日本一周第2回「旅人よ」 

8日目「びわ湖旅情〜滋賀県〜」
 

2006年7月22日(土)

 
 


〈近江八幡〉

 
  ◆日牟禮八幡宮(HP)  
 



日牟禮八幡宮鳥居
 



 
 


 近江八幡の街の観光に出かけた。
 近江八幡は近江商人発祥地の一つとして知られる街である。街の中心となるのが日牟禮八幡宮である。
 社伝によると日牟禮八幡宮の創建は、131(成務天皇元)年。成務天皇が即位にあたって武内宿禰に命じてこの地に大嶋大神を祀ったのに始まるという。その後275 (応神天皇6)年、応神天皇が奥津嶋神社から還幸の時、この地に御座所を設けて休憩した。それから数年後、その仮屋跡に日輪の形を2つ見るという奇瑞があったため、祠を建てて日群之社八幡宮と名付けたそうである。さらに691(持統天皇5)年、藤原不比等(659〜720)が参拝し、この地で詠んだ和歌、

 

  天降りの 神の誕生の八幡かも ひむれの杜に なびく白雲

 

にちなんで比牟禮社と改められたと言われる。
   

 
 



楼門
 

 
 
 日牟禮八幡宮の背後には、八幡山(法華峰)が広がっているが、991(正暦2)年には、一條天皇(980〜1011)の勅願により、山の上に社が建てられ、宇佐八幡宮を勧請して上の八幡宮となる。また、1005(寛永2)年には遥拝の社が現在の地に建てられ下の社となる。
 1590(天正18)年、豊臣秀次(1568〜95)は八幡山城を築くために、上の八幡宮を下の社に合祀した。
       
 
 



本殿
 

 
 
 近江商人は広く蝦夷地や海外にまで活動の場を広げており、その中でも有名なのが西村太郎右衛門(1603〜)。寛永年間(1624〜44)に朱印船乗務員として安南(ベトナム)に渡 り、その地で巨万の富を得た。その彼が、1647(正保4)年に奉納した絵馬が日牟禮八幡宮には残されており、現在国の重文に指定されている。太郎右衛門は日本への帰国を願ったが、鎖国のためにかなわず、異郷で客死した。
  
 
 



拝殿
 

 
  ◆八幡公園  
 



豊臣秀次像
 

 
 
 日牟禮神社の北西にある八幡公園には、豊臣秀次(1568〜95)の像がある。秀次は、1585(天正13)年の紀州攻め・四国攻めで軍功をあげたことで、八幡山城43万石を与えられる。そして、城下町を整備し、近江八幡を商都として反映させることに貢献した。
      
 
 



  

 
 
 八幡公園に妙に懐っこい猫がいたので、しばし戯れた。野良猫だろうか?
  
 
 



  

 
  ◆村雲御所瑞龍寺  
 



八幡山ロープウェイ
 

 
 
 ロープウェイに乗って八幡山へ登ってみた。
 豊臣秀次は1585(天正13)年この地に八幡山城を築いている。安土城を廃城とし、その建物と城下町が移築された。また、それまでこの地にあった日牟禮八幡宮を、現在の地に移している。
   
 
 



八幡山から近江八幡を見下ろす
 

 
 
 八幡山からは、近江八幡の町が一望できる。西の丸跡からは、琵琶湖も望める。
     
 
 



琵琶湖を望む
 

 
 
 1595(文禄4)年に、秀次が切腹させられると、八幡山城も廃城となった。現在では、石垣の一部が残るばかりである。
    
 
 



八幡山城石垣跡
 

 
 
 八幡山城址には現在、村雲御所瑞龍寺がある。秀次の母で、秀吉の姉である日秀(1534〜1625)が、処刑された息子や孫の菩提を弔うために開かれた、日蓮宗寺院である。
     
 
 



村雲御所瑞龍寺
 

 
 
