『明日お家に帰りたい』

1.

女のような顔というのは、まさしく彼のものをいうのだろう。ゆるく波をうって、肩口へ落ちる長い薄茶の髪。丸く孤を描いて、細く流れる眉。甘いニュアンスのある重たい二重瞼の下に、強い印象を与えるくっきりと大きな瞳。常に微苦笑を浮かべる薄い口唇。均整のほどよくとれた卵型の顔は、特にメイクもしていないのに、しっとりと透明に艶めいて白い。外人女性モデル風とでもいうのか、とにかく日本人離れした容貌で、無造作に羽織った白いシャツと安物のGパン姿でも、高級婦人雑誌のグラビアのようにサマになっている。
つまりは《美人》だ。
痩せてはいても小柄でない身体は、二十代の男性として完成されているし、言葉遣いや声は完全に男のもので、そういう意味で女らしいのではない。
しかし、その仕草はいつも内側へ向かう。十代の少年並みの繊細な神経を痛々しくかばっているかのように。実際彼はあまり強靭な人間でなく、ちょっと雨にうたれたといっては風邪をこじらせ、高い熱をだして何日も寝込んでしまうようなところがある。性格は素直だし根は真面目なのだが、外で働いても長く続かない。不思議に物を知っていて、昼間から近所をぶらついては、《情報屋》と名乗って他人に何か教えたり、簡単な頼まれ仕事をやって暮らしているようだ。
彼は自分の名を、ただ《A》としか名乗らない。アルファベットの大文字のA――エイだという。名前だから小文字にしないでくれともいう。漢字でも書かないでくれ、とにかく自分はAなんだ、と。最近姉と共にどこかから流れてきた彼は、生い立ちも本名もまるで不明、Aという名前以外に知られるところはなかった。
だが、彼のファンは実に多い。その美しさや弱々しさや謎めいた部分がそそるらしく、知り合った人間は皆、男も女も競って彼をかばいたがる。小遣いをやる気分なのか、彼の話に実際に金を払う人間もいるようだ。
彼の姉の宵子(これでショウコと読む)はよく、あたしたちの男女が逆なら良かったのにね、と笑う。宵子はさっぱりとした気質の持ち主で、病気ひとつしない強さと、女手一つで《J》という名の飲食店兼酒場を開き切り回している豪快さがあり、女にしておくのがもったいないとよく言われるらしい。顔立ちも、弟のそれに似てきわめて美しいが、もっと成熟していて線も太い。
もちろんこの姉にもファンは多い。必然、彼女の店は混む。小さいながらも一杯になる。忙しい時はAもカウンターに入り、姉の手伝いをする。同居で日々の面倒をみてもらっているのだから、当たり前といえば当たり前の話だが、彼の麗しさが更に客を増やしているのもまた確かであった。
その日はだが、客の数は少なかった。
まだ早い時間だというのもあるが、二、三人の男達がカウンターにはりついているだけというのは、平日にしても少ないことだ。シックで落ち着いた店構えにはふさわしいような人数であるが。
宵子はすでにオーダーにとりかかっていたが、Aが手伝うほどのこともなかった。彼は隅の席で背を丸め、半分目を閉じて座っていた。
店のドアが開いたので、宵子が高い声を上げる。
「いらっしゃいませ! ……あら」
入ってきたのは制服の少女だった。着くずしのないきっちりとしたブレザー姿で、どうやら近所の公立高校の生徒らしい。宵子は笑顔でおしかぶせるように、
「ごめんなさい、六時より後は制服のお客様はちょっと……」
やんわりと断わろうとした瞬間、少女が口を開いた。
「あの、Aさんと少しお話ししたいんですけど」
Aがぱっと目を開いた。
「あ、えみりさんか」
「なあに、Aの知り合いなの」
宵子が客のつまみを足しながら尋ねると、Aは軽くうなずいた。
「この間、角のゲームセンターであってね、ちょっと一緒に遊んでもらったんだ。で、今日はどうしたの?」
そういってするりと椅子を降りる。
「よかった、Aさん、いてくれて」
えみりという少女は、Aの側につい、と寄ってきた。
真剣な顔で一言、こう呟く。
「今日、私、家に帰りたくないんです」
途端、カウンターから冷やかしの声がとんだ。
「Aちゃん、また女の子騙したね」
「駄目だよぉ、未成年に手ぇ出しちゃ」
「お嬢さん、Aちゃんはどんな女にも親切なんだよ。いくら顔がキレイだからって、うっかりついてくとひどい目に遭う。注意しな」
Aはちょっと肩をすくめて、大げさな、という身振りをしてみせる。
ただ、否定の言葉もあえて吐かなかった。彼の場合は実際、本人に悪気も意図もないのに、相手の方が夢中になってしまうことが多いのだ。他人の相談事など親身にきいてやったりするので、そういう誤解をうけやすいらしい。その上天真爛漫というか、自分に仕掛けられる恋愛に対してやや鈍感なところがある。僕には関係ないことだ、と涼しげな顔をして気付かぬ前に遠ざけてしまう。これは確かに女泣かせだ。
しかし少女は首を振った。
「そうじゃないんです。今日は帰りたくないんです。でも、明日には帰りたいの」
思いつめた表情を強くして、
「お願いします。Aさん、自分に教えられることだったら何でも教えてあげるって言ったじゃないですか。だから、明日家に帰る方法を教えて下さい。私、怖いんです。怖いけど、それより心配なこともあって……どうしたらいいのかわからないんです。先生は、君のお母さんを殺したのはお父さんだよなんて言うし、その次の日から学校へ来なくなるし、逆に父さんにそれを言ったら、私はえみりがいなかったら生きていけないなんて言い出すし。それに、家には弟達が待ってるし……」
最後はほとんど泣き声に近かった。
「なるほど、明日お家に帰りたい、か」
Aの瞳に強い光が宿った。口唇を悪戯っぽくほころばせて、
「OK。面白いお題だ。ちょっと難しそうだけど、考えてみるよ」

2.

えみりとAが出会ったのは、一週間程前の夕方だった。
その日Aは、ここのところ日参しているゲームセンターで、隅にある格闘対戦台に座っている一人の少女に目をとめた。
ブレザー姿の女子高生である。
制服の少女自体は珍しいものではない。彼女達は学校帰りに寄るのか、平日は三時過ぎから一挙に増える。
しかし、この娘は珍しい存在だった。
まず、友達連れでない。一人でじっと座っている。そしてゲームをしていない。デモ画面の移り変わりを黙って眺めているだけだ。
普通の学生は、男も女も連れだってやってくる。そしてあちこち動き回る。長時間のおしゃべりや、ダラダラとたまっているのが目的でも、多少は移動して何かしらの台を試していくものだ。
「……ってことは初心者か。きっかけが掴めないとか」
Aはそう値踏みした。
さらさらストレートの黒髪を肩口で切りそろえたその少女は、最近はブラウン管の中でも滅多にみかけなくなった慎ましいお嬢さんタイプだった。スカートの丈はやや短めだが、制服売り場の標準そのまま、短い白のぴたっとした靴下に、丁寧に磨かれた黒い靴――それが不思議に似合う正統派優等生である。細い瞳に小さい鼻、顔立ちも比較的整っているが、能面のように動かない無表情のせいでかなり損をしているという感じだ。
四方八方から押し寄せてくる騒音の中で、Aは彼女に声をかけた。
「対戦、する?」
少女は、驚いたような顔で彼を見上げた。ナンパと思われちゃったかな、とAが肩をそびやかすと、少女はうなずいた。
「いいですけど、私、弱いですよ」
「それは楽しみだ」
「ひどい」
少女は笑った。目尻が下がると、ずっと優しい顔になる。さっきまで張りつめていた表情が嘘のように。
「そうじゃないよ。僕はゲーム、弱いんだ。だから、相手になってくれる人がなかなかいなくてさ。おごるから、しばらく一緒に遊んでくれないかな、と思って」
AはGパンのポケットに手を突っ込み、百円銀貨をジャラ、と掴みだした。半分を少女に渡すと、するりと彼女の向いに座り、自分も一枚、硬貨をスロットへ落としこむ。
「じゃあ、よろしく」
少女は邪気なく目を細めた。
「こちらこそ。おごって損したって思わないで下さいね」
Aの見たとおり、少女は初心者らしかった。格闘ゲームの要領がわからず、最初のうちはもたついていた。
しかし、どんな分野においても、独特の器用さを発揮する人間がいる。この少女はそういうタイプの人間らしかった。一度やり方とコツを憶えてしまうと、手加減していたAをいきなり負かし始める。
「強いね」
「そうですか?」
「うん。失礼だから本気出す」
Aはそれから、言葉通りまったく容赦をしなくなった。卑怯というのではないが、少女の方が倒れたらすかさず必殺技を打ち込む。間合いも充分にとらせない。丹念に練習したらしい、軽く素早い指さばきで、相手を攻撃し続ける。
少女もよく闘った。機械めく冷静さと正確さで、彼と互角に渡り合う。
Aの表情はすっかり生き生きしてきた。瞳は真剣、頬に血のいろがさしてきた。相手を負かすのに夢中になっているのではない、ゲームの面白さを純粋に味わっている様子である。
そのうち日が暮れ始めた。フロア内に、ベタっとした早口のアナウンスが流れ出す。
「……県の青少年保護条例に従いまして、十六歳未満のお客様、および制服のお客様は、午後六時をもちまして退場していただきます……十六歳未満のお客様、および制服のお客様は……」
仕方なさそうに制服の連中が動き出す。いつまでも移動しないと、店員達に、表向きはやんわり、実は強硬に追い出されるからだ。
「あ、もうそんな時間か」
Aはその時、すでに相手に三度銀貨の山を渡していた。さすがにちょっと疲れた顔だ。句切りがいいとばかりに、硬貨を入れる手をとめた。
「じゃ、今日はこのくらいでいいか。長い事つきあってくれて、ありがとう」
あっさり言って立ち上がる。
「いいえ。こちらこそ、おごってもらってすみません」
少女も悪びれない調子で答えた。半分払いましょうかと言い出すそぶりもなく、おごってくれたから何かお返しに、という雰囲気もない。ただ鷹揚に礼を言うあたりに、育ちの良さが漂う。金持ちの娘というのでなく、しつけの良い、という意味でだ。
Aは、台の上で頬杖をついてほんのりと笑った。
「いいんだ。本当は僕のおごりじゃないし。それに、普通の女の子だったら、あんなにしたら怒って帰るもん」
少女は真顔になった。
「もしかして、試したんですか」
「ごめん」
「いいです別に」
Aが素直に謝ったので、少女の笑みは更にうちとけた。
「あの、そんなに大勢怒らせたんですか」
Aは頬杖の手の上で首を傾げた。
「うん。でもね、怒ってくれる女の子はまだいいんだ。男相手だと熱くなっちゃってさ、ちっとも止めてくれなくなるからね。下手すると難癖つけられる時もあるし。こっちにも都合があるし、適当に切り上げたいのにさ。でも、君はどっちでもなくて楽しかった。また、別のゲームで対戦したいな。明日も来る?」
「さあ……わかりません」
「そうだね、当り前だよね。僕、当分ここに通うから、もしよかったらまた」
Aはあっさりとひいた。背を伸ばし、片手をあげてバイバイ、と手を振ってみせるつれなさだ。別れが惜しくなったのか、少女はすぐには去らなかった。一歩彼に近づいて、
「お名前だけきいてもいいですか」
「名前?」
Aは今更なぜ、というように眉を寄せつつ返事をした。
「僕はA」
「エイ?」
「そう。アルファベットの大文字のA」
「エイ、だけですか?」
「そう。ただのA。変かな?」
少女は首を傾げた。
「でもAさん、名前打ち込む時、VDHって入れてませんでした?」
「あはあ、よく気付いたね」
突然、Aの顔に策略家めく妖しい表情が広がった。
確かに彼は、ゲームで良い成績を残し、ハイスコアの表に自分の名を打ち込む時、Aとは入力しなかった。何故かひどく苦労して、VDHとサインをいれていた。どう考えても日本人の名の綴りではない。
「VDHね。あれは内緒」
「内緒ですか」
「うん。もっと仲良くなったら教えてあげる」
「そうですか」
少女は曖昧な顔でうなずいたが、その後すぐに笑顔に戻って、
「私、えみりです。ただのえみり」
相手がフルネームを名乗らないので、彼女も下の名だけ告げることにしたらしい。Aはなるほど、と眉を上げ、
「えみりさんか。じゃあ、またね」
愛想よく彼女を追い出しにかかった。
それでは、と少女は頭をひとつ下げ、遊技場を出ていった。
Aは新たに別のゲーム台の前に座った。先刻両替した銀貨を投入口に押し込みながら、ぼそりと呟く。
「VDHが本当はなにか知ってんのかな、あの子」
シャキン、と派手な機械音と共に画面が変わる。ゲームスタートだ。
「まあいいや。別に困ることでもなし」
ペロリと軽く舌を嘗めると、指の腹をボタンに乗せ、再びパタタ、と軽妙なリズムをとりだした。

3.

