『Alone in the Dark』

1.アレン・シェザール

あたりはただ、薄暗い。

ここは何処?
どうして私はここにいるの?
どうしてここにひとりでいるの?

薄くらがりに、ぼんやりと浮かび上がったのは墓標だった。
その墓石は形を変えて、幾つもある。
セレナの父、レオン・シェザールと母エンシア・シェザールのもの――そして、ディランドゥの部下であるミゲル、シェスタ、ギメル、ダレット、ガァディ以下竜撃隊の十余名のもの。それに加えて、彼の最後の部下だったジャジュカのもの。

どうして私にこんなものを見せるの?
どうして私をひとりにするの?
どうして皆、私を置き去りにしていくの?
私を墓守りにする気なの?

ひときわ大きい墓石の脇に誰かが立っていた。そのシルエットは、低い静かな声で、こちらに語りかけてくる。
「墓守りになる必要など、ない」
「どうして? 私も死んでしまうの?」
何故かその墓石には自分の名が刻まれているような気がして、そう言った。
男はゆっくりと首を振った。
「まだ君は黄泉路へはこない。ここにあるのは、いなくなった騎士の名でもないし、今の君の名でもない」
「いなくなった、騎士?」
「そうだ、ディランドゥ」
「その声……おまえは」
男の影は上着を脱ぎ捨て、黒ずんだ羽根を大きく広げた。
「死はさびしいことではない。置いていかれることも。誰もが暗闇にひとりでいる。生きている時も、そして、死して葬られた後も」
微かに男の血の香が、鼻先をかすめる。
その瞬間、僕は自分の血が沸き立つのを感じた。
「待て。おまえも、僕を置いて行くつもりなのか」
男の口調はあくまでも落ち着いている。ほとんど非人間的なほどに。
「誰もがいずれ、沢山の人間を置いて行く。誰かを愛したものも、愛さなかったものも、愛されなかったものも、すべてこの世を捨ててゆく。それは私も、そしてディランドゥ、君も同じだ」
「厭だ!」
激しくかぶりを振って叫ぶ。
「先のことじゃない。今、ひとりにするなと言ってるんだ!」
男は、こちらの言うことに耳を傾ける気はなさそうだった。変わらぬ口調で、
「言ったろう。誰でも、ひとりなのだ」
「厭だ! ひとりにするなっ!」
「今はまだしかたあるまい。そう、いずれ逢う日まで……」
男の羽根は、更に大きく広げられた。僕は飛び立とうとするその影にむしゃぶりつこうとした。
「お願いだ! ひとりに、ひとりに、しないでくれっ!」
しかし、確かに飛びついた筈の身体は、もうそこにはなく。
「い、厭ぁーーっ!」

アストリア王国の奥深く、貴族シェザール家の邸内に大きな悲鳴が響きわたった。
「ひとりに、ひとりに、しないでぇーーっ!」
時すでに真夜中であったが、隣室で休んで居た兄はすぐさま妹の部屋に飛び込んできた。
「セレナ!」
絶叫する妹を、兄はかたく抱きしめた。
「いやぁーーっっ!」
「セレナ、大丈夫だ、みんな夢なんだ、夢なんだよ」
妹は喉を枯らして叫び、しばらく暴れていたが、兄に何度か揺さぶられて、ようやく悪夢から醒めた。抱きしめられたままぼんやりと目を開いて、兄の顔を見つめる。
「私がわかるか、セレナ」
「お……兄様」
そう呟いて、セレナは震える腕で兄にしがみついた。兄は少しく安心して、優しい声を彼女にかけてやった。
「みんな夢だ。セレナはひとりではない、私がいる」
だが、セレナは強く首を振った。
「違うの、お兄様、違うのよ」
「違う?」
「ごめんなさい。お兄様では、駄目なの……私を、救えないのよ……」
セレナはたださめざめと泣いた。
その言葉を裏付けるように、いつまでも少女の身体は震えていた。不安の発作はいつまでも彼女を苦しめていて、夜明けまでの長い時間、短く苦しげな呼吸が続いた。
「いいの、お兄様。もうお休みになって。セレナをひとりにして」
弱々しい笑みで、彼女は兄を突き放した。
遠ざけられた兄は、妹の布団を形ばかり直してやり、そっと寝室を抜け出して、後ろ手に扉を閉めた。

「セレナ……」
アレン・シェザールは悩んでいた。
妹が、夜な夜なあげるあの悲鳴。胸引き裂かれる心地がする。
《ひとりにしないで。》
実際、セレナはひとりではない。
なにかあれば、アレンがいつでもすぐにとんでくる。
だが彼女は、《駄目、お兄様ではどうしても駄目なの》と毎晩のように繰り返す。
「何故だ。もし私で駄目なら、セレナを救えるのはいったい誰なんだ……」
ザイバッハ帝国の魔導士達か。
セレナの身体を弄び、無理矢理別の人格を刷りこんで人殺しをさせた連中に、もう一度まかせるべきだというのか。
「いや、あいつらにも何もできまい」
魔導士達のしていたことは、あくまで実験に過ぎない。まして、彼らに指示を下し、知恵を授けてきたドルンカーク亡き今、彼らにどれだけの力が、どれだけの道具が残っているだろう。連中にはセレナを一時、血に飢えた剣士、ディランドゥ・アルバタウに戻すことは出来るかもしれないが、薬や洗脳によって何度となくバランスを失った情緒を、健やかなものに戻すことは不可能だろう。
「なら、どうすればいい」
想い乱れる彼の胸には、とんでもない案さえ浮かんでいた。フレイド公国へ行き、極秘で高位の僧侶、プラクトゥにセレナの夢を見てもらう――彼らの催眠術で彼女の心の奥底を照らしてもらい、それを癒す術をさぐるか。
「そんなことができるか!」
アレンは堅く口唇を噛んだ。シド王子らに知られることなく、プラクトゥにそんなことを頼むことが無理だ。いや、出来たとしても、彼はそれだけはしたくなかった。
「プラクトゥにすべてを見られてしまったら、セレナはどうなる」
殺戮の記憶を鮮やかによみがえらせてしまうだろう。より一層精神を傷つけ、とりかえしのつかない事になってしまうかもしれない。
「いや、それだけでない、セレナは――セレナが……」
その時アレンは、自分が本当に恐れていることを知った。
彼は、体験的に直感的に悟っていた。
セレナが自分を抱く腕は、男を求める手――男を知っている手だ。
「そう、私が知りたくないのだ。一体、何人の男が、セレナを……」
あの美しい妹を見、その肌に触れ、その身を汚し辱めたか。
「気が、狂いそうだ」
胸が、灼けつく。
ただ、一緒に静かに暮らせればいいと思っていた。
過去の戦場での惨劇は彼女の意思でなしたことではない。周囲も深く同情し、水に流してくれた。彼自身もそのこと自体は許せると思っていた。
それなのに。
まだ、こんな罠が残っていたとは。
「私の……セレナ」
間違いなくセレナは彼の妹であり、実体も彼の腕の中に抱きしめることができる。
しかし、私の、という言葉が、今、どれだけ空しく響くか。
「結局私は、おまえに何もしてやれないのだ。神隠しに遭ってから……いや、もっと幼い頃から、わたしはおまえに何もしてやれなかったのだ。そして、今もまた……」
セレナに何もしてやれない。
たとえ、兄妹の絆を忘れて抱いてみたところで、セレナを助けられるとは思えない。それは二人を、更に深い地獄につきおとすだけだろう。
「私では、おまえの求める腕には、なれないのか……セレナ」
アレンの押し殺した泣き声が、無明の闇にいつまでも響いた。
妹の悲鳴が、それを再びとぎらせるまで。

2.ジャジュカ

「おねがい、おうちに帰して。おねがい……」
「ひどいことをする……」
獣人ジャジュカは、幼い泣き顔を見て思わずそう呟いた。
食事もうけつけずただ涙を流しているその姿は、ただ弱々しく哀れである。ジャジュカは彼女に心底同情した。軍にいくら兵隊が足りないからといって、こんないたいけな子供まで酷い目に遭わせることはないだろう、と。
すでに当時、ザイバッハ帝国の兵士数は五万五千人、メレフは――いや、これは少し後の話になる――一万騎に達し、近隣諸国の中でも群を抜く兵力を保持していた。
しかし、この兵士の数はザイバッハを守るギリギリ最低限の数であり、ガイア全体の人民の数に対するとすれば、充分とは言えない。
一般に、ひとつの国が養える兵の数は人口の百分の一であるという。つまり、一千万人の人民がいる国においては、訓練された十万の常駐兵士がいれば足りる。それに精鋭近衛兵が一万もあれば、充分に専制支配できると言われている。
だがそれは、人口の多い国の話である。人口が一万人しかいない国に、百分の一で足りる筈だからといって、百人だけの兵士を置いたらどうなるか。それでは少なすぎるのだ。人民が反乱した時に、一人の兵士は百人の民衆を押さえられない。
ガイア界にある国は、すべてこのジレンマを抱えていた。それぞれの国の広さに比べて、人間が少なすぎるのだ。生産性の低さだけでない、ただ少ないのである。
むろん、その土地土地のカラーもある。農耕や貿易によって豊かな国はまだよい。しかし、地味に乏しい国は、武装で貧しい土地を守らなければならない。
そういった国で、訓練された兵士が沢山集められなければ、勢い、兵器主義に走らざるを得ない。本来は竜を退治するためにつくられたガイメレフが、対人間用の戦車がわりに使われるようになったのは、そういった理由からだった。
ザイバッハの貴族の屋敷で下働きをしていたジャジュカは、そういう裏の事情を察していた。獣人として低く見られているため、どうせこいつにはわからないだろう、とばかり、彼の前でうかうかと軍の秘密や噂話をする騎士達がいたからだ。実際、ジャジュカも人前ではあまり聡明でないように振舞ってはいたのだが。
《だが、いくら兵が足りないとは言っても、こんな良い家のお嬢様まで、かどわかさなくともいいだろうに――》
見れば良い服を着ている。顔立ちや仕草にも品がある。何処からさらってきたのか知らないが、彼女を失った家族は、さぞや嘆いていることだろう。
そこに子供がいるから、死なない程度に世話をしておけ、と言われてやってきたものの、ジャジュカはこれはできるだけのことをしてやらねば、と思った。屈みこんで、少女と目の高さをあわせ、優しく声をかける。
「名前は?」
少女は喉を鳴らすだけで、まともに答えられなかった。
無理もない、とジャジュカは思った。
混乱しているのだ。状況がわからない。知らない屋敷に連れてこられて、暗い部屋に閉じ込められて、恐ろしいばかりの男共に囲まれ、挙げ句、世話係として、大人の獣人が目の前に現れたのだ。おびえるのは当り前だ。
「何か、食べるか」
少女は小さく首を振る。
食べる気がしないのだろう。だが、空腹ではある筈だ。
「そうか。一人の方が、落ち着いて食事が出来るかもしれないな」
ジャジュカは用意してあった盆をセレナの前に置き、静かにその場を離れようとした。
「……ひと……にし……」
少女が何か呟いた。
「うん? なんだ?」
「ひとりに……しないで……」
どうやら、ジャジュカは凶悪な人さらいの仲間ではなさそうだ、と感じたらしい。涙を無理矢理ぬぐって、彼の方へ手を伸ばす。
「ひとりに、しないで」
薄青の大きな瞳が、懸命に訴えている。その願う声は、どんな人間をも引き留める力を持っていた。
「わかった。しばらくここにいよう」
ジャジュカはうなずき、その場へ座りなおした。本当はここにいつまでもいると、上から殴られる。だが、少女の涙を乾かすためなら、その痛みも甘んじて受けよう、と彼は考えたのだ。
すると少女は、彼を見つめてこう呟いた。
「あなたの名前は……?」
ジャジュカは苦笑した。そうか、レディに名を尋ねる時は、まず名乗らなければならないという訳か。
「私の名はジャジュカだ。こわがることはない」
「私は……セレナ」
素直に答える。ジャジュカはほっとした。
「セレナか」
「そう」
少女ははにかんだように微笑むと、ジャジュカの側に寄ってきた。
「ジャジュカ……そばに、いてね」

