伸ばす。
酔いで力ないが、確かな重量を持っている。敏感な部分だが、そこは男同士、扱い方は心得ている。ためらわず清めはじめると、それまで完全に無防備だった狩魔検事の身体がかすかに緊張した。
小さな吐息が洩れる。
だが、それでも彼はされるままだ。
突然、激しい熱情が御剣信を襲った。
もっと触りたい。
弄びたい。
食べてしまいたい。
だって、ふだん英国式のスーツで頑丈に全身を鎧っている、時代錯誤なまでにかたくなな正義の人が、自分の掌で欲情しているのだ。興奮せずにいられない。
淫らな貴方が見たい。
病床の妻にしたように、この身体をいとおしみたい。
そう、本当に嫌なら、いくら泥酔していても拒絶するはずだ。
意識がまったくない訳ではない、さっきこちらの声に返事もしたのだ。
胸の鼓動が早くなる。
喉が鳴る。
充分に注意を払いながら、信は清めた部分に指を這わせた。検事は抵抗しない。それどころか、愛撫に反応してゆっくり力を取り戻していく。物理的な反応なのかもしれない、それでも拒む様子はまったくないので、信は大胆になった。大切な部分を包み込み揉みしだき、立ち上がってきた突端を口に含んだ。舌先でつつくようにしながら更に愛撫を加えると、検事の口唇から甘い呻きがもれた。
御剣信の全身を、何かが突き抜けた。
何もかも忘れて貪った。
そして。
自分のものに触れもしないのに、相手が達った瞬間、同時に信は達した。

検事はそのまま眠りに落ちてしまった。
信は下掃きを洗い、かたく絞った。朝までに乾くようにと念じながら干し、浴衣に着替えてソファへ身体を沈めた。
どうしよう。
狩魔検事。
なんて素敵な人だ――。

私はいったい、なんということを。
口の中で、信はわざわざ呟いてみる。
社会的には弁護士という正義の味方、家に帰れば幼い息子の待っている父親でありながら、正体もなく酔った年かさの検事の身体をなぶってしまうとは。
なんという、恥ずべき行為。
だが。
その行為そのものが、彼をひどく興奮させていた。
信じられない。触れもしないのに暴発するなど、初めてのことだった。
生涯妻はこのひと一人、と思ったひとを失っていらい、人肌に触れていなかったせいか。そう、寂しかったのは事実だ。だが同性の、しかも親しくもない男性の肉体に触れて欲情するなどということは、今まで想像だにしないことだった。そんな嗜好が自分にあったことも驚きだが、意識のない者を弄ぶなどという卑劣な行為に胸を躍らせたことの方が、よほど大きな驚きだった。お互い好きあっていて、同意の上ですること以外の性の営みに意味などない、という信念のもとに生きてきた御剣信にとって、こんななりゆきは我ながら信じられない展開だった。
そう、それなのになぜ、自分はこんなにワクワクしている。
このことで罰せられても、指をさされてもいいと思うほどに。
何故こんなにこの人に魅かれている。
そう、これは強姦ではない。
とりあえず男同士なのだから成立しまい。
実際、何も入れていないのだし、せいぜい強制ワイセツといったところか。
それでももし、強姦されたと、狩魔検事に訴えられたら。
天にものぼる心地だろう。
覚えていてもらえるのなら。
なぜ私にこんなことを、許さない、殺してやる、と言われたら、それこそ至福の瞬間だろう。それは、あの狩魔検事が、私に肌を許したという最高の証拠になるのだから。
たまらない。
歪んだ喜びだということはわかっている。
それでも、この異様な概念から逃れられそうにない。
信は検事の寝姿を見つめた。
理不尽に犯されても、なんと美しい人か。
眠ってしまうのが惜しい。もうしばらく見ていたい。
どうせ二度目はないのだから。
ああ、この身がこのまま貴方の夫になれたらいいのに。

結局二時間ほどウトウトして飛び起きた。ハウスキーパーは住み込みではない。息子が一人で待っている、目を醒ます前に帰ってやらなければ、と信は重い身体を起こした。下着はうまい具合に乾いていて、コンビニで買うまでもなさそうだ。安心して彼は着替え、こっそりと部屋を出た。
部屋を去る前、白晢の額にそっと口づけた。
本当は口唇にしたかったが、そこは異国にいる彼の配偶者のものだろうし、今更ではあるが意識のない人から奪うものでない。
完璧な肢体を瞳に焼き付けて、ときめきを胸に御剣信は帰途を急いだ。
本当に、どうしたらいいだろう。

忘れられそうに、ないなんて。

2.

「嬉しい……あなたの孤閨をこんな風に慰めることができるなんて」
「ワカゾウがまた、くだらぬことをほざきおって」
「嫌では、ないんでしょう?」
「ふん」
狩魔豪はそっぽを向いた。
「大きな口を叩くなら、我が輩を満足させてみたらどうだ」
「ご期待に添いましょう。私もゆっくり楽しませてもらいます」
「……!」
熱くからみついてくる逞しい身体。巧みな口吻。濡れた眼差し。
首筋を、胸を滑る大きな掌。
女にするように丁寧に、だが力強く愛撫されて、身体の中心に灯がともる。
劣情を恥じて悶える狩魔豪を、大きな男の身体はさらにすっぽり包み込んで。
「あなたのことを、ずっと忘れられなくて……こんな風に、また触れることができるなんて、本当に嬉しい」
「何が面白いというのだ」
「完璧だからです」
「カンペキ?」
この場に不似合いな言葉だ。それでも狩魔豪にとってこれ以上心地よい言葉はない。ぼうっと相手を見上げていると、男の掌は脚の間へ滑り込んだ。
「そう、貴方のすべてが完璧だから……欲しい」
「くっ……あ」
狂わされる。
こんな自分は知らない。
我が輩がこんなに翻弄され、されるまま受け身をとらされ喜び乱れるなど。
ありえない……!

ぐっしょりと汗で濡れたベッドで狩魔豪は目を醒ました。
いったいこれで何度目の淫夢だ。
相手の顔も覚えていないのに、前後不覚に陥ったあの晩の微かな記憶が、増幅され変形されイヤらしさを増して、夢の中で繰り返し蘇る。
思いもよらぬことだった。
肉体的にもまだまだ若い彼である、欲望は枯れていない。男性機能も衰えてはいない。相手が商売女だろうと、本気を出せばいくらでも鳴かせることができる。それなのに、何故こんなねじまがった性を夢に見てしまうのか。
一足早い、老いへの警告か。それとも無意識の身体が思わぬ味を覚えて、新たな性の探求を求めているのか。
馬鹿な。
夢に理屈を持ち込むのが間違いだということは知っている。望んだ夢を自在にみるテクニックを持っている訳でもない。
割り切ってしまえ。
もともと夢などというものは、現実とも願望とも関係がないものだ。
狩魔はベッドを出て、シャワーを浴び直す。
白いものが一気に増えはじめた銀髪が濡れ、首筋にはりつく。
そう、何も怖れる必要はない。
あの男をあえて捜す必要すら。
たとえばあの晩、ポルノグラフィックな写真でも撮られていたとしよう。我が輩がずっと日本国内にいれば、それを強請りの種にもできるかもしれん。
だが、司法改革再検討とその研究のため、来年初頭にもアメリカへ行く予定だ。海外まで追ってきて強請る人間はあまりいないものだ。たとえ追ってきたとしても、画像合成技術の発達した時代だ、これは我が輩ではないとつっぱねればそれで済んでしまうだろう。
そう、向こうの真意がどうあれ、仕掛けてこなければ、こちらから何もする必要はないのだ。
違うか?
「弱くなった……か」
強い水流に肩をうたせながら、狩魔豪は呟く。
本当に、このまま後手に回っていいものか。
なぜ、相手の出方など待つ。
かつての自分なら、迷いなく自分のペースへ敵を巻き込み、追いつめ、全力で倒しただろう。
なぜ、追求しようとせん。
経験を積んだことで、精神の柔軟性が増したのだとも言えるが。
「せめてあの男の名だけでも知れれば……」

その頬にかすかな赤みがさしている。それが湯あたりでないことを、まだ彼は気付いていない。
もちろん、その理由に気付きたくないからだ。

* * *

「間に合った」
忙しいスケジュールの間をぬって、御剣信はとある裁判へ傍聴へやってきた。
混み合っているから、たぶんあの人に気づかれはしないだろう。だが、用心のため、いつもの眼鏡をコンタクトにし、背広も野暮ったいグレーに変えて、傍聴席へ滑り込む。
今日の公判検事は――狩魔豪。
その口数は決して多くない。無駄なことをいっさいしゃべらないからだ。壮年の錆びた重々しい声が、法廷にいるすべての者を圧倒する。彼の法廷に立った被告はすべて有罪だ。その左手がぱっと閃いた時、裁判長すら言葉を失う。
御剣はそんな検事を、熱い眼差しで見つけ続ける。

