日本一周第2回「旅人よ」 

第13日「旅の宿〜新潟県〜」
 

2006年7月27日(木)
 

 

 


7:59 新潟 →(越後線)→ 吉田 →(弥彦線)→ 弥彦 9:18
 

 
 


〈弥彦〉

 
 



 

 

 


 朝一で新潟から弥彦へとやってきた。弥彦は佐渡弥彦米山国定公園の一部で、信仰の地である弥彦山を中心とした景勝地である。
       

 
 

◆弥彦神社

 
 



弥彦神社一の鳥居
 

 
 
 弥彦山の麓にある弥彦神社は、古くから「おやひこさま」として信仰を受けてきた。
 弥彦神社の主神は伊夜彦神。またの名を「天香山命(あめのかぐやまのみこと)」。天照大神の曾孫に当たり、神武天皇の大和国平定後、勅命を受け越国を平定、開拓に従事したと伝えられる。
     
 
 



奥に見える赤い橋のが玉の橋



 

 
 
 弥彦山は神域ということで、境内はかなり落ち着いた雰囲気。広いがあまり観光客もいないので、余計そう感じるのだろうか。
    
 
 



摂社・末社


十柱神社
 

 
 
 弥彦神社には、5つの摂社と3つの末社がある。その中でも一番趣があるのが、国の重要文化財にも指定されている末社・十柱神社。1694(元禄7)年の創建で、大穴牟遅命の他、大地・水・山・海・土など、国土の安全を守護する十柱の神を祀っている。苔むした屋根が年期を感じさせる。
       
 
 



随神門
 

 
 
 随神門をくぐって拝殿へと出る。
  
 
 



拝殿
背後に弥彦山が見える
 

 
 
 拝殿は1912(明治45)年に火災で焼失。1916(大正5)年に再建された。拝殿の背後には弥彦山を仰ぎ見ることができる。
      
 
 



下諏訪神社
 

 
 
 弥彦神社には境外にも末社がある。その一つが下諏訪神社。この他に上諏訪神社もあり、共に建御名方命を祀っている。建御名方命は、 大国主命の国譲りに際して建御雷命と力比べを行い、それが相撲の起源とされることから、8月の相撲節会の際には三役力士の手数(でず)入り(土俵入り)奉納が上諏訪神社と隔年で行わるそうである。
   
 
 




弥彦名物ところ天
 

 
 
 弥彦の名物はところ天らしい。
 神社にある土産物屋にもところ天の看板があった。そこで、一息つくことにした。
  
 
  ◆宝光院  
 



宝光院
 

 
 
 弥彦神社のすぐ近くにある宝光院は、1196(建久6)年、源頼朝(1147〜99)の発願により僧・禅朝が開基。本尊は阿弥陀如来。
  
 
 



婆々杉へ向かう参道
 

 
 
 緑のうっそうと茂る参道を進むと、巨大な杉と出くわす。この杉は樹齢約1000年。高さ40メートル、幹周10メートルで「婆々杉(ばばすぎ)」と呼ばれ、国の天然記念物にも指定されている。
 婆々杉の名前の由来は、妙多羅天女にまつわる伝承からとのこと。伝承によれば、妙多羅天女はもともとは弥彦神社の鍛匠(鍛冶)だった黒津弥三郎の祖母(一節に母)であった。1079(承暦3)年、弥彦神社造営にあたって、上棟式奉仕の日取りの前後をめぐって弥三郎は、工匠(大工棟梁)と争 うことになった。弥彦庄司・吉川宗方の裁きで、工匠が第1日、弥三郎は第2日と決まった。このことを知った老婆は無念のあまり悪鬼となり、吉川宗方や工匠に祟り、さらには佐渡や加賀・越中・信州と諸国で悪行を重ね、「弥彦の鬼婆」と恐れられるようなった。
 1156(保元元)年、弥彦の高僧・典海大僧正がこの大杉の根元にいた鬼婆と出会い、説教して改心させた。「妙多羅天女」となった鬼婆は、悪人を戒め、善人を守護することを誓ったという。妙多羅天女は悪人が死ぬと、死体や衣服をこの大杉の枝にかけて世人の見せしめにしたといい、後のこの杉は「婆々杉」と呼ばれるようになった そうである。(参考「弥彦の昔話・伝説/妙多羅天女と婆々杉」)
    
 
 



婆々杉
 

 
 
