中学生ザンの物語
11 みんなのこころ
ぱんっ、ぱんっ。アトルは、泣き喚くザンを叩く。次で、50回。後半分…。
「もう許してよおっ。」
50回目。アトルは、手を振り下ろす。ぱちーんっ。音が響く。そして、そのまま、止まった。「…?」
ザンは、51回目が来ないので、体を少し起こして、アトルの顔を見た。泣いていた。
「お母様、どうしたの?手が痛い?」
「…違いますわ…。もう、いいです…。」
「え?」
アトルは、ザンを立たせた。そして、ザンの背を押す。
「お仕置きは、もういいですわ。お部屋に戻りなさいな。」
「…?なんで?…気分でも悪いの?いや、そりゃあさ、叩かれない方がいいに決まってるけど、なんで急に止めるのさ。」
「自分が嫌になりましたわ。私、いい母親になろうと決めましたのに、上手くいきませんの。」
「…。良く分かんない。あたしが悪い子だから、そう思うの?彼氏にも怒られるような子だし。」
「いいえ。私、あなたにお仕置だと言いながら、残酷にあなたを叩いて…。タルートリー様みたいにはいきませんわ。」
「うーーん?…やり過ぎたってこと?」
「…昨日は誤魔化しましたけど、今日は言いますわ。そうでないと、今の私の気持ちを上手く説明出来ませんの。」
アトルは、ザンがお尻を出したままなのに気付いて、パンツをあげてやった。ザンの顔が赤くなる。アトルは、ザンを抱き締めた。「私、タルートリー様に、時々お尻を叩かれるのですわ。タルートリー様は、お尻を叩くのが好きですけれど、それ以上に、とても真面目な方なので、叩きたいと思っていらっしゃる時に、私が何もしていないと、お困りになりますの。」
「…お母様がわざと悪い事して、理由を作ってあげるの?」
「ええ。…あなたの気持ちは分かりますけれど、最後まで言わせて下さいな。…それで、私、タルートリー様に、時には、反抗したくなりますの。どうして何もしていないのに、叩かれなくてはいけないの、そして、どうして、そこまでして、私を叩きたいのかと。…タルートリー様の気持ちは知っていますわ。ただ、時々そういう気持ちになりますの。…つまり、私は、あなたが酷く悪いことをしたのにかこつけて、八つ当たりしたのですわ。」
「…違うんじゃない。お母様は、八つ当たりなんかしていないよ。ただ、お父様がいなくて寂しいのと、わたしのしたことが、お母様の理解を越えているから、混乱しちゃったんだよ。お父様に叱ってもらいたいのに、自分で処理しなきゃいけないって、気が張ってるから。」
「…そうでしょうか…。でも、あなたが正しい気もしますわ。…もう、寝なさいな。とても遅くなりましたわ。それと、明日からのお仕置きは無しにしますわ。あなたの言う通り、タルートリー様に叱って頂きますわ。」
「分かった、寝る。でもその前に、することがあるよ。」
「なんですの?」
ザンはそれには答えず、電話の側まで行くと、ボタンを押し始めた。
「ねえ、良かったの?トリーを出張に行かせちゃって。」
明るい人千里は、夫の武志へ言った。
「わたし“達”が、いなくなったら、明美が大変だろう。」
「わたしも行くことになっちゃうの?武志さんが寂しいのは分かるけど、もう子持ちなんだから、我慢しなきゃ。わたしだって、我慢出来るわよ。トリーの所は、あのザンちゃんのせいで大変なんだから。明美ちゃんの話じゃ、水島先生を殴ったって。担任の。」
武志がそれに答えようとした途端、電話が鳴った。千里が立ちかかるのをタルートリーからかも知れないと手で制して、武志が受話器を取る。
「はい、遅坂です。」
武志が言い終わる前に、ザンの怒鳴り声が飛び出してきた。
「やい、遅坂、てめえ。なんでうちのお父様が、てめえの変わりに出張に行かなきゃならねえんだよっ。」
怒りよりも先に、驚いた。受話器から耳を離しながら、なんと答えようかと思った武志の耳に、ザンの声と、アトルの声がして、いったん静かになった後、お尻を叩く音が聞こえてきた。
「なあに、どうしたの?」
千里が側に来た。
「あの小生意気な小娘が怒鳴って、アトルが叩いている。」
「なんで、なんで。」
「タルートリーを出張に行かせたから怒っているらしい。」
「ザンちゃん、寂しいのね。可哀相…。」
「あの小娘に限って、そんなことはない。」
「あら、武志さんは知らないのよ。わたしは、アトルちゃんから良くお話を聞くもの。」
「ちょっと待て。…アトルか。」
電話の相手は、アトルに変わった。
「ごめんなさい、お兄様。ザンが…。
…ちょっと、何しますのっ?もうっ、いい加減にして下さいなっ。今、お兄様に文句を言ったからって、タルートリー様が帰って来る訳ではありませんのよっ。もう寝なさいと言ったでしょう。さあ、もう一度お尻を叩かれたくなかったら、おやすみなさいな。
