日本一周第2回「旅人よ」 

9日目「金沢の雨〜滋賀県・石川県・富山県〜」
 

2006年7月23日(日)

 
 


〈大津〉

 
  ◆露国皇太子遭難地の碑  
 



露国皇太子遭難地の碑
  

 
 
 滋賀にはずいぶんといた気がする。再び出発することにした。
 大津駅に向かって歩いていると、一つの碑を見つけた。「此附近露国皇太子遭難之地」とある。そうか、大津といえば、「大津事件」があった場所だ。
 1891(明治24)年5月11日、当時来日中だったロシアの皇太子ニコライ(後の皇帝ニコライ2世/1868〜1918)が、突如警備の巡査に斬りつけられた。 ニコライは命に別状は無く、犯人の津田三蔵(1855〜91)はその場で取り押さえられた。日本政府はロシアとの外交問題に発展することをおそれ、津田を死刑にするよう司法当局に働きかけた。だが、大審院院長・児島惟謙(1837〜1908)は法を遵守するとして、津田は無期懲役となった。このことは「司法の独立」を守った出来事として、歴史の教科書に載っていたのを思い出す。
        
 

 


7:03 大津 → (琵琶湖線) → 京都 → (サンダーバード) → 金沢 9:49
 

 
 


〈金沢〉

 
  ◆金沢城(HP  
 



金沢城菱櫓
 

 
   
 数日前に福井県にいたが、今度は福井を通り越して石川県まで足を進めた。石川県の金沢は、加賀百万石の城下町。数年前にも大河ドラマ「利家とまつ 〜加賀百万石物語〜」(2002年)の舞台となっている。
 まずは金沢城へと向かった。金沢城は、前田家の居城である。前田家の初代・前田利家(1539〜99)は、1581(天正9)年、信長より能登国(現・石川県北部)を与えられる。その後、賤ヶ岳の戦い(1583年)の功績によって秀吉から加賀国(現・石川県南部)を与えられ、金沢城に入城した。百万石になったのは、利家の子・利長(1562〜1614)の時で、関ヶ原の合戦(1600年)の功績で、越中国(現・富山県)を加え、120万石を支配することとなった。
 天守閣は1602(慶長7)年に落雷により焼失。大半の建物も1759(宝暦9)年の火災で焼失している。1949(昭和24)年から1995(平成7)年までは金沢大学のキャンパスとしても使われていたが、現在は金沢城公園として整備されている。2006(平成18)年には「城下町金沢の文化遺産群と文化的景観」として世界文化遺産にも申請されたが、登録とはならなかった。
          
 
 



大手門(尾坂門)石垣
 

 
 
 北の大手門口から公園に入った。大手門(尾坂門)跡には石垣が残るのみである。この石垣が築かれたのは慶長年間(1596〜1614)頃とのことである。
    
 
 
 



菱櫓
 

 
    
 金沢城の天守閣は再建されなかったが、二の丸の菱櫓が2001(平成13)年に復元されている。
 城内で最も高い建物で、公園内が一望できる。
  
 
 



五十間長屋
 

 
 
 菱櫓から続く細長い二層の建物は五十間長屋。同じく2001年再建だが、本来は武器等の保存庫として用いられた。
    
 
 



極楽橋
右の奥に見えるのが三十間長屋
 

 
 
 二の丸から本丸へは極楽橋を渡る。この極楽橋は、金沢城ができる以前の1546(天正15)年にこの地に建てられた寺院・金沢御堂(尾山御坊)の時代からあったとされる。金沢御堂は加賀一向一揆で加賀の支配権を得た本願寺の拠点でもあった。
  
 
 



三十間長屋
 

 
 
 本丸には三十間長屋がある。もともとのものは、1759年の大火で焼失したが、1858(安政5)年に再建。本来は食器類を納めた倉庫であったが、江戸時代には武器・弾薬庫としても使われた。1957(昭和32)年、国の重要文化財に指定されている。
    
 
 



鶴丸倉庫
 

 
 
 本丸の北側には鶴の丸が築かれ、そこに鶴丸倉庫がある。江戸時代末期に建てられた土蔵で、明治以降は軍隊の被服倉庫として使用された。
    
 
 



石川門
 


  
 
 金沢城の東側の門は、石川門。石川郡の方を向いていることからその名が付けられた。1788(天明8)年の再建で、現在国の重要文化財に指定されている。
  
 
 



石川門二の門
 

 
 
 石川門の二の門をくぐって兼六園へ向かうことにした。
   
 
 



 

 
 
