日本一周第3回「白い雲のように」 

第3日「憧れ遊び〜兵庫県・岡山県〜」
 

2006年8月 7日(月)

 
 


  甲子園の2回戦を待つ間、再び西へ向かって出発した。何しろ今は日本一周旅行の最中なのである。実質的にはここから旅行が再開されるといってもいい。
      

 

 


大阪 →(山陽線)→ 姫路
 

 
 


〈姫路〉

 
  ◆姫路城(HP)  
 



姫路城
 

 
 

 
 姫路へやってきた。国宝・姫路城を観るためである。
 実は姫路城に来るのは2度目。大学1年生だった1993年秋、授業を1週間サボって初めての一人旅で山陰・山陽を回った際に、ここも訪れている。以来、13年ぶり。
  

 
 



大手門(桜門)


 

 
 
 姫路城は、南北朝時代の1333(元弘3)年、赤松則村(円心/1277〜1350)によってこの地に砦が築かれたのに始まる。城を構えたのはその子の貞範(1306〜74)で、1346(正平元)年のことだと言われる。もっともこれは規模も小さいもので、本格的な城を築いたのは16世紀の黒田重隆(1508〜64)であったらしい。その後1580(天正8)年、羽柴秀吉 (1537〜98)が西国攻略の拠点として入城し、翌年天守閣が完成している。
 現在の姫路城の規模に拡張したのは、池田輝政(1565〜1613)。池田氏の後に姫路入りした本多忠政(1575〜1631)が城を現在の形に整備した。
 
 「白鷺城」とも称される美しい姿の姫路城は、ユネスコの世界文化遺産にも選ばれている。1993年12月、法隆寺、屋久島、白神山地と共に日本最初の世界遺産に選定された。
         
 
 



菱の門
 

 
   
 姫路城へ入るには現在は菱の門をくぐることになる。城内の門の中で最も大きく優雅なものであるという。もともとは京都の伏見城の遺構であったそうだ。
   
 
 



西の丸
 

 
   
 まずは西の丸から見学することにする。
 西の丸は、 本多忠政の長男・忠刻(1596〜1626)の正室であった千姫(1597〜1666)が住んでいた場所。千姫は徳川家康(1543〜1616)の孫で、秀忠(1579〜1632)の娘。当初、豊臣秀頼(1593〜1615)に嫁いでいたが、1615(慶長20)年の大阪夏の陣で救い出され、1616(元和2)年に忠刻と再婚した。
    
 
 




化粧櫓


化粧櫓内部

 

 
   
 西の丸にある化粧櫓は、千姫が忠刻に嫁ぐ際の化粧料(持参金)で1618(元和4)年に建てられたもの。内部には人形で当時の千姫の様子が再現されている。貝合わせをしているところだろうか。
  
 
 



にの門
 

 
 
 いくつかの門をくぐり、天守閣へ向かった。
   
 
 




備前丸から見た大天守
 

 
   
 姫路城の天守閣は1580(天正8)年に羽柴秀吉によって建てられたが、池田輝政によって解体されている。現存の天守閣は1609(慶長14)年に輝政によって建てられた。以来400年。第二次大戦中の姫路空襲さえも乗り越え、現在までその雄姿を見せてくれる。
  
 
 



長壁神社
 

 
   
 もちろん天守閣にも登って来た。姫路城の天守閣といえば、泉鏡花(1873〜1939)の「天守物語」の舞台にもなっており、美しい姫の姿をした魔物が住んでいる場所。また、吉川英治(1892〜1962)の「宮本武蔵」でも若き日の武蔵が3年間籠って修行をした場所である。
 天守閣の最上階には長壁神社が祀られている。長壁明神は姫路城の守護神である。若き頃の宮本武蔵(1584〜1645)が姫路城の天守に住む妖怪を退治し、美しい姫の姿をした長壁明神から銘刀・郷義弘を授かったという伝説もある。
    
 
 



