銃口が私のことを見ている。銃口の周りには綺麗な銀の塗装が施されているというのに、その中だけ漆黒とも言える闇が広がっていた。
 少し離れたところから声が聞こえる。毎日耳にしていた声。私が彼の声を聞き間違えるはずがない。
 その声は言った。「避けろ」と。
 避けろ……? その言葉を言う理由が私には解らない。ついさっき自分で言ったばかりのはずだ。この拳銃に……私を見つめる拳銃に、もう弾は入っていない、と。
 それなのに声は言う。それなのに銃口が私を捉えたまま離さない。何度も脳内でリピートされる文字列。避けろ。その行動をとる理由はどこにも無いというのに何度も響く。
 だからといって今更急停止や回避行動なんて出来ない。ほら、もう引き金に掛かっている指が動き始めている。 その可能性が無いとは思うが、もし弾が入っていたとしたら、どう足掻いてもこの距離では避けられない。 私は拳銃の弾より早く動けないから。銃口から発射された弾丸が、確実に私の眉間を撃ち抜く。
 でもそれはこの拳銃に弾が入っていた時の話。既にこの拳銃の最大装弾数である九発の弾の発射が確認済み。もうこの拳銃に弾は無い。だから何も問題は……。
 ……?
 ふと、疑問に思う。この拳銃に弾は入っていない。そんなことは持ち主が一番よく理解しているはずなのに、どうして引き金に掛かっている指は動いているのか。 この拳銃が本物なら、明彦の言ったとおり九発の弾を込めることが出来る。そしてそれは確認済み。現に燈夜は九発の弾を撃ったのだから。 ならば何故燈夜は未だにその拳銃を手にしているのか? 途中でマガジンを交換したとか? いや、そんな仕種は見られなかった。 じゃあ、この拳銃が明彦の考えとは違う、偽物だとしたら? それも却下。改造エアーガンにしては口径が大きすぎるし、何より黒板に残っている弾痕を見れば、本物だということが窺える。
 じゃあ……何故……?






第十四話
インターバル/三十六個目の手




 燈夜の指が引き金を引く。燈夜まで後二歩で届くという距離まで来て、あかりは自分に投げかけた疑問の答えを得た。 拳銃を持っている腕の肘は伸びているので、実質の銃口からあかりまでの距離は大体数十センチ程度しかない。 その距離まで近づいて、やっと燈夜の拳銃の仕組みを知ることが出来た。
(この拳銃には……元々弾なんてものは入っていなかった……)


 仮に拳銃が本物で尚且つ弾丸も本物と想定して考える。引き金からプライマーへと伝わりプライマー内の火薬が爆発。 その爆発が薬莢内の火薬に引火して爆発し、弾頭と薬莢が切り離され弾頭だけ飛んで行く。そして薬莢は外に排出される。 そう、薬莢は外に排出されるのだ。
 しかし燈夜の持つ拳銃は幾度と無く発砲したが、薬莢が床に落ちる音など一度も聞こえなかった。 そこから察するに弾丸は本物ではない。ならば燈夜が拳銃という媒介を使って撃ち出しているモノは何なのか。 その答えはあかりだから、天使であるあかりだからこそ知ることが出来たと言えよう。
 拳銃に弾丸は入っていない。この言葉が示すものは何なのか。弾丸は無いけど発射できるモノ。 そこにあるのだが無いモノ。そこにあるのだが、見えないモノ。


(まさか、空気とはね……)
 引き金の残りが半分になる。引き金が引かれるに連れ銃口、銃身ありとあらゆる隙間に拳銃周辺の空気が吸い込まれていく。
(バカだな……私……)
 水圧カッターというものがある。原理はそれと同じ。空気を最大限に圧縮させて弾に見立てる。 隙間に空気が吸い込まれていく様が、銃身内の空気を圧縮している証拠。一時的に高まった気圧に合わせるように周りの気圧が調整する。その名残。
(自分で……自分の口でさっき明彦に言ったじゃない……)
 この時燈夜の顔を見ることが出来たのなら、その表情は笑っていただろう。だがあかりにそんな余裕は無かった。 銃口に吸い寄せられる空気と同様、あかりもまた銃口に視線を吸い寄せられていた。
(この拳銃の変な感じが、天使がらみだって……)
 ほんの一秒にも満たない時間の中で、これだけの思考が行える。ランナーズハイという言葉があるが、今の状態はそれに酷似しているのかもしれない。
(天使なら……まっとうな天使なら『力』を持っていることを知っていたのに……)
 避けることは出来ない。……この拳銃の威力は? 二発、三発目に撃たれた黒板を見れば一目瞭然。少なくとも改造エアガン並の威力はある。 もしBB弾なら……腕や足に当たっても、出血はするし痛みもあるが、死にはしないだろう。しかしこれはBB弾などではない。 比較対象になりえない。……頭部に当たったら?
(……死ぬ……?)
 ──それは出来ない。
(私が……ここで……?)
 ──私にはやらなければいけないことがある。
(そんなこと出来ない……でも……)
 ──約束があるから……。
(本当はこんなところで天使になるわけにはいかない……でも!)
 ──彼女との……約束があるから!