一旦うちとけてしまうと、セレナはジャジュカによくなついた。食事もジャジュカの手から食べる。ひどく甘える。食事が終わっても、なかなか彼を放さない。
「セレナ……そろそろ行かないといけないんだ」
本当はジャジュカもセレナといたいのだが、一日中そうしている訳にもいかない。
セレナはひどくがっかりした顔をするが、ききわけはそう悪くない。納得すれば手を放してはくれる。その日もそうだった。
「わかった」
ジャジュカの頬にそっと触れて、耳元で囁く。
「わがまま言ってごめんね。いいの。いい子にしているから、大人しくしているから、また来てね、ジャジュカ」
「セレナ」
その肩を抱いてやろうとして、ジャジュカは少女が泣いているのに気付いた。
「どうしたんだ、セレナ」
「お兄様のこと、思いだして……ジャジュカの髪を見ていたら……」
「ああ、そうか」
ジャジュカは少女の身体に手を回して、彼女が安心するように軽く叩いてやった。
《この子の兄はきっと優しかったんだろうな。そして、妹をうんと可愛がっていたんだろう。時々、こんな風に慰めてやっていたかもしれないな》
実はジャジュカには家族がない。かなり小さい頃に売られてしまったので、思い出がないのだ。アストリアのような一部の国以外では、獣人の地位は低すぎるほど低い。彼は何でもこなす器用な男だったため、貴族の屋敷をうまく渡り歩いてやってきたが、もしそうでなかったらどんな待遇を受けていたかわからない。
だが、彼の性根はひねくれてはいなかった。そして、セレナをうらやんだり軽蔑したりするような卑しいところもなかった。勝手な身分制度を恨む気持ちはあったが、だからといって貴族全てを憎むような男ではなかった。
いや、セレナはむしろ気の毒にしか思われない。特に今のこの状況では。
「すまない。お兄様だったら、いつもセレナと一緒にいられるんだろうに……」
うっかりそう口を滑らせて、ジャジュカははっとした。
だが、少女は泣いていなかった。頬を強張らせながらも、無理に笑顔をつくろうとしていた。
「お兄様はやさしいわ。でも、騎士様になってからは、セレナといっしょにいてはくれなかった。だから、ずっとひとりだったの。だって、お兄様だけが、セレナと遊んでくれたんですもの。いっしょにいてくれたんだもの」
「ずっと? お父さんやお母さんは?」
ジャジュカは意外に思った。こんなに美しく素直な子供だ、周囲からうんと甘やかされて育っているのだと思っていた。しかしセレナは、大きな瞳を伏せがちにして、
「お父様は、いちど家を出てから、かえってこないの。お母様はいらっしゃるけど、お父様がでかけてから、すっかり悲しいお顔になってしまって――セレナではだめなの。お母様を笑顔にすることは、できないの」
と、小さな声で呟く。
なるほど、どういう理由かはしらないが、父が家を空けたために、家庭に影がさしてしまい、味方であった筈の兄もまた、なかなか戻らないひとになってしまったらしい。自分がいい子にして家族に尽くせば、暖かい団欒がよみがえると思っていたのに、その望みもかなわないうちに、ここへさらわれてきてしまったのだ。
だが、皆が悲しいのはセレナのせいではないよ、とジャジュカが言いかけた時、ふっとセレナは顔をあげた。薔薇色の頬に切ないような笑みを浮かべて、
「お兄様は、長いきんの髪をしてたの。ジャジュカの髪みたいに、くるくるまいてはいないけど、でも、よくにた色――ジャジュカの髪はきれい。それにとっても柔らかい」
そう言ってジャジュカの頬に、髪に触れ、ゆっくりと撫でさすった。
「セレナ」
彼の胸に不思議な感動が沸き上がった。容姿を誉められ、心地よい愛撫を受けるのは、彼にとってはほとんど初めての事だった。セレナにしてみれば、愛玩動物に触れる子供の感覚なのかもしれないが、それでも嬉しかった。彼女の甘い囁きは続く。
「ジャジュカもとてもきれいだから、もしかしたら、すみれいろの騎士様の服がにあうかもしれないわ」
「菫色の騎士か」
獣人であるジャジュカに、そんな身分は縁がない。下級兵士にはなれなくもないが、決まった服を与えられるような晴れがましいものになれる訳がない。しかし、もしセレナが望むなら、それらしい格好をして、兄の身代りをつとめてもよい、と彼は思った。兄でもいい、父親でもいい、セレナの望むものになってやりたいと。
すると少女は、じっと彼の瞳をのぞきこんで、こう言った。
「騎士様でなくていいわ。だって、ジャジュカがそばにいてくれた方が、うれしいもの」
ジャジュカも少女を見つめ返した。その髪に少しだけ触れて、優しく囁いた。
「なら、側にいて、セレナをずっと守るよ」

それからジャジュカは、我が子に接するよりも細やかにセレナの面倒を見た。
しかし、蜜月は唐突に破られた。
ある日、この屋敷を訪れた魔導士達が、セレナをいきなり連れ去ったのだ。
驚いた彼は、少女を取り返そうとして、多くの男達に取り押さえられた。
「ジャジュカ、助けて、ジャジュカ!」
「セレナをどうするつもりだ! セレナを返せ!」
「おまえの知る事ではない」
有無を言わせず、彼らは力で少女を奪い去った。
「セレナッ! セレナーーッ!」
ジャジュカの叫びがセレナにいつまで届いていたかはわからない。
それはまさしく、白昼の悪夢だった。

彼の胸から幼いセレナの面影が消える日はなかった。下働きの日々の辛さは増し、時折屋敷を抜け出しては、胸の痛みを物翳で押さえた。
「セレナ……」
彼にだけなついた、よるべない子供。
愛らしい笑みを見せて、自分に触れた少女。
「どうしたらセレナに逢えるんだ」
彼はあちこちの屋敷を尋ねまわり、少女の噂を集めた。消息はなかなか知れなかったが、彼は妙な噂をきくことができた。
《魔導士共は、さらってきた者その他に、怪しい術をかけている。そしてその術が完成した後は、男女を問わず、戦場で兵士として送り出される》と。
「そうか。軍に入ればいいんだ」
兵士になれば、セレナのそばにいられるかもしれない。あの約束が守れる日がくるかもしれない。
その日から、彼は秘かに剣術の練習を始めた。ザイバッハの軍の兵数は、彼が知っているように充分でなく、志願をすることによって彼は帝国の兵士になれた。彼には兵士の適性のようなものがあった。筋が良く、また熱心に稽古をするので腕前も早くあがり、数年でかなりの場所までのぼりつめた。獣人としては破格の扱いを受けたといえる。
最終的に彼は赤銅軍に配置され、戦火の火ぶたが切られてからは、アデルフォス将軍の屋敷に常駐するようになった。
そして、ついに彼はセレナを見つけた――。