基本的に、検事のプライバシーは守られている。警視庁の秘密捜査官達ほど厳重でないにしろ、現役検事の顔写真が紙面をにぎわすことはない。私生活も秘される。犯罪者につけこまれないためだ。
しかし、ひとり歩きする噂はとめられない。
狩魔豪は異色検事だ。元々イギリス生まれのクォーター。ケンブリッジを卒業後、英国と日本のシステム差などなにも感じないかのように、非常な短期間で司法試験を通過。その辣腕ぶりは二十代から有名で、法務省刑事局や司法研修所教官も経験している。語学が堪能なゆえ海外事務局での活躍も多い。優秀な検事はむしろ邪心ある者というが、彼もまた特定の暴力団との関係を囁かれている。最初の妻の交通事故死も、その組の対抗勢力の仕業と目されており、その直後に彼の娘は規則の厳しい全寮制の女子校に通わされ、誘拐などされぬよう護衛がついているともきく。
完璧を標榜し、完全に自分のペースで犯罪者を追いつめる。
その不敵な面構えゆえ冷酷な男、やくざとの癒着ゆえ儲け主義のいかがわしい男と思われているが、現実はそうではないだろう、と信は思う。
書記官クラスの経歴を誇りながら、東京地検特捜部に呼ばれたのはごく最近らしい。海外ではともかく、日本では各地検の検事、検事正を転々として現在に至っている。それはつまり国内では、検事としてのエリートコースから暗にはずされていることを意味する。特に検事総長への道は、すでに閉ざされていると考えるべきだ。東大京大卒でないというのもあるだろうが、どんなに有能であっても異分子は煙たがられる、というのが真相だろう。
それだけ不当に扱われているのだから、検事などやめて企業の顧問弁護士にでもなればいい。金の亡者になれるなら、その方がよほど儲かるはずだ。
それでも生涯一検事を通そうとしているということは、彼が検察を正義と信じていることを意味する。相手弁護士の名も覚えないという噂もある。犯罪者の弁護をし、検察のあら探しをする卑しい者など、敵ですらないと。
しかし、どんな優秀な検事であろうと、犯罪者に何度も足元をすくわれそうになってきたはずだ。証拠どころか、とっかかりのない時すらあったはずだ。検察の正義は決して平坦な道のりでない。
幼い頃に二親をなくし、人知れず苦労してきたともきく。その死に不審な点があったために検察官をめざしたとも。当時、学生運動に深く関わったことを隠すため、隠れ箕として司法試験を受ける者も多かったというが、そうやって新たな意味で退廃の道を歩きだした日本の青年達に混じって、異国から戻ったばかりの彼はどんなにストイックに生きていたことだろう。銀髪を揶揄されるのを嫌い、英国式の正装でむしろ小柄な身体を粉飾する。重々しい口調で冗談もとばす。出る杭は打たれるというが、出過ぎた杭は打たれない。その孤高を体現している、あの鋭い横顔。
素敵だ。
とても素敵だ。
狩魔検事。

どうすればいい。
どうしたらあの人をもう一度抱きしめられるだろう。
愚かしい、と自分で思う。あの一夜をどうしても忘れられず、記憶だけで我慢できなくて、こうしてノコノコと法廷に顔を見に来てしまうのは愚の骨頂だ。あまり間近で会ってしまう訳には行かないのに。万が一こちらの不埒な行いを覚えていたとしたら、どんな難癖をつけられるかわからないのだ。
いや、つけられても構わない。
それを新たな誘いにつなげることができるなら。
「ふ」
自嘲の笑みが思わずこぼれて、御剣信は口元を覆った。
出来るわけがない。
あの日のことはあくまで意識のない状態ゆえのこと、そうでなくあの人を乱れ狂わせることなど、どう考えても不可能だ。
だが、だからといって、どうしたら諦めることができる?
もうすでにあの人のスケジュールを知り尽くしている。弁護士として使えるありとあらゆるテクニックをもって、気付かれないよう細心の注意を払っているが、いつストーカーと訴えられてもおかしくはないことをしている。どこに住んでいるのか、普段何時に帰るのか、次の裁判がいつなのか、なにもかも知っているのだ。
それでも、もっと知りたい。
そう、一度でいい。
あの人が応えてくれたら。
死んでもいい――。

もし傍聴人の数が少なければ、おそらく狩魔豪は気付いていただろう。
その視線の熱さは尋常ではなかった。

そんな二人の視線がぶつかる日は、存外早く来た。

3.

「グロッキーという言葉の語源をご存じですか」
いつの間にか、狩魔豪の隣席は埋まっていた。
頬にあたる視線をあえて無視していると、その男は続けた。
「グロック酒というものがあって、それがあまりに強いので、それを飲むとダウンしてしまうことから生まれた言葉だそうです。通常、ラムを水で割ったものだとか」
彼が手にしている酒を批判しているのだ。
先日、このバーで飲み過ぎて失態を演じたばかりでしょう、と。
狩魔豪は無言で席を立った。
支払いをすませ、その場を出ていく。
男も立ち上がり、その後を追う。
二人がホテル・バンドーの入り口をくぐったのは、それから間もなくのことだった。

「貴方から誘ってくれるなんて。夢のようです」
「ふん。誘ってなどおらぬわ」
出会った晩と同じスイートをとった。
狩魔豪は男を一度も振り向かなかった。何の言葉もかけなかった。
ただ、追いかけてくるこの男を拒絶しなかっただけだ。同じ部屋に滑り込んできたのを追い出さなかっただけだ。
あらためてよく見直す。すらりと痩せた長身の男だ。おそらく三十代か。ホテルマンが言っていたとおり、そう特徴のある顔立ちでもない。銀縁眼鏡で秀麗な美貌を隠している訳でもない。
こんな平凡な若造か、と内心がっかりもする。
この程度の男に、夢の中でまで翻弄されていたとは。
「もう我慢しません」
ふいに男は彼を抱きすくめた。
「違う。我慢できない」
そのまま口唇を吸い上げられた瞬間、狩魔豪はすべてを理解した。
この男は我が輩を強請ろうと近づいてきたのではない。ただの男色者だ。年をとった男の身体が自由になったのが珍しく、それで忘れられずにいたのだろう。
眼差しににじんでいる熱いものは、ただの肉欲。
ならばむしろ安心だ。
男のキスはなかなか巧みだ。
主導権を握られてしまう前に、狩魔は相手の首に腕を回した。男の舌を吸い上げて、巧みに舐め回す。
驚きに、男の身体の緊張が緩んだ。
狩魔は相手の腕をほどいて逃れる。瞳を潤ませている男を見つめながら、
「名前は」
「御剣信」
「職業は」
「弁護士です」
「ならば、準強姦で起訴される可能性はわかっておろう」
御剣と名乗った男は喉を鳴らした。
「ではなぜ今晩こうして誘ってくれたんです。強姦者が被害者と結婚する例だって、この世の中にはあるんですよ」
「屁理屈を言うな」
狩魔豪はせせら笑った。
「誘ったのではないわ。犯人は必ず現場に戻るという。基本に立ち返って貴様を見つけただけのこと」
「私は貴方に怪我をさせたりしなかった。暴行の証拠もないはずです」
「我が輩を誰だと思っている。弁護士はすべて敗北することに決まっておる」
「ええ、私の負けです」
「なんだと」
「訴えられたって構いません。何もかも失っても。それでも私は貴方が」
「やはり相当な愚かな者だな。……ウ」
その時、狩魔豪は急激な吐き気に襲われた。
まただ。
あの店はそうとうな安酒を出しているのか。
それともよほど我が輩の身体は疲れているのか。
口元を押さえ、彼は洗面所へ駆け込んだ。

胃の中のものを吐ききると、一種の虚脱状態に陥った。急にまわってきた酔いはまだ抜けていない。口をゆすいで水を飲んだが、足元がおぼつかない。
年をとったなどということは認めたくないが、あの程度の酒量で二度もこんなていたらくに陥るとは。
ふとみると、御剣信が悲しげな顔で傍らに立っている。背中をさすろうともせず、ただ立ちつくしている。
「なんだ」
「せっかく、今晩貴方と」
「ふん、したければ好きにしたらどうだ。意識のない者を弄ぶ趣味があるのだろう。今ならば力づくでも可能だぞ」
「そんな」
言い捨てて狩魔はベッドへ向かった。上着とスカーフだけをとり、横になる。
急に意識が朦朧としてきた。
どうする。
この男の前で眠り込んでしまって大丈夫か。
なに、どうせ命まではとられまい。ならばこのまま……。

薄闇の中で目覚めた時、掌を握られているのに気付いた。
ベルトがゆるめられていたが、ただそれだけだ。
まだ酔いは醒めきっていない。皮膚感覚が狂っている。痛みは鈍磨し、快楽には敏感な状態だ。セックスには都合のいい身体だな、と狩魔はうすら笑う。
「今晩は、清めなくていいのか」
心配そうにのぞきこんでいる顔に向かって挑戦的な眼差しを向けると、ため息と共に大きな身体が覆い被さってきた。
「本当に嫌なら、くちづけだって許してはくれませんよね……?」
返事をしないでいると、御剣信の掌が滑った。
口唇をなぞられて、狩魔豪は震えた。
夢で何度も見た光景の、そのままだ。
いや、これもまた夢なのかもしれない。
それにしても、なぜ我が輩は許しているのだ、こんなことを。
脱がされるまま服を脱がされ。
拒むことなく接吻に応え。
身体を這い回る掌を指を口唇を、おとなしく受け入れている。
しかも。
欲情している――。