 引き金にかかるその指に、迷いは無い。
(さぁ……)
 燈夜の表情は、あかりの予想とは裏腹に固かった。燈夜にとってこれは賭けだから。
(どうする?)
 今までと同様に、銃身内の空気を圧縮する。
(コイツは今までのよりでかいぞ……)
 穂村あかりには、この弾丸を防いでもらわなければならない。穂村あかりの能力を確認することが燈夜に課せられた任務だから。 そう、燈夜はこの賭けに負けなければならない。
(この距離じゃ避けられまい。……さぁ、『力』を見せろ、穂村あかり!)






 あかりは背中の翼を具現化した。その表情には決意、そしてためらいと苦痛の様が描かれている。 それは肉体的な痛みではなく、大学の……しかも一講義室内において翼を展開しなくてはいけなくなってしまった精神的な痛み。 しかし、そうしなければ──翼を展開させなくては――無事では済まない。
 『力』を行使すれば翼を展開させなくとも眼前に迫る攻撃を凌ぐことも出来なくは無い。だがここでは使えない。 こんなに周りに大勢の人がいる場所では使えない。いや、周りの人々を知っているからこそ使いたくない。 知られたくない。巻き込みたくない。……それでもやられるわけにはいかない。約束があるから。
 そんなあかりの想いなど知る由も無く、燈夜は限界まで引き金を引いた。






 それは傍から見れば一瞬の出来事だった。無論、理解など出来るはずも無い。
(あ……れ……?)
 しかし明彦には理解することが出来た。訂正。視ることが出来た。いや、視えてしまった、という表現が一番近い。
 不思議な感覚に襲われる。まるで泥水の中を歩いているような、生ぬるく柔らかい感覚に。まるで一瞬という時間を引き延ばしたような感覚に。
 自分の身体がいつもの速さで動かない。自分の声が間延びして、ノイズが混じっているように聞こえる。自分の目に視えるもの全てに色が宿っていない。 輪郭だけを残して切り取ったワイヤーフレームのように視える。
 いくつもの長方形を描いたワイヤーフレームの最奥に、曲線を帯びた二つのフレームの集合体を見つける。 位置関係、直前の状態からその二つの集合体があかりと燈夜のものであると認識する。 その燈夜であろうフレームの、もう一方のフレームへ突き出されている先端から何かが発射された。恐らく先ほどの拳銃だろう。 もしそれが本物の弾丸だったのなら、先端が流線型のロケットの様な形をしていたに違いない。 しかし明彦が眼にしたのは流線型のロケットではなく、毛糸をぐしゃぐしゃに集めた塊の様なモノだった。 このフレームの視界こともあってか、明彦にはそれが何を示しているものなのか理解出来なかった。その直後、
(何だ……? あれ……は……?)
 何も理解していない、いや出来ない明彦に、さらに追い討ちをかけるような出来事が起きた。 蹲っているように視えるあかりの背中の部位だと思われるフレームから、上方に向かって二つのフレームが新たに競り上がった。 まるで背伸びをしているように視える。伸びきったかと思ったら、各部をゆらゆらさせながら左右に叩きつけるような仕種。鳥類が羽を広げる時のイメージに近い。
(……天使の……翼……か?)
 次の瞬間、両フレームが一気にあかりの前方へと持っていかれた。そして交差する。丁度交差した中心部、交差点の場所に毛糸を集めた様な塊が衝突した。 衝突と同時に、塊が一気にほつれて辺りへと散布した。そして間を置かずに交差していた一対のフレームも消えていった。
 ここまで経過して、ワイヤーフレームたちに色彩が戻った。時間にして一秒にも満たない世界がそこにはあった。 まさしく一瞬。これを理解できる人などいるはずがない。しかし明彦には視えてしまった。一秒にも満たない一瞬の世界が、明彦には何十秒にも感じられた。 だが視えたところでそれが何だったのか、明彦には理解出来なかった。