「中庭の美少女を見たか?」
「ああ。あんなに美しいひとは見たことがない。輝くばかりの美貌、というのはああいうのを言うんだな。ただ歩くだけで、あたりに光がこぼれるみたいだ。淡い金いろの髪、つぶらな薄青の瞳――どの国の王女だって、あそこまできれいじゃないだろう」
「しかし、あれでも軍人なんだっていうぜ。いったいどこの隊にいるんだろう」
「えっ、あんなにあどけない、頼りないようなひとが軍人だって! そんな馬鹿な」
下働きの男達の噂を聞いた瞬間、ジャジュカの胸は喜びで張り裂けそうになった。
「セレナ……セレナだ!」
屋敷の中を駈けるようにして中庭へ向かう。
「ああ、ついにセレナに逢える日が来たんだ。本当に来たんだ」
今日は待機の日なので、兵士の服ではない。だが、甲冑で彼女をおびえさせることもない。彼女は立派な騎士よりも、側にいてくれる獣人を選ぶ子どもだ。
中庭に出た彼は、自分の目を何度も瞬かせた。
「ああ!」
そこに、本物のセレナが立っていた。
子供らしさはすっかり消えて、女らしくなっている。髪も短くされているし、ずいぶんと身長もある。
だが、間違いない。
あれはセレナだ。
彼はそのまま庭へ飛び出そうとしたが、将軍達の会話が聞こえてきたので、思わず足をとめた。
「ディランドゥ・アルバタゥが、あんなはかない姿になってしまうとはな……」
ジャジュカは耳を疑った。
なんだって?
ディランドゥだって?
セレナが例の、残忍無比という噂の剣士だというのか。
竜撃隊などという一個隊を率いて、いい気になっている狂少年だと。
「少年ではなかったのか」
「いや、少女なのはともかく、顔まで変わってしまっているぞ」
「おそらくは魔導士達の仕業だろう。しかし、それにしてもな……」
中庭の続きの間で、アデルフォス以下の将軍達は集まって話をしていた。現在の戦況の異常さに、彼らは対処の方法を考えていたのだ。ドルンカークは信頼に値する英知ある皇帝だと思われているが、いざ戦争、となると不可解な指示を出す時がある。戦いのプロとしてある程度のキャリアを経た彼らにしてみれば、承伏しかねる事態を手をこまねいて眺めている訳にはいかない。
アデルフォスが大きく嘆息した。
「落ち着くまで、適当な世話係をつけなければなるまい。竜撃隊は全滅したし、いつ元のディランドゥに戻るかしれん。だが……」
ジャジュカは、将軍達のいる部屋の扉を叩いた。
「どうした」
アデルフォス将軍は軽く眉をひそめた。ジャジュカは軽く会釈をし、
「立ち聞きをして申し訳ありません。ディランドゥ様の世話係を、私にさせていただけませんか」
慎ましく申し出る。アデルフォスは彼をとがめこそしなかったが、さらに首を傾げた。
「ジャジュカか。……だが、おまえは兵士だろう。世話係など、そんな下の者がやることを」
彼は伏せていた目をあげた。
「かつては私も兵士ではありませんでした。それに、私なら戦場までついてゆくことができます」
「そうか」
アデルフォス将軍は、ふむ、とジャジュカを見直した。彼はこの兵士をかっていた。人柄という意味でも、腕前という意味でも、比較的まともであるからだ。
彼は重々しくうなずいた。
「なら、しばらく側にいてやるとよい」
「……ありがとうございます」
ジャジュカは低い声で慇懃な礼をすると、静かに部屋を出た。
本当は今すぐにでも飛びつきたいほどだが、人目もある。彼はゆっくりとした足取りで中庭へ出ていった。
《これが、ディランドゥ・アルバタウなのか》
Dで始まる名を持つ少年の戦場での噂は、あまりいいものではなかった。唯一の誉め言葉は、その剣士が本当に強い、ということだけだ。剣の腕は相当で、ガイメレフを操って無敵――それはしかし、心優しい少女にとっては、百害あって一利なしの噂である。
《魔導士共め。セレナにいったい何をしたんだ》
だが、彼の怒りは、少女に近づくにつれて、急速に静まっていった。
《それにしても、なんと……》
セレナは、本当に美しく成長していた。単純なうすみずいろのドレスをつけただけの姿なのに、この貴婦人の前にかしずいていられるだけで、どんなに幸せかと思えるほどに。
ああ、セレナは私を覚えてくれているだろうか。
少女は、柔らかな光のさす中庭で、黙って花を見つめていた。自分が手折った花の葉に、かたつむりが乗っているのを眺めている。そこだけ時がとまっているような、静寂の風景だ。
「……あ!」
だが、うんと近くに寄ったジャジュカは、不意に少女の瞳のうつろさに気付いた。彼女のおっとりとした仕草は貴族のそれでなく、放心状態であるのを見てとった。
彼女の口が大きく開き、葉に近づいた瞬間、ジャジュカは思わず少女の手を押さえた。
「?」
少女はぼんやりとジャジュカを見上げた。
いけません、とは言えなかった。
言葉が出てこず、だまって首を振った。
彼女が狂気の発作を起こし、かたつむりを食べようとしたのは明らかだった。
ひもじい時でさえ、誰かが一緒にいなければ食事もとれなかったあの少女が、殺戮を好む獣のように、動いているものをむさぼり喰おうとするとは。
《なんということだ》
あの魔導士達が、セレナをこんなにしてしまったのか。
セレナは元に戻れるのか。
ジャジュカは、熱い思いをこめて、少女の瞳をのぞきこんだ。
少女はすこし怪訝そうだが、獣人の顔を見つめ続けている。
最初にあった時とは違う。だが、あまりに無防備なその表情は、彼の魂を揺さぶった。
《違う。俺が元に戻してやらなければいけないのだ。戦火の最中に逃がしてやるなり、方法はある筈だ。こうしてやっとめぐりあえたのだ、俺がセレナを守ってやらなければならない》
そう決意しながら、少女の手をいつまでも握りしめていた。

「いったいドルンカーク様は、何を考えていらっしゃるのか」
ディランドゥの直属の上司であるアデルフォス将軍は、二人の様子を見ながら、しばらく自分の考えにふけっていた。
あれを、あのまま使ってもいいものか。
少女だったのが、わかってもか。
いや、女だろうと強ければ問題はない。しかしあれは――。
魔導士達の人体実験の噂はきいたことがある。彼の部下には、ディランドゥよりも異常な性格の者がいた。それらは皆、魔導士達の推薦を受けた者、連中に連れられてやってきた者だ。
《噂は、単なる噂ではなかったか……それで、この儂に、人格を改造された兵士を使いこなせ、というのか》
しかし、ディランドゥを戦で使えないのは辛い。
なんといっても、あの少年は使えるのだ。戦場での彼の判断力は的確だ。やり方はどうあれ、戦果は確実にあげてくる。
《しかたがない。あの獣人にまかせよう》
ジャジュカの前で少しでも落ち着くようなら、あれを本当にディランドゥ付きにしてやろう。どうせ、竜撃隊の腕前も大したことはなかったのだ。ほぼディランドゥ一人の力で持たせていたのだから、これからつける部下は一人でも構うまい。
《せめて、あの二人に新型のオレアデスでもつけてやろう。そのぐらいしか、儂にしてやれることはない》
そう考えると、集まっていた他の将軍達に向き直った。
「しかるに、次の進軍だが――」
何事もなかったように話を始めた。

最終決戦、間近。
浮遊要塞ディレイトの中で、ディランドゥは再び、殺戮の騎士として目覚めた。
魔導士達の洗脳は強力で、こうして戦場に近づくと、ディランドゥとしての人格がよみがってくるのだ。
完全に男の姿に変化し、甲冑をつけて椅子にまどろむ彼は、暗い部屋にいる自分にふと気付いた。
「皆はどこにいった……シェスタは……ミゲルは……ダレット、ガァディ、ギメルは……」
部屋の隅に控えていたジャジュカが、すい、と顔を上げた。
「皆、もうおりません」
「いない……?」
ディランドゥの甲高い声が虚ろに響いた。視線もよく定まらない。
ジャジュカの胸は強く痛んだ。
こんなにやつれて。
やはり、この子は戦場になど向いていないのだ。
しかも、ディランドゥの部下達十数名は、先の戦いでバァン・ファーネルに全員殺されてしまっている。エスカフローネ一騎にやられたのだ。彼が育ててきた少年兵士達は全滅している――つまり彼は今、ひとりなのだ。
「皆はもうおりません。しかし、私がおります」
ジャジュカが低い声で答えると、ディランドゥはようやく彼に目をあてた。
「そうか。……おまえが、いてくれるのか」
「はい」
答えながら、ジャジュカは心を決めなおしていた。
命を惜しむまい。これが最後の機会なのだ。一緒にいられれば、忌まわしい束縛をとく術が見つかるかもしれない。この娘を救える、ただ一度きりのチャンスなのだ。たとえ死ぬことになっても、彼女を救う。
おそらく、そんなものは自己満足だ、と人は笑うだろう。
だが、それでも少しも構いはしない。自分が死んだからと言って、泣いてくれるような者はどこにもいない。獣人としての人生をそのまままっとうしたとしても、晴れがましい日などこない。
だがもし、セレナが俺を思いだして、一滴でも涙を流してくれるなら――。
「私はいつまでも、ディランドゥ様のただ一人の部下です」
「そうか」
ディランドゥの瞳には相変わらず生気がなく、ジャジュカの言葉をあまり信じていないように見えた。だが、それでジャジュカは充分満足だった。どうせ俺はこの少女には不釣合いなのだ、最初から相手にされるなどとは思っていない。
このひとのために死ねる。同じ機体、オレアデスにのって戦える。
セレナ。
俺の――セレナ。
心の中でそう呼び掛けて、いつまでも側に控えていた。

誓いは遠からず果たされた。
ジャジュカは戦場で、ディランドゥをかばって死んだ。
そしてセレナの意識をとり戻した彼女は、兄の元に戻った。
しかし、彼女は自分がセレナに戻る事など望んではいなかった。
いや、戻る事はともかく、そのためにジャジュカの命をあがなおうとは――そのために彼が死ぬのであれば、ずっと自分がディランドゥであっても構わなかったろう。
少なくとも彼は、彼女が必要とする時に、側にいてくれたのだから。
闇の中に一人、おきざりにはしなかったのだから。