翌日、夕方遅く。
少女は再び、同じゲームセンターに現れていた。広いフロアをまわり、Aをさがしているようだ。
彼は、いた。
隅の台に座って、ゲーム画面を見つめながら煙草をふかしている。今日の彼は、長い髪を後ろでゆるく束ね、ますますモデルらしい雰囲気を強めていた。服もゆったりとしたパンツスーツで、遠目にはやや背の高い女性にしか見えない。
「Aさん」
「はい?」
振り向いて、Aはああ、と眉を上げた。
「えみりさんだっけ」
「そうです」
少女はAの隣の椅子に座った。Aは銀色の煙草の紙箱を、すい、と彼女の方へ押しやる。
「一本やる?」
「いりません」
「そうだね。第一、制服で吸ってもうまかない」
言いながらAは視線を流した。
少女がその視線をたどると、少し離れた所にいた制服の男子学生が、つけたばかりの煙草を慌てて消した。Aがなおもじっと見つめていると、こそこそと席を移っていった。
少女がAに視線を戻すと、彼も視線をゲーム台へ戻した。あえて彼女と目をあわせず、
「最近の子って、制服で煙草吸っても大人に知らん顔されるんだってね。堂々と買ってても叱ってももらえないんでしょ、本人の自由だとかいってさ。何が自由なんだろ、可哀相に、子供を見捨ててるだけじゃないか。早めに注意されりゃ、すぐにやめる筈なのにさ」
などと呟く。
少女はしばらく無言でAの横顔を見ていたが、感情をあらわさない白い顔のまま、こう切り返した。
「Aさん、さっき私に一本すすめませんでしたか」
「おっと」
Aは苦笑した。少しだけ彼女の方へ頬を向け、
「好奇心で内緒で吸いたい奴や、叱られたいのに叱られない子にはすすめないことにしてる。けど、本当に吸うひとだったらなんだから、一応すすめたんだ」
吸いさしを手近の灰皿へ押しつけて、
「煙草ってさ、こう、手の先がぼうっとあったかくなるのが良くって火をつけるけど、実はそんなに好きじゃないんだ。もうやめとこう」
その割には強そうな煙草を吸っているが、子供の手前があるのか、おとなしく箱をポケットへ移した。少女は背筋を伸ばしなおすと、新たな質問を繰り出してくる。
「あの、Aさんのお仕事ってなんなんですか」
彼は、取り出した硬貨をもてあそびつつ歯切れの悪い声で、
「ん。なんだと思う?」
「昼間からゲームセンターにいるってことは……ゲーム会社の人とか」
「あ、そう思う」
彼の口唇にいつもの微苦笑が浮かびはじめた。少女は首を傾げて、
「だってここの店員さんには見えないし、補導員にも見えないし、夜働いてるなら、もっと早くにここへ出ていくと思うし。お金のことも全然気にしないでどんどん使ってるでしょう、だから、ゲーム会社の人が、自分の会社の台の調子とか、お客さんの入り具合を観察してるのかなって思ったんです。それに昨日、これは僕のおごりじゃないって言ってたような気がして……」
Aはふむ、と腕組みした。
「なかなかいい推理だと思うけどね。違うんだよ」
「じゃあ……」
「情報屋なんだ、僕は。こっちで誰かさんの話を買い、あっちへその話を売る――そういう仕事。うさん臭いでしょう」
などと澄ました顔で言う。
だが、少女はたいして怪訝そうな顔もしなかった。もちろん笑いだしもせず、例の無表情のまま、
「本当ですか? 興信所にお勤めには見えないですけど」
あいかわらず丁寧な口調で尋ねる。Aは軽く首を傾け、
「いや、僕は一人だし、探偵屋さんじゃないんだ。でも、そうじゃなくてもこういう仕事はあるんだよ。腕っぷしたたないから、あんまりヤバイことはしないんだけどさ」
あたりを軽く窺って背を丸め、
「……こういう所は特にね、僕の仕事に向いてるんだ。ゲームの音がうるさいから、逆に密談しやすい。お金使わなくとも、一定の情報が自然に聞けるしね」
意味ありげな目配せをする。少女は首を傾げて、
「あの、どうしてそんな曖昧なお仕事を?」
「うーん。なりゆきもあるけど、やっぱり寂しがりだからかなあ」
「寂しがり屋?」
「うん。寂しがりだね。部屋で一人でぽつねんとしてるのが、どうしても嫌いなんだよ。知らない人間がゴチャゴチャ沢山いるような場所が、好きで好きでしょうがない。こうやって隅っこで、他人様の話をじっと聞いてると落ち着くんだ。でも、人と話すのは本当はあんまり得意じゃなくてね。だから、お金もらって話そうと思ったんだ。知ってること、しゃべれることをね」
本当の寂しがり屋ならこんな事をベラベラしゃべるまいが、少女は特に抗議はしなかった。むしろ素直にうなずいて、
「じゃあAさんは、私がお金を払ったら、VDHが何なのか教えてくれるんですか?」
Aは眉をしかめた。
「あれはたいしたことじゃないよ。えみりさんがお金を払うほどのことじゃない。だから、教えられない」
少女は、細い瞳をできるだけ大きく開いてAを見つめる。
「実は私、VDHって何だか、さっきまでいろんな人にきいてきてたんです」
「そう。で、教えてもらえた?」
「ええ。知ってた人がいました。VDHっていうのは昔、この街にいた凄腕のゲーマーの名前だって。だから、ハイスコアを出した時、ゲンかつぎで打ち込んでおくと、ゲームの腕前がもっと上がるんだって。一種のおまじないだって言ってました」
「うん。わかったならそれでいいじゃない」
Aは組んでいた腕をほどき、《まだ何か?》とでもいいたげに腰に手をあてた。しかし、少女の視線は揺らがない。
「でも、それって本当なんですか」
「あ、嘘だと思ってる?」
「だって、本当にそうなんだったら、Aさんがわざわざ内緒にする訳ないと思って。仲良くなったら教えてあげる、なんてもったいぶる必要はないでしょう」
Aの瞳の色が動いた。しまったという顔をしたが、すぐに笑みを繕って、
「でも、内緒なんだよ。それが嘘か本当かってことまでね」
きっぱりと言い放つ。だが、少女もひるまずに、
「それで私、Aさんがその情報を流したんじゃないかと思ったんです。だって情報屋なんでしょう。人から話もきくけれど、話を売りもするって。だとすると、Aさん、偽の噂を流すのも得意なんじゃないかと思って」
「でも、そんなことしたって、別にメリットないでしょ」
「あります。噂を聞いて、なんだ、そんなつまらない話だったのかって思えば、その向こうに本当の理由が別にあるなんて、誰も詮索しませんから」
Aは苦笑した。少し乱れた前髪を撫であげながら、
「一本とられたな。じゃあ、えみりさんは、VDHをいったいなんだと思ってるの」
少女はその問いを待ちかねていたように口を開いた。
「私はVDHって、ヴェロニク・デルジュモンの略だと思ったんです。『三十棺桶島』の主人公の名前」
ヴェロニク・デルジュモン(Veronique d'Hergemont)――それは確かに、モーリス・ルブランの高名な冒険小説のヒロインである。そのイニシャルが・VDH・であるのも間違いない。
「ふうん。その人はどういう人なの。どうしてその人のことだと思ったんだい」
少女は説明を始めた。
このヒロインは毎日の雑事に疲れ、気晴らしに映画を観に行く。するとそのフィルムの中に、自分が幼年期に使っていたVDHというサインを発見する。彼女独自の筆跡を知る者は少ない。不思議に思った彼女は、映画のロケ地であったひなびた村を訪れる。そこにはやはり、自分のサインが何かの目印のようにあちこちに書き記されていた。好奇心にかられたヒロインは、サインの下にあった番号と矢印を追いかけてゆき、そのまま怪奇な事件に巻き込まれてしまう……。
「そういえば子供の頃、そんな話を読んだ記憶があるなあ。どういうオチだったっけ」
Aが首をひねると、少女は身を乗り出すようにして語りを続ける。
「それで結局、あちこちに書かれたVDHのサインは、彼女をおびきだすためのものだったんです。彼女の昔の夫が、うんと手のこんだ復讐をするために、わざわざそれを使って」
「ふうん、やっぱり小説だね」
Aは例の微苦笑を浮かべて、
「本当にそのサイン一つで彼女を呼び出したいなら、映画のロケ地なんかに残すことはない。むしろ、彼女が暮らしてる街でやるべきだ。だって、彼女がその映画を偶然観るかどうか、他人には絶対わからないんだから。彼女の昔の旦那は、一か八かの賭に出た、途方もないロマンティストだってことになる」
だが、少女はかえって余裕のある笑みで応じた。
「ええ。それはお話です。途方もないロマンティストの仕業だし、馬鹿馬鹿しいとも思います。でも、『三十棺桶島』を読んだことのある人が、それを使って何か別のことを企んでみたって推測をするのは、本当に馬鹿馬鹿しいことでしょうか」
「OK」
Aは軽く肩をすくめた。
「実はね、内緒にするような話じゃないんだよ。ただ、本当の事を話しても信じてもらえないと思ったから言わなかっただけなんだ。僕も、VDHの由来までは思い出さなかったしね」
再び身を屈め、内緒話のようにことさら声を低める。
「いいかい、これから言うのはおとぎ話だからね。そのつもりで聞いて」
「はい」
Aの視線が虚ろになった。遠く夢みるような瞳で、
「……そう遠くない昔、一人の変わったお金持ちがいました。彼はある日、気まぐれで入った遊技場で、一人の女性と出会いました。二人は激しい恋に落ち、しばらく一緒にすごしました。が、女性はその後姿を消し、すっかり行方をくらましてしまいました。お金持ちは、すぐに彼女を探そうとしました。しかし、恋の期間は短く、彼は彼女の事をほとんどよく知りませんでした。つまり手がかりはほとんどない――彼は絶望しました。何をどれだけ失ってもいい、あらゆる手を尽くして彼女を探しだそうとしました。しかし、成果はなかなかあがりません。思いあまって、自ら思い出の場所へやってきた彼は、そこで、Aという名の奇妙な青年に出会ったのです」
そこで彼は、ふと笑みを漏らした。どうやら自分を奇妙な青年、と呼ぶのが誇らしいようだ。少女はしかし真剣にうなずき、
「それで、Aさんはどうしたんですか」
「情報屋の仕事の範囲からは少々外れますが、人捜しの情報が提供できないのは情けない話です、いささかなりとも助力しましょうと約束しました。それで詳しく尋ねてみると、彼女はゲームをする時に、VDHというサインを使っていたといいます。Aはそこで、こう提案しました――この遊技場で、多くの人間がVDHの名を使ったなら、何かの際に彼女が立ち寄った時に、彼が捜していることに気付くのではないか、と。さして効果のある作業とも思えませんが、藁にもすがる気持ちだったお金持ちは、Aにその仕事をまかせることにしました。一日に幾らぐらいまでなら使っていいから、VDHの名を、なるべく多くのゲーム機に打ち込んでくれ、と。Aはそれを快く引き受けて、毎日がゲーム三昧になりました。――以上、おとぎ話、おしまい」
Aは照れたようにトトン、とゲーム台を叩いた。
「変な話でしょう。変な話だよ。少女趣味のおとぎ話」
少女は首を振った。
「変じゃないです。男のひとの方が、いざという時少女趣味だと思いますから」
「ってことは、このおとぎ話の方は信じるの?」
少女は瞳でうなずいた。
「ええ。だとしたら辻妻はあうと思って。つまらない噂をわざわざ流すのは、それを疑う人を待っているからで、あえて内緒にしないのは、それを知って手伝ってくれる人を待っているとも考えられますし」
「手伝ってくれる人?」
「だって、いくらAさんがゲームが上手でも、いつもどんな機械相手でも高い得点が出せる訳じゃないでしょう。だから、事情を知ってて協力してる人がいるんじゃないかと思ったんですけど……違いますか」
「あ、そこまで見抜く」
Aはため息をついた。どうやらすべて図星らしい。しかし少女はたいして得意そうでもなく、
「見抜くだなんて。だってそれはおとぎ話なんでしょう」
「まあね」
Aはふむ、と口元を押さえて、
「でも、そういうのって情けない男だとか思わない?」
「それは、立派な人なら、最初から彼女に黙って逃げられたりはしなかったでしょうけど……でも、他のことがしたくても、どうにも動きようがなかったって事もあるかもしれないし」
「やさしいことを言うね」
Aは足を組み直し、背筋を伸ばし直した。
「あ、『三十棺桶島』の話、少し思いだしてきたよ。……確か、ヴェロニクさんに捨てられた昔の夫が、おびきだした彼女を酷い目にあわそうとするんだけど、ちょうどそこの島にやってきてたドン・ルイス・プレンナとかいう貴族が助けてくれて、その上彼女の初恋の男とひきあわせてくれたりなんかするんじゃなかったっけ。それで一応ハッピーエンドっていうか」
「ええ、そうです」
「なるほどね、小さい頃は、そんな無茶苦茶な話でも不自然だとは思わなかったな。頭悪かったな」
少女は苦笑いして、
「私もあんまり良くはないですけど」
「いや。えみりさんは賢いさ。ただ、ちょっとロマンティックだけどね」
ふと、少女の顔が曇った。いや、曇ったどころか、思わぬ刃に胸をぐっさり突き通された人のように青ざめた。失言をしたらしいと気付いたAが何か言おうとする前に、少女の方が口を開いた。
「小さい頃、母が買ってきてくれた本だったんです、『三十棺桶島』って。子供向けの本なのに、母さん、とっても嬉しそうに読んでくれて。母は本当にロマンティストでした。感情の起伏が豊かというか、物語の中の人の気持ちにすっかりなってしまうようなところがあって」
「そう。素敵なお母さんだね」
少女は曖昧にうなずいて、
「ええ、でも、あの本を読んでいた時、母さんはどんな気持ちだったんだろうって思う時があるんです。結構無意味に人が殺される場面もあるし、何を考えてあの本を選んでくれたんだろうって」
「そうだね。どうなんだろう」
ヴェロニクの前夫であるアレクシス・ヴォルスキーは、昔の迷信を再現するためだけに、罪のない島民をいきなり銃で撃ち殺す悪逆非道の輩である。こんな暴力夫は妻に愛想をつかされても当然なのだが、彼は自分を捨てた妻を逆恨みするのだった。憂さを晴らすためには、どんな手間をもかける陰湿な執念の持ち主なのである。そういう意味での読後感は、あまりよくないかもしれない。
するとAは、とぼけた声で妙なことを言い出した。
「人殺しって、そんなに悪いことなのかな」
「えっ」
「僕はね、あんまり、他人様を人殺しだから悪いっていう風に裁きたくないんだ。楽しくて人を殺す人もいるだろうけど、普通はまず、こみいった事情があってそうなったんだろうと思うし。まあ、目の前で身内が殺されたりした日には許せないだろうけど、第三者までが裁く必要はないんじゃないかって思うのさ。生き物って、割と意味もなく死ぬものだしね。それに、本当に得体のしれない気味の悪い悪役だって、たぶんこの世に必要だからいるんだと思うよ。悪人だからって、わざわざ憎んでやる必要もないんだしね」
諸行無常を飄々と呟く。
少女は黙ってしまった。Aの言葉を反芻でもしているのか、抗議もせずに何やら考え込んでいる。
「えみりさん?」
少女は仮面めく無表情に戻ってしまった。
「私も、誰が良くて誰が悪いかなんて決めつけたくはないです。でも、人が死ぬのは、あんまりいいことじゃないです。少なくとも、母さんが死んだ時、私は辛かった……」
声がかすかに震えている。Aはまずい、と思わず少女の肩を押さえ、
「ごめん、無神経なこと言って。それは辛いよ、当り前だ」
少女は首を振った。
「いいえ。さっきAさんが言ったことは正論だと思います」
「えみりさん」
「今日、Aさんが言った中で、間違ってると私が思ったのは一つだけです」
少女はAの手を外して、すい、と立ち上がった。
「子供は、大人にあんまり構ってもらわない方がいい場合もあるんです。……失礼します」
彼女はそのまま、振り向きもせずに去っていった。
Aはやれやれと肩を落とした。
「ああ、それは確かにそうなんだけどね。だから別に、僕も出しゃばるつもりはないんだよ」
言いながらゲーム機械に向き直る。銀貨を掴みだしてスロットへ押し込もうとしたが、そこで手が止まってしまった。深いため息を一つつき、
「まずかったかな。ちぇ、二度と遊んでもらえないな」
さて、どこでやり損なったか、などと、そこでしばらく呷吟していた。

