妖魔界

 このお話には、夫の暴力が出てきます。割り切って読める人だけ読んで下さいね。

22 百合恵とトゥーリナ

 これは、百合恵とトゥーリナの出会った頃のお話である。

 百合恵は、鼻を手で押さえた。あふれる鼻血で、指が赤く染まっていく。良人(よしと)は、彼女を馬鹿にしきった顔で眺めた後、部屋を出て行った。

 優しい笑顔。言葉。お見合いで付き合い始めた良人は、名前に似合った、良い人だった。それが偽善だったと知ったのは、幸せと恥ずかしさが入り混じった初夜だった。強姦と何ら違いない事が済んだ後、良人は、優しい笑顔の仮面を投げ捨てた。

 酔って暴力を振るうんだったら、まだ良かったのに。まるで、お仕置きでもするように、良人は百合恵を呼びつけて、殴りつけた。

 でも、一番辛かったのは、いわれのない暴力でも、それを信じようとしない義母でもなく、両親の言葉だった。

「お前は、嫁に行ったんだ。」

「あなたはもう、わたし達の娘じゃないのよ。」

 いつの時代のお話なの?そう言い返せる程、その時に受けた心の傷は軽くなかった。

 

 それから、暴力に怯え、逃げ出すなんて思いつかずに生きてきた。そんな時だった。

「俺さあ、腹が減ってんだ。この頃、人間を喰ってないからやばいんだ。」

 洗濯物を干していた百合恵に、変な格好をした男が声をかけたのは。『これ、コスプレとか言うのだったかしら。』どこかの国の民族衣装とも思えない奇抜な服に、両肩の羽らしき物体。尻尾らしき物まである。TVでやっていたアニメやゲームのキャラクターの格好をする人達に似ていた。ただ、羽などが、作り物じみてないのが、変だったけど。

「通じてないのか?あれ、ここの国の言葉って、日本語じゃなかったかな。中国語か…?」

 目が青い。外人かしらと、百合恵は思った。確かに、西洋の人から見たら、日本人と中国人の区別はつかないだろう。

「いえ、日本語でいいんだけど…。わたしを食べたいって、寝たいってこと?」

「あー?なんだそれ。喰いてえと言ったら、喰いてえんだよ。俺は、腹が減ってんだ。お前を喰わせろよ。あ、言っとくけど、苦しまないように殺してからだからな。昔は、生きたままでも良かったらしいんだが、今それをやると、妖魔界にすっ飛ばされて、しばらく人間界には、来られないようになるって話だ。ま、どっちみち、そんな趣味は俺にはない。いいだろ?同意がなくても駄目なんだ。」

 変な格好をした男、トゥーリナは言った。「お前、死んでもいいって考えてるみたいだから、声をかけたんだ。」

 突然の侵入者にごく普通に対応していた百合恵だったが、これを聞いて、表情が険しくなった。

「何でそんな事が分かるの?」

「雰囲気ってものがある。お前からは、生きる気力が感じられない。惰性で生きてる。」

「…。…外で話す必要ないわ。中へどうぞ。」

 

「ふーん。だから、女なのに傷だらけの顔をしてんのか。」

 百合恵が軽く作った食事を食べながら、トゥーリナは言った。百合恵から夫の話を聞いていた。「それって、良くねえのか?」

「良くないと思うけど。」

「そうか。」

 トゥーリナは、口の周りを拭きながら、答える。「なかなか美味かった。人間の食い物もいいな。」

「さっきから、人間って言っているけど、あなた何?宇宙人か何か?」

「人間は、妖怪を知らないって本当だったのか…。」

「妖怪?漫画か何かで見たわ。からかさとか。傘のお化けよね。」

「?」

 百合恵の言葉の意味が分からず、トゥーリナは顔をしかめた。

 

「わたしを食べてもいいわ。ただ、このまま死ぬのは癪だから、夫以外の男を知りたい。わたしを抱いて。死ぬ前に抱かれたいの。」

「…分かった。本当は、抱くなら若い女がいいんだが、まあいいや。」

 百合恵は、自ら服を脱ぐ。トゥーリナは、それを眺めていた。

「あなたも脱いで。着たままなんて嫌。…わたし、27なんだけど、若くない?」

「肌の張りが…。」

「そうよねえ。」

 トゥーリナは、服を脱ぎ捨てた後、百合恵とともに、寝室へ向かった。

 

「どうしたの?シャワーを浴びて、綺麗にしてくるのに。」

 服を着たトゥーリナが立ち上がったので、百合恵は言った。「汗臭いの、嫌でしょ?美味しくなさそうだもの。」

「食べる気なくした。」

「え?」

「また来る。」

 トゥーリナは、百合恵に顔を近づけて、首筋を噛み、ちょっとだけ、血を吸った。

「いたっ。」

「すぐ治る。これは、印だ。お前は俺の女だ。」

 トゥーリナはそれだけ言うと、百合恵に一言も答える暇を与えず、窓から、飛び去った。

「凄いジャンプね…。何かの選手かしら?」

 百合恵は、噛まれた首を手で押さえた。もう、傷口がなかった。「俺の女?面白い事を言うのね。」

 