3.フォルケン・ファーネル

その男は通信室の楕円形のスクリーンの前に立つと、軽く手をあげてスイッチを入れた。彼――ザイバッハ帝国最高位の魔導士、かつ軍師であるフォルケン・ファーネルは、スクリーンヴィジョンに、自分が立案した新たな侵攻計画が描かれるのを黙って見つめていた。
いよいよ、ファーネリアを焼く。
ザイバッハ帝国皇帝、ドルンカークの勅命を受けて、この国を壊滅させる。
「……ふ」
フォルケンの頬に、かすかな微笑みが浮かんだ。それは冷たい微笑でなはく、むしろ自嘲の笑みだった。
「祖国を滅ぼす計画だというのに、何の感慨も湧かないとはな」
山深く、それゆえ土着の野蛮な習慣を残す国、ファーネリア。
侍などという古めかしい名称を持つ、山賊あがりの貴族しかいない小国。
争い事以外に関しては、すべて質素で統制がとれている、と言えば聞こえもいいが、実際は開けた土地もなくただ貧しいだけだ。王族といえども、平民のようななりをして暮らす。絢爛な学問も文化もない。
戦士というよりもむしろ学者肌のフォルケンは、ファーネリアの第一王子として生まれおちたが、それは彼にとってはあまり幸せなことではなかった。王としての継承権を得るために、竜の洞窟をたずね、何の害もなさないその生き物を殺さねばならないというその運命も、彼にはなるべく避けたい蛮行としかうつらなかった。
「そんな形だけの事を、何故しなければならないのだ? 生涯に一度の竜退治など、戦の役にはたたない。竜と争ってなんとなる。まして、これからは戦の時代でもあるまい」
齢十五にして、彼はそんな事を考えていた。それに元々、彼は自分の両肩にかけられた重責に耐えられるほど、強靭な精神の持ち主ではなかった。父王ゴオウが亡くなり、幼すぎる弟をかかえて慎ましく暮らす彼は、ただすべての平穏を願っていた。外見こそ大人びていたし、長子の自覚も充分にあったが、当時は彼もまだ子供だった。その上、竜神人とのハーフ、羽根を持つ少年という、不可解な色眼鏡をかけられて、繊細な神経は更に傷つけられていた。
だが、《竜退治の儀》は問答無用でやってきた。彼は周囲の圧力に負け、竜の巣の森へ出発ねばならなかった。そして、とどめを刺すことをためらい、手傷を負った竜に反対に襲われて、かなりの深手を受けた。
「ああ、死ぬのか……こんなことで……」
本当に、エスカフローネというガイメレフに、ただの戦闘機械に、命をかけるだけの価値があるのだろうか。
そんな疑問を微かに脳裏に浮かべたが、右肩に受けた激しい痛みと熱が、すぐに彼の意識を失わせた。

「これは……そんな……馬鹿な!」
ザイバッハ帝国で目覚めた彼は、自分が右腕をそっくり失った事を知って絶叫した。
彼の右腕は剣を使う腕だ。剣をもつ腕はファーネリアの王位の象徴でもある。彼は腕と共に、自分の地位を失ってしまったのだ。
いや、地位などに未練はなかった。務めを果たせなかった事は悔やまれたが、彼は自分がもともと王に向いた人間でないと自覚していたからだ。むしろ、腕を失う運命に追い込んだ王位のあり方そのものの方がおかしいという思想は残っていたが。
彼は、ひどく混乱していた。
人間らしい優しい気持ちや、正義を愛する心は失われていた。
それは、酷い怪我によるショックもあったが、実はそこには与えられた鎮静剤の危険な効果もあった。
彼に精巧な義手をとりつけ、自ら親身な看護をほどこしたザイバッハ皇帝ドルンカークは、この少年が使えると踏んだのである。ただでさえ、人口の少ないガイア界である。この歳にして、これだけの体躯と知性をもった者は兵士でなくとも充分に使える。
一種の虚脱状態にあったフォルケンに、ドルンカークは繰り返しこう囁いた。
「運命は、人の手で変えられるものだ。私とともにあれば、全ての人間を幸福にできる」
「ドルンカーク様」
「いつまでもこのザイバッハにいて、私の望みの手伝いをしてはくれまいか」
その言葉が、フォルケンの魂に触れた。
今更ファーネリアに戻る気もなかった。戻った処で、竜退治に失敗した自分に、何ができる訳でもない。国に対しても、幼い弟に対しても。
それだけでない、ドルンカークのとく《運命改変装置》という機械の理想にも不思議な魅力が感じられた。自分の中に渦巻く複雑な感情を、機械で整理し、よりよい形にできるのなら、それはどんなに素晴らしいことだろう。すべて争い、憎しみあう人々が、それによって楽になるのなら――いや、ただ未来の予測が出来るだけでもすごいことだ。
「いつまでもここにおります。もし、ドルンカーク様が、それをお望みならば」
そんな風にして、彼はザイバッハ皇帝の甘言にからめとられてしまった。それと同時に、右腕と自然な感情と愛すべき祖国を失った。
ファーネリア王子、フォルケン・ラクール・デ・ファーネルは、その日から名字を捨て、ただフォルケンと名乗った。必要とあればミドルネームを姓名として使った。
そうして彼は、帝国の若き魔導士として新しい人生を歩み出したのだ。彼の知的な才能は剣士としてのそれよりすぐれ、兵士数を補う様々な化学兵器を創り出す彼はいつしか、新たに軍師の地位を得るまでになったのである。
だが、しかし。
こうして、祖国を侵攻する日がこようとは。
その上、皮肉にも自分が乗る筈だったエスカフローネを、敵国の人間として奪うことになろうとは。
「今更な感傷だ」
フォルケンの悲しみはむしろ、祖国の滅亡の予感よりも、自分が何の感情もおぼえないところからきていた。しかし、それも今では淡い悲しみでしかなかった。まるで、自分の腕だけでなく、全身が機械になってしまったような気がした。
いや。
それでも構わない。
どうせ私は、皇帝のよく動く片手に過ぎないのだから。
「四将軍にも、改めて話をつけておかねばなるまい」
ファーネリア近隣には、豊かな貿易国家アストリア公国や、デイダラス、チェザリオ、エグザルディア、バスラム等の小国がひしめいている。政治のバランスや駆け引きの問題もある。戦火はファーネリア一点だけに絞られるべきで、その攻撃が鮮やか、かつすみやかに行われなければならない。長びけば他国も反旗を翻してくる可能性が高い。戦火が自国に広がるのを恐れる国は武装を強化するだろうし、ファーネリアを一撃でやれなければ、ザイバッハの科学力おそるるに足らず、と驕る国も現れるかもしれず。
だからこれは、徹底的でなければならない。そして、統率は少しも乱れてはならない。犠牲を最小限にし、効果を最大限にしなければならない。
「最初はまず、赤銅軍将軍、アデルフォス・ゲイン――」
彼は、四将軍の中でアデルフォスを一番苦手としていた。性格的に相容れないところがある。古典的な父親を思わせるその落ち着きぶりは美しいほどだが、武人のくせに意外なほど情深い発言をするのが、フォルケンにはかえって不可解だった。
だからこそ、最初に片付けておこうとも考えた。彼さえ押さえられれば、ヘリオ、ゲディン、ゾディアら残りの三将軍は、おそるるに足りない。
「礼を失しないよう、呼びつけるのでなく、こちらからたずねよう」
スクリーンのスイッチを切ると、長套の裾を翻して通信室を離れた。

