面影橋
南蔵院
所在地:豊島区高田1−19−16(都電面影橋駅徒歩5分)




南蔵院
 


 面影橋を渡り「山吹の里」の碑の前を通り過ぎて、さらに奥に進んだところにある真言宗の寺・南蔵院。

 この地は「牡丹燈籠」や「真景累ヶ淵」などの口述筆記で、二葉亭四迷(1864〜1909)らの言文一致運動に影響を与えた落語家・初代三遊亭円朝(1839〜1900)の代表作の一つ「怪談 乳房榎」の舞台となった寺としても知られている。
 



 


 「怪談 乳房榎」はどんな噺かというと…。寺の「雌龍 雄龍」の天井画の製作を依頼された絵師・菱川重信が寺に泊り込んで仕事をしているうちに、彼の妻おせきは、弟子の磯貝浪江と恋仲になってしまう。
 おせきと浪江は重信を殺し、二人は再婚。遺児・真与太郎は使用人の正介の手で赤塚村へ逃れ、その地にある榎の木の乳房の形をした瘤から流れる雫を飲んで成長。やがて、父の亡霊に助けられて、仇を討つのであった。
 
 この噺の中に出てくる乳房榎があったのは赤塚村(現・板橋区赤塚)の松月院で、南蔵院は、重信が天井画を書いていたほうの寺である。もっとも、現在の南蔵院は、昭和に改築されたコンクリート製の本堂になってしまっている。
 



南蔵院本堂
 

 
 本堂はどうも一般公開されていないようなので、外から眺めるだけに留める。
 
 寺の入り口にあった案内によれば、墓所には相撲の年寄の墓があるそうである。見ると、墓所の入り口が開いていたので、何気なく入ってぶらついていたところ、寺の人に注意されてしまった。
 そこで、改めて寺務所で手続きをすると、線香(200円)を買うはめに。なるほど、手続きがいろいろと難しいようである。
 


音羽山の墓
 


花籠の墓
 

 墓所の中央辺りに、ちょっと大きめの墓が二つ並んでいる。向かって右が花籠、左が音羽山の墓である。共に相撲の年寄である。

 花籠というと、年寄り名跡担保問題の元横綱輪島(1948〜)を思い出すが、こちらの花籠はそれよりもはるかに先輩に当たる。墓碑には「尾州旧藩士9代目花籠平五郎」とあり、裏には「明治43年6月建立」と書かれている。
 どのような力士だったのか、疑問に思って相撲辞典をいくつか開いて探してみたが、発見できなかった。あの類の辞典は、幕内力士のみを対象としているので、そうでない力士は見つけることができない。さらに、年寄に関して言えば、昔は元力士以外にも、行司や、力士の親族、有力な支援者であってもなっていたりするから、それもありえることである。幸い、とある人名事典で彼の名前を発見した。花籠平五郎(1785〜1909)は、元幕下力士であったようだ。

 隣の音羽山のほうは、やはり相撲辞典に名前はなかったが、墓の裏面に詳しく書いてあった。音羽山峰衛門、本名は田中直次郎。安政3(1856)年に生まれ、大正5(1916)年に亡くなっている。

 他にもこの寺には片男波、粂川、雷(いかずち)、二子山の墓があるそうである。
 



彰義隊九士の首塚
 


 この南蔵院は他にもいろいろと、由緒のあるものがある。ところが、寺内には案内も説明も無いので、どれがそれなのかがわからない。近くにいた寺の人に聞いてようやくわかった。
 その一つが「彰義隊九士の首塚」(写真上)。日露戦争後の1906(明治39)年には「忠烈碑」もすぐ隣に建てられている。
 また、「山吹の里弁才天」(写真下)。弁天様といえば、七福神にあるように、琵琶を持った姿を想像していたが、これは右手に杖を持ち、左手には子供を乗せているという姿。足元にも二人の子供がいる。だから、最初そうと気づかなかった。
 



山吹の里弁才天
 


 せっかく、見所が多い寺なのだから、もっと親切に紹介するようにしてもらいたい気もする。
 

(2006年5月12日)

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