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    旗振り通信ものがたり     


2004年2月15日〜4月17日 柴田昭彦作成 

2012年12月16日  玉島、玉野、横井山、通天閣の旗振り場の記事を追加
2013年12月30日  京都府相楽郡精華町・木津川市の相場振り山の資料を確認
2014年1月3日  『旗振り山』の本の発行後に発見した旗振り場の一覧表を追加
2014年1月4日  旗振り通信ルート図を掲載(修正図を含む)

2014年1月5日  一部、修正(枇杷島の横井山について)

2014年1月13日  過去の削除記事の復活を行いました(2009〜2011年)。
             (旗振り通信の再現を行ったテレビ出演などの記事)
2014年1月17日  桶狭間が旗振り場であるという古老の証言について
2014年2月6日  『神戸謎解き散歩』に「旗振り通信ルートの特色」を分担執筆
2014年2月8日  「歴史と神戸」302号に「淡路・徳島ルート」の紹介記事を掲載
              (1.旗振り通信Q&Aの
Q5をごらんください)
2014年3月10日 一部修正(ラジオ塔の記事を「6.六甲山の話」へ移動させた)
2014年3月12日   Q17へ追記(高槻泰郎氏の呈した疑問へのコメント)
2014年9月9日 「新ハイキング関西」「新ハイ関西」のバックナンバーについて(Q5)
2015年12月30日 NHK連続テレビ小説「あさが来た」の中の「旗振り通信」について


(2015年12月30日)
2015年3月27日、NHK大阪放送局のディレクターの鈴木航氏からメールがあり、連続
テレビ小説「あさが来た」(9月末から放送) の中で慶応2年頃の堂島米会所のシーンで
「旗振り通信」を描きたいので相談したいという申し出があった。鈴木氏は「拙著、私のこの
ホームページ、NHK番組「タイムスクープハンター」(2010年)での「旗振り通信」の監修」
を承知の上での依頼でもあり、電話で、参考になりそうな事項についてアドバイスを行った。
放送は9月28日から始まり、米会所での旗振り場面が放映されたのは10月15日であった。

2015年10月15日の第16回の旗振り場面(赤旗と白旗)と主人公たちのセリフは次の通りであった(慶応2年での出来事)。

8:02 米会所の手振りと火縄
8:02 屋根の櫓場で赤旗の旗振り場面、手振り
8:03 白岡(今井)あさ「あれは何ですやろ、あの旗は?」(櫓場で、白旗を振る場面を指す)
     五代才助(友厚)「あれか。あれは相場を知らせちょっとじゃ」
     白岡あさ「相場?」
     五代才助「江戸も京都も大津も赤間が関もみんなこの大坂の米相場をもとに動いとる。
             値段をちっとでも早う知らせるために飛脚をとばすほかに、天気が良か日は
             あげんして高い場所で旗を振って次々に伝えていっとじゃ」
       白岡あさ「へええーっ、そらあ、えらいことどすなあ、びっくりぽんや」
8:04 火縄、櫓場での白旗の旗振り

8:05 手振り


その米会所の回想のシーンが12月8日にあり、そこでも赤旗の旗振り場面が映し出されていた。
「あさが来た」は女性実業家・広岡浅子氏をモデルとした物語で、視聴者から好評で、主題歌
がAKB48の「365日の紙飛行機」であることからも話題となった。

ところで、先日、「大英博物館展」(神戸市立博物館、2015.9.20〜2016.1.11)に行って
音声ガイドを利用したら、ナレーターが要潤で、「タイムスクープハンター」のように、タイムワープ
して、過去の人にインタビューする設定になっているのに感心した。なるほど、そういう設定も
ありかも・・・。


(2014年2月12日)
大国正美編著『神戸謎解き散歩』(新人物文庫、株式会社KADOKAWA)2月12日
発売された。この中で
「大阪−神戸間を三分で伝達、旗振り通信のルートの特色とは?」
を分担執筆している。旗振り通信の伝達速度は新幹線を遙かに超え、飛行機さえも超え
ていたこと、六甲山系では濃霧が発生しやすいので、その場合でも通信がしやすい低地
に旗振り場を設けたという特色があることを紹介している。


(2014年1月17日)
「緑区の史蹟」(平成12年)の著者、榊原邦彦氏によれば、「西尾町史 上」に旗振り
地点の一つとして記載された「桶狭間」について、現在94歳の古老に尋ねたところ、
「子供の時、おばあさんに(米相場を)旗で合図したと聞いた」という回答が得られた
という。従って、桶狭間を経由したことは確かであろう。ただし、それ以上詳しいことは
不明である。ちなみに、「西尾町史 上」には、桑名〜名古屋〜桶狭間〜知立一里山
〜八ッ面山という通信ルートが示されている。



(2014年1月3日)
  『旗振り山』(ナカニシヤ出版)を出版したのは、2006年(平成18年)5月である。

  出版後、8年近くが経過し、その間に、新たに発見した旗振り場の数も多数になった。

  そこで、『旗振り山』に収録した「旗振り場一覧表1〜10」の補遺を作成してみた。

    「旗振り場一覧表1〜10」・・・154カ所 (『旗振り山』300〜309頁に収録)
   
    「旗振り場一覧表(追加分)」・・・(新規)45カ所+(再掲)2カ所

  通信ルートについても、大幅に修正が必要になっているが、とりあえず、今までに

  公表したものを掲げておこう。 → 通信ルート図(修正図を含む)


(2013年12月30日)(2014年1月5日、追加)
 
「京都地名語源辞典」(東京堂出版、2013年10月)の「千鉾山」(327頁)と「相場振山(木津川市)」(331〜
332頁)の項目の解説により、
京都府相楽郡精華町と相楽郡木津町(現・木津川市)の境界付近に、米相場を伝
えた相場振山(そばふりやま)があったことが明らかとなった(11月4日確認)。その場所は
相楽ニュータウンの
造成によって山の原形は失われている
が、東西に見通しの良い標高約100mほどの山であったという。場所は
木津川市兜台六丁目とされている(ただし、裏付けできない)。

 
その出典は「精華町の史跡と民俗」(1988年初版、1993年第二版、精華町)の中の「山田川流域の消長」と
いう嶋ア幸次氏(山田区)のレポートの中の
「相場振り山(そばふりやま)」という項目である。1980年4月に撮影
した相場振り山の遠景写真が掲載されている(同書129頁)が、その地図上の位置はよくわからない。精華町教育
委員会生涯学習課の担当者に問い合わせたところ、
「精華町全図」(1973年)に記載された山田地区の南西方向
1.4キロの標高136.6mのピークと推定される(ただし断定できない)
とのことであった。嶋ア氏は故人。
 
標高136.6mのピークのあった場所は、現在の精華町桜が丘三丁目4と木津川市兜台四丁目10の境界付近
で、標高は115〜120mぐらい、付近の最高地点のすぐ近くである。木津川市上水道・相楽西配水池のすぐ西側
である。
 「京都地名語源辞典」(331頁)では、「相場振山(木津川市兜台六丁目)」としているが、これだと山田地区の南
へ600mのピーク(95〜100m)に同定していることになるが、出典の遠景写真とは合致しないように思われる。

 相場振り山において、どこと中継したのかについては「精華町の史跡と民俗」に記述がなく、推定するほかない
が、北西へ6.3キロ離れた京田辺市高船の千鉾山(311m)と中継できる立地にある。また、東へは15.4キロ
離れた笠置町の相場の峰(320m)とも中継が可能な立地である。


(2012年12月15日、追加)
★虫明徳二『ぼっこう玉島(ぼっけえ たましま)』(徳二庵発行、昭和55年)の6ページに次の記事がある
ことを発見した(11月12日)。

玉島三品取引所 〔中略〕三品のその日の立会値が、羽黒山から鴨方町の遥照山の通称『メガネ』
手旗信号により、
児島の常山を経て岡山経由で大阪市場に伝達されたそうである。当時、望遠鏡で手旗
信号をキャッチして読み取っていたということである」
 
虫明氏に先日、電話で尋ねたところ、遥照山にマイクロウェーブが出来た頃、玉島の郷土史研究家(故人)
が昔、古老から聞き取った内容を教えてもらって、昭和50年代に、その内容を書き留めたものということ
でした。玉島の古老の間に常山での手旗信号が知られていたということになります。

玉島三品取引所は、虫明氏の勤めていた会社の近くにあったという。清滝寺(せいりゅうじ)、羽黒神社の
近くである。羽黒山というのは、羽黒神社のことである。次のような米相場通信ルートがあったことになる。

玉島三品取引所(羽黒山)〜遥照山(目鑑<メガネ>展望台)〜常山(307m)(玉野市)〜岡山
※ 各地点間距離・・・・・羽黒山(6キロ)遥照山(26キロ)常山(15キロ)岡山

距離で「26キロ」は、やや遠いが、他に例がないわけではない。
遥照山は両面薬師のある山頂(405.5m)ではなく、その東南の
メガネ展望台のことだという。
羽黒山(阿弥陀山)は、標高10m余で、羽黒宮を勧請して祀ったという。
岡山県立図書館に、玉野市の郷土資料の調査を依頼したが、常山での旗振りを裏付ける資料は見つから
なかった(11月28日)。


★徳山倉商・編著『百戦連勝』(商品界発行、昭和44年)の103ページに次のような手旗信号の連絡コース
の記事があることを見つけた(12月11日)。78ページ、99〜103ページに手旗信号の記事がある。

「桑名へは生駒山を経て次々と伝達され、桑名から名古屋へは多度山―
枇杷島の横井山から塩町の取引所
へ伝わるという仕組みであった。
大阪名所の通天閣も一時旗場になったことがある。

横井山といえば、現在の名古屋市中村区横井一丁目の「横井山緑地」で、西側に準源寺がある(標高4m余)
横井山は、庄内川の蛇行する湾曲部の内側に、河川氾濫で形成された土砂堆積(砂堆)による小丘である。
「尾張名所図会」に載せられた観光地で、今でも桜の名所である。準源寺南方の最高地には清正公堂が建つ。
大正9年の地形図には、横井の集落の西に、
標高9.4mの三角点が記載され、これが横井山の山頂だろう。
多度山と横井山の距離は、18.8キロであり、米相場の旗振り通信には妥当な距離である。

(2014年1月5日の追加)
上記のような考察で、横井山での旗振りを考えたが、「枇杷島」は西枇杷島町(清須市)と東枇杷島町(名古屋市
西区)であり、中村区の横井山緑地とは、かなり離れている。『百戦連勝』の記載「枇杷島の横井山」には何らかの
錯誤があるのだろう。従って、
地点は不明と言うほかないだろう。ここに訂正しておきたい。

初代通天閣が誕生したのは、明治45年7月のことである。旗振り通信は大正3年まで行われたから、通天閣
での旗振りが事実とすれば、その終末期ということになる。通天閣での旗振りについて紹介しているのは、
この徳山氏の著書だけであり、裏づけは難しい。
他方、京都の八坂の塔で米相場通信が行なわれたという資料もあり、大変、興味深い記述である。

★上田長太郎著『大阪叢書 第四輯 堂島・曽根崎界隈』(大阪趣味研究会発行、昭和4年)の10ページに、
次のような記述があり、旗振りが、福島・天満・野田・網島でも行なわれたことがわかる。

「明治年間の取引所は、屋根に旗振り台といふものがあつて、相場の高低は、一々そこで旗を振(ふる)つて
知らせたものだ。そしてその旗を、
福島とか天満あたりの火の見櫓から眺めてゐて、また其通り旗を振る、
それを
野田と、網島で・・・・・・・・と云つた具合に、次から次へ、田を越え畑を横切り、川を飛び山を繞つて、
神戸へでも京都へでも、段々伝へられて行く仕組になつてゐた、それが暫くの間に電信電話と進歩し更に
現在はチツカーとなりラヂオとなつたのである。」

網島は、現在の大阪市都島区東野田四丁目であり、地下鉄京橋駅の北方、大阪市立東高校の敷地である。

(2012年7月28日、追加)(同年12月15日、修正)
★1月に実施した筆者の講演「六甲山の旗振り山」(第106回セミナー)の内容を紹介しています。
  「六甲山の旗振り山」(六甲山魅力再発見市民セミナー、第106回、2012年2月、六甲山を活用する会)
   (2012年1月21日、六甲山地域福祉センターで行なったセミナーの概要を紹介したレポート)
   (第1回〜第72回のセミナーの内容が『六甲山物語1・2』として出版されている。)
   
(第73回〜第108回のセミナーの内容が、2012年9月に、『六甲山物語3』として出版され、
    筆者の「六甲山の旗振り山」の講演内容も、30〜32ページに紹介されている。)
   (百八煩悩にちなむという108話を収録する『六甲山物語1〜3』をすべて収録した『六甲山辞典・総集編』
    は、CD-R版として、六甲山を活用する会から刊行中。神戸・元町の海文堂書店で購入できます。)
  六甲山魅力再発見市民セミナー 第106回 「六甲山の旗振り山」 六甲山を活用する会も参照ください。