「ああ。軍師殿の方から、わざわざ出向いて下さるとは恐縮な」
「当然のことです、アデルフォス将軍」
フォルケンは深く頭を下げた。
謁見の間で彼を迎えたアデルフォスは、思わず苦い顔をした。
実を言うと、老将軍はこの若い軍師が苦手だった。清潔な雰囲気を漂わせ、ことさら腰を低くしているが、何を考えているのか今ひとつ掴みにくいのである。だから彼はこの青年を、したたかな策士と考えていた。感情を表さないのは、知を頼む性格の偏りだと。当然、二人の会話はさぐりあいになり、平行線をたどりがちになった。
だからこそ、彼らはなるべく端的に話をすすめようと努力した。
「ファーネリア討伐だが、エスカフローネ奪取の先兵には、ディランドゥ・アルバタウが適任かと……フォルケン殿はどう思われる」
フォルケンは、薄い口唇にいつもの謎めいた微笑を浮かべた。
「軍師とは名ばかり、私は一介の魔導士です。用兵の細部は、実戦に出る将軍達の判断の方が正しいでしょう。赤銅軍におまかせします」
「それならばよろしいが、フォルケン殿も実際ヴィワンで出撃されるのだし、直接に指揮をされるのだから」
ふと、将軍が何か思いついたように眉をあげた。
「……実物を御覧になられるか。ディランドゥは、今なら邸内で、部下に稽古をつけている筈」
「なるほど」
余計な手間を、と思いつつ、フォルケンは慎ましく目を伏せた。それで将軍の気がすむのなら、あながち無駄な時間でもあるまい。
「よろしければ、拝見させていただきます」
「うむ、その方が話もしやすいかもしれん」
アデルフォスは立ち上がった。フォルケンと二人で向いあっているよりも、第三者を交えた方が、気が楽になるように思われた。これはいいことを提案したと考えた。
そんな思惑も知らず、黒と暗紫の魔導士の長套をひきずって、フォルケンは将軍の後をついて歩いた。
鬼神、ディランドゥ・アルバタウ――か。
まあ、実物を見ておいても悪くはあるまい。たとえ、噂以下で失望したとしてもだ。
噂はその人間のイメージに付加価値をつける。ディランドゥという少年剣士もまた、様々な噂によって華々しく彩られていた。彼は昨年、十四にして初陣を飾り、敵将の首を持ち帰って、その若さにしてメレフを受領。鬼神と呼ばれるほどの凄腕の騎士だという。冴え冴えとした美貌の持ち主で、そのプライドもおそろしく高い。身近な少年兵士達をとりたてて、竜撃隊という名の一個小隊をこしらえているという。先年フォルケンが開発したステルスマントを帯びるその部隊は、戦場で新たな血を流し続けている。ディランドゥ専用に赤く塗られたガイメレフ、特注のアルセイデスに率いられて。
「本当だとすれば、立派なことだ」
フォルケンの微笑に皮肉の色が混じった。
噂には尾ひれがつくものだ。いくらそのディランドゥとやらがかなりの使い手と言われていても、そんなにたいしたことはなかろう。若い兵士が活躍するのは人手の不足に他ならない。だから、ただ戦意の鼓舞のためだけに、そんなカリスマを仕立てあげたのだろうと思っていた。ザイバッハのガイメレフは近隣諸国のどの国のものより優れている。流体金属を使った柔構造と、備えた武器のからくりめいた優秀さ。それを量産する力があるのだから、他の国は太刀打ちできない。謎のイスパーナ一族がファーネリアに与えた、エスカフローネの一体を除けば。
機体の性能は戦士の勇名をあげる。愚かしい事ではあるがそれは事実であるし、優れた機体があってこそ、人死にも少なくてすむ。
そんな思いにふけるフォルケンの前で、将軍がピタ、と足をとめた。
「……ああ、ここからでも見える」
吹き抜けの中庭が稽古の場になっているらしい。まがいものの剣が、ガン、と鈍い音をたてるのが聞こえてくる。
将軍は、右手をあげて呟いた。
「あれがディランドゥだ――銀の髪の、赤い鋭い瞳の剣士が」
「ああ!」
フォルケンは目をみはった。
強い。
銀の髪、などと余計な形容詞をつける必要はまるでなかった。その少年の強さはずば抜けていて間違えようがなかった。全身にみなぎる気迫。三人の少年兵士をいっぺんに相手しながら、少しもひるむところがない。いや、それどころか連中に対してだいぶ手加減をしている。時々《そこで打ち込め!》と鋭い声を上げて、及び腰の連中に指導さえつけていた。
「……あの少年、なのですか」
疑っているのではない、フォルケンの口唇から洩れたその声は感嘆を表すものだった。 将軍が微かにうなずく。
「ああでなければ、一個隊はまかせられない」
「確かに」
なるほどあれは真実強い。同じ年の人間は誰もかなうまい。いや、近隣の優れた騎士をすべて集めて戦わせてみても、あの少年に勝てる者は少なかろう。アルセイデスは優れた機体だが、あの少年なら、その機能を百にも二百にも活かすだろう。噂には少しも尾ひれはついていなかったのだ。
「あれは……なかなかの腕前だ。将軍が手づから剣を教えられたのですね」
感心したフォルケンは、笑みを思わずアデルフォスに向けた。だが、将軍は急に顔を曇らせた。
「いや。儂はディランドゥには……何も……」
言葉を曖昧に濁す。フォルケンは意外に思った。一目見ただけで、ディランドゥの優秀さはわかる。自分が育てたと威張っていい筈だし、あれだけの腕の少年に将軍が自ら稽古をつけていないというのも妙な話だ。
しかし、将軍の声はさらにぐぐもった。
「それに、あれでは闘いの鬼だ」
父親が、自分に似ていない息子の不品行に舌うちをするような顔をする。
「教えようと思った時もあったのだ、あの行いを矯正できるとも思った。魔導士連から連れてこられたばかりの頃はな。だが、あの血に飢えた魂は……」
「なるほど」
フォルケンは微笑の鎧の下で舌うちした。
なんと勝手な言い草だ。前線に出すなら、迷いのない兵士の方がいっそいい。だいたい、迷う心があればあったで、あれでは優しすぎる、兵士としては二級だ、などとそしるのだろう。どんなに優れた人材であっても、こういう輩の期待にはそえない事になっているのだ。つまらぬ期待をになう子供の、逃れがたい宿命として。
フォルケンは、稽古を続ける少年に再び視線を向けた。
あの全身にはりつめた気迫には、確かに鬼気せまるものがある。だが、血に飢えているというより、あれは誇りに満ちた顔だ。自分の強さを信じ、自分の目的を信じ、自分自身をかたく愛する少年――私にないものを、彼はすべて持っている。
「あの剣士……ディランドゥ・アルバタウをお預りするのに、私の方に異存はありません、アデルフォス将軍」
あの少年なら、余計な情緒を交えずに、私の膿みきった傷を焼いてくれるだろう。限りなく速やかに、そして鮮やかに迷いを断ち切ってくれるだろう。もし、まだ私に迷いというものがあるのなら。
傷?
迷い?
何の傷だ?
私は、本当に迷っているのか?
何故だ? 何をだ?
フォルケンが自分の過去を振り返ろうとした瞬間、アデルフォスが重い身体の底から、ため息に似た声を洩らした。
「フォルケン殿が承知ならば、こちらに異存があるわけがない。最初に申し出たのは儂の方なのだし、使われるのも軍師殿だ」
フォルケンはうなずいた。
「では、細部の詰めを致しましょう。よろしければ、場所を移して」
「これは失礼した。では、奥の部屋に」
二人は連れだって歩き出した。
その瞬間、チラ、とディランドゥがフォルケンを見た。誰かに見られているのを、先刻から意識していた。部下達の手前、それを露骨に出すのがためらわれて、気配が消える今になって、ようやくそちらを見たのだった。
だが、フォルケンはもうその片頬さえも、ディランドゥの方に残していなかった。彼はすでに、黙って消えていく影法師でしかなかった。
「なんだ、あれは?」
ディランドゥは、不意に稽古の手をとめて呟いた。その影法師が、妙に彼の心に残った。
今まで、ディランドゥを遠くから見つめるものは、多くあった。その視線の種類は二種類――ひどく熱っぽい、だが少しおびえたような心酔者の視線と、彼の残虐性に眉をひそめる良識ある者の視線のどちらかに限られていた。
だが、今の視線はそのどちらでもなかった。鋭い刃で自分の頬と首筋をそろりと撫でられたような冷たい眼差し――そのくせ、妙に胸を騒がすようなニュアンスもあった。
「今、あそこに居たのは誰だ?」
だが、竜撃隊隊員達は彼の問いに怪訝な顔をし、首をすくめた。彼らには、フォルケン達が見ていた事に気付く余裕はなかった。ディランドゥの気がそれていたことさえわからない程だったのだから。
「まあいい。おまえ達、続けるぞ!」
彼は剣を再び振り上げながら、うろたえる部下に叱咤の声を浴びせはじめた。

ファーネリア出陣の日、ディランドゥは初めてフォルケンに出会った。
この軍師は決して、全軍の前に立たなかった。巨大浮遊要塞・ヴィワンの通信作戦室に一人籠って、指令を下す。
しかし、ディランドゥだけは勅命と称して、仮の作戦室に呼ばれた。
「ザイバッハの誉れ高き剣士、ディランドゥ・アルバタウ。私が軍師フォルケンだ」
形式的な挨拶をすませると、フォルケンは明るんだ通信スクリーンの前に立ち、作戦の説明を淡々と始めた。
「竜撃隊は、赤銅軍から独立して王宮を叩く。このようにだ。エスカフローネの力は未知数だが、操縦する者はまだ熟練を経ていない。ゆえに、こちらに分がある。アルセイデスの能力をもってすれば、充分に……」
ディランドゥは、黒衣の広い背をじっとにらんでいた。
肝心の作戦行動は、ろくに頭に入ってこなかった。それは少年の傲慢さのせいではない、ただフォルケンという存在に対する、強い興味ゆえだった。
《なんなんだ、この威圧感は。若い軍師とかいうから、ガチガチの理屈野郎だと思ってたのに、こいつは違うぞ》
ディランドゥは、内心舌うちした。
今までどんな大人に対しても、かなわないという感じを受けたことはない。だが、兄といってもよいようなこの若い男は、背後からいきなり切りかかったとしても、殺せない気がする。油断や隙がどこにもないように思われる。
《そんなことがあるものか。結局ただの軍師じゃないか。じじい共がやるような魔導士の仕事についてる男が、そんなに強い訳がない》
しかし、フォルケンという男は、ディランドゥが魔導士や軍師に持っていたイメージをほとんど裏切っていた。魔導士というのは陰険姑息、力もなくひがんだ年寄りであり、研究などと称して怪しい策謀をめぐらす嫌らしいような連中で、一人では何もできないので、しょっちゅう寄り集まってはコソコソけしからん話をしているもの、と思っていた。
しかし、このフォルケンとやらはどうだ。
感情を表に出さないその表情の清潔さは、ディランドゥが知っている魔導士達からあまりにかけ離れている。
そこらの剣士よりも、すらりと高くまっすぐな上背。
若いのに、低く趣きのある声音。
微かな憂いを秘めた仕草で、静かに淡々と殺戮戦闘を語る――。
いや。
このくらいの人材ならば、ザイバッハ帝国には沢山いる筈だ。優れた剣士も知に勝った者も。フォルケンだけがずば抜けているとは思えない。
《それなら、なぜ逆らいがたく感じるんだ》
その感じは、子供が剣の師や育ての親に背きにくいという気持ちに似ていた。
《何故だ》
それとも、若くして秀でるというのは、こういうことなのだろうか。誰にも圧されない風格を持つということ、それが人の上に立つ資格なのか。
ふと、フォルケンが視線をこちらにふり向けた。
「どうか、したのか」
フォルケンはディランドゥの感慨に気付いていなかった。彼の風格は王族に生まれ落ちたもののそれであり、その挙作はザイバッハにおける文化やしきたりで、さらに磨かれていた。当人にとっては当たり前の事なので、相手に与え得る効果については意外に判っていないようだ。
相手の眼差しに少々ひるみながら、ディランドゥはこう答えた。
「以前、どこかであったことがないか?」
少年は別に、部下に稽古をつけていた時の視線を思いだした訳ではなかった。ただ、妙に懐かしいような感じ――その感覚とインスピレーションで尋ねたのだ。
するとフォルケンは、ごく親しいものに秘密を教えるような笑みを、少しだけその白い頬に浮かべた。
「あったことは、ない……」
彼の微笑みも無理からぬ事だった。目の前にいるのは、自尊心が強く、人の話などろくにきかないときかされていた、戦いの鬼である剣士の筈だ。それが、個人的な興味を持って自分に語りかけるとは。まるで素直な子供のような――いや、やはり子供なのだな、と微笑まざるを得なかった。
「あったことは、ない?」
ディランドゥは馬鹿にされたような気がして、思わず露骨に顔をしかめた。
フォルケンは、優しい瞳でそれをたしなめる。
「なくとも噂はきいている。だから、初めて話をするような気がしないのだ」
「ち」
ディランドゥは口唇を噛んだ。
そうなのだろうか。それだけなのだろうか。
それだけで、こんな威圧感や懐かしみを感じるのだろうか。
納得がいかないので、相手をにらみながらせいぜい憎まれ口を叩く。
「そっちはそうでも、僕の方は軍師殿の噂はあまりきかないよ」
「軍師殿、か」
フォルケンは少年の舌たらずさが気にいったのか、一度口の中で繰り返した。
「それでもいいが、堅苦しいと思えば、呼び捨てても構わない。誰がきいている訳でもないし、私はディランドゥと呼ぶが」
少年はへそを曲げた。
「勝手に呼んでくれ。こっちは呼び捨てたりはしない。仮にも軍師殿だ、フォルケンなどとは恐れ多い」
「そうか。それならいいが」
フォルケンは何事もなかったように作戦計画のおさらいを始め、注意すべき部分をもう一度だけ言い含めた。押し付けがましい口調ではなく、くれぐれも頼むという形であったが、明らかに先ほどまでのディランドゥは上の空で何も聞いていなかったろう、と難じているらしい。
「……ふん」
普段の彼なら《しつこい!》と叫んで途中で出ていったかもしれないが、その日は最後まで我慢した。心の裏側まで見透かされているような気がして、どうも調子がでない。怖い、恐ろしいという訳でもないのに――。
その日から、ディランドゥは、たった一人だけ頭の上がらない相手が出来てしまった。
戦場へ出ては負け知らずの彼が、どうしても手強く思う相手が。