…五月蝿くしてごめんなさい。明日またきつく叱っておきますから。
…なんですの?文句を言うものではありません。あなたが悪いんですのよ。ええ、おやすみなさい…。
…ご迷惑をかけて申し訳ありません。では、おやすみなさい。」
「ああ、おやすみ。」
武志は、受話器を下ろした。
「やっぱり、ザンちゃんが寂しがってたんでしょ?アトルちゃんが言っていたの。“ザンは、傷つきやすい心を固い、でも、隙間だらけの鎧で守っていますの”って。何気なく思える態度や言葉で、簡単にその隙間から、傷つけてしまうって。」
「あれが?」
「武志さん、どんな風に見えてもザンちゃんは、女の子よ。弱い所がない人間なんて、人間じゃないわ。きっとあの子は、弱い自分を守る為にああ育つしかなかったのよ。…ねーえ、ますます面白いと思わない?わたし、本当にあの子が欲しくなっちゃった。」
「ザンが本当にそんなに難しい子供なら、お前の手に負えない。お前は子供を玩具にしか考えていないからな。」
武志の言葉に千里はむくれた。しかし、武志の言葉を否定できないのも事実だった。
朝。ザンは、いつもの様にアトルに起こされた。おしめをアトルに外されて、恥ずかしさに顔を歪めるザンに、素敵な言葉が待っていた。
「ザン、やりましたわっ!!おねしょしていませんわっ。」
「えっ、ほんと!?やったあっ。ここに来てから、初めてだねっ。あー、久しぶりだよぉっ。」
ザンとアトルは、抱き合って喜んだ。
学校のいつもの屋上。アトルに厳しく叩かれる前は、今日から授業に出てやろうかなと思っていたザン。しかし、お尻の痛みに、結局サボっていた。
外国語で書かれた難しい本を読みながら、たぶん、将来に役に立たない知識を頭に詰め込む。ザンは、将来えらい学者か何かになろうとは思っていなかった。難しい本を読むのは、天才である頭脳が求める知識欲からで、心は、普通の子に生まれたかったと言っていた。
飽きてきて本に栞を挟んで、目を閉じた。今は何時間目かなあと思っているザンの耳に、絵実の声がした。
「シートまで敷いて、用意のいいことね。」
「絵実か。」
ザンは、体を起こした。隣に絵実が座る。
「前から聞きたかったんだけど、なんでわたしだけ呼び捨てなの。」
「あんたは、お嬢じゃないから。あたしと同じ“平民”じゃん。」
「平民ねえ…。天才の言葉は違うわ。」
「好きで天才に生まれた訳じゃない。天才は、皆言うよ。普通の子に生まれたかったって。」
「わたしは天才に生まれたかったな。そしたら、お母さんにお尻を叩かれなくて済むもの。」
「成績に心を囚われる親は、子供を潰す親さね。」
「普通の、いえ、中流以下のうちの子のわたしがここにいられるのは、このバッチとお母さんの手のおかげよ。」
桃川学院は、幼稚園から大学まで同じ制服である。女子の制服は、左胸にだけポケットがついている。そのポケットに、成績の良い子のクラス、特別クラスの生徒であるのを示すバッチがついている。
絵実はそのバッチを軽く弾いた。これをつけられる成績のおかけで、授業料免除の特待生の絵実。そんな成績になったのは、容赦なくお尻を引っぱたく、母の手の“おかげ”だ。
「成績がいい奴が人間としても優れているかどうかは、政治家やお偉いさんを見れば分かる。あんたのお母さんは、あんたに何を求めているんだろうね。」
「それは、わたしが聞きたいわ。なんで、こんなにしてまで、勉強しなきゃなんないのかな。うんざりしてるの…。でも、文句を言えば、叩かれるだけ…。」
「施設にいた頃は、わたしにとって親の虐待は、幻だった。でも、実際親が出来て、ノブやあんたの話を聞いていると、紛れもない現実だね。」
「わたしは別に虐待されてないわ。」
「殴るだけが虐待じゃないよ。虐待には、4種類あるの。ノブとあんたの場合は、身体的、精神的だと思うけど。」
「ザンの彼は知らないけど、虐待って程のはされていないわ。」
「虐待って言葉は、インパクトが強すぎるよね。アビュースって言うんだよ。あんたが、お母さんから言われて勉強してるのが強い負担なら、やっぱそれは、虐待だと思うな。」
それまで、空気に向かって話していたザンは、絵実の顔を見た。「でも、今必要なのは、虐待かどうかの見極めじゃなくて、あんたが生き辛いと感じているのをどうするかなんだよね。」
「そうなの。」
「ねえ、お父さんはどうなの?」
「お父さんは、出稼ぎしてるの。お母さんは、パートで働いて。学費はかからないけれど、それ以外にも色々あるから。…お父さんは、お母さん以上に五月蝿いの。お母さんより厳しく叩かれるわ。」
「ビンタすんの?」
「お尻をね。」
「なんだ、顔だったら、ぶっ飛ばしてやったのに。」