(2012年7月26日、追加)
★淡路・徳島ルート
 『明治ニュース事典 第一巻』(昭和58年、237頁)には、明治9年7月1日付の東京日日新聞(毎日新聞の前身)に収録された「旗信号で相場を伝える」と題した次のような記事が見える。

 米相場の伝言に付き面白き一報を得たり。阿波の徳島の米市場は南海道の最も盛んなる相場所にて、常に大坂堂島の直段によりて高下を成し掛ケ引を附け、大坂の相場はまたたくうちに徳島に知れると云うゆえに、それはいかにして知れるやと不審に思いその委細を聞きたるに、まず大坂より神戸、明石、淡路の岩屋、志筑、福良まで所々の山頂にて兼て人夫を出し置き、刻限を期して長き竹竿の先に白紙の采配を附けてこれを振り、阿波の鳴門を間に挿(はさ)み、山より山に合図を移し、撫養より徳島まで右の通りにて達し、采配の振る数にて相場を通ずるの手続きなりとぞ。


★雨乞山・塩田(淡路市)
 『淡路町誌』(平成17年)の「伝承 語り草」の中に「旗振山」の項目(濱岡きみ子執筆)があることがわかった(平成23年7月)。筆者の『歴史と神戸』240号の記事が紹介され、関連して、次のような記述が見える。

 なおこの金額を知らせることは、生穂(現・津名町)雨乞山の下に住んでいた尾崎雅楽さんに生前見晴らしのよい雨乞山に案内され教えていただいたことが何回かあった。だが単純であり、広いつながりがなく、そのままになっていた。

 淡路市生穂には、雨乞という集落があり、その背後のピーク(標高135.9m)が雨乞山で、159m三角点の南方150m付近である。山頂は雨乞山公園となっている。 濱岡氏から聞いた話によると、戦後、一宮町の小学校教諭として在職中に行った聞き取り調査の際、尾崎雅楽(がらく)さん(男性。当時、60歳ぐらい)から、雨乞山は米相場の旗振り山で、明治から大正の頃、雨乞山から塩田(現在の塩尾付近であろう)へ向けて、米相場を伝えていたことを聞いているとのことだった(平成24年5月)。尾崎さんがご存じの旗振り地点は、その2ヶ所だけで、他の中継地点は全く不明だという。


★三熊山(洲本市)・南辺寺山(南あわじ市)・妙見山(鳴門市撫養)
賀集憲一編『ふるさとの山 南辺寺』(南辺寺山開発協会、昭和44年)の中に、旗振り通信に関する記事を見つけた(平成24年3月)。次のような内容である。

法(のり)の燈(旗高信号)
江戸時代より明治の初年電信電話の出来る頃まで、奥院旧趾荒神松の所に櫓を造り、望遠鏡を備え、昼は旗、夜は松明を掲げで(ママ)東は三熊山西は阿波の妙見山を結び、大阪の米相場の中継が行われて来た。即ち大阪より東は京都、大津までと、西は馬関に至る迄の間とあって信号の旗と松明とは月によって振方が変っていたという。旗をもって報ずる故に米高のことを旗高とも呼ばれた。また松明の火は近海をゆく船の標識ともなって船頭達を有難がらせ南辺寺山の法の燈と呼んだ。

この記事によって、江戸から明治初期の、「三熊山(洲本)〜南辺寺山(旧南淡町)〜妙見山(鳴門市撫養町)」という旗振り通信ルートが明らかとなった。



(新ハイキング関西、114号、2010年9・10月、より)
旗振り通信の新研究N江戸ルートについて  柴田 昭彦

【関東地方の旗振り山はどこに?】
 平成21年6月16日、インターネット検索で、曽田博久『千両帯 新三郎武狂帖』(角川春樹事務所、ハルキ文庫、平成17年)の中に「旗振り権現山」という章があることがわかり、すぐ注文して、19日に入手した。
 内容を見ると、天保四年(1833)、江戸に住む柘植新三郎を主人公として、米相場にまつわる不正を暴く小説であった。米の先物取引(109頁)や江戸の米会所巡り(166頁)に続いて、「堂島の米相場を江戸の菱巳屋へ速報するための旗振り山の地図」なるものが登場(205頁)して驚かされる。大坂から江戸までの旗振り山の数が「三十個ほど」と紹介されている。
 「堂島の相場はおよそ四刻(八時間)で江戸に到着している」(206頁)とあるのは、樋口清之『こめと日本人』(家の光協会、昭和53年)の163〜5頁の記事「世界最大の望遠鏡、米相場で活躍」が出典とわかるが、なぜか、巻末(279頁)の参考文献には含まれていない。
 「地図の最後の旗振り山は北品川の御殿山にあった」(213頁)とある。その一つ手前の旗振り山は「神奈川宿の権現山」(214頁)とあり、その距離は約五里、さらに一つ前の旗振り山は「鎌倉の円覚寺の裏に聳える六国見山」(216頁)となっている。
 続いて、「第五章 旗振り権現山」(218〜278頁)が最終章であり、権現山での旗振り通信の受信・送信場面(251〜2頁)が出てくる。
 さて、この江戸ルート「六国見山〜権現山〜御殿山」は真実に基づいたものなのであろうか?
 6月28日、NHK・BS2「熱中時間」のスタジオ収録の際には、その真偽は不明のままであった。曽田氏が、社団法人日本放送作家協会の会員であることを確認できたので、協会の事務局を経由して、手紙で問い合わせたところ、7月3日に曽田氏からの返信(6月30日付)が届き、「すべて創作」であることが明らかとなった
 曽田氏は、関東地方の旗振り中継地点について調べてみたが、全くわからず、「現在でも六国見山から横浜港が見えること」と「権現山は埋め立てのために幕末に削ったから可能性があると考えたこと」から創作したものだということであった。木曾屋、江戸の菱巳屋(206頁)といった旗振り通信を行った業者名も完全な創作で実在しないという。
 筆者の今までの調査では、東京都、神奈川県では、江戸時代の旗振り山の痕跡は全く見つかっていないが、今後、何かをきっかけとして発見できることを願っている。

 
 「旗振り山」の24頁で紹介したように、「東京でも、旗振り通信は行なわれていた。明治二○年頃、東京日本橋蛎殻町の米会所から、日々の相場が各地方の米商人会所へ、旗振り信号で通信された。東京急報社は旗振り通信社とも呼ばれ、相場の速報を行なった。
 明治三二年頃まで、東京米穀取引所は毎日、堂島から米相場の高低を、江戸橋電信局に打電してくるので、東京急報社員が電信局に出向いてその電報を受取り、これを川向こうの蛎殻町へ白の大旗で通報したという(『通信社史』昭和33年)(今井幸彦『通信社』中公新書、昭和48年)。

 というわけで、私の知る限り、関東地方に存在した旗振り場は「東京日本橋蛎殻町の米穀取引所」「各地方の米商人会所」「東京急報社」にあったということになる。関東平野は大きく開けているので、高い建物の屋上に設けた旗振り場から、20キロほどの地点であれば、手頃な丘(場合によっては、高い建物の屋上)との間で中継して、情報を送ることができたはずである。
 
 残念なことに、関東地方の郷土資料には、取引所以外の旗振り場は記載されていないようである。
 (もし、載せてあれば、珍しい情報なので、必ず、誰かがそのことに言及するはずである。そのような情報は存在しないのだろう。)


「大坂と京のような距離でも値段が微妙に違ったのでしょうか?」
「例えば江戸と川越などでも関西圏と同じような価格差を使って儲けるようなことがあったのでしょうか?」
という質問には、取引所間で、値段が違うことは当然ですが、旗振り通信の儲け方というのは、同じ取引所での相場の上下の動きによって行なう(いわゆる先物取引)ので、取引所間の値段差で利益を得たわけではありません。上方と江戸の金銀相場の差での儲けとは違うのです。堂島の米相場は他の取引所の米相場値段に大きな影響力を持っていたので、値動きが連動したということはあります。


2011.9.24 諏訪山公園のラジオ塔遺構を、私が初めて発見

  旗振り場のビデオ撮影の副産物として、偶然に「ラジオ塔」を発見
  (詳細は、本サイトの「6.六甲山の話」を参照されたい。)


  
2010年9月11日、兵庫県立図書館で、新しい旗振り山の情報を発見できた。
  赤穂市教育委員会高雄公民館編『赤穂の山とひと』(同館発行、2008年)の中に、
  
高伏山(たかぶせやま、標高280m)が「米相場を伝える中継地」であったという記述
  がある。元になった記事は、「広報あこうNo.670」(2007年10月)の「山とひとNo.19」
  の「高伏山(たかぶせやま)と高取峠」である。山頂の三角点「高代」の標石の横には
  
狼煙台と思われる石組遺構(縦2.4m×横1.6m)がある(10月2日に現地調査)。
  高伏山(標高280.3m)は赤穂市高野(こうの)の東、相生市との境界にあり、西麓
  の田端(たなばた)地区の古老に旗振り伝承が残るが、2007年に赤穂市の広報で
  公開されるまで、一般に知られないまま、伝承は埋もれていた。

   
なお、
高伏山という山名は、インターネットで流布されている俗称で、地元の田端
  地区では、小字名の
「高台(たかだい)」という山名である。一方、相生市相生では
  小字名の
「高代山(たかしろやま)」が用いられている。
(2010年10月9日、記す)


  
2010年5月18日、武良布枝『ゲゲゲの女房』(実業之日本社、2008年)の8頁に、
  次のような記述があることがわかった。全く新しい旗振り場所の発見である!
 
 (2010年6月に布枝さん本人に手紙で問い合わせたところ、28日に、水木プロ
  ダクションから返事が届いた。誰から聞いた内容なのかは不明とのことであった。)


  「陸路だと、安来から境港までは、米子を経由、迂回していかなくてはなりませんが、
  水路ならば、中海をはさんで目と鼻の先。
明治時代の安来の米問屋さんは、境港
  市場で決まる
米の相場を手旗信号で伝えてもらったという逸話が残っているほど、
  安来と境港は、古くから、人もものも行き来をくり返してきました。」

  
境港(鳥取県)水木しげるの故郷、安来(島根県)妻である著者の故郷である。
  境港と安来の間に中海を挟んだ旗振り通信ルートがあったとは驚きである。
  明治時代には、堂島とは独立した通信ルートがあったということになる。


 (2010年8月28日)8月17日付の手紙で境港市に問い合わせたところ、境港市史編さん室の小灘浩氏によって文献調査が行われ、安来市の1996年発行の郷土資料に安来・境港間の手旗信号の記載の
出典と思われる一文があることを28日の電話で知らされた。


(2010年10月16日)小灘氏から届いた手紙で、安来市の郷土資料というのは、庄司誠發(しょうじ・しげのぶ)『安来散歩』(「安来散歩」刊行委員会、平成8年10月)であることがわかった。平成6年6月〜8年5月まで約2年間、100回にわたり、日本海新聞に連載されたもので、手旗信号の記述があるのは、100回目の連載(平成8年5月10日)の「安来港」(並河健蔵(なびか・けんぞう)・文)である。該当記事の部分は次のとおりである。
「明治初年のころ、安来の米問屋は、境港の市場で決まる米の相場をいち早く知るために、対岸の弓ヶ浜から安来の波止場に向かって、手旗信号で伝えてもらったそうだ。境から米子を経て馬を走らせるよりも早かったという。“正確な情報はより早く”が、昔から商売の要諦であった。」
 この記事こそ『ゲゲゲの女房』の記述の出典であろう。(注記:原文には
「境から米子」とあるが、「境港から米子」の意味であろう。)
 境港市史・安来市誌ともに手旗信号の記事はなく、『安来散歩』が唯一の資料らしい。
『ゲゲゲの女房』の編集には安来市観光協会が協力しており、『安来散歩』を参照して、記述に取り入れられたのだと考えれば納得できそうである



(2010年11月26日)元安来市文化協会会長の並河健蔵氏(安来市安来町)「安来港」の手旗信号の記事の典拠について、11月13日付の手紙でおたずねしたところ、11月19日と24日に返信が届き、次のようなことが判明した。
@手旗信号のことは、元精米業の古老(当時すでに故人で、後継者もなく、家のあった場所も不明という)の話を聞いた人が、今から約20年前(1990年頃)に、何かの会の折に話したのを、並河氏が耳にしたものであり、単なる「人の話」にすぎず、確かな資料は残っていないとのことである。
A並河氏によると、安来の町で大正初期には、精米業者は10軒近くはあり、安来港に近い「新町」や「西灘」通りにあったらしいが、現在では、すでにその姿は見られないという。


並河氏から送られてきた「会報 安来節」第17号(平成18年4月1日)の記事には次のように書かれている。

「先覚性と逞しい商魂 −安来節が育った自由闊達な風土−」(並河健蔵)

 (前略)
 防波堤の修築
 大正四年刊の「安来港誌」は、防波堤の修築と題して誇らしげに、次のように記している。
  明治十九年より二十一年に亘る継続事業として修築せるものにして(中略)以て之を完成せり(以下略)
 (中略)
 精米業の発達
 古来、港には地元の他に出雲平野や鳥取県西部など広い地域の産米が積み出されたので、多くの米問屋が繁盛した。明治初期のことである。主な出荷先である京阪神の米相場は、境港に寄港する船舶から得るのが慣いであった。安来の米問屋たちはいち早く知るために弓が浜・米子経由で馬を走らせたという。
 ところが長い防波堤が完成すると、弓が浜から防波堤に向かって、手旗信号で伝えたという。この逸話の真偽の程はともかく、正確な情報を誰よりも早く知ることが商売の要諦であり、米問屋がいかに機敏であったかを如実に物語っている。
 この機敏性が、精米業の発達に拍車をかけた。(後略)

※並河健蔵氏は、山陰合同銀行に勤務して同銀行史の編集に参加された。元安来市文化協会会長。安来市文化財保護委員、短歌誌「運河」会員である。
 筆者の2010年11月13日付の
手紙で、『ゲゲゲの女房』に手旗信号の記事が記されていることを知らされ、大変びっくりしたという。

2010年4月、タイムスクープハンター「速報セヨ!旗振り通信」の放送をきっかけに、
ウィキペディア(ネット百科事典)「旗振り通信」の項目が新設されたようである。
  内容を見ていて、残念なのは、次の点である・・・。
(2010年7月11日現在)
  
※「通信方法」は、拙著『旗振り山』からの引用だが、滋賀県での特殊な例を紹介し、
   
最も一般的な通信方法(左右での回転数で十位・一位の
   数字を表す)の記述がない。

 
『旗振り山』の記述、このホームページを、きちんと読みこなして書いてください!

