『青髯の妻』
「ああそうだ、おまえに預けておいた例の鍵を、そろそろ返してもらおうか」
ジル・ド・レは、その青ずんだ頬に優しい微笑を浮かべ、ふと思いついたように囁いた。例によって、そこで妻の顔色が変わったら、さらに甘い猫撫で声を出すのだ。どうして鍵に血の染みがついているのだ、あれほど言ったのに、私の留守に秘密の拷問室を開けたのだね、彼処に吊された六人の妻を見たということは、これからおまえの身に何がおこるかもよくわかっているのだろうねと、畳みかけ追いつめてゆく。そこでおびえ逃げだそうとする獲物を追いかけるのが、青髯公ジルのささやかな楽しみなのだった――そして、緋色の幕切れ。
しかしマリエは、いつもどおりの無邪気な笑顔でそれに応えた。
「ええ、あなた。お返しいたしますわ」
彼女は上着の隠しから天鵞絨の小箱を取り出して、ためらいもなく青髯に手渡した。
青髯は箱を開き、小さくうめいた。
納められていた鍵はぴかぴかと輝いていた。預けた時の、そのままに。
ジルは我が目を疑った。あの部屋に鍵を使えば、必ず錆色に染まるよう、錬金術師に魔法をかけさせてあるのに。今までどの妻も好奇心に負けてあの部屋をのぞいた。錬金術師の存在に気付いて、別の者に合い鍵をつくらせた妻もいた。だがそんなことをしたとしても、扉が開けば鍵に反応が出る秘術がかけてあるから無駄なのだ。錬金術師はみな忠実な部下で、彼の妻と通じた場合は即座に首をはねられると知っているから、秘密を漏らす愚行すら犯さない。
ということは、マリエはあの部屋に寄らなかったのだ。彼の言いつけどおり、一週間の不在の間、中も覗かずいっしんに鍵を守り続けたのだ。
「どうかなさったの、貴方」
マリエは不思議そうに青髯を見つめる。
「いや、おまえに預けて良かった、無事で良かったと思ってな」
そう取り繕うと、マリエは嬉しそうに、
「ええ。大事な鍵だから誰にも触れさせるな、とおっしゃったでしょう。肌身からずっと離さずにおきましたわ。お役にたてまして?」
青髯は浮かない顔で応えた。
「ああ。よくやってくれた。さあ、これからおまえの労をねぎらってやろう」
「旅のお話を聞かせてくださるの」
マリエは目を輝かせる。青髯は思った、この女はまだ子どもなのだと。いいつけどおりにするしか知らない従順な女、夫の生活に興味のない、自分の分と思う殻に閉じこもった妻。よくあることだ。豊かな生命力を感じて娶ったが、存外つまらぬ鈍感な奴だ、機会など待たず今晩にでもくびり殺してしまうか、とため息をつく。そう、元々この世の男と女の間に真実の愛など育まれた試しがない。ましてこの荒れた時代に、そこまで妻に求めることは、初めから徒労というべきだろう。
「そうだな、久しぶりにおまえの寝室をおとなうことにしようか」
「まあ」
マリエはうっすら頬を染めた。ふん、可愛らしいものだ、と青髯は内心せせら笑う。いつまで私の前で慎ましげな恥じらいを見せていられるものか、と。
こんなはずではなかった――汗の引きかけた身体を妻の寝台に伏せて、青髯は低く呟く。さっさと細首に手をかけるか、もしくは自分の正体を少しずつ明かし、妻が恐怖におののいたところを一気に剣で刺し貫こうと思っていたのに、なぜか愛のいとなみを穏やかに一通りすませてしまった。
未熟ながらもマリエはよく応えた。身体つきもだいぶ丸みを帯びて大人らしくなり、独特の味わいを発する時期である、百戦錬磨の青髯公も、魅了されて不思議はないが、それにしても何故思いどおりにならなかったか。疑うことを知らぬげな真っ直ぐな瞳こそ、恐れに歪み曇るのが美しいものを。
いや、今からでも遅くはない、この妻を虐めてやろう、心底震えあがらせてやれ、と青髯は半身を起こした。
「もう行ってしまわれるの」
マリエが心細げな声を出した。まるで夫の温もりに安堵していた風である。ジルは含み笑いを洩らして、
「居て欲しいのか」
「だって、一週間もいらっしゃらなかったのですもの。それに、お疲れのはずなのに、今晩こんなにいたわってくださるなんて、思ってもみなくって……いけませんこと? はしたないのかしら」
「そうか、寂しかったか」
青髯は妻の肩に軽く掌を置く。片手で潰せてしまいそうな華奢な首の、ごく近くに。
「寂しいなら姉のジャンヌを呼んで話をしてもよいといったろう。留守が不安なら兄達を頼んで、警護をしてもらってよいぞと」
「ええ。貴方に言われた通り、姉も兄も呼びましたわ。ですけど詰まりませんの。すぐに帰ってもらいました。それからあなたの合唱隊と歌ったり、学者の話をきいて気まぎらわしをしましたけど、やっぱり妾(わたし)、貴方がお城にいてくださるのが、いちばん楽しいわ」
「何が楽しい」
マリエは不思議そうに目を瞬く。
「だから、貴方が……」
「おまえがいったい、私の何を知っているというのだ」