 さて昼食。石川(加賀)名物を食べよう。
 地ビールということで、「日本海倶楽部ピルスナー」を注文した。もっともこれは石川県とはいっても加賀ではなく能登の地ビールではあったが。すっきりフルーティな味わい。
    
 
 



地ビール・日本海倶楽部ピルスナー
 

 
 
 メイン料理には加賀の代表的料理だという「治部煮(じぶに)」を注文した。秀吉の朝鮮征伐の際に、兵糧奉行の岡部治部右衛門が捕えた鴨で作った料理だとも、キリシタン大名の高山右近(1552〜1615)が伝えた西洋料理だとも言われている。名前の由来は煮る時にじぶじぶと音がするかららしい。
  
 
 



治部煮
 

 
 
 だし汁に鴨肉、タケノコ、生麩そして金沢特産すだれ麩を加えて甘く煮たもので、結構美味であった。
  
 
  ◆兼六園(HP  
 



兼六園
 

 
 
 金沢といえば兼六園を欠かすわけにはいかない。兼六園といえば、水戸の偕楽園(参考)、岡山の後楽園と共に「日本3大庭園」に数えられている。
          
 
 



 

 
 
 兼六園は1676(延宝4)年、加賀藩の5代藩主・前田綱紀(1643〜1724)が、蓮池亭(れんちてい)を建設し、その前庭を蓮池庭と呼んだことに端を発する。その後、13代藩主・前田斉泰(1811〜84)が「兼六園」と名付け、ほぼ現在の形に整えられた。
  
 
 



兼六園入口
(桂坂口)
 

 
 
 金沢城から兼六園に行くには、桂坂口の入り口から入ることになる。
 そこから土産物屋などのある茶店通り(江戸町通り)をしばらく歩くと、小さな池に出る。そこが瓢池(ひさごいけ)。園内でも最も古い時代に作られた池で、瓢箪の形をしていることから その名が付けられた。中央の滝は1774(安永3)年に作られた翠滝(みどりたき)である。
    
 
 



瓢池
 

 
 
 瓢池の北側には落ち着いた感じの茶室・夕顔亭がある。1774(安永3)年の建設というから、瓢池の翠滝と同時に作られたようである。別名「滝見の御亭」。茶室内に夕顔の透かし彫りがあることから「夕顔亭」の名がつけられた。
  
 
 



夕顔亭
 

 
 
 瓢池の東側にある時雨亭。こちらも、前田綱紀が兼六園を造園された1676年に、庭園の中心的建物「蓮池御亭」として建てられている。江戸時代後期には「時雨亭」と呼ばれるようになった。明治維新の後に撤去されてしまっていたが、2000(平成12)年に再建された。抹茶を頂くこともできる。
   
 
 



時雨亭
 

 
 
 兼六園の中を流れる川の中にある島は鶺鴒島(せきれいじま)。これは、「日本書紀」の中で、神代の昔イザナギ命とイザナミ命が、男女和 合の方法をセキレイが交尾する様子から学んだという故事に基づいているそうだ。
  
 
 



鶺鴒島
 

 
 
 記紀神話といえば、兼六園には日本武尊の像が建っている。西南戦争で戦没した石川県人を慰霊するため、1880(明治13)年に建てられたもの。
      
 
 



日本武尊の像
 

 
 
 ちなみにこの日本武尊像には、鳥が糞をしないことで知られている。そのことに着目した金沢大学の廣瀬幸雄教授(1940〜)は、「ハトに嫌われた銅像の化学的考察」の研究で2003年にイグ・ノーベル賞を受賞した。なぜ鳥が糞をしないかというと、銅像に含まれる砒素と鉛の含有比から発する電磁波が理由なのだそうだ。
   
 
 



松尾芭蕉の句碑
 

 
 
 松尾芭蕉(1644〜94)も金沢を訪ねている。「おくの細道」の旅の途中、1689(元禄2)年7月15日に金沢にやってきて3句詠んでいる。

  あかあかと 日は難面(つれなく)も 秋の空
 
石碑の文字は金沢の俳人・桜井梅室(1769〜1852)によるもの。 
  
 
 



噴水
 

 
 
 兼六園にある噴水は、19世紀中頃に作られた日本最古のものという。そもそも日本庭園に噴水というのは珍しいのではないか。約3.5メートルまで水を噴き上げる。
  
 
 



前田利家公之像
 

 
 
 加賀百万石と言えば、藩祖・前田利家を忘れてはいけまい。大河ドラマ「利家とまつ〜加賀百万石物語」(2002年NHK)はまだ記憶に新しい。利家に唐沢寿明(1963〜)、その妻まつ(芳春院/1547〜1617)に松嶋菜々子(1973〜)、織田信長(1534〜82)に反町隆史(1973〜)という配役で、まるでトレンディ・ドラマを思わせるフレッシュな感覚の大河ドラマであった。
  
