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よこすかじょう
横須賀城
別称:松尾城、両頭城
所在地:静岡県掛川市横須賀
形状 平城 史跡指定 国特別
平山城
山城 都道府県
陣屋・館 市町村
遺構 建築物 天守閣 現存
石垣 復原
土塁 外観復原
水堀 復興
空堀 模擬
本丸南下門跡(撮影年月 H18・8)
現存建築物 国宝 なし
国重文 なし
都道府県指定 なし
市町村指定 なし
その他 不明門(撰要寺移築)
復元建築物 なし
アクセス 公共 JR掛川駅下車後静岡鉄道バス掛川中横須賀線七軒町バス停
東名道掛川Icまたは袋井ICから約10`
ミニ情報  車で行くと、付近に城まで誘導する案内板はありませんが、県道から特徴的な川原石の石垣が見えるので、目標とするとすぐわかります。
地図情報
城略史
 横須賀城は、小笠山から派生する尾根の末端部にあって、宝永4年(1707)の大地震までは城の南は直接遠州灘に広がり、入江も湊もあったそうです(現在はその面影は全くありません)。天正2年(1574)武田勝頼に攻め落とされた高天神城を奪還するために、徳川家康が大須賀康高に命じ天正6年(1578)に築いた城です。徳川家康は天正9年(1581)、ここを拠点とし高天神城を攻めました。
 大須賀氏は、
千葉氏一族でその後裔と言われていますが、よくわかっていません。上記の大須賀康高の活躍により、大須賀氏は世に知られることとなったようです。この康高が、高天神城落城まで8年間戦ったことから、横須賀城を与えられ、周辺一帯を領しました。康高が没すると、養子となった榊原康政の子忠政が遺領を継ぎ2代城主となりました。しかし、天正18年徳川家康が関東へ移封となると、忠政は上総国久留里へ移封となり、後には豊臣譜代の渡瀬繁詮・有馬豊氏が城主となりました。慶長5年(1600)関ヶ原の合戦後、有馬氏は福知山に転封し、再び大須賀忠政が6万石で入封しましたが、忠政の子である忠次が館林藩榊原康勝の養子となったため、大須賀氏は断絶しました。その後、城主は松平氏・井上氏」・本多氏とかわり、天和2年(1682)西尾忠成が藩主となってからは明治維新まで存続しました。明治元年徳川家達領するに伴い、西尾氏は安房国花房へ転封となり、明治6年に廃城となりました。
(参照「国別城郭・陣屋・要害台場事典(東京堂出版)」・「よみがえる日本の城11(学研)」)
主な見どころ
↑横須賀城模型@:南はすぐ遠州灘だったこと、松尾山の末端だったことなどがよくわかります。しかし、屋外展示で心ない人により破壊された箇所があるのは残念です。 ↑横須賀城模型A:現在整備保存されている範囲は、写真の範囲ですが、模型に見える水掘は残念ながら現存しません。
↑遠望(不開門跡):城の西端に位置する不開門跡。写真の奥左に見えるこんもりとした丘が、西の丸から本丸へと今に残る城域です。 ↑西の丸西斜面石垣:復元された石段を上ると、西の丸下の帯曲輪となり西の丸へと続く。
↑北の丸:本丸北側の尾根へと続く曲輪。だだっ広い空間で、公園として整備されている。 ↑本丸南下門跡@:本丸へ至るメインのコースで、非常に厳重な構えでした。現在は川原石で石垣も復元整備され、横須賀城最大のハイライトとなっています。
↑本丸南下門跡A:西の丸のやや高い位置から撮影。特徴ある石垣が見事に復元され壮観な眺めです。 ↑本丸と石碑:本丸の敷地面積はそれほど広くない。絵図には建物が描かれているが、実際は中枢の機能はなかったでしょう。
↑天守台跡@ ↑天守台跡A:白線の枠で囲まれた部分に、三重四階の天守があげられていたと考えらています。礎石からは、あまり大きな天守ではなかったことがうかがえます。
探訪年月 @H18・8
併設・周辺資料館
参考見学所要時間 約0時間30分
お薦め度 私見   最大の見所は、大井川の川原石で忠実に復元された本丸南下門跡。城ファンにはたまりませんが、そうでない人にとっては、城の石垣だとわからないかもしれませんね。また、せっかく整備したのに、余計な木が植えられていて見学の際には少し邪魔に感じます。これ以上、公園化しないよう祈るばかりです。
城郭ファン以外も必見
見逃せない対象です
城好きは行きましょう
予備知識がある方は・・
マニア向け
公式サイト
参考サイト
初版20070604
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