ところが、Aの予想は見事外れた。
えみりという少女は、それから毎日、Aのいるゲーセンに通ってきたのだ。何もなかったような顔をして、VDHの人は見つかりましたか、などと尋ねる。
「まだだよ。しかし、えみりさんも閑なんだねえ」
「そうですか?」
二人は会うとあたりさわりのない会話をしていたのだが、ついに昨日、彼女のプライベートな事に話が及んだ。
「だってさ、ここに毎日来てる訳でしょう。部活とか委員会とか忙しくないの? それとも、試験の前かなんかでお休みとか」
「私、部活も委員会も入ってないんです。それだけのことで」
「ふうん」
Aは納得のいかない顔だ。
「頭いいし、身体も丈夫そうなのに、何にもやってないの?」
「ええ」
だが、普通の高校生は――普通の生活を送る普通の能力のある学生なら、部活も委員会も何もやらないということはないだろう。学校に通う者は、まず学校中心の生活を送るものだ。課外活動や塾やアルバイトはその延長上にあり、付属品だからこそその価値がある。生活のどこにウェイトを置くかは人それぞれだろうが、それでも学校のしがらみは大きい。大体えみりは、器用で言葉遣いも丁寧、学級委員クラスなので放っておかれる筈がない。
「……ってことは、家に小さい兄弟でも待ってる、とか、何かがあるんだね」
家族の世話が忙しくて、学校の事がままならない、という場合はある。家に小さな子がいる場合は、委員会など免除してもらうこともあるだろう。母代わりとして彼らの世話をするために。
すると少女は曖昧に笑った。
「そうですね。それも、ありますけど……」
「それも?」
「いえ、なんでもないです」
「そう」
Aは、それ以上深く追求しなかった。この男、無駄話はともかく、詮索好きではないらしい。すぐに話題を変えた。
「えみりさんさ、もしこれからも毎日ここに来るのなら、VDHのひとらしい人を見つけたら、教えてね」
「情報屋の仕事ですね」
少女の声が和らいだ。
「じゃあ、もし見つけたら教えます。有料で」
「あ、それはそうだ。そしたらお金払わなきゃな」
「ええ」
Aはふむ、と額を押さえ、
「あのさ、それってお金じゃなくちゃ駄目かい? なんか物とか、もしくはえみりさんの役に立つ情報とか」
「情報?」
「うん。僕で教えられることだったら、何でも教える。どんないいことでも、いや、どんな悪いことでも」
充分に冗談めかして言ったのだが、少女の表情はかえって沈んだ。すい、と立ち上がり、
「そうですね。もし、本当に役にたつ情報があるなら、私もお金払います」
Aはおやおや、と肩をすくめた。胸のポケットから名刺のような紙切れを取り出して、少女に渡す。
「あのね、ここを出て先の角を曲がった所に、《J》って店があるんだ。その裏が僕の今の家で、僕がいなくてもだいたい連絡がつくことになってる。もし、何かあったら教えてくれるかい?」
それは、街の簡単な案内図に、店の位置が印刷されたものだった。
少女は冷たい視線を返した。
「今更ナンパですか?」
「そうじゃないよ。君の電話番号はいらない。情報屋っていうのは、余計なことは知らない方がいいんだ」
少々とんちんかんなことを言う。少女は薄く笑い、紙片をポケットに入れるとくるりと背を向けた。
「今日はこれで。……さようなら」
「さよなら」
少女が去ると、Aはほっと一息ついた。
「怖かったあ。あれはちょっとマズイかなあ」
そう呟いて、あたりを物色しはじめた。
ゆらりゆらりと歩くうち、ふとある対戦台の前で足を止めた。
「ねえねえこれ絵がキレイ。なんかキャラが空飛んでるよ」
「ちょっとやってみようよ」
そこでは二人の女子高生が、新しい格闘技ゲームの台を試していた。Aはおもむろにその向いに座り、コインを入れていきなり乱入した。
「キャッ、誰か挑戦してきた」
「えっ誰よ? あ、強いよ! やだ負けちゃう」
自分のゲームを邪魔された二人は騒ぎだした。しかもいきなり手ひどく負かされたので、すっかり怒ってしまった。
「ちょっと、いきなり挑戦してこないでよ、初めての台なんだから!」
二人は立ち上がってAの顔を見、その美貌に声を失った。相手が充分ひるんだところを見計らって、彼はようやくニッコリ笑った。
「ごめんね。君達がいたのに気付かなかったんだ。次の試合、おごるからさ」
「あの、それは別に、構わないんです……けど」
「そういう訳にもいかないでしょう」
すっかり大人しくなってしまったその二人とAは、ゲーム機越しに世間話を始めた。しばらくたわいのないことをしゃべっていたが、途中でさりげなくこう切り出した。
「……そういえばさ、君らの学校の二年C組に、えみりちゃんって子がいない?」
「えみり?」
二人は顔を見合わせた。
「知らない。私達C組じゃないし、名字がわからないと……」
「そうかあ」
表情と声音からして、本当に知らないようだ。襟章にある学年とクラス名からして、同じ学級でないのも嘘ではなさそうだ。Aが、まあいいか、と話題を変えようとした瞬間、片方が妙な事を言い出した。
「でも今、C組あぶないんだよね」
「危ないって?」
Aが眉をひそめると、言い出しっぺの方がうなずいた。
「だって、担任が消えたのよ」
「そう。天宮って、病気とか言って消えちゃったんだよね」
「消えた?」
「消えたっていうか、一週間近く学校来てないの。学校は病気だとか言ってるけど、どういう病気か全然知らせてくれないし」
「それは厭な話だね」
「そうなの。他のクラスも時間割とか変更されちゃうから、結構面倒なのよ」
「なるほど、それはあんまりいい取り合わせじゃないな」
Aは小さく呟いた。
一週間前に急に失踪した教師と、一週間前から急にゲームセンターに現れた少女――これはあまり良い暗号ではない。
「取り合わせ? 取り合わせって何ですか?」
「いや。何でもないよ。それより、もう一試合やるかい?」
笑みを取り繕いながら、Aは新しい硬貨を取り出した。

以上が、昨日までの顛末である。

4.

「……だから、今日は帰りたくないけど、明日には帰りたいんだよね」
周りの怪訝な顔を無視して、Aは一人うなずいた。
「さて、お店じゃなんだから部屋へ行こうか。あんまり他人様に聞かれたくない類の話だもんね」
顎をしゃくって奥へ続くドアを示す。少女は目を伏せ、首を垂れた。
「ええ。私もできればAさんだけに」
「じゃ、行こう」
連れだって去ろうとする二人に、客の一人が声をかける。
「おい、Aちゃん、身の上相談にかこつけて女の子に悪さするなよ」
Aはふふん、と鼻で笑った。恋の相手には不自由してない、とでもいいたげな様子で、客は思わず肩をすくめた。
「もててもてて羨ましいこった」
「とんでもない!」
Aは嘘ぶいた。
「僕、好きなタイプには、今まで一度も振り向いてもらったこと、ないんだからね」
そこへ姉の叱責がとんだ。
「A、何だらしないこと自慢してるの! 引っ込むつもりならさっさと消えなさい」
「はあい」
Aは、プライヴェートと小さく書かれたドアを押し、少女を連れて奥へ入った。
そこはいきなり普通の家になっていた。ダイニングと呼ぶべきだろう小さい台所と畳の居間、風呂とトイレ、その奥に宵子とAの部屋が一つずつあるようだ。物があまり多くないので、まあまあ広く見える。
ダイニングテーブルの椅子に少女を座らせると、Aはポットのお湯を急須についで、ぬるい茶を出した。
「どうぞ」
「すみません」
少女はそこで、Aがいきなり男であることを思いだしたかのようにかしこまってしまった。どこか頼りない雰囲気を醸していて、たいした危険は感じさせないものの、それでも個室で二人きりになるのは初めてだったからだ。
しかしAは、相手の緊張に気付いていない。至極真面目な顔をして、
「さて。明日帰る方法を考える前に、もう少し細かいことを話してもらってもいいよね?」
「あの、本当は、私にもよくわからないんです」
えみりの話はこうだった。
先週の月曜日、彼女は放課後、担任教師の天宮に呼ばれた。まだ二年生ではあるが、その週は、将来は文系志望か理系志望かなど、大まかな進路相談が予定されていたので、たいして疑いもせずに進路相談室に向かった。
彼女は要領よく進路の希望を語った。来年度は文系志望であるが、進学するかどうかは決めかねているということ、奨学金がもらえるかどうかで変わると思う、というようなことを教師に告げた。
担任は簡単なメモをとった後、ふと妙なことを呟いた。
「お父さんは、どうなさっているかな」
「は?」
一瞬、父親はこの進路をどう思っているのか、という質問だと思った。しかし、それは違うということはすぐにわかった。彼はこう続けたからだ。
「もう、落ち着いていらっしゃるかい」
「……はい」
例の件か、と彼女は首をすくめた。あの、二年になったばかりの頃、クラス委員の友人の手伝いをしていた時の事を言いたいのだろう。
新学期の生徒にはいろいろと雑用が多い。毎日の放課後仕事の量をみかねて、えみりは友人の仕事をわけあった。それは自然ななりゆきだったが、その時、彼女の父親から、学校へ電話がかかってきたのである。
《娘はまだ学校におりますか。帰してくださいませんか》と。
最初、担任は丁寧に対応していた。思春期の娘の帰宅時間を心配する親の問い合わせである、つっけんどんにできる訳もない。えみりに父親から電話があったことを告げ、仕事を早めに切り上げて帰るように、と指示した。
しかし、それは一度ではすまなかった。
えみりの帰りが少しでも遅くなると、同じような電話が何度も何度もかかってくるのである。娘をすぐに家に戻してください、と。
電話を伝える担任の表情が徐々に沈んできた。
「大変だな」
「いえ別に」
だが、告げられる彼女の表情は更に沈んだ。部活や委員会をやってこなかった言い訳を、母のいないせい、家にいる小さな兄弟のせいにしてきたが、本当はこれのせいなのだ、ということがバレてしまったからだ。
えみりの父は自宅で接骨院を営んでおり、表向きは人あたりのいい、実に温厚な男である。だが、実は大変に神経質で、決まった時刻にえみりが戻らないと大騒ぎを始めてしまう。委員会などで、たまに遅くなるのでさえ堪えられないらしい。だから彼女は、学校がひけるといつもすぐに帰るようにしてきた。正規の授業以外のものには、あまり関わらないようにしてきた。
春先の忙しい時期がすぎ、えみりが定時に帰宅するようになると、電話騒動は収まった。担任も、その件についてはふれなくなった。だからすっかり忘れていたのだ。
「今は父は落ち着いています。大丈夫です。別に大変でもありません」
苦々しく呟くえみりに、担任は眉間の皺を押さえた。
「いや、大変だよ」
手にしたボールペンを握りしめるようにして。
「なにしろ、七年前に君のお母さんを殺したのは……」
「えっ」
聞き間違いだと思った。小さく消えた語尾が、君のお父さんなんだぞ、と言っているとしか思えなかったからだ。えみりは首を振った。
「母は事故でなくなったんです」
「ああ。そうだったね。すまない」
えみりの母は、彼女がまだ小学生の頃に、水難事故で亡くなっていた。友人と旅行中、旅先の海で溺れたのである。
担任はそれ以上その件については触れなかったが、彼の不可思議な呟きは、えみりの心に淡い墨のひとたらしのように残った。ベテランの担任は普段から真面目な男で、悪質な冗談を言う人間ではなかったからだ。
家に戻ったえみりはその夜、弟達が眠った後、なにげなくそのことを父親に尋ねてみた。
「そういえば、母さんが溺れた時って、確か昔のお友達と旅行に行ってたんだよね」
「えみり」
父親の顔色が変わった。
「おまえ、誰に何をきいたんだ」
「誰って……」
それは今まで繰り返しきかされた事実にすぎない。それなのに、父の驚きぶりは異常だった。とっさにえみりは、夕方の担任の台詞を決して漏らしてはならないと思い、ぴったり口を閉ざしてしまった。
すると、父も黙り、それ以上何も尋ねることはなかった。
えみりはその夜、寝床にいて、父親が家を抜け出す物音を聞いた。なんだろう、と思いつつ眠り、朝方、彼が再び戻ってきた気配で目を覚ました。
昨晩の発言といい、行動といい、なんとも不気味である。
すっきりしない気持ちのまま、えみりは出かけた。
その日、担任の天宮は学校へ来なかった。
えみりは厭な予感に捕らわれた。
関係のないことだ、と何度も打ち消しつつも、家にまっすぐ帰るのはどうしても厭になり、あちこちほっつき歩いたあげく、今まで入ったことのないゲームセンターへ足を踏み入れた。ここなら学校からやや遠いので友達もいないし、電話をかけられて追い回されたりもしないからだ。
その日、普段より三時間も遅れて帰ったえみりに、父親は何も言わなかった。弟達も、彼女を責めはしなかった。親が用意した夕食を無邪気に食べ、その後もいつもどおりに過ごしていた。えみりも普通の様子をよそおった。
だが、翌日も翌々日も、担任は学校に来ない。病気であるという説明がなされたが、その病名は知らされない。あの先生って一人暮しなんでしょ、家に電話してみたけど出なかったよ、どこかに入院してるんでなきゃ、蒸発でもしちゃったんじゃないの、などと、あちこちで無責任な噂がたった。
えみりの厭な想像は、日に日に悪くなっていった。日曜日などは、なおさら落ち着いていられない。学校の用があると言って、制服で外へ出た。Aに会いにもきた。
そして今日――火曜の朝。
弟達を送りだし、えみりも急いで出かけようとした時、父親から声をかけらえた。
「最近、いつも帰りが遅いな」
「あ、あのね、先生に頼まれてる仕事があって」
とっさにそんな嘘をついてしまい、えみりはしまったと青ざめた。こんな事は絶対に言うべきではない。また学校に電話をかけられてしまう。今度は、かばってくれる担任もいないのだ。
ところが、その言葉に父親の方も顔色を変えた。
「えみり」
「なに?」
父親はえみりの両手をとると、ぎゅっと握って押しいただいた。
「……私には、おまえだけなんだ。頼む」
えみりは声がでなかった。あまりの気味の悪さに、全身が硬直した。
今までも、この手の台詞を言われたことは何度もある。妻を亡くした男が、弟達の面倒をけなげにみている一人娘に対して、このくらいの思いの丈を吐くのは、時には仕方あるまい。
だが、この時の言葉のニュアンスは、単なるそれを越えていた。
えみりは直感した。先生がいなくなったのは、やっぱりお父さんのせいなんだと。もしかして、七年前に母を殺したのは本当に父なのかもしれない。それを知ってしまった先生もまた、父に殺されてしまったのかもしれない。
そして、それに気付いた私も、また……?
今の駄目押しは、殺させないでくれ、という哀願なの?
でも、そんな馬鹿な。
「うん。じゃ、学校行ってくるね」
えみりはそっと親の手を振りほどくと、学生鞄をひっつかみ、慌てて学校へ駆けだしていった……。