天守から見下ろす
 

 
   
 天守閣からの眺望は四方を見渡すことができてなかなか良い。
     
 
 



帯曲輪(腹切丸)
 

 
 
 天守の南東にある細長い建物は帯曲輪(おびくるわ)、別名・腹切丸。城の防禦において射撃などを行う場として築かれた。構造が切腹の場・検視役の席・首荒井の井戸に見えることから「腹切丸」とも呼ばれるようになったそうである。
  
 
 



お菊井戸
 

 
   
 南にある井戸は「お菊井戸」。お家乗っ取りの企てを知った女中のお菊が城主の難を救うが、それを恨んだ家老によって家宝の皿を隠され、責められ井戸に投げ込まれる。以来、夜な夜なお菊の亡霊が現れ皿の数を数えたという怪談「播州皿屋敷」に基づいている。あれ、この話は「番町皿屋敷」で江戸が舞台ではなかったのか? どうやらオリジナルの話はこちらの「播州皿屋敷」のようなのだ。
     
 
 



姫路城の石垣
 

 
 
 最後に「るの門」をくぐって元来た場所へ戻って来た。姫路城の門は「いの門」から「るの門」まで11個の門があるのだが、その最後の門は、門というより抜け穴といった感じである。おそらくはもともとそのような意図で作られたのだろう。
  
 
 





るの門
 

 
 
 さすがは姫路城。見どころもたくさんで充実していた。やはりコンクリートのお城と違い、築城当時のままの木造の床は、歩いていても重みが違う。うっかり当時にタイムスリップしたかの錯覚を受ける。
  
 
 



 

 
 
 ところで姫路城天守閣は、2009年から2014年まで改修工事に入っている。つい先日(2011年9月)近くを通ったところ、ご覧のように覆いがかけられていた。白鷺城の雄姿が見られないのは残念だが、なんでもこの覆いの内側から天守閣が間近で見られるとのことである。
          
 
 



改修中の姫路城天守閣
(2011年9月19日)
 

 
  ◆好古園(HP)  
 



好古園
 

 
 
 姫路城に隣接して庭園・好古園がある。正式名称は「姫路城西御屋敷跡庭園」。
 1985(昭和60)年以降の発掘調査で確認された西御屋敷・武家屋敷・通路跡などの遺構を活かして造園され、姫路市制定百周年を記念して1992(平成4)年に開園した。「好古園」 というのは、江戸時代に現在の庭園入口付近に存在した藩校「好古堂」に因んでいる。
  
 
 





好古園入口
 

 
 
 この地にあった西御屋敷は、そもそもは本多忠政の1618(元和4)年に造営され、江戸時代の榊原政岑(1713〜43)が藩主だった時に新吉原から高尾太夫を身請けしここに住まわせた ものだという。政岑は乱行を徳川吉宗 (1684〜1751)に咎められ隠居を命じられ、息子の政永(1735〜1808)は越後高田藩への転封させられた。
  
 
 



屋敷門
 

 
       
 好古園の敷地で最大の庭園・御屋敷の庭は泉回遊式庭園。中央の大池は瀬戸内海をイメージしているとのこと。
   
 
 





御屋敷の庭
 

 
 
 他にも「流れの平庭」や「竹の庭」「松の庭」など、いくつかの庭園が域内にある。
   
 
 



流れの平庭


竹の庭
 

 
 
 また、幾つかの建物が再現されている。その一つが双樹庵。裏千家家元の設計・監修により、京都の数寄屋大工が技術の粋を集めて建てた本格的茶室であるとのことである。
    
 
 



双樹庵
 

 
 
 好古園は自然に囲まれた見ごたえのある場所だが、散策をしていてヘビを見つけた。
    
 
 



ヘビを発見
 

 
 
 姫路城の西側の濠と、船場川に挟まれた遊歩道がある。この道は「千姫の小径」と呼ばれている。 
    
 
 



千姫の小径

 

 
 