   
宣言:当方、自分のHPの内容には、きちんと責任を持てるが、
      改変が誰でも自由自在になっている
ウィキペディアには、責任が持てない故、
        直接の作成には関与しません。悪しからず!)

  ウィキペディアの「石堂ヶ岡」の項目に、比叡山愛宕山鴻応山(こうのやま)が、
  旗振り山であるように記述されているが、正確な記事ではない
ので、注意されたい。
  ウィキペディアに不正確な記事が混じっていることは、世間では常識であるから、
  わかっていると思うが、全部を信じないことである。その根拠を示しておこう。
  
(ちなみに、『豊能町史』(昭和62年)と25000分1地形図「高槻」(平成13年)に、「石堂ヶ」とあるが、
  
 25000分1地形図「広根」(平成19年更新)は昔からの表記である「石堂ヶ岡」になっている。
   「石堂ヶ
」は一般に用いられている表記とは異なるので、間違いではないにしても、使うべきではないだろう。

  ◎「石堂ヶ岡」の項目に、比叡山、愛宕山、鴻応山(こうのやま)が旗振り山として紹介
    されている理由には、次の資料の影響が考えられるだろう。

  (資料1)加堂義男『老眼聾乃能勢誌(おいのめみみののせのふみ)』(私家本、
  昭和57年)(大阪府立中之島図書館蔵書)に、
7世紀の九州太宰府からの狼火台
  次のように列挙されている(文章は複雑でわかりにくいので解読が必要)。
  (10頁、22頁)

  ・尾道の千光寺の烏帽子(エボシ)岩の狼火台

  ・六甲山の東、甲山の頂上神呪(カンノウ)寺
  ・
川西市の釣鐘(ツリガネ)山(川西市火打)
  ・雲雀ヶ丘裏山の満願寺あたりの狼火台

  ・吉川の高代寺山(489m)
  ・妙見山の堂床山(650m)
  ・天王の剣尾山(784m)
  ・東能勢の高山、明ケ田尾(アケガタオ)山(620m)
  ・牧、寺田の鴻応(コウノ)山(679m)(寺田には小字おろし塚。おろし=のろし)
  ・川尻の光明山法輪寺
  ・丹波の国の半国山(774m)
  ・
京都の愛后山(愛宕山、アタゴサン)(924m)
  ・
比叡山の四明嶽(シメイガダケ)
  ・
大津の都滋賀の郡(滋賀の都跡
  (火打〜能勢、能勢〜愛宕山、それぞれ20kmの間隔)
  (66頁のあとがきに、
「のろし台の数ヶ所は、押えられただけで、九州太宰府からの
   全ルートは確認することが出来なかった」
とある。)


  (資料2)西川隆夫『豊能ふるさと談義』(北摂振興株式会社、私家本、平成7年)
  (大阪府立中之島図書館蔵書)
には、次の記述が見える。(38頁ほか)

  のろしの中継・悠遠の歴史を伝える鴻応山(678.9m)
  のろしの中継で悠遠の歴史を秘める寺田地区
  (
古く摂津の国から京の都近江の都に情報を伝える「のろし」の中継地であった
   と考えられる。)

  

  ◎石堂ヶ岡の項目に比叡山、愛宕山、鴻応山が旗振り山であるかのごとく書き込んだ
  人は、加堂氏の記述で、
「ノロシ」を勝手に「旗振り」と混同したものだろう
  もちろん、「ノロシ」と「旗振り」は同一ではない!
(読み替えてしまう人がいる。)

  ◎京都の
愛宕山、鴻応山には、旗振り伝承は、残されていない
    のである。


  のろし中継ルート:釣鐘山−鴻応山−愛宕山−比叡山−滋賀の都

  ◎筆者の研究による、旗振り通信ルートは次の通りである。

  
江戸期の旗振り通信ルート:大坂−松屋新田−十三峠−小塩山−比叡山−大津
  明治期の旗振り通信ルート:大阪堂島−
石堂ヶ岡−小塩山−京都


  結論:
石堂ヶ岡と比叡山は旗振り山。
      
鴻応山と愛宕山はノロシ山である(旗振り伝承はない)。

(2011年6月9日)

「タイムスクープハンター」の海外受賞についての紹介
 
(すごいね! 取り上げた題材のインパクトも大きく貢献したと思われますよ!)

第47回 ヒューゴ・テレビ賞を受賞!以前放送したタイムスクープハンター「速報セヨ!旗振り通信」が、
海外のテレビコンクール「ヒューゴ・テレビ賞」を受賞しました。 バラエティ・エンターテインメントシリーズ部門」での奨励賞です。

★第47回 ヒューゴ・テレビ賞★
バラエティ・エンターテインメントシリーズ部門 奨励賞
タイムスクープハンター 
「速報セヨ!旗振り通信」(2010年4月12日放送)


  
2010年4月12日(月)夜10:55〜11:25 NHK総合テレビにおいて、
  
『タイムスクープハンター シーズン2』(DVDは11月26日発売)
  第3回「速報セヨ! 旗振り通信」
が放映されました! 好評です!
     筆者は、通信方法、中継ルートについてのアドバイス・資料提供を行いました。
  
  @旗振り場面で、望遠鏡2台を使うほうが合理的という指摘について
    
もちろん、そのようにアドバイスしました。NHKが1台にした理由は緊迫感を出す
   効果を狙ったものです。(長距離通信なので、本当なら、2台を使うところです。)

    明治時代当時、比較的近い場所への通信の場合なら、送ってきた相手に信号を
   打ち返して確認できてから次の中継地に送ったので、望遠鏡1台でまかないました。
    受けた信号をすぐ次の相手に送るのを、前の人が同時に確認して行うリレーの
   場合には、2台の望遠鏡を用いた。この方法だと、通信時間が半分になるからです。

  A大阪から岡山までの中継ルート(明治31年)について
   
具体的な中継地点は、私が監修。明治31年当時の地点(一部は推定地)です。
   大阪・堂島→尼崎・辰巳橋→神戸市東灘区・金鳥山→須磨区・長田区、高取山→
    明石・金ヶ崎山→姫路・高砂、大平(おへら)山→龍野・金輪(こんりん)山→
     赤穂・黒鉄(くろがね)山→備前市日生(ひなせ)町寒河(そうご)・天狗山→
      赤磐・熊山→岡山・操山(みさおやま)(旗振台古墳)→岡山・天瀬(あませ)
   
通信時間は、1回分を1分30秒で計算し、11回分で16分30秒となる。
   最後に、天瀬の岡山取引所から操山に送信を返して、間違いないという確認を
   するのに
1分30秒として、大阪・岡山間は、総計18分という仕組みである。
    もちろん、やり方によって、もっと早かったり、遅かったりすることがあるのは
   当然のことで、
15分、20分、40分という当時の通信記録が残されている。
    寒河の天狗山は、テレビでの舞台だが、場所をぼかし「旗振り山」に変えてある。
    ロケは撮影の関係上、西日本では行われず、
本物の旗振り山は登場しない。
   
「速報セヨ! 旗振り通信」の撮影ロケ地は、日光江戸村だということである。)

  B他の素朴な疑問点については、「1.旗振り通信 Q&A」を参考にしてください。


  CODE number 103668
  absolute position(絶対位置) N24 W336 E245 S645
  absolute time(絶対時間)  B0554368年 54時65分96秒 
                     (西暦1898年3月18日 7時12分) 

   「速報セヨ!旗振り通信」では、上のような設定になっている。
   シーズン2の全10回の数値を一覧表にしてみたが、法則は見いだせない。
   絶対位置・絶対時間ともに、タイムワープの雰囲気を出すための設定であろう。


 (お知らせ)
 NHK総合テレビ
「ほっとイブニングみえ」(毎週月〜金曜日18:30〜19:00)の中の
 
「ふるさとにQ」(毎週金曜日放送)において、「伊賀の旗振り山」が紹介されることに
 なり、筆者も取材を受け、2010年3月に伊賀市において旗振りなどの撮影をしました。
 
2010年4月2日に、三重県内だけで放送されました。

 ほっとイブニングみえ 伊賀の旗振り山


 (お知らせ)
 NHK番組「熱中時間 〜忙中 "趣味≠り〜」へ出演しました(旗振り山熱中人)

 2009年7月25日(土曜、BS2、夕方6時)放映(44分枠)。
 2009年11月21日(土曜、BS2、夕方6時)再放送

 「伊賀市で新発見の旗振り山『ケント山』の現状公開」
 「伊賀市における
旗振り再現実験 高旗山中腹〜伊賀上野城(距離5km)」など。
 
 <内容は、NHK「熱中時間」の「熱中倶楽部ブログ」にあったが、削除された>

  「熱中倶楽部ブログ」の引用記事が
「畑山は旗振り山?」には見られる。



◎平成18年7月以降の旗振り場(岐阜・愛知)の発見に関する情報は、
    
小屋番の山日記のコメント(7月7日〜30日、8月6日〜29日、9月8日〜13日)をご覧ください。
     どのような経過で見つけることができたのかを逐次、紹介しています。



  ★平成21(2009)年3〜5月、新たに、次の山が米相場の見当(ケントウ)を振った場所(旗振り場)と判明した!

   ○ケント山(伊賀市下阿波、西教山の南1kmの500mと推定)(『大山田村の古文書 第二集』1991年、285頁)
   ○ケントヤマ(伊賀市上阿波、長野峠の近くの585mと推定)(『同上 第二集』194頁)
   ○見遠山(ケントウヤマ)(伊賀市長田、313m)(中村竹次郎氏遺稿『長田郷土史(壱)』1976年、見当山)
   ○権平山(
ゴンヤマ)(伊賀市長田地区、百田、西蓮寺の西、225m)(『同上 (壱)』 金刀比羅山茸狩)

   発見の詳細は、伊賀の國地名研究会・伊賀暮らしの文化探検隊共催の講演(2009年5月17日)で公表しました。

   その内容のまとめとして「伊賀の旗振り山」の原稿を「伊賀百筆VOL.19」に掲載しました(平成21年12月発行)。
    (「伊賀百筆」についての問い合わせ先:北出楯夫 TEL:0595−21−2145  FAX:0595−21−2145)


  
★平成21(2009)年12月23日、新たに、次の山が米相場の旗振り場と判明した。

   
○常滑市山方町の丘(標高約20m)(同保示町の正住院の東南東250mほどに位置する丘)
 (旗振りを行っていたのは、保示町の前田商店(
米穀店は間違い)の前田壮太郎さんの先々代か、さらにその先代)
 (旗振りを行っていた場所は、
前田商店の東150m付近の丘であり、正住院のの丘である龍(たつ)ヶ丘ではない。)

   (注)鈴鹿市の赤工(あかく)さんのHPによると、「前田
米穀店」に電話で問い合わせて、旗振り場を「正住院の西
      龍ヶ丘」とするが、筆者の平成21年12月23日の常滑市での正住院の龍ヶ丘の現地調査、前田商店での
      聞き取りの結果、米穀店は存在せず、店名は前田商店であり、旗振り場の推定地(龍ヶ丘)も赤工さんの勘違い
      であって、本当は、前田商店の東方150m付近の丘が旗振り場であることがわかった。
自分で取材せずに、
      他の人の情報をうのみにすることの危うさを実感できるエピソードであった。ちゃんと自分で調べるようにしよ
う!



