トップ>メニュー北海道・東北地方猪苗代城
いなわしろじょう
猪苗代城
別称:亀ヶ城
所在地:福島県猪苗代町古城町
形状 平城 史跡指定 国特別
平山城
山城 都道府県
陣屋・館 市町村
遺構 建築物 天守閣 現存
石垣 木造復原
土塁 鉄筋復原
水堀 復興
空堀 模擬
本丸から磐梯山の雄姿(撮影年月 H18・5)
現存建築物 国宝 なし
国重文 なし
都道府県指定 なし
市町村指定 なし
その他 なし
復元建築物 なし
アクセス 公共 JR磐越西線猪苗代駅下車後徒歩25分
磐梯自動車道猪苗代磐梯高原ICからすぐ
ミニ情報 猪苗代駅前にレンタサイクルあり
地図情報
城略史
 猪苗代城は奥州合戦によって猪苗代の地を与えられた佐原義連の孫、経連鎌倉初期(建久年間)に築いたといわれていますが、実際のところはわかりません。この佐原義連とは、三浦半島の桓武天皇の流れをひく坂東八平氏の一つ、三浦義明の子で、さきの奥州合戦により会津北部を与えられました。義連は三浦義明の子義澄の末弟で、相模国(神奈川県)の佐原郷(横須賀市)を領したことから佐原氏を称しました。本家の三浦氏は、鎌倉幕府執権を務める北条氏との争いに敗れ滅んでしまいますが、義連の孫、盛連は母方のつながりから本家である三浦氏に反して執権北条時頼に味方したため、滅亡を免れました。
 佐原盛連は、その6人の子に領地を分割して与えられ、中世における会津を支配したといわれています。そのうち長男の経連が猪苗代の地を与えられ猪苗代氏、四男光盛が黒川(現会津若松市)を与えられ相模の国葦名郷を領したため葦名氏をそれぞれ称しました。しかし四男光盛の芦名氏の勢力が次第に強くなり、芦名氏が会津支配の主導権を握っていくことになります。猪苗代氏は経元の代で跡継ぎがなくなり芦名氏から養子盛清を迎えましたが、芦名氏からの独立志向が強く、盛清の子盛国は伊達政宗に寝返り摺上原の戦いでは大きな活躍をします。しかしながら伊達氏の領地替えににより、猪苗代氏も領地替えとなり、猪苗代の地から離れてしまうことになります。なお猪苗代氏は伊達藩士として幕末まで存続しました。
 猪苗代氏が猪苗代城を去った後は、会津には蒲生氏郷が入封し、以降上杉景勝、蒲生秀行・忠郷、加藤嘉明・明成と領主は変わりますが、猪苗代城は会津領の重要拠点として、江戸幕府の一国一城令の例外として存城しました。寛永20年(1643年)には保科正之が会津藩主となり、猪苗代城には城代が置かれました。
 戊辰戦争(1868年)の際に城を焼き払って若松へ撤退したため、建物は全て失われ、猪苗代城はその役割を終えました。その後明治になってから公園として整備され、平成13年県指定の史跡に指定されました。
主な見どころ
↑現地案内板:地図の赤線(管理人加筆)内はほぼそのままの姿を今に伝えています。正直言って、猪苗代に、こんな素晴らしい城があるとは驚きました。 ↑大手虎口:現在残る城跡の範囲はここからになります。山麓の二の丸との界になり、石垣でかためられた厳重な枡形になっています。
:大手虎口を登りつめると、帯曲輪の様な空間になります。下から見れば2段目になり、最上段(写真上部)が本丸となります。 ↑二の郭:案内図では二の郭という名称が付けられており、二の丸とは異なるようです。ちなみに二の丸は山の麓に位置します。
:曲輪の名称などわかりませんが、本丸のやや下、二の郭のやや上に位置します。石垣が非常に立派なのですが門があったかはわかりません。 :古城の雰囲気がかもしだされて最高です。木の根による石垣の崩壊が心配ですけど・・・。
↑本丸@:本丸にもこんなに見事な石垣が残ります。往事は麓からの素晴らしい偉容がおがめたことでしょう。 ↑本丸A:本丸内は一部石垣に、大部分は土塁に囲まれています。今に残る土塁は低いものですが、元はもっと高い土塁であったことでしょう。
↑本丸B:本丸内はかなり広い平坦地です。土塁上に桜が植えられ、後ろの磐梯山とのコラボレーションが素晴らしいです。 ↑本丸からの眺め:それにしてもいい季節に探訪できました。
探訪年月 @H18・5
併設・周辺資料館
参考見学所要時間 約1時間00分
お薦め度 私見   会津藩の支城であるにもかかわらず、これだけの規模と石垣が残されていることは大変貴重であり、また感動的でもあります。訪城した時は、たまたま桜が満開な季節であったため、桜と磐梯山の雄大な景色が非常に素晴らしく、印象に残っています。駅から出発すると、なだらかな坂の途中にあるので、行きはややつらいですが、帰りは楽チンです。
城郭ファン以外も必見
見逃せない対象です
城好きは行きましょう
予備知識がある方は・・
マニア向け
公式サイト
参考サイト
初版20070329
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