 すぐ近くには姫路城ゆかりの千姫の像もあった。
    
 
 



千姫像
 

 
 
 姫路駅から姫路城に行く途中に気になる店を見つけた。ネパールレストラン「エベレスト」である。こんな所にまでネパールレストランがあるとは。僕は2007年1月から2年間ネパールに行くことになっていたので、これは奇遇と立ち寄ることにした。
         
 
 



ネパールレストラン「EVEREST」
 

 
 
 エベレスト・ビールを飲み、カレーセットを食べた。
  
 
 



 

 

 


姫路 →(赤穂線)→ 播州赤穂
 

 
 


〈赤穂〉

 
 
 次は播州赤穂へ足を伸ばした。播州赤穂といえば、「忠臣蔵」の舞台である。僕は「忠臣蔵」が大好きである。今回の日本一周でもすでに米沢を訪ねていた。米沢もやはり「忠臣蔵」ゆかりの地である。
 なお、赤穂もやはり訪ねるのは2度目で、大学時代に姫路訪問の後に来ている。 
  
 
 



播州赤穂駅前
 

 
 
 さすが赤穂は忠臣蔵の町。駅には巨大な「忠臣蔵」の書が掲げられている。「忠臣蔵三百年祭」とあるので、討ち入りのあった1703(元禄15)年から300年後の2002年に揮毫されたものなのだろう。
  
 
 



「忠臣蔵」の書
 

 
 
 また、討ち入りの際の赤穂浪士の人形も飾られている。山鹿流の陣太鼓を持つ、大石内蔵助良雄(1659〜1703)である。
   
 
 



大石内蔵助の人形
 

 
 
 赤穂浪士は駅前にもいる。「義魂」と書かれた像が建つ。手には采配を持っているので、これもやはり大石内蔵助なのだろう。
    
 
 



「義魂」
赤穂浪士像
 

 
  ◆息継ぎ井戸  
 



息継ぎ井戸

 

 
 
 赤穂は「忠臣蔵」ゆかりの地として、町中のいたるところに赤穂浪士にちなんだ史跡がある。例えば、駅前から真っ直ぐ進んだところにある息継ぎの井戸。
 主君である赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(1667〜1701)刃傷の第一報を伝える使者として江戸から駆け付けた早水藤左衛門(1659〜1703)と萱野三平(1675〜1702)はこの井戸で一息ついてから大石内蔵助邸へ赴いたという。
   
 
  ◆赤穂城址  
 



赤穂城
大手門と大手隅櫓
 

 
 
 まずは赤穂藩の居城である赤穂城へ行った。もともとこの地には岡光広によって文正から文明年間(1466〜86)に加里屋城が建てられた。その後、1600(慶長5)年に、池田長政 (1575〜1607)が赤穂城主となり、大鷹城を建築。池田氏の後に入って入封した浅野長直(1610〜72)の時に現在の形になった。
 築城にあたっては浅野家に仕えた甲州流軍学者・近藤正純(1604〜62)によって縄張りが行われ、その後山鹿素行(1622〜85)も加わり13年の年月 をかけて建築された。当時の浅野家は5万3000石であったが、赤穂城はその石高に対して規模が大きく、そのため藩は財政難に落ちったそうである。
 「忠臣蔵」の主人公の浅野内匠頭長矩は長直の孫で3代目藩主である。
   
 
 



大手門
 

 
   
 赤穂城は明治の廃城令によって建物はすべて取り壊され、当時の物は石垣と堀しか残っていない。だが、大手門と大手隅櫓が1955年に再建されたのを始め、現在ではいくつかの建物が再建されている。 
    
 
 



赤穂城石垣
 

 
   
 本丸門は1996年の再建。大河ドラマ「元禄繚乱」(1999年NHK)のロケにも使われたそうである。
     
 
 



本丸門
 

 
   
 赤穂城は5層の天守閣の建設が計画されていたが、結局それは実現しなかった。現在その場所には天守台が残されているのみである。
     
 
 