  ☆平成22(2010)年3月、新たに、
愛知県武豊町六貫山で、米相場の旗振りが行われていたことが判明した。

   ○常滑市新開町の常滑つじさん(谷川徹三を勉強する会)によると、会長(杉江重剛氏)の奥さんの話として、
     明治時代、武豊町六貫山では、水野久一郎(哲学者「谷川徹三」の母方の従兄)の娘が、水野利兵衛
     (久一郎の父)が米相場の旗振りをしていたのを見ていたという。
     水野利兵衛は、明治10年前後の東京で米相場をてがけ、天下の糸平(田中平八、ウィキペディアに紹介あり)
     と渡り合い、糸平が手締めを求めてきたのを断ったため、相場に負けたあと、武豊の地で、農地の開墾をする
     ようになった人物という。
(平成22年6月12日
(詳細は、新ハイキング関西114号に掲載)



  ☆平成22(2010)年4月、新たに、次のような
浜松市・豊橋市境の山が、米相場の旗振り場と判明した!
                      (中山峠の旗振り山のコースガイドは、新ハイキング関西114号に掲載)

   ○中山峠の南南東の
四等三角点「中山峠」(392.3m)の山頂(静岡県浜松市北区三ヶ日町本坂)には、
     次のような記載のある、8年前の木札が吊り下げられていた。
(平成22年4月18日、現地踏査を実施)
     木札の設置者のサインが末尾にあるが、読みとれない。

     
          392.26m
                 4等
               中 山 峠
               (旗振り山)
               2002.6.9


   ○三ヶ日地域自治センター(三ヶ日公民館)からの情報で、地元の
平山地区に、昔の米相場の旗振り山であるという
     言い伝えがあることが判明した。次のような郷土資料に記載がある。
(平成22年4月23日、資料を入手)

     
「旗ふり山 中山峠の少し南に旗ふり山という山がある。徳川時代に四日市でたったお米の相場を江戸に知らせた
      山だそうである。旗を振って気賀側の方へだんだんと知らせたそうである。そのような山はだいたい三里から
      四里の間に一つぐらいあったそうである。おばあさんの話によると頂上には平らなところがあるとのことである。」

     
平山小学校PTA文化部/編『郷土史ひなぶ』平山小学校区地域学習推進協議会、昭和57年)(196ページ)
                         
(学校の地域学習での、古老からの聞き取り結果をまとめた本)


   
 『旗振り山』の読者からの、著者の本にない「旗振り場」の発見のお知らせ
    をお待ちしております。・・・・・まだまだ、あるはず!!!


  (お知らせ)

 
日本で初めての旗振り山の本である『旗振り山』(ナカニシヤ出版)は、
     全国の主要書店で発売中です
(2006年5月17日発行)

  ○アマゾン    ○セブンアンドワイ    ○紀伊國屋書店   
  ○ジュンク堂書店
   ○e−hon    ○bk1(ビーケーワン)      
                 以上からのネット注文ができます。

  ○ナカニシヤ書店オンラインショップからの注文ができます。
       内容の確認は、ナカニシヤ書店HPからどうぞ、ご覧ください。
    電話での注文はナカニシヤ出版 TEL 075−723−0111(営業・代表)
    
FAXでの注文はナカニシヤ出版 FAX 075−723−0095(営業)まで

   
(なお、私の著作は今回が初めてです。詰将棋の本の著者は、同姓同名の別の方です。)


     日本経済新聞の記事について
   
   
   ながたの旗振り山「正法寺」

      
旗振り山めぐり(神戸新聞の記事) 

        
神戸新聞夕刊(2005年4月22・23日、5月6・7日)に、「旗振り山めぐり@〜C」が掲載されました。
        (4月22日の記事に、筆者のことが紹介されています。)
        (上の正法寺のHPからも新聞記事がご覧になれます。)

      
      「旗振山(神戸市須磨区)」の記事(神戸大学山岳会会員・竹内鉄二執筆)が、

      神戸新聞(2007年3月14日)の25面(地域ニュース)のコラム「山は楽し」の連載「歴史を訪ねてL」に、
      最終回として掲載された。「近世からの通信中継点」の副題があり、筆者の研究内容も紹介されている。


      「標高80bの旗振り通信所(明石市)」の記事(明石市の公務員)が、

      神戸新聞(2008年11月4日)の7面の投稿に見られる。これは、神戸新聞(1980年5月27日)の兵庫探検総集編や
      上記の「旗振り山めぐり」の記事(2005年)、私の日経記事(2004.2.17)、『旗振り山』などを参考にした内容のようである。



1.旗振り通信 Q&A


(Q1)旗振り通信ってなあに?

(A1)江戸時代中期から大正時代中期まで、大阪堂島の米市場(取引所)では米相場がたち、現在の株式や先物取引と同じように、米の値段の上下によって差金決済を行い、莫大な利益を上げようとする人々で賑わっていた。
  各地の米市場の米取引はその堂島の米相場によって大きく左右されたから、その米相場をできるだけ早く知る必要が生じた。江戸時代には米飛脚によって伝えられたが、いかんせん、時間がかかる。
 そこで、一刻も早く米相場を知って、利益を上げようという人々によって考案された方法が旗振り通信であった。旗振り人夫が見通しの良い山の上で望遠鏡を用いて、旗振り信号を確認し、山から山へリレーし、堂島の米相場を遠方まで伝えた。
飛脚が長い時間かけて走る距離を、旗振り信号は短時間で次々と伝えていき、西は九州北部、東は江戸まで伝わっていったのです。


(Q2)旗振り通信はいつ始まったの?

(A2)元禄時代(1688〜1704)、江戸で紀伊国屋文左衛門が色旗で相場を伝えたという話が残っていますが、事実かどうかわかっていません(近藤文二「大阪の旗振り通信」)。元禄当時の大阪に旗振り通信があったかどうかについても伝えられていません。

   宝永3年(1706)7月の『熊谷女編笠』一の二、「商いは千里を見透かした遠目鏡」には、角屋与三次(すみや・よそじ)が人夫を雇い、暗峠の目印の松に立ちそい、左右の手を動かして合図させて、郡山の問屋の二階から遠眼鏡で見て、相場の上下をいち早く知り、利益を上げて、見通し与三次と呼ばれたという(「旗振り通信の初まり」、1929年。南方熊楠全集第四巻)。この人夫は赤頭巾をかぶり、赤布の小手を差しており、挙手信号であった。ある日、人夫が酒を飲まされ、でたらめの信号をしたため、与三次は大損をしたという。

  『日本戯曲全集』四九冊、『大門口鎧襲(おおもんぐちよろいがさね)』序幕に遠眼鏡で旗振で相場を知らすことがあり、この戯曲は解題に寛保3年(1743)板とその名題が見えるという(「旗振り通信の初まり」)。従って、1743年には旗振り通信が行われていたことがわかる。大門口とは、遊郭への入口をいう。

 延享2年(1745)頃、大和国平群郡若井村の住人源助なるものが、その配下を大阪にやり、本庄の森(北区)より信号によって堂島の米相場の高低を表示せしめて、これを自ら十三峠より望遠鏡で眺めたのが、旗振り通信の起源であるという(近藤論文、前出)。最初は煙、次は大傘、後に旗を用いるようになったという。後になると、大阪駅近辺の墓地が信号場所となった。

  大阪堂島の米市場が幕府によって公許されたのは、享保15年(1730)である。その後、急速に旗振り通信が発展し、米飛脚の生活権を脅かすようになったため、幕府は安永4年(1775)に旗振り信号禁止のお触れ書きを出している。当時、相当、広範囲に旗振り通信が行われていたことがわかる。


(Q3)旗振り通信はどこまで伝えられていったの?

(A3)厳密に言うと、年代によって、伝達地域は異なるので、年代別のルートを示す必要があるが、ほぼ、山陽道と東海道に近い沿線にルートが設けられ、西は九州北部、東は江戸までというのが、大まかな範囲と言えるでしょう。通信地点は、『旗振り山』を参照。

(Q4)旗振り通信ルートを具体的に教えて。

(A4)旗振り通信ルートの概略は従来からわかっていましたが、全国の通信ルートの調査は、行われたことがありませんでした。
  より正確なルートがわかったのは、平成12年〜14年以降のことです。

  具体的なルートは、『旗振り山』(ナカニシヤ出版)をごらんください。

  なお、『旗振り山』発行後の新発見のルートについては、「歴史と神戸」263号も参照のこと。


(Q5)旗振り場はいったいどこにあったの?

(A5)具体的な旗振り場の悉皆調査が行われたのは、平成12年から14年にかけてのことで、筆者が実施しました。

  その結果は次の文献に公表しています。平成14年以降も調査は継続して実施し、成果を上げてきています。

  1.「米相場を伝えた旗振り山の解明」(「歴史と神戸」234号、p.2−17)(平成14年10月)
  
2.「兵庫県内の旗振り山について」(「歴史と神戸」240号、p.1−16)(平成15年10月)
  3.「旗振り山と瓦屋山正法寺」(「歴史と神戸」243号、p.18−25)(平成16年4月)

  4.「旗振り通信の研究1〜23」(「新ハイキング別冊関西の山」57〜79号、平成13年3月〜16年11月)
  5.「旗振り通信の研究24」(「新ハイキング別冊関西の山」82号、平成17年5月)
  6.「旗振り通信の研究25〜30」(「新ハイキング別冊関西の山」84〜89号、平成17年9月〜18年7月)

 
以上の研究の成果は、『旗振り山』(ナカニシヤ出版)に収録しています。以下はその後の新発見の報告です。

  7.「金比羅山(のべぶり岩)と小牧山」(「新ハイキング別冊関西の山」90号、平成18年9月)
  8.「旗振り通信の新研究 @〜B」(「新ハイキング別冊関西の山」91〜93号、平成18年11月〜19年3月)
  9.「旗振り通信の新研究 C〜F」(「新ハイキング別冊関西の山」95〜98号、平成19年7月〜20年1月)


 10.「兵庫県内の旗振り山の解明」(「歴史と神戸」263号、表紙裏、p.27−34)(平成19年8月1日発行)
 
 11.「旗振り通信の新研究 G〜R」(「新ハイキング関西」107〜118号、平成21年7月〜平成23年5月)
          

        伊賀市の旗振り山の情報は、110〜113号に掲載しています。

 12.「米相場の旗振り山について−赤穂市における解明−」
                           (「歴史と神戸」288号、p.12−19)(平成23年10月1日発行)


 13.「米相場の旗振り山について−淡路・徳島ルートの解明−」
                            (「歴史と神戸」302号、p.1−14)(平成26年2月1日発行)

                 ・・・問い合わせは、「歴史と神戸」編集部(072−783−1670)(FAX兼用)まで


 全国の旗振り地点については、『旗振り山』(ナカニシヤ出版)をごらんください。


新ハイキング関西の記事の入手方法について(2014年9月9日記載) 

 1.「新ハイキング別冊関西の山」「新ハイ関西」のバックナンバーの入手方法について

   
現在、『新ハイキング別冊関西の山104〜115号』『新ハイ関西116〜8号』のバックナンバーは新ハイキング社あてに申し込めば、
   入手できるとのことである。
新ハイキング社あて、
メールseki@shinhai.netにて申し込まれたい。

 2.国会図書館の複写サービス利用について

   国会図書館には1〜118号まで全号が所蔵されているので、以下のサイトでバックナンバーの確認や記事の検索を行った
   うえで、国会図書館の下記のサイトをごらんいただいて、該当記事の掲載号数と掲載タイトルを指定して、複写を申し込むとよい。

   「新ハイキング別冊関西の山」と「新ハイ関西」の記事の検索→バックナンバー記事の検索へ

   国会図書館の「新ハイキング別冊関西の山」と「新ハイ関西」の所蔵状況→NDL-OPAC - 書誌情報1 NDL-OPAC-書誌情報2

   国会図書館への複写申し込み方法→
複写サービス

 3.新ハイキング別冊関西の山 1〜103号のコピーサービス(新ハイキング社)について

   希望の記事が特定できる場合、1篇につき100円にてコピーを送ることが可能とのことである(郵送料が別途、必要)。
   コピーサービスを希望する場合、「掲載号数と記事名」をメール(新ハイキング社・在庫担当 関根茂子seki@shinhai.net
   にて知らせれば、実際にその記事が、掲載されているかどうかを確認の上、代金等を知らせるとのことです。


 「新ハイキング関西」「新ハイ関西」(新ハイキング社、隔月刊)について
  ・関西の山歩きの情報誌。「新ハイキング別冊関西の山」のタイトルで、115号=2010年11・12月号まで市販された。
  ・筆者は、「旗振り通信の新研究」を連載していた。また、筆者によるコースガイドも投稿していた(山ものがたり参照)。
  ・116号(2011年1・2月)から、「新ハイ関西」のタイトルとなり、「新ハイキングクラブ関西」の活動誌として再出発した。
   会員のための会報誌となり、書店には並ばなくなった(B5版)。代表の村田智俊氏が亡くなられたため、新ハイ関西は、
   118号(2011年5・6月)をもって、廃刊となった。
  

  ◎『旗振り山』発行後の新発見の詳細については、以下のとおり、「新ハイキング関西」で公表しました。
           91〜92号・・・@A愛知県内ルート
            93号・・・・・・・・B岐阜県内ルート
           95号・・・・・・・・C岡山ルートの資料・・・・・・赤穂市の「黒鉄山」が旗振り場であったことを解明
           