4.竜撃隊

その夜、ディランドゥは浮遊要塞・ヴィワンの中にある寝所の中で、いつまでも寝返りをうっていた。
眠れない。
いや、眠れないだけではない。
頭の中を恐ろしいスピードで嫌な思考がめぐっている。赤い火花が散り、闇のいろをした巨大な怪物が何匹も、悪夢のように彼を襲ってくる。
「誰か、誰か……助けてくれ……」
発作めく苦しさに、彼はひたすらにもがいた。
「ミゲル……何故……」
この発作には訳があった。
その日、彼の部下が一人死んでいた。
作戦行動中の事だったし、ある程度は仕方のないことだと言えた。敵国の人質になっていたのだ、もっと早くに殺されていた可能性もあった。
「だが、あいつだって、味方に殺される必要はない……」
フォルケンの放ったスパイであるゾンギが、捕虜のミゲルから今回の作戦の秘密が洩れるのを恐れて、敵国中で殺害したのである。ある意味的確な判断だったともいえる。ディランドゥだとて、ミゲルから機密が洩れるのは嬉しいことではない。
だが、絶対に殺されなければならなかったのだろうか、ミゲルは。
その疑問が、夜一人になった時に急にディランドゥの胸に迫ってきたのである。
ミゲルを特別可愛がっていた訳ではない。別に強くもなかったし、特に気のきいた男でもなかった。おどおどとこちらを窺う瞳のいじらしさはともかく。
「何故、こんなにつらい……ミゲルはそんなに大切ではなかった……」
だが、普段は大した存在でないと思っていても、竜撃隊の隊員は皆、ディランドゥが手塩にかけて育ててきたものだ。彼らは、ディランドゥの腕と人柄を慕って、よくいうことをきいた。だからどんなに頼りない者も、ある意味家族同然に扱ってきた。だから、こうして一人でも失ってみると、そのかけがえのなさが骨身に染みる。人格改造の手術を受け、危ういところで保たれている彼の精神のバランスを崩すには、充分なショックといえた。
「駄目だ」
どうしても横になっていられない彼は、ついに寝所を出た。
「誰か……誰かいないか……」
このまま一人でいては、本当に気が狂ってしまう。
そう思った彼は、ヴィワンの廊下を歩き始めた。
しかし、隊員達の部屋へゆくのはためらわれた。動揺している今の姿を、部下達にはみせたくない。大広間か厨房にでも行って、少し休んで考えようと思った。
だが、その前に彼は、一人の男が廊下の窓辺に立っているのを見つけてしまった。
そして相手も、少年を見つけた。
「ディランドゥ。寝着のままでどうしたのだ」
その声を聞いた途端、少年は男に駆け寄った。
「側にいてくれ。一人に、しないでくれ」
ああ、まだフォルケンの方が、隊員達よりましだ。第一、この男が使ったまやかし人が、勝手にミゲルを殺したのだ。責任をとってもらわなければならない。
頭の中でそんな理屈を考えながら、身体の方は勝手にフォルケンにすがりついていた。
「頼む。今だけ一緒にいてくれ。……抱いていてくれ」
フォルケンは驚いた。
こんな動揺を露わにしているディランドゥを見るのは初めてだ。しかも少年の声は掠れ、その身体は欲情しているかのようにこすりつけられてくる。
思わず彼は、少年の顎を捕らえて軽く口唇を奪った。
少年は一瞬身を硬くしたが、すぐにも相手の口唇を強くむさぼりはじめた。そうすることで不安が少しでも紛れたらしく、互いの息が続く限りその口吻は続いた。
ようやく顔が離れると、フォルケンは改めて少年の美貌をまじまじと見おろした。
「……知らなかった。竜撃隊隊長が私に気があったとは」
「気がある?」
ディランドゥは息も整わない有様ながら、軍師をぐっとにらみかえす。
「そういう意味じゃない。別におまえを愛している訳じゃない。おまえに愛されたい訳でもない。愛なんて……いらない。誰の愛もいらない!」
少年の大きな瞳に涙が浮いた。
「信じられるものか。愛してると言って、みんな、みんな、僕を置いていった……父様は消えた。母様も僕を遠ざけた。兄様は必ず帰ってくるといいながら、夜は僕を置いていった……どうしてみんな、僕を置いていったんだ……どうして」
これは驚くべきことだった。セレナの記憶がディランドゥの人格の中に蘇り、混乱をきたしているのだ。本人は、自分が何を口走っているのか、よくわかっていない。相手が誰かもよくわかっていない程、彼の神経は迷走状態だった。
だが、フォルケンの方は惑いはしなかった。この少年の生い立ちをよく知らなかったし、そんなことにはたいして興味も湧かなかった。だから、そんなものかと思いながら、黙ってきいていた。
「もう、置いていかれるのは嫌だ。兄様だけは、信じていたのに……」
「ああ」
ふと、幼い弟の事が、フォルケンの頭の隅をかすめた。
そう、私もバァンを置いてきたのではなかったか。
《だいぶ、違うがな》
バァンは心の優しい子だった。国の定めとはいえ、恐ろしい竜を殺すことさえ厭うほど。
戦にあって鬼神と呼ばれ、血の快楽を求めるこの少年とは違うだろう。
いや。
私の方がディランドゥよりもはるかに残酷な人間ではないか。
バァンを残してきた上に、祖国を焼き、危険な目に遭わせた上に、まだ追いつめようとしているのだ。私の方が、いっそ鬼畜と罵られるべきだろう。
フォルケンの胸の中で、ディランドゥはまだ震えていた。
「一緒にいてくれ。それだけで、いい……何をしてもいいから、夜の間中一緒にいてくれればいいんだ」
彼は今、確実になんらかの庇護を必要としている。この少年もまた、弱く幼い存在なのだ。こんな哀願を、恋人でも友人でもない相手にしなければならない、寂しい子供なのだ。
自分に何ができるだろう。
もし、愛で縛るのでないなら、優しさだけなら、与えることが出来るだろうか。
いや、きれいごとは言うまい。あのつたないような口吻を、もう一度だけ味わってみたい。それだけのことだ。
フォルケンは、低く静かに囁いた。
「では私は、今夜一晩中ディランドゥと一緒に居て、愛でなく快楽を約束しよう」
その瞬間、ディランドゥは我に帰った。齢十五の不敵さを取り戻す。
「ふん。できるのか」
「どうかな……とりあえず、試してみる気があるかだが」
そう言いながら、フォルケンの長套がディランドゥを優しく押し包んだ。
少年は身を一瞬硬くし、小さな声で呟いた。
「……いい」
「いい?」
フォルケンは微かに眉を寄せた。承諾の返事にしては、言い方が妙だ。すると、少年はフォルケンの胸に身を押し付けて、さらに声を小さくした。
「容赦しなくて、いい。憐れまれるのは……厭だ」
「ディランドゥ」
なんという可憐さ――いじらしさだ。
錯乱の中にも、自分を失うまいとしている。
不意にわきあがった愛おしさに胸を突かれ、フォルケンは少年を強く抱きしめた。
「憐れみで抱いたりはしない。それに、辛くさせるようなことも、しない」
「フォルケン……」
少年は、自ら崩れ落ちた。
フォルケンはその身体をさらうように抱えると、少年の寝所へ押し入って、ベッドへ運び込んだ。