天守台
 

 
 
 赤穂城の中で数少ない現存している当時の建物が、大石邸長屋門。これは浅野家筆頭家老・大石内蔵助が祖父・大石良勝(1587〜1650)の時代から3代に渡って住んでいた屋敷の正面門長屋である。
   
 
 



大石邸長屋門


大石邸長屋門(裏側)
 

 
 
 この長屋門は、息継ぎ井戸で一息ついた早水藤左衛門と萱野三平が最初にくぐった門でもある。
   
 
 



大石りく(左から2人目)と娘たち


早水・萱野の届けた書を読む大石父子
 

 
 
 もっとも現在残っているのは長屋門のみで、内蔵助一家が住んでいた本邸は江戸時代後期に焼失している。長屋門には人形で大石一家の暮らしなどが再現されているが、彼らが実際にここに住んでいたわけではない。
   
 
 



近藤源八邸長屋門
 

 
 
 その大石邸の向かいにはもう一つの現存建築である近藤源八長屋門がある。近藤家は浅野家の軍学者で、この長屋門は江戸時代後期に改築されている。 
 近藤源八とは近藤家二代目の近藤源八正憲(〜1718)のこと。赤穂城築城に携わった近藤正純の養子で、大石内蔵助に甲州流兵法を伝授したという。主君・浅野内匠頭の刃傷事件の際はかなりの高齢であったようで、仇討ちの義銘には加わらなかった。
      
 
 



山鹿素行先生銅像
 

 
 
 赤穂藩の軍学者としては山鹿流の山鹿素行が著名である。大石内蔵助も彼に学び、討ち入りの際に「一打ち 二打ち 三流し」の山鹿流の陣太鼓を叩いたことで知られている。もっとも、実際の山鹿流にそのような流儀は存在しないらしく、歌舞伎の中での創作である。
 その彼の像も赤穂城内に建てられている。
  
 
 



片岡源五右衛門宅阯
 

 
 
 赤穂浪士の一人、片岡源五右衛門(1667〜1703)は浅野内匠頭の側近。内匠頭と同い年で、内匠頭切腹の際に最期のお目通りを許された人物である。切腹の場に向かう内匠頭の姿を庭先から無言で源五右衛門が見送る場面は映画などにも登場する。
 その源五右衛門宅阯源五右衛門宅阯も城内には残っている。
   
 
  ◆大石神社(HP)  
 



大石神社義芳門
 

 
 
 赤穂城の敷地内には現在大石神社がある。これは大石内蔵助ら赤穂浪士を祀る神社である。創建は1912(大正元)年と比較的最近。赤穂浪士は反逆者ということで江戸時代は徳川幕府に憚り、表立って顕彰することはできなかった。それが、1868(明治元)年に明治天皇 (1852〜1912)が泉岳寺に勅使を送って弔ったことから、1900(明治33)年に神社創建の許可が出たという。
 祭神は大石内蔵助以下の四十七士と、志半ばで自害した萱野三平、浅野長直・長友(1643〜75)・長矩の三代の城主と、それにその後の藩主・森家の先祖で本能寺の変で死んだ森蘭丸(1565〜82)ら七代の武将を合祀している。
       
 
 



大石神社鳥居


参道
 

 
 
 参道には四十七士の像が立ち並ぶ。
    
 
 



大石内蔵助像
 

 
 


中村勘助と大石瀬左衛門
 


堀部安兵衛と吉田忠左衛門
 

 
 
 大石神社の正面の門は「義芳門」。もともとは明治天皇の発案で、1873(明治5)年に楠木正成(1294〜1336)を祀る湊川神社が神戸に建てられた際、神門として建てられたたもの。1942(昭和17)年にここへ移築された。
   
 
 



巨大絵馬
 

 
 
 境内では縦6メートル、横7メートルの巨大な絵馬が出迎えてくれる。陣太鼓を持った大石内蔵助の姿が描かれている。
  
 
 