 松尾芭蕉(1644〜94)は「奥の細道」の旅の途中に弥彦を訪れ、句を詠んでいる。彼の句碑が境内にある。
 
  荒海や佐渡によこたふ天河
   
 
 



芭蕉句碑
  

 
  ◆親鸞聖人清水  
 



親鸞聖人清水への入り口
 

 
 
 弥彦は親鸞(1173〜62)にもゆかりがある。
 親鸞は、1205(承久5)年、後鳥羽上皇(1180〜1239)の怒りに触れ、師の法然(1133〜1212)と共に流罪となる。法然は讃岐へ、親鸞は越後に流された。  
   
 
 



聖人清水
 

 
 
 親鸞は、越後配流中の1207(承元元)に弥彦神社に参拝し、庄屋・林部四郎治の家に宿泊した。老婆が水不足に悩み、近くの川から水を汲んでいる姿を見た親鸞が、杖で家の裏をついて念じたところ、清水が湧き出た のだという。
   
 
 



親鸞の歌碑
 

 
 
 また、親鸞は弥彦で和歌を詠み、その碑も建っている。

    願はくは都の空に墨染の
        袖吹き返せ椎の下風

 こうした伝説は、弘法大使・空海(774〜835)でお馴染みだが、親鸞にもあったようだ。やはり偉大な聖人は違う(笑)
       
 
 



弥彦名物“玉兎”と温泉まんじゅう
 

 
 
 お土産に弥彦名菓「玉兎」を買い、弥彦を後にした。
 玉兎の由来は、かつて弥彦山に住んでいた兎からきている。多くの兎が山から里に下りて田畑を荒らしていたため、農民たちが弥彦大神に祈ったところ、大神は兎たちを諭し、以後被害が無くなった。農民たちが兎の姿を米粉で作り献上したのが「玉兎」の始まりだそうである。
 今回勝ったのは餡子が米粉だけのものだったが、中に餡子の入っているものもあるそうだ。
     
 
 



弥彦神社大鳥居
 

 
 
 いよいよ弥彦を去る。
 電車の中から巨大な鳥居が見えた。これは、1982(昭和57)年に上越新幹線開通を記念して建てられたもので、全長30.16メートル。当時は日本最大の大きさを誇った そうだ。(現在は和歌山県の熊野本宮大社の33.9メートルが最高)   
     
 

 


12:20 弥彦 →(弥彦線)→ 東三条 12:51 →(送迎バス)→ 嵐渓荘
 

 
 


〈越後長野〉

 
   
 東三条から送迎の車に乗って向かった先は越後長野の温泉旅館「嵐渓荘」である。今回のこの「近畿・北陸編」で、僕が目玉だと考えていたのが、ここ嵐渓荘。なぜなら、この旅館の亭主は僕の大学のサークルの先輩に当たる。
        
 
 

◆嵐渓荘

 
 



吊り橋



 

 
   
 送迎バスに乗ること約30分。ずいぶん山奥にやってきた気がする。
 バスを降りて、吊り橋を渡ると、趣のある建物が見えてきた。それが嵐渓荘。
      
 
 



嵐渓荘
 

 
 
  嵐渓荘にチェックインすると、まずは辺りを散策してみた。
  
 
 







 

 
 
  山奥の渓流が美しく流れている。ちなみにここには携帯電話の電波は届かず、日常とつかのま乖離することができそうだ。
    
 
   




嵐渓荘の温泉
 

 
   
  温泉旅館であるから、早い時間から温泉をたっぷり楽しんできた。
   
 
 



野草酒と前菜
 

 
   
 やがてお待ちかね夕食の時間。やはりいい旅館だけに、食事もかなり豪勢。
 まずは嵐渓荘特製の野草酒。またたび酒、いかり草酒、山桃酒、アンニンゴ酒をブレンドしたものとのこと。
 前菜には枝豆、鮭寿司、浅葱、稚鮎、鮎せんべい、あざみ油炒め、筍田楽。
   
 
 



日本酒・五十嵐川

 

 
   
 日本酒は五十嵐川を注文。
 海の幸山の幸が次々と出てくる。
   
 
 



鯉洗い清流仕立て


鮎の塩焼きと揚げ物(鰈・谷中生姜等)


牛肉石焼き
 

 
   
 もうすっかり満腹である。
 だが夜はまだ終わらない。何しろこの旅館の亭主は大学の先輩である。さっそく亭主に挨拶に言った。そしてそのまま夜遅くまで酒を酌み交わしながら語り合った。昔の仲間とはなんともいいものだ。
     
 
 

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