 村雲御所瑞龍寺はもともとは京都嵯峨の村雲にあった。後陽成天皇(1571〜1617)によって領地や「瑞龍寺」の寺号が与えられ、その後も皇族が貫首として迎えられる門跡寺院となり、別名を村雲御所と称するようになった。
 秀次ゆかりの現在の地に移されたのは1961(昭和36)年のこと。
  
 
 



本堂
 

 
 



 

 
   
 瑞龍寺の境内には龍神堂がある。1987(昭和62)年に建てられた。説明書きによると、八幡山守護の大杉龍神が痕跡のみで痛みが甚だ激しかったため、御神体の「大杉秀雲龍神」の御像を彫って祠を建てたものだという。
    
 
 



龍神堂
 

 
  ◆白雲館(観光案内所)  
 



白雲館
 

 
 
 再び八幡山を降りて、近江八幡の町を見て回ることにした。観光の情報を手に入れるために白雲館を訪ねた。
 この白雲館は現在は観光案内所が併設された市民ギャラリーとなっているが、もともとは1877(明治10)年に近江商人が子供たちの教育充実を図るために建てられた八幡東学校である。
  
 
  ◆近江八幡市立資料館  
 



郷土資料館
 

 
 
 近江八幡市立資料館を訪ねた。郷土資料館は1974(昭和49)年に建てられたものだが、もともとこの場所には近江商人・西村右衛門邸があったそうだ。西村右衛門が遠く安南(ベトナム)の地で客死したことはすでに述べたとおり。
 郷土資料館には縄文時代から、豊臣秀次による発展を経て、現在までに至る町の歴史が展示されている。
  
 
 



歴史民俗資料館
 

 
 
 郷土資料館に隣接する古い日本家屋は、歴史民俗資料館。ここは、江戸時代末期の民家を修復したもので、商具や農具といった民衆の生活を知る展示がされている。
  
 
 



 

 
 
 近江八幡市立資料館はその他に二つの建物で構成されている。
  
 
 



旧伴家住宅
 

 
 
 その一つが、旧伴家住宅。伴家は、江戸時代に活躍した近江商人の一人で、屋号は「扇屋」。当主は代々、伴庄右衛門を名乗った。
 現在残っている旧伴家住宅は、7代目・伴庄右衛門能尹が、1827(文政10)年から1840(天保11)年までの歳月をかけて建築したもの。明治時代には近江八幡市に譲渡され、学校や役場となった。市立資料館の一部となったのは、2004(平成16)年である。
   
 
 



伴家の広間
 

 
 
 もう一つの旧西川家住宅は重要文化財。こちらもやはり近江商人で、屋号は「大文字屋」。当主は西川利右衛門を名乗った。
       
 
 



旧西川家住宅

 

 
 
 西川家住宅の母屋は1706(宝永3)年に建てられたもの。1930(昭和5)年に11代目西川利右衛門徳浄が亡くなると、分家の西川庄六家の好意によって市に寄贈された。
     
 
 



旧西川家住宅玄関
奥に「大」の字の暖簾が見える
 

 
  ◆八幡堀  
 



八幡堀
 

 
 
 近江八幡は旧伴家や旧西川家といった重文級の建物だけに限らず、古い城下町が残っている。特に八幡堀の中心とした景観は趣があり、一瞬江戸時代に迷い込んだかの錯覚を起こさせる。実際、近江八幡は時代劇のロケに使われることが多いらしい。なんとなく懐かしいものがあるのは、ひょっとしたらテレビ・映画で見ている光景だからなのかもしれない。
  
 
 



 

 
 
 豊臣秀次は、この八幡堀を運河として利用することを考え、琵琶湖を往来する船をすべて近江八幡の港へ寄港させた。このことが、近江八幡が商業の町として発展する要因の一つとなった。
  
 
 



 

 
 



  

 
  ◆かわらミュージアム(HP  
 



かわらミュージアム
 

 
 
 近江八幡は「瓦」の産地でもある。その町並みは瓦によって彩られている。
 「近江瓦」の歴史は、1592(文禄元)年に、本願寺八幡別院がこの近江八幡の地に移されたことに端を発する。この際に多くの瓦職人が京都から近江八幡に映って来た。
  