大石内蔵助良雄像
 

 
 
 すでに何人もの大石内蔵助に会っているが、境内に建つ像は、平時の姿で、討ち入り姿ではない。
  
 
 



大石神社本殿
 

 
 
 大石神社は新しい神社なので、建物自体はそれほど見どころがあるわけではない。しかし、敷地内には義士宝物殿や、浅野内匠頭・四十七士らの木像を展示する木像館などがある。
    
 
 



義士宝物殿
右側には巨大な陣太鼓が


古びた赤穂浪士像
これも大石内蔵助か?


義士宝物館の壁には物語を描いた絵馬が
 

 
 
 もともと大石神社の境内は、大石家の跡地にあり、長屋門もこの神社に接している。長屋門の裏側も境内から見学することができる。
  
 
 



大石邸庭園
 

 
 
 大石家の敷地には「良雄お手植えの松」など大石家にゆかりのある植物もいろいろと植えられている。
   
 
 



良雄お手植えの松


良雄遺愛の枝葉桜


ご神木「大楠」

 

 
 
 大石内蔵助夫人のりく(1669〜1736)の石像も庭園内に建っていた。りくは当時としては(いや現在でも)かなり長身で6尺(180センチ)あったという。18歳の時に大石内蔵助と結婚し、長男の大石主税良金(1688〜1703)以下三男二女を設けている。討ち入りを直前にして、家族へ累が及ばないよう内蔵助によって離縁され、故郷の豊岡へ戻り、68歳の生涯を終えた。
   
 
 



大石りく石像
 

 
  ◆花岳寺(HP)  
 



花岳寺
山門
 

 
 
 続いて歴代赤穂藩主の菩提寺である花岳寺へ行った。
 花岳寺は、常陸国笠間藩から転封となった浅野長直によって1645(正保2)年に創建された。曹洞宗寺院で、開山は秀巌龍田(〜1663)。
  
 花岳寺の山門はもともと赤穂城の塩屋惣門であった。1873(明治6)年に取り壊されることになっていたのだが、当時の花岳寺の住職であった仙珪和尚によって「昔のものをわざわざ壊すのはもったいない。」と金6両で買われたそうである。
    
 
 



花岳寺本堂
 

 
    
 山門をくぐったすぐ右手には鐘楼があり、「鳴らずの鐘」という名が記されている。この鐘は浅野家2代・長友が父・長直のために鋳造したものである。
 四十六士が切腹した後、赤穂の民衆がその死を悼み、鐘をつきまくったところ鳴らなくなり、その名がつけられたそうである。1797(寛政9)年に改鋳され、第二次大戦中も、「義士との由緒深きにより」供出を免れ、現存している。
   
 
 



鳴らずの鐘
 

 
    
 本堂の前にある松の木は「大石名残の松」。もともとは1691(元禄4)年に大石内蔵助が母くま(1637〜91)の冥福を祈り植えた松であり、1701(元禄14)年に赤穂を離れる際にこの木の下で名残を惜しんだという。
 ただ、当時の松は1927(昭和2)年に松食い虫により枯死。現存のものはその後に植えられた2代目である。
  
 
 



大石名残の松
 

 
   
 赤穂浪士の墓所に入るには拝観料が必要である。
  
 
 



忠義塚
その奥が義士墓所
 

 
   
 入口を入ると「忠義塚」があり、その奥に四十七士の墓所がある。
   
 
 



義士墓所
 

 
   
 墓所の正面にはひと際大きな浅野内匠頭の墓。その両側に大石内蔵助と主税父子の墓が建ち、その周りを他の四十五士の墓が建ち並ぶ。
 四十七士のうち、寺坂吉右衛門(1665〜1747)だけは討ち入り後の切腹を免れているが、後にここに合祀されている。
      
 
 



浅野家廟所
 

 
    