 
 



あんころ
 

 
 
 兼六園の名物という“あんころ”を食べて一息入れた。
  
 
  ◆成巽閣(HP  
 



成巽閣
 

 
 
 兼六園の中にある成巽閣(せいそんかく)は、国指定の重要文化財。1863(文久3)年、前田家13代・齊泰が、母の眞龍院(鷹司隆子/1787〜1870)のために建てた奥方・御殿である。
 眞龍院の生家・鷹司家の宮を辰巳殿と称したことと、金沢城から見て巽に方向にあることから「巽御殿」と名付けられ、1874(明治7)年に現在の「成巽閣」と改められた。
      
 
 



飛鶴庭
 

 
 
 成巽閣は現在歴史博物館となっており、様々な調度品が展示されている。また、その庭園「飛鶴庭」は国の名勝となっている。
   
 
 



 

 
 
 成巽閣は1階が書院造、2階が数寄屋造となっており、江戸時代末期の武家屋敷の名残を今に留めている。
  
 
 



 

 
  ◆滝の白糸碑  
 



滝の白糸碑
 

 
 
 金沢は多くの文学作品を生んだ地であるが、その一つが泉鏡花(1873〜1939)の小説「義血侠血」(1894年)。後に「滝の白糸」の題で新派劇・映画化された題材である。僕は1933年に映画化された入江たか子(1911〜95)主演、溝口健二(1895〜1956)監督の映画を観たことがある。
 その「滝の白糸」碑が舞台となった浅野川のほとりに建っている。 
  
 
 



滝の白糸像
 

 
 
 また、ヒロイン「滝の白糸」(本名・水島友)の像もその近くにある。滝の白糸は体中から水を噴き出す水からくりを得意とする水芸人で、この像も、像の下に手をかざすと、扇の先から水を噴き出す仕掛けになっている。
    
 
 



梅ノ橋
 

 
 
 浅野川にかかる天神橋が「滝の白糸」の舞台だが、その手前にかかる木製の梅ノ橋のほうがより趣がある。
  
 
  ◆泉鏡花記念館(HP  
 



泉鏡花記念館
 


 
 
 「滝の白糸(義血侠血)」の原作者・泉鏡花も金沢出身。その生家跡は現在「泉鏡花記念館」となっている。もっとも、生家そのものは明治時代の火災により焼失。その後再建された建物を改築したのだそうである。
  
 
 



泉鏡花出生の地碑
 

 
 
 門の脇には「泉鏡花出生の地」碑がある。泉鏡花(本名・泉鏡太郎)は1873(明治6)年11月4日、この地で生まれている。
   
 
 



泉鏡花記念館入口
 

 

 

 
 泉鏡花記念館では、泉鏡花の生涯の他に、作品世界に関する展示もある。  
  
 
 



泉鏡花父子像
 

 
 
 入口の脇には「泉鏡花父子像」がある。 これは泉鏡花とその父・清次の像。つまり子供の方が鏡花。そのままだと、父親の方が鏡花だと思ってしまう。
   
 
 



金沢三文豪像
左より室生犀星、泉鏡花、徳田秋声
 

 
 
 この泉鏡花と、徳田秋声(1872〜1943)、室生犀星(1889〜1962)の3人は、金沢が生んだ「三文豪」と呼ばれている。市内にはこの3人の像が建っている。
   
 
 



室生犀星


泉鏡花


徳田秋声
 

 
  ◆徳田秋聲記念館(HP  
 



徳田秋声記念館
 

 
 
 金沢が生んだもう一人の文豪・徳田秋声の記念館にも行ってみた。
 徳田秋声(本名・徳田末雄)は、1872年2月1日に、金沢で生まれている。ちなみに泉鏡花は小学校の1年後輩に当たる。鏡花と秋声は共に尾崎紅葉(1868〜1903)の門下であったが、秋声は早くから自然主義に傾倒するなど、師とは距離を置いていたため、2人の仲は悪かったらしい。
    
 
 



秋声の書斎
 

 
 
 記念館には秋声の書斎が再現されている。これは東京・本郷森川町にあった旧宅の書斎を再現したもの。
 その他、秋声の業績が展示されているが、見ていて一つ大きな事実に気づいた。そう、僕は秋声の著書を読んだことが無い…。日本文学専修出身なのに恥ずかしい。せめて代表作の「黴」「縮図」あたりを読もうと思う。