「焦らしているのか」
狩魔豪の口唇から、低い呻きが洩れる。
のぼりつめる寸前で、何度も愛撫を中断される。しかも御剣信は、後ろへ少しも触れない。心が乱れる。
「さっさと犯したらどうだ」
「苦痛を求めているんですか?」
信の声はもの柔らかい。狩魔がふん、とそっぽを向くと、その声が熱く掠れる。
「快楽で貴方を支配したいんです。苦痛をもって犯すなんて下の下だ。今のまま夢心地でいてください」
「愚かな。キサマのようなものに支配などされん」
「それはいいんです、ただ楽しんでいてくださればいいなと」
「いったいなにが目的なのだ」
「貴方自身です」
細められた瞳。吸い付くような掌。直截な愛の告白。
ふん、そんなものにたやすく動かされるほど、我が輩は若くもないわ。
「犯す気もないのに、そんなものをつけているというのか」
「ああ、これは粗相しないようにですよ」
「衛生学的に間違っておろう。そっちは生で口に入れていてそんな戯言を」
信は声をたてて笑った。
「欲しいんですか、狩魔さん」
「早く終わらせろといっているだけだ」
「そうですか」
ふっと信の頬が引き締まる。
「とっても嬉しいお申し出なので、お言葉に甘えます。でも、傷つけないように、ほんのちょっとだけ……先端だけでも既遂ですけどね」
その指先が初めて、狩魔の奧庭に触れる。ゆっくりと周辺を撫でていく。
「初めて、ですか?」
「そんなことが気になるか」
「だって、初めてを奪ったら、罪が重くなるでしょう?」
「今更な」
ふと信の微笑みが寂しげに翳った。
「そう、最初から罪でしたね。意識のない貴方を弄んだんですから。配偶者のある身体と知っていながら、犯そうとしているんですから」
「わかっていて……う」
濡れた指が沈められる。
疼きを感じて、思わず身体がすくんでしまう。
いや、そこはもともと男性にとっても性感帯なのだから仕方があるまい。男からではないが、そういう刺激を受けたことは初めてでない。むしろコツさえつかめば、女のように締め付けてやることだってできるだろう。この男を虜にすることすら。
「無理をしないで……」
「やせ我慢をしているのはキサマのほうだ」
「そうですね。我慢はやめましょう?」
背に畳んだ毛布をあてられて腰が浮く。改めて脚を開かされ、長く硬いものをさしつけられた時、狩魔豪は息をのんだ。相手の瞳がはっきり欲望をもっている。薄闇の中でもそれがわかる。口調は冷静でも息づかいは乱れている。
「こんなことも、貴方にとってはなんでもないことですか」
「よくこんな時に、いつまでもごたくを並べられるものだ」
「貴方もです。そんな平気な顔をして……」

男の身体が離れた瞬間、狩魔はベッドを降りた。
足早にバスルームへ向かうと、内鍵をかけてしまう。
「狩魔さん」
追いかけてくる男の声を無視して、身体を洗いはじめる。
恐ろしかった。
なんだ、この全身を包む満足感は。
達したのに消えない、甘い疼きは。
男のセックスの後にあるのは排泄の虚脱感だ。「こんなものか」という白けた気持ちと疲れしか残らないはずだ。
もちろん身体は痛む。疲れてもいる。
しかし。
酔いもほとんど消えた今、ドアの外にいる何の変哲もない若造に、なぜもう一度身体を投げかけたいとまで思う?
自分の気持ちが理解できない。
一時の快楽ぐらい、くだらんものはないというのに、我が輩はいったい――。
カチ、と微かな音がして、バスルームの扉が開いた。
「貴様……」
細い針金様のものを使って内鍵をあけたらしい。やはりこちらも一糸まとわぬまま、若い肉体が押し入ってくる。
「よくよく犯罪的に生まれついているようだな」
「貴方と違って、どうにも卑しい仕事をしているものですから。一応手先も器用な方で」
微笑む男から狩魔は目を背けた。
「何故入ってきた。まだ満足していないとでもいうのか」
「ええ」
そう囁かれ、抱きしめられた瞬間、狩魔豪はふたたび抵抗する力を失っていた。
「洗わせてください。綺麗にしたい」
「ふん、おかしな趣味を持ちおってからに」
「衛生学的に間違っていると言ったのは狩魔さんの方じゃないですか」
「まさか、ここでもか」
「ええ。ですからなるべく声は抑えてください。響きますからね」
「……っ!」

「ふふ」
シーツを取り換えたベッドに、バスローブ姿で並んで横になる。
狩魔豪は仰向けに、御剣信はうつぶせている。
明るいバスルームで二人とも何度も達した。互いの腰が求めあって少々無茶もした。
さすがに疲れて、寝室へそろりと戻ってきたところだ。
御剣信が、嬉しそうに呟く。
「思いを遂げる、という言葉の意味が、今晩やっとわかった気がします」
「我が輩はなにも楽しんでなどおらんぞ」
反射的にそう答えて、信が非常に古典的な意味でその言葉を使っていることに気づき、狩魔はそっぽを向いた。
「全くくだらん口説き文句だ。初めてではなかろうが」
「言われてみれば……そうですね」
信の返事に、狩魔の胸の深いところがチクリと痛んだ。
やはりいるのではないか、そういう相手が。
「でも、彼女はもういない」
痛みはさらに強くなる。
「我が輩は女の身代わりか」
「違います」
「ふん、ゆきずりの男を興味本位で犯しただけではないか」
「本当にそう思ってらっしゃるんですか」
御剣信は含むように笑った。
「では貴方は? なぜ名も知らない男とホテルへ? これから強姦を立証するため? 貴方のような有能な検事が、そんな危険な手を用いるとはとても考えられません。単純に、私という男を気にいってもらえたと思ったのですが。自惚れですか?」
あきれて物もいえない狩魔に、信は畳みかけた。
「貴方にもともと男色の趣味があったとも思われない。あんな初々しい恥じらい方は、今どき十代の少女でもみせませんよ。とても可愛らしかった」
「我が輩は恥じらってなど……」
とようやく答えた瞬間、自分の顔が紅潮しているのに気付いて、狩魔は信に背を向けた。
「次はない」
「本当に?」
「二度はない。今度触れたら貴様を葬りさってやる」
「ゾクゾクしますね。貴方に殺されるなら本望です」
「愚かな。そういう意味ではない」
「ふふ。嬉しいなあ」
「いいかげんにしろ」
信はうつぶせたままクツクツと笑って、
「だってこんなこと、なんでもないことでしょう? お互いが合意で楽しんだだけのこと、ただそれだけなのに、貴方にそうまで気にかけてもらえるなんて」
「合意ではない」
「立証できないでしょう。私は騙したり脅したりして貴方を犯した訳じゃない。貴方は口づけに応えてくれた。そしてバスルームでもあんなに乱れた。それでも合意でないと?」
「ウルサイ!」
ふいに信は黙り込んだ。
ただ相手の背中をじっと見つめている。
狩魔は居心地悪げに身じろぎし、低く呟いた。
「……やっとごたくが終わったか」
信は答えない。
「眠ったのか?」
返事がない。
「我が輩は寝てしまうぞ。いいのか」
その瞬間、長い腕が伸びて、静かに狩魔を包み込む。
「な」
「……」
無言の抱擁が伝えてくるのは欲情ではなかった。
満足と感謝――暖かく満ち足りた想い。
そう、もう言葉の必要な段階ではなかった。
認める必要さえない。
もう身体で応えたのだから。
薄く染まった肌で。充血した性器で。乱れた吐息で。
受け入れたのだ。今晩、自分の意志で。
これは夢ではない。
絡んでいる腕の上に自分の掌をそっと重ねると、相手が驚いて息を引くのがわかった。
単純な男だ。これっぽっちのことが嬉しいとは。
そう、むきにならず適当にあしらってしまえばいいのだ、こういう輩は。
「貴様の名だけは、覚えておく」
だが、そう囁くと、狂ったように強く抱きしめられた。
「嫌です。名前だけでは……嫌です!」

翌朝目覚めると、御剣信の姿は消えていた。
きぬぎぬを惜しむということを知らない男らしい。
狩魔豪は痛む身体を起こすと、低いテーブルに置かれたホテルのメモ用紙に気付いた。
走り書きの一言。
「素敵でした」
ふん、五十男へ残していく言葉がこれか。
芸のない奴だ。
それでも身体に残る余韻を、その一言がぱっとかきたてた。
おそらく家族がいるのだろう。まだ小さい子どもの一人か二人が。だからすぐ姿を消すのだ。つまらん輩め。
身体を曲げ伸ばし、特に故障のないのを点検すると、彼は服を身につけはじめた。
あの男はどこの弁護士会所属か。どんな事件を主に手がけているのか。妻はいつ、なぜ死んだか。
狩魔豪なら、それをすぐ調べ上げることができる。
だが、彼はそんなことはしたくなかった。
何も知りたくなかった。
一夜の快楽をわけあっただけのこと、その相手を詮索するのは無粋なこと。
ヘタに調べてこれ以上深入りしてしまうのは愚かなことだ。
今ならたとえ裁判所ですれ違ったとしても、互いに平然としていられるだろう。何もなかった顔で押し通せるだろう。
上着のポケットに走り書きをしまいこむと、すっくと立ち上がった。

そう、このまま何も知らずにいれば、誰にも秘していれば、想い出としてこの胸にとっておける。
御剣信。
貴様の名を、生涯忘れないでおく――。

誰にもみせたことのない顔で呟いて、狩魔豪はホテルを出た。
だが、それが別の意味での予言になるとは、彼もまだ予想することができずにいた。

4.

