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かくのだてじょう
角館城
別称:小松山城
所在地:秋田県仙北市
形状 平城 史跡指定 国特別
平山城
山城 都道府県
陣屋・館 市町村
遺構 建築物 天守閣 現存
石垣 復原
土塁 外観復原
水堀 復興
空堀 模擬
(撮影年月 H18・8)
現存建築物 国宝 なし
国重文 なし
都道府県指定 なし
市町村指定 なし
その他 なし
復元建築物 なし
アクセス 公共 秋田新幹線・JR田沢湖線角館駅下車後徒歩20分
秋田自動車道大曲ICから国道105号線で25q
ミニ情報 JRの駅からだと北のはずれに位置します
地図情報
城略史
 角館城は、古城山という標高166メートルの半独立丘に築かれた山城で、14世紀(1300年代)菅氏が築城したといわれています。この菅氏は、角館地方を領していた豪族でしたが詳しいことは伝わっていません。応永30年(1423)戸沢家盛に攻められ、以降戸沢氏による支配が続きました。
 戸沢氏は桓武平氏の末裔で、鎌倉時代に御家人として岩手県雫石地方を領し、その地を名乗ったといわれていますが、確かな出自の系図はないそうです。仙北郡北部のリーダー的存在として北浦地方をまとめ、戸沢盛安は豊臣秀吉の小田原攻めに奥羽から最初に参陣し、本領を安堵されました。盛安はその後すぐに没してしまいましたが、弟の光盛が嗣ぎ、太閤検地により戸沢氏の本領は4万4千石ときめられました。その後も戸沢氏は、徳川家康による上杉征伐に参加するなど、徳川体勢のなかに地歩を築きました。慶長7年(1602)戸沢氏は常陸松岡に転封となりましたが、替って入封したのは水戸からの佐竹氏でした。なお戸沢氏は、のちに山形県新庄に転封となり、幕末まで存続しました。
 佐竹氏は角館地方を、一族の芦名義勝(盛重)に統治させました。芦名氏は三浦介を名乗る名族(当HP猪苗代城参照)でしたが、伊達政宗により会津を追われました。芦名盛重は、当時まだ水戸を領していた佐竹義宣の弟であったことから、兄を頼り水戸へ落ちました。しかし、佐竹氏の秋田転封により盛重もそれに従い、1万5千石で角館の統治を任されたのでした。その時に名を義勝と改めました。元和6年(1620)江戸幕府の一国一城令によって角館城は破壊されて古城山南麓に居館が設けられ、以後は城としての性格はもたなくなってしまいました。。芦名氏による支配は51年で終わります。義勝以降跡継ぎに恵まれず、芦名家が断絶したためです。それからは佐竹北家による統治となり、明治の廃藩まで存続することとなりました。
(参照「ビジュアルワイド日本の城(小学館)」、「角館の武家屋敷(角館町教育委員会)」)
主な見どころ
↑角館武家屋敷:まるで時が江戸時代のまま止まってしまったかのような街並。目抜き通りは以外と道幅が広いことに驚きます。江戸時代の地方都市だからといって小道ばかりではなかったのですね。 ↑郭:城跡の登り口から坂をのぼっていくと、曲輪とおぼしき削平地がいくつかあります。
↑本丸:山頂の本丸は驚くほど平で広い曲輪です。案内板のひとつくらいは欲しいところですが、それだけ訪れる人もいないということでしょうか。 ↑本丸からの眺望:角館の街並が見えます。この眺めは、ここまで登った人への贈り物でしょう(たいした標高ではありませんが)。
入場券・パンフ等
図録角館の武家屋敷(角館町教育委員会発行):角館の武家屋敷であれば、だいたいどこででも入手できると思います。角館の歴史のほか、享保年間の角館城下絵図も掲載されており、城ファンにも納得のいく内容となっています。
探訪年月 @H18・8
併設・周辺資料館
参考見学所要時間 約0時間30分
お薦め度 私見   角館といえば武家屋敷で有名。ということは城下町だから城がある、という発想になるのは城ファンだけで、なかなか訪ねる人はいないようです(存在すら知られていない!)。この日も、市街は大勢観光客がいましたが、角館城では誰とも会いませんでした。江戸初期に廃城となったし、遺構は保たれているので、特に整備しなくてもいいのでは。いやむしろ、このままで保存して欲しい。
城郭ファン以外も必見
見逃せない対象です
城好きは行きましょう
予備知識がある方は・・
マニア向け
公式サイト
参考サイト
初版20070517
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