★ ★ ★

「うーん。それはちょっと、今日は帰れなさそうだねえ」
話を一通りききおえると、Aは感心したようにうなづいた。
「でも、帰らない訳にもいかないよね。戻らないなら戻らないでちょっと怖いことになりそうだし、弟達も待ってるんだしね」
「そうなんです」
「なるほどなるほど」
しきりにうなずくAをみながら、えみりは肩を落とした。こいつはどこまで何を考えているのか、どういう種類の馬鹿なのか、と。
彼女は、Aになんらかの助けを期待してここへきたのではなかった。
なにしろ、こんなことは誰にもどうにもできない。気味の悪さは理解してももらえようが、犯罪の部分は、すべてえみりの悪い空想である。具体的に何を見たとか、何があったという訳ではない。だから例えば、警察に話しても相手にされないだろうし、一晩保護してさえもらえないだろう。万が一、娘さんを引き取りにきて下さいと家に連絡されたら――最悪の事態を招くだろう。学校は、なおさら何もできないだろう。親しくもない教師達に、なんといって協力を頼むのか。妄想だな、と一蹴されることにはならなくとも、彼らにできることはあるまい。頼めば泊めてくれる友達もいなくはないが、家のこんな内実は絶対に知られたくないし、そういう場所には父の手も回りやすいだろう。
さて、この状況において、ただ顔がいいだけの見知らぬ青年に何を期待できるだろう。このへなちょこな遊び人一人に、いったい何ができるというのだ。
彼女が求めたのは、単なる当座の避難場所だった。よければ今晩とめてもらい、話を聞いてもらい、悪夢の断片を少しでも追い払えたなら、それでいいのだ。とにかく今日だけは帰るのが怖い、我慢できない、今は厭だ――というそれだけのことなのだ。
しかしAは、そんなえみりの思惑も知らず、次の瞬間、無邪気な大声でこう叫んだ。
「うんわかった。明日は絶対、えみりさんが家に帰れるようにするよ! まかせて!」

5.