「狩魔さん」
「なんだ」
「二度はないという言葉、嘘じゃないですか」
「ふん」
壮年の辣腕検事が、若い弁護士の下で乱れる。
その組み合わせが男女であれば珍しくないのかもしれないが、その光景は御剣信を異様にかきたてた。低い呻きが痛みに耐えているそれから、甘く相手を求める調子に変わってくると、自制心を失う。嬉しくてたまらない。この人と快楽を分け合うことができるなんて。この人が自分を見つめ、応えてくれるなんて。
もっと強く結びつきたい。一つになりたい。
「最初の奥さんが羨ましい」
「なぜだ」
「貴方にとても愛されていたはずです」
「転勤暮らしに愚痴しかこぼさなかったが」
「それでもいなくなると寂しくて、すぐ再婚せずにいられなかった。違いますか」
「女なしで長くいられるほど、まだ枯れておらんのだ」
「嘘です。結局今だって単身赴任じゃないですか」
「それが理屈なら、貴様もかつての配偶者を愛するあまり、我が輩を身代わりにしていると言えるが?」
「身代わりじゃないと言ったでしょう。けれど、狩魔さんなら、きっとわかってもらえると」
男にとって、当然かたわらにある筈のぬくもりを失うことは、非常にこたえることだ。喪失感、などというたった三文字で表現しきれるものではない。
最初の妻を殺された時、貴方だって泣いたはずだ。そう、貴方は泣いてよかったはずだ。検事が妻を殺されるなどと、そんな不名誉なことはないのだから。
「茶飲み友達ならよそをさがせ」
そっぽを向いてしまった相手に御剣はぴったり寄り添いながら、
「毎晩貴方の夢を見ました。息子と同じ部屋に寝ているのに、淫らな夢を。こんなことは初めてなんです」
「夢は夢にすぎん。物珍しいものに夢中になっているだけだ」
「ではなぜ貴方は、まだ私を相手にしてくれるんです」
「愚問だ」
あっ。
反対に口唇を奪われて、一瞬気が遠くなり――。

うたた寝からハッと飛び起きて、御剣信はホーッと深いため息をついた。
なんという、イヤらしい夢をみるものか。
狩魔検事と合意で肌をあわせたのはあの一夜きりだ。
二度はない、の言葉どおり、彼の生活に入り込む隙がなかった。
お互いに多忙を極める生活だ、チャンスがなければどうしようもないのだ。
いや。
理由はそれだけではない。
御剣信は、噂を怖れた。
ただ自分だけに男色の噂が立つのなら、それはすでに事実だから甘んじよう。しかしそれは、ただでさえ足をひっぱられている狩魔検事の逆風になるかもしれないのだ。そう、自分が独りきりなら何でも我慢しよう。しかし息子はどうなる。子どもが学校で余計な侮辱やあざけりを受けるとしても、自分はこの思いを貫けるかどうか。
そう、一度応えてくれれば、それで満足だったはずだ。
あの晩、狩魔豪はたしかに「落ちた」。
弁護士など十把ひとからげに見下しているので、相手の名も呼ばないという噂の人が、貴様の名を覚えておく、と言ってくれた。
そう、なによりあの熱い肌、恍惚の表情。
「忘れられない……」
忘らるる訳もない。予想以上に可憐だったあの人を。強い光を持つ瞳がうっすら潤み、白すぎる肌が淡く染まり、とまどいの表情をみせながらも、決して拒むでなく。夢中にならない方がどうかしている。酔ったまぎれの行為だ、深く考えず身をまかせているのだろうと思いながら、それでも本来犯される性でないはずの彼が、切なげな吐息を聞かせながら男性器を受け入れ、きつく締め付けてきたのだ。
そう簡単に思いきれる、訳がない。

常にあの人の傍らにありたい――そう願うことは、罪なのだろうか。
あの人は他の検事と決して群れることがない。まっすぐ官舎へ帰りもせず、小さなバーで安酒をあおり、時に不覚にもつぶれてしまう。
その孤独に寄り添いたいと思うのは、おかしいだろうか。
例えば一念発起して、今から検事になるべく努力したとしよう。それでもずっと一緒にはいられまい。だとすれば、今の仕事のままの方がむしろ……。
「お父さん?」
礼儀正しくドアをノックし入ってきた息子に、信はやつれた頬を向けた。
「なんだ怜侍、もう学校はすんだのか」
「明日から冬休みだよ」
「ああ、もうそんな時期だったな」
正月は裁判も休みになる。今は急ぎの仕事があまり入っていないし、そういう意味では楽な年越しになりそうだ、と信は思う。
差し出された通知票をぼんやり見ていると、息子は上目づかいに呟くように、
「がんばりました」
「そのようだ」
「じゃあ、約束を守ってもらえる?」
「約束?」
「今年中にいちど、本物の裁判に連れていってくれるって」
御剣信はハッと息子を見返した。
そんな約束をしていた。しかし、子どもの仕事は勉強である。それをきちんとやった上で、おまえの休みの日に裁判があったら、連れていってやろうと。
この子はまだ幼い。
裁判は正義の行われる場だと信じている。
弁護士は、困っている人を救う仕事だとも。
その信頼を裏切らない裁判を見せてやりたいのだが。
ハウスキーパーによれば、先日学校で盗難事件があり、クラスメートが疑われたのを怜侍がかばってやったのだという。いったいどういう事情で学校に金品が持ち込まれたのかもわからないし、学級裁判などという時代錯誤なことが今なお平然と行われているということがまず信には驚きだが、それでも息子が、「証拠もなしに人を裁くことは許されない」と毅然と言い放ったという事実は嬉しかった。そんなまっすぐな子どもに、曲がったものを見せたくはない。
だが、約束を守らぬというのもやはり不正義のひとつだろう。
「そうだな、連れていかなければな」
「お父さんのやっている裁判に?」
期待の眼差しに見つめられて、信は思わずうなずいてしまった。
「じゃあお父さんの次の裁判の日に。絶対ね」
「わかった」
小指を出して指切りをしてやろうとすると、怜侍は首を振った。
言葉だけで充分だというのだ。
なんともききわけのいい息子の頭を撫でてやるでもなく、信は低く呟いた。
「その日は早起きになる。一日がかりだから、宿題があるのなら先にすませておきなさい」
「はい」
満面の笑みで、息子は部屋を出てゆく。
ため息が洩れる。
怜侍が私の迷いを知ったらどんなに驚き、軽蔑するだろう。
いざとなったら息子を捨ててもいいと思う瞬間すらあるのを、けっして気取られてはなるまい。
むりやりに仕事の資料にもう一度視線を落とすと、部屋の電話が急に鳴りだした。
「はい、どちらさまで」
事務所ではないのでフランクに答えると、
「御剣くんか」
恩のある先輩弁護士の声に、信はピンと背筋を伸ばした。
「ご無沙汰しております。こんな時期にどうされました?」
「例の件の弁護士団を解任されてね、時間に余裕ができたんだ」
「そうでしたか。それはまた」
「正直に言いたまえ、タチの悪い事件から解放されて良かったですね、と」
「そんなことは思っていませんが」
「それならいい。実は私の元依頼人が、君を後任に指名しているのだ」
「えっ、なぜです」
先輩弁護士が担当していた収賄事件は政界に関わる大がかりなものだ、通常なら駆け出し同然の御剣信のところへ依頼がくる訳がない。
「仕事を回していただけるのはありがたいのですが、そんな大任は私には……」
といいかける信の台詞は遮られた。
「君は今、狩魔検事の判例を熱心に調べているそうだな。それを見込んで頼むというのだ。非常に急だが、できれば今日からかかってもらいたい」
信はギクリとした。
が、すぐに普通の声をつくろって、
「研究はあくまで後学のためです。いまの私が狩魔検事と法廷で闘っても勝ち目はありません。無謀です。ご期待に添えません」
「何も全面勝訴をもぎとろうというのではない。とりあえず次の裁判につなげるためにも、ひとつ検察からポイントを奪ってくれというのだ」
「そんな」
「依頼人には今まで私の調べた情報を全部提供してある。君がそれを引き継いでくれれば、全く勝機のないこともないはずだ」
「しかし」
「頼む。私は狩魔検事に弱みを握られてしまった。これ以上動けんのだ」
「ああ」
そういう理由で解任されたか。
それでは仕方があるまい。
「わかりました。そういうことなのでしたら、やりましょう」
受話器を置くと、信は頭を抱えた。
どうする。
どうするもなにも。
どうしようがあるというのだ。

いや。
もしかすると、これはあの人を思いきる、いいチャンスなのかもしれない。
徹底的にやりこめられれば、この熱も冷めるかもしれない。
本当か?
この熱がさめる?
法廷でもう一度会えるのに?
言葉も交わせる。誰にも怪しまれることなく見つめあえるのに?
それで、この物思いをふっきれるというのか。
「……よし」
眼鏡の底へすべての感情を押し込めて信は立ち上がった。
依頼人の家に行かなければ。茫大な資料に目を通さねば。新たな方策を考え出さねば。やることはいくらでもある、昼夜の別など構わず仕事をしなければ、あの人の前に立つ資格すらない。
青白い炎の気迫に包まれて、御剣信は走った。
狩魔さん。
私は本気で闘いましょう。
そうして貴方が、検事なんて仕事が嫌になってしまうぐらい、追いつめることができたら。
この恋がどう終わろうとも、本望です。

そして二人が法廷で再会するのは、そのほんの数日後――。

* * *

狩魔豪検事は、控え室でふと微熱をおぼえ、額を押さえた。
特に熱い訳ではないが、身体はだるい。
深刻に病んではいない、だが、普段の覇気に欠けている自覚がある。
なぜだ。
真冬なのだ、風邪のひきはなかもしれん、とネッカチーフをまき直す。彼がいつも身につけている英国式のスーツは、非常に独自のテイストというかかなり華々しいものだが、それは実は父親の形見なのであり、それをきっちり着込むことで気持ちを引き立たせている。耳元のピアスは母の形見だ。なにしろめだつ出で立ちだが、襟元には検事の象徴である、秋霜烈日をかたどったバッジもひそかにつけられてもいる。
この二十年余の日々はいったいなんだったろう、と思う日がある。
めまぐるしい転勤生活、あっけなく幕を閉じた最初の結婚、二つ目の家族をこしらえても埋めきれない虚しさ。形をなくしてしまいそうな魂を守るために、裏でどう笑われようと、「完璧たれ」を口癖に、かたくなに自分のやり方を押し通すしかなかった。この派手めかした服装さえも主義の主張だった。
それで今まで成功してきた。
もちろん多くも犠牲にしたが、それは仕方のないことだ。
検事生活も、定年まで勤めたとしてもあと十余年、このままでやり通していくしかないだろう。生き方を変えるには、もう年をとりすぎてしまった。
目を通していた公判資料をしまい、狩魔検事はコートを手に立ち上がった。
少し外の風にあたろう。寒くとも気分転換にはなるはずだ。

そう思って廊下に出た瞬間。
全身が灼熱の炎に包まれた。

御剣、信――。

ただ視線がぶつかっただけだった。
それだけで、胸の奥でひっそりと燃えていたものが、一瞬にして業火と化した。
どこですれ違っても知らん顔ができる、どんな場所でも初対面を装えるという自信は、見事に崩れ落ちた。
「み……」
声が、出せない。
あの男が駆け寄ってきて自分を抱きしめたら、衆人環視の中でも抵抗できまい。
それどころか、その胸へ飛び込もうとする自分を抑えるだけで精一杯だ。
あの夜のように全身くまなく愛されたい。
何も考えず淫らにむさぼりあいたい。
違う、快楽などは二の次だ。
あの熱い眼差しにいすくめられたいだけだ。
今まで、下心なく近づいて来る者はいなかった。誰も。
周りには常に自分を狙う者しかいない。羨望と嫉妬の視線にさらされることに慣れすぎていて、だからこそ愚かしくもまっすぐな瞳に打たれた。それがいつしか慰めとなって、胸に深く根を下ろしていた。
彼の眼差しは今、あの日の信よりも熱く燃えていた。
だが。
銀縁眼鏡の瞳は今日は、むしろ無感動にこちらを見返していた。
まるで知らない人間でも見るような顔だ。
狩魔豪は背筋の震えを感じた。
きゃつめ、人前ではこうか。
それとも前回で気がすんだのか。一度で興味が失せたか。
それともまた別の理由で――?