 それから、トゥーリナは何度も来た。百合恵は、彼から妖怪や妖魔界の話を聞いた。最初は馬鹿にしていた百合恵も、空を飛ぶ姿を見せられては信じるしかなかった…。

 

「お前、太ったな。」

 良人が言った。「何もしないで、ぶくぶく太りやがって。」

 拳が雨になる。百合恵は、無意識のうちにお腹を庇っていた。

 

 百合恵は、カレンダーの天気を記入する欄をサインペンで黒く塗った。月のものを示す。

「…。」

 お腹は、庇いとおした。流れてはいない。『何で来てるの。いるって分かるのに…。…赤ちゃんが…。』

 

「あの人ね、赤ちゃんが出来ないことでも怒っているの。わたしが不妊なんだって言うけど…。」

「俺の子だからだろ。俺は、女の体なんぞ分からねえが、妖怪と人間の子だ。人間の常識に当てはまらなくても、おかしくないさ。」

 トゥーリナは、長いこげ茶混じりの黒髪をかきあげた。せなから生えるこうもりの羽は、前から見ると桃色で、裏から見ると黒く見えるが、光が当たると紫になる。濃い紫は、黒に見える。

「俺と、妖魔界へ来い。ガキまで出来たんじゃ、もう、ここには置いておけない。」

「でも。」

 ぱちんっ。百合恵の頬が鳴った。

「お前は、俺の女房になったんだぞ。口答えするな。」

 大して痛くない。彼が手加減しすぎた訳ではなく、拳で殴られつづけていた百合恵には、平手打ちなどきかない。

「嫌とは、言っていないです。ただ、離婚届を出しておこうと思って。そうしないと、あの人、わたしが死亡扱いされるまで、再婚できないから。」

 トゥーリナは、外国語を聞かされた顔をした。妖魔界には、届出なんてないし、離婚も存在しない。配偶者が死亡した場合にだけ、再婚はあるが。

 百合恵は、彼の様子に気付かず、棚にしまってあった離婚届を出して、テーブルに置いた。自分の欄には、記入してある。使うことなどないと思っていた。ただの気休めの筈だった。

 百合恵は、メモ帳に、「好きな人が出来ました。探しても無駄です。わたしは、この世から消えますから。」と、ありのまま書いた。しかし、知らない人が見たら、心中でもしそうな文だ。

 怒った夫が離婚届を破り捨てたとしても、そこまでは、面倒見きれない。

 百合恵は、自分の持ち物を全て出して来た。思ったより少なくて、少し悲しくなった。

「いいですわ。準備が済みました。行きましょう、トゥーリナ。」

 

「君、いつから食料調達係りに落ちたのさ。僕がザン様に文句を言ってきてあげるよ。」

 ターランは、百合恵を連れたトゥーリナに会うなり、言った。

「分かってんだろ。違うって。…こいつ、百合恵って言うんだ。俺の女房だから。」

 ターランが真っ青になり、へなへなと崩れ落ちるのを放っておいて、トゥーリナは、百合恵を連れて行く。百合恵は、ターランの様子が気になったが、夫が腕を引っ張るので、仕方なくついていく。

 

 とんとん。トゥーリナは、ザンの部屋の巨大な扉をノックした。部下になったばかりの頃、ノックをせずに入って、半殺しの目にあわされたので、それからは、嫌々ながらノックをしていた。

「何の用だ、今俺がすげー忙しいのは知ってんだろ!…おっ、人間じゃねーか?珍しいな、お前が俺に礼をするなんてよ。これ、俺が普段、お前を鍛えてやっている礼だろ?…どうやって食うかなあ。」