「ああっ……駄目だっ」
しなやかな躰が弓なりに反る。頂点に達する直前の、全身の緊張。
「まだだ……もっと良くなる……もう少し堪えるんだな……」
フォルケンは、愛撫の手をやや緩めた。やめるのではない。刺激を軽くし、分散させ、爆発までの時間を先に伸ばしただけだ。
「うんっ……あっ」
もっと焦らしてみたい。
この甘いうめき声を、できるだけ長く聞いていたい。少年が我慢できる、そのギリギリまで。
「許して……もう、許してぇっっ……!」
敏感な肌は、もう限りなく限界に近づいている。義手の端に触れられただけでのたうつほどだ。体躯こそ一人前だが、幼いような少年の悶えは、見ているものを苦しくさせるほどだ。それ以上の手管を加えるのが気の毒なくらいに。
「ディランドゥ……」
溢れ出す少年の涙を舌先でぬぐいながら、フォルケンは奇妙なサディズムを感じていた。
汚したい。
ひどく虐めて、何度でも悲鳴をあげさせたい。
いや。
元々そんなつもりはなかった。
そう、愛おしさを感じている。柔らかな肌に触れる心地良さも。だから、自分の躰を少年の中へ埋め込むつもりはなかった。たとえ指の一本でも。
しかし、こうして少年の中心をもてあそんでいるうちに、フォルケンは少年の躰の中身を味わってみたくなってきていた。辛い思いはさせない、と約束したことが、かえって今、彼の情欲に火をつけていた。片腕は機械仕掛け、天使の羽根を持ち、魔導士として行いすましてきた彼だが、それでもまだ若い男だ。欲望は人並みにあり、時にはコントロールもきかない。
少年の喘ぐ声は切なく、従順になった口調はさらに哀れをそそる。
「厭……もう、もう……」
「もう、なんだ?」
ひたすらにかぶりを振るディランドゥ。
「いっそ、入れて……貴方の好きにして……」
哀願の声に、フォルケンの動きが一瞬止まった。
「言っている意味が、わかっているのか」
「その方が貴方も楽でしょう……僕は……もう……」
解放されたがっている。
どうやら苦しめすぎたようだ。
フォルケンは我に帰ると、少年から身を離した。
「すまない。もう、やめてもいいのだ」
「駄目……だっ」
少年の口唇からは叫ぶような掠れ声が洩れ、かえって彼に強くしがみついてきた。
ああ。
望まれているのか、欲望を。
フォルケンは、少年の足を思い切って大きく押し開いた。
左の人差し指をあて、少年の狭い洞窟をゆっくりと緩め始めた。
「力を抜け……ただ、感じていればいい……快楽というものは、それだけのことだ……」
そう、愛でないものをフォルケンはねじ込んだ。
そして、一気に動かす。
注ぎ込む。
「くっ」
興奮はすぐには去らなかった。
フォルケンはとりつかれたように、二度三度と少年を犯し続けた。
「あっ……んっ」
男の熱を流し込まれ、何度も突き上げられて、ディランドゥの叫び声は続いた。だが、その悲鳴は、いつしか甘い喘ぎに変わった。激しく打ち込まれることが、まるで得難い喜びであるかのように、細やかに反応してフォルケンを包んだ。
「続けて……続けて……お兄、様……」
お兄様。
短い呼吸の合間合間に、ディランドゥは確かにそう言った。
フォルケンは、その声をききとがめはしなかった。鋭く反応しては締めつけてくる瑞々しい身体に、文字通り溺れた。
その夜だけは、彼も、我を忘れた。

腰が抜けてしまい、立ち上がろうとしても膝に力が入らない。
「くっ」
震える足を抱えて、ディランドゥは悔やんだ。
こんな筈ではなかった。望んだのは一晩だけの安らぎで、自分が玩具にされることではなかった。
フォルケンもまた、自分のしたことに驚いていた。
こんなに激しく抱くつもりではなかった。
いざとなると手加減できないとは。もう少しで殺すところだった。
「こんな風に、するつもりはなかった……」
「気にするな」
ディランドゥは気丈にもそう言い切った。彼にもプライドがある。ここで哀れまれた日には、かえって救われない。
「好きにしろ、と言ったのはこっちだ。それに、愛などときれいごとを並べずに抱いてくれたのはおまえだけだからな」
なるほど、とフォルケンは腑におちた。
あれが初めてではなかったのだな、鋭い反応は、すでにもう何度も誰かの愛撫を受けていたからなのか、と。今までの相手は、おそらく親衛隊員達あたりなのだろう。彼らは全員ディランドゥに心酔している。もし寝所に呼ばれたなら、それをどれだけ光栄に思うだろう。愛しています、貴方のためなら何でもいたします、と繰り返し囁きながら彼に触れただろう。無理からぬ話だ。
「そう、あれでいいんだ。哀れみの瞳は、もういらない」
ああ。
誇り高きディランドゥ、というのはこれを言うのか。
フォルケンは少年の身体を眺め下ろして、再び感心した。
こんな姿でいて、そう言い切れる者はまずいない。
竜撃隊の連中も気の毒に、と彼は思った。彼らはみな、この少年を気遣ったろう。そして、哀れむな、と罵られただろう。しかし彼らにどうしようがあるだろう。皆若く、精神もまだ弱く脆い。この少年を前にして、一歩ひかざるを得ないのは当然だ。眼差しの色が気に入らない、と殴られても、手も足も出ないだろう。
《らしくもない。そんな詮索をしてどうする》
いいではないか。
事情はどうあれ、この少年の一時の慰めになれたのなら。
「満足したのなら、それでいいが」
優しく髪に触れてやる。
するとディランドゥは身をひいて、刺すような視線でにらみかえす。
「勘違いするな。おまえを愛している訳じゃないと言ったろう。一度抱かれたからと言って、おまえのものになった訳じゃないからな」
昨晩は、ミゲルのことで取り乱しただけの話だ。隊員達にみっともない所をみられたくなかっただけの話だ。それだけの事だ。
フォルケンはうなずいた。
「わかっている。私もそんなつもりはない」
そう言いながら、彼の耳に昨晩のディランドゥの台詞がふとよみがえった。
《お兄様、もっと――》
あれは、なんだったのだろう。
もしかして、実の……兄を、か。
そうでなくとも、兄的な存在の身代りにされたか。
《それも余計な詮索だ》
嫉妬や軽蔑の気持ちは、不思議とおこらなかった。
そう、私はディランドゥを愛している訳ではない。こうして血のように全身をめぐるこの暖かい気持ちは、庇護欲――小さい、幼いものへの共感だ。
「ただ、少し手当てをさせてもらいたい。竜撃隊隊長をこんな目に遭わせたとしれたら、誰に何を言われるかわからないからな」
「……好きにしろ」
実際、まだよく動けないディランドゥには、他人の手が必要だった。
フォルケンは湯を使える小部屋に彼を抱えて入り、その全身を丁寧に洗った。身体を乾かした後、強張った筋肉を端からほぐしてやる。片手しか使わないので時間がかかるが、傷薬その他を塗り終わるまでに一時間程しかかからなかった。
服をつけてやろうとすると、ディランドゥの手が遮った。
「もういい。動ける。たいしたことじゃない」
「そうか」
フォルケンは手をひいた。しかし、誰かに何かをしてやる、というのは気持ちのよい行為だ。昨晩味わった身体に再び触れると、欲望の残り火がかきたてられて、つい、らしくない言葉を口にした。
「今まではしたのか、それとも、されたのか……」
ディランドゥは眉を逆立てた。
「どっちでもいいだろう」
不機嫌を煽られたので、思わず相手にくってかかる。
「どうしてそんな事を知りたがる。僕は軍師殿の昔の話に興味はないぞ」
「なるほど。一理あるな」
フォルケンはうなずいた。
そう、自分はこの少年に対して何の権利もない。ただ、軍の上司として命令が出来るだけだ。肌身を自由にすることも、精神を縛ることも、してはならないのだ。
躰の楽になったディランドゥは、美しさをひときわ増してフォルケンの前に立った。
「さて、そろそろ一人にしてもらいたいね。今日の出撃の準備をさせてもらいたんだがな。朝から部屋に軍師殿がいる、というのもおかしな話だし」
「それはそのとおりだ」
だが、そう答えながらも、フォルケンは少年から目がはなせなかった。そのりりしさに見とれていたのではない、新たな感慨に胸を打たれたからだ。
《もし私がこの年の頃に、これだけの矜持と強さがあったなら、ファーネリアの運命は変わっていただろうか》
いや。
すべて過去のことだ。
腕前や誇りの問題ではない。竜を殺すことすら厭う自分に、王位が継げた訳もない。魔導士の道を逃げだとも思わない。私はファーネリアにあれば、成年に達するまでに死んでいただろう。竜退治に行かずとも、古めかしいしきたりにくびり殺されるか、好奇の視線に窒息させられるか――そうでなくともやりたいこともやれず、生きた屍になっていたかもしれない。
それを考えれば、ディランドゥは決してかよわい者ではない。
一目おくべき、精神も身体も優れた剣士だ。
彼は少年から目をそらすと、長套をまとった。
「それでは私は退出しよう。軍師殿が邪魔をしたから、今日の作戦が失敗したと言われるのは困るからな」
「ふ。皮肉を言うなよ。言われたことは守るさ」
ディランドゥは鼻を鳴らした。かつてフォルケンの指示をきかず、バァンを襲った事を揶揄されているのがわかったからだ。
「皮肉のつもりはない。ただ、戦場というのは思いもよらぬことが起こる場所だ。リスクを少なくするのも軍師の仕事であるべきだろう」
言い捨てて、フォルケンはドアの前まで行った。
そこで足をとめると、振り向かずに何か呟いた。
「ミゲルのことはすまなかった。……の気持ちを考えずにいたことは」
そのまま部屋を出ていった。
ディランドゥは、烈火のごとく怒り出した。
「それで何もかも見通してるつもりなんだな! 僕がしおらしくなるとでも思ってるんだな! ただじゃすまさないぞ、貴様!」
どうしてあんな男のいいなりになったのだろう、と思うと悔しくてたまらなかった。頭があがらないと思っていたなんて自分でも信じられない。どうにか復讐してやろうと思った。一矢むくいなければ、どうにも気がすまない。
ディランドゥは刀を佩し、急に何かを思い付いてニヤ、と笑った。
「よし、まずはゾンギを殺してやろう。ミゲルの仇なんだし、あいつの仕事はとっくに終わってるんだ。戦場での殺しなら、あいつも文句は言えないだろう」
そう、こうやって好きにやればいいのだ。
フォルケンなど恐れるに足りない。
「軍師殿、もう僕を馬鹿にはさせないよ」
彼の怪しい笑い声は、部屋を出るまでのしばらくの間続いた。