青髯は腹が立ってきた。おまえなど何も知らぬくせに。私が女嫌いで、今までの妻は領地拡大のためだけに娶ってきたことも、合唱隊に属する少年達がみな自分の愛人だということも。学者を名乗る錬金術師達はすべて、悪魔召還の外法のために雇っていて、悪魔崇拝のために罪もない小姓を生け贄に捧げていることも。青髯公が無惨な殺戮者であるという噂が、しのびやかではあるが領土中に広まっていることも。
マリエは平然と言い返した。
「知っていますわ。貴方が神を信じていないことを」
青髯はギクリと動きを止めた。中世ヨーロッパの貴族が、神を信じぬと宣言するのは、すなわち命を奪われることに等しい。社会的に抹殺されるというだけでない、神への冒涜、教会を汚すことは即ち死罪だからだ。いくら青髯公に巨大な権力があろうとも、正面きって信者でないことを、人には言えない。
「なんと恐ろしいことを言う」
「恐ろしくって?」
マリエは笑った。
「珍しいことではありませんわ。誰も口にしないだけで。ええ、お認めにならなくて構いませんわ。わかっておりますもの」
「なぜ私が信じていないと思うのだ」
「御顔を見ればわかります。だって貴方は、何も信じていませんもの」
真顔でマリエはこう続けた。
「権力も、領土も、女も、愛人も、財産も、沢山の取り巻きもぜんぶ。悪魔だって、本当は信じてらっしゃらないのでしょう、それでえられる永遠の命も。それで神だけ信じるなんて、そんなのおかしな話ですわ」
「おまえ」
青髯は妻の首に手をかけた。
「覚悟はできているのか。そこまで知っているということが、何を意味しているかおまえは知らないのか。私に殺されてもいいというのか」
「ええ。それが天命であるのなら」
妻の瞳に畏怖はなかった。声にも何の惑いもなかった。
「妾が何の覚悟もせずに、嫁いできたと思ってらしたの? さして取り柄もない没落貴族の娘は、貴方のような大領主に見初められることさえ稀なのです。ですから求婚された日からわかっていました、もしいい条件の土地が手に入るなら、貴方はためらわず新しい妻を迎えるだろうと。そのために妾が殺される日が来ないと、想像しないことの方が難しくって」
妻の顔は本当に不思議を見つめているようだった。
「だって本当は、もっと早く飽きられると思っていましたの。妾は生意気な小娘ですから、物珍しさで側に置かれたのでしょうけど、きっとすぐに退屈なさるって。そうしたら貴方は秘密の部屋に妾を吊すのだと、いつも考えていましたの。それなのにずっと優しくて、ちっとも手にかけてくださらないから」
青髯の手には力が入らない。声も少し掠れだす。
「おまえは死にたいのか、マリエ」
妻の口唇に淡い笑みが浮かんだ。
「いいえ。妾は神様を信じていますし、自分から死にたいと望んだこともありませんわ」
「では何故」
「貴方のそばが楽しいからと、妾、申しましたわ。貴方は正直な方。自分のしたいことを隠そうとなさらない。ほとんどの貴族が貴方と同じことをしています、ですが自分の醜さをつくろおうと躍起になって、妻の方などろくに見もしませんわ。でも、あなたは妾にわかってもらおうとなさいます。秘密の鍵まで渡して試すのですわ。そんな貴方を、愛しいと思うのは、いけませんの」
言葉を失う青髯に、妻は優しく畳みかける。
「貴方の青い頬と、闇のいろの憂鬱な瞳に、お会いした日から魅かれていましたの。ほんの少しでもお側にいられたら、それだけで良かった。ですから私は神様を信じるのです。貴方とひきあわせてくださったのですもの」
ついに青髯は顔を背けた。妻の首から手を離した。
「もう二度とおまえを抱かぬ」
「貴方」
「田舎の城に押し込めて、二度と私に会えぬようにしてやる」
「それでは、やはりお別れですの」
「覚悟していたといったではないか」
青髯は低く呟いた。
「それがおまえにとっては一番の罰なのだろう。私にくびられることよりも、遠ざけられる方が、つらいのだろう」
「ええ、貴方」
その瞬間だけ、マリエの声は震えた。
妻の瞳に僅かでもにじむものを見まいと、青髯は必死に顔を背け続けていた。
それからジル・ド・レの妻は田舎の城に幽閉され、彼と二度と会うことはなかった。ただしまもなく娘を産み、それが結局、青髯公唯一の子孫となった。おかげでジルがそれまでの罪を裁かれ処刑された日も、二人は静かに暮らしていた。余罪が及ぶどころか、むしろ犠牲者としてその後も同情を受けた。
通説では、男色趣味の青髯は、妻を愛していなかったとされている。当然その妻も夫を愛さなかったと。それはまるで当たり前のように囁かれている。
ただ、その通説がどれだけ真実を含んでいるかは、誰も知らず知る由もない。
(2001.6脱稿/初出・text jockey『JUICY 2001*summer』2001.8発行〜テーマ:信仰〜)
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Narihara Akira
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