96号・・・・・・・・D生駒山系・萬塾・時計・旗振り山
           
97号・・・・・・・・E腕木通信・旗振り通信の文献
           
98号・・・・・・・・F九州の旗振り山・総索引

          
107号・・・・・・・・G旗振り通信・堂島米市の文献
          
108号・・・・・・・・H旗振り通信の情報発信  ・・・2009年8月20日発
          109
号・・・・・・・・I旗振り通信の起源と資料 ・・・2009年10月20日発売

          110号・・・・・・・・J伊賀市で新発見の旗振り山T・・・2009年12月20日発売
                         (大山田地区のケント山とケントヤマ(見当山)の発見)

   
      
          111号・・・・・・・・K伊賀市で新発見の旗振り山U・・・2010年2月20日発売
                         (熱中時間出演の話題と伊賀市での旗振り再現実験


          112号・・・・・・・・L伊賀市で新発見の旗振り山V・・・2010年4月20日発売
                         (長田の見遠山で旗振りした島ヶ原ケントウの家の発見)


          113号・・・・・・・・M伊賀市で新発見の旗振り山W・・・2010年6月20日発売
                         (長田の百田地区の権平山(見当を振った場所)の発見)


          114号・・・・・・・・N江戸ルートについて      ・・・2010年8月20日発売
                         (常滑市・武豊町六貫山・浜松市北区の旗振り場の発見)

          115号・・・・・・・・Oテレビで紹介された旗振り通信T ・・・2010年10月20日発売(市販最後の号)
                         (NHK総合テレビ「タイムスクープハンター」について)

          
116号・・・・・・・・Pテレビで紹介された旗振り通信U ・・・2010年12月15日配布(会員向け)
                         (「タイムスクープハンター」「ふるさとにQ」について)


          
117号・・・・・・・・Qテレビで紹介された旗振り通信V ・・・2011年 2月15日配布(会員向け)
                         (姫路ルート・岡山ルートの再現実験について)

          
118号・・・・・・・・Rテレビで紹介された旗振り通信W ・・・2011年 4月15日配布(会員向け)

                         (神戸ルートの再現実験について)



(Q6)旗振り信号はどのくらいの距離まで届いたの?

(A6)旗振り信号の届く距離は、通常、二里(8キロ)から五里(20キロ)が多く、平均は三里(12キロ)程度であった。 立地や見通しなどから、二里より短い場合もあった。見通しがきく場合には、六〜八里、まれに十里という場合もあったが、見通せる限界ぎりぎりであったようである。通信時間の短縮のためには、五〜六里というのは、最適の距離であった。視力の優れた旗振り通信員が裸眼で受信したように想像した人もいるが、実際にやってみればわかるように、裸眼では読み取りは不可能で、江戸時代の頃から、望遠鏡を用いて信号を読み取ったものであった。


(Q7)旗振り信号の発信地は、大阪堂島だけだったの?

(A7)堂島が一大中心地であったけれど、桑名の夕市も有名で、桑名の相場が堂島の相場のもとになった時期もあったという。 また、各地の米取引所の相場情報も相互に伝達されたりしたことであろう。


(Q8)旗振り山の標高はどれくらい?

(A8)旗振りさんは麓に住んで、毎日、旗振り場まで往復しなければならないから、仕事場まで、片道1時間以内で歩いていけるような立地条件が大切であった。多くは、30分ていどで到達できる場所が選ばれているようである。従って、麓との標高差が100〜300メートルぐらいが目安であろう。標高としては、おおむね、800メートル以下であった。


(Q9)通信にかかった時間は?

(A9)熟練した旗振りさんが、相場を一回分、送信するのに1分程度かかったという。従って、送信の所要時間は、中継地点数から算出できる。たとえば、大阪から京都まで四回の送信なので所要4分である。主要な所要時間の例を掲げると、下のとおりである。通信に要した時間については、興味を持たれるケースも多いので、すべての出典を添えておくことにしよう。
ここでは、文献に掲載された時間に限ったが、中継地点数から推定すれば、和歌山まで5分、神戸まで3〜4分が妥当かもしれない。
なお、通信時間は、送信する4つの数字の多少や、間違い防止の合印の有無にも左右されるので、かなりのゆれ・幅が想定される。あくまでも比較のための目安と考えたほうがよいだろう。実際、昭和56年の再現実験では、スモッグの発生や中継地点の倍増といった不利があったとはいえ、大阪・岡山間で27地点を結んだ26回の送信に2時間を要している。再現に取り組んだ旗振り手がボーイスカウト団員で練習を重ねたとはいえ、明治時代の熟練した旗振りさんが再現に協力して同じ区間を同じ26回で送信すれば35分ぐらいで届いたと考えられ、はるかに及ばないのである。職業として従事した意味は大きいように感じる。送信は早いほうがよく、まさに「時は金なり」であった。

 (旗振り通信のための、堂島からの所要時間)(平成17年9月10日、大幅に改訂)
  ・和歌山(約3分間)・・・・「旗振り信号の沿革及仕方」(『明治大正大阪市史 第七巻 史料篇』昭和8年)
           ・・・・近藤文二「大阪の旗振り通信」(『明治大正大阪市史 第五巻 論文篇』昭和8年) 
 
  ・大津(5分くらい)・・・・青山菖子(大津の町家を考える会)による。<景観セミナー議事録(要旨)>(新ハイキング関西82号参照)

  ・神戸(7分)・・・・古谷勝「火と馬と旗(十二)」(近畿電気通信局文書広報課編『近畿』第18巻第3号、昭和51年3月)

  ・三木(約10分間)・・・・「三木の眼がね通信」(山田宗作『東播タイムス』昭和30年)
                  (『歴史と神戸』第22巻第6号、通巻121号、昭和58年12月)

  ・桑名(約10分)・・・・平岡潤(桑名市史の著者)による。
         <川合隆治「旗振り通信について」(「三重の古文化」第48号、通巻第89号、三重郷土会、昭和57年10月)>。

  ・岡山(15分ぐらい)・・・・岡長平『岡山太平記』(宗政修文舘、昭和5年)

  ・広島(40分足らず)・・・・樋口清之『こめと日本人』(家の光協会、昭和53年)
  ・広島(わずか27分)・・・・樋口清之『うめぼし博士の逆(さかさ)・日本史1−庶民の時代・昭和→大正→明治』(祥伝社、昭和61年)(文庫本、平成6年)・・・・これは、上記と大きく異なるが、最短時間の記録と考えられる。
   大阪から岡山まで約170〜180キロで、約11〜13ヶ所を中継して所要15分、早ければ11〜13分ぐらいと推定できる。
   岡山から広島まで約160キロだが、山が多く中継地点は播磨平野より増えるものと推定され、およそ15〜17ヶ所を経由したと想定すれば、所要20〜25分、早ければ15〜17分ぐらいと思われる(あくまでも筆者の推定だが、的外れではないと思う)。
   従って、大阪・広島間は、標準的には35〜40分ぐらい、早ければ26〜30分の可能性がありうる。27分は妥当な数値だろう。

  ・江戸(8時間ちょっと。飛脚区間を含む)・・・・樋口清之『こめと日本人』  (箱根八里は一里ずつ早飛脚が走った。箱根山は三島から小田原まで走る。飛脚は特別の鑑札を持ち、真夜中でも関所が通れた。)
  ・江戸(1時間40分前後)・・・・樋口清之『うめぼし博士の逆(さかさ)・日本史1−庶民の時代・昭和→大正→明治』
  (箱根では人間が走って伝えたとある。同じ著者の上記の8時間と著しく異なるが、1時間40分は飛脚区間を除いた時間だろう。)


(Q10)通信の道具を教えて

(A10)旗、望遠鏡(三脚等で固定)、時計、相場付帳、暗号表などを使用した。これらは昼間用で、夜間の通信では、火の旗といって、松明を利用して、旗と同じような動きで通信した。夜間には、大阪近郊では提灯、岡山では火縄も使ったという。
のろしや、色かがり(のろしで色を変えたもの)も使ったというが、経済的とはいえず、実際には松明を用いたはずである。旗振りが確立するまでは、煙を上げる位置、大きな傘を広げる位置などで、相場の上下を知らせたが、具体的な相場の数値の伝達はできなかった。大正時代はじめ頃には、一部の地域では、望遠鏡のかわりに、双眼鏡も用いたようである(高安山、四日市市の神明山)。
また、山上の旗振り場には、雨露を防げるような粗末な作りの小屋が設置されることが多かった。公認された明治時代には、建物の屋上などに櫓が組まれて、旗振り場として利用された。時計は送受信時間の管理のために不可欠であった。詳しい記録は残されていないが、当時の実情から考えると、江戸時代には小型の和時計、明治時代には懐中時計を用いたようである。


(Q11)どんな旗を使ったの?

(A11)最初の頃は木綿製だったが、後には金巾(カナキン)製となった。大きさは、小旗は「横61cm・縦106cm」または「横98cm・縦152cm」、大旗は「横91cm・縦167cm」または「横121cm・縦197cm」であった。つまり、半畳から1畳半ぐらいの大きさであり、時には2畳のもの(182cm×182cmぐらい)も用いられた。昭和56年の再現実験(大阪・岡山間)で用いられた旗の大きさは、「横113cm・縦208cm」であった。いずれにせよ、旗は振りやすくて手頃な大きさで、望遠鏡で確認しやすいものであればよいわけである。竿は2.4m〜3mぐらいの長さのものが用いられたという。  (近藤論文・新ハイキング関西75号を参照)
 原則として、晴天時は小旗、曇天時には大旗を使用した。背後に樹木・岩石等の障害物があって影となって暗い時や櫓台・低地では白旗、それ以外や山上では黒旗を使った。また、伊勢(三重県)では、白旗と赤旗を用いたという。旗の色の、近江(白黒)と伊勢(白赤)との違いは、組織が異なるためだといわれている。


(Q12)望遠鏡について教えて

(A12)旗振り通信に用いた望遠鏡は各地で見つかっているが、時代の経過とともに、処分されたり、行方不明になったりして、今日でも、実物に接することのできるケースはごく少ない。明石市の黒田家の望遠鏡3本が明石市立文化博物館に寄贈されて常設展示されている。下記の写真は、黒田家で家宝として大切に保管されている望遠鏡(長さ93cm)である。フランス製で倍率は約25倍、重さ900グラム、真鍮製、最大直径5.5cm、伸縮自在となっている(2002年8月24日、取材)
 残念ながら、黒田実三郎さんは、平成17年8月2日になくなられた。88歳であった。ご冥福をお祈りしたい。
 この他、備前市日生町、野洲町(現野洲市)、鈴鹿市のものが知られている。
 桑名市にはドイツ製の望遠鏡があったが現在の所在は未確認である。

                     
    黒田家の旗振り通信用望遠鏡の写真・・・『旗振り山の本』をごらんください。


(Q13)どんな人が旗振りをしたの?また、その料金や給料は?

(A13)江戸時代には非公認であったので、旗振りは抜け商いであった。明治期には立派な職業として認められ、特殊な技能を有するものとして、優遇されたという。電信電話よりはるかに安い料金であったので、長い間、職業として継続されたが、さすがに大正6年で、ほぼ消滅することになった。生活に困って、旗振りによって生計を立て直したという話もあるので、当時としては、けっこう、良い給料であったことであろう。通信機関に雇用されて通信員として活躍した。日当で支給されたという。黒田さんにうかがったが、お米が給料がわりであったということであった。日当がいくらであったかは、もうわからないとのことだった。

(2010年9月5日、追記)尼崎市の吉井正彦氏によると、加古川市志方町広尾の久保田家への聞き取り調査では、旗振り師の給料は小学校の校長と同じぐらいであったという。明治時代の小学校の校長の月給は、学歴によって差があったが、通常、15円〜30円ぐらいであった。明治時代の1円の価値は換算が難しいが、現代の貨幣価値で8000円〜12000円とされており、仮に平均値10000円として換算すると、15円は15万円、30円は30万円である。平均20円とすれば、旗振り師の月給は現代の20万円ということになろうか。


<明石市の黒田実三郎さんの家に残された旗振りに用いた望遠鏡の発見を伝える新聞記事>
 ・・・・
神戸新聞・明石版(昭和56年8月4日)・・・紙面は『旗振り山』(ナカニシヤ出版、2006年5月発売)に掲載

<岡山県日生町の岡里美さんの家にある、旗振り通信に曽祖父が用いた望遠鏡を紹介した新聞記事>
 ・・・・オカニチ
(昭和56年12月4日)・・・紙面は『旗振り山』(ナカニシヤ出版、2006年5月発売)に掲載


(Q14)旗振りでどうやって相場を伝えたの?間違って通信したら?通信回数は?