しかし、ディランドゥのその計画は、思ったようにはすすまなかった。ゾンギ殺しこそ首尾よく果たしたが、その後の彼は竜撃隊の全滅という憂き目にあった。大きなショックを受けた彼は、戦士としての人格に崩壊を来し、一度首都の魔導士連の所へ戻された。
彼がディランドゥとして戦列に戻った頃には、かの軍師はすでにその地位を捨て、他国に亡命してしまっていた。そしてその国に急襲をかけた頃には、フォルケンはドルンカークと差し違えようとして絶命していた。いや、そうでなくともフォルケンは遠からず死んでいたらしい。人体実験の不備か、死病に冒されていたのかはわからないが、長くない生涯を察知していたようだ。
フォルケン自身は気付いていないかもしれないが、ディランドゥにしてみれば逃げられた、としかいいようがなかった。自分のやりたいように生き、死にたいように死に――しかも最後の瞬間、ディランドゥの事などチラとも考えなかった筈だ。
しかし、それはある意味正しかったのかもしれない。
ディランドゥはフォルケンに同情を求めなかった。フォルケンはディランドゥを愛していなかったし、同情も残せないとするなら、いったい何をすべきだったのか。
答――彼の生き方は、最初から最後まで正しかったのだ、おそらく。

5.ディランドゥ・アルバタウ

少年は、相手の裸の胸に触れて、その筋肉のつきかたをあたらめていた。
「この身体――本当は、騎士か侍か、とにかく剣を扱っていたんだろう? いったいどうして魔導士なんかに?」
「仕方がないのだ。この腕ではな」
男は重い義手を、ディランドゥの上に掲げた。
「いや、腕があったとしても、鍛えていなければ意味がない。兵士というのは、不断の訓練が必要なものだ。どんなに優れた軍隊でも、鍛錬を怠ればその力を失う。元々私は兵士に向いていなかったのだ、ディランドゥ。だから、やれることをやるしかなかった」
「フォルケン」
ディランドゥはシーツの上で身体を滑らせ、フォルケンにさらに寄り添った。
「それで魔導士に」
「ああ。しかし、魔導士の私のしたことと言えば――王子であること、兵士であることから逃れても、私は結局、なに一つなしえなかった。エリヤとナリアを殺したのもこの私だ。運命を変えるためといいながら、私を頼っていた彼女達を結局実験台にして殺したのだ。いくらドルンカークに操られていたせいとはいえ、戦の道具を造り続け、戦場で指揮をとり――弟を竜退治の運命からも逃れさせることができなかったし、祖国をすすんで焼いたのだ。涙ひとつこぼさずに」
しかし、そういうフォルケンの頬を、透明な光が滑り落ちた。
「そうか。私にも感情というものが残っていたのか。もう、すっかりなくしたと思っていた。ザイバッハへやってきた日に……最初の人体実験を始めた時に……エリヤとナリアを失った時に……ドルンカークを刺した時に……」
考えてみれば、フォルケンも犠牲者だ。心の闇を突かれ、ドルンカークにいいように弄ばれた。そういう意味では、ディランドゥと全く同じである。
「泣かないで……」
「優しいな、ディランドゥは……私のために泣いてくれるのか」
気付くと、少年も涙を流していた。
「だって……お兄様が泣いていると、私も悲しいんですもの」
「ディランドゥ」
「だから、泣かないで、お兄様……」

「うわあぁぁっっ!」
少女らしからぬ声をあげて、セレナは飛び起きた。
「何だ今のは。誰がお兄様だ。僕はどうしてあんな奴に……」
軍師殿にあんな風に甘えたり、同情したりするなんて。
信じられない。
確かにセレナは、ディランドゥでない時でも、フォルケンの激しい抱擁を思いだした時があった。
だが、あの晩、彼はある意味物のように扱われた。快楽がなかったといえば嘘になるが、後になって思い出すのは冷たさばかりだ。
「しかたない。きっとあいつは、誰に対してもああだった筈だ」
あの男は空っぽだった。誰も愛していなかった。身体の中に勝手な理想だけ描いていて、人間らしい暖かさを持っていなかった。
哀れ、といえばいえる。
本人自身、自分の魂の闇をどうしようもなかったのだろうから。
「だから、ひかれたのか」
その瞬間、セレナは理解した。
フォルケン・ファーネルは、ディランドゥ・アルバタウの同類だったのだと。
二人とも、無意識の場所で苦しんでいた。
同じ、精神の暗部を持っていた。
そして、賢くも愛し合わなかった。互いに、憐れみさえ抱かなかった。
だからこそ、二人は癒しあった。
フォルケンはいつまでも自分を追いかけて来る弟の面影をディランドゥに重ね、ディランドゥはいつまでも追いつけない天空の騎士である兄を重ねていた。理想の兄弟を見つめていた二人は、その時だけは孤独でなかった。優しい気持ちで闇をまぎらせることができた。触れ合わずとも、その場に一緒にいるだけで安らぎがあった。
ディランドゥがフォルケンに押さえられる感じがしたのはそのせいだ。彼は、セレナとディランドゥの二人共が求めた、幻の兄だったのだ。
初対面から懐かしさを覚えたのは、他の人間とは分けあえないものを分けあう、血のつながらない血族だったからなのだ。
そう、夜毎自分が求めていたのは、誰彼の肉体や寂しさを満たすものではない。激しい戦闘でも上っ面な優しさでもない。
ただ、フォルケンという存在そのものなのだ。
しかし、それに気付いた今、彼はすでにこの世の人ではない。
「最後までやってくれるよ、軍師殿」
この世にいないくせに、夜な夜な僕を苦しめにやってくるとは。
その時、セレナの部屋の扉を叩く音がした。
「セレナ……大丈夫か?」
いつもと違う種類の悲鳴をきいて、隣室のアレンが起きてきたのだ。もしかしてディランドゥに戻ってしまったのではという懸念から、刀を携えてのノックである。
「ええ。大丈夫」
「本当か?」
「ええ。あまり良くない夢を見ただけ。もう大丈夫よ」
「それならいいが……」
立ち去りかけて、アレンは再びドアの前に戻った。
「眠る前に、セレナの顔を見てもいいか?」
気弱な声が聞こえてくる。セレナは思わずクスクスと笑った。
「ええ。ご心配かけてごめんなさい。お兄様、どうぞ入って」
彼女はおかしくてしかたなかった。赤の他人を兄だと思うなんて。現実の兄は少しも有難くないなんて。
そんな彼女の考えも知らず、アレンは妹の部屋に入ってきた。
「泣いていたのか……セレナ」
妹の頬に涙の跡があるのを見て、彼は思わず彼女を抱きしめた。
「あ……夢の中でよ。今は泣いていないわ」
「可哀相に……。どうしたら、そんな怖い夢を見なくてすむようになるのだ」
アレンの抱擁を受けながら、セレナの笑みはとまらなくなった。兄の胸に顔を押し付けて精一杯隠した。
ああ、本当にこの兄では駄目だ。
最初からわかっていたが、この兄では私を救えない。
「ねえ、お兄様」
ようやく笑いをおさめた彼女は、アレンの菫色の瞳を間近で見つめた。
「お兄様、私を抱いてくださる?」
アレンは激しく狼狽した。
「セレナ、いったい何を……!」
彼は、その妄想をすでに何度も描いていた。セレナを救うための一方法と称しつつ、頭の中で繰り返されるそれはひどく甘美だった。そういう汚れた想念を見破られたような気がして、アレンは思わず妹から身をひいた。
「いいえ。お兄様がそんな気はないのはわかっています」
セレナの中のディランドゥが笑う。
うふふ、わかってるよ。おまえにはその欲望がある。でも、僕はおまえでは駄目なんだよ。残念だったね。
「ひとつだけお願いがあるんです。ファーネリアへ行きたいの。なるべく早いうちに」
アレンは更に驚いた。
ディランドゥはファーネリアを焼いた張本人だ。だから今まで、ファーネリアへ行きたいなどと言い出したことはない。それは自然な事だろう。バァンにあう事にもためらいがあると思われた。執拗に狙って、何度も剣をあわせた敵同士だ。互いに仲間を殺されている間柄で、何のしこりもなく会えはしない。
「どうしたんだ。バァンに過去のつぐないでも申し出るつもりなのか? ディランドゥがした事は、セレナには責任はないんだぞ」
セレナは首を振った。
「いいえ。バァンに用があるわけではないの。行きたい場所があるのよ」
「何処だ? 私も一緒に行こう」
セレナは静かに微笑んだまま、こう答えた。
「いいえ。ひとりで行けるわ。お願いだから、ひとりで行かせてちょうだい。どこに行くか、知られたくないの」
フォルケンの墓、などと言えるか。そうでなくとも、おまえなんかについてこられるのはとんだ迷惑だ。
「駄目だ、また神隠しにでもあったら」
言いかけるアレンを遮って、
「大丈夫よ。ザイバッハの魔導士はもう人さらいをしないし、私ももう子供ではないのよ。いざとなれば剣だって使えるのよ、お兄様と同じくらい」
ニッコリと微笑んだ。
その顔は間違いなくセレナの顔であったが、その瞳は少年だった頃の光を微かに宿していた。
「必ず戻ってくるのなら……」
「ええ。必ず戻ります、お兄様」
渋る兄を笑顔で押さえ、彼女はオレアデスの使用許可をとった。
明日にも出かけるつもりだった。
この胸の中に巣くう亡霊を、帰すべき所へ帰すために。

6.暗闇にひとり

ファーネリアの聖地、王家の墓。
夢で何度も見た記念碑めく墓石の前で、セレナは祈りを捧げていた。
そこに眠っている筈の男に、心の中で語りかけていた。

フォルケン・ファーネル。
おまえは本当に、僕をひとりにしたんだね。
愛でないもので、僕を罠にかけたね。

いいんだよ。
どんな人間も、最後にはたったひとりになるっていうんだろう。
その通りだよ。
おまえもひとりだったんだものな。

右頬のあたりがチリリ、と疼く。
そして僕も暗闇にひとり――Alone in the dark.

(1996.12脱稿/初出・恋人と時限爆弾『Alone in the Dark』1996.12発行)

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Written by Narihara Akira
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