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きよすじょう |
清洲城 |
別称:清須城 |
所在地:愛知県清須市朝日城屋敷1番地1 |
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形状 |
○ |
平城 |
史跡指定 |
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国特別 |
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平山城 |
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国 |
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山城 |
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都道府県 |
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陣屋・館 |
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市町村 |
遺構 |
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建築物 |
天守閣 |
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現存 |
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石垣 |
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復原 |
○ |
土塁 |
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外観復原 |
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水堀 |
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復興 |
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空堀 |
○ |
模擬 |
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模擬天守(撮影年月 H18・12) |
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現存建築物 |
国宝 |
なし |
国重文 |
なし |
都道府県指定 |
なし |
市町村指定 |
なし |
その他 |
なし |
復元建築物 |
模擬天守 |
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アクセス |
公共 |
名鉄新清洲駅下車徒歩15分、またはJR東海道本線清洲駅下車徒歩15分 |
車 |
東名阪道清洲東ICから約1キロ |
ミニ情報 |
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地図情報 |
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城略史 |
清洲城は尾張守護斯波義重が応永12年(1405)に築城したのが始まりで、城には織田敏定が守護代として入りました。文明8年(1476)に守護代織田敏広の居城下津城が焼失したため、清洲に守護所を移し、尾張国の中心としました。しかしこのとき、織田信長の父である信秀が清洲奉行としてすでに居城しており、内紛により織田氏のものとなります。その後、信秀は古渡城へ本拠を移したので、清洲城は守護代織田信友のものとなりました。弘治元年(1555)、織田信長は叔父の信光と信友を殺害し清洲城を奪います。それから小牧山城へ移るまで信長の居城となり、信長移動のあとは番城となりました。
本能寺の変の後は、信長次男である織田信雄が入り、城は大改修され天守も上げられたそうです。しかし、天正14年(1586)小牧長久手の戦いにより城を逐われました。以降、福島政則、松平忠吉、徳川義直と城主は替わりました。名古屋城築城により、慶長15年(1610)有名な「清洲越え」が実施され、城下の人民もろとも城の大部分も移動し、廃城となりました。
(参照「よみがえる日本の城3(学研)」、「現地案内板」) |
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主な見どころ |
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↑清洲公園案内図:清洲城周辺は見どころが3カ所に分かれています。@は模擬天守の立つ区域、Aは土塁や石垣の見ることができる古城跡、Bは清洲公園です。 |
↑模擬天守@:天守だけでもわけがわからないのに、その前には日本庭園が造園されています。全く意味不明です。 |
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↑模擬天守A:新幹線側からは見えない、裏側といえば裏側の姿。石垣がさらに不自然に強調され、お世辞にも美しいとはいえないです。 |
↑模擬天守内部:極めつけは、天守内部の展示。桶狭間出陣前の有名な敦盛を舞うシーンです。イメージできますか? |
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↑眺望:天守最上階からは、それなりの眺めが見ることができます。正面の林が清洲古城跡で、こちらが探訪のメインとなることでしょう。 |
↑石碑:清洲古城跡にひっそりと立つ石碑。 |
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↑土塁:清洲城の貴重な遺構である土塁も、今はこのような姿に・・・。期待は裏切られます。 |
↑移設石垣@:清洲公園で発見された石垣が屋外展示されています。時代的には織田信雄あたりの石垣だそうです。信長時代のものかと早合点してしまいましたが、これはこれで貴重な遺構です。 |
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↑移設石垣A |
↑信長像:清洲公園に立ちます。清洲というと、あまりにも信長の印象が強すぎるのですが、築城にも廃城にも関係してないのですよね。 |
入場券・パンフ等 |
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入場券と無料パンフ |
無料パンフ:天守閣内の展示に、信長公桶狭間出陣の様子を再現した人形がありますが、その展示専門のパンフです(苦笑)。 |
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探訪年月 |
@H18・12 |
併設・周辺資料館 |
清洲城
開館時間:9時00分から16時30分(入館は16時15分まで)
料金:300円
休館:毎週月曜日、12月29日〜12月31日
052-409-7330 |
参考見学所要時間 |
約0時間30分 |
お薦め度 |
私見 |
見事なまでに造り上げた模擬天守。新幹線からもよく見えます。清洲城を探訪する価値は、もちろんこの天守にあるわけでなく、周囲のわずかな土塁や石垣を見ることにあります。戦国時代ファンには避けて通れないこの名城、もちろん私は模擬天守には興味なく、ただ清洲という街を感じたかったがために訪れたわけです。 |
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城郭ファン以外も必見 |
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見逃せない対象です |
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城好きは行きましょう |
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予備知識がある方は・・ |
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マニア向け |
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初版20070627 |
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