「姉さん、悪いけど、夕飯こっちに二人分もらうよ」
「いいけどA、あんた、その子いつまで……」
Aは湯気のたった皿うどんを両手にささげもってダイニングに戻ってきた。姉の声など無視するように、後ろへ回した足で、トン、と軽くドアを蹴って閉める。
「はい。お酒のつまみで悪いけど、食べよう」
「Aさん、私そんな」
彼はテーブルへドン、と二つ皿を置くと、麦茶のボトルを冷蔵庫から取り出して、コップを二つ並べた。
「いや、あんまりお腹すいてないかもしれないけど、先が長くなりそうだし、何か食べといた方がいいでしょう、味はそんなに悪くないと思うよ。彼女もこれが商売だから」
「でもあの」
「僕は食べるからね、とにかく」
それきり黙ると、Aはさっさと食事を始めた。少女もしかたなく、目の前の皿に箸をつけた。食欲などまるでないつもりでいたが、一口食べると結構食べられそうな気がしてきたので、相手の言葉に甘えることにした。
互いの皿がだいたい片付いた頃、Aがぼそりとこう呟いた。
「さて、どうしたもんか……」
「はい?」
麦茶をのみかけていた少女は、話しかけられたので慌ててコップを置いた。Aは大きく腕組みして、
「えみりさんが不安に思うのは当り前なんだよね。例えば、えみりさんのお父さんが実は凶悪殺人犯で、七年前に完全犯罪を遂行したんだとしたら、あと八年我慢すれば時効だから大丈夫だけど、もしも今回先生を殺してたとしたら、あと十五年待たなきゃいけない訳で、しかも、時効よりも他人の噂や人目を気にするひとだったら、人殺しに気付いた娘も殺しちゃう可能性がある訳なんだよね」
ズバリと言われて、えみりはハッとした。
実を言うと、彼女は自分が本当に殺されるとは考えていなかった。むしろ、それ以前の部分を考えると胸が悪くなり、いっそ自分が殺された方がマシだとも思っていた。
「で、考えなきゃなんないのは、えみりさんが無事に帰れる方法だけど、その前にいくつか質問してもいい?」
「何をですか」
知っている事はおおむね話した。細かく尋ねられても、これ以上の事はわからない。よくわからないからこそ、今現在の状況がかえって不安なのだ。
「だから、えみりさんの考えをさ」
「私の考え?」
「うん。だって、えみりさんが考えてることがわからなければ、方針のたてようがない」
少女は首を傾げた。
「私が考える事と、明日帰れることに、何か関係があるんですか?」
「あるよ。えみりさんの不安をしらみつぶしにすれば、答は絶対でてくる筈だからね」
「答?」
なんの答?
適切な対処法が、何もわからない今の段階で幾つもあるとは思えない。
しかし、Aは妙に自信ありげだった。情報屋などとうさん臭い職業を名乗っているのも、なにかしら根拠やバックがあるのかもしれない。だとすれば、もしかして自分は、家に戻るよりも更に危険な事態におかれているのかもしれない。
だが、少女はキッとAをにらみすえた。
今更何が怖いのだ。何を警戒するつもりなのだ。どうせ、この男にたいした事ができる訳ではないだろう。悪いことならいっそ起こってしまえ、と度胸を決めた。
「……わかりました。何でもきいて下さい」
「OK」
Aが立ち上がると、紙と鉛筆を持ってきて座りなおした。皿を脇によけて、テーブルの上に広げる。
「僕もあんまり頭良くないんで、こんがらがると困るから、ちょっとメモをとりたいんだ。とってもいいよね?」
「どうぞ」
少女はうなずいた。とられたからといってどうということもない。何の証拠になる訳でもない。ここは警察でもないし、何を話してもさして困ることはなかろう。どこかで秘かに怪しいテープが回っていたとしても、それでどうなるものでもない。
「じゃあ、きくよ」
Aはうつむき、カッカッと鉛筆を走らせ始めた。
「質問その一。……えみりさんは、七年前にお母さんを殺した犯人が、お父さんだと思っているかどうか」
少女の眉間に深い皺が寄った。
「あの、私がどう思っているのか、ですか? それが事実かどうかじゃなくて?」
Aも眉を強く寄せた。
「うん。だって、事実なんてわかんないでしょう。仮定はこの際無意味なんだよ」
「えっ」
言われてみればそうだ。
「そうでしょ? 警察や何やらが長い時間をかけて調査すれば、えみりさんのお母さんが事故で死んだのかそうでないのか、すっかりわかるかもしれない。でも、今すぐには誰にもわからない訳だ。まして、ここにいる僕と君に、どうやって確かめる方法がある? そりゃ、わかった方がいいのかもしれないけど、それって命を賭けてまで知りたいこと? いいかい、今の問題なんだよ。僕はとりあえず、えみりさんが明日、無事に家に帰るための方法を考えてるんだ。だから、事実なんかより、えみりさんの考え方と方針がしっかりしてなきゃどうしようもないんだって」
「あ」
えみりは動揺した。
そんな考え方はした事がなかった。
Aの言うのは、彼女の母親の死が事故か他殺か――もしくは父親か誰かに追いつめられて自殺した、という可能性もあるが――その真相がなんであろうと、今のえみりにとって、たいした差はないだろう、ということだ。
なんて酷いことを言う、と思った。
しかし、落ち着いて考えてみれば、事態はまったくそのとおりだ。
母はもう死んでいるのだ。真相を知ったからと言って、生き返ってくる訳でもない。今までどおり事故で死んだと思っていれば、余計な悩みは抱えずにすむ。その真相が酷いものであれば、誰かを恨んだり憎んだりするようになるかもしれない。そんなことを、自分は本当に知りたいだろうか。
少女が黙り込んでしまったので、Aは質問を変えた。
「じゃあ、お父さんが殺したんだとしたら、えみりさんはお父さんを裁きたいかい? 罪は絶対つぐなうべきだと思うかい? 警察に届けるなり、えみりさんがお父さんを殺っちゃうなりすべきだ、と思うかい」
「……Aさん」
「うん」
その瞬間、えみりの口から、今まで思ってみなかったような台詞が飛び出した。
「父はたぶん、母を愛してたと思います。だから、たとえ父が母を殺すようなことがあったんだとしたら、うんと後悔してると思うんです。だから、償いなんかはどうでもいいんです。それに……たぶん、殺してないと思うし」
「よかった」
Aはほっとした声を出した。
「長年一緒にいる娘が信じてるなら、お父さんはそんな酷いことはしてないよな。とりあえず一安心、と」
Aは二枚目の紙を横に滑らせ、チャートのようなものを書き始めた。《父は母を殺したか》という所に下線をひいて、その下に、YES、NOを記し、NOの下に矢印をひいた。
「んじゃ、質問その二。えみりさんは、先生が消えたのは、お父さんが殺したんだと思っているのかどうか」
殺人――父が、人を殺した、可能性。
彼は腕のいい接骨医である。日々人間の身体を扱い、その急所や弱点を知りつくしている。ツボに触れて相手を一瞬にして脱力させることもできる。まだ四十代半ばで体力もあるし、体格もかなりいい方だ。もし、度胸やきっかけがあれば、不意をつけば人を殺すことぐらいはできるかもしれない。だから、相手が母でなくあの担任であれば、もしかして……。
少女が再び考えに沈んでしまったので、Aは新しい選択枝を出した。
「殺したんじゃないかもしれないけど、何らかの危害を加えたか、さらったり幽閉したりしてるとか」
少女は口唇を噛んだ。
「正直言って、よくわかりません。でも、全然関係ないとは思えないから、先生のことは凄く心配」
細い瞳をなおさら細め、声を低める。
「……でも、父が先生をどこかに閉じ込めてるっていうのは、ちょっと考えにくいんです。だって無意味でしょう? 昔の事を知られたくないとか、口を塞ぐためなんだったら、いっそ殺して埋めるくらいの方がいいんじゃないでしょうか。いつまでも閉じ込めてなんていられないし、発見された時に大騒ぎになって、かえって事件が明るみに出やすい、と思うんです」
Aはヒュウ、と口笛を吹いた。
「えみりさん、やっぱり賢いや」
「えっ?」
「うん、なかなかクールだよ。少なくとも僕よりは犯罪者に向いてる。そのお父さんも、たぶん僕よりずっと賢いだろうね。だから、やるなら相当うまくやった筈だ」
Aはチャートを書き足した。
《父は、教師になんらかの危害を加えたか》
この質問の矢印の先は、YES――MAYBE(たぶん)。
少女は軽い眩暈を感じた。
その事をずっと考えていて、おそらくそうだろうと思っていたことが、他人の手で簡単に図にされている。
しかし、こうしてメモの形になると、何も解決していないのにも関わらず、えみりの不安は和らいできた。直面しなければならない事がなんなのかはっきりすると、事態がそうとう悪くとも、人間なんとかなるものらしい。
ところがAの次の質問は、再び少女を混乱させるようなものだった。
「OK。じゃ、質問その三。万が一、お父さんがなんらかの犯罪に手を染めていたことがえみりさんにわかった時、警察に捕まるのと捕まらないのとでは、どっちがいいと思う?」
「えっ」
何を言われたのか一瞬わからず、少女は反射的に間抜けな返事をしてしまった。
「あの、捕まらないですみますか」
「だって世の中、捕まらない犯人だっているでしょう」
Aは至極真面目な顔で呟く。冗談のつもりはないらしいが、少女はそれ以上は質問の意味をはかりかねた。
「でも、どっちがいいって……どういうことですか?」
「うん。だからね。お父さんが、もしなんかやってたとしてね、それが世間にバレないでいるとしたらだよ、えみりさんはそれをあえて、誰かに知らせたいかい? 警察に捕まってもらいたい? つまりね、秘密を抱えてビクビクしながら暮らすよりも、きっぱり捕まってもらった方が安心だと思えるか、ってこと。お父さんが警察に捕まっちゃえば、少なくともしばらくは、えみりさんは殺されなくてすむでしょ」
「でも、父は……」
彼は私を殺すだろうか。
もし、彼が誰かを殺したという事実を私が知ったら、殺そうとするだろうか。
ああ。
殺すかもしれない。私にはおまえしかいない、と呟いたあの父ならば。秘密を守るためでなく、ただ知られたというそのためだけに。
「確かに、そんなことのために殺されるくらいなら、捕まってもらった方がいいかもしれない……です」
「うん。そうだよね」
Aは一旦うなずいたが、鉛筆をくるりと回して首を傾げた。
「でもさ、どっちが安全で平和だろう。お父さんが人殺しで捕まったら、絶対新聞に載るよ。TVもくる。近所の噂も大変なものになる。えみりさんはもうすぐ大人だから、独立すればなんとかなるかもしれないけど、将来の生活にはまずプラスにならないね。それに、小さい弟達はどうする? 彼らを連れて夜逃げする訳にもいかないよね。そういうことを考えたら、秘密を守って暮らす方が楽じゃないかな」
言われて少女は、すっかり混乱してしまった。
もし父が罪を犯しているのなら、裁かれるべきだと思う。だが、そのせいで自分達に余計な災いが降り掛かるのなら、本当に捕まるべきだろうか。
Aは紙に、新しい質問とYES/NOを書いて、少女に渡した。
《父は警察に捕まるべきか》
少女はずっと考えてこんでいたが、NOの下に線をひき、こう書き加えた。
《MAYBE NOT(べきでない)》
Aはその紙を戻されると、ふむ、と顎に手をやった。
「わかった。これで、だいたいの方向性は決まったな」
「方向性?」
「うん。えみりさんが一番心配してること、不安に思ってることは、これでだいたいわかったよ。だから、あと考えるべきは、一番望ましい解決方法だ。まあ、方針がしっかりしてれば、なんとでもなるけどね」
Aの返事に、少女は首をすくめた。
私が一番心配していることだの、不安に思っていることがわかったって? 自分自身でさえよくわからないこの恐れを、この青年は理解したというのか。しかもそれで、何かが解決できるようなことを言うなんて。
しかしAはあいかわらず大真面目な様子で、
「そうだなあ……たとえ、えみりさんの直感がハズレで、お父さんがお母さんを殺してたとしても、一番安全な方法をとりたいなあ……うん」
紙をにらんでそんなことを呟くと、ふと顔を上げた。
「えみりさん、生徒手帳もってる?」
「え? あ、持ってますけど」
「ちょっと見てもいい? 差し支えない?」
「はい」
何につかうつもりなのだろう。
いぶかしみながらも、えみりは淡い空色の手帳を差しだした。彼女の生徒手帳は、スケジュールや大事なプライバシー等が記されていない。身分証明書として出すことが求められる時があるものに、そういうことを書き込む気になれないからだ。だから見ても、学校のきまりや地図や住所などがわかるだけだ。えみりの学校は近所では有名な進学校で、今更知られて困るような部分はない。
Aは手帳を受け取ると、軽くパラ、と中を覗いた。
「うん、よし。これでいこう」
Aはパチパチと目を瞬かせると、立ち上がって電話の所へ行った。
「いるといいんだけどなあ……まあ、この時間だし平気だと思うけど」
Aは素早く六ケタの電話番号を押した。呼び出し音が鳴ると、こちらを振り返って、口に人差し指をあてた。
「ちょっと電話かけるから、静かにしててね」
「はい」
少女がうなずくと、Aは親指を立ててOKサインを出し、受話器に向かってしゃべりだした。
「あ、もしもし、堀川さんでいらっしゃいますか? ええあの僕は、お宅のえみりさんをお預りしている者です」
やられた。
えみりの全身は凍り付いた。
最悪のことをやってくれた。この男もやはり、自分を単なる家出娘くらいにしか思っていなかったのだ。落ち着いたら保護者に引き渡せばすむ、くらいにしか考えていなかったのだ。生徒手帳を見たのは、身分証明書の部分に記された、名前と住所と電話番号を確かめるためだったのだ。
もう駄目か。
一瞬、えみりはあきらめかけた。
いや、まだ大丈夫だ。逃げようと思えば、今からでも更に逃げ出せる。少しならば金も持っている。すぐに駅へ行って、夜行列車にでも乗れば……。
ところが、Aの言葉はこう続いた。
「……というか、誘拐させていただいたんです。今晩、娘さんは、そちらには戻りません。あ、警察には絶対に連絡なさらないように。僕は、お嬢さんを、少しも傷つけずにお返ししたいと思ってますから」
「Aさん!」
「お返しするための条件は、追って連絡します。今晩は、電話の前にはりつきっぱなしでいて下さい。いいですか、決して警察には連絡なさらないように。それから、二人の小さな息子さん達にも、お姉さんがさらわれたことは内緒になさった方がいいと思います。……では」
少女は思わず立ち上がって叫んだ。
「待って、お父さん、私……!」
Aはガチャンと電話を切った。くる、と振り向くとニッコリと笑い、
「あ、今のよかったよ。いかにも誘拐された娘さんって感じで。迫真の演技だから、お父さんも信じてくれたでしょう」
少女は怒った。
「演技じゃないですよ! どういうつもりなんですか!」
Aは肩をすくめた。
「だからね、僕が誘拐犯になれば、みんな解決するんだよ。誘拐されたなら、えみりさんは今晩帰らなくてもおかしくないでしょう。それで、明日には帰れるでしょう」
「あの、おかしいとかおかしくないとかそういう問題じゃ」
「まあ、落ち着いて」
Aはテーブルに戻ってくると、少女を座らせ、新しい紙っぺらを引き寄せた。
「これが一番安全なんだよ。いいかい、えみりさんのお父さんは、今晩二つの選択枝を選ばなきゃいけない。警察に連絡するか、警察に連絡しないかっていう二つをね」
《連絡》と大きく書いて、その下に《する、しない》を記す。チャートごっこをまだしたいものらしい。少女はため息をついて、
「それで?」
「もし、えみりさんのお父さんが警察に連絡したら、僕達の勝ちだ」
「勝ちってどういう意味ですか」
「今晩、えみりさんが警察に行って、父の様子がおかしいんですって訴えたとしても、たぶん真面目に取り合ってはもらえない。とりあえず家に帰りなさいって言われるだけだ。でも、誘拐された少女になった今は、可哀相な被害者として、警察になんでも言えるんだよ。明日警官隊に包囲された時、自分の要求が全部言えるし、事情を全部聞いてもらえるんだよ。お父さんに対する疑惑も大声で言える。警察はたぶん、それをたわごとだと思っても調査をしてくれるだろうし、お父さんはえみりさんを殺せなくなる。秘密がバレたならもう殺す必要はないし、もしえみりさんを殺したら、更に怪しまれるだけだからね」
そうか。
それなら、最悪の事態だけは避けられるのだ。
だがしかし。
「じゃあ、もし父が警察に連絡しなかったら?」
「それはそれでやり方がある。取り引きの仕方次第さ。そっちの方が僕には有難いけどね。穏便に事が運ぶから、えみりさんにもいい結果が出る筈だよ」
「でも」
少女はうらめしそうにAを見上げた。
「誘拐だなんて……こんな方法を使うなんて」
「だって僕には、僕にできることしかできないからね。乗りかかった舟だと思って、じたばたしない方がいいと思うよ。ホントに小さい舟だから、暴れるとひっくり返っちゃうかもしれないよ」
Aの瞳がキラ、と妖しく光った。
「もし厭なら、今から家に帰ってもいいんだよ。途中までなら、送ってってあげてもいいし」
瞬間、本当に帰ろうか、と思った。今なら勢いで帰れそうな気がした。さっきの電話は馬鹿馬鹿しい茶番、友達の悪戯だったと言えばすむことである。まだ何も始まっていないのだ、こんなうろんな男の口車にのる必要がどこにある。
しかし、それでもなお、少女は家に帰りたくなかった。今晩は家に戻らない、という決意をゆるがせたくなかった。
「いいえ。じたばたしません。Aさんにおまかせします」
「そう」
Aは急にしおらしい顔になった。肩を落として、
「じゃあ、ひとつだけごめん。頼みがある」
「何ですか?」
「明日はえみりさん、学校をとりあえずお休みしてもらえないかな。家には安全に帰れると思うから、一日だけ我慢してもらいたいんだけど」
少女は思わず笑いだした。
この男はどこまで本気なのだろう。恐ろしい顔をしてこちらが気付かないような鋭い事を言うかと思えば、こんなにピントのずれた事を平気で言いだしてみたり。
「Aさん。私ってもう誘拐されちゃたんでしょう? それなのに、平気な顔して学校行ったらおかしいですよ」
「OK。じゃ、悪いけど、明日はお休みして僕につきあうってことで」
Aはすくっと立ち上がった。
「ちょっと待っててね。……姉さん!」
Aはドアを開け、カウンターにいる姉に向かって大声を上げた。
「なによ、まだ何かあるの?」
けだるい声が返ってくる。
「僕、一時間だけ店の方やるから、その間、この子の面倒見てくれない?」
「何言ってんのよあんたは」
「とにかく来て」
Aは無理矢理、姉の手をひいてこちらへ連れてきた。
「どういうことよ。何しろっていうの?」
Aは早口の有無を言わせぬ調子で、
「この子を今晩、ここへ泊めるんだ。それで、制服じゃ眠れないだろうから、姉さんのパジャマか何か貸してあげて欲しいんだ。あと、できたらお風呂も使わせてあげてよ。疲れてるみたいだしさ」
「待ちなさいよ。どうしてあたしがそんなことをしなくちゃなんないの」
「だってさっき、今日はウチで預かりますってお父さんに連絡しちゃったんだよ。だから、粗末な扱いもできないでしょ」
姉は、呆れた顔で腕組みした。
「……見栄っぱり。また、女の子にいい顔しようって腹ね」
「お願い。頼みます」
Aは片手で拝む真似をする。姉はため息をついて、
「わかったわ。そのかわり、店番はしっかりやってちょうだい。今から一時間、きっちりもたせなさいよ」
「ありがと。よろしく」
Aは両手を揃えて姉を拝み、じゃ、と店の方へ消えていった。
残された宵子は、パン、と軽く手をはたくと、小さなエプロンを外してえみりの方に近づいてきた。
「あの、すみません、私……」
少女が口を開きかけると、宵子は自分の口に指をあてて、黙りなさい、のポーズをとった。
「いい? 私はね、他人の事情を根ほり葉ほりきくのが好きじゃないし、きかされるのは大嫌いなの。だから、余計は話は絶対にしないこと。……で、お風呂の方はすぐに入れるようにするから、ちょっと待ってなさい」
「はい」
少女はうなずくことしかできなかった。今日目の前で展開された好意は、どれも奇妙なものばかりだったが、何故かどこかさからいがたい、強い魅力が感じられたのである。