(A14)米相場は、米一石の値段であらわされ、江戸時代には一石は金で一両、銀で60匁であった。この相場は日々変動し、たとえば、「米一石につき代銀67匁8分9厘」などと示した。また、明治期には、「米一石あたり39円28銭」などとあらわした。旗振り通信においては、これらの「十位、一位、十位、一位」の数字の順、すなわち前者は「6,7,8,9」、後者は「3,9,2,8」の四つの数字を「右側、左側、右側、左側」の順に、からだの脇で数字分だけ回転させて、信号として送信したのであった。
 実際には、そのままストレートに送信すると、相場が簡単に盗まれてしまうので、あらかじめ、郵送しておいた表で、実際の数字とは一定数を増減させるようにして、容易に盗まれないような工夫がなされたという。その増減も、毎回、変更されていたという。
 また、間違いを防ぐために合印を用いることもあったが、この場合、上等と称して、通信料金が高くなったという。すなわち、相場の「十位、一位」の数字を送った直後に、それに対応する合印の数字(1桁か2桁)を送り、さらに、次の「十位、一位」、続いて、合印の数字を送った。間違いがわかった場合、旗を強く上下にしばき、次に左右水平に振って、その誤りを指示した。
 通信の回数は、一定したものではなく、必要度に応じて、各地で異なっていた。1日に4回以上行うなど頻繁に通信した場合も多いが、地方などでは、週に数回といったケースもあった。通例、前場や後場など、相場の立つ節目ごとに伝達したことが多かったようである。
一般的に言うと、一日に5回〜10回ぐらいの通信が行われていたという。
 旗振り通信では、イロハ信号も可能で、イ(2)、ロ(3)、ハ(4)、ニ(5)、ホ(6)、ヘ(7)、ト(8)、チ(12)、リ(13)、・・・・・・セ(65)、
ス(66)、ン(67)のように、数字に変換して、文を伝えることができた(近藤文二)。濁音は数字の後に右側で2回上下に振った。


(Q15)夜間の通信はどうやったの?

(A15)「火の旗」といって、松明の火を、旗と同じように操作して、相場を伝えた。大阪近郊では提灯を用いた。また、岡山では、火縄を使ったともいう。「のろし」を用いたという言い伝えが各地に残るが、相場の数値を伝えるには不向きであり、実際には、松明が用いられたものと思われる。おそらく、通信方法についてよく知らないために誤解して言い伝えられたのであろう。


(Q16)相場情報は盗まれたりしなかったの?

(A16)金儲けにつながるため、各地で、米相場を盗むものが続出したようである。日生町の天狗山の近くの色見山では、天狗山での信号を盗んで大儲けをした人がいたという。また、龍野では、米相場を盗眼したものが捕まる事件が起こったそうである。
相場を盗まれないように、実際の数値とは違った数字に変換して相場を送る方策がとられた。


(Q17)幕府から禁止されていた江戸時代の状況は?

(A17)禁止されていた地域は、大阪三郷、河内、摂津、播磨の地域に限定されていたらしく、この区域外にルートを設けて送信した。また、禁止されていたのにもかかわらず、金儲けのため、旗振りを行うものはあとを絶たなかったようである。
江戸幕府が禁止した理由は、米飛脚の生活権を保護するためであったという。安くて早い旗振りは米飛脚の仕事を奪いかねないものであった。

(注記)平成26年3月12日追加
森平爽一郎先生の講義と宮本又郎先生の著書に鼓舞されて執筆された、
高槻泰郎『近世米市場の形成と展開』(名古屋大学出版会、2012年)は幕府司法と堂島米会所の発展を綴った好著である。この中で、旗振り通信の話題も取り上げられ、筆者の得た成果も紹介されている。筆者が江戸幕府が旗振り通信を禁止した理由として、米飛脚の生活権を保護するため、と述べていることに対して、疑問を呈されている(同書338頁)。筆者の説明は、自説ではなく、中島伸男「滋賀県内の旗振り通信ルート」 (『蒲生野 20』八日市郷土文化研究会、昭和60年12月)の中で示された中島氏自身の「幕府のお触書」が出された理由を説明している記述文である「米飛脚(状屋)の生活権を守るため」という一文をそのまま引用したものであり、筆者(柴田)の解釈ではなく、中島伸男氏の見解に従っただけであることを補足しておきたい。ただ、中島氏の見解を筆者自身も同意した上での記述であるので、その責任は負わねばならないと思う。
 高槻氏の批判文は次の通り。
「柴田昭彦はこれを米飛脚の生活権を守るためであったとしているが、公許を与件としない米飛脚の営業を幕府が保護する積極的な理由は見当たらない。営業保護以外の観点から、幕府が飛脚による相場報知のみを認めたとすれば、先格・先例もなく、精度も疑わしい手品がましき手法によって相場を報知することを取り締まる意図があったと考えるのが妥当ではないだろうか」(同書338頁)
 しかし、この高槻氏の批判は妥当であろうか?「旗振り信号の沿革及仕方」(大阪市役所編纂『明治大正大阪市史 第七巻 史料篇』昭和8年)に引用された天明三年の御触及口達には、
「米市場え堂島米相場の高下を飛脚に而取来候処、抜商ひと唱、右高下を記し」と飛脚以外の方法(身振り、色品、合図、手拭い、鳩)で米相場を通信することを禁止しているのである。手品まがいで不埒であると手拭いによる通信を行った相模屋又市を召し捕らえてはいるが、要するに、米相場は、本来、米飛脚が通信するものなのだから禁止すると述べているのであり、この点から、「米飛脚の生活権を保護するため」とする、中島氏の見解は必ずしも不適当とは思われない。もちろん、「手品まがいの行為の取り締まり」の側面があったことも事実であろう。このあたりは、両面の理由があったと考えればよいのではないだろうか。

(Q18)旗振りが幕末期に公認されたきっかけとは?

(A18)慶応元年(1865年)9月、英仏蘭の公使等が軍艦に乗じて条約勅許を求めて、兵庫に来港したのを尼崎か六甲山上で旗振り通信手がいち早く沖合いに発見して、旗振りでその急を時の所司代に報じたことがあって、京都米会所の会頭北條某なる者が、これを機として、急報の功績に免じて従前の禁止を解くよう嘆願に及び、遂に、禁が解かれたという。


(Q19)雨や靄の日にはどうしたの?

(A19)江戸時代には、米飛脚に頼るしかなかった。また、明治中期には、高価だが電報、明治後期には、つながるのに時間を要したが、電話も使った。高価な電報でも、利ざやによっては充分、もうかったらしい。
また、雨がやむのを待って、見通しが良くなったら、まとめて旗振りで送信したということである。


(Q20)旗振りで伝えた情報は米相場だけだったの?

(A20)江戸時代には一部で金銀相場、明治時代には時には油相場、明治12年以降は株式相場なども伝えられた。株式相場の通信では、米相場とはまったく別の信号を用いたといわれている。


(Q21)通信業者について教えて

(A21)江戸末期には、生駒山系の十三峠を経て、伏見・京都方面、大原野・大津方面、和歌山方面に通信する源助系統の業者があった。その他、千里山経由で京都に通信した大勝こと青木某なる業者もあった。明治期には、十三峠線は廃止されて、千里山線が競合するようになった。彦根方面、伊賀上野方面、桑名方面への通信もなされた。神戸方面、和歌山方面には西政こと西尾政七が通信を行った。兵庫・姫路への通信は沖宗・灰為等の店が営んだという。大津方面への通信は源助系統の齋木勘兵衛によって維持・管理され、京都ルートも大勝によって後まで維持された。
 幕末期、飛脚屋であった坂本屋は相場通信を始め、明治7年には「飛報社」と改めて、諸相場を報じた。明治26年には和歌山線の通信権を得て、「報知社」と改め、兵庫方面に発展することによって、西政・沖宗・灰為が明治25年に合併して作り兵庫へ通信していた三共社は、同33年に廃業に追い込まれた。つまり、報知社は堺・和歌山・奈良・大和高田方面の通信を担当したわけである。


(Q22)旗振り通信の行われた山に名前はあったの?

(A22)通信を行った山に昔からの名前がある場合は問題ないが、まったく名前のない山のことも多かった。その場合、相場を旗振りで伝えた山ということから、「相場山(相庭山)」「相場振山(ソバフリ山)」「相場取山(ソバトリ山)」「旗振山」「旗山」「高旗山」と呼ばれることが多かった。「相場ヶ裏山」「相場の峰(むね)」と呼んだ例もある。その他、漢字表記が変化して、「畑山」「高畑山」となった場合も見られる。こういうケースは、命名の由来が忘れられたことによるのであろう。


(Q23)旗振りでどうやって利益を上げたの?

(A23)今日の株式取引における空売り・空買いと同じような仕組みで、保証金による信用取引によって利益を得たもので、運用に失敗すれば、夜逃げ同然、うまくいけば、大金持ちというように、悲喜こもごもの人生ドラマを生み出した。商品相場による先物相場とも仕組みはほぼ同じといってよい。米会所の取引業者は取引の際の手数料によって利益を得る。一攫千金を夢見る人々は、旗振りによる情報を有効に活用して、取引を行ったのであった。


(Q24)旗振り通信が廃止された時期と理由は?

(A24)大阪で電話が最初に用いられたのは明治26年3月のことであったが、旗振りに電話が用いられたのは明治36年からである。電話よりも安くて早い旗振りは、明治30年代まで盛んに利用された。明治40年ごろには市内に高層建築が増えたことから、見通しが悪くなり、明治42年に北区大火が起こり、櫓が消えたことによって、市内の通信はすべて電話に切り替えられた。ただ、市外電話は、呼び出しに相当の時間を要したので、しばらくは、旗振りが利用された。大正3年9月に予約電話規則が発布されて、12月に実施されたことにより、相場通信に電話の予約ができるようになって、旗振り通信は自然消滅に至った。
 兵庫県の一部の地域では、大正6年ごろまで旗振りが行われたという。これは、旗振り通信員の職業維持のためであったという。
大正7年には、旗振り通信はすっかり姿を消してしまったのであった。


(Q25)旗振り山に、その痕跡を示す遺跡はあるの?

(A25)旗振り通信を行った痕跡の残る場所は、ごく少ない。滋賀県野洲市の相場振山に残る「旗差し穴」、東近江市・安土町の岩戸山には、通信方向を示す「岩場に刻まれた矢印2ヶ所」、岡山県備前市・瀬戸内市の西大平山にある「旗振台」、などが目に見える形での遺跡といえるだろう。また、茨木市の石堂ヶ岡のクラブハウス前の記念碑や姫路市横池の石碑に旗振りの事実が刻まれている。
 加古川市・高砂市境の城屋敷には、「米相場中継所跡」の案内板が見られるが、設置者は立地条件を確認しないで設置したらしく、この地点から姫路方面に通信することは不可能である。本当の米相場中継所は、城屋敷の西方400mの北山奥山にあった。
(この事実については、「新ハイキング別冊関西の山」72号、「歴史と神戸」163号の木谷幸夫氏の論文を参照のこと)
 この他、木造の小屋、木造の旗振り台、などが設置されていた地点も報告されているが、その痕跡は跡形もなく消滅している。
旗振り地点に盛り土があったケースもいくつかあるが、土取りで消滅したりして、残されているものはごく少ない。京都市西京区小塩山の山頂には、アンテナが林立しているが、旗振り地点には土盛りをしてあったということである(大原野南春日町の安井庄次さんによる)。

<相場振山の旗差し穴の写真>・・・『旗振り山』の本をごらんください。                      

 野洲市の相場振山にある旗振りの旗を差した穴 (山名の「かぶと山」は角川地名辞典の間違いで、田中山が正しい。)


<岩戸山の矢印岩>・・・・・・岩戸山・太郎坊山・・・・・・コースガイドをごらんください。


<各地の記念碑・石碑・木柱・案内板・旗振台>

   昔の旗振り場を示す案内板が、古老の証言に基づいて、各地で、人知れず建立されています。

    たとえば、ながたの旗振り山「正法寺」 にも、2004年6月19日に、案内板が設置されています。

    また、2004年11月には、四日市市川島町の大門山(標高91m、別所谷)から、米相場を鈴鹿の野登山や神前(かんざき)の
  大日山(標高64.0m、寺方町)へ伝えたという案内板(http://akira10032002.fc2web.com/daimon1702/H17022106.jpg)(あきら
  ちゃんの自然散策のHP、2005年2月21日の散策写真集を参照。)が設置されている。
    このことについては、2005年2月19日の中日新聞の記事(大門山の黄金伝説を追え)と同2月28日の中日新聞の記事
  (大門山と大日山との間の「のろしリレー」、大門山の黄金探しなどのイベントの紹介)がある。
    2005年2月27日に行われたイベントは、ニュースエリア便(http://www.cty.co.jp/tv/20ch/news/data2005/050228.html)で
  見られる。ただし、大正時代に行われたという米相場の通信は昼間の旗振りや夜間の松明振り(火の旗という)であり、赤や黄色の
  のろしは費用が高くつくので、伝承の誤りではないかと思われる。火振りによる相場通信を「のろし」と誤解して伝えた例は西日本
  各地にも数多く残っている。


  あなたの市・町・村に、もし展望の良い丘があったら、こういった案内板がないか確かめてみてください。   


(Q26)通信廃止後、旗振りが再現されたことはあるの?