 激しい怒りと共に出てきたザンは、百合恵の顔を見るなり、喜色満面になった。トゥーリナが、違うと言いかけた瞬間、百合恵の平手が、ザンの頬に炸裂した。

「女の子がなんですか!そんな言葉遣いをして。あなたのお母さんは、何も言わないの?」

 トゥーリナもザンも目を丸くする。「しかも年上の人に対する言葉遣いもなってないのね!」

 ザンは既に、二千の年を越していたが、見かけは、18歳くらいにしか見えない。人間の百合恵が、自分やトゥーリナよりも年下だと思ったのは、仕方ないかもしれない。

「いや、俺は…。いてえっ。」

 またビンタ。「いや、だから、俺は、いてっ!」

「女の子が俺なんて止めなさい!」

「いや…。」

「口答えしないの!…これだけ言っても分からないなら、こうするしかないわ!」

 百合恵はそう言うと、ザンの腕を引っ張って、彼女の体を膝の上に乗せた。

「な・何すんだよっ。…いてえっ。」

 ぱあんっ。ザンのお尻に百合恵の平手が飛んでくる。

「まだ言うの!きちんとした言葉が出来る様になるまで、きっちりお仕置きしてあげます!」

 百合恵はそう言いながら、ザンのお尻を叩き続ける。ぱあんっぱあんっ。

「いてえっ、いてえってば。…こら、ザハラン、てめえ、笑ってねえで何とかしろ!いてえってばあっ。」

 トゥーリナは、お腹を抱えて笑っていたが、ザンが凄い形相で睨んでいるのに気付き、百合恵に声をかける。ほっとくと殴られそうだ。

「おい、百合恵。そいつな、俺よりも倍以上年上なんだぞ。」

「嘘でしょ、そんなの。どう見たって18歳くらいにしか見えないわ!」

「妖怪ってのは、そんなもんなんだ。俺だって、年を言うのを忘れてたけど、780越してんだぞ。」

 百合恵は、ザンのお尻をぶつ手を止めた。

 

「ごめんなさい!わたしったらてっきり…。子供だとばかり…。なんて謝っていいのか…。」

 平謝りする百合恵にザンは、苦笑いで答えた。

「いや、いいさ。仕方ねえよ。尻は痛いけど。鍛えてんのになあ…。」

「鍛え方がまずいんじゃねえのか?」

 ごんっ。ザンがトゥーリナの頭を殴った。

「何偉そうにほざいてんだ。大体てめーが、百合恵にきちんと説明もしねえで連れてくるのがわりーんだよ!」

「いてえな、お前の力で殴ったら、頭が壊れるだろうが。」

「ああ、壊れちまえ!どうせ空っぽなんだから、壊れても困らねえだろ。」

「なんだと!お前だって、胸ないくせにブラジャーなんかするな!」

「てめえ、人の気にしてることを!」

 ザンとトゥーリナがぎゃあぎゃあ怒鳴り合うのを、百合恵は呆然と眺めていた。子供の喧嘩だ。二千歳の人と八百歳近い人のすることとは、到底思えない。殴り合いまで始めた。

「あーあ、また喧嘩なんかしちゃってー。喧嘩するほど仲がいいんだよねー。羨ましいなあ。昔は、僕とザン様が仲良かったのにー。ネスクリの次は、ザハランなんだね。」

 通りがかったフェルが二人の喧嘩を少し羨ましそうに言った。

「フェル、誤解を招くようなことを言うな。俺は、お前ともネスクリとも、勿論、この馬鹿ともいい仲になったつもりはねえ。」

「こっちから願い下げだ!ボカボカ殴りやがって。」

「へっ、一発も俺に当てられなかったからって、拗ねんなよ。仕方ねえだろ。てめえは、この俺様より遥かによええんだからな!」

「うるせー、アマ!追い越したら、みてろよ。お前なんか、犯してから殺すからな!」

「…お前、女房の前でそんな言葉を使うな。」

「な・なに急に冷めてやがんだよ。調子が狂うだろ。」

「ザハランったらあ、ザン様に構って欲しいのお?」

「うるせえ、馬鹿狐!口挟むな!」

「へーえ、下っ端の君がこの僕にそんな口きいていいのー?2度とくっつかないように、腕引っこ抜いてもいいんだよお。羽を破るとかさー。あっ、なんか僕、こうもりを食べたくなっちゃったなー。」

「フェル。そこまでにしておけ。百合恵が怖がってるだろ。」

 ザンが言うと、フェルは、「はーい。」と返事をした後、百合恵の顔を覗きこみ、

「君、百合恵って言うの?日本人だっけ?その名前は。ザン様に名前を覚えてもらってるってことは、餌じゃないんだ。もしかして、ザン様の夜の奴隷…いたっ。冗談ですよお。すぐぶつー。あーお尻痛い。」

「俺が結婚してねえからって、勝手に同性愛者にするな!」

「ごめんなさーい。」

 

 トゥーリナの部屋。

「あー、すげー疲れたっ。」

 トゥーリナは、ベッドに寝転んだ。「あの馬鹿狐の野郎も、殺す事に決めたぞ!」

「…。」

 百合恵は、妖魔界も変な場所だけど、少なくとも良人の下にいるよりは、ましだろうと思い始めていた…。

 

 それから、何十年も過ぎた今、百合恵は、夫の膝の上に横たえられていた。

「ほんとに、お前は、ケツ叩かれねえと分からないんだからな!ガキと何が違うんだっ。」

 ばしっ、ばしっ。剥き出しにされたお尻が大きな悲鳴を上げる。

「だって…。」

「口答えをするなって言ってるだろ!」

 ばしいっばしいっ。叩き方が強くなる。かつて、頬を叩いて怒っていた事など、今は遥か昔の出来事になってしまっている。

「あーん、痛い!ごめんなさーい。」

 百合恵がかつて一度だけ人間界に遊びに行った時、良人は若くて綺麗な女性と歩いていた。両親は、孫に囲まれて、笑っていた。百合恵の人間界への未練は、すっきりとなくなった。

 もう、自分は、妖魔界の人間なんだと…。

 

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