「お父さん」
そこへ駆け寄ってきた一人の少年がいた。
品のいいブレザー姿。半ズボンの裾からのぞく滑らかな膝小僧。切り下げた艶やかな栗色の髪。清潔な微笑み。
うむ、あれが奥方の忘れ形見か。
まだ小学生のようだ、男手ひとつで育てるのは、精神的にも経済的にも苦しいだろう。それでも妻の面影をなぞりながら、大切にしているのだろう。
などと思った瞬間。
「裁判所内を走り回るな」
冷たい声が響いた。
ビク、と身をすくめる少年が哀れだ。狩魔検事は思わず近寄る。
「そこの少年。名前は」
「え?」
振り向こうとした少年の肩を抱き寄せるようにして、御剣信は呟いた。
「貴方が被告と証人以外の名を気にするとは、天変地異でも起こりそうです」
「お父さん?」
「行こう、怜侍」
親子は連れだって歩き出した。
茫然と立ちつくす検事の耳に、二人の会話がかすかに届く。
「あの人は?」
「狩魔豪だ。日本であの人ほど手強い検事はいないという」
「ふうん?」
「それより勝手に動き回るんじゃない。ここは必ずしも安全という訳ではないんだ。始まるまで私の側を離れるんじゃない」
「はい」

狩魔検事はすぐに動けなかった。
熱い眼差しどころか、微笑みさえ見せなかった。
いくら子どもを連れているとはいえ。
貴方に殺されても本望だなどと抜かしていたくせに。
嘘だったのか。
公衆の面前だからか。
いや、もういい。
ならばこちらも、それだけのことと割り切ってしまえば。

頭痛がひどくなってきた。控え室にもどって、資料にふたたび視線を戻そうとする。
だが、できない。
大丈夫だ、と何度も自分に言い聞かせる。
これぐらいの不調がなんだ。
そう、今更何も考える必要はない。完璧な証拠、完璧な証人はそろえた。
それ以外はすべて排除した。
大丈夫だ。

しかし、しばらく前から「心ここにあらず」の状態だった彼である。
その時すでに、決して完璧ではなかった。

「裁判長。ここで新たな証人を呼びたいと思います!」
今回の収賄事件の被告は、新たな弁護団を擁していた。
金をもらって便宜をはかっただけのこと、あっさり認めればそう傷にもならないものを、それをいちいち隠す卑劣な政治家に雇われた者たちだ。通常は狩魔検事の敵でない。
しかし法廷に遅れて入ってきて、なおかつ手を挙げて発言した男の顔を見て、狩魔豪は青ざめた。
御剣信。
貴様、まさか。
「証人を呼ぶ前に、狩魔検事に一つ質問があります。あなたは稲葉組との癒着を囁かれていますが、個人的に組員と接触したことはありますか」
狩魔豪は目を伏せた。
「ここでそれに答える必要はない」
「この事件に関係のあることです。答えてください」
狩魔はおもむろに首を振った。
「我が輩は暴力団員と接触したことなどない」
「長い検事生活で、一度もですか。金を渡したことがあるかどうかをきいているのではありません。食事をしたこともないと?」
「ない」
きっぱりと言い切る。こう答える以外になにもできないからだ。
「わかりました」
なにを得たのか、御剣信の瞳がひかる。声は猫撫で声に変わった。
「今回の事件の重要参考人、末金達郎氏が、本日未明、殺害されました。誰が献金をどれだけ受け取ったか、司法当局は調査続行中だったはずです。検察としては、結局とかげのしっぽしか捕まえることができず、大変悔しい結果に至ると思われますが、その点はいかがお考えですか」
「む」
それは、狩魔豪の知らない情報だった。
なぜ、我が輩にそんな重要なことが知らされておらぬか。
内心焦りを感じたが、そんなことはおくびにもださず、
「どのみち法廷では証拠がすべてだ。証拠のない者はこの場で裁けん」
「そうですか」
御剣信は薄笑いを浮かべて、
「実は、某大物政治家をかばうために、参考人が殺されたという疑惑が発生したのです。実は今朝早く、つまり殺害からあまり間もなく、その犯人が自首して参考人を殺したことを自供しました。稲葉組の組員で、この男です」
引き延ばした顔写真を掲げた。
狩魔豪は目を伏せて、それを見ないようにする。万が一、表情が変わったらまずいからだ。
「この組員の自供によれば、とある人に頼まれて参考人を殺害したとのことです。その人の名は――狩魔豪」
法廷がいっせいにどよめいた。正義であるはずの検察官が、汚職政治家の味方をし、暴力団に証人の抹殺を頼むなどありえない。
狩魔検事はキッと顔を上げた。
「それならば、その男を証人として出すのだな」
あの男が法廷に出てきたら、その証言をこの手でねじ伏せてやる。
捜査を拡大することで、押さえたい犯人が押さえられない可能性がある。今回はここまでとくぎりをつけることが大切なのだ。第一、大物は時期をみて叩かねば意味がない。だから参考人に一定の証言を控えるよう、指示を出したことは確かだ。とある組にそれを見張るよう頼んだのも事実だ。しかし殺害の指示など出してはいない。
証言の矛盾を叩いてやる、と背筋を伸ばした瞬間、御剣信の声が先に響いた。
「組員は自供の後、取り調べた警察官の隙をついて、庁舎の七階から飛び降り自殺しました。ですから彼を呼ぶことはできません。今回呼ぶ証人はこの人です。入ってください」
言われて証言台に進み出たのは、非常に地味なサラリーマン風の男だった。
裁判長がおもむろに尋ねる。
「名前と職業を」
「C社のスクープカメラマン、大谷栄三です」
「何を証言するために来ましたか」
「職業柄、常にカメラを持ち歩いています。そして、そこにいらっしゃる検事さんが、食事をされている写真を撮ったことがあります。これです」
法廷はふたたびどよめいた。
そこで提出されたのは、大判のパネル三枚――それは狩魔検事が一人の男と食事をとり、そして分厚い白封筒を渡している、連続した場面を写した物だった。
「異議あり!」
狩魔検事は叫んでいた。
はめられた。
この男にはめられた。
のこのこと近づいてきたのは、何か我が輩を陥れる端緒がないか探るためだったのだ。
いざとなったら我が輩のヌード写真さえ持ち出す気だったのだろう。
下心がないどころか、もっとも悪質な男だ。
検事の権威を貶めて、裁判官の判断を狂わせようとしている。
貴様こそ有罪だ、御剣信!

荒れに荒れた法廷だったが、なんとか今回で結審し、問題の被告は有罪となった。
裁判終了後、狩魔豪は検事局長に呼ばれた。
「どうも大きな騒ぎになりすぎた。収賄事件を扱う現職の検事が、暴力団に金を渡しているのでは、どうにも示しがつかん。あの封筒の中身が金であったかなかったかはもう問題ではない。今回はかばいきれん」
狩魔豪は首を垂れていた。
「君が殺害を指示したのでないのはわかっている。しかし組員に参考人を見張らせたのは、明らかにいきすぎだ。むしろ彼を守るためだったんだろうが、君らしからん大雑把なやり方だ。この件では処罰を受けてもらうよ」
処罰。
検事として、一度でもそれをくらうことは致命的だ。
昇進どころの話ではない、それまでの業績などすべてふきとぶ。何もかも無視されてしまう。
彼の生き方は、いま完全に否定されたのだ。

その時局長に何と返事したのか、よく覚えていない。
コートと手袋をつけたまま、ふらふらと資料室へ向かった理由も。
夜、暗闇の中で目覚めたことだけは覚えている。あれだけの大地震だったのだ、その時頭部を打って、何時間か気絶していたのかもしれない。どうやら火災は発生していなさそうだが、暗闇でも建物の損壊がかなりひどいのはわかった。とにかく脱出しなければ、と思った。
この階のエレベーターは無事だろうか、とボタンをさぐった。
ドアは開かない。
無駄だ、別の脱出口をさがすか、と思った瞬間、鈍い音とともに右肩に熱い痛みが走った。
思わず唸り声をあげた。
誰だ、誰が我が輩を撃った。
次の瞬間、建物全体に明かりが灯った。
ゆっくりとドアの開いたエレベーターの中で、見おぼえのある男が気を失っていた。先程みた少年と、検察事務官も倒れている。
足元には拳銃が落ちていた。
検察官には拳銃所持は認められていないはずなのに、なぜここに。
証拠品か?
狩魔豪は、左手でそれをひろいあげた。
撃たれた肩の痛みは激しいのに、心はなぜか冷静だった。

何もかも終わった。
検事として人を裁くことも。
人として人を信じることも。
もうできない。
ならば我が輩は人でない者になればよい。
検事としてでなく、罪人を裁く。

一発の轟音。

だが、それでも誰も目を醒まさなかった。

ふん。
狩魔豪は薄笑った。
人でなしであるなら人でなしらしく、意地汚く生き延びてやろうではないか。
そう、もし神というものがこの世に存在するなら、今それは我が輩にこの行為を許した。
証人が誰もいない殺人を。
後は痛みに気絶する前に官舎まで戻れるかどうかだ。
ネッカチーフで患部を縛り、油汗を流しながら、廊下の壁をつたって脱出口を探した。

にぎやかであるはずの年の暮れ、しかも大災害の後だというのに、その日の夜の町は、不気味なほどに静かだった。
どのみち狩魔豪の耳には何もかも遠く、何も届かない状態だったのだが。

5.