 墓所の中の立派な建物は「浅野家廟所」。1918(大正7)年に浅野本家である広島の浅野家の寄進により建てられた。
 中には浅野長直ら歴代赤穂藩主の像、四十七士の位牌などが祀られているそうだ。
   
 
 



忠義桜



不忠柳
 
 
 
 義士墓所の入り口の左側には「忠義桜」という桜、右側には「不忠柳」という枝垂れ柳が植えられている。
 忠義桜は大石内蔵助の屋敷から、不忠柳は大野九郎兵衛邸から移されたものとのことである。大野九郎兵衛は浅野家の家老であったが、内匠頭切腹の後は赤穂城の恭順開城を主張し内蔵助らと対立。城受け渡しを前に夜逃げをしたが、その際に乳飲み子だった孫を置き去りにするなど、不忠者の典型とみなされる人物である。
 もっとも、大野は討ち入り血判状には加わらなかったものの、その後も浅野家再興に動いている。内蔵助らを金銭面で支援していたも言われており、一説には内蔵助らが失敗に終わった際の討ち入り第2陣であったとも言われ る。もう一度評価し直すべきなのかもしれない。
 
  
 
 



大高源五句碑
 

 
 
 浅野家霊廟の前に建つ句碑は大高源五(1672〜1703)のもの。
 大高源五は、俳人・宝井其角(1661〜1707)と交流があり、子葉という雅号を持っていた。句碑に刻まれた句は、

   こぼるるを許させ給へ萩の露

 討ち入り前夜に両国橋で源五とすれ違った其角は、「年の瀬や水の流れと人の身は」と詠んだのに対し、源五は「あした待たるるこの宝船」と討ち入りをほのめかす句を返したとのエピソードも残っている。
      
 
 



浅野長重公之墓
 

 
 
 奥には歴代浅野家の墓もある。浅野長重(1588〜1632)は、初代赤穂藩主・長直の父。大阪冬の陣・夏の陣には徳川方で参戦したが、その際に大石良勝(1587〜1650)が功績をあげたことから、大石家は浅野家の家老となったそうである。浅野家が赤穂に移ったのはその子の長直の時である。
    
 
 



浅野長直公之墓


浅野長友公之墓
 

 
 
 初代・浅野長直、2代目・浅野長友の墓も当然ある。なお、浅野内匠頭長矩の墓は義士たちと同じ場所にある。
  
 
 



大石家先祖墓
 

 
 
 その他、大石家先祖の墓所があり、内蔵助の祖父母、父らが葬られている。内蔵助の娘の墓もあるが、これは妾に生ませたものらしい。手前の灯籠は内蔵助寄進によるものとのこと。
  
 
 



義士家族の墓
 

 
 
 義士家族の墓には、不破数右衛門の祖父や、吉田忠左衛門(1641〜1703)・貝賀弥左衛門(1650〜1703)兄弟の母、吉田忠左衛門の姉、早世した次男などが葬られている。
     
 

 


播州赤穂 →(赤穂線)→ 相生 →(山陽線)→ 岡山
 

 
 


〈岡山〉

 
 
 翌日、広島で友人と会う約束があったこともあり、この日の宿は岡山に取った。もっとも岡山はほとんど素通りで、明日早々には広島へ向かう。岡山にはまた改めて帰ってくる予定でいる。
         
 
 



ままかりの酢漬け
 

 
 
  夕食を食べに入った店で、付け出しにままかりの酢漬けが出た。「ままかり」は「飯借」と書くそうで、隣にご飯を借りてくるほどうまいとの意味だそうだが、確かにそう。ご飯ではなく、お酒が進む。
  
 
 



鱧鍋
 

 
 
 メインディッシュは鱧鍋であった。
  
 
 







ところてん
 

 
 
 ついでにところてんもおいしかった。
  
 
 

栄冠は君に輝く〜兵庫県・滋賀県・大阪府〜

ヒロシマのある国で〜広島県〜  
 


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