―兵団は敵中を南下―

 私たちが、泰緬国境沿いを退がっていたとき、兵団はビルマ中部を南に向かって撤退していた。それもまた、周囲を敵に囲まれ、常に空襲の危険にされされての苦難の行軍で、途中、ついに帰らぬ身となった将兵も数知れない。


水筒で精米する筆者

 敵の戦車群を、なんとしてもイラワジ河で食い止めようと、強力な防衛ラインを敷いた日本軍だったが、優勢な戦車群と航空機を主力に連合軍は、空陸一体作戦で友軍をけ散らし、河を突破するや、息もつかせずメイクテーラとマンダレーを陥し入れた。この両拠点の奪回で、連合軍は事実上ビルマの中・北部を征圧することになった。全陣地をじゅうりんされたことを知った日本軍の司令部は、やむなく「南への撤退」を指令したが、その方面にはすでに敵の機甲部隊がいた。だからといって、前線にとどまれば、敵後続部隊の襲撃を受ける。そのうえ、すでに大多数の将兵が死んだ部隊もかなりあって部隊間の連絡がほとんどとれない。他の兵団の動静も分からない。結局、友軍は散を乱してそれぞれ思い思いの方向に敵中突破の南進を始めた。東のシャン高原に向かった部隊もある。
 激戦の地、タウンターを過ぎると後は中部ビルマの波状の平原が続いた。昼間は敵に見つかり集中攻撃を受けるので、もっぱら夜の行軍。方角もよく分からないので星が頼り。もはや兵団の司令部がどこに在るのかも分からぬ有り様。十日ほど歩いてメイクテーラの近くまで退がった。そこは、四面砂原のつづく荒涼とした砂漠。ところどころにサボテンが茂っている。しかし、猛暑をさえぎる林はない。時々熱風にあおられて砂が空に舞い上がった。
 砂漠のあちこちに南下した敵戦車の轍の跡が残っていた。それが南の方向を教えてくれた。丸一日、何も食わぬと、人間は目に見えて気力が衰えてくる。その飢えと、疲れと、かわきで兵はもうモノをいう元気も失せている。行軍は、できるだけ身軽にということで、途中、兵器、弾薬を捨てた。だから身につけているのは、小火器と少量の弾薬。もはや、組織として戦う力を備えた軍隊ではない。だから昼間は、せまい地割れにまるでシラミのように、身をひそませて時の過ぎるのを待ち、日暮れとともに行動を起こした。そんな将兵のすぐそばを敵の戦車群が地響きをたてて何度も通り過ぎた。もし見つかって銃砲弾を浴びせられたら、戦う力のない友軍にとっては、それが最後の時となった。兵は身を硬くして息をひそめ、ただ戦車の通過を神に祈るしかなかった。
 連合軍のビルマ中北部の征圧とほぼ時を同じくして、現地人の反日行動が各地で起こった。敗走する友軍ははじめそれに気づかず、「現地の人は友好的」と信じ込んでいた将兵は、現地人の部落に助けを求めて近寄り、そこで不意打ちに遭って命を落とした者も多数いた。日本軍が優勢な時には、少なくとも好意的で、協力の姿勢を見せていた現地人も、戦局が一変するや、もはや味方ではなくなったのである。
 ラングーンに通じる街道は、夜ともなると、昼間どこかにひそんでいた友軍が現れ、ひしめきあった。どの部隊も、すでに大半が傷つき、疲れ切って重い足を引きずっていた。そんな時「首都ラングーンもすでに敵の手中」といううわさが飛び交っていた。このころすでに、全ビルマで十余万の友軍が死んでいた。
 ビルマで日本軍と戦ったマウントバッテン中将摩下のイギリス第14軍司令官ウイリアム・J・スリム陸軍中将は戦後、日本軍を評して「日本軍は史上例を見ないほど勇敢で強かった。とくに、自分たちが立てた作戦がうまく進んでいる間はアリのように整然として勇敢だった。しかし、ひとたび作戦に狂いが出ると混乱に陥り、態勢を立て直すのが遅く、必ず最初の作戦に固執していた」と話している。その指摘はまさに的を射ていた。だれが統率することもなく、闇の中を南へ歩く日本軍はもはや態勢を立て直すのが困難なほど打ちのめされていた。その将兵に、雨季の接近を知らせる大粒の雨が注いだ。別れた川原部隊がタイから再びビルマに入ったことを知ったのは、戦いが終わってからだった。