Dear My
Kitten
-前編-
真夏の日差しが照りつける日曜の午後。 山下公園から県庁に向かう横断歩道では、信号待ちの人々が凶悪な日差しを手で遮ろうと努力していた。 信号が青に変わり、『とうりゃんせ』のメロディが鳴り響く。 のろのろと渡り始めた群衆の間を縫うように、スーツ姿の男が一人、足早に追い抜いてゆく。 ふと顔を上げたサラリーマンの一人が何気なく男の背を見送って、そして次の瞬間ぎょっと立ち竦んだ。 遠ざかる男の背から、ふさふさした白い毛並みのかわいらしい子猫が、あどけないつぶらな瞳でサラリーマンを見返していた。 遮蔽物の無い車道に、黒い乗用車が一台停まっている。照りつける日差しのせいで、その車体からは、ゆらゆらと陽炎が立ち昇っていた。 「なんで俺達が国会議員のプライベートを警護しなくちゃならないんですかね」 運転席でぐたりとした町田が、額の汗を拭いながらぼやいた。 この暑さの中で、どの窓も全開にしてある。ここは住宅街に近い路上で、アイドリングは禁止されていた。 「脅迫状なんて、日常茶飯事でしょう。専属のSPも雇ってるんだし、何も刑事を駆り出すこともないのに」 「榊原議員は断ったそうだ。プライベートに公僕の手を煩わせることは出来ないとな。だが奥さんが心配していてなぁ。通報があったからには放って置けんと」 後部座席から身を乗り出して、扇子で扇ぎながら田中が答えた。車にはもう一人、乗っている。助手席の主は、サングラスに太陽を映しながら黙り込み、何かを沈思しているように見えたが、実際は高価な麻のスーツに汗染みが出来ないかと心配していたのだった。 田中のおしゃべりは続く。 「これがまた三十代半ばの、水も滴るいい女なんだ」 榊原和彦。四十歳にして、衆議院議員を勤める若手議員である。 彼は五年前まで、政界の重鎮、三津谷幸三の第一秘書を務めていた。しかし公然と行われる贈収賄、暴力団との癒着など、腐敗した政治に義憤を抱き、告発。三津谷は飼い犬に手を噛まれた形で、失脚した。 次の衆議院選で無所属で立候補した榊原は、その誠実さが主婦層に受けて当選。しかしそんな彼には当然、政界は敵だらけだ。 「そんなときにプライベートで外出するなんて。家でじっとしてればいいじゃないですか」 「娘さんの通うピアノ教室の発表会だそうだ。それに五歳の誕生日」 彼らの前には道を挟んで住宅地、その反対側には広々とした敷地を持つ、ホールが建っていた。音楽祭や文化的催し物が開催される大型のシンフォニーホール。 暑さに辟易しながらも、三人の目はホールへと注がれていた。 「結婚したのは三年前だろう?」 鷹山が初めて口を挟んだ。田中は「食いついたね」と哂って答える。 「奥さんの連れ子なんだよ。元は高級クラブのホステスでな。シングルマザーだった彼女を、榊原が見初めたってわけだ」 「ナカさん。詳しすぎ。でもスキャンダルだろ、それは」 「そういう開けっぴろげなところも人気なのさ」 辛く退屈な張り込みは、まだ終わりそうに無かった。 「あの・・・不審者の通報が相次いでいるんですけど」 クーラーが中途半端に利いた港署内。 冷たい麦茶を啜っていた近藤に、制服姿の警邏課課長がおどおどと声を掛けた。 「それは警邏課の仕事でしょう。こっちは今日は人手が足りなくて困ってるんです。そちらで処理して下さいよ」 「構わないんですか」 構わない、とはどういうことだろうか?と疑問に感じつつ、近藤はどうぞどうぞと答えた。 「背中に大きな猫のヌイグルミを背負った、タキシード姿の男、ですよ」 「暑くなってくるといろんな奴が出て来ますな」 「黒いタキシードにサングラスをかけた、三十歳前後の痩せ型の男。巨大な猫のヌイグルミをピンクのリボンで背中に背負って、踊るように走りながら桜木町方面へ向かったそうです」 「ふむ」 近藤は殻になったガラスの湯飲みを茶托に戻し、警邏課課長の困惑顔を見上げた。 「すまんが、もう一度言ってくれますかな?」 「黒いタキシードにサングラスをかけた、三十歳前後の痩せ型の・・・」 「・・・」 「大下さんよ、きっとそれ」 少年課の自席でかき氷マシーンのハンドルを勢い良く回していた薫が、にべも無く答えた。 「わかっとるっ!」 悲鳴に近い怒鳴り声に、その場にいた全員が縮み上がった。