 明彦の視える世界に色が……世界が戻ると同時に、
「明彦、逃げるわよ!」
 あかりの声が耳を貫いた。
 全速で明彦の元に戻ってきては、有無を言わさず明彦の手をとり、
「なっ!? おい!」
 窓へと駆ける。いきなりの逃亡という行動に困惑したが、決してその理由を聞こうとしたり、止まるようなことはしなかった。 講義室内、むしろ大学内での揉め事は極力避けたいと思うところは明彦も同じだからだ。
「普通は─―」
 すかさずお決まりの如く燈夜は右手を上げ狙いを定め、
「逃がさないよね!」
 明彦とあかりへ向けて発砲した。室内に響いた銃声は三発。が、二人を射抜いた弾丸は一発も無かった。 にもかかわらず、決してうろたえたりせずに逆に眼を細め観察する様に、
(なるほど……)
 燈夜を牽制するあかりの鋭い視線と目が合う。
(翼の使い方が上手いな。……結構なレベルで使いこなせちゃうわけだ)
 燈夜が一人納得している間に、次に講義室内に響いたのは窓ガラスの割れる音。勿論目で追う。 視界に入ってきたのは明彦とあかりが窓ガラスを破って外に出る光景。
(そうか……この講義室は一階だったな)
 いてっ、という明彦の声と、割れたガラス窓が辺りに降り注ぐ音が聞こえたかと思うと、そのまま駆け抜ける足音が耳に入り徐々に小さくなっていった。


 鞄も傘も講義室に置きっぱなしで、雨の降る敷地内へとあかりに引っ張られる形で二人が駆けて行く。 後ろは振り向かなかった。神沼燈夜がこのまますんなり逃がしてくれるとは思わない。
(もっと……一目の付かない所じゃないとダメだわ)
 明彦の手を引っ張りながらあかりは考える。
 もっと広い場所……。
 もっと戦いやすい場所……。
 もっと一目に付かない場所……。
(私が天使になれる場所……)




 明彦は珍しく迷っていた。あかりの言動は言わずもがな、燈夜の言動に加え、何より頭に引っ掛かっているのが先刻の現象。 肉付けしていない3D空間という表現が似合っていたなぁ、とか思う。
 以前にテレビのCMで似たようなものを目にしたことがある。だが先ほど明彦に視えてしまったのはそんな綺麗なものでは無かった。 映像というよりプログラム。まるで3Dプログラムの製作段階でのプレイビューを見ているかのような感覚。 自分の目に映るものがあんな3Dプログラムまがいのことでいいわけがない。 むしろそういう風に視えてしまった自分の方がおかしいのかもしれない、というらしくない不安を感じていた。
「──ったく。どうかしてる……」
 一人、小さい声でぼやく。面倒なことになったなぁ、と思いつつも、既に頭の中では次に燈夜と対峙した時にどうしようか考えていた。




 雨風の音が聞こえるようになり少し蒸し暑くなった講義室内で、三発も放った弾丸を全てあかりの『翼』によって防がれてしまった燈夜は慌てる様子を見せずに、
「ここで逃げるとは、何とも機転はいいことで」
 机の下に置いてあった自分のリュックを手に取り背負う。
「しかし……ここまでやっておいて収穫ありませんでしたー、たはー。なんて報告した日にゃ何て言われるか……」
 変な汗が出てきて表情が歪む。
「ハハッ……想像したくねぇ」
 手に持つ拳銃を懐にしまいながら、明彦とあかりが割った窓へと近づく。
「でも、これで心置きなく行動に移せるよな……。穂村あかり、キミが望むフィールドへ行くがいい。 まぁ、向こうも逃げられるとは思って無いだろうしな。そのフィールドで思う存分『力』を見せてくれ。話をするのはそれからで十分だ」
独り言を呟くように口を開きながら、窓枠を飛び越え敷地内へと足を付ける。ついで視線を前方へと飛ばす。 二つの小さな影が駆けて行く。その影を二人だということを遠目で確認すると、その影を追うように燈夜も雨の中を走り出した。
 ……勿論、傘は差していない。しかし、不思議なことに燈夜は濡れなかった。雨粒が燈夜に触れる直前に弾けたのだ。
 そう……祈と同じ様に……。



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