「…。」
「冗談よ。」
ザンは、にこやかに微笑みながら答えた。
「全然わかんないや。」
暢久は、宿題を投げ出す。
「こらっ、真面目にやらんかい。」
ザンは、暢久を睨んだ。放課後。明美への家庭教師が終わって、暢久の家へ来ていた。
「面倒になってきた。」
「あたしが教えてるんだから、あんたが頑張りさえすれば、数ヶ月後には、トップクラスの成績が取れるようになるよ。先生の鞭を少しでも減らしたかったら、やる気を出しな。」
「いいよ、どうせ…。僕は馬鹿のままなんだ。君とは違うよ。それに、勉強が出来る様になったからって、お父さんが叩かなくなる訳じゃないや。」
「あ、そう。あんたがそんなbs言うなら、あたしだって、あんたにいくら叩かれたってこの言葉遣いは直らねえな。」
「関係ないじゃない。お尻叩くよ。」
「あたしばかり叩かれて不公平だから、あんたを叩いてやる。」
「そんなbsさせない。」
ゆらっと暢久が立ち上がる。ザンも立ち上がったが、暢久と違って余裕がある。
「馬鹿が威張るじゃん。」
「なんだよ、今日のザン。僕は、優しくて可愛いザンが好きなのに。」
「あんたが、甘えてばかりで勝手に劣等感を感じて、不貞腐れているからでしょ。」
「またそうやって難しい言葉を使って、自分が凄いって所を見せるんだ。」
「劣等感の何処が難しいんじゃい。そりゃあ、馬鹿な高校生には、高等過ぎる言葉だったかも知れないけどさ。」
「どうせ僕は馬鹿さっ。中学生の赤ちゃんに、家庭教師をしてもらっても何も分からない馬鹿だよ。でも、僕にだって、プラ…、プラドル…くらいあるんだっ。」
それを聞いたザンが爆笑する。暢久は、何故ザンが笑っているのかが理解出来なくて、戸惑っている。
「ぷ・プラ…、…可笑しくて言えなーいっ。」
散々笑った後、涙を拭いながら、ザンは言った。「プラドルじゃなくて、プライドでしょ。プ・ラ・イ・ド!誇り!あー、恥ずかしい奴っ。」
暢久の顔がみるみる赤くなる。下を向いて、座りこんだ。
「合ってるって思ったのに…。」
「暗い性格だなー。普通馬鹿にされたら、手が出るんだよ。何故そこで落ち込むかね。」
「君と殴り合いの喧嘩なんか出来る訳ないよ。」
ザンは暢久の隣に座る。暢久は彼女の顔を見た。
「あたしは天才なの!あたしより頭のいい奴なんて、そうそういないよ。…遠回しに言ったって、あんたにはちんぷんかんぷんだよね。…つまりね、あんたがわたしに教えてもらうのを恥ずかしがる必要はないの!み〜んな、わたしより馬鹿なの。」
「何でザンって、あたしとわたしって言うの?」
ザンはこけそうになった。
「今それが関係あるんかい。…その時の気持ち次第。」
「ふーん。僕も俺って言ってみようかな…。」
「止めとけ、止めとけ。僕に似合う言葉しか喋れないんだから。」
「僕とザンが喋っていると、どっちが男か分かんないね。」
「まあね。…それより、宿題をやる気は出たの?」
「出た。」
「じゃ、やろ。」
「うん。」
暢久は、鉛筆を取った。
宿題と、家庭学習を済ませて、夕飯の買い物に出かける二人。今日は、アトルに連絡をとっているので大丈夫だ。勿論、夕飯も作るのだった。
「喧嘩を始めたのはノブで、終わらせたのもノブだったね。」
「そうだね。」
「時々、嫌になっちゃうんだ。なんにも分かんなくて。どうしたら、頭が良くなって、お父さんに認めてもらえるのかな。」
「たとえ勉強が出来る様になっても、先生が無意味にあんたを叩くのは終わらないね。」
「意地悪ばっかり…。」
「意地悪で言ってるんじゃないよ。大体この言葉は、あんたが自分で言ったんじゃない。」
暢久は、そうだったかなという顔をしているが、ザンはかまわず続ける。「それよりさ、先生は虐待を受けて育った。精神的のは知らないけれど、身体的と性的に。とくに性的虐待は、心の傷が深いんだよ。多重人格になることもあるくらい。」
「それ何?」
「心の中に、自分以外の人間が出来るの。必要に応じて、増えちゃうみたい。」
「あんまり分かんないや。」
「わたしだって、あんまり分からないよ。経験しないと分からないことって一杯あるよ。」
「うん、僕ご飯作れない。」
「あんたみたいのを天然ボケって言うのかなあ…。違うかな。」
「それは馬鹿と違うのかな。」
「多分違うよ。」
買い物が終わり、家へ帰ってきて、今日の夕食シチューを作るザン。暢久はザンの後ろで、にこにこしながら待っていた。前のカレーも美味しかったから、今度も楽しみだった。
「また美味しいんだろうなー。早く食べたいなー。」
「そう急くなって。」
暢久は、立ち上がって、ザンの手元を覗きこんだりしている。『まるで子供だなー。』呆れながらも、楽しいザンだった。