しかし薫は涼しい顔で苺シロップをかけた氷を一匙、口に放り込んだ。 「大下さん・・・とうとう暑さにやられたのね」 視線を感じる。 こそこそ話も聞こえる。 窓越しに目が合った主婦が、慌てて目を逸らした。 バスの中、である。 大下は適度に込んでいるバスの中で、握り棒に掴まって立っていた。結構乗客がいるにも関わらず、大下の周りだけが閑散としている。 そもそもこんな状況に置かれている原因を思い出して、大下は不愉快気に歯軋りした。 今朝から地元国会議員の警備だとかなんとかで、鷹山ら三人が出払っているため、大下は一人で覆面車を流していた。 そんな時、とあるビジネスホテルで不審な泊り客があるとの通報で、大下は山下町の海の見えるホテルに一人で向かったのだ。 不審人物・・・ 今では自分がれっきとした不審人物なのだが。 ホテルの一室に踏み込んだ瞬間、大下は背後から首筋に一撃を受け、昏倒した。一瞬の隙をついた、プロの手際。声を上げる暇すらなかった。 気がついたとき、大下は一人かけのソファに座らせられていた。 とりあえず己の身に何が起こったか確認しようとして、自分の両手がそれぞれ左右の肘掛に括り付けられているのが分かった。 それに、洋服が・・・変わってる。何故かタキシード姿である。 訝しげに首を捻って、そして最大の違和感に気付いた。 背中に圧倒的な違和感を感じる。何故か自分はソファにかなり浅く腰をかけていた様だ。それもこれも、原因は大下の背中にくっついている物体の所為なのだ。 控えめだが矢鱈とファンシーな幅広のサテン地のリボンが、タキシードの胸を交差しており、背中を回って腰の辺りで蝶々結びになっている。 つまり・・・オンブ紐のように。 『気がついたようだね』 それはテーブルの上に置かれた小さなスピーカから聞こえてくる。静かに、低く落ち着いた年齢を感じさせる男の声だった。 「あの・・・これはなんですか?」 『大事な大事なお届け物だよ』 「宅配便で送ればいいと思うんですけど。それに何でタキシードなんですか」 『君にぴったりで良かったよ。大下さん』 名前を知っている。 大下はがらりと口調を変えた。 「中身はなんだ」 『プレゼント、そう思ってくれていい』 「サンタクロースにはまだ早いぜ」 『この季節にぴったりのプレゼントだよ』 大下の脳裏に花火のイメージが浮かび上がった。 花火・・・もしかして・・・ 「爆弾っ・・・!」 『それを届けてくれないと、他の関係の無い人々が迷惑することになる』 「何っ」 『五時までに届けて欲しい。そうすれば何事もなくことは収まる』 妙な物言いではあったが、大下には気付く余裕もなかった。壁にかけられた時計を見る。 五時・・・まだまだ時間は十分ある。 「何処へ」 『知っていると思うよ。シンフォニーホール。そう遠くは無いね』 シンフォニーホール、と聞いて大下の心臓がびくりと跳ねた。 そこは鷹山らが件の国会議員を敬語するために張っている場所ではなかったか? 「お前が榊原議員を・・・」 『それのセンサーは君の心音を監視しているから、むやみに外そうとしないほうがいいよ。それに言っておくが、お仲間と連絡を取るのは命取りだと思いたまえ。車を使うのも禁止だ。わたしはいつでも君を監視している』 男は大下の問いに答えず、淡々と用件を伝える。その落ち着きぶりは彼のキャリアを示していた。 「約束を守ったとして、お前が爆弾を爆発させないという確証はどこにある?」 『止め方はジュリア・・・榊原の娘が知っている』 「どういうことだ」 「質問はなしだよ。それではスタートだ。がんばりたまえ」 初めからロープに切込みが入っていたのか、会話の間中動かしていた両の手首からロープがするりと落ちた。 大下は立ち上がる。背中に僅かな重み。 壁際の姿見に映すと、己の背中に括り付けられた馬鹿でかい白い物体が目に入った。 背中合わせにくっついた、ドデカイ猫のヌイグルミ。 「つかぬ事をお伺いしますが・・・なんでこんな」 「日本の女性はそういうものが好きだと聞いている」 確かに女性なら思わず抱きしめたくなるような愛らしい大人気キャラクター。 名前は忘れたが・・・ 「ああ、それから。暑いからと言ってあんまり汗を掻かない方がいい。ショートするとまずいからね」 大下は出た汗を引っ込めようとしたが無駄だった。 そんなこんなで、現在に至る。 