本当に一時間かっきりでAは戻ってきた。姉とバトンタッチすると、再びダイニングテーブルを挟んで向かい合う。
「さっぱりした?」
「はい」
少女はもう、宵子の濃紺のパジャマに着替えていた。それだけではいささか寒いので、上から長い白のカーディガンを羽織っている。
「よかった」
Aはほっとしたような顔でココアの缶をあけた。手早く二つ入れると、少女の前にもコップを置く。
「飲む?」
置いてからきいても手遅れである。飲まないといったら失礼にあたる。仕方なく、少女はマグを取り上げた。
「……あの、これから私、どうしたらいいんでしょう」
「そうだなあ」
Aは一口、自分のココアをすすってから、
「今晩はとりあえず何もする必要はないと思う。それに、誘拐されてるんだから、あんまり勝手なことされても困るしね。いやあの、暇つぶしにTV見てても構わないし、そこらにある雑誌とか本とかも、いくらでも眺めてもらっていいんだけどね」
それもそうだ。誘拐犯に、自分はどうしたらいいんでしょうか、ときくのはいかにも間抜けだ。少女は思わず微笑んで、
「明日、うまくいくんでしょうか」
「わからない」
「えっ」
Aは肩をすくめた。
「だって、もし自信があるんだったら、前払いで仕事料もらうよ。だってこれ、かなりヤバイ仕事だもん。でも、お金もらって失敗したら、本物の誘拐犯より悪い奴になっちゃう。だから今、一生懸命考えてるんだよ」
そう言って、自分の頭をコツ、と叩く。
「なにをですか」
「だから要求。お金の額とか引き渡し場所とか。方法も考えないと」
少女は瞳を丸くした。
「まだ考えてなかったんですか」
「うん。さっき少し考えたんだけどね。まあ、電話は何度も分けてかけるのが王道だと思うし、いきあたりばったりでもなんとかなる、とも思うんだけどね」
Aの口元には、妙に自信ありげな微笑が浮かんでいる。
不思議だ、と少女は思った。
根拠のない自信を持つ人間や、いいかげんな安請合いをする人間は何人も見てきた。だが、この男はそのどちらでもなさそうに見える。怪しい、危うい人間なのに、どこか一本芯が通っていて、信用してもいいような気がしてくるのだ。
「まあ、今晩は姉さんの部屋でゆっくり寝てよ。疲れをとって明日に備えよう。たぶん、布団一枚ぐらいなら余計にある筈だから、それ借りてさ」
「……はい」
しかし、心の揺れがまるでなくなった訳ではない。
今すぐに帰ることができるのに、ここにいてもいいのだろうか。弟達はどうしているだろう。家の中はどうなっているか――。
そんなことを考えながら、Aの顔を黙って眺めていると、彼はふと頬を染めた。
「あの、そんなにじっと見つめられると……困るからさ」
「え?」
「だって、高校生に手を出したら、本当に犯罪者になっちゃうでしょ。だいたい、誘拐犯っていうのは、預かった子供に何かしちゃいけないもんだし。……だから一応食事もしてもらったし、お風呂もつかってもらったんだし。でも別に、何かそういう下心があった訳じゃなくて、その、さ……」
どうやらAは、こちらの視線を読み違えたらしい。本気で照れているので、少女は慌てた。好きで寝たくてこの男についてきた訳ではないのだ、勘違いされては困る。
「あの、そういう意味で見てたんじゃないんです。ただ、明日の事が心配で」
「あ、そうなんだ、そう」
Aはポケットをさがし、銀の紙箱を取り出した。テーブルの下から灰皿をひっぱりだし、カチ、と煙草に火をつける。今までの余裕はどこへやら、恥ずかしさをごまかしたいのか、むやみやたらにふかし始める。
「余計な気を回しちゃったよ。ごめん、やっぱり自惚れてるんだな。いけないいけない」
紫煙がこちらにも流れてくる。匂いが髪につくし、あまり吸わないでもらいたいな、と思った瞬間、少女はふとある事実を思いだした。
「Aさん」
「なに?」
「母さん、全然煙草を吸うひとじゃなかったんです。でも、どういう訳か、死んだ年、時々煙草の匂いをさせてました」
「へえ」
童謡にも歌われているが、母親というのはいい匂いのするのが相場である。普通は確かに悪い匂いはするまい。えみりの母も、大体いつも石鹸や化粧の香りや、美味しそうな料理の匂いなどをまとわりつかせていた。だがあの頃、ちょっと特殊な煙草の香が母に染みついていた時があった。家には吸う人間がいないので、おや、と思った記憶がある。
何故だろう。たまに外で、気晴らしに吸っていたのか。
すると、Aはぼそりとこんなことを呟いた。
「あのさ、えみりさんの担任の先生、何を吸うひとだった?」
「えっ」
そんなことはわからない。教師は教室では煙草を吸うものではない。おそらく吸う人間だったとは思うが、指導室や職員室の机の上など注意して見たことはないし、目の前で吸われたこともないからだ。
「どうしてそんな」
「いや。どうやら、僕の誘拐作戦は無駄にならなそうだな、と思っただけなんだけどね」
Aは紙巻きをくわえたまま、うむ、と考え込んでしまった。それから少女が何を尋ねても、その質問には何一つとして答えようとはしなかった。

★ ★ ★

「A」
「ああ、姉さん」
その夜遅く、宵子はAの寝室にそっと滑り込んできた。Aは折り畳みの低いテーブルの前であぐらをかき、紙切れに何か書きつけながら考え事をしていたが、姉を見るとそれをまとめて裏返し、分厚い本に挟むとテーブルの下へ置いた。小さい声で囁くように、
「ごめん、迷惑かけて。あの子寝た?」
「一応ね。それにしても、あれ、どういう子なの?」
宵子も隣をはばかって声を低める。Aはテーブルに肘をつき、組んだ指の上に頬をのせて目を閉じた。
「うん。彼女のお母さんが、ヴェロニク・デルジュモンなんだって。だからね、お父さんがアレクシス・ヴォルスキーなのかもしれないっておびえてるのさ。しかもそれが、当たらずといえども遠からずらしいんだ」
「なによそれ。煙にまいてるつもり?」
Aはすねたように口唇を尖らせ、
「わかんなきゃ別にいいよ。ちぇっ、姉さんって意外に本読まないんだなあ」
「あたしはね、病弱なあんたと違って子供の頃から忙しかったの!」
ピシャッとやっつけた後で、Aの傍らに座り、
「あの子がヤバイってのはわかったけどね。家に帰れない理由もわかる気がするわ。今晩は預かって正解なのかもしれないわ」
Aは薄く目を開いた。
「もしかして、お風呂の時なんかあった? 身体の見えにくい所に、打ち身の傷があったりなんかしたのかい」
姉は首を振った。
「身体に傷はなさそうだったわ。気付いたのはもっと厭なこと。……あの子、下着の一枚一枚に、全部名前が書いてあったの。それが、どうみても大人の男の文字で」
「うわあ」
高校生だぞ彼女は、と叫びかけたAの脳裏に、一週間前のえみりの台詞が蘇った――子供は、あまり大人に構ってもらわない方がいい時もあるんですよ、という言葉が。
構うどころの話じゃない。高校生の娘の普段の下着に名前を記しておくのは、よほど異常な執着だ。
「なるほどなあ。どうりで時々、怖い台詞を吐くわけだ。あんなにまともそうなのに、突然自暴自棄になったりするのはそのせいか。神経壊れかかってんだな」
弟達は心配だがもう帰りたくない、母の死因などどうでもいい、父は捕まってもいいから殺されたくない――それはすべて、彼女の生活の悲惨さからくる一種の悲鳴だったのだ。十七歳の女の子に、その生活はどれだけ大きな負担だろう。家庭を支える唯一の女手、友達の前で繕う笑顔、教師の前では優等生、弟達の面倒を細やかにみる優しい姉――それだけでも限界近い努力が必要だろうに、そこにさらに《私にはおまえだけだ》などという、父親の陰湿な情熱が大きく覆いかぶさってくるとしたら……。
Aはやれやれ、とため息をついた。
「どうして彼女、もっと早く家出しなかったんだろう。そんなことを許してるってことは、結局お父さんを少しは好きなのかなあ」
「それだけじゃないでしょうね」
宵子は噛んで含めるような口調で、
「A、子供っていうのはね、本当によるべないものなのよ。どんなに頑張っても一人じゃ生きられないから、自分の身を守るためなら、どんないい子も優等生も演じるものなの。小さければ小さいほど、我慢だっていくらもするの。そうすれば、生い立ちがどうあれ、他人に後ろ指さされなくてすむし、同情もしてもらえるでしょ。……あたしだって、小さい頃は演じてた時もあったわ。自分でない自分をね」
「姉さん」
Aが何か言いかけようとするのを、宵子は片手で遮った。
「いい? とにかく、あの子に何かしてやりたいなら、それはしてやんなさい。困ってる人を見るとほっとけないAの性分はもう充分わかってるし、いいことだとも思うからとめやしない。……ただしね」
「ただし?」
Aが首を傾げると、宵子の片眉がつり上がった。
「さっき一時間店番してた時、お客さんに変な話をもちかけなかった?」
「え、なにそれ?」
Aは急に軽い声を出して目をそらす。宵子の声は高くなる。
「なにをとぼけてんのよ。さっきあたしが店に戻った時、みんなの様子がおかしかったのよ。いつも看板までいるような人達がさっさと帰っちゃうなんて変じゃないの。A、人助けはいくらしても構わないけど、全然関係ないお客さんを巻き込むもんじゃないわよ」
「とんでもない! 巻き込むもんか。そんなことしません」
「本当ね?」
「うん。信じてよ」
宵子はそういうAの瞳をじっと見つめていたが、肩を落として大きなため息をついた。
「あああ、信じようと信じまいと同じだわ。どうせもうすっかり巻き込んでて、全部手遅れなんでしょう。いいわよ、好きにしなさい。私は何があってもかまやしない。どんなとんでもない事になっても、店をたたんで逃げ出せばすむこと!」
「だから、そんな事にはならないってば。だって誰も巻き込んでないんだから」
「もういい。……お休み」
言い捨てて、宵子は少女の眠る部屋へ戻っていった。
扉が閉められると、Aは両手をあわせて頭を下げた。
「ごめん。姉さんすっかり図星なんだ。嘘ついてごめん。でも、いっそ赤の他人だから、頼めることってあると思うんだ。一度だけだから許してよ」
Aは実は、宵子が少女の世話をしていた先の一時間を使って、まず電話を一本かけた。そしてその後、店にいた客にこうもちかけた。
「どなたか僕に、力を貸してくださる方はいらっしゃいませんか」
「なんだいAちゃん」
ほろ酔いかげんの客は皆、身を乗り出すようにしてのってきた。Aは例の繊細そうな仕草でほっそりとした身体を抱え、
「僕、ちょっと悪ふざけがすぎて、明日危ない目に遭うかもしれないんです。それで、ボディガードっていう訳でもないんですけど、ちょっと守ってもらえないでしょうか。あんまりまずい展開になりそうだったら、警察に連絡してくださるとか、そんなことでも有難いんですけど」
「なんだい、相手は凶悪犯罪者か」
「Aちゃん、ヤクザの女でもとったか」
男達が脱線しかかるのを片手で押しとめ、
「いえ、そういうんじゃなくて、とりあえず僕の方が犯罪者なんです。手伝っていただくと片棒かつぐ羽目になっちゃうんですけど……本当に僕が殺されそうになったら、助けを呼んでくださるくらいでいいんです、おつきあいしてくださる方はいませんか」
客達はニヤリと笑った。
「ははあ、Aちゃんの悪戯か。面白そうだから乗せてもらうか」
「いいんですか」
皆うなずく。
「いいともさ。どうせ俺は明日は店が休みだ」
「力仕事でも何でもいいな。Aちゃんのいいようにしてやる」
「どういう悪さか知らないが、俺はいつもAちゃん達の味方だからな」
「何言ってんだ、おまえは宵子さんの味方しかしないくせに」
「なんだとこいつ」
Aはニッコリ微笑んだ。
「それじゃ皆さん、明日よろしくお願いします。詳しいことは、また後で連絡しますので」
こうして話をまとめたのだった。
とりあえず、彼らは保険のつもりだった。姉に言われるまでもない、一番大事な部分は自分だけでやりとおす予定だった。何しろ、彼の名はアルファベットのA――いざという時の切札である《エース》につながる名前なのだから。

6.

「これは事故だと思います」
その新聞社員は断定的に呟いた。
「少なくとも、他殺ということはないでしょう」
「そんな」
訪ねてきた男は、信じられないという風に首を振った。
「これは本当に事故で、彼女は溺れ死んだというんですか」
「ええ」
七年前の夏、この街の海で、友人達と泊まりの旅行に来ていた堀川真佐美という中年女性が亡くなった。
彼女は、干潮時に沖の小島まで泳いでゆき、満潮時に再び泳いで帰ろうとした。波の荒い場所ではないので、必ず死ぬというような暴挙ではなかった。しかし、行きの泳ぎで疲れていたのか、彼女はいつの間にか遠くへ流され、そのまま溺れてしまったのである。
「彼女の死因は、間違いなく溺死です。検死の結果、気絶させてから海へ放り込んだというような事はありえない、ということです。肺の検査、三半器官の検査、血液の検査、すべて照らしあわせて溺死という結果なんです。遺体には、流されていた間についた傷などもありましたが、不自然な打撲や絞め痕など、犯罪的な異常はありませんでした」
この事件の報道と担当したこの記者は、当時の資料をすべて男の前に広げた。
「間違いないですか」
「ええ。この一件は、真佐美さんの配偶者が、何度も何度もしつこく再調査を希望されたので、監察医の方でも、念には念を入れて検査をしたんですよ。こんな田舎では異例な程ね。複数の医者の診断をつきあわせて、物理的な意味で殺されたということは、十中八九ありえない――そういう結論が出ました」
記者はあくまできっぱり言いきる。訪ねてきた男は青ざめた顔のまま、資料を見つめて呟いた。
「では、それなら自殺の可能性は……」
新聞記者は薄く笑った。
「それは、ありえなくもないでしょう。往復数キロの距離を泳ぎきるということが自殺行為だというなら、それは確かにそうでしょう。しかしあの日、海はほとんど凪いでいました。亡くなった堀川さんという方は、遠泳にもかなり慣れた方で、同行していた御友人の皆さんは、普段の彼女なら泳げる距離だった、と証言しています。子供を三人も抱えた母親が、羽を伸ばすためにきたしばらくぶりの旅行だったそうです、思いきり一人で泳ぎたい、と思い、それを実行したからといって、何も不自然なことはありません。自殺の線も薄い、と言えるでしょうね」
男は口唇を噛んで黙ってしまった。反論を考えているのかと思ったが、急にこう呟いた。
「何故笑うんですか、あなたは」
記者はさっと表情を改めた。
「失礼しました。ただ、あなたはなんとも当時の堀川さんの旦那さんに似ていると思ったら、つい……」
「似ている?」
記者は首を振った。
「いや、そうでもないな。気になさらないで下さい。あの時は私もまだ若くて、つい失言をしてしまってね。あまりしつこく死因を尋ねられるので、《もし真佐美さんが自殺だとするなら、夫である貴方が一番、その理由に心当たりがあるんじゃありませんか》と配慮のないことを言ってしまってね。あれを思い出すと、つい苦笑いが浮かんでしまうんです」
男は再び黙ってしまった。しばらく首を垂れていたが、急に立ち上がって、
「お手数をおかけしました」
「いえ。これも仕事ですので。こちらこそ、もし別の事実がわかりましたら、どうぞよろしくお知らせください」
記者も立ち上がって、慇懃な礼をした。
小さな地方新聞社を出ると、男は深いため息をついた。
もう何日もこの街に滞在し、似たような聞き込みをしてきていたが、どの相手の答もさっきのものと似たりよったりだった。
「ありえない。彼女を殺したのはあいつに決ってるんだ」
そう呟いて横町を通り過ぎようとした瞬間、男の喉元にいきなり伸びてきた手があった。
「いいかげんにしろ! 真佐美を殺したのはおまえだろう!」
首筋を捕らえられて急激に薄れてゆく意識の中で、男はそんな声をきいた。嘘だ、だいたいどうして貴様がここに、と言い返そうとしたが、すぐに全身の力が抜け、彼はそのまま、その場へ崩れ落ちてしまった。

7.