 金沢にはもう一人の文豪・室生犀星の記念館もあるのだが、少し離れた場所にあることもあり、今回そこには行かなかった。秋声と違って犀星の著書は読んでいるというのに…。
    
 
  ◆黒門前緑地(旧高峰家・旧検事正官舎)  
 



黒門前緑地(旧高峰家・旧検事正官舎)
 

 
   
 金沢城の北にある黒門前緑地。この地は、1995(平成7)年まで金沢地方検察庁検事正官舎であった。2001(平成13)年に公園として整備されるにあたり、高峰譲吉(1854〜1922)ゆかりの家屋を移築している。
 高峰譲吉は金沢藩藩医の長男として生まれている。強力消化剤タカジアスターゼやアドレナリンの抽出で世界的にも知られている。
   
 
 





旧高峰家
 

 
 
 なお、この地は利家とまつの四女・豪姫(1574〜1634)の旧居でもあった。豪姫は宇喜多秀家(1572〜1655)に嫁ぐが、関ヶ原の合戦で秀家が八丈島へ配流された後、この地に移り生涯を終えている。
   
 

 


14:33 金沢 → (北陸本線) → 高岡 15:11
 

 
 


〈高岡〉

 
 



大伴家持卿像
 

 
 
 富山県に入った。
 高岡に到着。駅前には大伴家持卿像が建つ。「万葉集」の代表的歌人・大伴家持(718〜85)は、746年から51年まで越中守としてこの地に赴任。約220首の和歌を詠んでいる。
  
 
  ◆高岡大仏  
 



高岡大仏
 

 
   
 高岡と言えば、高岡大仏。奈良の大仏、鎌倉の大仏と共に日本三大大仏の1つに数えられている。
  
 
 



高岡大仏
 

 
   
 高岡大仏は阿弥陀如来像。現在の物は15メートル85センチの高さである。その歴史は1221年頃、源義勝が二上山麓に1寸6尺(約5メートル)の木造大仏を造営したのが始まりだと言われる。その後1609(慶長14)年、加賀藩初代藩主・前田利長によって現在地に移される。
 たびたび大火にあい、1900(明治33)年に焼失。現在の銅製の大仏は、1932(昭和7)年12月に完成したもの。
   
 
 



仏頭
 

 
 
 台座の下には廻廊があり、そこには1つの仏頭が安置されている。これは1900年の大火の際に焼け残った木造大仏の頭とのことである。
 
 ところで、与謝野晶子(1878〜1942)が鎌倉の大仏を詠んだ和歌は有名である。

  鎌倉や御仏(みほとけ)なれど釈迦牟尼(しゃかむに)は 
                        美男におわす 夏木立かな

しかし、彼女は1933(昭和8)年11月に高岡を訪れ大仏を参拝し、鎌倉大仏より一段と美男であると感嘆したそうである。
  
 
 



鐘楼
 


 
 
 高岡大仏の敷地内にある鐘楼は、高岡市指定の文化財。1804(文化元)年に高岡町奉行・寺島蔵人(1776〜1937)によって、時刻を知らせる目的で建設された。もっとも最初の鐘はすぐに割れ目が生じたため、1806(文化3)年に改めて鍋屋仁左衛門が私財を投げ打って現在の大鐘を完成させた。
   
 
  ◆滝の白糸文学碑  
 



滝の白糸文学碑
 

 
 
 高岡大仏のすぐ近くに「滝の白糸文学碑」を発見した。あれ? 「滝の白糸」は金沢が舞台で、ついさっき見てきたばかりではなかったか?
 説明書きによると、「義血侠血」は「越中高岡より倶利伽羅下の建場なる石動まで、四里八町が間を定時発の乗合馬車あり。」で始まる。主人公の村越欣弥は、高岡の片原町に住んでいたという設定になっていることからこの地に文学碑が建てられたのだという。
  
 
 



瑞龍寺
 

 
 
 高岡といえば、国宝・瑞龍寺も有名であるが、時間が少々遅かったようで、すでに閉まっていた。改めて出直すことにしよう。
    
 
 





友人宅でいろいろと御馳走になる。
 

 
 
 富山では、大学時代の友人を訪ねるた。大学の茶道部の同期の女性が、ちょうど出産のために富山の実家に帰省していたので、その家にお邪魔させてもらったのだ。
 いろいろと、御馳走になり、妊娠中で飲めない彼女のぶんまでお父さんとお酒を飲んだりと、なかなか楽しい夜を過ごすことができた。
    
 
 



夏祭りの様子
 

 
 
 ちょうど夏祭りの最中らしく、駅前は屋台や舞台で盛り上がっていた。
  
 
 

びわ湖旅情〜滋賀県〜

奥飛騨慕情〜富山県・岐阜県〜  
 


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