ああ、バチがあたった。
薄暗闇の中、低く呟くその口唇は歪んでいる。
狩魔さん、自分がどんなに愚かしいか、今更思い知りました。
こんなせっぱ詰まった状況で、思うのは貴方のこと。
脳裏に浮かぶのは貴方の完璧な躰。
二度とあなたに触れることはかなわないというのに。
あなたは許してくれないでしょう。
仕方がありません、裁判のため、あなたを騙すために近づいたと思われても。
今となっては、何もかも、もうどうでも。

エレベーターの中であんな大きな地震にあったのは初めてで、確かに驚いたが、それでもすぐに明かりがつき動き出すだろうと高をくくっていた。
しかし。
裁判の後、息子を連れて乗り込んだエレベーターに、もう一人の男が滑り込んできた時、御剣信はなにか嫌なものを感じていた。
すでに小さな余震を感じていたのか、それとも硝煙の臭いに無意識に気付いていたかはわからない。
そして、はっきりと危険を悟ったのは、非常用のボタンを押しても、ドアガラスの外の暗い廊下へ向けて声を張り上げても、応答もなければ誰もこなかった時だった。
なんという静寂。
この世のすべての人間が死に絶えたような静けさだ。

なに、この密室から脱出することは不可能事でない、と信は闇の中で目をこらした。どんなエレベーターでも天井の一部が上げ蓋になっていて、そこが開くはずだ。もう一人大人の男がいるのだ、協力すればなんとでもなるだろう。
「私が台になるから、あの蓋をあげてみてくれ」
もう一人の男に話しかける。
男はしぶしぶ信の肩に乗り、蓋を叩いた。
しかし。
「開かない」
「なんだって」
「さっきの地震で、この上げ蓋の上に何か落ちたに違いない。重くて中からはあけられない」
「そんな馬鹿な。交代してくれ」
男の肩車で信は天井を叩いた。
確かに持ち上がらない。隙き間すらあかない。
とつぜん御剣信は悟った。
このまま助けがこなければ。
ここにいる三人はいずれ、寒さと酸欠で死ぬ。
信はもう一人の男をにらんだ。
「おまえが持っている拳銃を貸せ」
さっき肩車をした時、服の下に妙な感触をえたのでカマをかけてみたのだが。
「何を馬鹿な」
男はむっと御剣を見返した。
「こんな狭い空間で銃を撃ったらどうなると思う」
信はドアを指さした。
「とりあえずこのガラスを撃てば、外の空気が入ってくる」
停電のため、強制排気機能は作動していないだろうが、ほとんど隙き間のないこの鉄の箱はほぼ密室だ。通常のものより広いスペースであるとはいえ、数時間で、ガス室などよりよほど残酷な処刑場と化すだろう。
しかし男は首を振った。
「ここのエレベータの窓は防弾ガラスだ。こんなちゃちなピストル一つでおいそれと穴があく物じゃないし、万一穴があいたとしてもそれだけだ。もし廊下にガスでも漏れていたらどうする。その場で大爆発だ。まして、訓練もしていない人間の手に渡せるか」
「きさまは警察官なのか」
「ち……そうだ」
御剣信はその微妙な間を突いた。
「嘘をつくな。その胸のバッチは警察のものじゃない。だのになぜ拳銃を持っている」
男は口唇を噛んだ。信は畳みかける。
「答えられない理由があるのか」
男は答えた。
「もしこの自分が犯罪者なら、おまえたち二人をすぐに殺して二人ぶんの酸素を確保する」
「じゃあなぜそんなものを」
「弁護士先生は気付いたかどうか知らないが、今日の午後、裁判所前で発砲事件があった。三上組の組員の仕業だ。その時私は、撃たれた昔の同僚から、所持していた銃を渡されたのだ。これは同僚が自分からは犯人を撃たなかったという大事な証拠品だ。だから私以外の誰にも触らせない。死んでも渡さん」
「昔の同僚?」
「私はこの裁判所の検察事務官、灰根高太郎だ」
御剣信は得心した。
おそらく今回の参考人殺しは、稲葉組と三上組の利害のぶつかりあいのために発生したのだと。
形として三上組は稲葉組の傘下ではあるが、政界とのパイプは太い。今回の参考人が証言を続ければ、おそらく三上組に不利益な結果が出るに違いない。今回鉄砲玉になった組員は、とりあえず名前は稲葉組所属だが、元は三上組だった。そうでなくとも、参考人の状況はかなり厳しいものだった。検察側が金を渡していようがいまいが、いずれ殺されたか自殺に追い込まれたろう。
狩魔検事はおそらくそれを少しでも遅らせるためか、もしくは自分が目を光らせているぞと知らせるために、あの組員に近づいたに違いない。
それをこの私は。
逆手にとってすべてひっくり返してしまった。
人の死を不正義に使ってしまった。
この私に弁護士の資格など、まだあるのだろうか。
最初から、狩魔さんの差し金ではないと、わかっていたのに。
あの人はそんなことをする人でないと。
なのに。
「……」
いかにも意固地そうに口をつぐんだ灰根の顔を見つめ、信はあきらめ、低く呟いた。
「なら、もうしゃべるのはよそう。人の気配が感じられないのに、声を出すだけ無駄だ。酸素の節約につとめよう」
目の前の男は、決してこちらに拳銃を渡さないし、使うこともしないだろう。もし本当に元警察官で、元同僚の名誉がかかっているすれば。警察勤めをしながら超難関の副検事試験を突破したというなら。よほど真面目でなければそんなことはできない。そんな男から拳銃をもぎとろうとすれば、それこそ殺されるだろう。
そうして大人二人と子供一人は、黙って膝をかかえて座り込んだ。

薄暗闇の中、何時間とも思える時間が過ぎた。
頭の中は朦朧として、何か建設的なことを考えようとしても思考はまとまらない。
というより、信の脳裏に浮かぶのは、完璧な躰のラインだけだ。
ためらいがちな仕草。かすかに震える口唇。
応えてくれたのだ。ベッドの上で、この腕の中で、シャワーの下で。
これは女の身代わりに抱く躰ではないわ、と怒ってくれた。
もちろん死んだ妻のかわりなんかじゃないのに、とあの時は思ったが。
貴方がどんなに私を愛してくれていたか、怜侍を見た時の表情で真実わかった。
見たくなかったに違いないのだ。
相手の家族がどんなかなどと、初めから見たい訳がない。
そう、私自身、あの瞬間、息子の存在をうとましいと思ったのだから。
今日は運命の日、とでもいうべきなのだろう。
しかも、なんという惨めな運命。
裁判にも破れ、貴方を公衆の面前であんなにも貶めて。
狩魔さん……!

足の間で硬くそそり立ったものを感じて、信は苦笑いした。
いったいなんだ私は、こんな非常時に欲情して。
いや、人は死にかけている時に子孫を残す本能が動くともいう。
死ぬ間際に美しく楽しい思い出が走馬燈のように浮かぶとも。
それでも妻でもなく息子でもなく、あの人のことばかりとは。
なんておめでたい男なのだ、私は。

「オレの酸素を吸うな!」
突然、灰根がつかみかかってきた。
酸欠による錯乱状態だ。自分が何をしているかわからないのだ。凶器を持った男ともみあいになるのを避けるため、信は声ごと相手を突き飛ばした。
「うるさい黙れ、こっちまでおかしくなる!」
しかし灰根は再び信に飛びかかってくる。
息子の悲鳴が聞こえた。
「何をする、お父さんから離れろぉっ!」
何かが宙を切った。
鈍い音がして、小さく閃く炎が一瞬。

その時、停電が終わった。
なぜかエレベーターのドアが開いた。
助かった、と思ったが。
あまりに疲れがひどく、あまりに眩しくて、目があけられない。
だが、御剣信はそこに一つの人影を感じていた。

ああ、狩魔さん。
なんて悲しい顔をして。

最後にもうひとめだけ貴方を見たかったけれど。
幻でも、そんな悲しい表情は見たくなかった。

私は有罪です。
貴方の愛を裏切ったのだから。
貴方に裁かれなければならない。
貴方にそんな顔をさせただけでも、私は。

一発の轟音。

次の瞬間、御剣信の意識は、本当の闇に沈んだ――。

6.