(A26)西宮市の会社員、吉井正彦さんの尽力によって、昭和56年に大阪・岡山ルートの再現実験が実行されました。その時の状況は、多数の新聞記事に紹介されています。そのひとつを下に紹介しておきます。なお、「新ハイキング別冊関西の山」71号でも詳しく紹介しておきました。

<旗振り通信の再現を伝える毎日新聞の記事>
・・・・・・・・・・・・・毎日新聞大阪本社版・社会面(22)(昭和56年12月7日)
     ・・・紙面は『旗振り山』(ナカニシヤ出版、2006年5月発売)に掲載



(Q27)旗振り通信の文献を教えて

(A27)旗振り通信についてのバイブルとされる文献は、次の近藤文二氏の論文です。これ一編で、基本事項は網羅されています。

(文献1)近藤文二・小島昌太郎「大阪の旗振り通信」
 (大阪市役所編纂『明治大正大阪市史 第五巻 論文篇』昭和8年; 複刻版、清文堂出版、昭和41年)(p.359−380)


近藤論文は、旗振り通信ルートについては、概略のみで、山名の表記にはあいまいな点が多い。それを解決したものが、次のような筆者の研究である。他の多くの文献は、この中に網羅しているので参照されたい(特に、57号、58号、74号に掲載している)。

(文献2)柴田昭彦「旗振り通信の研究」 (『新ハイキング別冊関西の山』57〜89号、平成13年3月〜18年7月)

筆者が、旗振り通信ルートに興味を抱くきっかけとなった論文は中島伸男氏の次の2編である。地元の古老から多くの聞き取りを行い、近藤論文が曖昧にしかふれていない旗振り地点を解明した労作である。参考になる点が非常に多い。
     (ただ、不注意な誤植があるのは残念なことである。)

(文献3)中島伸男「滋賀県内の旗振り通信ルート」 (『蒲生野 20』八日市郷土文化研究会、昭和60年12月)
(文献4)中島伸男「三重県向けの旗振り通信ルートについて」(『蒲生野 22』同上、昭和62年11月)


筆者はこの中島論文をもってしても、謎のままになっていた「二石山」「桜山(菩提寺山)」「三ッ阪山(野洲町の相場振山)」といった旗振り地点を、中島氏の意向を受けて、すべて解明したような次第である(文献2の58号参照)。

この他、筆者のまとめた、上掲(A5)で示した、『歴史と神戸』の論文単行本の『旗振り山』次の論文も参考にされたい。

(文献5)柴田昭彦「旗振り通信の新研究」 (『新ハイキング別冊関西の山』91号〜118号、平成18年〜23年)

(Q28)旗振りの記録が飛脚情報に比べて著しく少ないのはなぜ?

(A28)旗振り通信は、江戸時代には「抜け商い」として、飛脚業の優遇のために、幕府によって禁止されていたので、当時の記録は、ごくわずかしか残っていない。その一例としては、茶静編『俳諧職業尽』(天保13年、1842年)の中に、「火振」という一文があって、大坂から伊勢へどのように相場を伝えたかにふれている(文献2の60号の記事を参照)。これは、幕府の禁止区域外にあったために、公刊されても大丈夫だったのであろう。
 明治時代には公認されたが、飛脚との比較では、利用頻度の違いが大きく、旗振りは、ごく一部の関係者のみに用いられたこと、とりわけ、旗振りは、民間の業者が行ったものであり、資料の残存度は、著しく、小さいものとならざるを得なかったのである。飛脚業のほうは、全国的に展開されており、江戸時代以来、公認のものであり、資料のほうも多数、残ることとなった。


(Q29)外国に似たような通信方法はあったのか?

(A29)フランスで、クロード・シャップ(Claude Chappe,1763-1805)によって1793年に開発され、1794年に実用化された「腕木通信」(うでぎつうしん)という類似の通信方法があった。日本の旗振り通信より、かなり遅い時期である。以後、スウェーデン、イギリス、ノルウェー、フィンランド、デンマーク、ドイツ、ロシア、スペイン、ポルトガル、アイルランド、ベルギー、オランダ、イタリア、アルジェリア、アメリカ、南アメリカ、インド、エジプト、カナダ、オーストラリアなどの各国に広がった。この腕木通信も19世紀半ばに急速に電信が普及すると、衰退していった。フランスでは1855年に腕木通信は全廃されたが、アルジェリアでは1859年ごろまで利用された。
 中野明『腕木通信』(朝日新聞社、2003年)は、この分野における最初の本格的な解説書であり、大変、参考になる労作である。


(Q30)山頂に立つマイクロ無線の中継所が、かつて、のろし台、見張り台(城跡)、旗振り山として利用されていた場所と重なることが多いという話をよく聞きますが、本当でしょうか。

(A30)マイクロ無線の中継局が、中世の城跡に多く設置されていることを最初に指摘したのは、渡辺久雄氏(「のろし山」)(『忘れられた日本史』創元社、昭和45年、所収)です。そして、その城跡は、古くはのろし場でもあり、のちには旗振り場ともなったというのです。
この話題については、次のような資料があって、よく参照されているようです(ただし、あまり厳密な内容ではないので注意)。

(1)「旗振山」(兵庫探検総集編<12>)(昭和55年5月27日、神戸新聞)・・・この記事は、次の(2)に、一部増補して再録。
(2)『兵庫探検・総集編』(神戸新聞出版センター、昭和56年)
(3)「のろし台復活!? 城跡に立つ第二電電中継局」(昭和61年4月7日、朝日新聞)
(4)「第二電電マイクロ波網で復活した弥生・中世のろし網」(朝日新聞WEEKLY  AERA No.10 1988.7.26)

長距離電話用のマイクロウエーブ(極超短波)は、直進する性質があるので、相互に見通しがきく場所でないと中継できない。従って、のろし場や旗振り場と立地条件が同じということになる。また、見張り場を必要とする山城の立地条件ともいくらか一致してくるのである。ただし、立地条件が同じということと、現実に、設置された地点が一致することとは、別問題である。上記の記事を読んでも、実際に、その一致しているという具体例の記述はほとんどない。それは旗振山(須磨)と高取山だけである。その理由として、
(1)のろし台の場所が今日でも必ずしも明確ではないこと
(2)記事の書かれた当時に知られていた旗振り場の具体的な地点についての資料が乏しかったこと
の2点が考えられる。

筆者は、平成17年8月に、『旗振り山』の本を準備するために、「旗振り場一覧表」を最新のものに改訂し、米市場を除いた旗振り場154カ所をリストアップしたが、そのうち137カ所がほぼ確実な旗振り場と思われる(最新のリストは『旗振り山』で公表している)。→(注)
確実な旗振り場137カ所のうち、山頂に設けられた旗振り場は約110カ所であるが、その旗振り場に電波塔が設置されているのは、2万5千分の1地形図によれば、次の21カ所である(ボンデン山にも電波塔があるが、旗振り地点が不確実なので除いた)。

畑山(西宮)、高取山、旗振山(須磨)、金輪山(たつの)、天下台山、赤穂高山、熊山、遙照山、雨乞山(小郡)、火の山(下関)、皿倉山、神於山(岸和田)、向谷山(島本)、小塩山(大原野)、比叡山、荒神山(彦根)、多度山、相場山(岐阜)、長谷山、高峰山、高安山

山頂にある旗振り場といっても、標高が低いことも多いので、条件は単純ではないが、山頂の旗振り場5カ所について、その中の1カ所にだけ電波塔があるという比率になる。これが多いか少ないかは、判断の分かれるところだが、従来、漠然と期待されていた比率よりは遙かに少ないのではないだろうか。のろし台、城跡については調べていないが、やはり、それほど多くないようである。見通しの利く山頂であれば、どこであっても、のろし場、山城、旗振り場としての利用が可能なのだから、それらが重なることがあり得るのは当然のことである。ただし、「旗振り山の位置が、マイクロウエーブの電波塔の位置とほとんど重なっている」というような記事は、実際の旗振り場のことを全く知らないで書かれた「間違った情報」であることをはっきりと指摘しておきたい。「旗振り山のうち、マイクロウエーブの電波塔が山頂にあるケースは、5分の1ぐらいである」というのが筆者の結論である。

→(注)その後の新たな発見によって、平成19年3月現在、旗振り場は172ヶ所をリストアップしている。
     そのうち、ほぼ確実な旗振り場は、145ヶ所である。
      また、山頂に設けられた旗振り場は、114ヶ所である。  (平成19年3月9日、記)。



(Q31)森平爽一郎『物語(エピソード)で読み解くデリバティブ入門』(日本経済新聞出版社、2007年)に載せてある「旗振り通信に関する記述」を読んだのですが、曖昧な内容や、人名・地名の間違いが気になりました。 どう思われますか? (2008.6.13)

(A31)内容は興味深く記述してあるのですが、細部を読むと、確かに、曖昧であったり、明らかな間違いも見つかります。正誤表を作ってみましたので、ご確認ください。私の『旗振り山』の本の内容、このホームページの内容を参考にしてください。

        <森平爽一郎『物語(エピソード)で読み解くデリバティブ入門』の正誤表>

備考
67 一四を示す五 一四の合い印の五 旗信号の送り方について、合い印の説明がないので、理解不可能な記述になっています。
(A14)参照
67 三五を示す四一 三五の合い印の四一
67 二回同じ信号 合い印の信号
71 標高二三〇〇メートル 標高二、三〇〇メートル
71 「旗振岡」 (削除) 「旗振岡」と呼ばれる場所は、実在しない
71 11 五郎池 神戸米穀取引所 正法寺からは、五郎池方面には、途中で遮られて通信できない。
71 11 旗を振る人が立つ鐘楼の礎石跡 旗の掲揚塔の基部 残っているのは、鐘楼の礎石跡ではなく、旗の掲揚塔だが、相場振りとは無関係である。
71 14 手旗り通信 旗振り通信
72 中島一著『四季のうつろい彦根日記』 中島一著『彦根日記−四季のうつろい』 72頁1〜7行の文章は、中島一氏のこの著書に収録されていません。
72 11 土谷 土山
72 13 本朝一丁目 本町一丁目
73 柴田昭彦「兵庫県内の旗振り山について」『歴史と神戸』42(5)2003年 柴田昭彦「米相場を伝えた旗振り山の解明」『歴史と神戸』41(5)2002年 図2−11の出典が、まったく間違っている。
74 五里(二〇〇〇メートル 五里(二〇キロメートル
74 五里離れたところと米相場の信号をやりとりしたことから 五里四方が見晴らせたことから 五里山の呼称は、米相場とは無関係である。
74 12 樋口清之『と日本人』 樋口清之『こめと日本人』 書名を間違える人が多い。
74 15 (鑑札)なしに走った (鑑札)を持って走った 関所通過のためには、特別の鑑札が必要であった。
74 16 大坂の米相場 旗振り速報』 大阪の米相場 旗振り速報』
75 二一分くらい 一分くらい
75 柴田は指摘 渡辺久雄氏は指摘 私(柴田)は、むしろ、旗振り通信の経路はマイクロ通信とは一致しないことが多いことを指摘していることに注意(A30参照)
75 11 岡山の桑島一男氏 西宮の吉井正彦氏 桑島氏は、主宰者の吉井氏に協力した人である。
75 12 昭和五六年一二月二六日 昭和五六年一二月六日
75 13 当時と同じ二六中継基地をそのまま使い、これまた当時とまったく同様に 昔とは倍増した二六中継基地を使い、 昔の中継地点数を二倍にして再現したもので、当時とは異なる。
76 黒澤比佐子氏 黒岩比佐子氏
208 (12)黒澤比佐子著 (12)黒岩比佐子著
208 (15)樋口清之著『と日本人』 (15)樋口清之著『こめと日本人』
208 二〇〇三年八月 二〇〇三年十月
208 大手の米相場 大阪の米相場
208 10  『旗振り通信』ナカニシヤ出版 『旗振り山』ナカニシヤ出版
208 10 ホームページ「旗振り通信物語 ホームページ「旗振り通信ものがたり
208 15 (19)中島一著「彦根の旗振り山」『彦根日記−四季のうつろい』所収 (19)中島一著「彦根の旗振り山」『彦根日記−四季のうつろい』未収 「彦根の旗振り山」は、ホームページにあった記事である。中島一著『彦根日記−四季のうつろい』には掲載されていません。




2.求む! 旗振り場情報!