 
 



ミュージアムの鬼瓦
 

 
 
 かわらミュージアムは1995(平成7)年開館。日本には3つしかない瓦専門の博物館で、八幡瓦を中心に世界の瓦を紹介している。建物自体ももちろん瓦がふんだんに使われている。
  
 
 



足元にも瓦が
 

 
 
 さてお待ちかねの昼食の時間。
 滋賀県ではぜひとも食べてみたいものがあった。それは「鮒寿司」。
 何人かの友人に情報収集をしてみた。すると、「食べるの?!すごい勇気。鼻曲がらないように気をつけてね^^;」という意見があった。いったいどんな食べ物なのだ。その一方で別の友人からは「日本酒好きのお前なら大丈夫だ」ということも言われた。ここまで極端に意見が分かれるというのなら、何としても食べなくてはならないだろう。
    
 
 



真ん中が鮒寿司
奥は日本酒「松の司」
 

 
 
 日本酒が合うというのなら、これは飲まなくてはなるまい。さっそく日本酒をちびちびやりながら、鮒寿司を口にする。ん!? なんだこれは? 単に塩辛いだけのような気がする。
 しかし、なぜだろう? 後を引く。まさしく珍味とはこのことだ。
   
 
 



鮒寿司の吸い物と鮒寿司茶漬け
 

 
 
 鮒寿司料理のコース(3800円)を注文したのだが、最後に出てきたのはなんと「鮒寿司茶漬け」に鮒寿司の吸い物。
 不思議なものでまだまだ食べたくなる。すっかりはまってしまった。
  
 

 


近江八幡 →(琵琶湖線)→ 山科 →(湖西線)→ 西大津
 

 
 


〈西大津〉

 
  ◆近江大津宮錦織遺跡  
 



近江大津宮錦織遺跡
 

 
 
 再び西大津に戻って来た。もう一度近江神宮へ行くためである。
 先日と違い、西大津の駅から近江神宮まで30分ほど歩いていくことにした。
 途中、遺跡を発見したので立ち寄ってみた。「近江大津宮錦織(にしこおり)遺跡」とある。
 かつて大津には短い間だが都があった。667(天智天皇6)年、中大兄皇子(後の天智天皇/626〜72)は飛鳥から近江大津に移している。天智天皇が672(天智天皇10)年に亡くなると、大友皇子(弘文天皇/648〜72)が後を継ぐが、壬申の乱によって大海人皇子(後の天武天皇/631〜86)によって滅ぼされ、都は再び飛鳥に戻される。大津が都であったのはわずか6年のことであった。
     
 
 



柱跡
 

 
 
 錦織遺跡は大津宮があった場所とされ、とりわけこの遺跡がある場所は、天智天皇が政を執った内裏正殿の跡だそうだ。
  
 
  ◆近江神宮(HP)  
 



近江神宮楼門
 

 
 
 近江神宮ではちょうど高等学校小倉百人一首選手権が開催されている。
  
 
 



 

 
 
 大会はすでに決勝トーナメントに入っていた。大学時代に何度も練習にお邪魔した東京都代表の暁星学園が試合をしている。暁星はこれまで2連覇中。今回も決勝まで勝ち上がって来た。
 決勝で対戦したのは、楠木早紀クイーン率いる大分代表・中津南高校。
  
 
 



優勝した中津南高校(奥)
手前は暁星学園(右側)
 

 
 
 決勝戦では中津南が競り勝ち、初優勝。暁星の3連覇はならなかった。
  
 
 



準優勝の暁星学園
選手と関係者
 

 

 


近江神宮前 →(京阪線)→ 浜大津
 

 
 


〈大津〉

 
 
 本当は近江神宮の近くに泊りたかったのだが、かるたの大会があるためか、宿が取れず、この日は大津に出て泊った。
 明日は再び北陸方面に向けて旅立つ予定でいる。
  
 
 

琵琶湖周航の歌〜滋賀県〜

金沢の雨〜石川県・富山県〜  
 


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