「かるまさんかるまさんかるまさんかるまさん」
「もっとだ。もっとふかくうちこむのだ」
「かるまさん!」

硬いベッドで目覚めて狩魔豪は、喉がカラカラなことに気付いた。
まだ熱が下がらない。淫夢すらまともでない。
それでも泣き出しそうだった。
我が輩がこの手で殺したのに。
あれだけ手ひどく裏切られたのに。
何もかも奪われたのに。
まだ忘れられないのか、あの男を。
なぜだ。

ここはとある南の島。狩魔検事の知人の一人が所有している島で、一人の男が住んでいる。そこの診療所まがいのバンガローに身を寄せるようになって、三日目の朝のこと。
「起きたか、ミスター・パーフェクト」
闇医者であるこの男は年齢不詳、もしかするとこの患者より年かさかもしれない。ぺらぺらと軽薄なアロハシャツ姿だが、たいそうな腕だときいている。
熱のためだけでなく、狩魔は不機嫌な声を出した。
「その呼び方はやめろ」
「カンペキが口癖なんだときいたからな」
「それでどうだ。体力が復活したら、この弾丸は抜けるのか」
「無理だな」
「なんだと」
医者は薄笑いをやめた。
「奇跡なんだ、今の状態自体が」
「なにが奇跡だ」
「もう傷口は完全にふさがっている。筋肉の隙き間に深く入り込んで、弾をとりこむ形でだ」
「ならそれをこじあけて出せ」
「それが、とにかくえらく嫌な位置でとまっててなあ。ヘタにメスを入れたら、あんたの右腕はつかいものにならなくなる。失敗したら右腕を落とすことになるが、いいのか。もしくは、出血多量で死亡だ。今のあんたの体力じゃ、まずもたんよ。この島で傷が腐って、のたうちまわりながら死ぬな」
「どうにもならんのか」
「ふん、すぐに摘出すればなんとかなったろうさ。しかし、それも日本の、設備の整った大病院での話だ。輸血用の血液がふんだんにあって、よほど優秀な外科医が何時間もかけてで、やっとってところだ。もうすっかり手遅れだ」
「貴様は闇医者であろう。患者の一人を死なせたからといってどうということもあるまい」
「ひとを殺すための手術が平気でやれるなら、闇医者もやめるさ」
医者は細い葉巻を口の端にくわえた。
「右手のリハビリは手伝ってやる。どうせあんたは元々左利きなんだろう、そう怪しまれない程度にはなるさ」
「もし手術しなければ殺すといったら」
「ご勝手に」
男は葉巻に火をつけながら、
「弾傷なんてのは男の勲章みたいなもんだ、後で動き出してその弾があんたの心臓を狙うなんてこともないだろうから、ほうっておくんだな」
「これが勲章だと?」
狩魔豪が吐き捨てるように言うと、医者はふふんと笑った。
「それとも愛の証かい?」
一瞬青ざめた狩魔に、医者はたたみかけた。
「何度もうわごとで呟いてたぜ。シン、シンってな」
狩魔豪の胸に殺意が芽生えた。いや、身体がいつもどおりならその場で打ち倒していたかもしれない。
しかし医者は鼻歌を歌い出した。
「It's a sin to tell a lie…てか」
【やっぱり嘘は罪】――ブルースのスタンダードナンバーだ。
医者は面白そうに呟く。
「あんたの歳で恋に狂ったり撃たれたりするのは、そりゃそれで面白いだろう。愛の思い出は大事にするがいいさ」
信と罪(シン)。同じ響き。
名からして元々「罪」だったのか。
だが、あの男の罪とはなんだ?
ひとつの肉体を、たった一つの夜でカンペキに奪い尽くしたことか。
我が輩をあざむいたあげく、この右肩を損なったことか。
いや、もしあの男に撃ち抜かれたのであれば。
この屈辱に耐えられた。
「ミスター・パーフェクト」
「だからその呼び名は」
「お忍びでバカンスにきたことになってるんだろう? とにかくもうちと晴れやかな顔をしときな。怪しまれる」
言われて狩魔は、ふと顔色を改めた。
そう、我が輩はまだ生きているのだ。
何がどうなってもいいと思いながらも、こんな場所まで逃げてきたのだ。
年末年始の一週間、官舎で必死に止血をし、アルコール消毒の痛みでのたうちまわり。
処罰はそう重いものにはしない、今後の流れ次第では撤回するかもしれない、という局長の知らせをきいてから、飛行機のチケットをとった。
こんな時に海外へ出たら死ぬかもしれないと思いつつ、だがそれでもこの痛みが消えるのならとここまで来て、傷を他人の目にさらした。この医者が新たな弱みになるかもしれないことを、充分に承知しながら。
だが、たとえ傷が癒えようと、胸の痛みは消えることはないだろう。
なら、この痛みをかかえたまま、いつもの笑みを浮かべることができなくてどうする。
日本に帰って裁かれる目にあおうとも、毅然としておればよい。
我が輩は誰だ。
狩魔豪ではないか。
弾丸の一発や二発で損なわれる者ではないわ。
その頬にいつもの皮肉な笑みが戻るのに、そう時間はかからなかった。

その回復ぶりにはめざましいものがあった。
多少の不自由はあるにしろ、物を握ったり字を書いたりするのに何の支障もなくなり、痛みそのものもだいぶやわらいできた。
三ヶ月もたたないうちに、狩魔豪は島を出る決心をした。
それをきいた医者は、無線で知人と連絡をとってくれた。
「ヘリを呼んだ。荷物をまとめておけ。明日の朝はやくだそうだ。俺は見送らないからな」
「すまんな」
「礼を言われることはない。自信がなくて、あんたの手術をしなかった。医者失格だ」
「そんなこともあるまい。怪しい薬も使わずに、傷の痛みをとったろう」
「薬は後遺症が出るからな。とにかく、痛みには特効薬なんてものはないんだ」
医者は笑った。
その声のかすれが少し気になったが、その晩狩魔豪は早くから眠り、悪夢も見なかった。

翌朝、出立前にやはり一度挨拶をしておこうと思った彼は、医者の寝室を訪ねた。
ドアを叩いても返事がない。鍵もかかっていないのでそっと押し開ける。
寝息がきこえなかった。
妙な臭いに気付いて、狩魔豪は医者に近づいた。なんだこの腐敗臭は。汗や排出物の臭いとは違う、この臭いは。
よく知っている。死者の臭いだ。
慌ててとった医者の左手首には、脈がないどころか、すでに冷たかった。
自動的にヘリでの出発は一日遅れた。
この医者が食道癌の末期で、この島での生活はすでに人生の余暇だったことを知らされた。鋭い痛みに真顔で耐えていたのだということも。
その遺体は島に埋葬され、狩魔豪のバカンスが実際どんなものだったかを知るものは、この世に誰もいなくなった。
なかば茫然としながら、彼は日本への帰途についた。

だが、東京へ戻った彼を、誰も待ってはいなかった。

御剣信殺害事件は、彼と同じエレベータにのりあわせた検察事務官、灰根高太郎が犯人として裁判が進行していた。処罰を待つ身の狩魔豪は戦力外として、裁判どころか捜査にも参加させてもらえなかった。その捜査は難航したあげく、霊媒師をよんで犯人を尋ねたという茶番まであったというのに、真相は解明されず、非常時における心神耗弱ということで、灰根の無罪で結審した。
そう、誰も彼を待ってくれてはいなかったのだ。
裁判でさえも。

御剣信には息子がいたはずだ、今いったいどうしているのだ、と気付いた狩魔豪は、その行方をさぐった。そう難しい調査でなく、遠縁の家に引き取られているということがすぐにわかった。事件の時のことは何も記憶していないという話だったが、もしかして自分のことを少しでも覚えているかもしれない。
後で重要な証人になるかもしれない少年を、放っておくこともできまい。
狩魔は出かけた。

「もうあの事件のことで、お話しすることは何もないと思いますが。なんにも思い出せないそうですから」
遠縁の家族はいかにも迷惑そうに狩魔を迎えた。
「うちも経済的に厳しいですし、本人の希望もあって、この春から学園に行ってもらうことにしているんですが」
ガクエンとは、親のいない子を収容する施設のことらしい。
いかにその家で冷遇されているかは、少年の顔を見てはっきりした。
そのひどい変貌ぶりの理由は、愛する父を失ったショックだけではないだろう。その肌の荒れ、色のくすんだ髪、そまつな身なり。
「御剣怜侍くん」
そっと声をかけると、少年はうつろな眼差しをあげた。
とてもこちらの面相など覚えている風ではない。
それでも彼は、こう尋ねた。
「我が輩が、誰だかわかるか」
「狩魔豪検事」
ドキリ、とした。
何を、どこまで知っているのだ。
いや、あの男が可愛い息子に、いかがわしいことを語ったとはとても思えない。
単に裁判所で会ったことを覚えているだけだ。
「御剣信氏は、我が輩のことを何か言っていたかね」
少年はおうむがえしに答えた。
「日本で、狩魔豪検事より優れたひとはいないと」
教え込まれたその文句に、疑いを持っている様子はなにもない。
「怜侍くん」
「はい」
「我が輩のところへ来ないか」
「狩魔さんのところへ?」
いぶかしげな少年に、狩魔豪は淡く微笑みかけた。
「検事になってみる気はないかね」
「検事……」
「弁護士では、罪は裁けない。そして、弁護士も検事も、そう隔たった仕事をしている訳ではない。両方とも、正義のために戦う仕事だ。なに、どちらになるかをいま決める必要はない。する勉強は同じだ。だが、もし我が輩と一緒にこの国を離れる気があるなら、今、この手をとりたまえ」
狩魔豪は右手を差し出した。
これは賭だった。
ずっとそばにおいておけば。恩義でしばりつけておけば。
万が一この少年が思いだした時に、大きな保険になるだろう。
それに、この少年にはあの男の面差しはない。
傍らにいても間違えたりすることもあるまい。
少年も小さな掌を差し出した。
「検事になれれば、と思っていたところでした。もし、僕でもなれるのなら」
この国で自分を待っていたのは、おそらくこの少年だけ――そう思った瞬間、不思議な愛情が胸に満ちてきた。新しい父にも母にもなってやろうというような殊勝な気持ちにさえ。