翌日の夕方。
少女は相変わらずの制服姿で、宵子の部屋のTVの前に膝を崩して座っていた。
TVは画面をうつしていたし、彼女も画面を眺めていた。しかし、内容は頭に入っていないようだった。ぼんやりしたその様子は、何か深く考え込んでいるというよりも、思考が停止しているだけのように見えた。
「えみりさん」
「はい?」
ノックの音がして、Aが顔をのぞかせた。
「退屈してない?」
「いいえ」
だが、そう答える少女の瞳には生気がなかった。もともと表情の強張っている娘だが、それにしてもよくない顔だ。常に緊張を強いられている人間は、緊張がとかれて安らぎが与えられると、かえって悪い方向へ転んでしまうことがある、そういう例のひとつに見えた。
「そろそろさ、お父さんとの待ち合わせ場所に行こうと思うんだけど、準備はいいかな。忘れ物ない?」
「はい」
少女は、学生鞄と小物用のリュックを持って立ち上がった。
「さて。僕も仕度が必要かなあ。変装ぐらいしとこうか」
Aは小さな色つきのサングラスを腰のポケットから取り出して、ひょい、と鼻の上に乗せた。
「……ってほどでもないけどね」
「あ、でも、少しは変装になってますよ」
確かに、眼鏡ひとつでAの印象はぐっと変わった。彼の女性モデルらしさは、どうやら瞳と眉にポイントがあるらしい。そこを隠すと、小さい鼻は顎のラインの細さも、急に普通の男らしさを醸し出す。口唇に微妙なニュアンスがある顔なので、できればそれも消したいが、そのためにマスクをしたのでは、怪しさが倍増してしまうだろう。
「そう。気休めだから、こんなもんでもいいんだけどね」
Aは彼女と連れだって、外へ出た。
「待ち合わせに指定した場所って、どこなんですか」
「海のそばの倉庫。倉庫番にちょっと知り合いがいてさ」
この街には小さな港があり、海辺に積荷おろし用のコンテナなどが並んでいる。どうやらそこで取り引きをすることになるらしい。
「倉庫で待ち合わせだなんて、ドラマの誘拐みたいですね」
「うん。でも今回は、橋のたもととか、ファミリーレストランなんかで待ち合わせる訳にはいかないでしょ。緊張感ないし、一般の人に聞かれたくない話をする訳だし。こっちがよく知ってて、なおかつ相手の忍び込みにくいところがベスト、とは思わない?」
「そうですね」
少女はうなずいた。
「ところでAさん、父にどういう条件を出したんですか」
Aは結局、交渉の場面を少女に見せなかった。電話を何度かかけに出たのは見たが、最初の電話以降、何を話してどういう展開になったのか、決して教えてくれようとはしなかった。そしてこの土壇場でも、
「まだ内緒。そのうちわかるよ。とにかくえみりさんが、無事に家に帰れるようにするから」
ととぼける。その後少し弱気に笑って、
「っていうか、全部うまく片付いて帰れるといいね。僕も頑張るけどさ」
「……ええ」
二人は細い裏道をたどり、三十分近くもてくてくと歩き続けた。夕暮れ時の海風が、河をつたって吹いてくる。奇妙なサングラスの青年と、清純派の女子高生は、幼い迷子かなにかのように、無言でとぼとぼ歩いてゆく。
「ほら、ここだよ」
赤錆びたコンテナの裏を回り、中規模の倉庫の扉を開けると、Aは中を覗きこんだ。
「あ、いたいた。すみません、皆さん準備はいいですか?」
中には三人の中年男がいて、Aを見るとニヤリと笑った。
「いいともさ」
「ほら、保険のために、携帯電話もテレコも用意してある」
「そこまでしてもらうと、かえって困るぐらいだなあ」
Aがずりおちかけた眼鏡を押し上げて呟くと、一人が胸を張って答えた。
「なに、うちは電気屋だからな、これくらい訳ない。それに、万が一ってこともあるだろう。いざとなったら、悪い奴は俺達が押さえてやるつもりだが」
「でも、もしかしてチャカでも持ってたらどうします? 最近は物騒だから、素人さんでも危険ですよ」
「そしたら逃げるさ。撃たれちゃかなわない。だが、Aちゃん達を置いてさっさと逃げられるかい」
「素手の相手なら、三人がかりならなんとかなるだろ。縛るものも持ってきたし、そう心配するな。俺は昔、舟に乗ってた時期があってな、船員縛りが出来るんだぜ」
「ああ。そうまで言ってもらえると安心ですけど」
Aは花のような微笑を浮かべ、
「でも、とりあえず、この女の子の周りを囲んでて下さい。相手はこの子が目的ですし、そのためだったら何をするかわかりませんから」
「わかってるよ。話はきいてる」
「気の毒な話だよなあ。いざという時にゃ、俺達ちゃんと証人になってやるから、心配すんな」
Aと三人の男の話は、えみりには少々理解しかねた。彼らはいったい、何をしようというのだろう。例えば、なんのためのテープレコーダーか。警察が来た時に、実は誘拐ごっこだったんです、ということを証明するためか。それとも、何か決定的な台詞をとってやれ、と思っているのか。
「そろそろ時間だ。……来るかなあ。それとも、もう来てて、どこかで隠れたりしてないだろうな」
Aが低く呟くと、男達は首を振った。
「誰も来てないさ。五時前からみんなでここを張ってたんだ」
「それはどうもご苦労様です。じゃ、あとは待つだけなんですね」
五分後、車の音がした。少しだけ上げてある倉庫のシャッターの隙き間から、白いバンが止まるのが見えた。
「あ、お父さんの車」
少女が呟くと、彼らは一斉に身構えた。
「やっぱり警察は呼ばれなかったみたいだね。その方が、いいといえばいいんだけど」
Aがそう囁いた時、倉庫の脇の扉が開いた。
「言われたとおり連れてきた。警察には連絡してない。さあ、すぐに娘を返してくれ」
細い面に細い瞳の中年男が入ってきた。後ろ手に縛った男をひきずってくると、どさっと地面へ転がす。
「あっ、天宮先生!」
「堀川か。どうしたんだ、これは一体どうなってるんだ!」
「よかった。生きてたんですね」
「生きてはいる、だが……」
転がされた高校教師は、夢から醒めたばかりのような顔で呟いた。ただ縛られているから動けないのではなく、身体の急所を突かれて、麻痺が続いているような様子だ。
少女は訳がわからなかった。
「Aさん、これ、どういうことなんですか」
Aは平然とした顔で、
「うん。僕ね、えみりさんを帰す条件に、お金は意味がないと思ったんだ。だから、昨日電話した時、お父さんにこう頼んだんだよ――《明日の六時までに、えみりさんの担任の先生を捜してきて、なんとしてでも倉庫街まで連れてきて下さい、もし時間的に間に合いそうになかったら、せめて生きてる証拠だけでも持ってきて下さい》ってね。そしたら、少なくともこの場に当事者が集まる訳だから、ちょっとでも真相がわかると思ってね」
なるほど、Aの目論見というのはこういうことだったのだ。一堂に関係者を集め、第三者のいる前で話をさせる――一番単純な裁判の方法である。
とにかくこれで、えみりの父が彼女の担任を殺していないことだけはまず確認された。一つの荷はおりたのだ。
Aは一歩前へ進み、少女の父を片手で制した。
「堀川さんのお父さん、もうそれ以上こちらに近づかないでください。まだ、えみりさんは返せません。条件がもう一つあります――七年前の、えみりさんのお母さんの死の真相を語ってください」
「話したくない。そんな条件はのみたくない」
うめきながら、少女の父はじりじりと近づいてくる。Aはひるまず、強い視線で彼を見つめる。
「娘さんを傷つけたくないあまりに、嘘をつくのはやめてください。本当の事を話してもらわなければ、娘さんはかえって無事では戻れなくなりますよ」
「お父さん」
少女の声には力がなかった。彼女は特に真相など知りたくなかった。だが、今、Aの後ろでそんな事は叫べない。
「わかった」
父親は太いため息をつき、目の前に転がした男を指さした。
「真佐美を殺したのは、本当はこの男なんだ」
「嘘だ! 殺したのはおまえだ!」
二人は罵りあいを始めた。
彼らの話は行きつ戻りつしたが、結局、過去に以下のような展開があったらしい。
えみりの担任である天宮は昔、彼女の母親と恋仲だった。それは若き日の淡い恋で、結婚を考えるまでもなく過ぎたものだった。
しかし、天宮はいつしか独身を通していた。結局、彼女以上の女性には巡りあえなかった。恋慕の情は逢わずにいるうちかえってふくらみ、ふとした偶然で再会した時には、それは運命の恋の重さになっていた。
再会した時の堀川真佐美は、すでに子供を三人抱えた人妻だった。その際、もし彼女が元気で幸せだったなら、天宮も自分の心を抑えることができたかもしれない。
だが、彼女は疲れはてていた。育児や生活にではない。彼女は子供達を愛していたし、辛い仕事にへこたれない頑強な身体を持っていた。その彼女を疲れさせていたのは、一重に夫の粘着質な性格だった。普段は穏やかで優しいが、激すると何をするかわからないような性根だった。
《いいえ、暴力をふるわれる訳じゃないのよ。でもね、じわじわと真綿で首を絞められるようなって言葉の意味、今ならよくわかるわ》
彼女がそう呟くと、天宮は耐えられなくなった。恋心を打ち明けて、その生活を捨ててくれと頼んだ。
彼女は、昔のよしみで天宮と何度か会いはしたが、求愛には首を縦にふらなかった。夫を憎んでいる訳ではないし、今の生活を捨てる気もない。大丈夫、あの人もいつかなんとかなるから、と微笑んだ。だから、これからも今までどおり、いいお友達でいてちょうだい、と。
だが、天宮はどうしても諦められなかった。完全に会えなくなった訳ではないので、それからも彼女にアプローチを繰り返した。最後には、彼女のたまの息抜きであった旅行先にまで押し掛け、一人になったところをみすまして熱心にかきくどいた。
すると彼女はこう言った。
《沖のあそこに、小さな島が見えるでしょう? あそこまで私、泳いでいくつもりなの。もし、私をさらって逃げる覚悟があるのなら、あそこまで迎えにきて。私が出てから、二時間したら出ていいから》
たぶんにロマンティストな彼女らしい申し出に、天宮は舞い上がった。彼女が海辺を離れてから二時間後、小さいボートで後を追った。
しかし、天宮は、彼女と出会うことはできなかった。
沖にあった島は、島というよりは岩の塊のような場所で、人が隠れられるような処はなかった。あたりの海を漕ぎ回っても、彼女の姿は見られなかった。
疲れはてた天宮は、そこで初めて自分の愚かさを悟った。夫のことはともかく、母である彼女が、罪のない子供達まで捨てる訳はない。そうか、彼女にからかわれたのか、ていよく追い払われたのか、とようやく気付いて浜辺に漕ぎ戻った。
だが、翌日海辺は大騒ぎになった。
堀川真佐美の溺死体があがったからである。
かけつけようとした天宮は、遺体の身元確認をする彼女の夫の姿を見た。彼はとっさに、知らせをうけてとんできたにしては早すぎるリアクションだと思った。
その瞬間、悪い疑惑が胸に湧いた――あの夫なら、別に男ができ、それと逃げようとする妻を、絶対に殺すだろう、と。
そこまで天宮が話した時、えみりの父親の激怒は最高潮に達した。
「勝手なことを言うな。愛していたのに殺すものか。だいたい真佐美が貴様にそんなことを言う訳がない。末の子だってまだ二才だ、そんな誘いは冗談でもかけない筈だ」
天宮も、怒りを秘めた声でやりかえす、
「おまえは何も知らないんだ。彼女がどんなに苦しんでいたか――確かにおまえは直接手をくだしたんじゃないだろうさ、この一週間、もう一度丁寧に調べなおしてみたが、みんな他殺はありえない、と断言したからな。だが、直接殺さなかったにしろ、おまえが追いつめたんだ。真佐美さんの心が揺れたのはおまえのせいだ。俺を試すようなことを言ったのも、すべておまえが……」
「先生」
ずっと黙ってきいていたえみりが、そこでいきなり口を開いた。
「どうしてこんなことをしたんですか。今更――いいえ、学校を休んでまで、母の死因を調べに行っていたなんて」
動転している天宮は、教師の仮面はとっくに脱ぎ捨ててしまっていた。それでもかろうじて、えみりに話しかける時には、少しやわらかい声を出した。
「君のお父さんが、あの夜、私のアパートにきたんだ。そして、娘に余計な事をしゃべらないでくれ、と言うんだ。僕が今までどれだけ我慢していたかも知らずに、あることないこと吹き込んだろう、と脅されたんだ。娘は俺のものだ、おまえの毒牙にかけてたまるか、と言われた時、もうたまらなくなった。なんて勝手な想像だ、僕がいつどこで誰に何をしたというんだ、と頭に血がのぼって、家を飛び出してしまったんだ。七年前の出来事を清算してやる、そうでなければ平然と学校へ行って授業なんかやれるか、と思ったんだ」
「うわあ、とんだマルゥ先生だ」
Aが低く呟く。マルゥ先生というのは、ヴェロニク・デルジュモンの初恋の男性の名だ。物語では、悪い夫が消えた後、二人はよりを戻し、ハッピーエンドを暗示して終わる。だが、こちらはしつこく追い回したあげく、その命を危険にさらす真似をさせてしまったのだ。天宮が、真佐美の死を夫のせいにしたがるのは、自責の念がかすかにあるからなのかもしれない。まあ、目が曇りもするだろう。なにしろこの恋は、相手が死んで七年がたってからなお、一週間も駈け回ってしまうような重い熱病なのだから。
そう、えみりの母親は二人の男の執着に追いつめられて、いずれは破滅する運命だったのだ。それから逃れようとした彼女は、母なる海で別の運命に押し流されてしまったのだ。
えみりは能面めく無表情で、こう呟きかえした。
「先生の行方不明はじゃあ、お父さんとは直接関係なかったんですね」
「そうらしいね。僕が先生を連れてきてくださいって言うまで、失踪してたことも知らなかったみたいだったよ」
Aは三人の男に合図し、少女の囲みをといた。
「Aさん」
「とりあえずここで、えみりさんが心配してた殺人は、二つともチャラになった訳だ。お父さんはお母さんを殺してないみたいだし、先生も殺ってないみたいだしね。先生を無理矢理連れてくるために、お父さん、ちょっと荒っぽい運搬方法を使ったみたいだけど」
父親が怒鳴る。
「そうしなければ、娘を返さないと言ったのはおまえだろう」
Aは平然とうなずいた。
「そうですよ。……さて、約束は約束だ。えみりさん、帰るかい?」
「帰らない」
少女は即答した。
「えみり」
目をむく父親に、えみりは言葉を投げつけた。
「私、お父さんが嫌い。だから、もう戻りたくない」
「何を言うんだえみり、おまえは優しい子じゃないか、いつもいつも私達のために……」
「わかったの。お母さんを殺したのは、やっぱりお父さんなんだって。だって、同じ事を私にしてるんだもの。殺そうとしてるもの。大事な事は何も言わないくせに、自分の勝手な都合を押しつけて、愛してるとか言って縛りつけて……これじゃ、死にたくなって当り前だわ。だから私、帰らない。もう、これ以上耐えられない!」
最後はもう絶叫だった。全身を震わせ、肺の息をふりしぼりきった叫びだった。その場にいた全員の声を失わせるような声だった。
しかしAは彼女に近づき、その肩をポンと叩いてこう言った。
「えみりさん。帰りなよ」
「Aさん」
興奮状態の彼女は、喰ってかからんばかりの勢いで、
「どうしてですか! 私、帰りたくない。殺されたくない!」
しかしAは首を振った。
「だって、僕が頼まれたのは、明日家に帰る方法だもの。それに、もう、大丈夫だよ」
「何が大丈夫なんです」
「えみりさんはもう、お父さんには殺されない。だって、嫌いだって、厭だって、我慢しないでちゃんと言えるんだから」
「それ、どういう意味ですか」
Aはもう一度、少女の肩を軽く叩いて、
「だって今までえみりさん、お父さんに厭だって言ったことなかったんでしょう。違う?」
「え……」
「あのさ、たぶん、えみりさんのお母さんは我慢する力のある人で、うっかり我慢しすぎちゃったんだと思うよ。いつかはなんとかなると思って、お父さんに文句を言わなかったんでしょ。お母さんがえみりさんに、繰り返し『三十棺桶島』の話をしたのは、新しい生活に憧れてた部分があったからだと思う。でも、結局耐えて、自分の胸の中に苦痛をしまいこんで、どこへも逃げだそうとしなかった。力尽きるその時までね。でも、えみりさんは厭だって言えるでしょう。だから、大丈夫だよ」
「厭。私、今帰ったら力尽きます。母さんとは違うわ」
「えみりさん」
Aは身を屈めた。少女と視線の高さをあわせて、
「いいかい? えみりさんは、お父さんを許す必要はない。弟達の面倒を見なきゃいけないから家に戻らなきゃ、とも言わない。まだ高校生だから、一人で暮らせないだろう、なんてことも言わない。……でも、帰るべきだと思うんだ。だって、えみりさんの家は、えみりさんの家なんだから。逃げ出したければまた逃げ出せばいいし、出て行く時には出て行っていいし、厭なことがあったら厭だってつっぱねていい。それで、自分の家を、自分の生きられる場所に、息のできる場所に変えるんだよ。急には無理かもしれないけど、今なら変えられるよ、きっと」
Aは、黙ってしまった少女を見つめ続けた。
「えみりさん。僕の言ってること、わかるかい?」
少女は目を伏せた。
「……わかりました。送ってください。家まで」
父親が叫び出して暴れようとするので、飛び出したAの仲間達が三人がかりで押さえつけ、適当に縛り上げてしまった。
Aとえみりは連れだって、静かに倉庫を出ていった。
少女の父親と教師がそこから逃げ出せたのは、それから三十分以上してからのことだった。
事態のわからない男二人は、憎しみあうというよりはむしろ茫然としながら、それぞれの帰途へついた。……