大下とて打開策を考えないわけでもない。しかし、あの手際・・・。素人ではない。 「あ〜!おっきなキティちゃんだぁ!」 バスの中に、無邪気な子供の声が上がった。今しがた止まったバス停から乗ってきた母子連れの子供だ。 しかし途端に子供は母親に口を塞がれ、そそくさとバスの後部へ引っ張って行かれた。 車内がシンと静まり返っている。その原因が自分であることに、大下はそれとなく気付いていた。 カチカチカチカチカチ・・・・・・ 大下の耳に、時を刻む音が微かに聞こえる。それは紛れも無く背中のヌイグルミの体内からだ。 大下は深々と溜息を吐いて呟いた。 「なんで俺なのかな」 港署捜査課では近藤が、例の不審者(大下)の捕獲を警邏課に任せ、ついさっき入ったばかりの県警からの情報に首を捻っていた。 「公安からさっき届いた。二日前に成田空港で撮られた写真だ。どうやら国際的な殺し屋だというんだが」 吉井が一緒にその写真を覗きこむ。クリアに撮られていはいるが、肝心の顔が映っていない。 「この写真じゃ、どこの国の人間かも分かりませんね。上手くカメラを避けている」 「一応、近隣の県の県警に配られているようだな。三年前のようにドカンとやられたりせんようにな」 三年前、日本で逮捕された国際テロ組織の手配犯が、護送中に爆死するという事件があった。未解決のこの事件は、組織が口封じのために雇った殺し屋の仕業であると考えられていた。 Mr.J(ジェイ) そんな芝居じみた呼び名が彼につけられたニックネームだった。 しかし現在、彼が狙うような大物はこの横浜にいないし、近藤にとってもそれはまるで他国の出来事のように他人事だった。 「目撃者の調書、取り終わりましたぁ」 人手の足りない捜査課に代わって例の不審人物(大下)の目撃証言を取っていた薫が、何か白い紙をヒラヒラさせながら近藤の前に駆け寄ってきた。 明らかにこの状況を楽しんでいるように見える。 「ん?」 薫はデスクの上に置かれた国際指名手配犯の写真をまじまじと見つめて、そして叫んだ。 「これ・・・これよっ!」 「なんだ?知り合いか?」 「んなワケないでしょ。キティちゃんよ」 ぎょっとした吉井がもう一度薫の指差す写真を見直すと、俯き加減の男が脇に抱えているのは、猫型の巨大ヌイグルミ。 その愛らしいキャラクターは、吉井の娘も大好きなので、良く家の中でも見かけていた。 「でもこれは有名なキャラクターだし。いくらでも量産されているでしょうに」 「違うのよ。衣装がっ!」 よく見ると、男の持っているヌイグルミも、目撃証言のヌイグルミも、赤いドレスだ。左の耳には薔薇の造花。 「確かに・・・うちの娘のと違う気がするなぁ」 「そうなのよ。普通のキティちゃんは、オーバーオールにリボンだもの」 しげしげと写真とイラストを見比べている吉井に、薫は誇らしげに胸を張って見せた。 「つまり・・・」 近藤の静かな呟きが二人の会話を遮った。 「その国際的な殺し屋と思しき男が所持しているヌイグルミと、例の不審人物(大下)が背負っているヌイグルミは、同じものと言うわけか」 辺りがシーンと静まり返った。 「じゃあ、あのキティちゃんは・・・まさか爆弾?」 「大下を止めんと、大変なことになるぞ」 「どこへ向かっている!奴は!」 無線室で警邏課のパトカーと通信していた河野良美がヘッドフォンを外して答えた。 「シンフォニーホールです」 一台のライトバンがシンフォニーホールから少し離れた閑静な住宅街の裏手に停まった。 運転席にはサングラスの男が、イヤホンから聞こえてくる騒々しい会話に神経を尖らせる。 警察無線の盗聴 『猫のヌイグルミを背負った、年齢30歳の男を緊急手配。男は爆弾を所持してる可能性有り。現在バスを下車し、徒歩にてシンフォニーホールに向かっている模様・・・』 男は眉を顰めて忌々しく舌打ちした。 「あのクソ爺、俺の他にも雇ってやがったか」 一人の男を殺すのに一億円をポンとだす男。 依頼者は汚い仕事をしてきたことは口に出さずとも分かる、嫌な目をした老人だ。 「まぁ、こんなマヌケに出し抜かれることもないか」 大下が聞いたら烈火のごとく怒りそうな台詞を吐くと、男は後部座席からカサブランカの豪華な花束を取り出して抱えた。そしてとりわけ急いでいるとも思えぬ優雅な足取りで歩き始めた。 |