それからあまりに長く不思議な歳月が、二人の上に流れることになる。
狩魔豪本人が、裁判所で時効前の殺人を告白しはじめる、その日まで。


『罪』

長期受刑者を収容する、C刑務所。
丘の上に立つ赤煉瓦の建物は、明るくあか抜けて貴族の城館を思わせる。だが一歩コンクリート塀の内側に入れば、押し殺したような静けさが支配している。青い囚人服の受刑者たちが看守に引率されて二列縦隊で歩いたり、構内の作業に従事しているが、飼い慣らされた羊のようにおとなしい。
御剣怜侍は、天窓から光のさす廊下を歩く。
この青年検事が面会に来た囚人の名は、狩魔豪。
彼の父親を十五年前に射殺した男だ。
狩魔元検事は、俗に言われるゼロ番囚――死刑囚ではない。
彼が裁いた犯罪者と関わりが発生してトラブルにならないよう、独房に収監されているものの、確定した刑は死刑でも無期懲役でもないのだ。現役検察官の身で、殺人の罪を犯しながらだ。

「被告を、懲役七年とする」
その判決を聞いた時、御剣怜侍は眩暈を覚えた。
実刑判決だ、執行猶予なしだ。
だが、たった七年とは。
殺人事件に二つも手を染めていながら、刑期がその短さなのには当然訳がある。裁判長はその理由を簡単に述べた。
まず、一件目の御剣信殺害について。
犯行時、初めての重大な処分を知らされた直後、かつ大地震発生後の異常心理時であったこと。しかもその時、偶然凶器が目の前に落ちていたという偶然が重なったために発生した、発作的な犯行であったこと。自首こそしなかったものの、犯行後に海外へ脱出した被告には、他の人間に罪をなすりつける余裕も意図もなかったと思われる。事務官の灰根高太郎を犯人にしたてた生倉弁護士と被告の間に個人的交流はまったくなく、むしろ降霊術に頼って捜査を誤った警察の無能の方が、はるかに問題とされるべきであろうということ。
そして、二件目の生倉弁護士殺人事件について。
殺人教唆という意味では被告が主犯とされるべきだが、灰根事務官は被告と同じ職場に勤めていた時期はごくわずかであり、個人的交流はやはりまったくなかった。その後事務官をやめた灰根に対して被告が力をもつことはまず考えられず、ある意味灰根の単独犯と考えても構わないだろうということ。
御剣怜侍に殺人の罪をなすりつけようとしたことは大きな問題だが、実を言えば被告はは二年前に定年退職する予定だった。それを近年の司法改革と規制緩和で検察庁が無理矢理ひきとめたのであり、もし被告が検事として御剣怜侍を陥れることをあらかじめ考えていたのであれば、もっと早い時期に冤罪の準備をしていたはずである。時効直前に灰根に真相を知らせたのは、むしろ本人の良心を信じていたのではないかと考えられる。海外に行くことが多く、その間時効の停止があった被告の場合、あの時期に事件を暴くのは決して得策ではなかったはずだ。なにより最初の発射はほとんど事故のようなものである、しかも二○○一年当時、御剣怜侍はまだ九歳だった。実際に父を手にかけていたとしても法で裁くことは不可能な年齢であり、冤罪として弱すぎる。
なにより狩魔被告は、日本の検察史に名を残す優秀な検事であった。海外でも活躍し、国内においても後進の育成に力をつくし、生涯検事正どまりでありながら日本の司法に大きく貢献した人である。また、死刑囚無期囚と一緒の刑務所へ収監することは、さまざまな問題を引き起こすと思われる。被告自身の高齢もあり、懲役七年程度が相当と思われる。
今なお体内に留まっている弾丸の鉛害が、多少なりとも被告の身体を損なっていることもある。本来、御剣怜侍の犯罪は被告に対する傷害罪であり、本来ならば彼の親族が賠償責任をおうべきであるが、この件は不問とする。

十五年の悪夢に苦しんだ青年は、しばらくその場を動けなかった。
その場で卒倒してもいいような判決だが、判決は判決だ。
ひとつの異議もとなえず法廷を出ていく狩魔を見送りながら、叫べない一言があった。
――司法とは一体、なんなのですか。

服役中の狩魔豪と面会したい。
その許可はすぐに降りなかった。二人の因縁が深すぎるからだ。刑務官の立ち会いの元、三十分だけという条件をつけて、やっとそれが実現した。
彼は模範囚だという。独房に入れられた者にありがちなノイローゼ状態もまず見られず、日々淡々と過ごしているという。有名建築家の手による古くともモダンなこの刑務所は、彼を城主として喜んで迎えているのかもしれない。
透明な窓ごしの再会ながら、元師匠を目の前にした瞬間、御剣の身体は引き締まった。
慇懃に頭を下げる。
「ごぶさたしております」
狩魔豪は、いつもの冷笑でそれを迎えた。
「恨みごとを言いに来たか」
「いいえ」
御剣の昏い眼差しが、狩魔の灰色の瞳からそれる。
「お聞きしたいことがあります」
「うむ」
色のない御剣の口唇が、重たく開く。
「貴方は、生前の父と親しかったはずです」
「証拠は」
御剣は視線をそらしたまま、
「貴方は父の名を知っていた。ふだん、相手の弁護士の名を覚えようともしない貴方が、あの裁判で新しく雇われたばかりの弁護士が誰かを知っていた。そう、明らかに二人は旧知の仲だった。思いだしたんです、貴方に最初に会った日のことを」
「証拠にはならん。相手の名を裁判の前に調べておくのは基本中の基本だ。覚えようとしないなどというのは、あくまでポーズにすぎん。それにそもそも、十五年も前の記憶など全くあてにならないことは、経験上よく知っておろう」
御剣は首を振った。
「ずっとおかしいと思っていました。確かに貴方は、あの裁判のせいで処分を受けることになった。しかし、殺人の理由としてそれは弱い。殺人犯として逮捕されれば、処分どころではないのに、貴方は何の偽装工作も行わなかった。あの時の貴方が冷静さを欠いていたとは、とても信じられません。激痛をこらえながら、相手の心臓部を正確に撃ち抜いた人が」
「我が輩はもともと左利きなのだ、不可能ではない。アメリカ時代に射撃の訓練も積んだ。とっさに相手の急所を撃てるぐらいにはな」
御剣はもう一度首を振った。
「いいえ。貴方と父の間に、それまでの間に何かがあった。だから貴方は、あの場で父を殺さねばならなかったんです」
「証拠はない。そもそも、何か、とはなんだ」
そう言われて、御剣怜侍の瞳はようやく狩魔豪の眼差しと向き合った。
「ではなぜ、孤児になった私をひきとって……?」
灰色の瞳はまったくそらされない。
「あの日の悪夢を何度も見たのだろう。我が輩の呻きも聞いたであろう。あの日の正確な記憶を貴様が思いだした時、手元に置いておけば始末しやすいからだ」
「嘘です。貴方はずっと私を監視下に置いていた訳ではない」
「証拠はない。何もな」
そう呟くと、狩魔豪の微笑みがふっと和らいだ。
「やはり父親に似ておらんな。年をとってくれば、もう少し似てくると思ったが」
「えっ」
狩魔は低い声をさらに低めた。
「奴の罪はとっくに時効だ。証拠も何も残っておらん。ゆえに何も知る必要はない。この身がすべてもっていく」
「狩魔検事!」
御剣怜侍は思わず立ち上がり、眩暈をおこして再び椅子に倒れ込んだ。
ああ。
やはり。
父はこの人を。
おそらく無理矢理に。
それは、そんな馬鹿な、信じられない、と何度も打ち消してきた疑念だった。
小学四年のある日、年輩のハウスキーパーがひそかに少年御剣にこう耳打ちした。
「お父さまは再婚が近いかもしれませんよ」
「えっ。どうして」
「女のカンです」
言われてみると、父親の様子がどこか今までと違うのは事実だ。やはりそうか、とも思う。仕事熱心なのは相変わらずだが、それだけでない、微熱のようなものに浮かされている。寂しい子どもは親のそういった雰囲気には敏感なのだ。
「ずっと苦労なさってきたんですから、そろそろ新しい奥様をお迎えしてもいい頃ですよ。祝福してさしあげましょう」
「うん」
しかし父に女の影は見あたらなかった。父の死後もそういう女性は現れなかった。
そして生前の父が一番熱心に研究していたのは、狩魔豪検事の裁判例だった。司法試験を通り、日本で検事の仕事をする怜侍に入ってくる情報は、それをさらに上塗りした。
ずっと、立派な父と思ってきた。
息子の前で、依頼人の前で、確かに立派な男だった。
だが。
「狩魔豪検事だ。日本で一番優秀な検事だ」
そう自分に囁いた父の瞳に浮かんだ複雑な色あいが、今でも忘れられない。
異常な熱を帯び、それでいて恐ろしく寂しげな、その声も。

「聞きたくないことを聞きにくるものではない」
そう呟いて、狩魔豪は立ち上がった。
「面会時間は終了だ。帰るがいい」
「聞かせてください」
はじかれたように立ち上がって、御剣は叫んでいた。
「最初に父が貴方を――ならば、有罪なのはむしろ――」
片頬だけを振りむけて、狩魔豪は呟くように、
「恨んではおらん。二度だけだ。涅槃で会う頃には笑い話になっているだろう」
二度。
二度もなのか。
それで貴方は父を殺した。
しかし貴方は私を育てた。
それはつまり、その二度きりで、身も心も――。

検事・御剣怜侍の失踪の報が司法当局を騒がせたのはそれから間もなくのことだったが、その理由の真実を知る者は、実はこの世に一人しかいない。
そう、今もなお独房で黙想している、その老人しか。

*参考文献;『死刑囚の記録』加賀乙彦(岩波新書)

(2003.7脱稿/初出・恋人と時限爆弾『完璧な身体』2003.8発行)

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All stories written by Narihara Akira
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