8.

「Aさん。お久しぶりです」
「あ、えみりさんだあ。元気だった?」
その日、ゲームセンターでとほんと座り込んでいたAの前に、えみりは再び姿を現した。あれからもう一カ月以上が過ぎていて、涼しげな夏服姿である。
少女はすっかり和らいだ表情で彼に微笑みかける。
「いや、きかなくとも元気そうだね。あれからどう?」
「だいぶいいです。先生はあれからもう少し学校をお休みして、新学期から外国へ留学するって言ってました。前々から考えてた事なんですって、すっきりした顔してました。父の方は相変わらずなんですけど、私、ちゃんと物が言えるようになったし、楽になりました。それに、ちょっと反省もしたんです」
「反省?」
「家に帰ってから、弟達に泣かれたんです。お姉ちゃんゴメン、俺達何にもできなくてって。帰ってこないから凄く心配したよって。それで、気付いたんです。弟達も、ずっと我慢してたんだって。私を支えようとしてたんだって。私、自分一人が全部背負ってて辛いような気がしてたから、なんだか恥ずかしくなっちゃって」
「ふうん」
Aは霞んだような笑みを浮かべ、
「別に、恥ずかしく思う必要もないと思うけど……でも、これからは、弟さん達と一緒に戦えるね」
「はい」
「でも、少しでも楽になったんなら、よかったよ」
「ええ」
少女はAの隣の椅子に座った。
「Aさん。ひとつきいていいですか」
「なに?」
「どうやって、あんな推理をしたんですか? 父さんに、いきなり《先生を連れてこい》って言ったんでしょう? まるで全部を見通してたみたいに」
Aは肩をすくめた。
「……あてずっぽ」
「あてずっぽう?」
「うん。えみりさん、すごく熱心に『三十棺桶島』の話をしてくれたでしょう? お母さんが好きでよく読んでくれたって。だから、えみりさんのお母さん、その時昔の恋人に再会したのかなって思ったんだ。だって、子供って敏感だから、母親の事情をすぐに見抜くでしょう」
「私、見抜いてなんて」
「いや、見抜いてたと思う。認めたくないだけで。慣れない煙草の匂いのこと、最近まで忘れてたんでしょ。無理矢理意識下に押し込めてたんだと思う。それでね、その過去の恋人が、えみりさんの先生かもしれないって考えるのは、そんなにとっぴな推測でもないでしょ。そしたら、えみりさんのお父さんと先生の接点はあんまりいいもんじゃないからさ。お互いに悪いことしてなくても、余計な意地を張るでしょ。だからちょっと脅かして、強引に連れてこさせるのがいいかな、と思って。……うまく説明できないんだけど、わかる?」
Aはシャツの胸元から、若緑と紺と金で彩られた紙箱を取り出して、短い両切りを一本抜いてトン、と叩いた。
「わかります」
少女はうなずいた。
なんとなく納得がいったのだ。誰もが信号を発しているのだ。日常生活の中で目立たないが、助けてくれとかわかってくれとか、言葉に出せない言葉を訴えている。自分はそれを受け取っていたし、また、発信もしていたに違いない。それをAが、まとめて受け取ってくれたのだ。
そう。だから気持ちを切り替えることができたのだ。
「ところでAさん」
「ん?」
「例のVDHの女のひと、あれからどうなったんですか?」
「ああ、あれ」
Aはいつもの微苦笑を浮かべた。
「それがね、運のいいことに、彼女見つかったんだよ」
「本当ですか?」
「うん。僕のおかげじゃないんだけどさ。あのね、VDHの彼女、彼を捨てた訳じゃなくて、具合いが悪くなって急に入院しちゃっただけなんだって。それでね、VDHって心臓弁膜症のことを言うんだって。彼女、自分の病名をサインにしてたらしいよ。心臓が強いんだか弱いんだかわかりゃしないね。で、持ち直した彼女は、彼と再会を果してハッピーエンドになりましたとさ」
少女はほっと息をついた。
「よかったですね。VDHで始まった話だから、最後はやっぱりハッピーエンドにならないといけないと思ってたんです。でもきっと、Aさんの努力も無駄じゃなかったんですよ、たぶん」
Aは照れたように髪を撫であげ、
「うん。でも、嘘の噂が残っちゃうよね。伝説のゲーマーの話が。それに、パトロンがいなくなっちゃったから、僕は自分のお金でゲームしなきゃいけない。もう、えみりさんにも沢山おごってあげられないや」
「おごってもらうなんてとんでもないです、ただ、私」
「何?」
「VDHの話って、もしかして、Aさん自身の事なのかなって思ってたんです」
Aははっと胸を突かれた顔で、少女を見た。
「……残念だけど、違うんだ。僕、本当の意味で、もてたことないんだよ。想うひとには想われないって奴でさ」
瞳が暗く翳ってしまう。どうやら恋の話については、本当に触れられたくないらしい。少女は慌てて謝った。
「ごめんなさい。あの、私、ちゃんとお礼もしてないのに」
Aは首を振った。
「いいよ、たいしたことしてないし。お礼はもうもらってるから」
「え? 私、何かお礼しました?」
「うん。僕を信用してくれたでしょう」
あれを、信用したというのだろうか。
少女は今更驚いていた。そういえば、信じているつもりもないのに、どうして自分は見知らぬ男の家に泊まったり、言うことを素直にきいたりしたのだろう。
それが、他人を信じるということなのか。
少女が考え込んでしまうと、Aは表情を和らげた。
「あのね、世間っていうのはさ、僕みたいな女顔のね、得体のしれない生活を送ってる男は信用しないものなんだよ。実際、なんにもできないしね。だから、えみりさんに頼られたのが、凄く嬉しかったんだ。だから、あれ以上のお礼なんて、いらない」
「Aさん」
「それでももし、なんかしてくれる気があったら、時々会いにきてよ。それで、面白い話でもきかせて。それ、また他人様に売るからさ」
「そうですね。そうします」
二人がそう言って微笑みを交わした瞬間、フロアの向こう側から高い声が響いた。
「エーイ! そろそろ戻んなさい」
宵子がゆっくりこちらに近づいてくる。
「いけね、姉さんが迎えにきた」
「宵子さん、わざわざ迎えにくるんですか?」
過保護過干渉はここでもか、と少女が目を丸くすると、Aはいや、と片手を振って、
「あの時、常連さんにちょっと手伝いしてもらったでしょ。あれでね、個人の事に他人様を巻き込むんじゃないって姉さんに散々怒られちゃってさ。なんか怪我しちゃった人がいたんだよね。えみりさんのお父さん、やっぱ結構強かったみたいで」
「やだ、すみません」
「いや、それは僕のせいだから。それであれから、あんたのすることはちゃんと見張ってないとって、毎日夕方から強制的に店で働かされることになったんだ。別に厭じゃないし、自業自得なんだけど、昼も目を離せないって、時々ああやって捜されちゃうのが困りものでさ」
苦笑いして立ち上がる。
「姉さん、大声出さなくても聞こえてるよ。すぐに帰るから待っててよ!」
少女を振り向くと、片手をあげてゴメン、と謝る。
「じゃあまたね」
「ええ」
連れだって歩いてゆく姉弟を眺めながら、少女はポツリと呟いた。
「帰れる家って、場所じゃないのね。……人なんだわ」
腰の辺りを払うと、ゆっくりとした足取りで、彼女もゲームセンターを出ていった。

その遊技場ではしばらく、ゲームランキングの表にVDHという名を残すことが流行った。ゆえに、その名を残すものがゲームが強いという噂は嘘でなくなった。
そんな訳で、Aの情報は本当になった。
怪しい仕事も無事片づき、まずはめでたしで終わったのである。

(1996.6脱稿/初出・Narihara Akira編『のんしゃらんと第19号』1996.6/恋人と時限爆弾『彼の名はA』1997.5)

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