 筆者は、「旗振り通信の研究」で、今まで、知られているすべての旗振り場の情報を集大成してきました。しかし、旗振り通信が過去に行われたことは間違いないにもかかわらず、まったく、旗振り場所が発見されていない地域が、相当、広域にわたって存在します。

<いままでに、筆者が行ってきた、旗振り場の捜索の方法>

(1)市町村の役所・役場・教育委員会等あてに問い合わせる。
(2)書店・図書館等で文献資料(ハイキング関係・郷土資料など)を調べる。
(3)郷土史家、登山家、本の執筆者などに問い合わせる。
(4)しかるべき人に依頼するか、または筆者自らが、地元で、古老から聞き取り調査を行う。

このうち、(1)は、今後、市町村合併の動きも加速していくので、困難になっていくし、筆者の調査でほぼ発掘し尽したものと考えている。(2)の文献資料は、古い郷土資料やタウン誌など、見逃しているものに未発見のものがあるかもしれない。
(3)についても、まだ、資料をお持ちのかたがいることだろう。
(4)は、古老の情報が刻々、失われつつあるが、関係者は、子や孫に、旗振りの事実程度は伝えているもので、曾孫であっても、語り伝えていることが多い。立地条件に着目すれば、まったく未知の旗振り場が発掘できる可能性がある。当事者でなくても、目撃証言を伝承しているケースも考えられるのである。この方面の調査は、魅力的といえる。地理学生などによるフィールドワークとしても有効ではないかと考える。学校での地域学習活動としても有効なのではないかと思う。

 そこで、具体的な、新しい旗振り場の発掘方法について述べて、協力してもらえる人を募りたいと思う。


<未知の旗振り場を発掘するための手順>

(1)筆者の『旗振り山』の本の「通信ルート・旗振り場一覧表」を見て、未発見の地域を掌握する。

(2)未発見地域の地形図(5万分の1、2万5千分の1)をもとに、旗振り通信に最適な山を仮に設定してみる(予測)。

(3)関連資料(郷土資料)がないかどうか調べる(図書館・資料館・自治体)。

(4)資料が見つからない場合、自治体等で、地元で昔のことに詳しい人を紹介してもらう。

(5)地元のことに詳しい人に、聞き取り調査を行う(迷惑をかけないように注意する)。

(6)地元のことに詳しい人に紹介してもらって、芋づる式に聞き取り調査を継続する。

(7)フィールドワークもよいが、無差別にあたっても徒労に終わりやすいので注意。当りをつけること。


<未知の旗振り場の発見の見込みのある地域について>具体的な事例の紹介

筆者の今までの悉皆調査から、未知の旗振り場が発掘できる可能性の高い地域を列挙して、調査を試みる人の参考としたい。

  ※なお、その後の調査で判明した内容については、→以下で注記した(2007年1月現在)(2009年8月追加)

(1)鈴鹿市西庄内町上野(かみの)の西の山で旗振りが行われたというが、その正確な地点は不明。野登山という伝承もあるが、どの地点で旗振りをしたかを証明するものはまだ、見つかっていない(上野の坂口和夫氏の母、ひさへさんがご存知であったが、具体的な地点の情報は残されておらず、いまだに不明である。「西の山頂」としかわからない。「鈴鹿市史第3巻」参照。新ハイ関西59号参照。

(2)伊賀市の高旗山から、柘植・旗山を経て、布引山地を通り、長谷山(津市)に通信したというが、
布引山地の中継地点が不明。
筆者は「摺鉢山」ではないかと推定しているが、裏づけ証言は得られていない。調査が必要である。
 
→大山田地区の下阿波ケント山と上阿波ケントヤマの発見で高旗山〜ケント山〜ケントヤマ〜長谷山〜津ルートが判明。

     ※ケント山(見当山)とケントヤマ(見当山)はまさに「布引山地」である。米相場の見当を振った地点であった。

 →旗山からは、津市河芸町上野の本城山と中継が可能な立地にある(裏付け資料は見当たらないが可能性はある)。
 

(3)知多半島には、岸岡山(鈴鹿市)と八ッ面山(西尾市)の中間地点に旗振り場があったはず。それはいずこ?
  
→知多半島では、大府市の観音寺山が旗振り場であったことが判明。ただし、中間地点ではなく、江戸時代の旗振り場は不明。

(4)津市の倉田正邦氏が元福井大の杉本壽氏に聞いた話として、旗護山(敦賀市・美浜町)が旗振り場であったというが、地元では愛宕山と呼ばれていて、旗振り伝承は見つからない。その真偽のほどは?

(5)岡崎市鶇巣町のネムリ沢(ネムル沢)は江戸時代に旗振り場だったというが、その旗振り場は309m峰でよいのかどうか、まだ検証はできていない。また、宮崎へ送信したというが、その地点は額田町宮崎でよいのかどうか、確定できていない(新ハイ関西62号)。
  
旗振り場は309m峰(山名は「北原山」)であることが判明(古い「点の記」に記載があったことで確定できた)。
    ただし、送信地は宮崎かどうか不明のまま。


(6)愛知県岡崎市から、豊橋・浜松・静岡・三島・小田原・江戸と伝達(箱根越えの三島・小田原間は飛脚が走った)したというが、岡崎以東の東海道沿線には、旗振り場はまったく伝えられていない。筆者は、航空灯台のあった、浜名湖の西の神石山(湖西連峰)などが候補地ではないかと思うが、裏付けは得られていない。静岡県・神奈川県・東京都域での旗振り場の発掘を希望する。ただし、江戸にまで、通信を行っていたのは三井家で、文化・文政期(1804〜30)のことであり、明治時代には静岡あたりにとどまっていたようである。
  
→愛知県・静岡県境の旗振り場は、豊橋市嵩山(すせ)の山上という資料が見つかったが、旗振りの裏付けは得られていない。
  
→2010年4月、愛知県・静岡県境の旗振り場(江戸時代)が発見できた。中山峠の南南東の三角点(標高392m)が米相場の
    旗振り山として、浜松市北区の三ヶ日地区の平山の古老に語り継がれていたのである。徳川時代というから、この山が、
    三井家の用いた中継所の一つに違いあるまい。次の送信場所は気賀だという。中継地点は、12〜16kmおきにあったようだ。


(7)西宮市のごろごろ岳、神戸市中央区中尾町北方の中尾東山で、旗振りが行われたかどうか、はっきりしていない。
  
→中尾東山での旗振りについては、HPに、地元での伝承を物語る一文があり、裏付けられたと言える。ごろごろ岳は不明。

(8)淡路島・徳島では、岩屋・志筑・洲本・市村・福良・撫養・徳島で明治9年当時、相場通信が行われたというが、その旗振り場がどこであったのかは、まったく知られていない。いったい、どの山で中継されていたのだろうか。

(9)三田から丹波市氷上町成松の霧山をつなぐルートがあったというが、篠山付近にあったらしい旗振り場はどこにあったのか。

(10)西宮市山口町の畑山、三田市香下のさんしょう山、三田市小柿の感応寺山(三国ヶ嶽)を経て、多紀連山、日本海へ抜けるコースがあった。多紀連山から日本海へ抜ける地点についてはまったく資料が見つかっていない。篠山市、綾部市、福知山市、舞鶴市付近での調査が必要であろう。

(11)姫路市豊富町豊富の畑山では、桶居山の信号を受信したといい、麓の太尾地区に旗振り伝承が残る。ここから、どこへ通信したのか不明で、落合重信氏の研究では、但馬方面への通信が行われたというから、畑山から生野経由での通信が想定されるが、資料はまだ見つかっていない。はたして、豊岡方面まで通信する必要があったのかどうか、皆目、見当もつかない。

(12)朝来市生野町に高畑山がある。高旗山の可能性もあるが、旗振り山かどうか不明である。

(13)小野市の来住の学校前の山上での旗振りの目撃証言が残るが、具体的に、どの山のことなのか、確定できていない。
南の安場山(156m)か南東の138mの山の可能性が高いが、確定したいものである。   

(14)赤穂高山で旗振りが行われたと落合重信氏は記載しているが、地元の裏づけ証言の発掘を希望する。また、赤穂市の黒鉄山は旗振りの再現実験で用いられた山であったが、旗振り山であるのかどうかについて、筆者は資料を持ち合わせていないが、調査を希望したい。
  
→須磨岡 輯『新・はりまハイキング』(神戸新聞総合出版センター、2006年10月)では、黒鉄山は「旗振り山」とある。
   旗振り情報の出典は、赤穂市役所発行の
「広報 あこう」No.639(2005年3月号)の「山とひと No.3 黒鉄山」
   である。この広報は、赤穂市公式ウェブサイトにおいて、広報あこうのバックナンバーによって、内容を閲覧できる。

  ※「旗振り通信の新研究 4」(「新ハイキング別冊関西の山」95号、平成19年7月)で「黒鉄山」の資料を紹介。


(15)岡山県赤磐市(旧熊山町)の熊山では、旗振りが行われたというが、どこの集落の人が旗振りをしていたのか不明になっている。旗振り場の地点もわかっていない。

(16)津山への旗振り通信も行われたというが、その中継ルートはまったく不明である。どこから中継したのだろうか?

(17)岡山市の芥子山(けしごやま)で旗振りが行われたという一説があるが、裏づけ証言は得られていない。

(18)岡山市操山旗振台古墳と遥照山とを中継する地点が倉敷付近にあったというが、不明である。日差山ともいわれるが、裏づけはとれていない。筆者は立地から仕手倉山ではないかと考えるが、確認できていない。

(19)備前市大平鉱山(三石大平山)で旗振りが行われたというが、地元での確認がとれていない(西大平山との混同か?)。

(20)児島半島に高旗山があるが、旗振り山かどうか不明である。

(21)笠岡市城見の皿山(95,8m)は169.8mの三角点の南1.1kmにある山で、旗振り場という説があるが、地元での調査では、旗振り場ではないという結果であった。この付近に旗振り場があったはずであるが、それはいずこ?

(22)広島県下に旗振り場はあったはずであるが、その地点はひとつも見つかっていない。調査を希望する。

(23)山口県下で判明している相場通信の山は萩市三角山、山口市小郡町雨乞山、下関市火の山のみである。その他の地点の明確化を希望したい。

(24)筑紫野市冷水峠(ひやみずとうげ)からどこに通信したのか不明である。

(25)「筑後の箕山」で旗振りが行われたと伝承されているが、箕山という山はどこにも存在しない。筆者の推定では、久留米市の耳納山(みのうやま)と考えているが、裏づけはとれていない。耳納山での調査を希望したい。

(26)薩摩(鹿児島)まで旗振り通信で伝えたという俗説があるが裏付けはとれない。本当だろうか。事実を確かめる必要がある。
  
→鹿児島県立図書館で実施してもらった調査(2006年)では、通信が行われたという資料は全く存在しない。ガセネタらしい。



★旗振り山の本を一読した感想のお便りの一部を紹介します(H18年5月)★

・御内容につきましては参考になりました。重ねて御礼申上げます。
             池田 末則 (奈良市、日本地名学研究所所長)
故人

・全国の旗振り通信ルートを解明した貴著「旗振り山」は学術上価値の高いものです。
             綱本 逸雄 (向日市、京都地名研究会事務局長)


・柴田さんのお仕事は「旗振り学」とでも呼びたくなる完成度を示しているように感じました。
             中島 伸男 (東近江市、八日市郷土文化研究会事務局長)


・「新ハイキング関西」誌に連載当時から、いつかはまとめられて出版されるべきだと
 思っていましたが、とうとう実現され、心から喜んでいます。
             慶佐次 盛一 (大阪市、『北摂の山』の著者)

・歴史と山を絡ませた本では、今まで出た本の中で出色のものでしょう。
             中庄谷 直 (池田市、『関西の山 日帰り縦走』の著者)


・いい本ですね。表紙の写真もよろしいが、帯紙も表紙の一部ですから、アイデアに感心。
             藤井 昭三 (神戸市、『神出むかし物語』の著者)

・当家においては、今後大切に蔵書致します。ありがとう御座いました。
             黒田 三代子 (明石市、旗振り通信の望遠鏡の保管者)


・大変いい本をありがとうございました。大事に使わせていただきます。
             岡 里美 (備前市日生町、旗振り通信の望遠鏡の保管者)


・徹底した調査と、膨大な資料の収集にもとづいた『旗振り山』に感服しました。
             吉田 節雄 (岡山市、操山公園里山センター・ボランティア)

・「旗振り山」の広い全体像、厳密な考証には驚き、かつ敬服の至りです。
 歴史的な書だと思います。
             原水 章行 (西宮市、西宮明昭山の会・代表)

・この本によって、旗振り山が歴史に残り、旗振り通信が解明されたと思います。
             村田 智俊 (『新ハイキング関西』・代表)
故人



★新聞における紹介記事

「東京新聞」(中日新聞東京本社)(2006年7月2日 発行)に書評が掲載される

  (本の紹介記事) 「江戸期のインターネット?」
   ハイキング誌掲載記事をもとにしたこともあり、旗振り山の史跡探訪ガイドという
   体裁をとっているのが惜しまれるが、本書は、それら遺構のありかを文書記録や
   現地調査、古老からの聞き書きなどによって検証した空前絶後の研究書である。
   (評者:永瀬唯 ながせ ただし、評論家、科学史・技術文化史研究家、
    ジャーナリスト、SF史家。〉)

・「伊勢新聞」(2007年9月16日 発行)の(7)に短評が掲載される

  (本の紹介記事) 「三重の本 読む聞く」 ■短評■
   
全国の旗振り山と中継ルート十六本を日本で初めて解明。
   県内では「桑名」「四日市・津」「伊賀」の三ルートを扱う。


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